ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

ゴキブリ

2009-04-28 06:47:38 | 松川先生のお話
 ヨーガ・スートラの八段階ヨーガの第一は、非暴力である、ということは、少しヨーガを勉強した人なら誰もが知っていることでしょう。

 また、仏教の戒律の第一番目が不殺生である、ということもまたご存知の方は多いでしょう。

 このヨーガの非暴力も、仏教の不殺生も、同じアヒンサーという言葉で表されているものです。単に日本語に訳される段階で、それぞれ不殺生、非暴力という訳語が定着したのだと思いますが、要は、暴力、殺生はもとより、悪口や、心で憎しみを持ったり、陥れたりすることも含めて、他者を害することをやめるということです。


 ヨーガにしろ仏教にしろ、これが第一に来ているわけですが、最初はここで「ええっ?」とつまずく人が、日本人には多いようです。それにはさまざまなパターンがあるようですが。

 たとえば現代では多くの人が行なっている中絶も、自らの子供を殺生するわけですから大変な罪になります。ただし、よく言う水子霊とか水子供養などというのは何の意味もありません。そうではなくて、因果の問題、そしてもう一つは心の傷の問題ですね。だからその解決策は水子供養とかお祓いではなくて、慈愛の心の訓練や、懺悔など、カルマを浄化する修行に励まなければなりません。

 あるいは現代では、虫や小動物を殺すのはあまり悪いこととはされていないようですが、どんな小さな虫にも我々と同じ生命、魂があるわけですから、それらも悪業となり、修行の妨げとなります。いや、修行を志さなかったとしても、殺生のカルマは、自らの心を殺伐とさせ、体に苦痛を生じさせ、来世は地獄に落ちるとされています。
 
 昔、チベットを描いた映画で、チベットの建築風景で、土を掘り返して虫が出てくるとみんなそっと外に逃がしてあげるので、なかなか作業が進まない、というシーンがありましたが、チベットやインドのまじめな仏教徒やヒンドゥー教徒は今でもそんな感じみたいですね。
 私のヨーガ教室でも、ヨーガのスタートの一つとして日々の生活における不殺生を勧めているわけですが、今まで不必要に行なっていた殺生に関しては、多くの人がやめられるようです。まあ、虫などが怖かったとしても、殺すまでもなく逃がしてやればいいわけですからね。また、できればそういう虫などに対しても、慈愛を持って接する訓練が必要です。

 多くの人はそのようになるのですが、それでも多くの人、特に女性が、なかなか超えられない一線があるようです。

 それは「ゴキブリ」です(笑)。

 いろんな虫や動物に対しても親愛を持って接せられるようになったけど、ゴキブリだけはどうしてもだめだというわけです(笑)。

 不思議なもんですね(笑)。なぜゴキブリはそこまで嫌われるのでしょうか(笑)。
 まあ、あともう一つあげるとすれば蜘蛛なんかもそうですね。蛇とかもそうかもしれません。

 ゴキブリに関して考察すると、一つはあのすばやさがだめなんでしょうね(笑)。たとえばカブトムシなんかは人気がありますが、カブトムシがもしゴキブリみたいにすばやかったらやっぱり気持ち悪いでしょう(笑)。あとはあの油っぽさですかね。

 まあとにかく、ゴキブリや蜘蛛は、多くの人が、見ただけで嫌悪感を抱きます。それはゴキブリや蜘蛛自体に、嫌悪されるカルマがあるからであるといえます。それは正しいでしょう。
 しかしですよ、その嫌悪されるカルマがあるゴキブリや蜘蛛に対して、嫌悪する人はどうなるのでしょうか? 来世、今度はその人がゴキブリとなり、嫌悪されるかもしれません(笑)。
 だからこのカルマの輪をどこかで断ち切らなければいけませんね。嫌悪されるゴキブリ。嫌悪する自分。どちらも嫌悪のカルマの輪の中にいるわけです。嫌悪の縁があるわけです。断ち切らなければなりません。もしそれをゴキブリの側に期待できないなら、自分がやるしかないでしょう(笑)。自然に嫌悪がでてしまう。その「自然」に逆らって、愛を発するのです。もし自分がそこで嫌悪でなく愛を発するなら、その嫌悪の輪に化学変化が生じ、ゴキブリも救われる可能性が出てくるかもしれません。


 ところで私は、今はヨーガ教室をやっているのできれいにしていますが、昔は非常に汚い部屋に住んでいました。だからゴキブリもいっぱいいて、食事中など、おかずにゴキブリがよくたかってきていました。たまに友人が来たときなど、友人との間でこんな会話がよく交わされました。

友人:皿の上にゴキブリがいるよ。
私:そうだね。
友人:そうだねじゃないよ。汚いから早く追っ払えよ。
私:ゴキブリの食事を邪魔するのはかわいそうだろ。そっとしといてやりな。
友人:それもそうだな。

 
 まあしかし現実的には、ゴキブリがいたら近所づきあいなども大変でしょうし、病気のおそれもありますから、そもそもゴキブリが出ないように普段から清潔にしているのが一番いいんでしょうけどね(笑)。
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経典朗読のコーナーに新しい経典をアップしました。

2009-04-27 20:05:38 | お知らせ
「ヨーガの世界」の経典朗読のコーナーに新しい経典をアップしました。
http://www.yoga-kailas.com/yoga1.html#5


「安らぎを見つけるための三部作」パート1 第一章 稀有なチャンス、そして真理との出会い
http://www.yoga-kailas.com/audio/long_part1_1.mp3

「心を訓練するための八つの詩」
http://www.yoga-kailas.com/audio/8kokoronokunren.mp3
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◎堕落の時代

2009-04-27 06:17:39 | 解説・心の訓練

◎堕落の時代

 はい、そして、「五つの堕落があふれるこの時代、この時にこそ、逆境を悟りへの道に変容させよ」と。

 はい、これは仏教でもヒンドゥー教も――というよりヒンドゥー教が最初だけども、現代はカーリー・ユガっていわれる。これはいろんな計算方法があって、現代はカーリー・ユガじゃないっていう人もいるんだけど――ユクテスワとかは「現代はカーリー・ユガではない」って言ってるけど、一般的には現代はカーリー・ユガっていわれる場合が多い。まあ、現代がカーリー・ユガにあたるかどうかは別にして、ひどい時代であることには間違いない(笑)。つまり人間界っていうか、この地球だけじゃなくてね、この人間が住む世界が四つのユガ――ユガっていうのはつまり巨大な時間の移り変わりを繰り返すっていわれてる。

 で、一番良い時代っていうのはサティヤ・ユガ――つまり真理の時代っていう時代っていう時代があるんだね。その時代っていうのは、もうみんな普通に修行とか、あるいは慈悲とか、あるいは神のことだけを思って生きるとか、そういうことが普通に行なわれてる時代。

 仏教ではこの最高の時代、人間の寿命は八万歳になるっていわれてる。で、仏教のその時代の描写とか見るとおもしろくてね――これも前に何かに書いたけども――みんな悪業を犯してない。っていうよりも悪業を知らないんだね。悪業の存在さえ知らない。例えば嘘をつくっていうのも知らない。「嘘ってなんですか?」と(笑)。「真実じゃないことを言うことだよ」と。「ああ、それが嘘なんだ」と(笑)。つまりそういう悪業っていう発想すらない時代があるんだね。で、この時代っていうのは、人間の中でも徳の高い者はみんな空に浮いてるっていうんだね(笑)。で、神々と非常に近い。つまり一応人間なんだけど、人間のマックス状態だから、神の一番下の存在と非常に近くなってるんだね。だから普通にその辺に神が現われてる時代。人間と神の差があまりなくなってる時代があるんだね。

 で、これがマックスで、そこからグーッと人間が落ちて行って、最悪の時代がある――これがカーリー・ユガですね。で、この最高に素晴らしい神に近い時代と、最悪の時代を行ったり来たりしてるっていわれる。ものすごい長い時間をかけてね。この落下と上昇を人間界は繰り返してるっていわれてる。もちろん落下しきるとそこからまた上昇に向かうんだけど。

 だからいろんな考えがあるけど、今はこのかなり落下してる、もしくは落下しきる直前くらいの時代ともいわれている。


◎お釈迦様の予言

 お釈迦様はね、面白いことに、予言的な話なんだけど、人間の寿命が、さっき言ったように、最高の時代っていうのが八万歳なんだけど、最悪の時代になると人間の寿命が十歳になるんだっていってる。十歳になって、そこで――これはまさにお釈迦様の予言なんだけど――そこで人々は殺し合うって書いてある。お互いに武器を持って殺し合うと。で、それが七日間続くと。で、それが終わった後に、人々が改心してちょっと心を入れ替えて、ちょっとずつ善をなすようになり、そしてだんだんだんだんまた徳が増していって、またものすごい時間の後にその最高の状態に戻る、というふうにお釈迦様の原始仏典に載っている。

 で、これ前にも言ったんだけど、人間の寿命が十歳になったとき――平均寿命がね――そのときが人間の最堕落の時期だっていわれてるんだけど、これは仏教における生命っていうのを考えるとね、現代の寿命は延びてるから、七十とか八十とかじゃないかっていうかもしれないけど、仏教における人生のスタートは受精なんです。つまり受精の瞬間、魂がそこに入りこむといわれてる。つまり生まれる前から、お腹に宿ったときからもう寿命が始まってるんだね。――ということは今、日本及び先進国で行なわれている堕胎。これも計算に入れなきゃいけない。それからアジア、アフリカで恵まれない子供たちが死んでいくと。もちろんこれも計算に入れなきゃいけない。それは生まれる前に死ぬかもしれないし、生まれてすぐ死ぬかもしれない。こういうのを全部計算に入れると――まあもちろんこれは正確には分からないけど、曖昧な試算でいうと、だいたい十歳から二十歳になるらしいんだね。人間の寿命がね。だからそういう意味でいったらかなり底まできてる。われわれの落下っていうのはね。それだけ今ひどい時代なんだと。



◎五つの堕落

 はい、そして、「五つの堕落が溢れるこの時代」っていわれている、この五つの堕落っていうのはいろんな説があるけど、一応一つの説をいうと、まず第一は「寿命の堕落」――これはさっき言ったように、寿命が非常に短くなります。人間の寿命のマックスは八万歳なんだけど、現代は長く生きても百年生きられない。あるいはさっき言ったように、堕胎とか小さいころに死んじゃう人も多い。これが第一の堕落ですね。

 はい、二番目は、今度は精神的な問題になるけど、「非常に煩悩が多い」。ね。これはつまりさっき言ったように、悪業をなすことがほとんどない時代ってあったわけだけど、今はもう煩悩だらけで、もう悪業なしまくりだと。この煩悩が多いっていうのが、二番目の堕落のポイントだね。

 はい、三番目は「エゴが強い」。つまり言い換えると、自我が非常に強くなってる時代だと。つまり言い換えると、自分と他人の区別が非常に強くなってる。これもこの現代のカーリー・ユガの特徴だね。つまり人間が神に近い時代っていうのは、もう自分と他人があまり区別がない。まるで自分のことのようにみんなの幸せを願ってる時代っていうのがあったわけだけど、どんどん個人主義化していって、自分さえよければいいという時代になっていく。

 はい、そして四番目が「見解の堕落」。見解ね。つまり考え方、物の見方。あるいは何が正しいんだろうかとか。これがもう非常に堕落する。つまり真理とは全く関係ないものが真理として崇められ、邪悪なものが真理として崇められ、あるいは例えば低い霊的なものが高い霊的なものとして勘違いして崇められ――そういう悲惨な時代になっていくんだね。あるいは例えば唯物論的になったり、カルマの法則が無視されたり、そういった悪しき見解の時代になっていきますよと。

 はい、そして最後第五番目が、「世界そのものの堕落」。世界そのものっていうのは、つまりもうこの人間界自体が人間界じゃなくなってくる。非常に魔的なものも増えるし――この間も言ったけども、この時代になってくると神がね――ここでいう神っていうのは――神って二つあります。大雑把にいうと。一つは例えばクリシュナとかシヴァという、いわゆる絶対神。つまりすべてに遍在している、唯一の実在そのもの――仏教でいう如来といってもいいんだけど――完全なる真理そのものを神といってる場合。で、もう一つのパターンは、そうじゃない、高い生き物っていう意味での神です。つまりまだ完全に解脱してるわけじゃないんだけど、われわれよりも高い世界に住んでる生き物っていう意味での神だね。で、この後者の意味での神っていうのは、もともとはわれわれを守護してくれている。つまり人間界を守護してくれてるんだけど、このカーリー・ユガの悪しき時代になると、愛想つかしてどっかに行っちゃうっていうんだね(笑)。で、逆に魔的な存在が喜んで人間界に来て、はびこるっていわれている。

 つまりあまりにも人間が堕落するんで――人間と神の関係って、人間と動物みたいなもので、人間が動物を可愛がるようなもんです。つまり人間っていうのは動物よりも智慧がある。智慧があるから、例えば動物が怪我してたら、手術をしたり治してあげたりする。あるいは、動物には理解できないようなことをいろいろやってあげて、動物が幸せであるようにって、例えばペットとかね、やってあげる――まあ、中にはやりすぎな人もいるけどね。ペットに服着せたりとか(笑)。それがいいかどうかは別にして(笑)、とにかく動物には理解できないような人間の価値観でいろんなことをやってあげる。

 同様に神もいろいろやってくれてるんだと。それは人間には理解できない。何でわたしの人生にこういうことが起きるのか全く理解できないんだけど、神の価値基準で――つまりわれわれよりも高い価値基準でわれわれにいろいろやってくれてる神がいる。これはもう一回言うけども、それは絶対神じゃありません。われわれよりちょっと高い段階の神だね。

 でもちょうど、たとえば動物があまりにも凶暴になり、あるいはあまりにも主人への忠誠心を失くし、あるいはいろんな悪い習性を見せ始めたときに、人間がその動物を嫌いになってもう面倒見なくなるのと同じように、人間があまりにも神から外れだすと、神は「もういいや」って感じで(笑)――つまりここでいう神は、何度も言うけど、まだ低い神だから――低いっていうか、われわれよりは高いけど絶対神ではないから、「もうちょっと面倒見てられない」って感じになっちゃうんだね。で、逆にそのような邪悪な人間を好むのが魔的な存在なんだね。魔的な存在からしたら、「おお、お前らいいやつじゃないか」と(笑)。「お前ら怒りに満ちてるなあ! それでいいんだ!」って感じで(笑)、ワーッて魔的な存在が来て人間界にはびこるっていうんだね(笑)。

 だから非常に現代っていうのは修行しづらい。それはエネルギー的にもそうだし、あるいは現象的にもね、われわれのいろんな人生のいろんなことが、われわれの煩悩を増すように増すように、怒りが増すように増すように、執着が増すように増すように動き出すんだね。これは完全に、神に守られてるんじゃなくて魔に魅入られてる世界ってことですね。これもカーリー・ユガの一つの特徴。

 で、もちろんそれだけじゃなくて現実的にも不幸なことがいっぱい起きるようになります。

 このカーリー・ユガとかいう話っていうのは、ものすごい――例えば何千年、何万年、あるいは何十万年単位の話なんだけど、そこまでいかなくても小さなタイムスパンでもね、どんどんやっぱりちょっと世界っておかしくなってるよね。いろんな凶悪事件とかもそうだけど。わたしが子供のころっていうのはやっぱりあんまり――みんなもそうだろうけど――邪悪な事件ってなかった。それどころか――いつも言うけどさ、わたし田舎だったからだけど、わたしいつもお父さんとお母さんが共働きだったから昼間はおばあちゃんの家に預けられてたんだけど、うちのおばあちゃんの友達の八百屋のおばあちゃんっていうのがいて(笑)、いつもうちのおばあちゃんのところに来て一緒に漬物食べたりして、帰ってくいんだけど。うちのおばあちゃんの家って結構金持ちの家だったんだけど、玄関閉めないんです、鍵とか。で、わたしがあるとき学校から帰ってきたら、玄関開けっ放しになってて誰もいないんだけど、八百屋のおばあちゃんが中で漬物食ってた(笑)。勝手に入って漬物食ってる(笑)。「今ばあちゃんいないんだよ」とか言って、食べ終わって帰ってった(笑)。だから普通に何かそれで成り立ってるっていうか、別にだからそこで――もちろん田舎だったっていうのはあるけども、盗まれるとか、そういう発想さえまだあまりないようなね――もちろんそれでも気をつけた方が良かったんだろうとは思うけど、あまりそういう発想しなくてもいいような時代だった。
 
 で、アメリカとかのいろんな凶悪なニュースとかが入ってくると、「やっぱアメリカは怖いね」と。「わけわかんない事件ばっかりあるね」と。それが十年前くらいとかからポツポツと日本でも変な事件が現われ始めた。で、そういうのをさ、みんなもそうだろうけど、一個二個聞いたときって――ちょっとわたしもあんまり覚えてないけど、何か猟奇的殺人が十年ぐらい前から増えだしたよね? それ一個二個聞いたときっていうのは、すごい衝撃があった。「え! 日本でもそういうこと起きるの?」みたいな。例えば首だけを切って置いておく事件とか、何かいろいろあったよね。そういうの一個二個聞いたときは、「こんな邪悪なことが日本でも起きるようになってしまった!」と思ったけど、次の年、あるいは二年目、三年目と、年間いくつもそういうのが起きる。どんどんどんどんそういうのが増していく。つまりここ十年とか二十年だけを見ても、ちょっと日本、あるいは世界全体がおかしくなってきている。これはまあ、われわれの人生の中だけでも理解できるかもしれない。
 
 こういう感じで現象だけを見てもね、非常に苦悩が多い、いろんな悪いことが起きるような時代になっていく――こういうことも言えるね。これがだから五つ目の堕落だね。


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ヴァジュラ

2009-04-26 05:11:35 | 解説・心の訓練

◎ヴァジュラ

 はい、そして次が、

「ヴァジュラ、太陽の光、そして薬樹のようなこの教えの意義を理解すべきである」。

 この心の訓練の教えの素晴らしさをヴァジュラ、太陽の光、薬樹と例えてるわけですね。

 ヴァジュラっていうのは、まあよく仏教で使われる言葉ですが、実際は多様な意味があるんだね。サンスクリット語っておもしろいのは、一つの単語で多様な意味を持ってる。ヴァジュラっていうのはもともとは、インドの古代の武器だったといわれています。で、これはインドラ神――つまり帝釈天ですね――天界のインドラ神の武器だともいわれています。巨大なヴァジュラをインドラ神は振り回して、で、そこから雷のビームを放つらしいです(笑)。これがインドラの武器。

 で、ヴァジュラっていった場合、インドラの武器にも形容される雷。雷のこともヴァジュラっていうんですね。それからもちろんこの法具自体もヴァジュラっていいますが、この法具には「決して壊れない」っていう象徴があるんです。決して壊れないもの。で、そこから転じて、いわゆるダイヤモンド。宝石のダイヤモンドのこともヴァジュラっていいます。

 まあ、だからそれらの意味がある。つまりまずダイヤモンドっていう意味でいったら、決して壊れないダイヤモンド――つまり決してどんな魔的なものにも、あるいはどんな論理にも決して壊されない最強の教え。これが、菩提心からなる心の訓練の教えなんだと。

 それからもう一つの意味としては、ダイヤモンドというのは、一般的な価値観としては最高の宝石だと。最高に硬く、そして最高に輝きを放つ、最高に価値のある宝石であると。で、仮にダイヤモンドのかけらしかなかったとしても、他の宝石にもその価値は勝ると。

 これは一つのイメージとしてね、考えてみてください。ダイヤモンドがありますと。ダイヤモンドがかけてしまって、かけらしかありませんと。でもその他のどうでもいい石とか、あるいはもう少し価値のある貴石とか宝石とかと比べても、それらがもうちょっと大きかったとしても、かけらでもダイヤモンドの方が素晴らしいと。これは一つの例え話としてね。

 で、これと全く同じで、この菩提心からなる心の訓練の教えっていうのは、例えかけらしかなくても、他の教えよりも素晴らしいんだと。

 つまりどういうことかというと、例えばみなさんが、菩提心――何度も言うけども、菩提心が背景にあるっていうのがもちろんポイントだよ。菩提心を背景として、自分の心を変革していくような教え。この教えにみなさんが出合って、それに足を踏み入れたなら――いいですか? しかしまだ――例えばTさんが、菩提心の教えに出合いましたと。ハッとして、「そうか。わたしは菩提心によって、自分を少しずつ変えていこう」と。しかしまだあまり変えられていない(笑)。ちょっとずつ変わってるんだけど、まだいろんなエゴが出てくる。この状況の人と、そうじゃなくて、「菩提心なんて関係ありません」と。「わたしはただエネルギー的に自分がエネルギーが突き抜けて、あるいは自分の心が静まってニルヴァーナに入れればいいんです」と。あるいは、「菩提心なんて関係ありません。ただわたしは戒律を守って、心が静まればそれでわたしは満足です。菩提心とかそんなのはわたしはよく分かりません」っていう人がいたとして、この人がとても修行が進んで、非常に心が静まっている。あるいはもっといえば解脱している。解脱して心は静まっている。でも菩提心がない。これよりも、全然初心者なんだけど、菩提心をちょっとずつやっているTさんの方が価値があると(笑)――いうことなんだね(笑)。

 これは人と比べてもしょうがないんだけど、自分の中でも考えたらいいかもしれない。自分が仮に菩提心に出合わなくて、単純に自分の心を静める教えとか、単純に表面的な論理を展開するような教えに出合って、それをかなり身につけたとしても、それよりも、まだちょっとしかできてないんだけど、菩提心の道を歩んでる方が価値があるっていう考えなんだね。

 で、それもヴァジュラ――つまりダイアモンドという意味で説かれてます。



◎雷

 あともう一つ、ヴァジュラのさっき言ったもう一つのイメージは、雷ね。この雷っていうのも、『入菩提行論』にも雷の例えが出てきますが、暗黒の夜に一瞬雷がピカッと光って、一瞬すべてを照らし出す。で、菩提心の教えにわれわれが巡り合えたこと。これはまさにこの一瞬の雷みたいなものなんだね。

 前も言ったけど、わたし初めてラーマクリシュナの僧院を訪ねたときに、とても感動的だったんだけど、ラーマクリシュナが崇拝したカーリーのその像を見ようと思って――まあちょっと人がいっぱいいてね、混んでたんだけど――「何かよく見えないな」って思って――まあとてもドラマティックなんだけど――やっと見えたんだね。で、その見えるときにフッとそのカーリーの顔が視界に入ったときに、その瞬間雷がパッてなったんです。で、まさにちょっとアニメーションみたいだけど(笑)、パッて光でカーリーの顔がパッて見えたんだね。「おー! すげー!」って思って(笑)――……まあそんな感じ(笑)。つまり、暗闇の中でわれわれがこう迷ってる者に、真理の光が一瞬、パッて来るんです。

 でも逆にいうとそれは、ものすごい稀なチャンスなんだね。つまり、みなさんが今日みたいに勉強会とか、あるいは本を読んだりして、菩提心の教えに出合えることっていうのは、そんなにみなさんすごいことだと考えてないかもしれないけど、みなさんの魂の遍歴の中で、ものすごいことなんだね(笑)。一瞬まさに雷によってすべてが照らし出されたようなものなんです。だからこのチャンスをつかまなきゃいけないんだね。

 「ああ、そうなんだあ。そういう教えもあるんだ……」って言ってるうちに、われわれと菩提心の縁がなくなってしまう場合もある。だから、「この菩提心の教えこそ最高である」と。「みなさんこれを実践しましょう!」っていうその縁に巡り合えたときっていうのを逃さずに、それを自分の生涯の実践項目とするために、しっかりとそれをつかまなきゃいけない。こういうイメージもあるね。



◎太陽の光、薬樹

 はい、そして、「太陽の光」。太陽の光っていうのもよく使われるイメージですが、つまりすべてを照らし出す。つまりわれわれの住んでる世界の――特に昔の時代とかそうだけど――われわれの世界の光としては最強の光なわけだね。最強の光。つまりろうそくとか――昔のイメージだとね――ろうそくとかあるいはランプの光では照らし出せないような闇でも、太陽は一瞬にしてすべてを照らし出す。それがこの教えなんだよと。

 そして「薬樹」。薬樹っていうのはわれわれの病気を治す効能のある樹っていうことだね。教えは病気を治す薬に例えられるけど――そういうイメージですね。つまりこのイメージっていうのは、師匠はお医者さんだと。教えは――特にこの菩提心の教えっていうのが、その薬であると。で、自分は病人だと。そういうイメージだね。

 だから病人であるからにはまず医者の言うことを聞いて、そして実際に薬を飲まなければいけない。つまり薬の効能を知っていてもしょうがないんです。つまり「おれは病気になった」と。で、その薬をもらってその薬について調べる。徹底的に薬について調べて――例えばインターネットとか、あるいは辞典とか持ってきて、その薬についてはあらゆることを知りつくしたと。でも飲まなきゃしょうがない(笑)。だから「飲め」ってことなんだね。

 つまりわれわれが「菩提心というのはこうである」とか、「修行とはこうである」「仏教とはこうである」っていくら知っていても、実践しなければ何の価値もない。その実践するイコール薬を飲むっていう比喩なんだね。

 で、医者イコール師匠。つまり師匠のいうことを忠実に聞いて、その背景には自分は病人だっていう認識がなきゃいけない。つまり自分がまともな人間であるともし考えてる人がいるとしたら、それ自体がもうちょっと狂ってる(笑)。つまり、自分はちょっとおかしいと。おかしいっていうのは、魂の状態としておかしいと。そういう認識が必要なんだね。つまり、完全におれは病気だと。その人がいかに一般社会でまともに見られていたとしても、魂の状態としては病気なんだと。このエゴとか怒りとか執着とかある時点でもう病気だと(笑)。ね。本来のわれわれの魂の状態っていうのは、純粋な至福。純粋な愛。そして純粋な、何にもとらわれない、ありのままにものを見つめる力。こういったものに満ち溢れているはずだと。それが、「おれは朝から晩まで明日のことを心配し、昨日のことを後悔し、目の前のことに不満ばかり言い、こんな人生を送ってる」と。「おれはおかしい」と(笑)。「何かがおかしい」と(笑)。「こんなはずではない」と――よってそれを認識し、それを治してもらうために、師匠、あるいはその聖なる存在に対して自分を投げだすわけだね。「どうか治してください」と。で、その聖なる存在や師匠が与えてくれた教え――これを薬と考えて実践する、イコール薬を飲むっていうイメージだね。
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死後の世界の渡り方

2009-04-25 06:12:34 | 松川先生のお話



 生きているうちに完全な解脱を達成できれば申し分ない。
 その場合、以下のいずれかの道をとることになる。
 ①輪廻から脱出し、もう生まれ変わらない
 ②他の魂の救済や、自己の更なる修行のために、意図的にさらなる輪廻を繰り返す。

 さて、そこまで行けなかった場合、我々はサンスクリット語でアンタラーバヴァ、チベットでバルドと呼ばれる死後の空間に放り込まれ、そのカルマに応じてさまざまな経験をした後、それぞれのカルマにあった世界に生まれ変わることになる。

 このバルドの内容については、いくつかの翻訳が出ている「チベット死者の書」を読んでほしい。そこに書かれている内容がどの程度真実なのかを知りたい人は、修行し、瞑想し、確かめてほしい。

 さて、このバルドというのは、通常は睡眠に似ている。あるいはドラッグ体験にも似ている。深い潜在意識化において、わけもわからぬまま、その潜在意識の良いあるいは悪い心のエネルギーやイメージに振り回される。

 このバルドをうまく超えわたり、良い転生、あるいはあわよくば解脱を果たすには、何が必要なのだろうか?

 考えられるものを、ざっとあげてみよう。

①徳
②心とナーディの浄化
③上昇のエネルギー
④帰依
⑤慈悲
⑥正しい知識
⑦良いイメージ
⑧意識の鮮明さ
⑨強い意志力・集中力
⑩深い瞑想経験
⑪智慧

 これら一つ一つについて詳細に説明していたら膨大になってしまうので、簡単に解説してみましょう。

①徳
②心とナーディの浄化

 この辺は正確に言うと、悪しきカルマを浄化し、徹底的に功徳を積み、心を浄化する。それらが達成されれば、その人はバルドのことをよく知らなくても、自然に高い世界に生まれ変わるでしょう。
 しかしそれには相当自己に厳しく、悪業浄化と善業増大に日々励まなければなりません。現代の生活や観念は、普通に生きているだけでカルマを汚す要因が多いからです。
 ナーディとは、私たちの身体にある、気の通り道です。心の浄化とナーディの浄化というのはほぼイコールといえるのですが、方法論として、ヨーガや密教では、ナーディのほうから物理的に浄化していくやり方をとります。
 

③上昇のエネルギー
 
 人間のエネルギー、これはヨーガではプラーナとかヴァーユといいますが、我々の身体活動も、心の状態も、このプラーナに支配されています。そしてプラーナにはさまざまな種類があるのですが、現代人は特に、下に下がるプラーナの働きが非常に強い状態にあります。そして死後もこのプラーナの傾向は持続され、意識はこのプラーナの流れに乗って、転生すると言われています。単純に言って、プラーナが下に下がっている人は、意識も引き下げられ、低い世界に生まれ変わります。プラーナが上に引き上げられている人は、意識も引き上げられ、高い世界へ生まれ変わります。ですから生前にいかに上昇のエネルギーを保つか、それが重要になります。
 ヨーガ修行や瞑想とともに心の浄化、あるいは真理や神や仏陀への希求心。これらが私たちのプラーナを上に向かわせます。その現象として、いつも飛んでいるような感覚がしたり、上に頭が引っ張られているような感覚とか、いろいろな現象が実際に生前から現われなくてはなりません。

④帰依

 上にも書きましたが、神、仏陀、あるいは真理そのものといった高い世界の存在に対して心を合わせる。あるいは自己をゆだねる。このような強い意識が、バルドにおいて我々を良い状態にいざなってくれます。
 たとえば日本では南無阿弥陀仏の浄土真宗系が最も信者が多いといわれますが、南無阿弥陀仏というのは、阿弥陀仏、すなわち蓮華部に属する智慧と慈悲の如来であるアミターバ如来に帰依いたします、という意味です。その意味をしっかり理解した上で、南無阿弥陀仏、まあ正確にはナマ・アミターバとかナモー・アミターバとかいうマントラを唱えるならば・・・アミターバの西方の極楽浄土に生まれ変わる、と言われるわけですが、これは理論上は可能です。
 なぜでしょうか? それはもしそのマントラによって、心がアミターバでいっぱいになり、アミターバのことしか考えられない、あるいはアミターバがあらわす慈悲や智慧のことしか心に浮かばない、そのような状態になったなら、バルドにおいてもアミターバが現われ、皆さんを救済してくれるでしょう。
 しかしこれも理論的には可能だが、実際は非常に難しいということにはお気づきでしょう。毎日悪業をなし、良くない思いを抱き、そして一日に数回、あるいは数百回、アミターバに帰依します、と唱えたとしても、それで心がアミターバでいっぱいになるわけはありません。
 だからこの帰依の道、すなわちバクティ・ヨーガ系の道をたどる人は、その帰依の対象に一心に心をゆだね、それ以外のことは心に全く浮かばないくらい、放棄する覚悟が必要です。
 それにより本当にそのような高い世界の存在と絆が強く生じたとき、我々はこの帰依の道に成功するでしょう。しかし私が思うには、たとえばアミターバへの帰依が成功しても、極楽浄土にその人が行くとは思いません。その場合、アミターバの慈悲によって、その人にとって最も修行が進む世界に送り込まれるのではないかと思います。
 ところで、帰依の対象はもちろん間違わないようにしなければなりません。といっても、阿弥陀如来より大日如来のほうがいいとか、そういうことを言っているわけではありません。仏教のそういう如来や菩薩とか、ヒンドゥー教のシヴァなどの最高神とか、これらは皆、解脱や慈悲を説く、同じ属性の神であると思います。しかしそうではなくて現世利益を説く低級の神や悪魔、あるいは金儲けや現世利益に奔走する宗教の教祖などに帰依をした場合、自分もその同じ世界に引っ張り込まれてしまいます。
 だからこの道は、帰依をする前にしっかりと帰依の対象を吟味すべきだといわれるのです。しかし一度帰依をしたなら、自分の観念は捨ててひたすら自己をゆだねることも、また重要なのです。


⑤慈悲

 この慈悲をあげたのは、私の瞑想経験に基づいています。
 端的に言うと、エゴが強いと低い世界に生まれ変わります。
 慈悲や四無量心が強いと、高い世界に生まれ変わります。
 もっと正確に言うと、慈悲の心が強いと、死後、光と至福のバルドが現われ、そのままそのような世界に引っ張り込まれるのです。




⑥正しい知識
⑦良いイメージ
⑧意識の鮮明さ

 悟りというのは知識ではありません。しかし生前に悟れなかった場合、この知識が重要になってきます。
 といっても、その知識は深く心に浸透されていなくてはなりません。
 どういうことでしょうか? たとえば「慈悲はすばらしい」という知識があったとします。これはこれを知っているだけでは、全く意味がありません。この意味を本当に悟ったなら、この人は何もしないでも救われます。しかし悟っていなくても、このことを日々考え、あるいはそのようなことを書いてある経典をひたすら読んだり瞑想したりした場合、この考えは、悟ってはいないんだけど、その人の心に浸透します。
 たとえば恋愛のドラマばかり見ている場合、そのような印象、そのような考え方や生き方がいいんだという情報が心に根付いていきますね。それと同様に、真理の正しい考え方を、悟ってはいないんだけど、こころに根付かせることが重要なのです。あるいはイメージもそうです。我々は日々、変なイメージをしたり、あるいはどうでもいいテレビや映画や本などでイメージを汚しているわけですが、密教的な瞑想などで徹底的に神や慈悲や光のイメージを心に根付かせるのが重要です。
 それらに成功したらどうなるでしょうか? まず夢が変わりますね。夢見が悪い人が、死後のバルドで良い経験をすることはありえません。夢もまたバルドですから。夢においても、起きているときも、自然に良い思考やイメージが出てくるようになったとき、死後のバルドでもそれが出てくる確率は大きいでしょう。 
 さて、意識の鮮明さとはなんでしょうか? たとえば夢も見ない人、これは簡単に言えば意識が相当不鮮明であり、ヨーガ的に言えばタマスという闇のエネルギーが強い状態です。あるいは瞑想するとすぐ寝てしまうとかボーッとする人もそうですね。
 覚醒時も瞑想時も睡眠時も鮮明な意識が保てるようになると、死後も比較的鮮明な状態になります。そうなると、生前の知識が出てきやすくなるのです。
 たとえば地獄のカルマが強い場合、死後、憎しみの対象のイメージが現われ、それに強い怒りを抱くことで、地獄に引き込まれるといわれます。しかしまだ憎しみのカルマはあるんだけど、死後、そのようなヴィジョンが現われたときに、意識が鮮明だと、「慈悲の重要性」「憎しみは地獄へ導く」という知識がよみがえり、そこで「ああ、憎しみはいけないぞ。彼らを愛そう」というふうに思えるかもしれません。しかし意識が不鮮明だと、死後のバルドでそんなことを考えるのは不可能で、夢を見ない人と同じように、ボーッとしてわけのわからないまあ、気づいたときには地獄に引きずりこまれている、ということがおきます。
 気づいた人はいると思いますが、結局このバルドとそこからの生まれ変わりというのは、心理的プロセスなのです。いや、我々が現実と思っているこの今生の人生も、心理的プロセスに過ぎません。しかしこの一生、誕生から死といわれる瞬間までの一生は、ある意味ある程度動きの少ない、固定的な心理プロセスといえるでしょう。だから70年くらいの長い夢を見続けるわけですが、死というのはその夢からいったん解き放たれ、次の夢に移行する心理プロセスに過ぎません。もしここで夢から目覚めることができれば、それが解脱です。しかしそれは難しいので、少なくとも良い心理プロセスによって良い夢の世界に移行すること、これが良い転生を目指すということなのです。
 さて、話を戻しますが、意識が不鮮明だとしても、良い知識やイメージが深く心に根付いていれば、自然に良い夢を見るのと同じように、自然に良いバルドの状態になり、良い転生をする可能性が増します。
 逆に良い知識やイメージの根付き方が弱い場合も、もし意識が鮮明であれば、それらの知識を思い出し、死後に使うことができます。これは夢を操作できる人に似ています。悪い夢を見たんだけど、意識が鮮明なので「これは夢だ」と気づけた場合、その悪い夢を意識的に良い夢に変化させるようなものです。「夢のヨーガ」の修行では、実際にこういうことを行ないます。
 もちろん、良い知識やイメージが深く根付き、かつ意識も鮮明であるというのが、一番良い状態です。



⑨強い意志力・集中力

 ヨーガのポイント、特に古典と呼ばれるヨーガ・スートラの主軸であるラージャ・ヨーガのポイントは、強い集中力であり、それは言い換えれば強い意志の力です。
 これも端的に書きましょう。いかにカルマが悪くて心が流されそうになっても、強い集中力・意志力があれば、少なくともそのような悪い世界に流されるのを避けることはできるのです。
 これはちょうど、ものすごい急流の河--ちょっとでも気を抜けば流されてしまう河の中で、強い意志力で向こう岸まで泳ぎきるようなものです。
 なぜならすべての悪しきイメージも良いイメージも、集中力の欠如から起こるからです。もし我々に真の集中力があれば、そこには真理の世界しか見えないのです。
 これについては深い話になるので、これくらいにしておきましょう(笑)。



⑩深い瞑想経験

 瞑想ごっこではなく、本当の意味で深い瞑想に入った場合、それは死後の世界とも非常に似ています。あるいは、死後の世界そのものを意識的にあるいは無意識的に経験する瞑想もあります。
 そのような経験は、死後への予行演習となります。つまり何度も来た道を、また死後もたどることになるわけですから、慣れているわけですね。
 たとえば初めてインドに行った人は、悪徳旅行会社にだまされたり、偽のシルクを買わされたり、土産物屋でぼったくられたり、いろいろするかもしれません(笑)。しかし何度もインドに行ってそれらになれ、彼らのやりかたがよくわかっていれば、次に行ったときもそういう目にあうことはないでしょう。
 同様に、生前に深い瞑想を繰り返すことで、死後の世界というのもその人にとってはなじみのないものではなくなり、うまくわたりやすくなるというわけです。


⑪智慧

 単なる知識ではなく深い智慧が心に生じた場合、もちろん完全な智慧が生じていれば、その人は輪廻から解放されるでしょうし、死後のバルドさえ経験する必要はありません。しかし完全ではなくても段階的な智慧が心に生じているならば、当然、それらも死後に心にあらわれ、私たちを正しい道へと導くのは間違いないでしょう。



 さあ、どうでしょうか? これらをすべて得られれば申し分ありませんが、一つでも二つでも達成されるならば、その人の転生はうまく行く可能性が高くなります。ですからもう一度書きますと、

①徳
②心とナーディの浄化
③上昇のエネルギー
④帰依
⑤慈悲
⑥正しい知識
⑦良いイメージ
⑧意識の鮮明さ
⑨強い意志力・集中力
⑩深い瞑想経験
⑪智慧

 これらの項目を生前にできるだけ確定させるように努力すべきですね。素質と努力と良い師匠などの条件が整えば、これらによって生前に解脱・悟りを得ることも可能でしょう。解脱・悟りを得られなかったとしても、これらの確定度合いによって、良い条件で死後の転生をすることができることでしょう。


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◎特別な師

2009-04-24 17:54:21 | 解説・心の訓練

◎特別な師

【本文】
 大悲に敬礼いたします。

 甘露であるこの秘訣の真髄は、セルリンパから流れ出たものです。

 ヴァジュラ、太陽の光、そして薬樹のようなこの教えの意義を理解すべきである。

 五つの堕落があふれるこの時代、この時にこそ、逆境を悟りへの道に変容させよ。





 まずこれは序文ですね。

 「大悲に敬礼いたします」。

 大悲、つまり大いなる慈悲ね。慈悲の心。哀れみの心に敬礼いたしますと。

 「甘露であるこの秘訣の真髄は、セルリンパから流れ出たものです」。

 このセルリンパっていう人は昔の伝説的な聖者なんですが、チベットに教えを広めたアティーシャっていう人がいたんですが、このアティーシャの師匠といわれています。

 で、アティーシャっていう方はものすごい大学者で、いろんな師匠について、いろんな仏教のさまざまな教えをあまねく学んだ人なんですね。しかしこのアティーシャが、自分のさまざまな師匠に敬意を表するとき、セルリンパにだけはすごく特別な敬意を表したんだね。それで人々が不思議に思って、アティーシャに聞いたわけですね。

「あなたにとって師匠っていうのは、みんな偉大な価値のある人だと思うんだけど、なぜセルリンパだけ特別扱いして、そんな偉大な敬意を表するんですか?」

と。

 それに対してアティーシャが答えたのは、

「確かにわたしにとって、わたしが学んできた多くの師匠というのは、みんな平等に価値がある、素晴らしい感謝しきれないほどの存在である」

と。

「しかしセルリンパはわたしに菩提心を教えてくれた。わたしに菩提心を教えてくれた師がセルリンパだ」

と。

「これだけでもう、セルリンパというのはわたしにとって特別な存在なんだ」

って言ってるんだね。

 で、この伝統っていうのはもともと仏教にあって、チベット仏教とかまさにそうだけど――チベット仏教って、まあ人によるんだけどね。例えばミラレ―パみたいに、ただ一人のマルパっていう師匠だけにしか教えを受けない、「他の師匠はもうわたしにはいりません」っていう人もいれば、そうじゃなくて多くの師匠を訪ねて、多くの教えを学ぶタイプもいる。で、この後者の多くの師匠の教えを学ぶタイプの修行者の場合も、その人にとって、菩提心の教えを与えてくれた師っていうのは特別な存在になるんだね。つまりそれだけこの菩提心とか慈悲っていうものが、仏教の最も重要なエッセンスだということですね。

 で、このチェカワっていう人も、チェカワの直接の師匠はシャラワっていう人なんですが、このシャラワを辿るとアティーシャ、そしてセルリンパにつながるんですね。つまりこのセルリンパから脈々と伝わってきたこの心の訓練の教えを、今このチェカワっていう人がまとめますよ、というところですね。
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松川先生による経典の朗読が聴けるようになりました

2009-04-24 09:13:08 | お知らせ


ABOUT YOGAのコーナーで、松川先生による、経典の朗読が聴けるようになりました。
http://www.yoga-kailas.com/yoga1.html#5

まずは以下のものが聴けますが、これからも随時増やしていく予定です。
日々の教学などにお役立て下さい。



バガヴァッド・ギーター 第18章 モークシャ・ヨーガ
http://www.yoga-kailas.com/audio/BG_chapter18.mp3

入菩提行論 第四章 菩提心の不放逸
http://www.yoga-kailas.com/audio/BCV_4.mp3

入菩提行論 第五章 正智の守護
http://www.yoga-kailas.com/audio/BCV_5.mp3

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悪趣の苦しみ

2009-04-24 04:29:14 | 松川先生のお話
この世の無常性や、正しい修行ができることの稀有さなどを学んだら、次は仏教経典などにより、悪趣の苦しみを学び、思惟すべきです。

 ナーガールジュナは、次のように説いています。

「きわめて熱い・寒い地獄を、毎日念じます。
 飢え・渇きによりやせ細った餓鬼たちをもまた念じます。
 迷妄の苦しみが極めて多い動物を見て念じます。
 それらの因を断ち、幸福の因を行じます。
 この得がたい人間の体--それを得た今こそ、悪趣の因を努力して断つのです。」

 悪趣の苦しみを修習するなら、どのようなメリットがあるでしょうか。
 1.傲慢さやおごりがなくなる。
 2.それら苦しみの因である悪業を極度に避けるようになる。
 3.幸福の因である善業を積極的に積むようになる。
 4.輪廻する衆生への慈悲の心が生じる。
 5.解脱への強い希求心が生じる。
 6.仏陀や神への強い帰依心が生じる。
 このように、多くのメリットがあるといわれます。

 それでは、仏典に説かれる悪趣の苦しみについて、少し概観してみましょう。

 まず地獄には、四つあります。
 1.大衆生地獄
 2.近隣地獄
 3.寒冷地獄
 4.孤独地獄

 そのうちまず大衆生地獄には、8種類あるといわれています。

 大衆生地獄①--等活大地獄
 ここに落ちた魂たちは、それぞれがさまざまな武器を取り、互いに傷つけあい、殺しあいます。そうして傷つき、苦しみ、倒れると、天空から「復活せよ」という声が聞こえてきて、再び肉体が復活し、また殺しあいます。この繰り返しが非常に永い間続きます。

 大衆生地獄②--黒縄大地獄
 体に線を引かれ、その上を獄卒に切られたり割られたりします。

 大衆生地獄③--衆合地獄
 多くの地獄の住人が一箇所に集められ、二つの鉄の山の間などに押し込まれ、つぶされます。

 大衆生地獄④--叫喚大地獄
 焼けた鉄の部屋に入れられ、焼かれます。

 大衆生地獄⑤--大号叫大地獄
 焼けた二重の鉄の部屋に入れられ、焼かれます。

 大衆生地獄⑥--焼熱大地獄
 鉄板の上で焼かれたり、燃え盛る鉄の串で肛門から頭まで刺し貫かれたり、体中の穴から火が燃え上がったり、燃える大地の上に仰向けに寝かされて、燃えるハンマーでたたかれたりします。

 大衆生地獄⑦--大焼熱大地獄
 焼熱地獄の苦しみに加えて、燃える鉄板で身体を包み込まれたり、鉄鍋の燃えるアルカリ液の中で煮られたりします。

 大衆生地獄⑧--無間大地獄
 大焼熱地獄の苦しみに加えて、四方から襲ってくる火によって体の芯まで焼かれたり、溶けた鉄の中で煮られたり、燃え盛る鉄の玉を飲まされたりします。 


 次に、大衆生地獄の周りには、近隣地獄があります。
 
 近隣地獄①--熱灰地獄
 ひざの辺りまで、熱い炭火でいっぱいの中を歩かされます。そこに足を沈めると足の皮・肉が焼かれるが、足を持ち上げるとまた復活し、また足を沈めると焼かれます。これを延々と繰り返します。

 近隣地獄②--糞尿地獄
 熱灰地獄の近隣に、糞尿の沼があり、地獄の住人はそこに沈められます。そしてその中には鋭い口を持った虫がおり、その虫に体中を、髄に至るまで貫かれます。

 近隣地獄③--鋭い刀の道などの地獄
 糞尿地獄の近隣に、鋭い刀に満ちた道があります。地獄の住人はその道を、足を刀に裂かれながら歩かなければなりません。
 さらにその近隣には、剣の葉を持った樹があり、その葉が地獄の住人を襲います。そして体中を切り裂かれて彼らが倒れると、そこに犬がやってきて、背骨を砕いて食べます。
 その近隣には、鉄の針葉樹があり、地獄の住人はそこを登ったり降りたりさせられ、体中がその針で切り裂かれます。しかもそこには鉄の嘴を持ったワシがおり、地獄の住人の目玉をつついて食べます。

 近隣地獄④--渡れない河の地獄
 その鉄の針葉樹の近隣に、煮えたアルカリ水で満たされた河があります。地獄の住人はそこに落ち、劇物で骨肉を溶かされながら煮られます。そのように苦しむ地獄の住人を、獄卒が鉤や網で引っ張り出し、燃える大地に仰向けに寝かせて、燃える鉄の玉や、煮えた銅を口の中に注ぎます。


 次に、寒冷地獄にも八つありますが、それはその身を貫く寒冷の強さの程度によって分けられているので、詳細は割愛します。

 孤独地獄の内容についてはさまざまな説がありますが、ここでは省略します。


 これらの地獄に生まれるカルマは、我々が考えているよりも、非常に生じやすいとされています。このような地獄の苦しみの因は自己の身体と言葉と心の悪業のみであると知り、日々、小さな悪業さえも生じさせないことに努力して努めるべきでしょう。



 次に動物の苦しみについて思惟すべきです。
 まず動物は弱肉強食の世界であり、自分より力の強いものに殺され、食べられます。またある動物は、人間や神々たちの道具としてこき使われたり、食べられたりします。またある動物は常に飢え、渇き、寒さなどにさいなまれたりもします。
 また、私の瞑想経験では、動物界は精神的に大変な恐怖の苦しみと、怠惰の苦しみにさいなまれる世界です。
 これらの苦しみを思惟し、動物界に生まれることを厭離すべきです。


 最後に餓鬼の苦しみについては、これもさまざまな広範な説があるので、割愛します。まあしかし簡単に言えば、強烈な飢えと渇きの苦しみにさいなまれ続けるということです。


 このような三悪趣の苦しみについて思惟したなら、今度は次のように思惟すべきです。

「私は炭火の中に一日手を入れていることすら耐えがたい。それならどうして、永い熱地獄の苦しみを耐えられようか。」 

「私は真冬の寒冷地の氷の穴の中で裸で座っていることすら耐え難い。それならどうして、永い寒冷地獄の苦しみを耐えられようか。」

「私は指を一本ナイフで切り落とされるだけでも耐え難い、それならどうして、体中を骨の髄まで切り裂かれる地獄の苦しみを耐えられようか。」

「私はほんの一日食事をしないことすら耐えがたい。それならどうして、永い間飢えと渇きに苦しむ餓鬼の苦しみを耐えられようか。」

「私は蜂や虻に体を刺されただけでも耐え難い。それならどうして、強い動物に食い殺される動物界の苦しみを耐えられようか。」

 このように、現在の我々が想像できる範囲のものに照らし合わせて、悪趣の苦しみを思惟し、それらに落ちる因を取り除こうという思いを強く持つべきです。


 今、この人間の身体を得た今こそが、チャンスです。このときにこのような思惟をしたならば、過去に積んだ悪趣の因を浄化し、また未来において積む悪趣の因を少なくすることが可能となります。また善趣に生まれる善のカルマを増大させることも可能です。
 悪趣に落ちてから、自分を救ってくれる帰依処を探しても得ることは不可能ですし、何が善で何が悪であるか、どのようにすればそこから抜け出せるか、そのようなことを認識できる力は、悪趣に落ちたときにはないのです。
 だから今のこのとき、人身を得た今こそが、唯一のチャンスであるといわれるのです。

 今回はまた仏教の基礎である「悪趣の苦しみを思惟すること」についてまとめてみました。

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瞑想について

2009-04-23 08:06:12 | 松川先生のお話




 瞑想には、形のある瞑想と形のない瞑想があります。

 形のある瞑想とは、たとえばマントラを唱えたり、あるいは神に変化するなどのイメージを使ったり、あるいはエネルギーを意識的に操作したりするものですね。

 形のない瞑想は、形のある瞑想がある程度進んでくると、自然に生じます。それは自然に生じるので、努力は要りません。しかしそこに至るまでの努力はいるわけですが(笑)。

 形のない瞑想にしっかり入れるときは、まず体が固定されます。そして心も固定されます。これは広い意味での三昧といっていいでしょう。そしてガシッという感じで入っていきます。ガシッというのはちょうどいい表現がなかったのでそう書いてみましたが(笑)、とにかく自動的に入っていく感じです。
 そしてこれは無ではありません。明るく、透明で、生き生きとしています。
 心のざわつきや、体の不快感もありません。ある種の快楽と、光と、そして心の停止状態があります。心の停止といっても、繰り返しますが、無ではありません。

 よく瞑想といって試みられるのは、この形のない瞑想が多いようです。つまり何も考えない瞑想にいきなり入ろうとする人が多いようですが、それは不可能です。無理やり無思考になろうとしても成功しません。「無思考というイメージ」に浸っている人が多いようですが、それはあまり利益になりません。
 エネルギーの充実とか、精神の統一とか、心の整理とか、神の祝福とか、いろいろな要素があるわけですが、それらの一つ、もしくは複数の力によって、実際にその準備が整わないと、形のない瞑想は成功しません。

 たとえばラージャ・ヨーガのやり方では、一点集中の力があるレベルを超えると、集中の対象が拡大を始め、しまいには拡大しきった対象に自分が包まれるような感じで三昧に入っていきます。
 しかしそれには、戒律の実践から始まる準備修行で、強力な精神集中力を養わなければなりません。

 ジュニャーナ・ヨーガの場合は、深い意識での論理的思索と納得が繰り返されると、自動的に三昧の扉が開かれます。
 しかしそれには現世的観念の除去と、ある意味での直感的真理の理解が必要です。

 バクティ・ヨーガの場合は、神への純粋な愛--それはそういう「フリ」をするのではなく、本当に純粋な愛が高まることで、体と心が固定され、歓喜と寂静のうちに三昧に引き込まれます。
 しかしそのためには愛欲や物質欲などを放棄し、神のみを求める純粋な希求心が不可欠です。

 クンダリニー・ヨーガの場合は、エネルギーが正しい道に入り、浄化され、強化されていくと、体と心がどんどん軽くなり、快感状態が増し、体が浮いているというか肉体の感覚が全く感じられないような状態になります。そしてさらにエネルギーが強まると、そのエネルギーに包まれるような感じで三昧に入っていきます。
 しかしそれにはもちろん、気道の浄化およびエネルギーの覚醒と浄化と強化、そしてスシュムナーや中央管への気の流入などが必要です。


 このような土台によって実質的な瞑想を進め、真に形のない瞑想の状態に入ると、外界の物音は聞こえないか、聞こえても全く気になりません。ある種の安定感があります。気が散るとか、体がだるいとか、そんなこと自体がありえません。

 しかし繰り返しますが、いきなりその状態に入るのは無理なので、そこに至るさまざまなテクニックというか基礎の積み重ねが必要なわけですね。

 形のない瞑想に入ったら、そのまま何もしない場合もありますが、より深く深くへと突入したり、しっかりと観察をして、心の仕組みをより深く理解したり、といったことをしたりもします。そうして知識や論理を超えた、真の意味での悟りを深めていきます。

 ですからまずはそのような真の瞑想状態が生じるように、形のある瞑想と、さらにその基礎であるさまざまな修行、および戒律を守るなどの日々の実践から固めていく必要があるでしょう。

 では、まあ行法や瞑想にはさまざまなテクニックがあるとして、精神面でも最も重要な土台とは何でしょうか。それは私は、慈悲と帰依だと思いますね。
 つまり衆生に対する慈悲、そして菩提心。
 そしてもう一つは、神や師に対する完全な信、帰依の心。
 この二つが、形のない瞑想の深さと広さを決めていくように思います。
 つまりバクティ・ヨーガ、そして大乗の実践が大事だということですね。
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◎一番大事なこと

2009-04-22 09:49:33 | 解説・心の訓練
20080705

心の訓練②




◎一番大事なこと

 今日は「心の訓練に関する七つの要点」の2回目ですね。

 今回からやっと本題に入る感じですね。

 この前段階的なことは前回までにいろいろ言いましたが、もう一回簡単にだけ言うと、お釈迦様から始まる仏教の流れっていうのは、たくさんの要素を含んでるわけですね。で、それは人によって――つまり仏教とは何か、あるいは修行とは何かといった場合、当然見方のポイントが違う。あるいは師匠がいたとしても、弟子に教えるポイントがいろいろ違ったりする。しかしその中で最も――まあ仏教というよりも、修行の世界で一番大事なポイントはいったい何なんだと。それは端的に言うならば、「心の訓練」なんだね。

 つまり教えというものがあって、その教えとは全く違う自分の心の状態がありますと。じゃあこの自分の心っていうのをいかに教えに則って訓練していくか。これこそが一番大事なことだと。

 もちろんさまざまな教えっていうのは、そういった自分の心の変革の補助になってくれてるんだね。例えばいつも言うように、簡単にいうと、ムドラーを毎日やれば気が上がるので、精神状態っていうのはあまり変な状態にはなりにくくなる。ムドラーやっただけじゃ駄目なんだけど、いい状態になりやすくなるんだね。その上で心の訓練的なことをもし心掛けるならば、心は良く変わりやすい。こういう感じでいろんな修行がいろんな形で組み合わされてるわけだけど、エッセンス――つまり一番重要なポイントは何かっていうと、何度も言うけども、心の訓練なんです。つまり、二十四時間、日々いかに自分の心を教えに合わせていくかっていうかな。

 で、それをすごく美しく、分かりやすく書いてるのが『入菩提行論』ですね。『入菩提行論』も言ってみれば、あれは心の訓練の経典といってもいい。

 今日の勉強会の「七つの要点」っていうのも、これも『入菩提行論』よりも、もうちょっと短いコンパクトな形で――これを作ったのはチェカワっていうチベットの修行者ですが――コンパクトにまとめた「心の訓練に関する七つの要点」ということですね。

 前回もちょっと言いましたが、このチェカワという人は修行者だったわけだけど、あるとき前回の勉強会でやった「八つの心の訓練の詩」ってやつね。あれを読んで非常に衝撃を受けて、シャラワっていう師匠のところに行って、心の訓練の伝統を受け継ぐんだね。

 で、不思議なことにこの心の訓練の伝統っていうのは、秘密裏に伝承されてたっていうんだね。秘密裏にっていうのはつまり、いろんな一般的な修行っていうのは公にどんどん伝わっていくんだけど、秘密裏に伝承させる秘密の教えっていうのがある。それはまあいろんな秘密の教えがあるんだけど、この心の訓練の教えも秘密の教えだったんです、最初は。

 なぜかというと、「多分みんなこれは理解できないだろう」、あるいは、「ちょっと誤解してしまうかもしれない」っていう危険性があった。なぜかというと、これから勉強していって分かると思うけど、この心の訓練の背景となっているのは、エゴの放棄、そして菩提心、あるいは慈悲の教えなんだね。

 つまり普通の人間は、もちろんエゴというのを土台に生きてる。つまり自我、自己愛着っていうかな。それを真っ向から否定する教えなんだね、この心の訓練っていう教えっていうのは。だからそれは非常に一般的には説きにくい。

 よって秘密に教えられてたんだけど、あるときチェカワが、ハンセン病患者ね、チベットとかインドってハンセン病患者が多かったわけだけど、ハンセン病で苦しむ人々に何かしてあげられないかと思って、でも何かしてあげたいんだけど、自分にはお金もないし、他にこの病人たちにしてあげられるものっていうのは何も持っていないと。そこで自分が何十年もかけて修行してきた心の訓練の教えのエッセンスともいえる――みなさんがここのヨーガ教室でもやってる「トンレン」ですね。慈悲の瞑想――つまりみんなの苦しみを吸い取って、自分の幸福をみんなに与えるという瞑想。チェカワはこれをひたすらやって、非常に自分が幸福になったって感じてたから、ハンセン病患者の人々に、自分には何も与えられるものがないから、この瞑想を教えたんだね。

 で、さっきも言ったように、これは秘密の教えだった。なぜかというと普通の人は理解できない。だからチェカワも秘密の教えと思ってたんだけど、でもあまりにもその病人たちがかわいそうだったから、それを教えたんです。

 そしたら不思議なことに――まあもちろんやらない人もいただろうけど――それを実践した病人のある人々は病気が治ってしまった。あるいはある人々は、病気は治るまではいかないけども、その病気の苦しみとか恐怖とかがなくなって安らかなまま死んでいった。

 で、そこでチェカワはとても衝撃を受けた。「あ、この教えは万人にとって利益がある」と。そして、それまで秘密に伝えられてきたものを公にっていうかな、多くの人に伝えるようになったっていうエピソードがあります。

 だからそれだけ、われわれにエゴがあるととても受け入れがたいけども、でもわれわれに智慧があるととても強力な力を発する教え、これがこの「心の訓練に関する七つの要点」の教えですね。




◎念正智

 結局これは、いつも言う念正智に関わる教えといってもいい。

 念正智っていうのは二十四時間自分を観察し続ける。つまり自分の――仏教では身・口・意っていいますが、身・口・意っていうのは、身の行ないと言葉と心。で、特に心だね。もちろん身の行ないと言葉も観察するんだけど、一番とらえどころのないのは心だから。

 まずベースとしては当然身の行ないと言葉は観察する。つまり、「さあ、わたしは悪いことをやろうとしてないかな?」、「わたしは変なことをやらないだろうな?」、あるいは「言葉で人を傷つける言葉を言っちゃわないかな?」、あるいは「意味のない冗談ばっかり、わたしは言ってないかな?」――これをチェックする。

 で、それももちろんするんだけど、それプラス、心の観察――つまり「わたしの中に悪しき思いは湧いてないかな?」――これをひたすら観察するわけだね。つまり心の中に監視員を置いて、教えに基づいて、自分の心が決して悪しき方向に向かわないようにチェックする。そして逆に、教え通りの考え方ができるように、本当にもう理想的には二十四時間、一瞬一瞬怠ることなく自己をチェックする。

 だから、これをもし本当に本気でやろうとしたら相当な緊張を伴います。それはそれで全く構わない。逆にそれくらいでなきゃいけないっていうか。つまり二十四時間緊張を伴って自分自身を見つめ続けるんだね。

 もちろんね、ある程度教えが根付いてるとき、あるいは例えば気が上がって非常にいい状態のとき――こういうときは別に緊張はいらない。何でかっていうと、自然にいい状態になれてるから。でも自然にいい状態になれていたとしても、何かのきっかけですぐにまたパッと悪しき心に変わる場合もある。よって、そうならないように常に自己チェックをするわけだね。

 はい。で、その具体的な項目が、この「七つの要点」の教えですね。

 では少しずつ読んでいきましょう。
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死と無常

2009-04-20 11:25:01 | 松川先生のお話


 人はやがて誰もが死に至るという現実。それを知らない人はいないでしょう。しかし、今日にも死ぬかもしれないという現実を見据えて生きている人はほとんどいません。そうして「今日は死なないだろう」という根拠のない確信を、死の直前まで持ち続けるのです。
 この錯覚を対治しなければ、この人生がまるで無常ではなく確固たる常なるものであるかのように認識されて、今生の小さな楽と苦のみに心がとらわれ、来世のことや、輪廻からの解脱や全智を得ることなどの大きな問題について吟味することができなくなってしまい、真理の実践ができなくなってしまいます。
 たとえ縁によって、真理を学び、考え、瞑想することがあったとしても、そのような心の状態では、今生のみのための修行になってしまい、そのようにしてなした修行は力が弱くなってしまいます。
 また、もし来世のために修行しようと思ったとしても、いつ死ぬかわからないという生の無常性への認識が弱ければ、「少しずつ修行して、そのうち成就しよう」という懈怠に陥り、愚鈍さや無駄話や食べすぎなどの散乱により時を過ごすようになるので、修行への精進や集中の力が弱くなってしまうでしょう。

 「自分は必ず死ぬ。そして死はいつ訪れるかわからない。今日にも訪れるかもしれない」ということに対する認識が正しく生じたならば、最初の段階では、たとえば愛する人や財物などとも必ず分かれなければならないことなどを認識し、それらへの強すぎる渇愛をやめようとするでしょう。
 さらに認識が進むなら、「世俗の八つの法」と呼ばれるものすべてから離れたいという思いが生じるでしょう。

 世俗の八つの法とは、

①何かを得ること
②何かを失うこと
③快楽
④苦しみ
⑤賞賛されること
⑥非難されること
⑦耳に心地よい言葉を聴くこと 
⑧いやな言葉を聴くこと

この八つです。

 これらの世俗の法すべてから離れたいと思い、功徳と修行を積んで真髄の幸福を得たいと思い、そして他の人々もそこへ導きたいと強く思うようになるでしょう。

 よって、死と無常という現実をしっかりと認識することは、非常に重要なことだといわれるのです。経典には、死と無常の正しい認識は、「三界のあらゆる貪欲と無明と慢心をとり除く」「あらゆる煩悩と悪行を一気に破壊するハンマーである」「あらゆる善業を一気に達成する門である」などの言葉によって、大きく賞賛されています。

 では具体的には、どのようにすると良いのでしょうか? 仏教では、以下の三つについてしっかりと思惟すべきだといわれています。
①自分は必ず死ぬ
②自分はいつ死ぬかわからない
③死に対して現世的価値のすべては無益である

 ①番目について補足すると、私たちが結果的にある程度長生きできたとしても、修行ができる時間は非常に短いということも考えなければなりません。なぜなら、まず人生の最初のほう(若年期)では修行したいなどとあまり考えないだろうし、終わりのほう(老年期)は、頭がぼけたり、体が動かなくなったり、さまざまな悪条件により、修行ができなくなります。そしてバリバリ修行できる時期でも、睡眠や仕事によりほとんどの時間はもっていかれるし、その他の時間も、精神的悩みにふけったり、肉体的病に悩まされたり、対人関係で苦労したり、そのようなことに多くの時間を費やすので、一体いつ、修行する時間があるのか、ということになってしまいます。
 よってわずかな時間も無駄にせず、修行し、自らの悪業を滅し、功徳を増大させ、心を浄化し、悟りに近づくことに対して、懸命に努力する誓いをなすべきです。


 ②番目に関して。論理的に考えて、われわれに死の訪れは必定であり、しかもいつ死ぬか全くわからないとした場合、今この瞬間に、死ぬのか生きるのかの確率は、常にフィフティ・フィフティであるといえます。しかしなぜか私たちは生のことしか考えないわけですが、逆に「今日死ぬ」ということのほうをしっかりと考えたほうが利益があります。仏教では「一日一生」といいますが、今日で人生が終わるのだというくらいの気持ちで、瞬間瞬間を全力で生きるということです。


 ③番目はどういうことかというと、どんなに財産を持っていても、地位や名誉を得ていても、愛する家族や友人や恋人がいても、死の時にはすべてを置いていかなければならないし、またそれらは我々の良い転生や悟りには全く助けにはならないということです。
 では死を超えて持っていける(持っていかなければならない)ものとは何でしょうか? それはカルマと、心の習性です。
 つまり良いカルマ(善業)と悪いカルマ(悪業)、そして清浄な心と汚れた心。私たちはこれらにより次に生まれ変わる世界を決定され、そこでの幸不幸も決定されてしまいます。また、来世でも真理を修行するのか、悟りを得るチャンスはあるのかなども、すべてはカルマが決めます。
 それらを認識したなら、今生でお金や地位や人間関係を良くすることに努めるよりも、カルマと心の浄化に努めることこそ必要であると理解し、努力すべきなのです。


 今回は仏教の「死と無常」の教えに関してまとめてみました。

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◎いじめられることについて

2009-04-19 19:49:40 | 解説・心の訓練

◎いじめられることについて

(S)もう一つですけど、修行している人にとって、嫌な相手っていうのは、自分の修行の段階を試すっていうことにもなると思うんですけども、小さい子――小学生とかですごくいじめられる子がいますよね。ああいう子っていうのは別に、意識的には修行してるっていう感覚は本人にはないですよね。だけどそういうものがくるっていうのは、カルマっていうのもあると思うんですけども、そういうその、それを抜けるためにそういうふうに設定されたものであるっていうふうに考えていいのでしょうか……


 抜けるためにって、何を?


(S)抜けるっていうか、その苦しみっていうものを――さっき何ておっしゃっていましたっけ――苦しみがないと成長しないということでしたよね。だからそれを、その苦しみを小さいときから与えられて、小さいときから成長の段階に入っていくっていう、そういうカルマとして……


 それは二つあるね。この話をすると、また壮大になっちゃうんだけど、これもいつも言っているように、ぶっちゃけていえば、すべての魂が神に愛されてる。すべての魂が、神に成長させてもらってる。この成長ってどういうことかっていうと、これもいつも言うように、まず過ちの中に落っことされるんです。まず失敗ばかりさせられるんです。徹底的に失敗させられて、で、ひたすら失敗した――つまり悪業積んだりとか、悪い思いを持ったり、ひたすら失敗した後に、気付かされるんです。気付かされてからは、今度は修行が始まって、その過去に蓄積してしまった悪を落としていく作業に入る。このぐーっと落とされて、引き上げられるプロセスがある。でもこの全プロセスが、神の意思なんです。

 でも、全プロセスが神の意思なんだけど、ピンポイントで見ると、この前半にいる人っていうのは、悪いカルマを積んでいる段階。後半にいる人は、心の成長に入ってる段階。だから、その小さい子供がどっちか分からない、ピンポイントで見るとね。単純に悪いカルマによっていじめられてる場合もある。その場合は、はっきり言ってしまうと、心は成長しません。いじめられて、より心がねじくれて、また悪いことするかもしれない。でもそれも、大きな目で見ると、いつか気付くための悪化なんです。でも今生気付くかどうか分かんないよ。

 そうじゃなくて、過去世から修行者でね、そういう試練を受けるために、今成長のために試練を受けてるっていう場合もある。

 例えばわたしもいろんな子供を見てきたけど、ある子供はね、いじめられてるんだけど、全くこたえない子がいるんだね。すごくおおらかっていうかやさしいっていうか、端から見てるとひどいことをやられるんだけど、本人は、「なんだ~、やめろよ~」とか言って(笑)、わーって抱きついたりとか(笑)。卑屈じゃなくて、本当に心からそういう感じなんだね。完全にこいつは菩薩だなと(笑)。そういう子もいる。

 あるいはわたしもね、わたし中学生のころにちょっと引っ越していじめられたことがあって、で、そのときに同じようにいじめられてる子がいて、観察してると、やっぱりいろんな子がいる。ただわたしの学校の場合はね、わたしが見たいじめられてた何人かの子っていうのは、すごくやっぱり立派だったね。誰も恨もうとしないで、逆に他のいじめられっ子を助けたりとか、そういう子とかがいた。そういう人っていうのは、確かに浄化のためにそういうのをセッティングされてるのかもしれない。

 でも一概にはなかなか見えないところがあるね。だから、そういう子っていうのは、変な言い方をすると、そういう子っていうのは放っておいてもいい。でもそうじゃなくて、カルマによっていじめられてる子っていうのは、これは放っておいたらねじくれるだけだから、それはいろいろ物理的になんとか対処してあげなきゃいけないかもしれない。それはすごく難しい判断だけどね。

 わたしはわたしの人生を振り返ると、わたしはいじめられた時期があったわけだけど、わたしの人生のかなりの宝物です、その時期っていうのは。あの時期があってよかったと思う。あの時期があって得たものっていうのは、とても多い。

 だからもしタイムマシーンでね、戻って、あの時期の私を助けてあげようっていう人がいたら、わたしはストップします(笑)。「ちょっと余計なことしないでくれる?」って(笑)。あのときいじめられてなかったら、得なかったものがいっぱいあるから、ちょっと黙ってていいよと。そういう人もいるんだね。でも、そうじゃない人もいるんです。いじめられない方がいい人もいるっていうか。だからそれはちょっと難しい問題になってくるね。

 いじめ以外でもなんでもそうなんだけどね。ただ自分の問題としては、ちょっと大雑把にいうと、ここにいる人はみんな修行者だろうから、自分の問題としてはそういうふうに考えたらいい。つまり、すべては自分の成長のためにあるんだ、と考えたらいい。

 はい、じゃあ今日はこの辺で終わりにしましょう。おつかれさまでした。

(一同)ありがとうございました。
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8 混合式タントウ

2009-04-19 18:09:16 | シャンバラ・ヨーガ 修行体系奥儀 入門編

8 混合式タントウ




 以下の動作を、連続して行なう。
 
①肩幅で立ち、目はまっすぐに前を見る。背筋を伸ばし、肩の力を抜く。全身の筋肉も、できるだけ脱力しておく。

②両手を前に伸ばす。掌は下に向け、力を抜いてわずかに湾曲させる。それぞれの指同士は密着させる。
 同時に両膝を120度くらい曲げる。

③②の姿勢のまま、両掌同士をを向かい合わせた形にする。

④そのまま両手を胸の前に寄せる。指はわずかに湾曲し、掌は内側を向き、両手の中指の先同士がわずかに接触する。

⑤両手を左右に開いていき、両腕を左右に平行に伸ばす。掌は下を向く。

⑥そのまま両腕を正面に伸ばしてから、斜め下に下げ、膝から30センチほど上の位置に置く。

⑦①の姿勢に戻り、3分ほどその直立の姿勢を保つ。

⑧息を吸いながら両手を胸の前に持ち上げる。掌は上を向く。
 そしてすぐに掌を下向きに返して、息を吐きながら、両手を胸の前から下に下げる。
 これを3回繰り返す。


・毎日1~2回行なう。時間はいつでもよいが、午後か夜が良い。
・空腹過ぎるときや満腹のときは、やってはいけない。
・練功前に、熱い飲み物を一杯飲むとよい。
・この姿勢をとっている間に、掌が発熱したり、全身が発熱したり、汗が出てきたならば、それはよい兆候である。
 逆に身体に寒気を感じたら、いったん中止し、日にちを置いてから再び行なう。
・汗が多く出てきたときは、練功終了後に、熱めのシャワーを浴び、熱いお湯などを飲むのもよい(必ずそうしなければいけないというわけではない)。

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◎子供をしかることについて

2009-04-19 17:43:34 | 解説・心の訓練

◎子供をしかることについて

 はい、他に何か質問はありますか?


(S)先ほど、怒らないっていうのは百パーセント実践しなきゃいけないっていうことで、まあ、母親をやってると、子供に怒らなきゃいけない場面っていうのも出てくると思うんですけども、そのフリをしてるというか……


 そうだね。ここで怒らないっていってるのは、感情の問題なので、怒りの感情を湧かさせないと。

 だから子供に対して、本当にですよ、自分の――例えばここもエゴが入らないようにしなきゃいけないんだけど――ガッと怒りが出て、怒りの後に、「こいつ今怒んなきゃいけないんだ」――これはただのエゴです(笑)。

 じゃなくて、こっちに怒りが全くないと。しかし分析して、この子は今厳しく言っておかないと、とんでもないことになるなと。よって厳しく言いましょうと――これはOK。

 このときはですよ、わたしも経験があるけども、逆にちょっとつらいです。つらいっていうのは、怒りがないのに怒らなきゃいけないから。思いっきり自分を奮い立たせなきゃいけないんです。そういうんだったら問題ない。

 じゃなくて、多くの親は――Sさんがそうだっていうわけじゃないんだけど(笑)、言い訳なんだよね。「お前のためを思って言ってるんだぞ!」って(笑)。「えー!? 今、ほんとに怒ってたじゃん!」って(笑)。「今絶対怒ってたよ!」っていう(笑)、感じがあるんだね(笑)。

 で、多くの場合は、多分その二つが混ざってる感じだと思うんだね。確かに相手のためも思ってるけども、感情に任せてる部分もある。だからそれは、まずは感情を静めることを優先させた方がいいと思う、わたしは。

 だから逆にいうとね、ちょっとでも、一パーセントでも感情的怒りが入ってるんだったら、相手のためだと思っても言わない方がいい。それは相手にとって、子供にとってもマイナスだったりする。

 だから本当に感情は全くないですよと。百パーセントとはいわなくても、まあほとんど愛ですよと。で、本当に――まあ、いろんな考え方があるだろうから、自分の理性によってね、ここは怒らないといけないって思って怒ってるんだっていう自信がない限りは、怒らない方がいいと思うね。わたしはね。
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◎幻

2009-04-18 22:19:47 | 解説・心の訓練


◎幻

【本文】
 これらすべての心の訓練が、八つの世間的な関心物の垢によっては汚されないことを学べますように。
 また、あらゆる現象は幻のようであると理解することによって、執着の束縛から解放されますように。



 これはまとめだね。「八つの世間的な関心物の垢」っていうのは、ちょっと時間がないので詳しくは言わないけど、すべての相対的思い――苦しみを嫌がる、快楽を求める、喜ぶ。

 あるいは、得ることを喜ぶ、失うことを悲しむ。

 称賛されて喜ぶ、非難されて苦しむ。 

 あるいは、いい言葉を聞いて喜ぶ、嫌な言葉を聞いて悲しむ。

 つまり、こうだったら良くて、こうだったら嫌だ。このすべての思いね。これを八つの世俗的思いっていいます。

 今挙げた八つが代表的なんだけど、それ以外にもいろいろあるよね。こうなったらいいな、こうなったら嫌だな。これが、われわれの教えの実践を阻害するんだね。これによって、今まで挙げてきたことができなくなってしまう。だからそういうのに阻害されずに、今挙げた訓練をね、しっかり実践できますようにということだね。

 そして最後は、「あらゆる現象は幻のようである」と。これは一つの基本的な真理だけども、それをしっかり理解することによって、執着の束縛から解放されますようにっていう、基本的な祈りですね。





◎八つの世間的な関心物

 はい、で、次からやっと本題に入るわけですが、今日はこの辺で終わりにして、質問があったら最後に聞いて終わりにしましょう。


(N)すみません、八つの世間的な関心物を、もう一度言っていただけますか。


 端的にいうとね、まず苦しみと快楽。

 それから、得ることと失うこと。

 で、称賛と非難。

 で、良い言葉と嫌な言葉。

 すべて相対的でしょ。これに対して、どっちかがよくてどっちかが嫌だっていう思いね。

 われわれはだから、この中で生きてるんです、いつも。まだ見ぬことに対しては、こうなったらいいな、こうなったらいいな、こうなったら嫌だな、こうなったら嫌だな――これで生きてる。で、過去のことに関しては、これ嫌だったなあ、これよかったなあ――で生きてる。で、現在のことに対しても、こうなったから嫌だ! こうなったから、おれは今楽しい!――これが現世の罠なんだね。これでもうがんじがらめなんです。

 特に未来に関しての妄想は、気をつけた方がいいです。未来に関してわれわれは、これで悶々となってるんです。「こうなるんじゃない?」「こうなったらどうしよう!」「こうなったらいいよなあ……」――これでわれわれは、教えを実践する暇がない(笑)。これを全部払いのけて、ただ教えを実践する。ただここに書いてあるような項目をひたすら学んで、日々実践するっていうことだね。

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