ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

心とは

2009-12-30 18:47:36 | 解説・バガヴァッド・ギーター


◎心とは

【本文】『人は自分の心によって自分を向上させるべきである。決して下落させてはいけない。
 心は、自分にとっての親友でもあり、同時に仇敵にもなる。

 自我心を克服した人にとっては、心は最良の友である。
 しかしそれをできない人にとっては、心こそ最大の敵となる。』


 はい。ここはとてもいいところだね。これは入菩提行論にも同じようなところがありましたが、人は自分の心によって自分を向上させるべきである。決して下落させてはいけない。心は、自分にとっても親友でもあり同時に仇敵、まあ仇でもあると。自我心を克服した人にとっては、心は最良の友である。しかしそれをできない人にとっては、心こそ最大の敵になると。
 これは書いてあるとおりなんだけど、結局すべては心なわけだよね。そして入菩提行論とかにもあるように――例えば入菩提行論にはこういう過激な表現がしてあるわけだけど――「この心のせいで私は過去において何万回も地獄に落とされた」と。「こんなやつを許しておけるか」と(笑)。そういう表現がしてある。つまりそれは悪いパターンだね。自我を克服できない人にとっては心こそ最大の敵であると。
 つまり心と言われているものは何かというと、過去からわれわれがいろいろな経験をしてきて、その経験によって錯覚を積み重ねてきて、それによってできあがった一つの方向性を持ったものだね。で、それをわれわれは心と呼んでいるわけだけど、この心が――例えばあるときは頭では仏教とかの教えが入っていたとしても、ヨーガとかの教えが入っていたとしても、心が怒りに燃え、バーッと怒りを相手にぶちまけると。この怒りのカルマによって地獄に落ちる。あるいは頭では布施とかあるいは奉仕とかの精神を学んでいても心が貪りにとりつかれて人の物を奪うと。これによって餓鬼に落ちると。つまり、おれを、この私を低い世界に落っことして苦しめているのはこの心なんだと。
 もちろん日常的にもそうだよね。日常的に頭では「ああ、この人は私の最大の友だ」と思っていても心は憎んでしまうと。あるいは頭では「ああ、こういうときはこういうふうに考えなくてはいけない」と思っていても心はもう苦しみで一杯になってしまう。つまりこの心こそがわれわれを今生でも苦しめ、来世でも低い世界へ落とす最大の敵なんだと。
 もうちょっと別の言い方をすれば、ここに自我心って出ていますが――つまりエゴのことね。もうちょっと言えば「私」っていう感覚。「私」っていう感覚がある限り、これはラーマクリシュナの素晴らしい言葉があって――それは、「私の苦しみはいつ終わるのですか?」と。「はい、その『私』を捨てたときです」と(笑)。ね。私の苦しみはいつ終わるのですかと。その私を捨てたときに終わるんだよと。私が、私っていっているのが苦しみの原因だよと(笑)、そもそもの。


◎ヨーガの意味

 まあ、ここでこの言葉がなぜ出てくるのかっていうと、もともとね、最初に言ったようにこの章っていうのはディヤーナ・ヨーガ、つまりわれわれの知っているヨーガの世界に入ってきたわけだけど、われわれが普通に知っているこの瞑想を中心としたヨーガっていうのは、そもそもこのヨーガの語源っていうのは何かというと、御者がね、御者っていうのは馬車とかの馬の運転手ですね。御者が手綱を持って馬をコントロールすること、これをヨーガといいます。もしくは馬と馬車、あるいは御者と馬を繋ぐロープね。これでしっかりと繋ぎとめる。これをヨーガといいます。で、ここから転じて自分の心をしっかりとコントロールし自分の支配下に置くこと、これをヨーガと呼ぶね。で、そこからさらに発展して、心だけじゃなくて自分のエネルギーとかあるいは肉体までも、あるいは神経組織とかすべてを支配化に置いてしまおうと。これがヨーガなんです。
 だからみなさんがアーサナから呼吸法とかを始めると例えば、「いや、私は神経はたかぶって眠れない」とか、あるいは「いつもこういうときにこういう精神状態になってしまう」とか体がいうこと聞かないということがだんだんなくなってくる。つまり体の、肉体とか神経組織とか気の流れとかがだんだん支配下に置かれてくるわけだね。で、最終的に最も難しい心のコントロールに入っていくわけです。
 心っていうのはさっきも言ったように、頭で例えばどんなに教えを学んだって、バーッてその心っていうのは激しく揺れ動くと。だいたいここにも最初来たばかりの人はそういうこと言うけどね。例えば、「いや、もうあの人どうしても許せない」と。「いや、それはあの、こういう考え方してみたら?」って言ったら、「いや全然そんなことはできない」と。「でもそれは頑張れば変わっていくよ」と。「いや変われない」と(笑)。
 つまり変われないように見えるんだね。変われないように見えるんだけど――これはちょっといつも言っていることの繰り返しになるけども、修行っていうのは教えと行と、行ね、修行ね。それから実生活。この三つが必要だと思うね。どういうことかというと、まず教えというのはどのように生きたらいいのかという指針を与えてくれる。実生活というのは、実際に自分の心を教えに基づいて変えていくための場になるわけだね。例えば慈愛を持ちなさいよといって、誰も周りに人がいなかったら持てない(笑)。「ああ、慈愛か」って言って何となく慈愛っぽい雰囲気で、「ああ、愛だ」とか言っていればいいんだけど、そうじゃなくて自分を苦しめる人が現れたときに、さあその人を愛せますかと。その訓練っていうのはそういった場でないとできないわけだね。で、三つ目にヨーガ行が何故必要かというと、例えば今言ったみたいに「もうあの人を愛するなんて考えられない」と。もう憎しみしかないっていう人が、愛しなさいと言って愛せるのかと。愛せるわけがないと。でも、ヨーガ行が入ると愛せるようになるんです。何故かというとさっきも言ったように、まず肉体やエネルギーや神経のコントロールから入る。だから心の壁がちょっと広がるんだね。前まではガチガチで、私の生活はこうでこうしか考えられませんって言っていた人が、気の流れが良くなったりとか、あるいは神経が落ち着いてきたりとか、あるいはエネルギーが覚醒してきたりすると、前できなかったことができるような精神状態になる。
 でもね、これも前に言ったけども、教え・修行・実生活、この三つのどれもかけても駄目だっていうのは、まず今言ったように、修行が欠けると、教えがあってやり方は分かっているんだけどできませんっていう感じになるんです。
 で、次に実生活が欠けると、教えはあって修行して、結構できそうなんだけどその場がないと。場がないから自分が鍛えられない。
 で、最後に教えがないと、――ヨーガ修行やるとみなさんの心が広がってきて結構自由度が増します。自由度が増して、さあ実生活の中で自分を鍛えようと思っても、やり方がわからない(笑)。これが教えがない場合ね。
 だから日々教えをしっかり学んで、修行しっかりして、で、日々生じてくるいろいろな実生活における課題をね、クリアしていくと。これが大事なんだね。


◎心という幻影の怪物

 で、そしてそのように心を鍛えていって――ここでいう鍛えるっていうのは強くするっていう意味じゃなくてエゴの克服です。エゴを克服して、逆に自分の心に真理の世界を作り出す。つまり今までの過去から間違った錯覚によって作り上げた世界ではなくて――錯覚によってというのはね、これもいつも言っている話だけど、例えば過去世から、まあ過去世までの話をしなくても、小さいころ赤ちゃんのときオギャーって言って(笑)、素直だったとするよ。凄く素直な赤ちゃんだったのが、例えばオギャー、ミルクが欲しいって泣いても貰えなかった場合。ちょっといろいろやってみる。「ああ、こういう場合は泣くよりもこういう態度をとった方がもらえるのかな」とか、あるいはもうちょっと成長してくると例えば誰かに意地悪をされたときに、「ああ、こういう人の前でこういう態度をすると意地悪されるからこういうふうに装ってみよう」とかね。こうやって自分に対するいろいろな演技が始まるわけだね。
 で、これを一個二個だったら分かりやすいんだけど、ちっちゃいころからいろんなことをやっていて、しかもそれプラス、経験のない情報っていうのがあります。経験のない情報っていうのは、今言ったのは経験だけども、そうじゃなくてテレビで聞いた情報。あるいは友達から聞いた情報、親から聞かされた情報。これによって自分っていう概念、我意識みたいなものを強めていくんだね。「自分はこうであってこうであってこうでなきゃいけない」――で、「こういうものはこうだ」って、どんどんどんどん強まってきてウーッとなってるのがこの心なんです。
 で、これがね、正しいセオリーによって育てられた心なら何の問題もないんだが、まったく根拠のない間違ったこの世の中のいろんな人々の言葉とか自分の経験によって積み重ねられているから、全然自分を幸せにしないような心ができあがっちゃっているんだね。
 で、これが今生だけじゃなくて何生も何生もいろんな世界生まれ変わって、できあがっちゃっている怪物みたいなのがわれわれの心なんです。
 だからこれは、この心の幻影っていうのは、我意識、「私」って意識を元に、それを骨組みにして成り立っている。だからこの我意識を潰せばいい。だから最初は我意識はなかなか潰れないから、少なくとも悪い心の部分を修正していけばいいんだけど。悪い心の部分を消していって最終的には我意識を消すと。じゃあ、心なくなっちゃいましたね、じゃなくて、逆にわれわれを幸福に導く心の状態を作り上げていくんです。


◎正しい心を作る

 でもここらへんがね、あの、修行っていうのはさ、結局大きく分けると二つある。一つは完全にただゼロになるんです。ゼロになるための修行と、そうでなくて菩薩行とかみたいにこの世で真理の王国を作り上げてく修行。で、前者の場合は今言った素晴らしい心を作るっていう作業はいらない。ただエゴを消せばいい。エゴを消すとどうなるかっていうと、ちょうどわれわれのスイッチがオフになった感じになってわれわれはこの世から消えます。まあカルマがあるうちは肉体はあるけども、肉体が消滅すればわれわれはこの世から完全に消えます。で、ニルヴァーナに入ると。
 そうじゃなくて大乗の菩薩行とか、あるいは高度なヨーガの修行においては、ここにもあるように、素晴らしい心を作り上げてくんです。これは大乗の、入菩提行論とかが一番得意とするところだけども、新しい、つまり観念――もともとねダルマとか真理の法という「ダルマ」というのは観念って意味なんだね。正しい観念なんです。正しい観念によって自分の新しい菩薩の心、あるいは神の心みたいなのをどんどん作り上げていく。つまりゼロの状態じゃないんだね。
 ゼロの状態っていうのは――っていうか本当にゼロの状態の人がいたら生きていけません(笑)。何の概念もなかったらね、この世において。そうじゃなくてこの世において生きるための概念形成が必要だと。あるいは心というものの枠組みが必要だと。それを真理のダルマ、あるいはヒンドゥー教でも仏教でもいいんだけど、正しい教えによって自分の心っていうのを作り上げていかなきゃならない。で、これがヨーガといってもいいです。
 つまり、自分を不幸にする、過去から培ってきた間違った考えによって作られたこの心を克服して、エゴというのをどんどんとぶち破っていって、新たに真理そのものみたいな心を作り出すんだね。で、これができた人にとっては、心というのは最大の友であると。最高の友だと。しかし、それができずに、つまりヨーガによって心が克服できずに過去からずっと持ってきてる心にやられっぱなしだったら、心は最大の敵だということだね(笑)。

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マハームドラー・ヨーガ(1)「一般的な瞑想のシステムについての簡潔な説明」

2009-12-28 20:46:41 | 経典の言葉・聖者の言葉
マハームドラー・ヨーガ

 ――心と瞑想の真髄



※このシリーズは、マハームドラーを中心とした瞑想のテキストをもとにしていますが、翻訳にあたっては私の独断で随時アレンジを加えていますのでご了承ください。






第一部 一般的な瞑想のシステムについての簡潔な解明



第一章 一般的な寂静(シャマタ)と正観(ヴィパシャナー)の瞑想


 このセクションは、七つのパートで構成される。

1.寂静と正観の因
2.寂静と正観の障害の除去
3.寂静と正観の真の性質の識別
4.寂静と正観の区別
5.寂静と正観のステージ
6.寂静と正観の合一の瞑想
7.寂静と正観の果報




1.寂静と正観の因

 サンディニルモーチャナ・スートラには、こう説かれている。

「マイトレーヤは言った。
『勝者よ、寂静と正観の原因とは何ですか?』
 ブッダはこうお答えになった。
『マイトレーヤよ、寂静は、純粋な戒律の遵守から生じる。
 正観は、教えを学ぶことと、思索することから生じるのである。』」


 ガンポパ尊者は、こうおっしゃった。

「寂静と正観は、
 グルの精神的な祝福、
 良い原因と条件の相互作用、
 そして、徳の増大と煩悩の浄化などから生じるのである。」

 また、バーヴァナークラマには、寂静の六つの原因が、次のように列挙されている。
 ①調和の取れた環境
 ②少欲
 ③知足
 ④活動を少なくすること
 ⑤戒律の遵守
 ⑥とりとめのない想いの排除

 正観は、次の三つの要因から生ずる。
 ①聖者に親しみ近づくこと
 ②正しい教えの学習
 ③正しい思索


「調和の取れた環境」とは、全く苦労なく生活に必要なものが得られ、敵や野生動物などの害がない場所に住むことである。
 また、病に侵されず、昼間に混雑せず、夜は静かで、そして同じ系統の修行の道に励み、同じ系統の真理の見解を共有する善き友のいる環境である。
 

 スートラーランカーラには、こう説かれている。

「賢者が悟りを探求する環境は、
 適切な食物が得られ、
 住まいは安全で、心地よい土地であり、
 友は善く、
 ヨーギーが好ましい条件を見つけることができる場所である。」


 「少欲」とは、食物や衣服の質や量への世俗的な執着を抱かないということである。

 「知足」とは、質素な食物や衣服で満足することである。

 「活動を少なくすること」とは、商業、在家の人々と出家修行者の関係性の密接化、医療活動、占星術などのような、瞑想修行に有害な行為を慎むことである。

 「戒律の遵守」とは、プラーティモークシャや、菩薩の教えに述べられた教えの基礎を守ることであり、教えに反する自己統制をせず、もし過ちがあったならば懺悔をし、改善することである。

 「とりとめのない想いの排除」とは、今生や来世のために有害な因果関係を自覚することである。それは、まずはすぐに離れられるものから、事物の美しさや醜さの非永続性を瞑想することを通じて、煩悩を排除するということである。

 「聖者に親しみ近づくこと」とは、教えを学ぶこと、考えること、瞑想することの重要性を的確に知っており、寂静と正観を自分自身で悟っている霊的指導者に従うことである。

 「正しい教えの学習」とは、欠点なき至高の意味の真理の経典の講演を聞くことであり、正しい識別智を開発することである。便宜的・限定的な真理の教えを聞くことによってだけでは、これに到達できない。

 「正しい思索」とは、講演された至高の意味の真理を思索することであり、真理の完全な見解を悟るために、まずは推論を利用することである。

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パドマサンバヴァの秘密の教え(6)「他者を批判しない」

2009-12-28 07:13:55 | 経典の言葉・聖者の言葉

◎他者を批判しない


 師パドマはこうおっしゃった。
 
「あなたは、すべての行為において、功徳と智慧の蓄積にならない、ダルマでないことは何も行なってはならない。

 衆生を利することと、全智のブッダフッド以外、何も望んではいけないのだ。

何にも執着してはいけない。
 執着は、それ自身が束縛の根なのである。

 他の教えを批判してはいけない。そして他者を誹謗してはいけない。
 すべての教えは、究極的には一つの味なのである。

 小乗、大乗のうちのどれも批判してはいけない。
 それらは、ちょうど階段の段のように、それぞれの段階において歩まれるための道であることにおいては同一である。

 最高の叡智によって知覚することができなければ、本当の意味で他人を知ることはできない。
 よって、他者を批判してはいけない。

 概して、一切の衆生は本質的に自発的に完全なブッダである。
 彼らは悟りの本質を有している。

 他の人々の過ちや、誤った見解を検討してはいけない。
 他者の限界を検討してはいけない。
 どのように自分自身を変えるかということを検討しなさい。

他の欠点を検討してはいけない。
 ただし、自分の欠点にくよくよしてもいけない。

 悪の中で最も大きなものは、宗教的偏見を持ち、人々の心を知らずに他者を批判することである。
 よって、あたかもそれが毒であるかのように、偏見を放棄しなさい。」

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パドマサンバヴァの秘密の教え(5)「誓いや戒を守ること」

2009-12-26 20:26:13 | 経典の言葉・聖者の言葉
◎誓いや戒を守ること


 師パドマはこうおっしゃった。

「小乗と大乗の誓いを立て、たとえ人生を犠牲にしても、それらを放棄してはいけない。
 あなたがそれらを破ったならば、直ちに懺悔をし、再び誓いを立て直すことが重要である。

 ある人々は、それらの誓いを破ったとき、落胆し、さらなる破戒の行為を犯すようになる。
 そうではなく、泥の中で転んだ後に、水で洗い、香水をつけて自分自身を浄化するように、破ってしまった誓いが積み重ならないように、堕落と破戒の行為、無明を浄化していきなさい。

 人との現世的な付き合いをやめなさい、一瞬間でさえ、サマヤ(密教の戒)や一般的な戒律から堕落した人と友になってはならない。
 白い服を着ていているとき、あなたが油だらけの湿地へ行けば、黒い要素が確実に白色を変色させるだろう。
 同様に、たとえ自分のサマヤや戒が清らかであっても、堕落した人と付き合うならば、あなた自身もけがされてしまうだろう。
 したがって、十分に気を付けなさい。
 それらの誓いを破った悪人、悪友と付き合わないことが重要である。

 どんな場合でも、恥ずべき行ないをなさないように気をつけるべきである。」
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簡潔・十二支縁起

2009-12-25 17:35:06 | 松川先生のお話




 12支縁起について、簡単に。

 無明を条件として、行が生じる。
 行(サンスカーラ)とはいろいろな説明ができますが、簡単にいえばカルマの法則の流れそのものだといえるでしょう。
 精神的な側面も含めた、カルマの流れですね。
 もっと言えば、経験から来る心の習性の形成と、その心の習性から生じる新たな経験の流れです。
 無明とは、明がないこと。
 明とは真実をありのままに明らかに観る智慧。
 ありのままに観れないから、経験にとらわれ、行が成り立つわけです。

 経験から生じる心の習性が、固定的観念的識別、つまり経験から来る偏ったものの見方を生み出します。
 
 この偏った識別により、「私」という自我意識観念は強まり、「名色」と呼ばれる状態になります。

 「私」という自我意識の基盤である名色があるということは、他者という概念も生じなければなりません。そしてその他者を認識するための能力も生じます。これが六処です。

 私がいて、他の者がいて、それをつなぐものもあるなら、当然、それらは触れ合います。

 触れ合うことによって、苦、楽、どちらでもない、のいずれかの「受」が生じます。

 しかしこの楽とか苦というのは、絶対的客観的なものではありません。
 あくまでも無明、そして経験から生じた習性、そこから生じた識別作用がもとになっているので、偏った主観的な苦楽の認識になります。

 そして、楽の受に関しては、強い渇愛が生じます。
 苦の受に関しては、強い嫌悪が生じます。

 楽の経験から来る渇愛。
 苦の経験から来る嫌悪。
 これらが繰り返されると、それらは「取」、すなわち執着になります。

 たとえばチョコレートを食べたことがない子供が、初めてチョコレートを食べた。「おいしい!」・・・これが楽の受です。
 「もっと食べたい!」・・・これが渇愛です。
 そして何度もその経験をするうちに、もうチョコレート無しではいられなくなる。これが「取」です。

 あるいは、ある友達に嫌なことを言われた。「悲しい!」・・・これが苦の受です。
 「もう言われたくない!」・・・これが嫌悪です。
 そして何度もその経験をするうちに、もうその友達と顔を合わせるだけで、嫌な気持ちになり、怒りや苦しみが生じるようになります。これが「取」です。

 これによって、我々はこの現実世界、生存の世界にしっかりと結び付けられます。

 それによって、死んでも、またこの世に生まれるのです。

 生まれることで、行、すなわちカルマの内容に基づき、カルマの果報を受けるための人生を生きなければなりません。
 このプロセスはそもそもが無明から始まっているので、すべてが間違いであり、人生も苦に満ちたものになります。

 そして今生で受けるべきカルマの果報の経験が終わりに近づくのが、老いるということであり、そして今生で受けるべきカルマの終焉が死です。

 しかし智慧によって無明を払わない限りは、カルマの流れや心の習性は存続し続け、12支の縁起の流れは延々と続きます。


 では、どうすべきなのでしょうか?

 うじゃうじゃ小難しいことは書かずに(笑)、実践的なポイントを簡潔に書きましょう。

 カルマの果報の受け皿に過ぎないこの人生において、新たな悪業を積まないこと。新たな悪い心の習性を作らないこと。
 苦しいことがあってもそれは自己のカルマであると考え、耐え、浄化に励むこと。
 そして善業を積み、良い心の習性を形成することに励むこと。
 これらによって、この12支縁起という幻影から逃れられなくても、少なくとも良い幻影、良い人生がやってきます。

 そしてそれと同時に、渇愛や嫌悪を弱めていくこと。
 渇愛や嫌悪が滅されれば、解脱します。

 そしてすべての諸悪の根源である無明の闇を払うための、明の智慧(悟り)を得ること。
 これに成功すれば、すべては消え、すべては終わります。

 ちょうどそれは、太陽が昇れば、蛍の光は見えなくなるようなものです。

 そして私は、菩薩には、また別のプロセスがあると考えます。しかしそれについては、今はまだ触れないでおきましょう。
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パドマサンバヴァの秘密の教え(4)「エゴと悪行の放棄」

2009-12-25 14:49:06 | 経典の言葉・聖者の言葉

◎エゴと悪行の放棄


 師パドマはこうおっしゃった。

「まず最初に、カルマの原因と果報の法則に対して確信を抱きなさい。

 いつかは確実に死ぬのだということを心に留めておきなさい。
 この人生は、ほんの少しの間しか続かない。だからこの人生のものを求めることに努力してはないけない。

 死と来世は必ずやってくると心に留めておきなさい。その来世のために努力するのだ。

 来世において悪趣への軌道に足を取られないために、今こそよく確かめ、準備をしなさい。

 何においても、うぬぼれてはいけない。
 プライドを持つならば、偉大な、崇高な素晴らしい特質を得ることはないであろう。
 よって、うぬぼれを捨て去りなさい。一瞬もためらうことなく、ダルマの修習を繰り返しなさい。

 悪行の治療薬を使いなさい。
 たとえほんの少しの乱れた感情や不善行があなたの中に生じたとしても、それはスメール山の大きさほどの耐えられない苦痛であると考えなさい。

 疑念を持って行なわれた行為は何も達成されないだろう。よってほんの少しの疑念も抱いてはいけない。

 どんなに小さなものであっても、エゴの執着、そして悪行を放棄していない限り、ずっと渇愛は続くであろう。
 したがって、エゴと悪行を完全に放棄することが必要なのである。」

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永遠の喜び

2009-12-24 08:38:24 | 松川先生のお話
「一つの宇宙を支配するほどの力を有しても、なお神を知らぬこともある。
 霊的な高さとは、その人が外面的に発揮できる能力の如何ではなく、その人が瞑想中に感受する至福の深さによって決まるのだ。
 神は常に『新鮮な喜び』だ。それは絶えずわき起こる泉のように、常に新しくつきることがない。
 おまえが今後何年も瞑想を続けていく間には、神ははかりしれぬ巧妙な手段を用いておまえを惑わそうとなさるだろう。だがおまえのように、神に至る道を発見した者は、もはや神を他のいかなる幸福とも交換したいとは思わないだろう。神は何ものにも替え難いほど魅力的だ。
 地上の快楽は、すぐに飽きてしまうものばかりだ。物質的欲望には際限がなく、どこまで追いかけても満足には至らない。人は、次々と目標を変えては、自分に本当の満足を与えてくれる何ものかを追い求めているが、その『何ものか』が神なのだ。神のみが我々に永遠の喜びを与えることができるのだ。
 外のものばかり追い求めていると、いつの間にか内なるエデンの園から迷いだしてしまう。外のものは、魂の幸福をまねた見せかけの喜びしか与えてくれない。しかしひとたび見失った楽園も、神を瞑想することによって、また速やかに取り戻すことができる。神は、我々の想像も及ばぬほど常に新鮮なのだ。」


 ――シュリー・ユクテ―シュワラ
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遊戯

2009-12-23 09:39:41 | 松川先生のお話
真実を思い出しそうになる。
しかし思い出してしまうと、つまらない。
この大いなる遊戯が
本当に遊戯となる。

偽りにすぎない、この世界で
真剣に頭を抱えて悩んでいる。
実体がない、というのが答えである自我。
そんなことはわかっているはずなのに
自我を守るために、あまりにも真剣に悩み、苦しんでいる。
それを考えると、笑えてくる。

めざめれば、それは一瞬。
すべてのからくりは明らかになる。
主がそれを望むなら
それは一瞬にしてなされる。
しかし主が望んでおられるのは
もう少し、この遊戯を続けること。

善人、悪人、味方、敵、
聖者、唯物論者、神、悪魔、
すべてはこの遊戯の配役にすぎない。
劇が終われば、みんな仲良く、
至高者の世界での打ち上げが待っている(笑)。

あの悪人の持っている武器は、ただのおもちゃだから安心しなさい。
あの悪魔のような顔は、ただのお面だから安心しなさい。
あなたを愛していると言っているあの恋人は、ただ台本を読んでいるだけだから、とらわれないようにしなさい。
監督の意図を忘れずに、
恐怖も心配も期待も超越した状態で
恐怖し、心配し、期待しなさい。
心の奥底では、にこにこと笑いながら。

気づいたらつまらないけど
気づかなければならない。
でもまだ気づかなくても
自分の役を全力で演じきることは
まずは大事なこと。

われを忘れるほどに演技に没頭する役者たちよ。
君たちは素晴らしい。
でも休憩時間には、たまにはわれにかえり
神の甘露の美酒でも飲もうじゃないか。

脚本・監督は神。
私もあなたも役者。
役者は役に没頭しつつも
監督の意図を忘れてはいけない。
監督の意図を忘れ、自分の演技に酔ってはいけない。
監督の意図を常に忘れず
役に没頭しよう。

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ここは

2009-12-21 22:14:37 | 松川先生のお話
そこは始まりも終わりもなく
なぜ?もなく
すべてが一つで
至福に満ち
分析的思考を超え
言葉も消え
すべては師であった
すべてはお遊び。
ニルヴァーナはここにある。
もとから輪廻がニルヴァーナなのだ。
すべては概念が作った幻
救済とは、魂のふれあい。
目をつぶると、歓喜にさらわれてしまう
戒律はリハビリ。
教えを記憶し
教え通り生きる
それは悟りのためのリハビリ。
目指すべきは環境や体のトランスフォームではなく、心のトランスフォーム。
たとえ悪人でも、彼が神の意思のもとに役割を演じているならば、それは智者である。
ここまで来たら普通はもう生きる必要はない。
しかし菩薩やバクタは、生きる。
なぜ?
ああ、智慧が歓喜を生むのだ。
きづきが、覚醒が、歓喜を生む。
死後、私は、母なる宇宙意識に合一するだろう。
しかし真実には、究極的には、後とか前とか、今とかもないのだ。
始まりと終わりのある世界に迷い込んだ我々の
元に戻ろうとする力。
それが菩薩、ブッダ。
この辺が、言葉の限界かな。
さあ、日々、修行に励もう。
今心に浮かぶ疑問は
すべて意味なき疑問。
悟りを目指せ。
そうすればすべてがわかる。

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勉強会の講話および経典の朗読のコーナーを更新しました

2009-12-21 08:56:24 | お知らせ



 勉強会の講話および経典の朗読のコーナーを更新しました。

 日々の修行や教学にお役立て下さい。

 http://www.yoga-kailas.com/yoga1.html#5




(「NEW!」となっているのが今回追加分です)



☆勉強会の講話

     ただ今日、なすべきことを「カルマ、自我、輪廻転生」
     http://www.yoga-kailas.com/audio/tadakyo_50.mp3

NEW! ただ今日、なすべきことを「慢心を超える」
     http://www.yoga-kailas.com/audio/mansin_o_koeru-2.mp3

NEW! クリシュナ物語の要約 第二回
     http://www.yoga-kailas.com/audio/krishna_2.mp3

☆その他
   
NEW! 忘れがちなこと
     http://www.yoga-kailas.com/audio/wasuregachinakoto.mp3
     
☆経典朗読

    バガヴァッド・ギーター
      第5章 サンニャーサ・ヨーガ (8MB)
      http://www.yoga-kailas.com/audio/BG_chapter5.mp3

      第18章 モークシャ・ヨーガ (23MB)
      http://www.yoga-kailas.com/audio/BG_chapter18.mp3

    入菩提行論

      第1章 菩提心の讃嘆 (10MB)
      http://www.yoga-kailas.com/audio/BCV_1.mp3

      第2章 罪悪の懺悔 (17MB)
      http://www.yoga-kailas.com/audio/BCV_2.mp3

      第3章 菩提心を受け保つこと (7MB)
      http://www.yoga-kailas.com/audio/BCV_3.mp3

      第4章 菩提心の不放逸 (12MB)
      http://www.yoga-kailas.com/audio/BCV_4.mp3

      第5章 正智の守護 (35MB)
      http://www.yoga-kailas.com/audio/BCV_5.mp3

      第6章 忍辱の完成 (29MB)
      http://www.yoga-kailas.com/audio/BCV_6.mp3

    安らぎを見つけるための三部作

      パート1「心」 第一章 稀有なチャンス、そして真理との出会い(15MB)
      http://www.yoga-kailas.com/audio/long_part1_1.mp3

      パート1「心」 第二章 無常と死 (11MB)
      http://www.yoga-kailas.com/audio/long_part1_2.mp3

      パート1「心」 第五章 師と法友 (29MB)
      http://www.yoga-kailas.com/audio/long_part1_5.mp3

      パート2「瞑想」 第二章 器 (11MB)
      http://www.yoga-kailas.com/audio/long_part2_2.mp3

    心を訓練する八つの詩

      心を訓練する八つの詩(2MB)
      http://www.yoga-kailas.com/audio/8kokoronokunren.mp3

    37の菩薩の実践

      37の菩薩の実践(11MB)
      http://www.yoga-kailas.com/audio/37nobosatsunojissen.mp3

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◎ただ過ぎ去っていく

2009-12-19 09:58:13 | 解説・バガヴァッド・ギーター

◎ただ過ぎ去っていく

【本文】
『感覚を喜ばせる対象や、行為の結果から心を離し、
 すべての欲望を捨て去ったとき、その人はヨーガの完成者であるといわれる。』


 はい。これは読んだとおりですね。感覚を喜ばせる対象、それから行為の結果。そういったものにまったく心をとらわれることなくすべての欲望を捨て去ると。逆に言うと日々これはわれわれが注意しなくてはいけない点だね。
 入菩提行論とかでいうと念正智という世界ですが、例えばさ、短い間その境地を保つっていうのは当然あり得ることなんだね。例えば感覚を喜ばせる対象が、今別に何にも心に浮かんでませんと。それから一生懸命何かやっていてそれに対して、別に結果がどうであれ気にしませんと。これは短い間だったら誰でもできるわけだね。
 でも日々人生を送りながらいろいろな刺激がやってくる。いろいろな刺激がやってきても一切感覚の対象に心が奪われることなく、――あるいはつまりさ、人生っていうのはカルマに応じて良いことも悪いこともいっぱいやってくるんです、普通にね(笑)。われわれが望もうと望むまいと幸せはやってくるし、望もうと望むまいと苦しいことはやってくる。で、人間っていうかわれわれの失敗っていうのは、幸せがやってきて、で、それはまた消えるんだけど、やってきたことに執着してしまう。で、それはもう消えているんだけど、「ああ、もっと欲しい」とか「ああ、消えないでくれ」って苦悩が始まります。
 次に、苦しみがやってくるのも、これは過去のカルマだからしょうがない。で、苦しみがやってきたらもう消えるんだけど、消えたのに、「ああ、おれは何であんなことがあったんだ」とか後悔したり(笑)、あるいはその過去にそういった苦しみを経験したことによってそのものに対する凄い嫌悪感が強まる。で、必要以上にそれを心の中で嫌がってしまうとか、こういう心のとらわれが始まるんだね。 だから悟った人、つまり少なくとも精神的な悟りを得た人っていうのはカルマから解放されているのかっていうと、物理的にはまだ解放されていないんです。物理的にはっていうのは例えば、過去世とかあるいは昔ね、人を馬鹿にしたとしますよ。馬鹿にしてこれがまだ返ってきてないとしたら、この人は――例えば私が悟っていたとしても、私は馬鹿にされなくてはいけないんです、これから誰かに。でも精神的に苦楽とかあるいは「こうしたい、こうされたくない」というものから自分の心が解脱していたら、カルマとしてはやってくるんだけど、ただそれは当たり前のように過ぎ去っていく。ああ、馬鹿にされた。ああ、そうですかと(笑)。あるいは褒められた。ああ、そうですかと(笑)。こんなふうにただ過ぎ去っていく。


◎気を抜くととらわれる

 だからカルマっていうのは原因があって条件が――つまり自分が過去になんらかの原因を作って、それが条件に応じてバーッと現われますよと。でも現れたものは当然持続できない。持続せずに消えていきますよと。そしたらまた次の条件に応じて次の因がバーッて現れますよと。ただこれだけなんだね。この繰り返しがバーッてわれわれの人生にやってくる。で、ここに書かれているように一つ一つの感覚的喜び、これにわれわれはとらわれたりあるいは感覚的苦しみに嫌悪したりしていると、どんどんどんどんわれわれはこのカルマが織り成す輪廻の幻影の世界に巻き込まれていきます。だから真のヨーギーっていうのは、生きていていろんな感覚的喜びや苦しみがあるだろうけれども、一切とらわれるなと。
 あるいはいろんな、例えば成功と失敗とかもそうだし感覚的喜びもそうなんだけど、気を抜くととらわれるんです。気を抜くととらわれるっていうのは、前もした話だけどもう一回言うけどね、インドのふんどし一枚しかもっていなかったヨーガ修行者の話があって、その人はもう本当に物にとらわれがなくて、自分でも物にとらわれないようにしようと考えていてふんどし一枚しか所有物はなかった。でもある時そのふんどしをねずみに咬まれてボロボロになってしまった。で、そこで男は考えてたわけですね。ああ、予備も必要だなと。だからふんどし二枚持っておこうと。まあそれくらいは執着にならないだろうと。で、ふんどし二枚持っていた。でもまたねずみがやってきた。そこで男は、修行者は猫を飼おうと思った。ねずみ退治のために(笑)。よし、猫を飼おうと。猫を飼い始めた。猫を飼い始めたら――ちょっとここから先はおとぎ話的な話なんだけど、猫を飼い始めたら餌が必要になったのでミルクを買い始めた。でもいつもミルクを買ってくるのが大変なので牛を飼い始めた(笑)。で、牛を世話するのが大変なので召使を雇い始めた(笑)。で、牛がいっぱい子供を産んで世話するのが大変だったので土地を買って牧場を作った。で、ハッと気づいたら、ふんどし一枚しか持っていなかった男が牧場の主になっていたと(笑)。
 つまりこの人は最初から牧場の主になるぞと思っていたわけではない。最初は本当にもう謙虚に質素にすべてに執着しないぞって思っていたんだけど、ああ、やっぱ二枚くらい必要かなとか(笑)、猫飼うかなとかそういう感じで心がだんだんだんだん巻き込まれていったんだね。
 だからこれと同じで例えば日々ね、何の執着もない、今の時点で執着がない人がいたとしても、例えばそれは――いつも言うけどさ、例えばお金がなくてね、何も持っていない人がいたとしますよ。この人は聖者なのかっていう問題がある(笑)。単に金ないだけだろうと(笑)。別に執着していないから何も持っていないんじゃなくて、単に金がなくて持っていないと。でも例えば何も持っていないから、あるいは何も執着するものがないから、あまり心の煩わしさとかはないと。でも例えばその人が何かで大金を手にして何かを得たと。例えば家を買ったとかあるいは自分の好きな何かを買ったと。そこで執着が生まれます。で、それが奪われそうになったら悲しみます。でもよく考えたら最初からなかっただろうと(笑)。なかったのにカルマによって現われた――で、それはまたカルマによって消えるかもしれないんだけど、とらわれちゃうんだね、人間てね。
 とらわれなかったらただカルマが――ああ、過ぎ去りましたねと。ああ、私は一時的にこういう現象があってこれを得るカルマがあったけど、カルマが終わってそれが私から去っていきましたねと。それは宇宙の原則どおりですねと。何の問題もありません。――だったらいいんだけど、こういうことを頭でわれわれが理解していたとしても、心がとらわれてしまうんだね。何も無かったら何も無いでよかったのに、何かを得てしまったらそれにとらわれると。


◎浄化のための人生

 成功と失敗も同じで――普段ね、「ああ、私は成功にも失敗にも何も結果にはこだわりませんよ」って生きている人がいたとして、で、普通にいろんなことにそうやって心掛けていたとしても、例えばそれぞれ自分の心の煩悩とか性格とか違うから、自分の心をくすぐるようなことがバーッてやってきたときに、「え! これは成功したい」とか「こうなったら嫌だ」とか「絶対こうならなくてはいけない」とか始まるわけです。で、それに付随して周りの現象とかも、「いや、これを達成するためにはこれがこうなってくれないと困る」とか、「いや、こういうふうに見られたら困るからこうしよう」とか、だんだんだんだん凝り固まってくるわけだね(笑)。で、自分の心が完全にこの輪廻に結び付けられる。
 よってヨーギーというのは、そういったわれわれを結びつける罠がうじゃうじゃあるこの現世を堂々と歩きながら、まったく何にもとらわれない状態でありなさいと。そうではなくて、そういったうじゃうじゃ生じてくるのが嫌だから私は逃げますというのは駄目なんだと。
 というよりも逃げることはできないんだと。
 どんなところにいっても――例えば、いや私は出家しますといってお寺に入ったとしたら今度はお寺での人間関係が始まります。すべてはカルマだから、例えば誰かに馬鹿にされるっていうカルマがあったとしたら、その人が会社を辞めて次の会社にいったとしても馬鹿にされます。ああ、それもやめようといってお寺に入っても馬鹿にされます(笑)。
 必ずその因があるわけだね。因が消えるまではその人の――つまりその因っていうのは何かっていうと、その人が今生で乗り越えなくてはならない課題なわけだね。それを経験してその中で心の訓練を行なって、また一つ成長できるかもしれない。もちろんこれは良い場合だけどね。修行者の場合。
 修行者じゃない場合は――修行者じゃない場合っていうか悪いパターンの場合は、悪いカルマがやってきて例えば馬鹿にされたと。馬鹿にされることによって相手に対する憎しみが強まってより相手を馬鹿にする。馬鹿にするっていうか、より相手に対してネガティブな思いを抱くと。それによってまた将来より自分も周りから憎しみを受けると。またこのカルマの輪の中に入っていくわけだけど。
 修行者の場合は、ヨーギーの場合はそうじゃなくて、そういった一つ一つの過去の自分のカルマっていうのを経験して、それを浄化すると。ちょっと変な言い方をすれば、自分が過去に多くの人に与えたネガティブな――憎しみとか執着とか疑いとか、そういうものを清算するためにこの人生はあるといってもいい。その清算する過程において、自分のそれに関する心っていうのが悟りを得ていくっていうか浄化されていくんだね。そのために人生があるって考えるのがカルマ・ヨーガ的な考え方だね。
 だからそうではなくて、そのための人生なのに、一つ一つの自分を浄化する手段であるはずのいろいろなカルマの現れに対してとらわれたり嫌がったりしていると、それはヨーギーではないんだということだね。
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まとまりのない話、つれづれ

2009-12-18 16:38:03 | 松川先生のお話


 以下の内容は、心に浮かんだことを、全くまとまらない形で(まとめようとしないで)、覚え書き程度に書いたことなので、全くわけがわからないかもしれませんが笑、もしかするとインスピレーションを受ける人もいるかもしれないので、そのまま載せてみます。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 ・・・そんなことは当たり前のことであってね、しかしそれはぼんやりとさせられているものにとってはわからない。まずわからないのだ、という理解が必要だ。

 その上で、感情的にならずに、法によってものを見ないと、そのぼんやりとした領域に引きずり下ろされてしまい、何をやっているのかわからなくなってしまう。

 バガヴァッド・ギーターの戦士とか、昔の日本の武士道とか、
 そういう意識を、我々は取り戻さなければいけない。

 チューギャム・トゥルンパもそのようなことを言っていたが、我々はある意味、戦士にならなければならない。

 誤解を恐れずに言えば、そこにおいては自己の利益よりも義が重んじられる。いや、これは、そうしろといっているのではなくて、一つの例だ。

 現代人がとても大事だと思っているいろいろなものよりも、もっと大事なものが、いろいろあるのだ。

 それは今の時代では気づきにくい。いや、気づきにくくさせられているのだろう。

 バガヴァッド・ギーターは、そういう意味ではすばらしい書だ。あれには多くのヒントがある。しかし多くの人は、ちょっとしたインドや欧米のヨーガの先生なんかがこじつけた、ヨーガの精神論的な解釈で満足してしまっているだろう。あれはそんなものではない。
 
 ただ私はもちろん、神の意に従う、神の祝福を受ける、神の示唆を読み取ることが、一番大事だと思う。
 その上であえて言うならば、今の時代のリーダーには、冷静で明晰な知性と、熱い情熱が必要だ。
 
 そして、忘れないことが必要だ。
 神と心があったときのあの感覚を。
 意識が引きあがったときのあの感覚を。

 ぼんやりしたものに引きずり込まれないようにしながら。

 ほとんどはぼんやりしていて、浅い。自分は高く上昇しつつ、そのぼんやりしたものをコントロールしなければならない。

 でもわたしはそんなに知性的な方ではないので、やはり神の道具となることを選ぶだろう。
 神の道具として、一生懸命修行するだろう。

 そうすると、徐々にいろいろと気づかされてくるのだ。

 見解を上げる。
 観念を壊す。
 それができる人は、わずかだが、いる。
 あなたもその一人であることを、願う。

 意外に思うかもしれないが、一番大事なことは、結構単純なことで、
 毎日、決めた修行を、こつこつとこなすことだ。
 師がいるなら師の指示に従うといい。
 ヨーガや仏教の修行というのは、表面的なことを超えた、予想以上の力があるのだ。

 人は生まれ、老い、死ぬ。一瞬のうちに。
 この一瞬の出会いの中で
 出会った皆のためにできることは何か
 私は神の道具として生きる道を選ぶ。


 プライドによって他を批判するとか、
 感情的になって何かを守ろうとするとか、
 そういう意味では、そんなことは、本当にくだらない、下の下の話なんだよ。
 全くお話にもならない、時間の無駄だ。
 まず意識を高く持つことからすべては始まるので
 心の浄化と、意識の引き上げに、全力を尽くそう。



コメント

もしもボックス、その他つれづれ

2009-12-16 18:18:30 | 松川先生のお話





 ある人が、修行を進める上で、その観念やカルマを破壊するために、ある状況が必要だったとします

 たとえば、極端な例を挙げるならば、ある人の修行が進めむためには、実はその人のお父さんが自分の本当のお父さんではない、ということにショックを受けなければならない、という条件があったとします。

 でもそのお父さんは本当のお父さんだったとします。
 
 ここで神が、慈愛によって、現象を変えてしまうことがあります。
 
 つまり、現時点ではそのお父さんは本当のお父さんなのですが、
 神の操作により、「本当のお父さんではなかった」というふうに、事実が書き換えられてしまうのです。

 これはドラえもんのもしもボックスとか、その他の漫画やSFでそういうシチュエーションはよく出てきますね。
 もともとなかったことになってしまうとか、もともとそうだったことになる、ということです。
 それは自分だけではなく、世界全体を巻き込んでそうなってしまうのです。

 修行を進めると、実はそのような『神の操作』に少し気づくことがあります。
 「あれ、今・・・(笑)」という感じです笑。
 それはこちら側が気づくと言うよりも、神が、「おまえならもうわかるだろう」という感じで、少し種明かしをしてくれる感じです笑。


 話を戻しますが、

 つまりそういう意味でも現実は幻であり、
 過去も未来も幻なのです。


 仏教ではよく「無始の過去」といい、輪廻に始まりはないといいますが、実際に輪廻には始まりも終わりもありません。強いて言えば、「輪廻からの目覚め(解脱)」という終わりがあるだけです。輪廻自体には始まりも終わりもありません。
 しかしその始まりのない輪廻の過去を振り返ると、いろいろなことがあったことになっているわけですが、それも今言ったような神の操作が加わった場合、あったことがなかったことになったり、なかったことがあったことになったりもします。

 ですから、前世というのは確実にあるのですが、それを知ってもそんなに大した意味はありません。一つ二つの前世を知るよりも、輪廻という壮大な仕組みを知ることの方が大事です。

 まあつまりいつも言うように、
 我々にとっては、今目の前に与えられた課題に全力で取り組むことのみが重要であり、
 過去も未来も、神によって我々に与えられたまやかしなのです。今目の前の課題に付加された条件設定に過ぎないのです。

 そのような柔軟な姿勢で現象を見、あまりに合理的なガチガチの見方にとらわれないようにしなければなりません。

 といっても、非合理的になれというわけではありません。あえて言えば、「超合理的」とか「真の合理的」になれということですね。
 つまり真の「理」に合一せよと。
 
 そのためには自分で勝手に作り上げた、あるいは社会が共同幻想的に作り上げた、観念的な合理性は打ち破られなければなりません。

 とはいえ、小さな現象に関しては、一般的な意味で合理的でなければなりません。しかし問題が本質に近づくに従って、小さな合理性を捨て、超合理性を身につけていかなければなりません。

 ところで、そういう意味では、今流行っているほとんどのスピリチュアリズムや霊的なものの多くは、単なる非合理性に陥っているといえるでしょう。
 私はよく言うのですが、そういうものにはまるくらいなら、普通に現実的に努力した方がいいです。社会で成功したいなら、ヒーリングなど受けず、現実的に努力してください笑。神を悟りたいなら、自己と向き合い、正しい縁のある師につき、ヨーガや仏教の修行に励むことです。

 最近の(というか前からですが)多くの精神世界とよばれるものは、チューギャム・トゥルンパが「スピリチュアル・マテリアリズム」と呼んだように、単に通常とは別の観念世界に逃げ込んでいるだけであって、自己を解放し、真の理に向かう道ではありません。

 シヴァーナンダが言ったように、真の精神世界や修行の道とは、茨の道であり、決してバラ色の道ではありません。流血覚悟で飛び込まなければなりません笑。

 
 さて、話が散乱してしまいましたが笑、最後に57577でまとめてみましょう。


 まやかしの
 合理に足を
 とらわれず
 真の理をただ
 追い求むべし
 スピリチュアルの
 罠に気をつけ(笑)
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全力を尽くせ

2009-12-15 19:13:47 | 松川先生のお話


もともと、しょうもない世界の
しょうもない人生だ。
人の言葉なんて気にせずに
信じる道を全力で進め。
成功したって失敗したって
最後は死ぬだけだから
何かの保障を求めずに
ただ全力で、やれ。
何があったって日は昇る。
お前がどうあろうが地球は回る。
成功しても失敗しても、
生きるときは生きるし、
死ぬときは死ぬ。
ただ死ぬときに悔いが残らぬように
生きているうちに全力を尽くせ。
来世があろうとなかろうと
今この瞬間に全力を尽くせ。
ただ誠実であることと、全力であること
それが秘訣であり、
カルマ・ヨーガの道。
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パドマサンバヴァの秘密の教え(3)「二つの真理の実践」

2009-12-13 21:23:57 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎二つの真理の実践


 師パドマはこうおっしゃった。

「あなたが全智の菩提心に到達することを望むならば、すべてのエゴの執着、そして現象への執着には本質はないという理解を修習しなさい。

 どんなに功徳ある行為を行なったとしても、すべての現象は夢や魔法のようであると理解しなさい。

 私の口頭の教えに従って、六つのパーラミター、あるいは偉大な慈悲を実践しつつも、それらにとらわれることなく、すべての現象の空性を修習しなさい。

空性の瞑想の力によって、六つのパーラミターや偉大な慈悲も、魔法の幻覚のようだという悟りに達するべきである。

 空性を瞑想するとはいえ、それが善行の修習の助けとなり、そして乱れた感情の治療になることを確かめなさい。

 あなたが行なうすべての善根は、菩提心でそれを増幅させ、そして六つのパーラミターから離れてはいけない。

 そして、あなたが行なうすべての行為は、常に善行を増大させ、そして悪行を減少させるのだという意志を持ちなさい。

 あなたが行なうすべての身体的行為を善行に変えなさい。
 あなたが発するすべての言葉を善行に変えなさい。
 あなたが抱くすべての思考を善行に変えなさい。

 要するに、身口意において健全で善なる行為だけで行動しなさい。
 どんなに小さい不善行、悪行さえも避けなさい。

 正智と誠実さという鎧の防御を維持しなければ、乱れた感情という武器は、より高い領域や解脱への到達のための大動脈を切断するであろう。
 したがって、神聖なる行を実践しながら、正智と誠実さの鎧で自身自身を守ることが必要なのである。」
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