ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

修行・教え・この世の経験

2010-04-28 21:22:04 | 松川先生のお話


修行・教え・この世の経験

この三つが必要です。
この三つがそろうことによって、悟りは深まっていくことでしょう。
逆に、どれか一つが足りなければ、うまく行きません。

教えというのは、ヨーガや仏教に代表される、真理のダルマです。
ヨーガ、サーンキャ、仏教の小乗仏教、大乗仏教の唯識派や中観派など、インドやチベットでは様々な無駄な論争が繰り広げられて来ましたが、そんなのはどうでもいいことです。それぞれの派の違いは些細なことであって、それらの根底に流れる真理の教え。それらをしっかりと学ぶ。

しかし真理の教えと、実生活における自分の心の動きとの間には、大きなギャップがあります。
たとえば嫌いな人に馬鹿にされたとき。真理の教えでは、そこで怒ることなく、慈愛を発せといいます。しかし昨日まで憎しみでいっぱいだった人に、そんなことができるはずがありません。頭ではわかっているけど、実践はできないという状態です。

しかしそこにヨーガや仏教のアーサナ、呼吸法、瞑想などの修行が加わると、物理的にエネルギー的に気道が通ったり、心が広がったり、落ち着いたりしてきます。あるいは気が上昇して高い見解を得たり、様々な正しい神秘体験により見解が広がります。
それによって、できなかったことが少しずつできるようになってきます。以前は心を動かしていた場面で動かさなくなり、かつ、慈愛を発せるようになるかもしれません。
それにより一つの経験を得ます。真理の教えどおりに生きることのメリットと喜びの経験です。これにより心は学習し、より正しく生きようとし始めるでしょう。


この三つのうち、修行がなかったらどうなるでしょうか?
教えは頭では知っているけど、心がなんら改善されない。使えない道具を持っている人のようなもので、意味がありません。

正しい教えがなかったらどうなるでしょうか?
修行によって、心とエネルギーの解放や上昇が生じ、少し性格が変わってくるでしょう。しかしそこでどのように自分を改善すればいいかということが、教えがないとわからないので、何をすればいいのかわからなくなってしまいます。

最後の、この世の経験についてはどうでしょうか。
その前に、我々はこの現代日本で生きている以上、必ずこの社会でいろいろな人と接し、いろいろな人間関係を経験しなければなりません。
ヒマラヤなどにこもって、一切人と接しないというのも一つの道でしょう。しかし我々に与えられた条件は、そうではありません。「あるヨギの自叙伝」風の表現をすれば、自分の部屋をヒマラヤの洞窟とし、この社会全体を修行道場と考えなければならないのです。
そのような修行のメリットとはなんでしょうか。
一人で瞑想し、たとえば慈愛の心を修習したとします。ああ、すばらしい慈愛の心が身についた、と思ったとします。しかしその人のところに誰かがやってきて、悪口を言われたら、慈愛など吹っ飛んで、怒ってしまうかもしれません(笑)。瞑想しているときは聖者だけど、瞑想から立つと凡人である、では駄目なのです(笑)。

つまり教え(知識)を智慧に昇華するには、実際の経験が必要なのです。実際の人間関係等において、極端な言い方をすれば、心を壊され、エゴを壊され、慈愛を壊され、そこでまた心を作り直して、壊れないものにしていくこと。これによって智慧が形成されていきます。
簡単な例を挙げると、ここに一切料理をしたことがない人がいて、この人がたとえばある難しい料理のレシピを読み、頭で理解したとします。
しかしこの人が実際に料理に挑むと、おそらく失敗するでしょう。やってみなければわからないことが多くあるからです。あるいはレシピに書かれていない細かいコツなどもいろいろあるからです。そこで失敗したり、コツを学んだりということを何度も繰り返すうちに、その人は本当の意味でその料理を身につけ、そのときその人にレシピ(教え)は不要になります。つまり知識が智慧に昇華されたというわけです。
これが、経験によって知識が智慧に昇華されるということの意味です。

よって、もう一度まとめますが、修行、教え、実際の経験、これらはすべてが必要であり、一つでも欠けたら智慧は生じないのです。
コメント

恐れるものは何もない

2010-04-26 18:22:13 | 経典の言葉・聖者の言葉
 恐れるものは何もない。

 主の子供たちにとって、どんな恐れがありえようか。


 ――スワーミー・ブラフマーナンダ

コメント

カルマの消化

2010-04-26 06:10:05 | 松川先生のお話


 
 我々の人生に日々起きる現象のすべては、二つの面を持つといえます。

 一つは、すべては単なる自分が過去になした行為がカルマの果報として返ってきているにすぎない。

 二つ目は、すべては神の愛。

 この前者に力点を置いた考え方がカルマ・ヨーガであり、後者に力点を置いたのがバクティ・ヨーガです。

 そしてヒンドゥー教の聖典「バガヴァッド・ギーター」では、このカルマ・ヨーガとバクティ・ヨーガの教えが、美しくつづられています。

 この二つの考えはどちらも真実であり、同時に存在しえる真実です。

 そしてカルマ・ヨーガやバクティ・ヨーガでは、そういう意味であらゆる良い現象・悪い現象をそのまま受け入れ、十分に味わい、頓着せず、受け流すのです。

 こうすることによってのみ、過去のカルマは消えます。そこで心を動かすことによって、また新たなカルマが発生するからです。

 また、こうすることによって、神の愛を十分に受けることが出来ます。なぜなら神はこの苦界における様々な経験を与えることで、我々を成長させようという完璧なプログラムを与えてくださっているからです。

 よって、すべてを任せ、すべてを恐れず、受け流す。

 もちろんこれは、単に受動的に消極的に生きろということを意味しません。何か夢があるとか、人生に目的があるなら、そのために努力すべきです。あるいは日々、やるべきことに集中すべきです。
 しかしその中で生じる様々な現象にとらわれるなということなんですね。なぜなら、現象は生じなきゃならないんです。カルマ・ヨーガ的にいうならば、カルマのストックがあればそれは必ず生じなければならないし、ないものは決して生じません。それだけのことです。それが生じるということは、カルマのストックが消化されているということです。そしてそのすべての動きが神の愛なので、苦しみにも喜びにも感謝しつつ、歓喜をもって生きるのです。

 できればそれだけではなく、人生にドンと一本の芯を持つのがいいですね。たとえば「私の人生は他者を救うためにある。そのために自分の修行を進めるためにある」--これは最高の、菩薩としての芯ですね。

 ここまでまだ考えられない人も、自分なりの何か芯があるのはよいでしょう。それを一本背中に入れつつ、あとはすべて喜びをもって受けて立ち、笑って受け流すのです。

コメント

すべてを創造する王(1)「序文」

2010-04-25 08:52:29 | 経典の言葉・聖者の言葉

「すべてを創造する王」


 これは、ゾクチェンのセムデの根本タントラとされる「クラヤラージャ・タントラ」をロンチェンパが解説したものです。
 翻訳および文章をわかりやすくまとめる作業にあたっては、私の個人的見解も加味されていることをお断りしておきます。




賛歌

 虚空のように、
 ありのままに、
 静寂であり、
 途切れることがない、
 すべてを一つにしたもの、
 永遠に新鮮なる意識とその場との合一、
 不変、
 平等、
 存在にも非存在にも偏らない、
 至高なる宇宙の創造に礼拝いたします。




はしがき

 わたしはここに、未来の時代の者たちのために、人生の至高なる道の意義を説こう。
 このありのままの完全なる自在なる創造から来る人生へのアプローチは、
 すべての経験の根本である意識の純粋なる真実を直接的に経験するための道である。
 このアプローチは、段階的な自己開発のプロセスではない。
 ――これを具えて、あなたは今、ありのままに目覚めるだろう。





序文

【本文】

 真実なる完全なるブッダは、慈悲によって、また熟練した叡智をもって、無数の生き方と教えへのアプローチを明確に述べられた。
 その際、彼はそれぞれの衆生の性向と能力に応じて教えを説かれた。
 彼が大部分の人々に説かれたことは、間接的で、限定的な真理だけであった。
 彼は、直接的で本質的な真理を、かつて一度も話さなかったのだ。



【解説】

 釈迦牟尼如来は、法身・報身・変化身を通じて、さまざまな方法で真実を説かれたが、それらの教えは、間接的で、限定的であった。



【本文】

 衆生を喜ばせ、衆生を導くために、
 初転法輪にて、師は、彼の存在の三次元を通じて、
 段階的な道を、それぞれの段階の衆生に説かれた。
 狭い心の人々を真理へと導くために、
 私、クラヤラージャ(創造の王)は、限定的な経典の限られた言葉として理解されている。

 師はこのようにして教えを考察し、正当に説かれたが、
 それらの経典は限定的であり、直接的ではない。



【解説】

 したがって、小乗、大乗、密教に至るまでのほとんどのアプローチは、存在の意識の純粋なエッセンスである自己解放の覚醒の入り口に近づくための方便に過ぎない。
 それに加えて、それらだけでは根本的な落とし穴や障害を乗り越えるのは困難であるから、実際に十分にその覚醒を理解するのは困難なのである。



【本文】

 おお、偉大なる魂よ!
 過去・現在・未来の世尊によって明かされた三転法輪には、
 落とし穴と障害がある。

 あなたは不思議に思うだろうが、
 確実な成就に導く六つのパーラミターは、
 完全なる完成の境地への落とし穴である。

 聞きなさい!万物の創造性であるわたしを十分に理解していない者たちは
 異なった教えに魅了され、
 そして、三つの次元を通じて世尊が現したものの中に、自ら巻き込まれる。
 その者たちは、宇宙の創造性であるわたしが現したものを、実に否定する。



【解説】

 したがって、三世のブッダによって説かれなかった直接的な教えである真の師の言葉は、宇宙の創造性であるその師によって話されるのだ。



【本文】

 聞きなさい! わたしは宇宙の創造性である師である。

 教えの中核であり、霊的探求の根本である言葉は、
 過去・現在・未来の師たちによっては、全く話されていない。
 この、生まれることのない、原初的な師の境地は、
 過去・現在・未来のブッダによっては話されていないのだ。
 それは、後に語られるものでなく、今語られるものでもない。

 私、宇宙の不変の創造は、
 以前にそれを明かし、未来においてそれを説き、今それを説く。
 宇宙の創造性が、
 努力のいらない自由についての言葉であるこの直接的な教えを、
 誇張するのでも、理解するのでもない真実の核をつかむ気高き教えのこの口頭の伝授を
 幸運なるあなたたちに説こう。



【解説】

 こうして、この宇宙の創造性は、霊的探求と教えの核である唯一つの真実を、簡潔に説かれた。



【本文】

 聞きなさい!
 宇宙の創造性である師の中の師は、
 真の聴衆の中心で、
 精髄の教えであるこのすべての真の内的な源に従って、
 すべてのものはどのようにして現れるのかを述べる。

 あなたが、この核心の教えの意義の統一された枠組みを理解したとき、
 すべての他の教えの枠組みは、
 他のすべての可能性を作るこの創造性の中で、示される。

 したがって、あなたが、万物の智性であるわたしを知るならば、
 想像を超えた真理を知ることになろう。

 あなたが、すべてのものの中の荘厳な創造性であるわたしを知るならば、
 他のすべてのものの真実を知り、得るだろう。



【解説】

 それは、すべての教えのアプローチの内側の真理が結合する源である。



【本文】


 純粋で完全なる存在である、宇宙の創造性であるわたしは、
 すべての霊的探求の真の核心なのである。

 過去・現在・未来の師のすべてのアプローチは、
 この最も確実なアプローチから離れて存在することはない。

 これは、純粋で完全なる存在である宇宙の創造のエネルギーのレベルなのだ。
 それは、すべての霊的探求の源である。




コメント

怒り、高慢、ねたみを捨てよ

2010-04-21 06:03:27 | 経典の言葉・聖者の言葉



 怒りは悪魔のものだ。
 高慢と怒りとは、霊性の道の大きな障害である。
 おまえはここに、神聖な生活をするために来たのだ。怒りとねたみは捨てよ!

 ――ラーマクリシュナ・パラマハンサ


コメント

パドマサンバヴァの秘密の教え(13)「帰依」

2010-04-20 21:21:23 | 経典の言葉・聖者の言葉



2.帰依


 直接的にニルマーナカーヤとして現れたウッディヤーナの師パドマカーヤ(パドマサンバヴァ)に、カルチェンの王女ツォギャルはこう尋ねた。

「偉大なる師よ、あらゆるダルマの実践の基礎であり、生と死を終わらせる手段であり、計り知れない恩恵を持つ因であり、適用するのが容易である方法を教えてください。」

 ニルマーナカーヤの師は、こうお答えになった。

「ツォギャルよ、帰依こそは、すべてのダルマの修行の基礎である。
 三宝は、すべてのダルマの修行の支えである。
 生と死に終止符を打つ手段は、帰依の実践である。」



◎帰依の本質的な意味、定義、分類

 ツォギャルはこう尋ねた。

「帰依の本質的な意味は何でしょうか?
 その定義は何でしょうか?
 分類するならば、どれほどの種類があるのでしょうか?」

 師はこうお答えになった。

「帰依の本質的な意味は、道の修習のために、ブッダを師として、ダルマを道として、サンガを法友として受け入れ、それらによって成就に到達する誓いを立てることである。
 したがって帰依とは、誓い、受け入れることを意味する。
 それは、苦しみや無明の大きな恐怖から解放されるための支えであり、救済者・保護者としてブッダ、ダルマ、サンガを受け入れることなので、帰依と呼ばれる。
 それが帰依の本質的な意味である。

 帰依の定義は、三悪趣の恐れから、そして儚い五蘊の中に自我を認めるという外道の劣った見解からの保護を求めることである。

 分類するならば、三つの種類がある。――外の帰依、内の帰依、秘密の帰依である。」
コメント

パドマサンバヴァの秘密の教え(12)「偽のタントラ行者」

2010-04-20 10:08:02 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎偽のタントラ行者


 師パドマはこうおっしゃった。

「ある人々は自分自身のことをタントラの修行者と呼び、『ありのままのふるまい』をしていると主張するが、彼らは偽のタントラ行者である。
 
 大乗とは、平等な慈悲で一切の衆生を大切にすることを意味する。

 偽のタントラ行者は、平等な慈悲を培うことをしないであろう。そして善を行ない、悪を避けることを否定するであろう――まだ善悪や苦楽を超越した境地などに至っていないにも関わらず。
 真のタントラの修行者は、偉大な慈悲を養うことが必要なのだ。

 たとえ秘密真言の修行者であることを主張したとしても、慈悲を生じさせることがなければ、それは誤った見解を持った外道なのである。」
 




◎秘密真言は大乗の道


 師パドマはこうおっしゃった。

「秘密真言は大乗の道である。
 大乗とは、他を利するということを意味する。

 他を利するために、三身の成就に到達しなければならない。
 三身に到達するために、功徳と智慧の二つの集積を集めなければならない。
 二つの集積を集めるために、菩提心を修習しなければならない。
 生成と完成の道を、一つの道として修習しなければならない。

 どんな場合でも、菩提心を欠くタントラ行者は全く不適当であり、大乗を修行しないのだ。」





◎秘密真言と大乗は一つ


 師パドマはこうおっしゃった。

「秘密真言とパーラミターヤーナは二つのものとして語られるが、究極的にはそれらは一つである。
 見解や行為を欠けば、小乗の道へと巻き込まれる。
 よって、行為で上昇しながら、見解で降りなさい。
 これらの二つを一つのものとして修習することが非常に重要である。
 これが私の口頭の教えである。」

 

 秘密にせよ。


 これで、「日々のふるまいによって上昇する教え」を完成する。

 これは、ウサギの年、夏の最後の月の八日目に、チンプーの庵で、献身的に書きとめられた。

 

 宝の封印をせよ。

 秘密の封印をせよ。

 委託の封印をせよ。
コメント

はじめに

2010-04-18 22:09:57 | シャンバラ・ヨーガ 実践編
シャンバラ・ヨーガ 実践編



はじめに

 「シャンバラ・ヨーガ 入門編」においては、本格的なヨーガ・気功・仏教などの基本行法をお伝えしましたが、その中で自分は何を実際に実践すればよいのだろうかという疑問が出てくると思います。
 それは実際には個々のカルマや修行進度によって変わってくるので、私のヨーガ教室では、希望者には個々にあったプログラムを作っています。
 しかしその他の多くの求道者の方々のために、一般的な実践メニューをまとめてみることにしました。

 これらは実際に自分の進度を確かめながら段階を進めていけるようになっていますので、一つ一つの達成を目指して、がんばってください。




第一期

 まずはこの第一期から始めます。
 この第一期を通過し、第二期に進むための目安は、以下のようなものです。


・ディヤーナの経験(精神集中の対象が拡大する)。
・人から敵意を持たれることが少なくなる。
・小さな願望が叶うようになる。
・精力絶倫になる。
・自分や他人の肉体を不浄と感じるようになる。
・幸福感が増す。
・心がいつも楽しく朗らかで、憂鬱になりにくくなる。
・集中力が増す。
・感覚的な欲望に振り回されにくくなる。
・体がやせる。
・顔色がさえる。
・ナーダ音が聞こえる。
・目が輝く。
・病にかかりにくくなる。
・おおらかになり、心に余裕ができる。
・体がよい香りを発する。
・プラーナーヤーマやムドラーの最中に、身体が熱くなり、汗ばむ。
・プラーナーヤーマやムドラーの最中に、身体が振動する。


 これらを、100パーセントではなくても、7、8割の項目を達成していると確認できたら、第二期に進んで良いと思います。




 第一期のメニューは、次の通りです。

1.日々の生活上の戒律

2.食事について

3.聖典教学

4.アーサナ

5.ダルマ気功

6.呼吸法
 スカプールヴァカ・プラーナーヤーマ
 ウジャーイー・プラーナーヤーマ
 バストリカー・プラーナーヤーマ
 ナヴァ・ナーディ・ショーダン・プラーナーヤーマ
 アグニ・プラディープタ・プラーナーヤーマ


7.マントラ
 アウン
 オーン・アイン・クリーン・ストリーン
 秘密のマントラ
 グルへの祈りのマントラ
 ガーヤトリー・マントラ
 沐浴のマントラ

8.詞章
 帰依の集会樹の詞章
 37の菩薩の実践
 秘密の詞章
 グルへの祈りの詞章
 沐浴の詞章

9.ムドラー
 アグニサーラ・クリヤー
 マハー・ムドラー
 マハー・バンダ・ムドラー
 ムールッチャー
 ヴァーヤヴィーヤ・クンバカ・ムドラー
 アグニ・プラディープタ・ムドラー

10.瞑想
 トンレン
 トラータカ
 眉間への集中
 四無量心の瞑想
 聖者の心への集中
 音と眉間への集中
 神のディヤーナ
 グルのディヤーナ
 シャーンバヴィー・ムドラー
 バクティ・ヨーガ・サマーディ
 プラーナ・アパーナ・ブラフマ瞑想
 グルヨーガ簡易版
 ナーディとチャクラの観想
コメント

妄想ではなくリアルを生きる

2010-04-18 16:31:05 | 松川先生のお話



 我々の人生は全く、妄想と後悔に満ち溢れている。
 
 まだ見ぬ数年後、数ヵ月後、数日後、明日、数時間後、数分後のことで頭がいっぱいだ。

 あるいはあるときは、過去の後悔や、過去の栄光で頭がいっぱいだ。

 今はどこにいったのか。

 今はどこにもいかないはずなのに。

 過去の後悔や未来の不安を持つことはもちろん良くないが、良い思い出や楽しい未来を思うことは良いことではないかと言う人もいるかもしれない。
 たしかにそれは相対的な意味では、後悔や不安よりは良いかもしれない。
 しかしなぜ、今を見捨てるのか。
 なぜ、今をあきらめているのか。
 そこが不思議なところだ。
 今という最高に新鮮な時をあきらめ、まだ早熟な未来や、古くなった過去を楽しもうとする心が人間にはあるようだ。
 今こそがすばらしいのに。
 それは痛みであっても、喜びであっても、今こそがすばらしい。
 それは最高に新鮮な神の恵みであって、心の輝きから生じる収穫なんだ。

 実際はすべては生き生きとしている。それを腐敗させているように見えるのは、今という時のせいではない。自分自身が、腐敗した過去や、まだ実体のない未来にしがみついているだけだ。

 今に飛び込め。それはきっと、恐怖があるだろう。それは無防備になる感覚があるから。そこでは、頭の中の計画は可能だが、心の計画は捨てなければならない。
 その無防備さに対する恐怖により、人は今を遠ざけ、常に過去と未来という予測可能な偽りの「作られたイメージ」にしがみつくのだろう。

 唯一常に新鮮な、今を楽しめ。

 いや、でももちろん、そこには危険もあるよ、無防備だと。
 なぜって、今という瞬間に飛び込むのは、あまりにもむき出しな世界に行くことなんだ。それこそが唯一のリアルなんだけど、まだ心の汚れを有した我々のこころのリアルさは、良い部分ばかりではない。むき出しの悲しみ、むき出しの痛みもある。
 しかし実は、それがまた良いものなのだ。楽しいものなのだ。
 しかしできるだけそういったものを避け、むき出しの至福だけを味わいたかったら、ヨーガ修行をしましょう(笑)。いかに無防備でも、ヨーガ修行が、そしてブッダや神々との絆が、我々を守ってくれるだろう。
 
 
コメント

私が死にゆく今(1)

2010-04-17 20:54:01 | 経典の言葉・聖者の言葉
「私が死にゆく今」

 ――ロンチェンパの最後の教戒




 大いなる慈愛をお持ちの、すべての尊敬すべき聖者方に敬意を表します。

 不思議な輝きを発し、
 非常に純粋であり、
 空のような、存在の原初の土台であり、
 様々な慈愛のあらわれを現し、
 カリスマ的な活動によって、衆生に奉仕する、 
 太陽のようなお方に敬意を表します。
 
 なすべき事をすべてなし終えて、
 クシナガラへ行き、
 人々に無常を教えたお方に敬意を表します。

 私は過去世から、輪廻の本当の性質を知っている。
 私はもうすぐ、一時的で当てにならないこの身体から去るだろう。
 ただあなたの利益のために、彼の教えを聞け。
 世間においては、不変のものは何もない。

 あなたは一時的にその生命を保つかも知れないが、
 それはおそらくあなたをだまし、真実を見えなくさせる。
 それは頼ることができないと完全に理解するならば、
 それら無常であり本質を持たないものから離れて、
 真の意味にまっすぐに向かいなさい。

コメント

愚者の慈悲

2010-04-12 16:11:04 | 松川先生のお話
 「愚者の慈悲」というものがあります。
 この典型的な例としては、たとえば、手先の不器用な泥棒がいて、なかなか盗みがうまくいかないでいるのを見たとき、それを哀れに思い、手伝ってあげる場合などです(笑)。

 ここまで極端でなくても、似たようなパターンは、日常において多々見受けられます。つまり「かわいそうだ」と思って手助けしたとしても、それが本当にその人のためにはなっていない場合があるということです。

 そしてその原因は、こちら側の心に愛着・怒り・無智の三毒が強くあることに起因しているといえるでしょう。

 無智によって、何がその人を本当に幸福にし、何が不幸にするのか、何がその人を成長させ、何が堕落させるのか、それを見間違ってしまいます。

 愛着が強いと、いろいろな問題があります。
 そのひとつは、愛着によって正しい判断を見誤るというパターンです。
 もうひとつは、正しい判断はわかっているのだけれど、愛着によって、わかっていながら間違った手助けをしてしまうというパターンです。

 怒りは愛着の裏側ですので、愛着と同様のパターンになります。
 つまりそこに嫌いな人、怒りの対象が絡む場合、判断を見誤るパターン。
 もうひとつは、正しい判断はわかっているのだけれど、怒りの対象がそこに絡む場合、わかっていながら間違った手助けをしてしまうパターンです。


 よって仏教等のシステムにおいては、大乗の土台として小乗の修行があるのです。
 つまり自分の中の愛着・怒り・無智を滅する、あるいは弱めておかない限り、本当に相手を利益する慈悲の行為は不可能になるので、まず愛着から自分の心を自由にし、怒りを静めて心の慈愛や平等心を強め、そして無智を超えて、現象を正しく見つめる智慧を磨くこと。これらをまずは土台として進めるのです。

 私の知る限り、日本にも、世界にも、「いい人」は多いです。愛の重要性を説く人も多いです。しかし自分の愛着・怒り・無智をそのままにしているがゆえに、そのような愛の心が空回りし、余計な闘争を呼んだり、逆にすべてを堕落させたり、不幸な要素をお互いに強めさせてる場合が多々あるように思います。

 だからといってもちろん、解脱し悟るまでは慈悲の行為の実践をしてはいけないということではありません。慈悲を行なおうとする人こそ、同時に、自分の愛着・怒り・無智を弱め、心の自由・愛・平等心・智慧を強める努力をすべきだということです。

 そのための土台として、ヨーガの修行、あるいはヨーガや仏教の瞑想等は、大変役に立ちます。

 自分と他者の幸福と成長のために。志ある方はぜひ、そのような道を歩いてほしいと思います。
コメント

トゥリヤーナンダ(1)

2010-04-12 12:42:09 | 聖者の生涯


◎師との出会い

 トゥリヤーナンダは俗名をハリナート・チャットパーディヤーヤといい、1863年1月3日、北カルカッタのブラーフミンの家に生まれました。幼児期に両親を失い、兄に育てられました。
 ハリナートは現世的なことには興味がなかったため、一般の学業には全く興味がありませんでした。彼はごく若い頃から、一日に三度沐浴し、食事は自分で料理したものを食べ、日の出前にバガヴァッド・ギーターを全部朗唱するという、正当派ブラフマチャーリのような生活をしていました。
 そして彼は、バガヴァッド・ギーター、ウパニシャッド、ラーマ・ギーター、そしてシャンカラーチャーリヤの著作を深く研究していました。アドヴァイタ(不二一元論)・ヴェーダーンタに心惹かれ、その理想に従って生きようと真剣に努力していました。
 あるとき、ガンガーで沐浴していると、ワニが現れました。ハリナートは最初、水から出て逃げようとしましたが、すぐに、
「私がブラフマンと一つであるなら、何を恐れることがあろう。私は肉体ではなく真我である。」
と思い、逃げるのをやめました。

 この頃のことを振り返り、後にトゥリヤーナンダはこう述懐しています。

「私は、人間として生まれた者のなすべきことをやってきた。私が目指したのは、自分の人生を純粋なものにすることだった。私は一日に八時間から九時間を、読書に費やしたものだ。多数のプラーナ聖典とヴェーダーンタの哲学書を読破し、最後に私の心はヴェーダーンタに落ち着いた。初めて『人生の目的は、ジーヴァンムクティ(今生での解脱)を実現することである』という一節を読んだとき、私は歓喜で胸が高鳴った。なぜなら、それこそが私の人生の目的だったからだ。」


 ハリナートが13、4歳頃のとき、近くの家にパラマハンサ(最高の聖者に与えられる称号)がおいでになるということを耳にしました。好奇心から、彼はそのパラマハンサを見に行きました。
 やせ細った一人の聖者が、侍者に支えられながら馬車から降り、その家に入ってきました。聖者は、外界のことには全く気づいていないように見えました。ハリナートがじっとその聖者を見ると、その顔に後光がさしているのが見えました。そのときハリナートの頭に、「聖典にシュカデーヴァのことが出ていたが、それはこのお方のような方なのだろうか」という思いが浮かびました。
 この聖者こそ、ラーマクリシュナ・パラマハンサだったのでした。
 ラーマクリシュナは部屋に入ってくると少し外界の意識を取り戻し、クリシュナとカーリーが一つであることを歌う歌を歌い、聴衆は感動に震えました。

 その2、3年後から、ハリナートは自らドッキネショルにラーマクリシュナを訪ねていくようになりました。まもなく彼はラーマクリシュナを熱烈に慕うようになり、できる限り頻繁に訪ねるようになりました。
 
 あるときハリナートはラーマクリシュナに、
「ドッキネショルにいる間は大きな霊感を感じるのに、カルカッタにいると悲しくなる。」
と言いました。それに対してラーマクリシュナは、
「おまえは主の召使いなのだよ。主の召使いは、どこにいたって不幸せなはずはない。」
と言いました。
「でも、私は自分が主の召使いだということを知りません。」 
とハリナートが言うと、ラーマクリシュナは言いました。
「真実は、人がそれを知っているか知らないかによって決まるものではない。おまえがそれを知っていようといまいと、おまえは主の召使いなのだよ。」

コメント

パドマサンバヴァの秘密の教え(11)「教学・戒・信」

2010-04-10 16:15:07 | 経典の言葉・聖者の言葉



◎教学・戒・信


 師パドマはこうおっしゃった。

「一切の衆生の現世的繁栄や解脱の至福は、ブッダの教えに起因する。
 したがって、スートラとタントラ、そしてその解説書などを学び、師の言葉を聞きなさい。

 行為によって生じる幸福や苦しみは、種子のように大きく成長する。
 よって、善と悪の行為を正しく識別しなさい。

 戒を遵守しなければ、ダルマの修習の根は腐敗してしまう。
 自分の目を守るように、注意深く戒とサマヤを守りなさい。

 どんな場合でも、ダルマを修習する際に、信を持たないならば、あなたの努力は無駄になり、為すことすべてが役に立たなくなるだろう。
 為すことすべてにおいて、疑念や不信から解放される必要があるのだ。」
コメント

10のサマンタバドラの行

2010-04-08 22:44:08 | 松川先生のお話




 大乗仏教の修行法の一つに、「サマンタバドラの行」というものがある。

 これはチベットなどでおこなわれる「七支の供養」的なヴァージョンが有名だが、実際には経典や流派によって様々な細かい違いがある。

 ここでは私なりに、サマンタバドラの行を、実践的なかたちで10の項目にまとめてみました。



1.礼拝

 実際に五体投地などで礼拝行をおこなう。
 また、自宅に祭壇などを作り、日々、礼拝をする。
 常に心に神やブッダを思う。


2.賛嘆

 神、ブッダ、聖者、師などのすばらしさを日々心に思い、賛嘆する。
 実際にそのすばらしさを口に出したり、歌ったりする。
 何があっても、神、ブッダ、聖者、師のすばらしさ、完璧さを思い、感謝する。


3.供養

 師や聖者に実際にお金や物品や食物などを供養する。
 あるいは、イメージの中で、素晴らしいものを師や聖者や神やブッダに供養する。
 あるいは、自分が執着しているものを、イメージの中で供養する。
 また、日々、様々な経験を、心の中で供養する。


4.教え通り生きること

 まず日々しっかりと聖典を学び、その教え通りに生きる。
 日々自分の心のチェック(念正智)をし、教え通りに生きる。


5.懺悔
 
 これは4とも絡んでくるが、教えから外れた心・言葉・身の行いがあれば、すぐに懺悔する。
 最低一日一回は、一日の心・言葉・身の行いを振り返り、懺悔する。
 また、生まれてから今までになした悪業を振り返り、懺悔する。


6.随喜

 これは4や5とも絡んでくるが、自分の心・言葉・身の行いを振り返り、悪に対しては懺悔をするわけだが、善の行為に関しては、心から喜ぶ。もう、大げさなくらいに喜ぶのである。
 また、何か自分が善や修行の実践をする前に、そのようなことができる功徳に感謝し、心から喜ぶ。
 そしてそのような善や修行を実践している最中に、喜びながらおこなう。
 そしてそれらが終わった後、「ああ、素晴らしかった」と、大いに喜ぶ。
 そして日々、自己の小さな進歩を見つけては、心から喜ぶのである。


7.教えの請願

 これは、真理の教えというものに対して、強い欲求を持ち続けることである。
 しかしこれは欲求するだけでは駄目で、今与えられた教えや修行や実践項目を、できるだけ完璧に達成しようと努力するべきである。そして今やるべきことを達成することによって、もっともっと高い教えがほしい、深遠な教えが欲しいと、心から欲求し続けるのである。


8.見神および化身の請願

 これにはいくつかのパターンがある。

 まず共通してなさなければいけないのは、ラーマクリシュナがそうだったように、神やブッダを見神したい、つまり直接お会いしたい、どうか私の前に現れてください!――という強い欲求と祈りを持ち続けることである。

 次に、まだ修行上の師といえる存在に出会っていない人は、ブッダや至高者の化身が、自分の師としてどうか現れてください!――と、日夜請願し続けるのである。

 そして、修行上の師がいる人は、その師のことをブッダや神の化身と考え、その師がこの世を去らないように、できるだけ長くこの世にとどまってくださいと、日夜請願し続けるのである。

 また、師ではないけれども尊敬する聖者がいる人も、同様に、その聖者たちができるだけ長くこの世にとどまってくださいと請願する。


9.平等なる慈悲

 すべての衆生に、平等なる慈愛や哀れみの心を持ち続ける。
 平等というのは、表面的な平等ではない。すべての人を最愛の存在と考え、その真の幸福を願い続けるのである。その場合、それらの衆生は一人一人、カルマも違えば、自分との関係も違うので、実際に自分が彼らに対して向ける心の働きや実際の行動は、それぞれ違ってくる。しかしベースの心としては、平等なる慈愛と哀れみを向けるのである。
 言い換えればこれは、損得勘定があっては駄目だということである。自分とどんな関係にある人に対しても、あるいは自分の習性から見て好ましく見える人にも不快に見える人にも、平等なる慈愛と哀れみの心を向けるのである。


10.回向

 これらの日々の実践によって積まれた功徳、エネルギーが、自分と衆生の完全なる悟りのためにすべて向かいますようにと、日々、回向するのである。








☆総論

 さて、これらの教えを、忘れずに具体的に実践するために、以下のことを提案したい。


1.家に祭壇を作り、毎朝起きたら必ず、水・お香・灯明などを捧げる。


2.ときどきは、師や聖者に対して、実際にお金や物品や食物などの布施をおこなう。


3.毎日時間を決めて、五体投地をおこなう。


4.神やブッダへの賛歌などを知っている人は、一日一回はそれらを歌う。


5.食事をする前に、必ず、その食物を師や神やブッダに供養する瞑想をする。
 食事中も、自分が食べているのではなく、師や神やブッダに捧げていると観想しながら食事する。


6.毎日時間を決めて、聖典教学をおこなう。師がいる人は、ときどき師のもとへ行き、教えを聞く。


7.日々、自分の心と言葉と行為をチェックし、教えとずれないように注意する。
 同時に、そのときの心の調子に応じて、師や神やブッダを賛嘆したり、教えへの欲求を持ったり、見身や化身の請願の心を持ったり、その他、「サマンタバドラの行」に随順する思いを持つ。

 つまり、そのときのフィーリングに応じて、

・教えからずれていないかの念正智
・すべての衆生への平等なる四無量心からずれていないかの念正智
・師や神やブッダの賛嘆
・師や神やブッダを頭頂や心臓に観想する
・素晴らしいものや、執着の対象を心で供養する
・教えへの強い欲求を持つ
・神やブッダと実際に相まみえたいと強く願う
・師や聖者がこの世に長くおとどまりになるようにと強く願う

 これらのいずれかの心を持ちながら、日々の様々な活動をおこなうのである。
 少なくとも、くだらない雑念や煩悩的思いや攻撃的思いを持たないようにする。あるいはぼーっとしないようにする。

 そして、日々、もし悪しき思い・言葉・行為をなしてしまったことに気づいたら、すぐさま心の中で懺悔をおこなう。

 逆に、善き思い・言葉・行為をなしたことに気づいたら、すぐさま心の中で随喜をおこなう。
 あるいは自分の進歩を感じたときも、同様に随喜をおこなう。


8.毎日夜寝る前に、今日一日を振り返り、悪業に関しては懺悔をおこなう。
 逆に善業や進歩に関しては随喜をおこなう。

 ときどきは、師や聖者に直接、あるいはメールなどで懺悔をおこなう。


9.毎日夜寝る前に、今日一日の善や修行の功徳が、自分と衆生の完全なる悟りに振り向けられますようにと、祈りを捧げる。


10.・・・といっても忘れるだろうから、この文章を毎日一回は読む(笑)。



 これらの実践をまじめに続けるならば、あなたの菩薩行は実質的に、速やかに進んでいくでしょう。
コメント

出張ヨーガ講習会

2010-04-05 20:34:12 | お知らせ


 以下の日程で、出張ヨーガ講習会を開催いたします。

 参加希望の方は、お早めにメールでご連絡ください。

 皆様のご参加を心よりお待ちしております。


 ※神奈川・東京・札幌の方は、教室がありますので、そちらにお越しください。詳細はメールでお問い合わせください。






4月11日(日)15:00~18:00
☆場所:名古屋・亜細亜大陸アカデミー
地下鉄矢場町駅から徒歩3分
http://ajiatairiku-academy.com/asia/access.html


5月3日(月)13:00~16:00
☆場所:名古屋・亜細亜大陸アカデミー
地下鉄矢場町駅から徒歩3分
http://ajiatairiku-academy.com/asia/access.html


5月9日(日)13:30~16:30
☆場所:大阪・難波市民学習センター
JR難波駅の上
http://osakademanabu.com/namba/


5月30日(日)11:30~14:30
☆場所:京の山杣人工房「空」
JR京都駅から徒歩5分 下京区総合庁舎となり
http://somabitoqo.exblog.jp/i11/


6月20日(日)12:00~15:00
☆場所:大阪・青少年文化創造ステーション(KOKO PLAZA)5階 ダンス練習室(506)
JR新大阪駅から徒歩5分
http://www.kokoplaza.net/access/index.html





☆詳細-----------------------------------------------------------------------------------



☆参加費:3000円

☆内容:クンダリニー・ヨーガ、ハタ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガなどの各種行法実践と講義。
    初心者の方でも問題ありません。お気軽にご参加ください。

☆定員:3名~20名
    ※参加希望者が定員に達しなかった場合、中止になる場合もありますので、ご了承ください。

☆予定しているメニュー:アーサナ(気を調える体操)
            気功(気を充実させる内気功)
            プラーナ―ヤーマ(各種の呼吸法)
            ムドラー(覚醒の技法)
            マントラ
            瞑想
            講義
 
☆持ち物:動きやすい服装
     ヨガマット、または大きめのバスタオルなど(床に横になるときに下に敷けるもの)。

☆申込先:電話かメールでお申し込みください。



コメント