ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

トンレンの応用

2009-07-31 20:34:31 | 松川先生のお話


 トンレンというのは、ここでも何度も書いていますが、自分の幸福を呼吸とともに差し出し、苦悩を呼吸とともに引き受けるという瞑想です。


 さて、このトンレンは、座って瞑想としてやるのもいいですし、普段から日常においてやり続けるのもいいですね。
 そして、今日書きたかったのは、その応用として、自分が大変不安なときや苦しいときに、このトンレンを応用した瞑想が非常に有用であるという話です。

 たとえば、何か失敗をし、明日、怒られたり、恥をかくのではないだろうか、という不安が生じたとき。
 世界中で今、怒られるかもしれない、恥をかくかもしれないという人たちはたくさんいます。彼らの持つ、「怒られる」「恥をかく」というカルマを、全部引き受ける覚悟で、呼吸とともに、自分が吸い込むイメージをしてください。
 そして、自分の中の、「怒られない」「恥をかかない」「すべてうまくいく」というカルマ(徳)を、呼吸とともに、すべて彼らに与えてしまってください。「分け与える」のではなくて、自分の分は一滴も残さず、全部与えるイメージをするのです。
 ほどなく、あなたの不安は消えるでしょう。

 これは肉体的な病に対する不安とか、実際に何かで心や体が傷ついているときとかも同様です。たとえば誰かに裏切られて苦しんでいたら、世界中の人々のもつ「裏切られる」というカルマを、自分ひとりで引き受ける覚悟で、吸い取るイメージをし、自分の中の「裏切られない」というカルマを、一滴残らず、今、裏切られて苦しんでいる人々にささげるイメージをするのです。 
 ほどなく、あなたの苦悩は消えるでしょう。

 たとえば実際に体が病んで苦痛の中にいるときも、世界中の病で苦しむ人々の苦しみを吸収し、逆に自分の安楽を彼らにささげる瞑想をします。
 ほどなく、あなたの痛みや苦しみや不安や恐怖は弱まるでしょう、

 あるいは、欲求が強すぎて苦しんでいるとき。たとえば「認められたい」という欲求が強すぎる場合は、世界中の、「みなに認められず、賞賛されない」というカルマを自分ひとりで引き受け、自分の中の、「みなに認められ、賞賛される」というカルマを、世界の認められない人々に一滴残らず差し出すのです。
 ほどなく、あなたの心は安らかに静まるでしょう。


 例を挙げればキリがありませんが、トンレンはこのような応用ができます。そしてこのような経験を重ねることによって、

「すべての苦悩の原因はエゴであり、
 すべての幸福の原因は利他心である」

という真実に、うっすらと気付きはじめるでしょう。
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第七章 四つの無量心(1)

2009-07-31 18:49:27 | 安らぎを見つけるための三部作・1「心」


第七章 四つの無量心




 帰依の実践によって、魂の真の進化の道に確実に入った人は、
 衆生の幸福のために、衆生の心を養うでしょう。
 慈愛という土の中で、慈悲という花を咲かせてやり、
 喜という涼しい木陰の下で、平等心という純水でそれを世話するのです。

 これらの主要な四つの心が救済への道にリンクする限り、
 依然として輪廻の中にありながらも、その人は幸福感に満たされています。
 そしてそれは最終的に、自分自身と他の衆生を、
 輪廻から脱却させてくれるので、
 はかりしれないほど大きな特性だといわれるのです。



 不幸であり、欲求不満によって苦しめられている人、
 世俗的な幸福と富に夢中になっている人、執着している人、
 他者を嫌悪する人、
 菩薩にとっては彼らは皆、
 慈愛、慈悲、喜、および平等心の対象なのです。



 それらの修行には固定的な順序はありませんが、
 初心者はまず最初に平等心を開発するべきです。
 彼が平等心の修行によって、あらゆることに平然になったとき、
 彼は次第に容易に他の三つの特性を身につけることができるでしょう。

 この四つの心を向ける対象は、「一切の衆生」です。

 あなたは心の中で、このように思索するべきです。

 ――「父母および友達に愛着することや、
 敵を嫌うことは、悪い考え方である」と。

 無始の輪廻の生まれ変わりの中で、
 今生の私の敵でさえ、過去世では私の父や母であったことがあり、
 私に幸福を与えてくれました。
 私は、彼の親切へのお返しとして、彼に悪意を抱いてもよいのでしょうか?

 今生の私の友人さえ、過去世では私の敵であったことがあり、
 私に害をもたらしました。

 今生において私の友でも敵もない人も、過去世では私の友または敵でした。

 この輪廻の世界において絶対的な幸福や不幸などが存在しないのと同様に、
 特定の対象に愛着や嫌悪を持つことは、非合理的なのです。

 したがってまず最初に、あなたは、あなたの友達である人々に対しての愛著をやめなければいけません。

 そして他者と平等な者として彼らを扱わなければなりません。

 そしてあなたは、あなたの敵への嫌悪をやめなければいけませんし、また同様に、彼らを他者と平等な者として扱わなくてはいけません。

 愛著も嫌悪も抱いていない人と付き合う際には、
 将来的にあなたが彼らに対して偏った愛著や嫌悪の感情を持つ可能性を
 滅するように努力してください。

 そして、この世界のおとぎ話から自由になってください。

 幸福になるために、そして悲惨を取り除くために、
 「すべての衆生を平等に見よう」という唯一の欲望を持ってください。

 そうでなければ、あなたの無智の中に、苦痛の礎が築かれるでしょう。

 ああ! それらによって疲弊しきった衆生の心が、
 四無量心という安息の地で、安らげればいいのに!

 愛著と嫌悪の暴力によって苦しめられたすべての衆生が、
 それがもはや存在しない、四無量心という安息の地で、安らげればいいのに!
 そして、愛著と嫌悪から自由になれればいいのに!


 このように思索し、
 まず具体的な身近な人々に対する思索から始め、
 一人、二人、三人と、思索の対象を増やしていき、
 国中の人々、世界中の人々、そして全宇宙の衆生に至るまで、
 熟考をどんどん進めてください。

 この教えが身についてきたかどうかの基準は、
 あなた自身、友達および敵、そしてすべての衆生を、平等に見ることができるようになることです。

 そして真実には、すべては心であり、広大な空のような存在なのです。
 あなたの心を、それに関するすべての誤った概念から解放させてください、
 初めからそこにあり、終わることのない、完全に開いている根源的な心の中で落ち着いてください。

 この教えが身についてきたかどうかの基準は、
 深遠で静かな智慧が生まれ出ることです。

 これらの教えの実践によって、心がすべての側面で寂静になったとき、
 その寂静なる平等心をもって、すべての衆生について考えてください

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後悔2

2009-07-30 18:51:56 | 松川先生のお話



 過去のことを後悔するな、という話を書きましたが、未来のことについては、今度は、後悔しない生き方を常に選択する、というのが必要だと思いますね。

 何か選択しなければいけないとき。これをやるか、やらないか。どちらに進むべきか。そういうとき。後悔しないほうを選ぶべきですね。

 たとえば過去に何度もそのことで後悔したことがあるのなら、それをやるべきではないでしょう。

 しかしこれは、消極的になれということではありません。人生は常に積極的に攻めの姿勢が良いと思います。

 自分の心に誠実に聞いてみて、後悔しないほうを選ぶのです。そうすれば、たとえ失敗したとしても、あまり問題はありません。

 選択というか、どの程度真剣に生きるか、というのも同じですね。後悔先に立たずといいますが、後悔しないためには、常に悔いのない道を選ぶとともに、悔いを残さない、全力の努力、真剣な精進をし続けるのが良いと思います。

 これは簡単な話なのですが、心の屈折や無智、あるいは心の癖というか習性みたいなもののために、我々は不本意な道をなぜか選んでしまったり、全力で事に挑めなかったりする場合が多々あると思いますね。
 ですから、「後悔しない生き方」ということを常に心に留めて、真剣に生きるのが良いと思います。
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後悔

2009-07-30 13:23:26 | 松川先生のお話


 後悔はすべきではない。
 進歩的な意味で、悔いることは良いことだ。それは反省と言い換えてもいいが、過去の駄目な部分は駄目と認め、反省し、現在と未来の生きかたに修正を加える。

 しかし多くの人の場合、過去の事象をもとに、なぜか「今を悔いている」のだ。
 まるで、「今、この瞬間の自分がぜんぜん駄目」という落胆に陥っているのだ。
 
 君は確かに駄目だったかもしれない。しかしそれは、昨日のことじゃないか?
 今は関係ないじゃないか(笑)。
 なぜ、神がプレゼントしてくれた、この新鮮な、光り輝く今という時を、後悔の闇で覆うのか。

 もちろん、過去の反省を生かさずに能天気に生きるだけというのも問題はあるかもしれないけど(笑)、そうではなくて、常に今を信じる。そして未来を信じる。過去の失敗や成功は、この今と未来をより正しいものに修正していくための勉強だと考えればいい。

 今や未来を信じられない?--それは、答えだけはっきり言ってしまうと、徳が足りない。
 論理的にはわけがわからないかもしれないけど、できるだけエゴを捨てて、他者のために生きようとするべきだ。
 実践が難しければ、そう心で考えることからでもいい。
 論理的にはわけがわからないかもしれないけど、そうすれば、今や未来を信じることができるようになるだろう。

 また、常に、神や、自分の本性に、恥ずかしくない生き方を選択することだ。
 智慧がなくて、何が正しいかわからない、というのはしょうがないよ。
 能力がなくてできない、というのももちろんしょうがないよ。
 しかし自分の今の知性と能力の範囲内で、全力で、神や自分の本性に恥ずかしくないと思える生き方を選択し続ける。
 そうすれば、たとえ現在の考え方や生き方が間違っていたとしても、必ずいつかは正しい道に導かれるでしょう。

 最悪なのは、常に自分に言い訳をすること。自分の悪癖を肯定してしまうこと。
 この辺は微妙なんだけど、後悔はしちゃいけないんだけど、自分の悪い部分を肯定してもいけない。
 自分の悪い部分は徹底的に自己否定する。しかしそれはあくまでも昨日までの自分であって、今日からは生まれ変わるぞと。
 今日生まれ変われなかったとしても、また明日、生まれ変わればいい。

 すべては無常だ。無常だから、どんな悪人だって、心構え一つで、聖者にも神にも進化できるのだ。
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2-1:生起次第

2009-07-30 09:39:47 | 深遠なる道・ナーローの六ヨーガのプロセス
2:本行

 
2-1:生起次第


 生起次第を修習することは、世俗のシッディを成就するためには必要であるけれども、最高のシッディ(悟り・解脱)を成就するためには必要ではない、という誤った考え方が、チベットのある流儀には見られる。
 しかし、ミラレ―パも、
「明智である心の技を訓練するために、道である生起と究竟の二つに努力をしなさい」
とおっしゃられているし、偉大な他のグル方も、両方の次第を修習すべきであると御主張されている。
 よって、究竟次第の前に生起次第を学習するべきである。


 生起次第の直接的な必要性は、究竟次第の悟りを完全に生じるための心の連続体を、よく成熟させることである。
 ヤブ・ユムの一対のイダムのヨーガを修習し、先に生起次第のサマディを堅固に得たならば、究竟次第の修習の場合に、誤りは少ない。はじめから究竟次第だけで十分とするのは、タントラ部の意図ではない。

 では、どのように修習するのか。
 このナーローの六法のタントラの流儀を受け継いだある者たちは、この道の基盤はチャンダーリーの火であり、それはまた主に「ヘーヴァジュラ・タントラ」によっているから、そのタントラに説かれているヘーヴァジュラの四部族のいずれか一つを修習するとよいと御主張されている。
 また、この流儀の先代のグルたちには、サンヴァラを修習する者も多い。ガンポパ、パクモ・ドッパ、チョジェ・ディ・クン・パなどがそうである。
 また、この三人はともにルーイパ流のチャクラサンヴァラ六十二尊曼陀羅にもよっている。
 そのように二つの流儀があるけれども、このチャンダーリーの火はチャクラサンヴァラとヘーヴァジュラの二つともに共通の道であるから、生起次第はその二つのいずれを行なってもよい。


 生起次第において体験を実現するためには、はじめに心を散乱せずに正念する。
 心が静まったならば、観想を始める。
 イダムが多面多臂であるならば、他の面と臂を観想することはしばらくはせずに、まずは一面二臂を心にとどめて修習する。


 (1)様相を修習すること

 そのイダムの様相を上から、あるいは下から順に、身体の粗雑な部分から明らかに思い浮かべて、その部分に対して緊張も緩和もない適度な心一竟で集中する。
 修習の対象以外のどんな様相が現れても、それに従わず、はじめの対象に心を安置する。
 対象が明らかでなくなったなら、再び明らかに思い浮かべて観想する。
 様相が明らかになるまで修習する。目で見る物よりもきわめて明らかなくらいに観想し、また、愚鈍と興奮を離れて実習を続けることが必要である。
 イダムの身体の粗雑な部分についてそのようにしてから、他の面臂と装飾等の微細な部分についても、同様に完全に現われるように修習する。
 それからその上にユムを加え、同じように観想する。それから眷属の他のイダムも観想し、最後には、すべてのイダムと、そのよりどころである宮殿の諸々の様相を一緒に、微細・粗大のすべての様相を明らかに現わし、心一竟に住することが必要である。


 (2)誇りを修習すること

 自分がイダムであるという自負を生起させ、心一竟に住する。
 その力がもし弱まったら、イダムの自負を生起させて、それに心を安置する。
 そのようにして、はじめは偽りの自負によって観想するのであるが、あるときからイダムとしての自負が堅くなり、偽りでない自負に移ることができるようになる。そのような自負を、実習のはじめから終わりまで保つべきである。
 イダムの顕現と自負の二つの観想は、はじめは交互にはぐくむ。そして最後には、自分の意識において普通の顕現を現わすことなどできない、という自負により、優れた顕現だけが現われるようになり、普通の顕現を意識において浄化することができるようになる。
 また、偽りでない自負に移ることができるならば、普通に思ったことを意識において浄化することができるのである。

 それから瞑想を終えて、日常生活において現われるすべての顕現に対しても、すべてはイダムとその宮殿であると見て、その本質として現われる堅固なサマーディを生じさせ、すべてのあらわれを浄化していく。


 「勝楽生」の中に、
「三界の自性である宮殿。そこにいる生き物は曼陀羅の神々である。」
と説かれており、アーリヤデーヴァもまた、
「これら種々のものを曼陀羅の輪として理解してください。そうするならば、心はいつ、どこに迷乱するというのか。」
と述べられている。


 このマントラヤーナにおいては、いかなるものが現われてもそれはイダムの輪であり、経験は大楽である。そして分別は不生であるという捺印を押すことが必要である。
 プラーナが中央脈管に入ることによって生じる究竟次第の大楽はこの場合にはないけれども、ヤブ・ユムそのもののような明らかな現われをきわめて堅固に得ることによって、方便と智慧を合一させ、パット字によってボーディチッタが外に漏れることを防ぐことから生じる生起次第の大楽が、実際に多くあることも理解する必要がある。


 これが、曼陀羅の輪の生起次第の修習によって心の連続体を成熟させることの要点である。

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6 発菩提心の詞章

2009-07-29 17:25:12 | シャンバラ・ヨーガ 修行体系奥儀 入門編


6 発菩提心の詞章

 これは、10万回以上を目指して唱えるようにします。


 ホー、水に映る月のような
 さまざまな虚像に引きずられ
 輪廻の鎖の輪を浮沈する生き物たち
 彼らすべてが、明智に光り輝く法界に
 安らうことができるよう
 四無量心こめて、菩提心を発こします
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お釈迦様の予言

2009-07-29 16:55:36 | 松川先生のお話




 原始仏典の中で、お釈迦様が、遥か昔の人間界と、これからの人間界の未来予言について語っている珍しい経典があります。今回はこの「転輪聖王修行経」の内容を簡単にまとめてみましょう。


 遥か昔、人間界の寿命が八万歳の時がありました。
 そのころ人間界を統治していたのは、転輪聖王とよばれる偉大な王で、彼は正しく世界を統治し、世界は平和で幸福で、罪悪を行なう人は誰もいませんでした。

 この転輪聖王は、死が近づくと王位を退いて出家修行に入り、息子に王位を譲るわけですが、息子は、まあいろいろあるわけですが、正しい政治の仕方を先王に尋ね、また正しく政治をし、同じように転輪聖王として世界を正しく統治するわけですね。

 このようなことが何代かにわたって繰り返されるわけですが、何代目かの王のとき、その王は、先代の偉大なる王に、正しい政治の仕方を聞くということをしなかったんですね。自分のやり方で政治を行なったわけですが、それにより、世界は乱れだすことになります。

 まず、貧困が世界に増えだしました。
 そのため、盗みを行なう者たちが現われだしました。

 つまりそれ以前には、盗みという行為が、人間界にはなかったのです。

 盗みを行なった者に対して、王は、
「なぜお前は、盗んだのだ?」
とたずねました。
 盗人は正直に、
「生活できなかったからです」
と答えました。
 そこで王は、その盗人に財産を与えました。

 このようなことが繰り返されたとき、人々は、
「盗みをすると、王に財産をもらえるらしい」
と考え、より盗みが増えてしまいました。

 王はさすがに、このようなことをしていてはますます盗みが増えると考え、あるとき、盗みをした者を捕まえて縛り、町中を引き回した上で、首をはねました。

 ここで、「刑罰」という悪が登場しました。
 面白いですね。この経典だけではないのですが、仏典では、刑罰を悪と捉えている場合が多いのです。
 実際に悪に果報を返すのはカルマの法則そのものであって、人間が人間に対して刑罰を加えるというのは傲慢極まりないと、私は思います。 
 もちろん、実際は、国を統治する場合、秩序の維持のためにしょうがない部分もあるかもしれません。
 しかしたとえば現代のように、テレビでさまざまな犯罪を報道し、それに対してコメンテーターや視聴者が、まるで閻魔様にでもなったかのように、「あいつはひどいやつだ」「あいつにはこのような刑を与えるべきだ」などと言い合っているのは、どうかと思いますね。人は皆、罪の塊なわけですから、人に罰を与える前に、自分のカルマと心の浄化に励むべきでしょう。

 さて、このように刑罰が行なわれるようになっても、盗みは減りませんでした。それどころか、泥棒たちは、捕まると殺されてしまうので、自分たちが武器を持ち、盗みに入った家の人を殺すようになりました。
 ここで、殺人という悪が登場します。

 また、つかまったとき、刑罰を受けたくないので、盗人たちは、自分たちは盗んでいないと、うそをつくようになりました。ここで、嘘という悪が登場します。つまりそれまでは、人間界にはうそつきはほとんどいなかったということです。

 さて、またあるとき、他人が盗みを行なうのを見たある人が、王にそれを報告しました。
 これは現代では、「正義の訴え」と見られるかもしれません。しかし仏典では、この経典だけではないのですが、このような、他人の悪を王に訴えることも、「悪口」とされているのです。
 こうして、このような悪口も増えていきました。

 さて、このようにして、平和で、幸福に満ち、悪がなかった人間界において、盗みが増え、刑罰が増え、殺生、嘘、悪口などが増大していきました。これにより、徐々に人間の寿命は短くなっていき、また、人間の容色は衰え、幸福度も減り、苦しみは増していきました。

 こうして人間世界が下降し続け、人間の寿命が一万歳になったころ、人間のある人々は美しく、ある人々は醜くなりました。つまりそれ以前は、みんなが同じように美しかったわけですね。
 そしてこのころから、不倫が行なわれるようになりました。

 人間の寿命が五千歳になったとき、粗暴な言葉と、無意味な言葉を語ることが増大しました。これによって、人々はより醜くなり、寿命も減りました。

 人間の寿命が二千五百歳になったとき、貪欲と憎悪が増大しました。これによって、人々はより醜くなり、寿命も減りました。

 人間の寿命が千歳になったとき、誤った見解が増大しました。これによって、人々はより醜くなり、寿命も減りました。

 人間の寿命が五百歳になったとき、「不当な愛欲」と、「異常な貪り」と、「誤った教え」が増大しました。これによって、人々はより醜くなり、寿命も減りました。

 人間の寿命が二百五十歳になったとき、父母への不孝、修行者への不敬、一族の長を尊敬しないこと、などが増大しました。これによって、人々はより醜くなり、寿命も減りました。


 このようにして人間界は落下を続け--ここから先は未来の話になるのですが、人間界の寿命が十歳になるときがやってくるといいます。
 人間の寿命が十歳になることなどあるのだろうか、と考えるかもしれません。また、そんなときが来るとしても、それは遥か未来だろう、と考えるかもしれません。
 しかしこの言葉には、トリックがあると思います。それはあえてここでは書きませんが、皆さんも考えてみてください。

 さて、人間の寿命が十歳のとき、人間界はどういう世界になっているかというと、ざっと書いてみましょう。

◎不殺生・不盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不貪・不憎・不邪見という善は消滅し、殺生・盗み・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪り・憎しみ・邪見という十悪がはびこる。

◎親孝行せず、修行者を敬わず、一族の長を尊重しない人が、供養され、賞賛されるようになる。

◎母、母の姉妹、母の義理の姉妹、師の妻女、父方の叔母、聖者の妻などと、だれかれかまわず、獣のように、男女の関係を結ぶようになる。

◎相互に激しい敵意が生まれ、激しい憎悪・悪意・殺意を持つようになる。親子や家族の間においても激しい敵意・憎悪・悪意・殺意を持つようなる。

 うーん・・・これはまさに現代の描写のようですね。

 さて、このような時代になったあるとき、人々は武器をとり、お互いを、「あいつらは野獣だ」と思い込んで、武器を持って殺しあうそうです。それは、七日間の間、殺しあうそうです。
 しかし一部の者たちは、その七日間の戦争の間も、「我々は誰をも殺さないようにしよう」と考え、戦争に参加せず、殺生をしません。そうして七日の後、殺生に参加しなかった者たちは生き残ります。
 
 生き残った人たちは、こう考えます。
「我々はさまざまな悪いことを行なってきた結果として、多くの仲間を失ってしまった。
 これからは善いことをして生きていこう。まずは我々は、生き物を殺すことを一切やめよう。この法を守り続けよう」
 このように考え、実践することで、人々は徐々に寿命が延び、徐々に容姿も美しさを取り戻します。
 そうして人々は、他のさまざまな悪をやめ、さまざまな善に基づいて生きるようになります。こうして代々、人間界はどんどん寿命が増し、容色も美しくなっていくのです。つまり七日間の戦争をターニングポイントとして、今度は上昇のプロセスに入っていくわけですね。
 
 こうして人々が悪をやめ、善を行なうことで、遥か未来には、人間の寿命が再び八万歳に到達するときが来るそうです。
 
 そのとき、人間界に、サンカという名前の転輪王が現われ、正しく世界を統治するそうです。
 そしてそのとき同時にメッテーヤというブッダが現われて、人々に真理を説き明かすそうです。

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◎グルに対して、供養してお願いすること

2009-07-29 13:15:07 | 深遠なる道・ナーローの六ヨーガのプロセス

◎グルに対して、供養してお願いすること

 「五次第」の中に、
  
「すべての供養を捨てて、グルを供養することを正しく始める。
 彼を喜ばせることによって、全智者の最高の智慧を得ることになる。
 師であるヴァジュラサットヴァへの供養は、無上のものである。」

と説かれているように、すべての供養の中でも、グルを供養することこそ最も一生懸命にすべきであるということに対して、強い確信を生起して、グルを供養する。

 日々、さまざまな方法で、グルを供養すべきである。

 そして瞑想修行としては、「曼荼羅供養」を行なう。



 曼陀羅供養のやり方は、以下の通りである。

 曼陀羅を、芳香と五甘露を含んだ水で濡らす。
 偉大な黄金の大地を、「オーム・ヴァジラ・ブーミー・アー・フーム」と唱えてこする。
 外輪山の周辺を、「オーム・ヴァジラ・レーケー・アー・フーム」と唱えてあらわす。
 芳香と五甘露を混ぜた花束を中心にたてて、中心のスメール山をあらわす。同様にそれぞれの位置に花束をおいていき、東はヴィデーハ州、南はジャンブ州、西はゴーヤーナ州、北はクル州とする。
 東の左右に花をおいて、「デーハ」と「ヴィデーハ」、南の左右に花をおいて、「チャーマラ」と「アヴァラチャーマラ」、西の左右に花をおいて、「シャータ」と「ウッタラマントリン」、北の左右に花をおいて、「クル」と「カウラヴァ」とする。
 それから、それらの島とスメール山との間に、七宝、日、月などを置き、種々の宝によって充満したと思念する。

 そして、
「自他の身・口・意の三業と富と三世の善根の集まりの、すばらしい宝の曼陀羅に、サマンタバドラ供養の集まりを伴った心によって観想し、グルとイダムと三宝に捧げます。慈愛の心によってお受け取りになり、わたしを祝福してください。」
と述べて、グルに捧げる。

 花等の外供養と、内供養である甘露と、秘密の供養によって供養し、称賛することをもって称賛し、グルの前で、一般と特別の戒を受ける。

 それから、大きな尊敬の心を持って、共通と特別の道を速やかに心の連続体に確立させることと、悪縁を滅して良縁を思い通りに成就することを祈願する。
 それによってグルがお喜びになられて、グルの三カ所の文字から、白・赤・青の光明が放たれて、自分の三カ所に順次に入る。
 それによって、身体の内のすべてが、三つの光明によって次第に満たされて、三業の垢を清め、壺・秘密・智慧のイニシエーションを順に得て、カーヤヴァジュラなどの三つのシッディを順に得ると思念する。

 それから、グルの身体の一切の場所から光明が放たれて、自分の身体のすべての門から入って、三業の微細な障害を清めて、第四イニシエーションを得て、三ヴァジュラが無差別のシッディを得たと思念する。

 それからグルが自分の頭上から溶け込んで、自らの身・口・意の三つと、グルの身・口・意を差別なきものと思念し、百字マントラによって堅固にする。


 この瞑想は、日々の修行の前後の間と、修行の冒頭に行なうとよい。

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◎福田としてグルを観想すること

2009-07-27 22:52:33 | 深遠なる道・ナーローの六ヨーガのプロセス


②祝福を受けるためにグルヨーガを修習して、供養すること


 祝福を受けるためにグルヨーガを修習することには、二つある。
 福田としてグルを観想することと、
 それに対して供養してお願いすることである。


◎福田としてグルを観想すること

 眼前の虚空に、獅子によって支えられた宝座がある。その上に蓮華座と日輪座があり、その上に、本質は自分のグルであり、形は第六部族のヴァジュラダラであるものを観想する。
 その身体は青色で、一面二臂にして、右手にはヴァジュラ、左手にはヴァジュラベルを持って、自分と同様の姿のユムを抱いている。
 天上の衣の上掛けと下掛けをそなえて、宝飾で飾られ、足は金剛結跏趺坐で座し、五光明が燃えさかっていると観想する。

 そのヴァジュラダラの頭頂の月輪座の上に白いオーム字、のどの蓮華座の上に赤いアー字、心臓の日輪座の上に青いフーム字が光明を放っていると観想する。

 フーム字から光明が放たれて、ヴァジュラダラから始まり相承されてきたグル方と、種々の守護神をお招きして、ヴァジュラダラの中に溶け込ませる。

 「勝楽生」の中に、
「グルは仏陀であり、グルは法であり、またグルはサンガである。」
と説かれているように、三宝すべてが集約された本質として、ヴァジュラダラの姿をしたグルを観想する。

 「五次第」の中に、
「これは自然性の世尊であって、優れたイダムは一つであり、
 教えをよく与えるから、ヴァジュラの師はそれ(ヴァジュラダラ)より優れている。」
と説かれているように、グルは自分に対して功徳を与えてくださる田畑として、ヴァジュラダラよりも優れていると思いなさい。

 「口伝」の中に、
「このある意味を持った人(グル)に、私(仏陀)は、その人の体に住して、他の行をする人の供養を受ける。
 それによって、それを喜ばせ、心の連続体のカルマの障害を清浄にする。」
と説かれたように、正しい教えの意味を説くグルは、弟子が供養するときに、諸仏が降臨されて、グルの体に安住されて、供養を受けて弟子の心の連続体を清浄にする。
 グル以外の他へ供養したときは、自らが仏陀に捧げたという功徳は得るけれども、仏陀そのものが供養を受け取ったという確信はない。
 そのようなあり方を理解して、供養の受け手としてグル以上のものはないという確信持ち、グルをすべての如来方の本質と見て、グルの欠点を考える心を強く断じ、グルの諸々の功徳を観察して、グルへの帰依心を堅固にする。
 グルの欠点を観察するならばそれは成就の害となり、功徳の点から観察するならば成就は速やかに得られるからである。
 これらのあり方によって、グルに対する帰依心を強め、また、グルの恩を忘れず、大きな恭敬を常に持ち続けるようにする。

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出張ヨーガ講習会のお知らせ

2009-07-27 10:49:03 | お知らせ


 以下の日程で、出張ヨーガ講習会を開催いたします。


 参加希望の方は、お早めにメールでご連絡ください。

 皆様のご参加を心よりお待ちしております。








8月2日(日)15:00~18:00
☆場所:名古屋・亜細亜大陸アカデミー
地下鉄矢場町駅から徒歩3分
http://ajiatairiku-academy.com/asia/access.html


8月9日(日)13:30~16:30
☆場所:京の山杣人工房「空」
JR京都駅から徒歩5分 下京区総合庁舎となり
http://somabitoqo.exblog.jp/i11


8月23日(日)12:30~15:30
☆場所:仙台・スタジオカラコル
JR仙台駅から徒歩10分
http://www.chiaki-walk.com/caracol.html


9月6日(日)12:30~15:30
☆場所:札幌・スタジオオンズ(スタジオB)
JR札幌駅から徒歩5分
http://www.studio-ons.com/contactus/index.html



☆詳細-----------------------------------------------------------------------------------



☆参加費:3000円

☆内容:クンダリニー・ヨーガ、ハタ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガなどの各種行法実践と講義。
    初心者の方でも問題ありません。お気軽にご参加ください。

☆定員:3名~20名
    ※参加希望者が定員に達しなかった場合、中止になる場合もありますので、ご了承ください。

☆予定しているメニュー:アーサナ(気を調える体操)
            気功(気を充実させる内気功)
            プラーナ―ヤーマ(各種の呼吸法)
            ムドラー(覚醒の技法)
            マントラ
            瞑想
            講義
 
☆持ち物:動きやすい服装
     ヨガマット、または大きめのバスタオルなど(床に横になるときに下に敷けるもの)。

☆申込先:電話かメールでお申し込みください。



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2009-07-27 06:03:56 | 松川先生のお話

 二元を超えた真実が
 マハーマーヤーの力によって
 多様な現象としてあらわれる。

 しかし多様に見えるこの世界も
 さまざまな名前や概念に縛られて固定化されているように見えるだけであり
 その本質は、今も過去も未来も、永遠に自由で純粋である。

 この世には「これである」と確定されるものは何もない。
 しかしこの世のすべての現象の本質は
 まさに「それ(タター)」としか表現することのできない、
 ありのままの「それ」なのである。

 このように、すべての眼に見える現象は、本質的にもとから完璧で純粋な「それ」である。
 よって、他のどこかに何かを捜し求めることは意味がない。
 ただただもとからそこにある完璧な「それ」に身をゆだねるべし。

 何かを探そうとしても、その「何か」はどこにもない。
 空間を超えた、
 無限に小さく、無限に大きな滴(ビンドゥ)。
 それを知ることが、真実をありのままに見る道。

 生来の純粋智性は、常にすべてに偏在する。
 「わたし」も「あなた」もないのだから、そこには空間もなく、
 何かが何かに対してなすということも何もない。

 これらを理解するならば、
 究極の真実は、
 存在しないものへの誤った努力を捨てることによって
 正しくリラックスすることによって
 発見されるということがわかる。

 それは言葉によって理解されるものではなく
 師や神の導きによって体得されるべきもの。
 口で「リラックス」と言っても
 それを経験したことのない者は、余計に力が入るだけだ。
 しかし我々は本来は常に真にリラックスしているのだから
 正しい導きがなされるならば、誰でもその境地にたどり着く。

 究極の真理は二元を超えている。
 すべての努力は二元性のものである。
 二元から非二元へは至れない。
 しかし正しく二元的な努力をなすことによって
 不思議なことに、全く関係のない方向から
 祝福によって、非二元の扉が開くのである。

 つまり祝福なしには扉は開かず
 努力なしには祝福はない。


  
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☆特別の加行

2009-07-25 22:09:03 | 深遠なる道・ナーローの六ヨーガのプロセス

☆特別の加行


一般に最高の加行は、パーラミターヤーナとマントラヤーナの共通の道を修習することと、正しいアビシェーカを授かることと、根本と支分の諸々のサマヤを正しく遵守することであるから、それに対して確信を得るべきである。

 そしてさらにマントラヤーナの特別の加行として、グルヨーガと、ヴァジュラサットヴァの瞑想と念誦と、マンダラをささげること等がある。

 諸々のグルの伝統では、それらは大きく二つのプロセスに分けることができる。
 ①罪と障害を浄めるためにヴァジュラサットヴァの瞑想と念誦をすることと、
 ②祝福を受けるためにグルヨーガを修習して、供養することである。


①罪と障害を浄めるためにヴァジュラサットヴァの瞑想と念誦をすること


初めに、三宝に心を任せる帰依の心を、確実に自己の心の連続体に植えつけるべきである。

 そして、次のように考える。

 自分自身が輪廻の海に落ちたように、諸々の衆生も同様にこの苦界に落ちている。そして彼らすべての衆生はかつての自分の母であり、多くの恩を受け、害悪を取り除いてもらった恩人であることを思い、すべての衆生に恩を返そうという心を固く持つ。
 次に、それらの母なる衆生が、幸福でないことと、苦しみにさいなまれている諸々の有様を観想して、それら母なる衆生をどうにかして私が、あらゆる楽に向かわせ、あらゆる苦しみから解放しようという思いを強く持つ。
 次に、その二つの事柄を完全に達成できるのはただ仏陀のみであると見て、彼らのために自らが仏陀となりたいという思いを強く持つ。
そして、衆生を救う仏陀となるためにこのナーローの六ヨーガの道を修習しようという固い誓いを間断なくなすべきである。


「金剛心荘厳」の中に、

「すべての仏陀の唯一の御身が、白蓮華と月の中心に住して
ヴァジュラとヴァジュラベルによって荘厳されたヴァジュラサットヴァを良く対象にして
百字真言を儀軌の通りに二十遍念誦する事は
祝福によって、堕罪等が増えることにならないと
最高の行者によって述べられているから、余暇に行なうべきである。
十万遍念誦するならば、正しい自分となる。
このように、余暇にヴァジュラサットヴァの瞑想によって、百字真言を絶え間なく念誦したならば、堕罪は増えないし、十万遍念誦したならば諸々の罪が清浄になると、最高の成就を得た人々はおおせになっていらっしゃるから、そのようにすべきである。」

と説かれているから、ヴァジュラサットヴァの瞑想と念誦をすべきである。その次第は次の通りである。



 自らの頭上にあるパム字から白蓮華、アー字から月輪が生じ、その上にフーム字が生じて、それが白い五鈷杵となり、その五鈷杵の臍をフーム字によって装飾する。
 その五鈷杵から光明が放たれ、収斂して完全になり、自分自身に溶け込む。

 次に、白蓮華と月輪の上に、ヴァジュラサットヴァを観想する。
 白い身体のヴァジュラサットヴァは、右手にヴァジュラ、左手にヴァジュラベルを持っている。白いユムであり、曲刀とカパーラを持っているヴァジュラニェムマを抱いて、さまざまな宝の飾りによって飾られている。三十二相と八十種好を備え、ヴァジュラーサナによって座っている。
 そのヴァジュラサットヴァの心臓の月輪の上に、白いフーム字を観想する。
 そこから光明が放たれて、自分と等しいジュニャーナサットヴァをお招きして、色・声・香・味・触の五供養によって供養する。ジャハ・フーム・バム・ホーによってお招きして、とどめ、喜ばせるべきである。
 また、心臓のフーム字から光明が放たれて、アビシェーカの諸々のイダムをお招きして供養して、
「すべての如来方によってアビシェーカが受けられますように」
とお願いする。それによって如来方は、アビシェーカを授けようとお考えになられる。
 諸々のユム方が、宝の瓶を智慧の甘露で満たしたものを持って、「チタル・タムパ」等と、「オーム・サルヴァタターガタ・アヴィシェーカタ・シュリーイェー・フーム」と唱えて、アビシェーカを授ける。身体が智慧の甘露で満たされて、アクショーブヤが頭頂を飾ったと観想する。
 
 それからヴァジュラサットヴァの身口意に対して大いに恭敬の心をもって、
「世尊ヴァジュラサットヴァよ。自他と一切の罪と障害とサマヤからの堕落と破戒の一切を清浄になされますよう、お願いします」
とお願いする。
 するとヴァジュラサットヴァの心臓のフーム字から光明が放たれて、すべての衆生を照射し、彼らの罪と破戒の一切を清浄にする。
 またその光明は、十方の菩薩を伴った仏陀すべてに供養をささげ、それらの身口意と功徳と御作業のすべてを、光明の様相として収斂し、心臓のフーム字に再びとけ込むことで、ヴァジュラサットヴァの偉大さと力が完全なものになったと観想する。
 
 そしてフーム字の周りに百字真言を観想し、百字真言を唱えることによって、その文字を回転させる。
 文字から光明が放たれ、衆生の罪と障害を浄めて、菩薩を伴った仏陀に対して不可思議なる供養をささげて、身口意のすべての祝福が収斂して文字にとけ込む。
 その文字から白い甘露が流れ出し、その甘露がヤブ・ユムの結合した秘密処から流れだし、自分のブラフマ・ランドラに入る。
 身口意のすべての罪と障害が、感覚要素の門と毛穴から、黒い液体となって流れ出し、罪と障害を浄める。
 全身は智慧の甘露の流れによって白く満たされて、悟りと功徳が自他すべてに生じることを観想し念誦する。

 ヴァジュラサットヴァの瞑想の終わり方は、四つの力の懺悔をして、
「私は無知蒙昧のために、サマヤから矛盾して堕落してしまいました。
 グルである救世主よ、私をお守りください。
 ヴァジュラダラであって、大いなる哀れみの本質を備えた衆生の主よ、私をお守りください。」
とお願いする。それによってヴァジュラサットヴァは、
「善男子よ、汝の罪と障害とサマヤからの堕落と破戒のすべては清浄になった。」
とおおせられて、自分自身にとけ込んでくる。
 こうして自分の身口意とヴァジュラサットヴァの身口意は合一したと観想する。

 最後に回向と誓願をして終わる。




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簡潔・十二支縁起

2009-07-25 16:28:55 | 松川先生のお話




 12支縁起について、簡単に。

 無明を条件として、行が生じる。
 行(サンスカーラ)とはいろいろな説明ができますが、簡単にいえばカルマの法則の流れそのものだといえるでしょう。
 精神的な側面も含めた、カルマの流れですね。
 もっと言えば、経験から来る心の習性の形成と、その心の習性から生じる新たな経験の流れです。
 無明とは、明がないこと。
 明とは真実をありのままに明らかに観る智慧。
 ありのままに観れないから、経験にとらわれ、行が成り立つわけです。

 経験から生じる心の習性が、固定的観念的識別、つまり経験から来る偏ったものの見方を生み出します。
 
 この偏った識別により、「私」という自我意識観念は強まり、「名色」と呼ばれる状態になります。

 「私」という自我意識の基盤である名色があるということは、他者という概念も生じなければなりません。そしてその他者を認識するための能力も生じます。これが六処です。

 私がいて、他の者がいて、それをつなぐものもあるなら、当然、それらは触れ合います。

 触れ合うことによって、苦、楽、どちらでもない、のいずれかの「受」が生じます。

 しかしこの楽とか苦というのは、絶対的客観的なものではありません。
 あくまでも無明、そして経験から生じた習性、そこから生じた識別作用がもとになっているので、偏った主観的な苦楽の認識になります。

 そして、楽の受に関しては、強い渇愛が生じます。
 苦の受に関しては、強い嫌悪が生じます。

 楽の経験から来る渇愛。
 苦の経験から来る嫌悪。
 これらが繰り返されると、それらは「取」、すなわち執着になります。

 たとえばチョコレートを食べたことがない子供が、初めてチョコレートを食べた。「おいしい!」・・・これが楽の受です。
 「もっと食べたい!」・・・これが渇愛です。
 そして何度もその経験をするうちに、もうチョコレート無しではいられなくなる。これが「取」です。

 あるいは、ある友達に嫌なことを言われた。「悲しい!」・・・これが苦の受です。
 「もう言われたくない!」・・・これが嫌悪です。
 そして何度もその経験をするうちに、もうその友達と顔を合わせるだけで、嫌な気持ちになり、怒りや苦しみが生じるようになります。これが「取」です。

 これによって、我々はこの現実世界、生存の世界にしっかりと結び付けられます。

 それによって、死んでも、またこの世に生まれるのです。

 生まれることで、行、すなわちカルマの内容に基づき、カルマの果報を受けるための人生を生きなければなりません。
 このプロセスはそもそもが無明から始まっているので、すべてが間違いであり、人生も苦に満ちたものになります。

 そして今生で受けるべきカルマの果報の経験が終わりに近づくのが、老いるということであり、そして今生で受けるべきカルマの終焉が死です。

 しかし智慧によって無明を払わない限りは、カルマの流れや心の習性は存続し続け、12支の縁起の流れは延々と続きます。


 では、どうすべきなのでしょうか?

 うじゃうじゃ小難しいことは書かずに(笑)、実践的なポイントを簡潔に書きましょう。

 カルマの果報の受け皿に過ぎないこの人生において、新たな悪業を積まないこと。新たな悪い心の習性を作らないこと。
 苦しいことがあってもそれは自己のカルマであると考え、耐え、浄化に励むこと。
 そして善業を積み、良い心の習性を形成することに励むこと。
 これらによって、この12支縁起という幻影から逃れられなくても、少なくとも良い幻影、良い人生がやってきます。

 そしてそれと同時に、渇愛や嫌悪を弱めていくこと。
 渇愛や嫌悪が滅されれば、解脱します。

 そしてすべての諸悪の根源である無明の闇を払うための、明の智慧(悟り)を得ること。
 これに成功すれば、すべては消え、すべては終わります。

 ちょうどそれは、太陽が昇れば、蛍の光は見えなくなるようなものです。

 そして私は、菩薩には、また別のプロセスがあると考えます。しかしそれについては、今はまだ触れないでおきましょう。

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5 出家修行者の詩

2009-07-25 10:35:03 | シャンバラ・ヨーガ 修行体系奥儀 入門編


5 出家修行者の詩



 汝の束縛を断て!
 輝く黄金や光鈍きものや貴金属などの汝をくくれるもの、
 愛と憎しみ、善と悪――すべての相対の大群を断て。
 知れ! 愛撫であれ鞭打ちであれ、奴隷は奴隷、自由でないことを。
 束縛は黄金であっても縛る力は弱くない。
 それゆえ、それらの足かせを断て。勇敢なる出家修行者よ! 
 唱えよ!
 オーム タット サット オーム!

 肉体、それがあろうとなかろうと、もう心に留めるな。
 その使命は果たされる。カルマは自然に尽きるままに。
 ある者はそれを花輪で飾り、他の者はそれを足蹴にする。この世間は無だと言おう。
 称賛も非難もない。そこでは、称賛する者・される者、非難する者・される者――皆一つなり。
 それゆえ、彼は平静なれ。勇敢なる出家修行者よ! 
 唱えよ!
 オーム タット サット オーム!

 真理を知れる者はほんのわずかだ。
 他の者は汝を憎むであろう。
 そして汝、偉大なる真理の具現者である汝をあざ笑う。
 だが、気にするな。
 行け! 汝、自由なる汝よ。
 そこかしこに趣いて、
 救え! マーヤーのヴェールに覆われし暗黒から、彼らを救え。
 苦痛の恐怖も、快楽への願いも、ともに超越して行こう。勇敢なる出家修行者よ! 
 唱えよ!
 オーム タット サット オーム!






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要約「デーヴィー・マーハートミャ」第三章 マヒシャ・アスラの討伐

2009-07-24 18:57:16 | 経典の言葉・聖者の言葉


第三章 マヒシャ・アスラの討伐

 
 聖仙メーダスは、さらにこう言った。

「アスラの軍勢が討たれていくのを見て、
 アスラ軍の将軍チクシュラは、怒り狂って、
 女神アンビカーと戦おうと、攻めよせた。

 チクシュラは、女神に矢の雨を降らせた。
 雨雲がメール山の峰に雨を降らせるように。

 しかし女神は、その矢の雨を楽々と切り落とし、
 自分の矢で、チクシュラの馬と御者を殺し、
 
 チクシュラの弓と、高々と掲げられた旗を切り、
 矢継ぎ早に、チクシュラの四肢を貫いた。

 弓を切られ、馬と御者を殺されたチクシュラは、戦車を捨て、
 剣と盾を持って、女神に突撃していった。

 鋭利な剣で女神のライオンの頭を打ち、
 すさまじい勢いで女神の左腕に打ち込んだ。
 
 しかし、剣が女神の腕に達したとたん、その剣は砕け散った。
 するとチクシュラは怒りに目を真っ赤にして、矛をつかんだ。

 そしてそれをバドラカーリー(=チャンディカー、アンビカー)に投げつけた。
 
 それを見た女神は、自分の矛を放った。
 女神の矛はチクシュラの矛を粉砕し、さらにはチクシュラの体をも粉々に粉砕した。

 勇猛なアスラの将軍チクシュラが殺されると、
 次にチャーマラというアスラが、象に乗って来襲した。

 彼は女神に槍を放ったが、アンビカーは素早くそれを
 「フム!」という雄たけびで打ち、
 槍は輝きを放って地に落ちた。

 怒りに燃えたチャーマラは矛を投げたが、
 女神はそれも矢で切断した。

 それから、女神のライオンが象の額に飛び乗り、
 女神とチャーマラは、素手で激しく取っ組みあった。

 両者は戦いながらその象から地に落ちたが、
 がっちり組み合ったまま、激しく殴り合った。

 すると女神のライオンは、勢いよく空に跳躍するや、
 前足の一撃で、チャーマラの頭をかち割った。

 戦いの中、女神は、ウダグラというアスラを石や木で打ち、
 カラーラというアスラを歯と拳と張り手で倒した。

 バーシュカラというアスラを投げ矢で、タームラとアンダカというアスラを矢の束で、
 さらに、三つの眼を持つ至高の自在者である女神は、
 ウグラースヤとウグラヴィーリヤとマハーハヌというアスラを、三叉戟で殺した。

 剣でビダーラというアスラの頭を切り落とし、
 ドゥルダラとドゥルムカというアスラを、矢で殺した。

 このように自軍が壊滅すると、マヒシャ・アスラは、
 水牛の姿になって、女神の軍の神々を脅かした。

 そしてマヒシャ・アスラは、次に女神の乗るライオンを殺そうと迫った。
 するとアンビカーは、怒りを発した。

 マヒシャ・アスラもまた、怒りに燃えて蹄で大地を砕き、
 角で山々を投げ飛ばし、咆哮をあげた。

 彼が勢いよく駆け回ったために、大地は粉々に砕かれ、
 海は彼の尾でたたかれて、至るところで氾濫した。

 雲は振り回す角で散り散りに裂かれ、
 山は彼の吐く息で飛ばされ、数百の破片となった。

 このようにマヒシャ・アスラが襲いかかってくるのを見て、
 チャンディカーは、彼を打ち倒すべく、怒りを発した。

 彼女はマヒシャ・アスラに羂索を投げ、マヒシャ・アスラを縛った。
 縛られると、マヒシャ・アスラは水牛の姿を捨て、
 たちまちライオンの姿になった。

 アンビカーがその頭を切り落とそうとすると、
 マヒシャ・アスラは、剣を持つ男の姿になった。
 
 すぐさま女神はその男を、
 矢で切断した。 
 
 すると彼は巨象となり、
 その鼻で女神のライオンを引きずり、吼えた。

 女神はその象の鼻を、剣で切断した。
 
 するとマヒシャ・アスラは再び水牛の姿をとり、
 再び世界を振動させた。

 世界の母チャンディカーは、怒りに燃え、目を真っ赤にし、
 最上の酒を飲んで、繰り返し大笑いをした。

 マヒシャ・アスラもまた、自分の力に酔って、意気高く咆哮し、
 その角で、チャンディカーに向かって、山々を投げ飛ばした。

 女神はその山々を、矢で粉々にしながら、
 酔いに顔を紅潮させながら、マヒシャ・アスラに向かってこう言った。

 『吼えろ、吼えろ、迷妄なる者よ。
 私が酒を飲むのは束の間だけ。
 ここで私がお前を殺すや、すぐに神々が吼えるだろう。』

 こう言うと、彼女は跳躍してマヒシャ・アスラの上に乗り、
 足で踏みつけ、彼の首を矛で打った。

 女神に足で踏みつけられて、マヒシャ・アスラは、
 その水牛の姿の口から、自分の本体を半分だけあらわしだしたところで、
 女神のあふれる精気によって、それを押しとどめられた。

 マヒシャ・アスラは、半分だけ本体を出したままで戦い続けたが、
 ついに女神に剣で頭を切り落とされた。

 そしてアスラの群はすべて泣きながら滅び去り、
 神の一族は残らず、この上ない喜びに沸いた。
 
 神々と天の大聖仙たちは皆、女神をたたえ、
 ガンダルヴァ(音楽神)の王たちは歌い、
 アプサラス(踊りの女神)の衆たちは舞い踊った。」

 

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