ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

智慧と愛欲

2009-03-31 08:19:41 | 松川先生のお話

 自分自身の過去や、私が教えてきたいろいろな修行者を見て一つ言えること。それは、


「愛欲や性欲は、智慧を衰退させ、頭をおかしくする」 

 非常に智慧が高く、物事の本質を鋭く見抜く目を持っていた修行者が、愛欲・性欲にまみれたとたん、高度なダルマの話ができない、ただの普通の男になってしまった、という例を今まで多く見てきた。

 あるいは、神にだけ心を向け、神聖な歓喜に満ちていた人が、愛欲・性欲にまみれたとたん、神は心から消え、口だけのものとなり、歓喜は消えて苦悩の中に落ちていったという例も多く見てきた。

 そのような状態に落ちる時、自分がおかしくなっているということに、本人は気づかない。そこが恐ろしいところだね。気づかぬうちに目は曇り、頭は鈍り、世界の見え方は狭くなり、歓喜は徐々に苦悩に変わる。

 このような法は、人間の世界で、このミクシイのような場所で説くことではないのかもしれない。愛欲・性欲というのは、人間にはある程度認められた煩悩だからね。


 だからこの法が苦痛な人は、読まないでください。

 しかし本格的な悟りや神との合一などの境地を本気で目指す人がもしいたら、愛欲・性欲は、人間が捨て、超えなければならない最も重要な要素であるということを知り、気をつけ、心を引き締めるべきだね。

 もちろん、愛欲・性欲を逆に利用した、特殊なタントラの道もある。
 しかしそれは高度な智慧と技術と、微妙な素質と条件を必要とする、一種の苦行だね。普通に愛欲にまみれた人が、遊び心でやるようなものじゃないんだ。
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4 指の気功法

2009-03-30 23:01:20 | シャンバラ・ヨーガ 修行体系奥儀 入門編




 この「指の気功法」は、より高度な気功法の基礎として、両手の指先の動きを通じて全身の気道に気を通し、気血を調和し、陰陽を平均し、病を予防および治療するものである。
 さらには、人体の潜在力を発揮させ、身体を強健にする。
 この気功法は動作が非常に簡単で、しかも病状に応じて練功することもできるので、体が弱い者や、病気がちな者の鍛錬に適している。


◎基本

 肩幅で立つ。膝関節はわずかに曲げ、両肘を曲げて指を前方に向け、掌は下向きにする。それぞれの指は離す。
 
 この状態から、指定された指のみを、下に向けるのである。その他の指は動かしてはならない。

 指を下に向けるときはゆっくりと行ない、1分程静止した後、ゆっくりと元に戻す。

 二本の指を同時に下に向けるときは、下に向けた後にその二本の指先を接触させて、1分ほど静止した後、ゆっくりと元に戻す。



◎病気別の指の動かし方

☆心臓病:薬指一回、中指三回、小指二回、中指と人差し指を一緒に一回。

☆脳血栓:薬指一回、親指二回、人差し指一回、小指一回 中指一回、親指と小指を一緒に一回。

☆精神分裂・ノイローゼ:人差し指二回、中指一回、小指一回、人差し指と小指を一緒に三回。

☆外傷性肢体マヒ:中指一回、親指一回、人差し指と薬指を一緒に一回、親指と小指を一緒に一回、人差し指と薬指を同時に一回、中指と薬指を一緒に一回、人差し指と小指を一緒に一回。

☆リューマチ性関節炎:中指一回、人差し指と薬指を一緒一回、親指と小指を一緒に一回、中指と薬指を一緒に三回、薬指一回。

☆胃腸病:薬指二回、人差し指三回、中指一回、人差し指と薬指を一緒に一回。

☆肺病:薬指一回、親指三回、親指と小指を一緒に二回、人差し指一回。

☆肺炎:薬指二回、中指一回、小指二回。

☆腎炎:薬指一回、中指一回、人差し指一回、中指と薬指を一緒に三回、薬指と小指を一緒に一回。

☆不眠症:中指二回、薬指二回、小指二回、薬指と小指を一緒に一回。

☆がん:人差し指一回、中指一回、薬指一回、薬指と人差し指を一緒に一回、親指と小指を一緒に一回。

☆高血圧:薬指一回、中指一回、薬指一回、小指二回、薬指と小指を一緒に一回。

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ダルマ気功 文式 12

2009-03-30 13:29:12 | シャンバラ・ヨーガ 修行体系奥儀 入門編

ダルマ気功 文式 12

①上体を起こす。

②両手を組んで頭の上に載せる。

③掌を上向きに返して、頭上に突き上げる。

④そのまま組んだ手を下におろしていき、床に届く人は、組んだ掌を床につける。
 膝を曲げてはいけない。手がつかない場合は、つかなくてもよい。

⑤顔を上げ、その姿勢をしばらく保つ。
 手が床につかない人は、その姿勢を保っている間、かかとを上げたり下げたりを何度も繰り返す。

⑥組んだ掌を床から少し浮かせ、上体を左45度にひねり、左斜め前の床に掌をつけ、顔を上げて、その姿勢をしばらく保つ。
 手が床につかない人は、その姿勢を保っている間、かかとを上げたり下げたりを何度も繰り返す。

⑦組んだ掌を床から少し浮かせ、上体を逆側にひねり、右斜め前の床に掌をつけ、顔を上げて、その姿勢をしばらく保つ。
 手が床につかない人は、その姿勢を保っている間、かかとを上げたり下げたりを何度も繰り返す。

⑧組んだ掌を床から少し浮かせ、上体を中央に戻した後、前の少し遠めの位置に組んだ掌を下ろし、四つん這いのような姿勢になる。膝は伸ばしたままで、かかとも床につけたまま。顔を上げて、その姿勢をしばらく保つ。

⑨再び掌を身体の真下の位置の床につけ、顔を上げて、その姿勢をしばらく保つ。
 手が床につかない人は、その姿勢を保っている間、かかとを上げたり下げたりを何度も繰り返す。


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潜在意識

2009-03-30 07:16:09 | 松川先生のお話
 潜在意識というのは、100かゼロの世界だ。何となくとか、どちらともいえないとか、そういうものはない。

 この潜在意識に、私たちは、たとえば憎しみ、性欲、愛情欲求、貪り、食欲、名誉欲、プライド・・・といった様々な欲望を隠し持っている。

 しかしこの潜在意識は、これらの欲望をストレートに表現してもかなわないということを知っているので、表層の意識に指令を出し、あるいはだまし・・・その潜在意識の欲望を成就するための計画を立てるのだ。

 この綿密な計画には、自分自身さえもだまされる。なぜなら私たちは、普通、自分の表層の意識しか認識できていないから、その裏に潜む潜在意識の悪だくみに気づかないのだ。

 つまり人間のほとんどの思い、言葉、行動、これらは偽りなのだ。潜在意識の欲望をかなえるための偽りのしぐさなのだ。

 人間はそれをきれいに飾りたがる。しかし瞑想等で自分の潜在意識を知れば知るほど、それは理解できる。
 私も昔、自分はなんて心がきれいな人なんだろうと思っていたんだけど(笑)、修行していてある時期、瞑想によって、汚れた潜在意識の世界をこれでもかというくらいに垣間見るようになり、愕然とした覚えがある。
 極端に言えば、自分が良かれと思って、善だと思ってやっていたことでさえ、その背後にはエゴがあり、エゴの巧妙な仕掛けにはまっていただけだったということに気づくのだ。

 そしてこの潜在意識の欲望というのは、無明によって形成された欲望なので、この潜在意識の欲望の指令に従う限り、人間は決して幸福になれず、一時の満足と引き換えに、多くの苦しみをなめなければいけなくなる。

 じゃあどうすればいいのか? 修行するしかないね(笑)。

 端的に言えば、エゴの放棄、そして四無量心。
 こういうことを徹底的に学び、考え、実践し、潜在意識に植えつけるんだ。
 無明から生じた様々な煩悩、その対極にあるのが、エゴの放棄と四無量心なんだよ。
 だからそれらを潜在意識にぶち込むことによって、苦悩を生み出す煩悩的潜在意識を消すんだね。
 四無量心というのは、ここに何度も書いてるけど、
 ①すべての魂の幸福を願う
 ②すべての魂が苦しみから解放されることを願う
 ③すべての魂の進化を喜ぶ
 ④自分のことについては捨てる。

 まあ、エゴの放棄というのは、四無量心の4番目とイコールといってもいいから、結局、四無量心なんだけどね。

 最初はなかなか難しい。でも四無量心の訓練を、苦しみながらも続けるならば、必ず潜在意識はいつか浄化されて、自然に自分と他人の利益を生じさせる人になるだろう。
 つまり今度はだんだん、潜在意識の四無量心が、自分に指令を出すようになるからだ。

 だから、潜在意識に支配されるという仕組みは変わらないんだけど、指令者の首をすげかえろということだね(笑)。今、我々の心の司令官である煩悩という悪魔は、私という王国をダメにする悪徳司令官であると(笑)。真にこの私という王国を幸福にする四無量心という司令官を、新たに任命するんだ。煩悩を追い出してね。

 もちろん、ヨーガ修行を続けると、この理解不能・制御不能の潜在意識を、理解したり、制御したりすることができるようになってくる。潜在意識においても自由になるんだね。こうなったら修行は楽だね。完全にそうならなくても、だんだんと自分の心のコントロールがしやすくなってくる。そのようにして自己の深い意識を知り、そのデメリットを知り、深い部分で心の掃除、入れ替えをしなきゃいけない。

 だからただ単にぼーっと座って瞑想しててもダメなんだ。それは表層意識の遊びに過ぎないからね。それはまだ潜在意識の術中の範囲内だから。
 ヨーガその他の技法によって、潜在意識を浄化しつつ、深く入っていくんだね。その世界っていうのはね、いろんな発見があって、すごく面白いよ。机上の心理学ではない、実践的心理学という感じだね。
 そうして深い部分の心の浄化を進めることによってね、この人生はなんとも幸福なものに変わっていき、最後には高い悟りを得るでしょう。


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体ごと神を見よ

2009-03-29 04:31:13 | 松川先生のお話
心が神や真理に向かっていると、
すべてはうまくいく
一見、うまくいっていないように見えても、
実はうまくいっている
そしてどんな状況においても、心に苦悩はなく、すがすがしい

心が魔に支配されていると、
すべてはうまくいかない
一見、うまくいっているように見えても、
実はうまくいっていない
そして低級な喜びと引き換えに、真の歓喜を失う

心を神や真理に向けるというのは、
なんというか、体ごと心を向けるという感じだ
覚悟を決めるという感じだ
そのためには強さも必要だし、
功徳と縁が最も必要だ

日々、自己と戦い、真理を見つめ、神を見つめよう
日々、自己の身と心をチェックし、修正しよう
今日の私の心は、光り輝いているかな?
今日の私の心に、闇の要素は入り込んでいないかな?
私は今全力で、最も価値ある生き方を選択しているのかな?
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◎勇者

2009-03-28 09:51:26 | 解説・スフリッレーカ

◎勇者

【本文】
 諸々の欲望は不幸をもたらすものであって、最高の勝利者は、それはキンパーカの実のようであると説かれています。それらは捨てるべきであって、この世の人々はその鉄の鎖によって、輪廻の牢獄につながれています。

 常に対象をめぐって固定せず動揺している六つの感官を制する人と、戦いにおいて多くの敵に勝つ人とのうち、智者たちは前者こそ優れた勇者である、と述べています。


 キンパーカっていうのは植物の名前で、その実は、外側のほうは甘いんだけど、中心部はとてもまずいんだそうです。ここでは欲望をそれにたとえているわけですね。つまり最初はいいんだけど、後にさまざまな苦悩をもたらすんだよと。
 そしてそのような欲望に惑わされているわれわれの心の窓口、これが、五感プラス精神的なものなわけだね。つまり、視覚的なものへの欲望、聴覚的なものへの欲望、嗅覚的なものへの欲望、味覚的なもの、つまり食べ物への欲望、セックスなどの触覚的なものへの欲望、そしてこれらの感覚とは直接的には関係がない、観念的なものへの欲望。――これらを制することができる人は、外的な敵を戦争などで打ち負かすよりも偉大なことなんだということですね。
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ダルマ気功 文式 11

2009-03-27 20:55:54 | シャンバラ・ヨーガ 修行体系奥儀 入門編

ダルマ気功 文式 11

①左足を引き、平行立ちに戻る。

②両手で耳を思いきりおさえる。肘は後ろにそらせる。

③そのまま腰を曲げ、上体を倒す。膝は曲げてはいけない。

④この姿勢をしばらく保つ。


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◎心を守る

2009-03-25 07:21:51 | 解説・スフリッレーカ
◎心を守る

【本文】
 動揺する心を、学習のように、子のように、宝のように、自己の生命のように守るべきあり、欲望の楽しみを、悪獣のように、毒のように、剣のように、敵のように、火のように防ぐべきです。


 これもこのままですね。この「動揺する」って書いてあるけども、もっと分かりやすく言えば、「動揺しやすい心を」といった方がいいね。
 つまり心というのは動揺しやすい。動揺というのは、ドキドキするという意味じゃなくて、すぐに悪い方向に流れてしまう、あるいはすぐに快楽に流れてしまうということです。それを学習のように――学習のようにっていうのは、あることを記憶したり、ある学問を学んだりするときに、一生懸命忘れないように、一生懸命それが根付くように頑張る。それと同じような気持ちで、心をコントロールしろということです。
 例えば子供のころ九九を学んだとき、ずーっと「ににんがし、にさんがろく……」とか忘れないように学ぶと。あるいは、ある難しい方程式を学ぶときに、それを理解しようと徹底的に日々勉強すると。それと同じように、自分の心を教えによってコントロールするために、徹底的に日夜頑張りなさいと。
 あるいは子のように、宝のように、自己の生命のように――つまり、簡単にいうと、真理に基づいた心――これは自分の子供ような、宝のような、命よりも大事なものなんです。命よりも大事なこの真理に基づいた心が、ちょっとでも悪に流れるということは、あってはならないことだと。だからそれくらいの気持ちで、自分の真理の心を保ちなさいということだね。

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悪魔の首を切り落とせ

2009-03-24 06:03:06 | 松川先生のお話
 執着という悪魔が
 愛欲と嫉妬という娘を連れてやってくる
 彼女は疑いと怒りと無智という赤ん坊を生み
 人々の友情と真愛と平安を打ち砕き
 苦しみと後悔の泣き声をあげる

 心よ、すべての安らぎを打ち壊す嫉妬という女悪魔を八つ裂きにしろ
 諸悪の根元である執着という大悪魔の頭を打ち砕け
 
 心よ、お前の本来の性質は、もっとすがすがしく、軽やかで、慈悲に満ちた透明なものではなかったか
 その重苦しく、苦悩に満ち、エゴに覆われた状態はなんだ
 悪魔の娘に翻弄されたその闇の状態を恥ずべきものと思え

 智慧の剣で悪魔の首を切り落とせ
 慈悲の弓で悪魔の心臓を射抜け

 我が心が金剛の輝きを発するならば、悪魔が何かをなすことは決してできない
 
 クリアな頭と智慧を取り戻せ
 広大な慈悲の心を取り戻せ
 すべての本質を見抜く目を取り戻せ
 君の心に巣くう悪魔を切り裂くことによって

 これは、心に刻まなければならない深遠な教え
 理解できる者は実践すべし
 直感的にしか理解できない者は、深く思索すべし
 全く理解できない者は、忘れてかまわない

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◎不邪淫

2009-03-23 22:51:55 | 解説・スフリッレーカ
◎不邪淫

【本文】
 他人の妻を見ず、もし見たとしても、年齢に応じて、母であり、娘であり、妹である、という思いを持つべきです。もし愛欲が起こったら、彼女は不浄なものであると正しく考えるべきです。



 これもこのままですね。つまりさっき言ったように、邪淫というのは、厳しく言うと「性的行為をやめなさい」だけど、やわらかく言うと、不倫――つまり他人の妻や夫を寝取るなと。
 もし他人の妻を見たとき――面白いのが、最初から不浄だと思えとは書いてないんだね。最初はまず年齢に応じて、母であり、娘であり、妹である――つまり、年齢がものすごく自分より上だったら、自分の母であるとみなさいと。ものすごく下だったら、自分の娘のようにみなさいと。同じような年齢だったら、妹のようにみなさいと。
 それでも愛欲が起こっちゃったら、不浄だと見なさいと。つまり、「ああ、あの人は糞尿の塊である」と。あるいは「あの人は、放っておけば体中の穴という穴から、不浄物が流れ出る」と。こういうふうな見方をしなさいと。邪淫を徹底的に避けるためのものの見方だね。

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◎マンゴーのように

2009-03-23 21:13:19 | 解説・スフリッレーカ


◎マンゴーのように

【本文】
 人は、マンゴーの果実のように、未成熟の人が成熟したように、成熟した人が未成熟のように、未成熟の人が未成熟のように、成熟した人が成熟したように見える、ということを知ってください。



 はい、これもこのままですね。「ああ、これはかなり成熟した甘いマンゴーだ」と思って食べたら、全然おいしくないとか(笑)。逆に、「これまだだな……」って思って食べたら、すごくおいしいとか。
 マンゴーっていうのは、外側では分かりにくいのかな。ナーガールジュナはインドの人なので、当然マンゴーはとても身近なたとえなんだろうね。
 これはつまり、外見から、あるいはその人が言っていることとか噂とかだけでは、その人の本質というのは分からない。だから一見ものすごく素質があって素晴らしいように見える人、あるいは、例えば表面的な教えを学んで、口ではすごくいいことばっかり言っていて、「この人、何か素晴らしいなあ」と思う人も、実は全然そんな段階に達していない、まだまだけがれがある人かもしれない。あるいは逆に、一見粗末に見えて、一見あまり口でも偉そうなこと言わないし、人からも馬鹿にされている。でも実は大聖者だったとか。それは全く分からないわけだね。
 これは、わたしも長く修行してきて、いろんな人と出会ってね、そういうパターンは何度も見てきた。つまり自分が、「え? この人どうなの?」って思っていた人が、実はみんなには分からない素晴らしい徳の持ち主だったりとか。あるいはその逆のパターンね。
 だからわたしはそういう経験があったから、人を見るときにね、人は本当に分からない。外見では分からない。あるいは、ちょっと付き合っただけでは分からない――というような見方をするようになったね。だからみなさんもそれはそういう柔軟なというか、ニュートラルな発想を常に持っていたらいい。
 例えばある人がいてね、みんなから評判悪かったとするよ。みんながその人のことを悪く言うと。自分もちょっと付き合ったら、本当に「え?」って感じがすると。でも分からないんです。実はすごくいい人かもしれない(笑)。だから決してちょっとした自分の見方とか人の言葉だけで、その人を断定してはいけない。常に柔軟な発想でいなきゃいけないんだね。

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◎四種類の人間

2009-03-23 18:07:07 | 解説・スフリッレーカ




【本文】
 光から光に赴く人、闇から闇に赴く人、光から闇に赴く人、闇から光に赴く人の四種類の人間があります。そのうち最初の人になるべきです。



 これは原始仏典で、お釈迦様の一番弟子のサーリープッタが説いている教えでもあるんだけど、これは分かるよね。
 光というのは、真理に満ちた素晴らしい生き方。
 闇というのは、真理を全く知らない悪に満ちた生き方。
 つまりこれは、生まれつき徳があり、正しい生き方をし、真理にめぐり合い、より正しい生き方をする人――これが光から光だね。
 闇から闇というのは、生まれつき悪しきカルマを持って生まれ、そのまま悪業を積んで死ぬ人。
 光から闇は、生まれつきは非常にいいカルマだったんだが、悪縁によって悪い生き方をするようになり、悪業を積んで低い世界に落ちる人。
 闇から光は、逆に悪業を積んで生まれてきたんだが、素晴らしい縁によって素晴らしい仏陀とかに出会い、素晴らしい生き方をして終わる人。
 この四つのパターンがありますが、最初の人――つまり、光から光に赴く人になってください。これは来世も含めたことをいっているわけだけど、今生しかっり徳を積んで、それから仏陀や教えとの縁もしっかり作って、来世完全に真理に満たされた状態で生まれ、そして来世も素晴らしい師や教えとめぐり合い、そして人生を通じて真理そのものに満たされたような状態になる人――光から光に赴く人になってくださいということだね。
 つまり「徳と縁」。これが一番大事です。インドの大密教行者ナーローパが、
「人間にとって最も必要なのは徳と縁だ」
って言っているけども、わたしもそう思うね。徳、それから仏陀とか教えとか聖者との縁。これは非常に重要です。
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お盆について

2009-03-22 22:31:19 | 松川先生のお話
お盆について少し考えてみましょう。

 もともとインドの仏教においては、お盆という慣わしも、先祖供養とか墓参りもない。 
 お盆の根拠となっているのは盂蘭盆経という経典なんだけど、これは中国語のお経があるだけで、サンスクリット原典やチベット語訳はないので、中国で作られたお経かもしれないね。

 もともと中国は儒教的要素の強い国だけど、仏教と儒教の思想は似ているようで全く相容れないところもあり、そこで仏教を中国の民衆に受け入れさせるためにいろいろな偽の経典が作られた。中国産の偽経として有名なのは父母恩重経というのがあるね。父母への恩を説くという、いかにも儒教的な経典だけど、ここでも盂蘭盆について言及されている。

 さて、盂蘭盆経に説かれる、お盆の元となった逸話はこうだ。
 お釈迦様の二大弟子の一人であるモッガラーナの母親が、死後、餓鬼界に落ちて苦しんでいた。それを知ったモッガラーナは、お釈迦様に相談したところ、出家修行者の仲間たちに、多くの食物の供養をしなさい、ということで、モッガラーナは多くの食物の供養を修行者たちに行ない、それによって母親を救ったという話ですね。

 さて、この話自体は、私は論理的に一部は納得できると思います。因果の法則から言うならば、少なくともモッガラーナの肉体を製造してくれたのは父母である。そして子供のころから食事その他で養ってくれたのも父母である。よって、そのようにして保たれてきたこの肉体を使って、モッガラーナが善行を行なったなら、その功徳の何分の一かは、親にも返るということだね。つまり親が肉体を生み、育ててくれなかったら、モッガラーナはその善行を行なうことができなかったんだから。

 しかしよく考えたら、ということは、親や先祖への最大の恩返しは、自分自身が、この肉体を用いて、善を行なうことだといえる。いや、もっといえば、自分がしっかりと修行し、悟り、解脱し、聖なる存在となったならば、その膨大な徳の何分の一かの果報は親にも返るわけだから、それは最大の親孝行だといえるだろうね。

 だからね、日々悪を行ない、怠惰に生き、お盆のときだけお墓参りしたって、何の意味もないんだ。

 仏教にも、その背景にあるインド思想にも、根本に輪廻転生の思想がある。だから、中国や日本で言うような、お盆のときに先祖の霊が帰ってくるとかね、そんなのはおかしいんだ。ありえないんだよ。
 だって、我々は遥かな過去から無数の輪廻転生を繰り返してきた、という前提が正しいとするならば、我々もまた、別の生での誰かの死んだ親であり、誰かの先祖だということになるからだ。だとしたら、お盆のときに、我々も出動しなきゃいけないよ(笑)、いろんな過去世の子孫のもとに。そんなことはありえないよね。
 そういう思想をね、誰かが勝手に持つことは勝手だけど、少なくともそれは仏教ではないということだね。

 最近、精神世界の人が、あなたには先祖霊が守護してくれてるとか言ったりするけど、もちろんそれもありえないね。少なくとも仏教やヨーガの理論ではね。だからそういうことを勝手に言うのは勝手なんだけど、仏教やヨーガの名のもとには言わないでほしいと思うね。

 亡くなった人に立派な墓を作るとか、戒名を買うとか、位牌を飾るとか、仏壇とか、全部意味ないよ。仏壇というのも本来はブッダを奉る祭壇であって、死者を拝むものではない。
 でもそういう、先祖供養システムがないと、日本のお寺やその周辺の業者さんたちは食べていけないからね。でもまあ、その程度のことだ。

 また、我々が無数の輪廻転生を繰り返してきたとしたならば、そして親子やその他の縁というのはその生限りの条件に過ぎず、それぞれの生でそれぞれ別の縁があるとするならば、我々は過去世において、無数の父母を持っているということなんだ。逆に言えば、この宇宙のすべての生命体は、私の父母であった可能性があるということだ。だから今生の親や先祖だけじゃなくて、すべての人々、すべての魂を父母と見て、恩返ししなさいと、愛を発しなさいというのが、大乗仏教の理論なんだね。


 だからまとめると、お盆や墓参りに行く暇があったら、日々、善を行なおう。悪をやめよう。修行し、聖者になろう。そして周りのすべての人々に平等に愛を発そう。それが唯一の現実的な、親や先祖への恩の返し方だと思いますね。 
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ダルマ気功 文式 10

2009-03-22 17:44:25 | シャンバラ・ヨーガ 修行体系奥儀 入門編


①両拳を腰におさめる。

②右足先を45度右に開く。

③左足を大きく一歩前に踏み出す。
 このとき、すねの角度は垂直またはつま先よりにする。しかし膝がつま先の位置を超えてはならない。
 そして重心の七割ほどを前足にかける。
 後ろ足は膝を伸ばし、かかとも床から離してはいけない。

④拳を開いて獣の爪のような形にし、いったん体を後ろに反らせた後、前に倒れ、左足の両脇の床に指先をつける。

⑤顔を上げ、この姿勢をしばらく保つ。

⑥上体を起こし、手を腰におさめる。

⑦右に180度回転し、左右逆の姿勢になる。

⑧左右逆で④~⑦を行なう。

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安定

2009-03-22 13:24:19 | 松川先生のお話



 本来、この世界は無常と変化を習性としている。物理的な意味でも、精神的な意味でも、現象的な意味でも、一瞬たりとも、何かが固定されてとどまるということはない。

 それなのに人は、安定を求める。無常と変化を習いとする世界に安定を求めるわけだから、それは幻影の安定に過ぎない。たとえばそれは、目の前の風景が変わりだしたのに、写真を撮って、いつまでもその変わらぬ映像を見続けようとしているようなものだ。
 しかしいかにそのような幻影の安定に心を向けようと、現実は常に移り変わっていく。カルマの流れによって、創造と破壊は繰り返される。そして幻影の安定が保てなくなったとき、人はショックを感じる。でもショックを感じるほうが無智だ。だって最初からそんな安定などはないのだから。

 勇気を持って、変化の世界を受け入れよう。勇気とともに、智慧と愛があれば、この旅は楽になる。この無常の本質を見極める智慧と、受け入れる愛だ。 
 たとえば、誰かに裏切られたと言って嘆く人がいる。しかしそれは、その裏切られたと感じる現象もまた、次の何かの創造のための変化であると気づいていない無智だ。なぜそのような神のリーラを楽しまないのか。 
 この世には一瞬たりとも安定はない。しかしそれは悪いことではない。それそのものが宇宙の摂理だからね。だから智慧者は、自らの心を磨くんだ。なぜって、ありもしない幻影の安定を追い求め、結果的に自らを苦しめているのは、自らの心のとらわれだからね。
 つまりね、悪いのは世界じゃないんだ(笑)。あるいは、悪いのはあなたを裏切った、あるいはその他様々な害を与えてくるように見えるその他人じゃないんだ。未成熟な、とらわれが多すぎるこの自分の心こそが、自分を苦しめているんだね。
 とらわれなく、こだわりなく、だからといって無気力なわけではなく、純粋にこの世を見つめたとき、その人の心身は充実する。この無常の風に吹かれよう、この無常の波で波乗りを楽しもう、苦も楽も、神からのプレゼントとして喜んで受け入れようという、歓喜に満ちた心の安定がやってくるんだ。 
 そう、それがこの世における、本当の安定なんだ。世界を止めようとする安定じゃなくて、自己の心のとらわれをなくすことによって、世界の無常の本質をありのままに受け入れることによって、真の安らぎ、安定、シャーンティがやってくる。
 そしてそれは、大変な充実性と、積極性と、こだわりのなさを含んでいるよ。その人は人生において、様々なことにチャレンジし続けるだろう。しかもその成功と失敗にさえこだわらずに、全力でただチャレンジしつづけるだろう。そして多くのものを得るだろう。そしてその得たものを手放さなければいけないときにも、笑って手放すだろう。 
 そしてこの人が輪廻も放棄したならば、真に無常を超えた世界に没入するんだね。でもこの人が大きな愛を持っていたならば、衆生のために、輪廻の放棄もせずに、繰り返しこの世にやってきて、なすべき事をなすだろう。

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