ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

信・精進・念・サマーディ・智慧

2010-03-31 18:03:05 | 松川先生のお話
 原始仏教の修行法の一つであり、また「ヨーガ・スートラ」でも説かれる信・精進・念・サマーディ・智慧の五つのプロセスは、シンプルではあるが、とても有益でわかりやすく、実践すべき修行プロセスである。





1.信

 教えに対する信
 神やブッダに対する信
 師に対する信
 修行の効果に対する信
 修行する意味に対する信
 修行の到達点に対する信
 自分がそれを成し遂げるということに対する信
 そして、論理を超えた純粋なる信

 これらがないと、全力で励むことはできない。

 短い人生、いつか必ず終わる人生、
 どうせやるなら、不信や疑念を持たずに、
 永遠なるものを目指して全力で走るために、
 まずはこの信を固めなければならない。

 現実的な問題として、意識がスワーディスターナ・チャクラにあると、疑念が出て、信が育たない。
 現代は性欲の情報が氾濫しているので、それによって意識がスワーディスターナ・チャクラに落下し、狭い世界に意識が観念的に固定され、おどおどしてエゴを守るようになり、信が育たないケースが多々見られる。

 よって、性的な情報や煩悩をある程度捨て断つことが必要になってくると思います。




2.精進

 信が確定すれば、その人は自然に、教えの精進、修行の精進へと向かう。

 教えを学び、教え通り生きる。

 与えられた修行を全力でおこなう。

 徹底的に徳を積み、悪を捨てる。

 そこでやってくる浄化の苦しみに耐える。
 
 これによって徹底的にカルマが浄化されていく。

 心の光が強まる。





3.念

 念(サティ)にはいろいろな意味があるが、よくいわれるような、一瞬一瞬の自覚だけでは、あまり意味がない。
 そうではなくて、一瞬一瞬、自分の心をチェックし、教えとずれていないかを監視し、常に正しい思いを念じながら生きるのである。
 あるいは単純に、神やブッダなどを念じ続けるのでもいい。
 詞章などを唱え続けるのもいい。

 これにより、心、そしてサンスカーラが浄化される。




4.サマーディ

 ここまでの信、精進、念のプロセスができていないと、正しいサマーディには入れない。
 正しいサマーディとは、透明で静かで明るい心の湖に潜るということだ。

 信・精進・念が確定されずに無理矢理サマーディに入った場合、それはちょうど、濁って波立って暗い湖に潜ったようなものだ。
 そこには何のメリットもない。

 信・精進・念の深まりによって、心は透明になり、静まり、光り輝く。
 これは本当のことなのだ。そして本当に重要なことなんだよ。
 あなたがもし瞑想をしないとしても、この透明で静かで明るい心の状態は、大いなる恩恵をもたらすだろう。

 この状態で、心の湖に深く潜っていったとき、正しいサマーディが生じる。

 そこには、大いなる至福と、大いなる光と、心の停止状態がある。
 この至福・光・心の停止のいずれかがまだ足りないとしたら、それはまだ信・精進・念のプロセスにおいて不備があるということだ。




5.智慧

 正しいサマーディに入り、大いなる至福・光・心の停止を得ただけでも、それはとても幸せなことだが、まだ悟りとはいえない。
 悟りではないが、悟りの条件は整ったということだ。ヨーガ的にいえば、純粋なるサットヴァ性が強まった状態だ。心は透明で静かになった。明かりもある。あとは「観る」だけだ。

 そう、正観(ヴィパッサナー)という言葉にも多様な段階があるが、本当の、というか最も高度なヴィパッサナーは、ここで訪れる。その静かで透明で輝く心の奥へ奥へと潜り、「観る」のだ。

 そしてすべて現象の本性を見つけ出すのだ。



 この信・精進・念・サマーディ・智慧の五つのプロセスは、何度も何度も繰り返し、レベルアップしていかなければならない。

 そして最終的には、

 論理を超えた純粋な信、
 努力なき精進、
 努力なく連続した正念、
 努力なく24時間連続するサマーディ、
 そして現象と一体化した智慧

 この境地に至るだろう。それまでは懸命に努力するべし。


コメント

約束のサイン

2010-03-29 21:13:57 | 松川先生のお話


 この人生は幻影であり、大いなるバルド。
 しかしその意味を実感している人は少ない。

 わからなくてもいい。解き放たれる鍵は、菩提心である。

 全智者への帰依、他者を自分よりも愛すること。それが鍵だ。

 菩薩になれ

 悪夢から醒めよ

 至福と光と透明な心、空性、慈悲

 それが本当の君だから

 カルマが織り成す幻影に飲み込まれるな

 善をなし悪をやめ、懺悔をし、帰依をし、心に暗さがなくなれば、強い意志が生まれる

 聖なるものへの供養と、衆生への慈悲は、大きな徳を生み、それが心をプロテクトする

 瞑想と帰依から生じる智慧は、闇のヴィジョンを消し、真実を明らかにする光となる

 ブッダや聖者が残したヒントである聖典に従うことは、価値ある経験となり、価値ある思考と行動のパターンを作り上げる

 正しい修行によって錬られ純粋化されたエネルギーは、心身を満たし、エネルギーの面から真実を明らかにする

 そして徳を積み、帰依をし、心を浄化し、絶対者との合一を目指すことは、一番の早道となる

 これらを武器に、この生と死のバルドを超えよう

 行け! 行け! 幻影のバルドを超えていけ! 幻影のバルドを完全に超えていけ! 目覚めよ! 己を捧げることによって!
コメント

行け!

2010-03-26 08:07:28 | 松川先生のお話
ヨーガ教室で、トンレンの瞑想をやらせていたときのこと。
 トンレンというのはここに何度も書いているが、他者の苦しみを吸い込み、自分の幸福を差し出すという、慈悲と菩提心に満ちた瞑想だ。
 この瞑想は、私の経験では、非常に強力な瞑想だ。強力にエゴを破壊し、幸福感をもたらし、心を安定させる。
 しかしこれをやるには最初、勇気が必要だ。自分が幸福になる最短の道の一つがこのトンレンなのだが、それを知らない自我意識は、最初、嫌がるのだ。
 しかしがんばってほしい。がんばってこの慈悲と菩提心の世界に足を踏み入れてほしい、と思いつつ、みんなの瞑想を見つめていた。

 すると--実は瞑想中、無造作にランダムにいろいろな音楽をBGMとして流していたのだが、般若心経のマントラを歌にした音楽が流れ始めた。

「--ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スワハー・・・」

 このマントラだけがメロディに合わせて繰り返し、流れ続ける。

 そのとき、私の心に静かな感動が起こった。このマントラが、みなのトンレン、菩提心の道へ足を踏み入れることを励ましているように思えたのだ。

 般若心経は空の智慧について説いた経典で、慈悲とか菩提心とはあまり関係がないと、普通は解釈されている。このマントラにしてもしかりなのだが、私はこのときはそうは感じなかった。

 一般の解釈とも、サンスクリットの直訳とも少しずれるが、私が心で感じたこのマントラの意味は、こういうものだった。

「--行け! 行け! エゴを超えて行け! 完全にエゴを超えて行け! 菩提心に目覚めよ! 菩提心に自らを捧げよ!・・・」
  
 良き縁があり、真理の真髄である菩提心、トンレンに巡り合った幸福な者たち。
 しかしまだエゴにより、トンレンに躊躇する心もある者たち。
 彼らに対して、「躊躇するな、勇気を持って突き進め、行け! 菩提心の世界に突き進め!」・・・と、このマントラが励ましているかのように聞こえたのだ。


「--行け! 行け! エゴを超えて行け! 完全にエゴを超えて行け! 菩提心に目覚めよ! 菩提心に自らを捧げよ!・・・」
コメント

サラハの「王女のためのドーハー」 (1)

2010-03-12 07:00:56 | 経典の言葉・聖者の言葉

サラハの「王女のためのドーハー」






 大楽、勇敢な心、明智と全智を持つ主に
 そして三宝に
 合掌し、礼拝いたします。
 私は今から、非二元の法であるマハームドラーについて説こう。

 煩悩のつる草によってとらえられた衆生は   
 我執という悲しみの砂漠で干からびている。
 彼らは、父である王から切り離され、国を追放された若い王子のようである。 
 彼らには幸せになるチャンスがなく、彼らの心は苦しみに満ちている。

 サラハが、自らの経験からそれを宣言しても、
 この存在の無垢の認識を十分に認識することのできない多くの衆生は、煩悩にふけり続ける。
 そうしてさらに多くのカルマを積み、さらに分離されていく。
 教えを学んだ人々は、まるで心臓が毒で満たされたかのように、自らの状態におびえるようになる。

 存在の静寂なる点、ダイナミックな原初の心は、理解しがたい。
 両極性によってけがされていない完璧なエネルギー、それは存在それ自体の最高の力として生来的なものであり、散漫に対処される何かではない。
 それが、まるで毒蛇に噛まれたように、散漫になる。

 知性によって準備される我々の「現実」の実体は、どんな物質もあることはなく、ただ自分自身の中にある。
 この「現実」を作り出す必要条件から自らを解放せよ。
 我々がそれらに対して作り出すすべての仮定は、存在しないのだ。 
 自然発生の本性の中に溶解する自由を行使するプロセスを知っているならば、
 視覚も聴覚も、他のどんな知覚的な活動もない。
 そしてそれによって人は、存在の本性と相容れないことから解放される。
コメント

出張ヨーガ講習会

2010-03-09 16:08:13 | お知らせ


 以下の日程で、出張ヨーガ講習会を開催いたします。

 参加希望の方は、お早めにメールでご連絡ください。

 皆様のご参加を心よりお待ちしております。


 ※神奈川・東京・札幌の方は、教室がありますので、そちらにお越しください。詳細はメールでお問い合わせください。




3月14日(日)12:30~15:30
☆場所:仙台・スタジオカラコル
JR仙台駅から徒歩10分
http://www.chiaki-walk.com/caracol.html


4月4日(日)12:00~15:00
☆場所:大阪・青少年文化創造ステーション(KOKO PLAZA)5階 ダンス練習室(506)
JR新大阪駅から徒歩5分
http://www.kokoplaza.net/access/index.html


4月11日(日)15:00~18:00
☆場所:名古屋・亜細亜大陸アカデミー
地下鉄矢場町駅から徒歩3分
http://ajiatairiku-academy.com/asia/access.html


5月9日(日)13:30~16:30
☆場所:大阪・難波市民学習センター
JR難波駅の上
http://osakademanabu.com/namba/


5月30日(日)11:30~14:30
☆場所:京の山杣人工房「空」
JR京都駅から徒歩5分 下京区総合庁舎となり
http://somabitoqo.exblog.jp/i11/


☆詳細-----------------------------------------------------------------------------------



☆参加費:3000円


☆内容:クンダリニー・ヨーガ、ハタ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガなどの各種行法実践と講義。
    初心者の方でも問題ありません。お気軽にご参加ください。

☆定員:3名~20名
    ※参加希望者が定員に達しなかった場合、中止になる場合もありますので、ご了承ください。

☆予定しているメニュー:アーサナ(気を調える体操)
            気功(気を充実させる内気功)
            プラーナ―ヤーマ(各種の呼吸法)
            ムドラー(覚醒の技法)
            マントラ
            瞑想
            講義
 
☆持ち物:動きやすい服装
     ヨガマット、または大きめのバスタオルなど(床に横になるときに下に敷けるもの)。

☆申込:電話かメールでお申し込みください。



コメント

宇宙の母と愛を語らう至福の聖者

2010-03-09 15:13:12 | 経典の言葉・聖者の言葉

 あるヨギの自叙伝

「第九章 宇宙の母と愛を語らう至福の聖者」より


 「さあ、そこにお座り、私は今、聖母様とお話をしていたところだ」

 部屋に入った私は、激しい感動と畏敬の念に打たれて、ただ言葉もなく彼を見つめた。マスター・マハーシャヤの天使のような表情は、私の目にまばゆかった。絹のような白い髭、輝きをおびた大きな目--彼はまさに清純の権化のようであった。あごを上に向け、手を組んでいた様子から、私は彼の瞑想の最中を邪魔してしまったらしい。

 彼の何気ない挨拶の言葉は、私に今までにない衝撃的な感動を与えた。最大の悲しみであった母との死別以来、ついに聖母様までも見失ってしまった私は、言いようもない苦悶の日々を送っていたからである。私は崩れるように床に跪いた。

 「気を落ち着けなさい」聖者は優しく私を励ました。

 果てしない孤独の海に投げ出されていた私は、彼こそ唯一の救いの筏と、その足に取りすがった。

 「聖なる先生、どうか私を聖母様に取りなしてください! もう一度聖母様のお顔が仰げるようお願いしてください!」

 聖なる取りなしの約束は、そう簡単に与えられる類のものではない。私の懇願にもかかわらず、聖者はしばらく黙ったまま何も答えてくれなかった。

 しかし私には、マスター・マハーシャヤがそのとき宇宙の母と密かに会話を交えていることがハッキリとうかがわれた。私は、聖母様が今、現にこの聖者の曇りなき凝視の前に現われておられるのに、私にはそれが見えないと思うと、たまらなく情けなかった。私は、彼の穏やかな叱責にもかかわらず、その足を厚かましく握りしめては何度も何度も取りなしを懇願した。

 「では、愛するお方に取りなしをしてあげよう」聖者はついに慈愛に満ちた微笑を浮かべてこう答えた。

 何という貴重な一言であろう! それは私を苦悶の淵から救い出してくれる千金の一言であった。

 「先生、どうかそのお約束を忘れないでください。聖母様のお言づてをうかがいにまたまいりますから」今の今まで悲しみの涙につまっていた私の声は、もう喜びの期待にはずんでいた。
 
・・・中略・・・

 グルパール通りの家に帰る私の足取りは軽かった。家に着くと、私は屋根裏の小部屋に籠もって瞑想に入った。夜の十時を回った頃、暑いインドの夜の闇の中に突然輝かしい幻が現われた。

 光の輪に包まれて私の前に立たれたのは、紛れもない聖母様だった。優しい微笑みを浮かべたその御顔は、まさに美そのものであった。

 「私はいつもおまえを見守ってきました。これからもいつも見守っています」

 天来の声は美しい響きを残して、御姿とともに消えていった。

・・・中略・・・

 「私を試すつもりかね?」彼の静かに澄んだ眼はすべてを見通していた。「おまえが昨夜十時、美しい聖母様ご自身から受けた保証に対して、今更私が何を付け足す必要があろう」

 マスター・マハーシャヤは、私の魂の水門を支配する力を持っていたのである。私は、またもや彼の足下にひれ伏した。止めどもない涙があふれてきたが、それはもう今までの悲しみの涙ではなかった。

 「おまえは自分の祈りが、あの無限に慈愛深いお方の御心に届いていないと思っていたのかね? おまえがこの世の母の中に、また、天の母の中に慕い求めてきた神の母性が、どうしておまえの切ない叫びに答えずにいられよう」

 無限なるお方にほんの一言お願いするだけで、それがすぐにかなえられるこの気高い聖者は、一体どういう人なのだろう! 私が今までに出会った最も謙遜なこの偉人のこの世における仕事は、いかにもその人柄にふさわしく地味なものだった。彼は、このアムハースト通りの家で、少年たちのために小さな高等学校を経営していた。彼は、生徒たちをしかりつけることもなく、又、厳格な規則や懲罰で強制することもしなかった。静かな教室では高等数学などの学科が教えられていたが、同時に、教科書にはない“愛の化学”が教えられていたのである。マスター・マハーシャヤは、少年たちに難しい教訓をたれる代わりに、霊的感応によって彼自身の叡智を授けたのである。天の母に幼子のような純真な愛を捧げているこの聖者は、子供と同様、決して外面的な尊敬を要求するようなことはなかった。

 「私はおまえのグルではない。おまえの師はやがておいでになる」彼は言った「その師の導きによって、これまでおまえが愛と信仰を通して得ていた神の経験は、計り知れない叡智を通しての経験へと変わってゆくだろう」

 毎日夕刻近くになると、私はアムハースト通りに足を運んだ。そして、マスター・マハーシャヤの聖なる杯からあふれる甘露の滴を求めた。今まで私は、無条件の尊敬をもって人の前に跪いた事がなかった。だが今は、マスター・マハーシャヤの足跡によって清められた土の上に一緒に立っていることさえ、無上の特権のように思われたのである。

 「先生、このチャムパックの花輪をどうぞ先生の首にかけてください。私が先生のために特別にこしらえたものです」ある晩、私は花の輪を持ってマスター・マハーシャヤをたずねた。しかし彼は恥ずかしそうに、そのような光栄を受ける資格はないと言って辞退するばかりだった。しかし、私の落胆した様子を見ると、とうとう笑いながら承諾した。

 「我々はともに聖母様の弟子だ。だからそれを聖母様への捧げものとして、この肉体の神殿にかけておくれ」彼の広大な性格の中には、自己本位な考えが根を下ろす余地は全くなかった。

 「明日、ドッキネッショルのカーリー寺院へ行ってみよう。あそこは、私の先生によって永遠に聖別された場所だ」マスター・マハーシャヤは、キリストのような大師シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサの弟子であった。

 翌朝、我々はガンジス河を船で四マイルさかのぼった。そして船を降りると、九つの丸屋根の立ち並ぶカーリー寺院に入っていった。そこには、千枚の花びらを細かく刻んだ輝く銀の蓮のうてなの上に立つ聖母カーリーとシヴァの像が安置されてあった。マスター・マハーシャヤの顔は至福に輝いていた。彼は、宇宙の母との尽きざる愛のささやきに沈潜していた。彼が聖母様の御名を唱えると、恍惚に酔った私の心は蓮の花びらのように千々に砕けてしまうかと思われた。

 二人はそこを出ると、境内を散歩した。そしてタマリスクの茂みの脇にしばらくたたずんだ。この樹の放つ特有の香りは、マスター・マハーシャヤが私に与えてくれる天のマナを象徴しているかのように思われた。彼は深い祈りを続けた。私も又、桃色の羽毛の様なタマリスクの花に囲まれて、草の上に身動きもせずに座っていた。私の魂は、しばし肉体を離れて天に舞い上がった。

 これが、マスター・マハーシャヤと一緒に行った最初のドッキネッショル詣でだった。そして我々は、その後も何回かそこを訪れた。私は彼から、母性または慈愛としての神の甘美な優しさを学んだ。子供のように純真なこの聖者は、父性または正義としての神にはほとんど魅力を見出さなかった。厳格な理屈っぽいものの見方は、柔和な彼の心情にはほど遠いものだったのである。

 『この人は本当に天使の生き見本のような人だ』私は、祈りを捧げている彼の姿を眺めながら、つくづくそう思った。ひたすら至純なるものを見つめ続けてきた彼の目は、この世のすべてを、一点の非難や批判の影もなく眺めていた。彼の肉体も、心も、言葉も、行為も、極めて自然にその魂の清純さと調和していた。

 「私の先生はそうおっしゃった」常に個人的主張を差し控えたこの聖者は、必ず師に対するこの賛辞をもってその賢い忠告を結んだ。マスター・マハーシャヤの意識は深くシュリー・ラーマクリシュナと一致していたので、彼は自分の思想をもはや自分自身のものとは考えていなかったのである。

・・・中略・・・

 「しばらくここに腰を下ろそう。私の先生は私に、広々とした水面を見たらいつでもそこで瞑想するようにとおっしゃた。こうして静かな水の面を見ていると、神の果てしない静寂の海が思い出される。万物が水の面に移るように、全宇宙は、宇宙のこころの湖に映っているのだ。私の先生はよくそうおっしゃった」

・・・中略・・・

 マスター・マハーシャヤやそのほかの聖者たちの謙虚さは、自分という存在が、実在する唯一の生命であり審判者である神に完全に依存している、という認識から出ている。そして、神の本性は至福であるため、神と同調するものはその無限の喜びを経験するのである。

・・・中略・・・

 天の母に子供のようなこころで近づいていった歴代の信仰者たちは、彼女が常に自分と遊んでくれている事を証言している。マスター・マハーシャヤの生涯に於いても、聖母様が、事の大小に関係なく彼と戯れておられる情景がしばしば見られた。神の眼には、大事も小事もないのである。もし神が、原子をあのように精巧に作られなかったならば、大空もあの壮大な天体の構成を誇ることはできなかったであろう。神は、この宇宙が一本のねじ釘のゆるみのために崩れ去るようなことのないように、どんな些細な事にも等しくこころを注いでおられるのである。
コメント

グルの遍在

2010-03-08 07:15:02 | 経典の言葉・聖者の言葉


 自分を明け渡すグルなくして、帰依の対象なくしては、誰も「スピリチュアル・マテリアリズム(精神の物質主義)」から解放されることはできない。

 エゴからの独立をもたらす「帰依」をする気持ちをまず育てることだ。帰依とは、これまでに学んできたことを放棄するプロセスである。「帰依」も「自分を明け渡す事」もなければ、私たちは学んできたことを放棄できない。師を持つ事さえ、場合によってはより進んだスピリチュアル・マテリアリズムを生み出しかねない。だがそれは師と弟子が持つコミュニケーションの質に左右される。二人の絆が滞りなく結ばれているかどうかによるのだ。

(中略)

 小乗の修行が持つ帰依へのアプローチは、おもに師との素朴な関係性であり、人間的なつながりである。

 師は、神とか聖者や天使などではなく、厳しい修行と勉学に励んできた当たり前の人間だと見なされている。師とコミュニケートできるがゆえに、彼との一体化が可能なのだ。彼は地球人だと言い張る火星人なんかではない。私たち同様、この地球上に生命を受け成長した人間の子供であり、あらゆる困難を体験し、教えと交わり、非凡な事柄を達成し得たごく当たり前の人間である。私たちは、思いつく限りの神秘を空想したりせずに、この人物とつきあっていくことができる。

 小乗仏教徒のアプローチはきわめて実際的で、あなたはたまたま悟りを実現した他者と関わってゆく。

 だが大乗仏教のアプローチにおける師は、卓越した精神的境地を実現し、日常的な出来事にも深く精通していると見なされる。彼は決して揺らぐことのない自覚を持ち、要点を見逃さない。また私たちの否定的な傾向に対処してゆけるだけの慈悲心を育ててきている。

 精神性の道をあなたが歩こうとすることは、彼には全くの冗談と映るかもしれない。あなたは完全に混乱した不条理な人物として振る舞うかもしれない。にもかかわらず彼は望みを捨てない。あなたを受け入れ、あなたが生み出す腹立たしい状況と真剣に取り組んでゆく。

 彼は恐ろしいほど忍耐強い。何か間違ったことをすれば、そのやり直し方法を教えてくれる。ところがあなたはついへまをしたり、彼の指示を曲解したりして、ますます失敗を重ねてしまう。そこで彼の元に戻り、彼の言葉を待つ。『大丈夫。まだ何とかできるだろう。だが今度は別のやり方で試してみよう。』
 ――再度の試みがなされる。絶対にやれるという確信と、ものすごいエネルギーを投入し取り組んでゆく。しかし何日かすると何もかもが面倒くさくなってくる。そこであなたは、自分を楽しませてくれそうな全く別の対象を物色する。師は、本を読まずに集中的な瞑想を修行するよう指示する。ところが本はあなたの膝元に飛び込んでくる。読まずにはいられない。それは教えの一部でもあるかのようだ。そこでまた彼のところへ戻り、こんなことを言う。
「あなたの指示には従ったのですが、この本が再三膝元に飛び込んでくるので、読まずにはいられません。」
「よろしい。何かその本から学ぶところがあったかね? もしそうなら読み進めなさい。そしてそれが言わんとしていることを読み取りなさい。」
 そう彼が言ったのであなたは部屋に戻り読み始めるが、それにもまた飽きてしまう。季節は春である。花が咲き、木々は新緑の頃、自然は魅力にあふれていて、読書などに集中できない。あなたは外に出て散歩でもしたい気分になる。自然の美しさを味わいながら『瞑想的な』気分を楽しもうというわけだ。

 行を修めるのはとても難しい。横道にそれていることに気がつかないまま、絶えず横道を造り出してしまう。

 問題なのは師への不服従ではない。問題は、実際あなたがあまりに深刻すぎるところにある。過度に深刻すぎるから、横道にそれてしまう。

 修行から脱けたり入ったりする軽薄さというあなたの無礼に対し、師は並外れた忍耐を強いられているのだ。

 菩薩はワニのようだ。一度その口に入れば、もう決して逃れられない。目の前のこうした環境を捨て自由に生活したいからという理由で私たちが師のもとを離れようとすれば、彼はこんなふうに言うだろう。
「立派なことです。したいようにしなさい。さあ、行きなさい。」
 去ってゆくことを是認することで彼は反抗の対象を取り除く。そこであなたは去ってゆくどころかますます彼に近づいてゆく。

 それは相互的な状況だ。グルの弟子への帰依は非常に深いものなので、たとえ数え切れないほどの問題でがんじがらめにされている愚か者であっても、弟子は帰依する気持ちに目覚めてくる。師の弟子への帰依は慈悲であり、弟子の師への帰依は修行だ。ある段階に来ると、慈悲と修行が出会う。

 それから私たちは、うっとりとした状態から完全に覚めた、ヴァジュラヤーナの帰依へと入ってゆく。道と一つになり、現象界はグルのあらわれとなる。そこには世界に帰依する気持ちがある。ついに教えとの一体化が実現した。時には教えを代弁する者として行動することもある。自分の無意識の心に対してさえ教えの代弁者として振る舞う。

 この段階に到達すれば、人生に起こりうるどんな事態にも、教えとメッセージが含まれ始める。教えはいたるところに存在する。これは仕掛けやペテンを使った魔法のような幼児的発想ではない。だが、魔法と解釈されかねないほど奇想天外な状況だ。そこから逃れることはできない。実際には、それと一体化しているので逃げたいとも思わない。

 こうして教えは、それまでのように息苦しいものではなくなり、あなたは生活環境が教えとして持つ魔法的なものに気づいてゆくのである。

(中略)

 ヴァジュラヤーナにおける人生へのアプローチはある意味で智的なものであるが、それは人が物事の裏側にある含蓄を読み始めたからだ。自分を目覚めさせてくれるメッセージに気がついたのである。だがそこでの智性は考察に根ざしたものではなく、心を完全に行き渡らせることで誠実に看守されたものだ。そこで私たちは次のように言うことができる。遍在するグルのメッセージへのタントラ的なアプローチは智性によって開花し、ヴァジュラヤーナの智性へと変成されていきながら、同時に心の直観がひらめくようになるのだ、と。

 これが眼と心の合一、つまり智慧と空の究極的で基本的な合一である。日常的な出来事がそのまま教えとなる。

 そこでは信じるという観念さえ不要だ。あなたは尋ねるかもしれない。「一体全体、誰がこの信じるなんてことをしてるんだい?」誰もしてやしない。信じるということ自体、それを信じるということだ。あるがままに存在しているエネルギーの曼荼羅には、いかなる支えもいらない。それ自体で維持されているのだ。空間には中心も周辺もない。それぞれの周辺がまた中心でもある。帰依する者が帰依の対象から遊離しておらず、まんべんなく行き渡った帰依なのだ。

 だが、こうした神秘的で刺激に富んだ言語に酔いしれてしまうのではなく、私たちはごく単純に自分のエゴをささげ、解放し、暴露していきながら、それをグルへの奉納品としていく。そこが出発点だ。そうすることができなければ、道も決して始まらない。そこを歩く人がいないからである。

 教えは生きている。修行者は教えを受け入れ、その教えを具現化していかなければならないのである。



 ――チョギャム・トゥルンパ


コメント

本当の性欲と食欲

2010-03-06 10:59:15 | 松川先生のお話



 ヨーガ修行を続けると、生命力が充実し、気道がきれいになってくる結果として、生命力に満ち溢れ、気力が充実し、そして強烈な性欲と食欲が出てくることがあります。

 そしてこの性欲と食欲こそ、本当の性欲と食欲なのです。

 つまり普通の人が言う、「俺は性欲が強い」とか「私は食欲旺盛です」などというのは、本当の性欲や食欲を感じ、味わっているわけではなく、ほとんどの場合は、単なる情報や経験によって形作られた習性によって、そういう欲が生じているに過ぎないといえるでしょう。

 今の日本の社会で、ヨーガ修行などもしない場合、一日三食食べ、オナニーやセックスなどを週に何度も行なった場合、著しい生命力の低下を引き起こすでしょう。
 しかし私たちはそれになれすぎてしまっているため、その悪い状態に気づかないといえます。
 だからヨーガや仏教では、まず禁欲や小食を勧めるのです。これは道徳的観念ではなく、生命力の蓄積の知恵なのです。

 情報や経験から来る単なる習性としての性欲や食欲。これらを抑制し、でもヨーガ修行などを行なわなかった場合は、ストレスが生じてしまうかもしれません。

 しかし同時にヨーガ修行などを続けた場合、最初はストレスがあるかもしれませんが、徐々にその習性としての「偽りの性欲と食欲」は消えていくでしょう。そして全身に生命力が満ち溢れてきて、「本当の性欲」と「本当の食欲」が出てくるでしょう。
 この状態で、もし本当に愛している人とセックスをしたとしたら、現代人のほとんどの人が感じていない、ものすごい性的エクスタシーを感じることができるでしょう。
 また、この状態で食事をしたなら、これも現代人のほとんどが感じてない、ものすごい味覚のエクスタシーを感じることができるでしょう。 
 また、この状態のとき、ものすごい消化力がつくので、大量の食物を平らげることができるようになります。

 また、この状態のとき、体は常に飛ぶように軽く、心身は強いエクスタシーにあふれ、気力は充実して常に肯定的で、目に輝きがあり、頭脳はフル回転で稼動するようになります。また、体が非常に熱く感じるようになるでしょう。そして睡眠時間が極端に減るでしょう。私はこの状態の強いとき、30分から1~2時間の睡眠で十分でした。

 そしてこの状態にありながら、さらに禁欲し、食物もとり過ぎないように注意し、より修行を進めたならどうなるでしょうか。

 この、「本当の性欲と食欲」が出て、生命力に満ち溢れる段階は、ヨーガの言葉でいうと、水と火のエネルギーの活性化した段階といえるでしょう。しかしその水と火のエネルギーを無駄に使わず、さらにエネルギーアップさせるならば、それが極限に達した段階で、今度は風のエネルギーに変換されます。
 この段階で、ある意味、聖者の領域に入ってきたといえるでしょう。この段階で、食欲と性欲は相当減少します。男性の場合、夢精もしません。しかし心身はより生命力に満ち溢れます。しかしそれは以前の熱く燃えるような生命力ではなく、もっと気持ちよくさわやかというか、なんと表現したらいいかわかりませんが、透明感のあるエネルギーに満ち溢れていきます。そして身体の気道は徹底的に浄化されていき、心は広く、深く、安定していきます。そして以前よりも、激しくはないけれども、静かだけど非常に強いエクスタシーに、心身が包まれます。

 もちろんこれもまだ、修行の最終地点ではありません。しかし少なくとも非常に幸せな状態といえるでしょう。

コメント

寝方

2010-03-05 08:54:04 | 松川先生のお話




 仏教では、人の寝方についてこんなことをいいます。

1.右脇を下にして寝る・・・獅子の寝方(修行者の寝方)
2.仰向けに寝る・・・神の寝方
3.左脇を下にして寝る・・・欲望に溺れる者の寝方
4.うつ伏せに寝る・・・霊の寝方

 これらとは別に、如来の寝方とは深い瞑想である、ともいいます。これはつまり、如来にとって通常の睡眠はなく、寝ているように見えてもすべては瞑想状態ということでしょう。
 ちなみにお釈迦様は、右脇を下にした獅子の寝方で横になったまま、この世を去ったといわれています。

 また、「頭陀の修行」をやる場合は、修行者は横になりません。寝るときも座った状態で寝ます。私も以前、一年間くらい、横にならなかったことがありました。

 さて、ところで、なぜこのようにいわれるのか、簡単に分析してみましょう。
 仰向けに寝るというのはヨーガのシャヴァ・アーサナという休息の体位でも採用されているように、最も自然にリラックスできる寝方といっていいでしょう。ですからそれが「神の寝方」と表現されても、あながち不思議ではありません。

 次に、横向きに寝る寝方について。右を下にするのが修行者で、左を下にすると欲望に溺れるというのはどういうことでしょうか?
 胃等の内臓の形を見ても、確かに右側を下にして寝たほうが自然な感じがします。しかしそれだけではありません。
 人体には無数の気道(気の通り道)が流れますが、それらは大別して、左右の気道に分けられます。 
 左の気道は副交感神経と関係し、無智の気道といわれます。右の気道は交感神経と関係し、怒りの気道といわれます。
 我々が左側を下にして寝ると、重力の関係で、左の気道に気が集中しやすくなります。そもそも睡眠というのは無智の状態に陥りやすいわけですが、その無智の要素がより強くなるといえます。それによって欲望が増大してしまうということなのかもしれませんね。おそらくそれにより、睡眠時間も増すでしょう。睡眠時間が長いと、魔に付け込まれるともいわれます。
 逆に右側を下にして寝ると、交感神経の怒りの気道に気が集中しやすくなります。怒りの気道というと聞こえが悪いですが、我々の心身を活発化させる気道ということですね。
 本来、無智に偏りやすい睡眠のときに、あえて右の気道に気を流すことで、無智に陥り過ぎないように、バランスをとっているのかもしれません。これによってある程度鮮明な意識のまま眠りにつけますし、また、睡眠時間も長くならないでしょう。
 ただし、現代人のように、自律神経のバランスが崩れている場合、右の気道に気を集中すると、交感神経が興奮しすぎて、眠れなくなってしまうかもしれません。だからといって左を下にするのではなく、その場合は、シャヴァ・アーサナのような仰向けの寝方を採用するのが良いでしょう。

 さて、最後に、うつぶせは霊の寝方とされていますが、ここでいう霊とは、低い場合は餓鬼、高い場合は鬼神のことです。
 餓鬼とはよくお腹が突き出た化け物みたいに描かれますが、まあたしかにそうなのですが、正確にはプレータといって、貪りの心で苦しむ低い霊のことです。
 鬼神とは、一応は神なのですが、低いレベルの神です。霊的な存在で、やはり貪りが強いといわれます。
 あなたにはこんな霊がついてますよとか言う霊能者とか、あるいは幽霊がよく見える人などは、これらの霊の世界とつながっているといえます。
 さて、うつぶせに寝ることでなぜこれらの霊の世界とつながってしまうのでしょうか。はっきりとした根拠はわかりませんが、私の予想では、うつぶせに寝ることで、お腹のマニプーラ・チャクラに気が集中してしまうからではないかと思います。このチャクラは、餓鬼の世界や、霊の世界とつながっているのです。
 同様に、食べてすぐ寝ることも、よくありません。食事によってお腹のチャクラに気が集中しているので、そのまま寝ると、餓鬼の世界に意識が引っ張り込まれやすくなります。


 ということで、最後はまとめてみましょう。

・最も良い寝方・・・右側を下にする。
・よく眠れない人の場合・・・仰向けに寝る。

・悪い寝方・・・左側を下にする(無智になり、欲望が増大する)
        うつぶせに寝る(霊の世界とつながりやすい)

・その他・・・睡眠中であろうと、意識を鮮明な、瞑想に近い状態に保つ努力をすると良い。そのためには日ごろから瞑想に熟達する必要がある。
       また、厳しい「頭陀の修行」としては、横にならずに座って寝る方法もある。
コメント

出張ヨーガ講習会のお知らせ

2010-03-01 09:09:15 | お知らせ


 以下の日程で、出張ヨーガ講習会を開催いたします。


 参加希望の方は、お早めにメールでご連絡ください。

 皆様のご参加を心よりお待ちしております。


 ※神奈川・東京・札幌の方は、教室がありますので、そちらにお越しください。詳細はメールでお問い合わせください。





3月7日(日)15:00~18:00
☆場所:名古屋・亜細亜大陸アカデミー
地下鉄矢場町駅から徒歩3分
http://ajiatairiku-academy.com/asia/access.html


3月14日(日)12:30~15:30
☆場所:仙台・スタジオカラコル
JR仙台駅から徒歩10分
http://www.chiaki-walk.com/caracol.html


4月4日(日)12:00~15:00
☆場所:大阪・青少年文化創造ステーション(KOKO PLAZA)5階 ダンス練習室(506)
JR新大阪駅から徒歩5分
http://www.kokoplaza.net/access/index.html


5月9日(日)13:30~16:30
☆場所:大阪・難波市民学習センター
JR難波駅の上
http://osakademanabu.com/namba/


5月30日(日)11:30~14:30
☆場所:京の山杣人工房「空」
JR京都駅から徒歩5分 下京区総合庁舎となり
http://somabitoqo.exblog.jp/i11/


☆詳細-----------------------------------------------------------------------------------



☆参加費:3000円

☆内容:クンダリニー・ヨーガ、ハタ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガなどの各種行法実践と講義。
    初心者の方でも問題ありません。お気軽にご参加ください。

☆定員:3名~20名
    ※参加希望者が定員に達しなかった場合、中止になる場合もありますので、ご了承ください。

☆予定しているメニュー:アーサナ(気を調える体操)
            気功(気を充実させる内気功)
            プラーナ―ヤーマ(各種の呼吸法)
            ムドラー(覚醒の技法)
            マントラ
            瞑想
            講義
 
☆持ち物:動きやすい服装
     ヨガマット、または大きめのバスタオルなど(床に横になるときに下に敷けるもの)。

☆申込先:私宛に直接、メールでお申し込みください。



コメント

パドマサンバヴァの秘密の教え(10)「とらわれや愛著からの解放」

2010-03-01 08:55:24 | 経典の言葉・聖者の言葉



◎とらわれや愛著からの解放


 師パドマはこうおっしゃった。

「空性やその他のものについて瞑想しても、もしそれが乱れた感情や現世的なとらわれへの有効な治療薬にならなければ、それは誤った瞑想修行である。
 乱れた感情や現世的なとらわれに対抗しないものは、輪廻の存在に陥る原因となる。

 あなたが学び、考え、解釈した教えが、あなたを純粋なダルマの中へと導き、そして乱れた感情への有効な治療になるならば、それは大乗の教えと呼ばれ、過ちはないのである。

 あなたの意志が八つの世俗的な感情だけに関係しているならば、教学し、解釈し、瞑想して学んだことがどれほど多く賞賛されても、あなたの活動は黒いダルマの修習と呼ばれる。

 どんな場合でも、ますます強くなるとらわれや愛著を許さないように、魔術の幻影であるとして、現われと存在を瞑想することが必要なのである。

 『偉大なるヨーギー』とは、とらわれや愛著から解放されていることを意味するのである。」
コメント