ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

供養の瞑想

2009-02-28 20:06:57 | 解説・入菩提行論
 第二章 罪悪の懺悔

【本文】

 この宝の心(菩提心)を得るために、これなる私は、如来に対し、正しく供養をささげまつる。穢れ無き正法の宝と、功徳の海なるブッダの子(菩薩など)たちに対してもまた。

 あらゆる花と、果実と、種々の薬草と、世にある限りの宝と、清澄にして快適なる水と、宝の山と、孤独に快適な森の場所と、美しき花に飾られて輝く蔓と、見事な果実に枝もたわわなる樹木と、天界などにおける香りと、芳醇なる香りと、もろもろの如意樹と、宝樹と、蓮華に飾られ白鳥の声によって楽しき池と、野生の植物と、栽培による草木と、供養の対象を荘厳すべき他の物と--虚空界の広がる限りにあまねきこれら一切のもので、しかも個人に属しないもの--これらのものを、これなる私は、意識に捉えて、最上の聖者と、ブッダの子とにささげまつる。
 最善の供物を受けるにふさわしく、大悲の心ある彼らは、私を哀れんでこれを受けたまえ。

 私は福善なく、はなはだ貧しい。他に供養すべき何ものも私にはない。ゆえに、利他の心を持ち給うもろもろの世尊は、私の利益のために、これを自らの力によって受けたまえ。

 私は、私自身を、勝者とブッダの子とに残り無くささげる。衆生の最高者たちよ。私を受け入れたまえ。私は熱烈なバクティ(信愛)をもって、あなた方の召使となる。

 あなた方に受け入れられれば、それによって私は恐れるところ無く、輪廻界において衆生のためになることを行なう。
 そして以前作った悪に打ち勝ち、重ねて他の悪を行なわない。
 

【解説】

 帰依の対象である三宝とは、原始仏教では、ブッダと、ブッダの説く法と、ブッダの出家の弟子たちの教団(サンガ)を指しますが、大乗仏教では、サンガの意味がもう少し広がります。在家・出家問わず、あるいは人間界ではない他の世界に存在している聖なる存在も含めて、仏陀の道に沿い、菩薩の道を歩く者たちは、【ボーディサットヴァ・サンガ】といい、帰依や供養の対象となるのです。

 それら三宝に対して、まずここで言っているのは、心の中で、想像できるだけのすばらしいものを想像し、供養するイメージをするということですね。
 密教においてはこういった供養の瞑想というのはどんどん発展していきます。「私は福善なく、はなはだ貧しい。他に供養すべき何ものも私にはない。」となっていますが、そもそもこのシャーンティデーヴァがこの教えを唱えたときというのは、彼が僧院の出家修行者だったときですから、個人的な資産や持ち物がないのは当たり前なわけです。しかしここで表現されているのは、たとえばシャーンティデーヴァは、もし何か財産があって、しかも目の前にブッダがいたとしたら、たとえどんなものでも、惜しみなくささげるでしょうと。そういう強い供養の気持ちがもともとあるわけです。しかし自分は今何も持っていないので、自分の想像力を使って、あらゆるものを三宝にささげているわけですね。
 実際、本心から供養の気持ちがあり、そして心がこもっているならば、このような瞑想による供養でも、功徳となり、三宝との縁は強まります。何故でしょうか? 瞑想によるイメージの世界も、この現実世界と呼ばれる世界も、どちらも幻影に過ぎないからです。
 しかしたとえば瞑想では供養ができるけれど、現実では自分の持ち物を三宝に差し出すことができない人がいたとします。こういう人は、供養の瞑想をしたとしても、あまり効果はないでしょう。だから心をこめることが大事なんですね。繰り返しますが、もし自分が何かを持っていたら何でも惜しみなく供養することができるような供養の心を持っている人が、このような供養の瞑想を行ない、初めて大きな効果が生み出されるのです。
 これは悪業についてもいえます。たとえば嫌いな相手に対して、現実には行なわなかったとしても、相手を殴ったり殺したりするイメージをした場合、これは実際にそれらを行なったに近いくらいの悪業になります。なぜなら、心がこもっているからです。

 話を戻しますが、仮にまだ供養の気持ちが強くない人でも、この瞑想は行なうべきです。最初は瞑想だけでも、このような供養の瞑想を行なうことで、徐々に執着は弱まり、徐々に徳が増え、三宝との縁も徐々に強まってくるとはいえるでしょう。しかし本当に供養の気持ちが強まったときこそ、この瞑想は最大の効果を発揮するということですね。

 「大悲の心ある彼らは、私を哀れんでこれを受けたまえ」という表現は、そもそもブッダや菩薩というのは、何をほしがっているわけでもありません。ですからこういう供養とか布施というのは、供養する側が、徳を積み、執着を落とし、三宝との縁を強めたいがために行なうわけですね。なぜなら、徳が無く、執着強く、三宝との縁がない状態では、その人は苦しみ多く、幸福は少なく、輪廻の苦界から脱却できるすべがないからです。だから、ブッダや菩薩方はそのような供物は必要としていないでしょうが、どうか悲惨な私のことを哀れんで、これらの供養を受けてください、と懇願しているわけです。
 これに関連するエピソードとして、マルパとナーローパの話がありますね。チベットの有名な行者だったミラレーパの師匠のマルパは、自らの師であるナーローパに会いに、インドに行くわけです。そしてチベットで何年もかけて集めた貴重な黄金を、ナーローパに布施しようとするんですが、ナーローパは、私はそんなものはいらない、と言って断るんですね。でもマルパは、「あなたには必要ないでしょうが、私の功徳の修行のために、どうかお受け取りください」と言って、懇願します。するとナーローパは、「よしわかった、それならば受け取ろう」と言って黄金を受け取るんですが、マルパが喜んだのもつかの間、ナーローパは、受け取った黄金を、森の中に投げ捨ててしまいます。マルパが悲しい気持ちになっていると、ナーローパは、「私には黄金は必要ない。私にとっては大地全体が黄金なのだ」と言い、足で大地を叩くと、本当に大地が黄金に変わってしまった、というエピソードがあります。
 だから繰り返しますが、三宝は我々の供養を必要としていないのですが、我々自身にとっては、三宝への供養は必要なのです。だから我々は三宝に懇願し、私を哀れんで、供養を受けてください、という姿勢が必要なのです。

 そして後半では、よりバクティ・ヨーガ的な話になっていきますね。精神集中の瞑想を中心とした古典的なラージャ・ヨーガから、神や社会とのかかわりを重視したバクティ・ヨーガやカルマ・ヨーガなどにヨーガが展開していったように、大乗仏教も同様の展開をしていったのだと思いますね。
 そしてここでは、「私自身のすべてを、ブッダと菩薩にささげます。あなた方の召使になります。」という話になってきます。私自身のすべてをブッダや菩薩にささげ、召使になるとはどういうことでしょうか? その答えが、その後に書いてありますね。輪廻界において衆生のためになることを行い、そして以前の悪を断ち、今後も悪を行なわない、という表現になっています。
 つまりブッダや菩薩の願いは、すべての衆生が悪を断ち、善を行ない、修行し、解脱し、輪廻から解放されることです。そのような彼らに自らをささげ、召使になるということは、自分がしっかりと悪を断ち、修行するのはもちろんのこと、すべての衆生が救われるためのお手伝いをするために、全力を尽くすということですね。
 インド三大聖者の一人・ラーマクリシュナの後継者であるヴィヴェーカーナンダは、バクティ・ヨーガには二段階あるといっています。その第一段階のガウニという段階では、修行者は自己の師や神に対して一心に信愛を持ちますが、他の人は関係がない、という段階です。それがパラーと呼ばれる至高のバクティに昇華されると、その人は神の子供たちであるすべての衆生に対して強烈な慈愛と哀れみを持ち、すべての衆生を救うために生きるようになります。
 それと同じ発想が、ここにはあるわけですね。ブッダや菩薩への最大の奉仕、それは自己の修行を進めると同時に、他者の幸福のために、すべての衆生を救うために生きるということなのです。


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2 サッカショウ

2009-02-28 11:28:25 | シャンバラ・ヨーガ 修行体系奥儀 入門編


①両掌を合わせる。

②丹田から腕を通って両掌に気が集まっているとイメージする。

③両掌を思いきりこすり合わせる(数十回)。
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新刊案内「聖者の生涯 第二巻」

2009-02-28 06:45:00 | お知らせ

「聖者の生涯 第二巻」ができました。

今回は、ラーマクリシュナの一番弟子であるヴィヴェーカーナンダ、

ラーマクリシュナの驚くべき在家信者であるナーグ・マハーシャヤ、

そしてラーマクリシュナの女性の在家信者で完成の境地に達したゴーパーラ・マー

この三人の、偉大なるラーマクリシュナの弟子たちの物語です。


定価千円です。ご希望の方は教室に来られるか、メールでお申し込みください。郵送もいたします。




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「安楽の蔵」

2009-02-28 06:25:02 | 解説・入菩提行論




【本文】

 苦しみから逃れようと願いながら、(衆生はかえって)苦しみに突進する。
 楽を得ることを望みながら、惑いのために、まるで敵がなすように、自己の安楽を破る。

 かように楽を貪って、たびたび苦しむに悩む人々に対し、あらゆる楽によって満足を与え、またあらゆる悩みを断滅させ、かつ惑いをも滅ぼすところの善人(菩薩)--かような善人に等しい人は、どこにあろう。あるいはそれに類する友、あるいはそれに類する福善は、どこにあろうか。

 他から受けた恩に対して報いる人は、はなはだ称賛せられる。求めるところがなくて善行をなす菩薩は、いかにたたえられるべきであるか。

 少数の人にもてなしをなす人は、善をなす者として人々に敬われる。しかしそれは、ただしばらくの間、食を施して、半日の命を支えたためである。
 ましてや、衆生の数に限定を加えず、期間に限定を加えず、世界と衆生が完全に滅するまで、衆生にあらゆる満足を与える菩薩--彼になぜ尊敬が払われないか。

 かく勝者の子にして安楽の施与者である菩薩に対し、己の心の中で悪心を抱く者があれば、その人は悪心の発生した刹那の数と同じ数のカルパの間、地獄に住するであろうと、世尊は説かれた。

 しかしその人の心が(菩薩に対して)清らかとなるときは、前(の悪心の結果)に比べて遥かに多くの良い結果が彼に生じるであろう。なぜなら、勝者の子(菩薩)に対する悪しき行いは大いなる努力によって行なわれ、清き行いは自然になされるからである。

 そこに優れた宝の心(菩提心)が現われている彼ら(菩薩)の身に、私は帰命する。
 また、それに害を加えることさえも、安楽を得ることに関係のある、この安楽の蔵(菩薩)に、私は帰依を表する。


【解説】

 すべての衆生は、基本的に、苦しみから逃れたいと願い、幸福を得たいと思っています。それは異論の余地がないところでしょう。
 しかし多くの衆生は無智なるがゆえに、望みと行いが転倒しているのです。「これによって苦悩から逃れられる」と勘違いして、より苦悩が増えるようなことを行い、「これによって幸福になれる」と勘違いして、より幸福から遠ざかることばかりやっているのです。
 そして菩薩は彼ら衆生に対して、本質的な幸福を与え、苦しみから真に解放し、そしてそもそも衆生の持つ苦しみの根本原因である無智さえも取り除くのだといいます。

 そして世の中で、他からの恩に報いる人や、人々に食事をもてなす人などはすばらしいですが、菩薩はそれらとも比べ物にならないといいます。
 それは菩薩が幸せを与えるのは、衆生の数に限定を加えず、期間に限定を加えないのだというのです。つまり、500人だけ救おうかとか、一億人だけ救おうかとか、そういう人数限定ではなく、すべての衆生を救おうとしているわけです。そして期間的にも、10年だけとか、100年だけとか、100億年だけとかではなく、すべての魂が完全な安楽(解脱)を得、それによって輪廻が完全に破壊されるまで、衆生の手助けをし続けよう、というのが菩薩の願いと行為なのです。


 さて、次からの部分は、この章の締めの部分ですが、深い意味合いがあるところだと思います。

 まず、このようなすばらしい菩薩に対して悪い心を持つ者は、地獄に落ちるといいます。
 しかしその者が改心したならば、遥かに良い結果が生じるとあります。
 そして最後に、菩薩に害を加えることさえ、安楽を得ることに関係がある、となっています。

 これは簡単に書きますと、菩薩に悪心を持ったり実際に害を加えたりするなら、ものすごい苦しみの果報が返り、実際に地獄に落ちることもあるかもしれません。
 なぜなら菩薩は光が強いからです。また、菩薩を害することで彼の救済活動を阻害したなら、多くの衆生の幸福の邪魔をすることにもなるからです。
 しかし菩薩は、悪心に対して慈悲で返す者です。害に対して恩恵で返す者です。
 よって--どれくらい時間がかかるかは別にして--菩薩に害を加えたり悪心を持ったりしたとしても、それを条件として、その縁を利用して、菩薩はその人を救済するでしょう。
 だから、全く縁がないよりは、たとえ悪縁でも、菩薩とは縁があったほうがいいということになるんですね。
 
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真愛

2009-02-27 22:59:54 | 松川先生のお話

 はるかな過去世のことを考えると、
 自分に大きな恩恵を与えてくれた魂ばかりである。

 もちろん、彼らが自分に不利益を与えた場合もあるが、
 それを考え出すと、輪廻のダークサイドに引き込まれる(笑)。

 よって、すべての衆生から受けた恩を思う。
 それを返すために、彼らを幸福にしたいと思う。

 ひたすら、他者の幸福を願う。
 しかし煩悩やエゴがあると、それは偽善になってしまう。
 そうならないように、自己の心を透明にする。
 汚れを取り除き、透明にする。

 自らのエゴを破壊し、幸福を他に与え、他者の不幸を全部引き受ける。 
 そのようなことを考え、瞑想し、そして実践する。

 こういったことを続ける者は、最も幸福になる。
 なぜなら、不幸をもたらす唯一最大の敵は、エゴにほかならないからである。
 「私が幸福になりたい」というエゴが、不幸を作り出しているのだ。
 それを破壊したとき、幸福がやってくる。

 また、他者への幸福を真に願うとき、何が起こるだろうか?
 カルマの法則から考えると、その果報は膨大である。
 なぜなら、多くの他者から、幸福を願われるという果報が発生するからである。

 衆生の幸福を願うものは、多くの神々から守護されるだろう。 
 真愛を発する者は真愛を受ける。
 気休めや表面的な優しさを発する者は、気休めや表面的な優しさを受ける。
 エゴに満ちた偽善的な愛を表現する者は、エゴに満ちた偽善的な愛を受ける。
 
 だから、真愛を発そう。
 それには、エゴの破壊が必要だ。
 真理の理解が必要だ。
 だから今こそ、修行し、エゴを破壊し、智慧を悟り、
 衆生に真愛を発そう。
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聖者への供養の力

2009-02-27 16:18:53 | 経典の言葉・聖者の言葉

 私の出身の福島で有名な会津磐梯山という民謡には、朝寝・朝酒・朝湯が大好きで、それで財産をつぶしてしまったという「小原庄助さん」という人物が出てきますが(笑)、原始仏典にもこの小原庄助さんのように、親からもらった莫大な財産を、遊び呆けてつぶしてしまった男の話が出てきます。

 この男の親はどれくらの長者だったかというと、毎日一千万(単位は不明ですが、莫大な額であることは確かでしょう)ずつ使ったとしても、100年経っても尽きることはないほどの財産だったそうです。
 しかしこの長者は息子に甘く、大変過保護に育てたため、息子は親が死んでからも遊び呆け、とうとう全財産を失ってしまいます。どんだけ遊んだというんでしょうか(笑)。
 しかし生まれてからずっと超大金持ちの家で過保護に育てられてきた息子ですから、貧乏な生活などできず、借金をしながらぜいたくをしていましたが、とうとう借金も払えなくなり、土地や家屋なども失い、乞食のようになってしまいました。

 するとそこへ、盗賊たちがやってきて、仲間になるように誘いました。無智なその男は言われるままに仲間になり、盗賊になりましたが、運悪く捕まってしまい、王の前に連れて行かれ、死刑を宣告されました。

 さて、いよいよ男が死刑に処されようというとき、スラサーという名の遊女が、その前を通りかかりました。スラサーは男が裕福だった時の顔見知りだったため、

「彼はこの町でだれもかなわないような栄華を誇っていたのに、いまや盗賊に身を落とし、処刑されようとしているとは」

と、哀れみの心をおこし、砂糖菓子と飲み物を持って来てその男に渡すと、

「この世の最期に彼がこの砂糖菓子と飲み物を食べるのをお許しください。彼がそれらを食べ終わってから、処刑を行なってください。」

と、死刑執行人に頼みました。

 ちょうどそのとき、お釈迦様の弟子で神通第一と呼ばれたマハー・モッガッラーナは、その超人的な天眼によって世の中を見渡し、この男が処刑されようとしているのを知りました。モッガッラーナは考えました。

「この者は前世の徳によって長者の息子として生まれたが、今生は何の功徳も積まずに、徳を減らし、悪業だけを積みつづけてきた。これによってこの者は死後、地獄に落ちるだろう。しかしもし今私がそこへ行ったならば、彼はあの砂糖菓子と飲み物を私に布施し、その功徳によって天界に行くことができるだろう。」

 そうしてモッガッラーナは神通力によって、あっという間にその処刑場にあらわれました。

 男は、モッガッラーナを見ると敬虔な信仰心が生じ、
「今まさに処刑されようとしている私にとって、この砂糖菓子を食べることに何の意味があろうか。この聖者様に供養しよう。」
と考え、その砂糖菓子と飲み物を、モッガッラーナに布施しました。

 モッガッラーナは、彼の信仰心をより増大させるために、彼の目の前に座り、その砂糖菓子を食べ、飲み物を飲み終わると、去っていきました。

 そうして男は処刑されました。男は本来地獄に落ちるはずでしたが、死の間際にモッガッラーナに行なった布施によって、第二天界に生まれ変わる素養を得ました。
 しかし、最初に砂糖菓子と飲み物をくれた遊女のスラサーに対する愛着を持ちながら死んだため、少し引き下げられ、最も低い天の一つである地神(人間界の樹や土地などに宿る神)として生まれました。

 一生遊び呆け、徳を積まず、悪を行ない続けたこの男が、死ぬ間際のモッガッラーナへの信仰心と布施功徳によって地神に生まれ変わったという話を聞いて、人々はおどろき、
「まことに聖者の方々は、すべての衆生にとっての福田である。その方々にわずかにでもなされた善い行ないが、天界への生まれ変わりをもたらすとは。」
と言いあって、大きな喜びを感じました。

 
 さて、この一連の話を見てわかるように、この男、もともと大きな功徳があり、またモッガッラーナ尊者とも深い縁がありました。
 よって、もしこの男が、若いころから怠けずに真面目に生きていたならば、親をもしのぐ最高の長者になっていたといわれます。
 また、もしこの男が出家していたならば、解脱し、聖者になっていたといわれます。

 しかし彼は女性にふけり、酒におぼれ、悪友と付き合い、思慮分別にかけた人間となり、徳を使い果たし、やがて持っているすべてのものを失い、悲惨な状態に陥ったのでした。
 そして縁があったモッガッラーナ尊者の偉大な慈悲と神通力によって、なんとか地獄に落ちることは免れたのでした。


 この物語は原始仏典の話ですが、なかなか興味深い、驚くべき話ですね。そして次のようなことを、改めて考えさせられる話だと思います。

 ・聖者(解脱者)に対する信仰と布施の驚くべき力。
 ・聖者への布施・供養とは、聖者がそれを必要としているわけではなく、布施をする者の利益のために、受けてくださるのだということ。
 ・聖者と縁を持つことの重要性。
 ・前生からの徳があったとしても、傲慢にならずにたゆまず徳を積みつづけることの重要性。
 ・徳の無常性と、今与えられたチャンスを逃さないことの重要性。
 ・悪友を避け、善き友を持つことの重要性。
 
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「マイトリーバラ(慈愛の力)」

2009-02-26 23:22:40 | 経典の言葉・聖者の言葉


ジャータカ・マーラー 第八話

「マイトリーバラ(慈愛の力)」




 かつて世尊が菩薩であった頃、一切の衆生に慈悲心を持つマイトリーバラ(慈愛の力)という名の王として転生しました。

 民衆の苦楽は、その王にとっても同様のものでした。それゆえに彼は、武力とダルマの両方を使って、民衆を保護したのでした。

 彼はこのように衆生を守り、真実・布施・寂静・智慧の実践をなし、それを衆生の幸福のために回向し、またその他もろもろの菩薩行によって、菩薩の資糧を積みつづけていました。

 ある時、ある罪を犯したために、鬼神の王から追放された五人の鬼神たちが、マイトリーバラ王の支配する領域にやってきました。鬼神たちは、そこに住む人々の精気を吸い取ろうという欲望を持っていました。

 しかし、いくら努力をしても、鬼神たちは、その地域に住む人々の精気を吸い取ることができませんでした。そこで鬼神たちは、互いに顔を見合わせて、次のように考えました。
「友よ、これはいったいどうしたことか。
 この地域の人々は、われわれを撃退するだけの苦行の力や神通力を持っているわけでもない。それなのに、なぜ我々は彼らの精気を吸い取ることができないのだろうか。」

 このように考えつつ、鬼神がブラーフマナの姿に化身して森を歩いていると、一人の牛飼いに出会いました。彼は木の根元に座り、縄をないながら、気晴らしのために大声で歌を歌っていました。
 ブラーフマナに変身した鬼神たちは、彼のもとに近づき、言いました。
「牛の番をしている人よ。このようにさびしい孤独な森の中に一人でいて、あなたは恐ろしくないのですか?」

 牛飼いは答えました。
「なんでまた、恐れなければならないのか。」

 鬼神たちは言いました。
「鬼神(ヤークシャ)とかラークシャサとか食肉鬼とかのことを、あなたは聞いたことがないのですか。彼は生来凶暴である。
 いかに学問や苦行を積んでいても、世間の人々は彼らから逃れることはできない。
 人の肉を喜んで食べる鬼神たちを恐れることなく、このような人里離れた奥深い森の中で、孤独でいるあなたに、どうして恐怖がないのだろうか。」

 このように問われ、牛飼いは笑い出しながら彼らに答えました。
「ここの人民は偉大な祝福によって守られている。したがって他国の王も、力を及ぼすことはできない。ましてや鬼神たちにはなおさらできない。
 それゆえに私は、森の中にあっても家の中にいるように、夜でも昼間のように、一人であっても多くの人々の中にあるように、安心して過ごすのである。」

 それを聞いた鬼神たちは、好奇心を掻き立てられ、言いました。
「どうか、それについて詳しく話してください。その偉大な祝福とは、いったいどのようなものなのか。」

 牛飼いは、憤慨と驚きをもって言いました。
「ああ、これはおどろくべきことである。
 王の威徳は明らかであるのに、どうして君たちの耳に入っていないのか。
 私が想像するに、君たちが住んでいた地方の人々は、功徳を追求するのが嫌いなのか、あるいは幸運が尽きたのか。何らかの理由で、王の名声が遮られているのか。
 しかし君たちは今、そのような国からここへやってきたのだから、君たちには若干の幸運が残っている。」

 鬼神たちはさらに聞きました。
「どうか話してください。かの王の威神力によって、この地域の人々を鬼神が害することができないとは、いったいどういうことなのでしょうか。」

 牛飼いは言いました。
「私どもの大王の威神力は、マハーサットヴァ(偉大なる魂)の域に達している。
 彼の力は慈悲である。彼はただ慣行に従うのみの軍隊を持つ。
 彼は怒りを知らない。悪口を言わない。そして国土を正しく守る。
 彼の行動の原理はダルマであって、政治的詐欺ではない。
 彼の財は、善き人々をもてなすためにある。
 大王はこのように奇特な人であって、悪人たちの財産や高慢に依存することはない。
 私どもの師である大王は、このような類の幾百の徳をそなえている。それゆえに、そのお方の地域に住む人々を、災害も害することはできない。
 私はあなたたちに、わずかしか話すことはできない。しかしもしあなたたちが王の徳についてもっと聞きたいと興味を持つなら、都に入るがよい。なぜならそこでは人々は自己の義務に忠実であり、聖者の教えを守り、幸福にして繁栄しており、高慢ではなく高貴な装いをしており、来客にことにやさしく、王の徳に心ひかれ、常に王を称賛する賛歌を歓喜して繰り返している。その人々を見れば、あなたたちは王の功徳の大きさを推し量ることができるであろう。そしてあなたたちは王に会いたくなり、実際に会うこともできるであろう。」

 鬼神たちは、王の力によって自分たちの力が妨害されたと聞いて、王に称賛の心を持つどころか、激怒の心を生じさせました。
 そこで、王が布施を愛好することを知った鬼神たちは、王に悪事を働きたいと考え、王のもとにやってきて、食事を乞いました。
 王は歓喜の心をもって、担当者に命じました。
「速やかに好ましい食事を、あのブラーフマナたちに与えよ。」

 こうして素晴らしい食事が提供されましたが、ブラーフマナに変身した鬼神たちは、「我々はこんな食事は食べない」と言って、それを受け取ることを拒否しました。
 それを聞いて、王は彼らのもとへ行き、尋ねました。
「それでは、どのような食事が君たちには適しているのか。何でも望みの物を施そう。」

 鬼神たちは、答えて言いました。
「新鮮で温かい人間どもの血と肉だ。鬼神たちの飲食物は、そのようなものなのだ。」

 こう言うと鬼神たちは、恐ろしい顔で、牙が生え、燃えるような赤いやぶにらみの眼を持ち、潰れた平べったい醜い鼻を持ち、燃え上がる火のような赤い髪やひげを生やした、自らの本来の姿をあらわしました。

 王は彼らを見て、
「この者たちは食肉鬼であって、人間ではない。だからわれわれの飲食物を望まないのだ。」
と理解しました。

 ところが王は、生来慈悲心をそなえ、清浄な心を持っているので、彼らを恐れるどころか、一層の慈悲心を生じさせながら、このように考えました。

「人間の新鮮で温かい血や肉に欲望を持ち、慈悲心に欠けるこの邪悪な者たちは、なんと哀れなのだろう。彼らの苦悩は、いつ消滅するのだろうか。
 懇願された以上、私はそれにこたえないわけにはいかない。
 しかし、彼らの望みをかなえるために、他人を殺すことなどが、私にどうしてできようか。
 よし、決めた。
 この者たちに、私のこの太った肉と血を与えよう。
 自然に死んだ者の肉は、冷たくて、血もない。そのような血肉は、この者たちの食欲を満たすことはできないだろう。
 よって私の血肉を与えるのが一番良いのだ。
 悪性の腫瘍のように、この身体は本来常に痛み、苦悩を蔵するものであるが、このようなすぐれた目的に用いることによって、この肉体は極めて優れた道具と変わるのである。」

 かの偉大なる魂はこのように決心すると、喜びの心を生じ、目や顔の輝きも増し、自分の身体を指差しつつ、鬼神たちに言いました。

「この肉も血も、ただ世間の利益のためにのみ、私は持っている。
 もし今、客人のためになるのであれば、それは私にとっても大きな幸せである。
 さあ、私は、私の血と肉を、あなた方に施しましょう。」

 そして王は、自分の体から肉を切り取るために医者を呼べと命じました。そのとき大臣たちは、王の決意を知って、恐れと怒りに混乱した心を持って、王に対する愛情から、次のように申し上げました。

「王は、布施に対する過度の喜びのために、忠実な人民たちの利益不利益の筋道を無視してはいけません。王にはこのことがおわかりにならぬはずはありません。
 尊きお方よ。生類に不利益を生ずることはなんでも、鬼神たちにとっては喜びなのです。
 王さま。あなたは享楽におぼれることなく、王の労苦を世間の利益のためにのみになっています。それだからこそ、ご自分の肉体を布施しようなどという、間違った決意を捨ててください。
 あの五人の鬼神の食欲を満たすために、人民すべてが不幸に陥るとしたら、これはいったい王の正しい道でしょうか。」

 そこで王は大臣たちに答えて言いました。

「あからさまに懇願されて、私のような者が、現にあるものを無いなどと嘘を言ったり、私は与えないなどと言ったりできようか。
 法の指導者たる私がみずからもし邪道に赴くとしたら、私が歩いた行動の道に従う私の人民の者たちは、いったいどうなるだろうか。
 まさに人民のことを思っているからこそ、私には、人民を守護する力があるのである。
 もし私に、物惜しみやむさぼりによって征服されるような弱い心があるならば、どうして人民を守護することができようか。
 私の手足は肉も太く大きく成長している。私はその自分の肉を布施する用意ができている。なぜならこの者たちはまさに私にそれを求めているのだから。
 君たちは、私に対する過度の愛情ゆえに、法の実践を妨害することはやめてください。そのような意図は正しくない。 
 なおまた、次のようなこともよく考えるべきである。
 食物を布施しようとしている人の妨害をすることは、善い行為なのか、悪い行為なのか。
 君たちは、私の布施行に同意をあらわすことがふさわしいのであって、不安なまなざしはふさわしくない。
 財産はいろいろなものに役立つが、布施のために財産を使ってこそ、財産は価値あるものとなる。しかし布施の対象はいつもいるわけではない。このような乞食者は、神に祈願しても得るのは難しい。
 そのような乞食者がやってきたのに、自分の肉体に執着して布施をためらうならば、それは暗黒の道となるであろう。
 それゆえに君たちは、私を止めないでほしいのだ。」

 このようにして王は大臣たちを説得すると、医者たちに自分の手や足を切らせ、鬼神たちに言いました。
「君たちは、この贈り物を受け取ることによって、私の徳行の援助をしてください。そして私に最高の喜びをお与えください。」

 鬼神たちは、両手を合わせて王の体から滴る真っ赤な血をすくうと、それを飲み始めました。

 鬼神たちから血を飲まれながら、王の体は黄金のように輝いていました。
 王の歓喜の強烈さのゆえに、勇猛さのゆえに、功徳のゆえに、いくら血を吸われてもその身体は衰えず、その心は失神することなく、また流れ出る血が減少することもありませんでした。
 
 鬼神たちは王の血によって渇きも疲労も癒され、「これで十分だ」と王に告げました。

 多くの苦しみのすみかであり、常に恩知らずである身体が、供物としての務めを成就した時、王は歓喜が増大するのを感じました。

 それから王は、目も顔も一層晴々として、自ら鋭い剣を手に取って、自分の肉を切り取って、鬼神たちに食べさせました。
 布施の喜びのために、王の心は、切断の苦悩を味わう余地など全くありませんでした。
 このように自分の身体をもって鬼神たちを満足させつつ、王はまさに歓喜の心を持っていたので、鬼神たちの凶暴な心さえも柔和になっていったほどでした。
 法を愛するが故に、あるいは慈悲心のゆえに、利他のためにいとしい自分の身体を布施しようとする人は、怒りの炎に燃える心さえも、浄信に満ちた心に変えてしまうのです。
 
 鬼神たちは、王が自分の肉体を切り取って自分たちに布施し、また全く苦悩を感じず平静でいるのを見て、最高の敬信と驚きを感じました。
「ああ、まことに稀有なること、未曾有なることだ。これはいったいどうしたことであろうか。現実であろうか。それとも幻であろうか。」

 鬼神たちの中に反省と歓喜の心が増大し、また怒りの心が滅され、王に対する讃嘆と恭敬の心をもって、次のように言いました。
「王さま、やめてください。やめてください。自分の身体を害することに没頭するのはやめてください。あなたのこの未曽有の行ないに、私たちは満足しています。」

 そして敬信の心から、顔中を涙で濡らしつつ、鬼神たちはさらに続けて言いました。
「あなたのような人に守られて、人間世界はまことに幸福です。
 あなたはすでに王の栄光の中にあるのに、さらにこのような稀有なる行為をなさることで、あなたは何を望んでいらっしゃるのですか?
 あなたがこの苦行によって望んでいるのは、すべての人間世界の主となることですか? それとも富の神となることですか? それともインドラ神となることですか? あるいは解脱を望んでいるのでしょうか?」

 王は答えました。
「私が何のためにこのようなことに専心しているかを聞いてください。
 この世の栄光は、容易に滅びるものである。それは真の満足や安楽や寂静に至るものではない。
 それゆえに私は、インドラ神の栄光さえも欲しない。
 また、常に苦しみに沈んでいる寄る辺なき衆生をよく見ているので、私の心は、自己の苦しみを滅するだけで満足するものではありません。
 この功徳によって私は、全智者となり、老病死の大波あふれる生死の海から、衆生を救済しようと願っているのです。」

 そのとき鬼神たちは、信仰の喜びに打ちふるえ、敬礼して王に言いました。
「このような行為は、このようにすぐれたあなたの決意にふさわしいものです。
 それゆえに、あなたの願いは久しからずして成就するでしょう。
 本当に、あなたのこの精進のすべては、世間の利益のためのみにあります。
 しかし私どもは、自己の利益を過度に考慮してお願いします。どうかあなたが全智を得た時には、私たちのことも思い出してください。
 無智なるがゆえに、真の利益が何かも知らずに、私どもがあなたにご迷惑をおかけしましたことを、どうかお許しください。
 どんな命令でも、私どもにお与えください。あなたからの命令はどんなものでも、私どもにはすべて恩寵ですから。」 

 そこで王は、鬼神たちの心が信仰によって柔和になったと知り、言いました。
「自己の血や肉を布施することは、私にとって苦悩ではない。だからこのことについて、危惧する必要はない。
 君たちのような法における友を、全智に達した後に、私がどうして忘れようか。解脱の法なる甘露を、私は最初に君たちに分け与えるであろう。
 君たちが私の命令を欲するならば、命令しよう。
 殺生をしてはいけない。
 他人の財物や、他人の妻に愛著してはならない。
 そして、嘘と飲酒を避けなさい。」

 そのとき鬼神たちは、「そういたします」と約束し、お辞儀し、右回りの礼をしました。

 そして王はさらに自分の血肉を鬼神たちに布施しようとしましたが、鬼神たちはその場で姿を消しました。

 そのとき、大地は震動し、太鼓の音が鳴り響き、花々が舞いました。

 インドラ神は、神通力によってこの出来事の一部始終を知り、王のことを心配して、地上に降りてきました。
 しかし、このような状態になっても王の顔が晴々としているのを見て、インドラ神は王に信を持ち、近づいて、次のような称賛の言葉を述べました。

「ああ、まことに、善き人の行動の卓越せることよ。
 ああ、功徳の修習の宝庫の広大なることよ。
 あなたによって、実に大地は守護されている。」

 このように王をたたえた後、インドラ神は、天界の薬草を使って、王の身体を元通りに戻すと、自分の住居へと戻りました。

 
 大慈悲心を持つ人たちは、このように、他人の苦しみに心を痛め、自己の利益をかえりみないのです。
  
 そしてこのときの五人の鬼神たちは、のちに世尊が全智を得た時、最初の五人の弟子として生まれ変わり、世尊は約束通り、彼らに対して最初に法の甘露を分配したのです。

 この前生談に関連して、世尊はのちに、このように言いました。
「これら五人の修行者たちは、あのとき実に大いに役立ってくれたのだ。」
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「足るを知るアガスティヤ」

2009-02-24 16:53:42 | 経典の言葉・聖者の言葉


ジャータカ・マーラー 第七話

「足るを知るアガスティヤ」



 かつて世尊が菩薩であったとき、あるブラーフマナの家に生まれ、名前をアガスティヤといいました。彼は様々な聖典の儀軌を学び、その学問の名声によって多くの信者を得、多くの財産を獲得しました。
 そしてその財産によって、彼自身も多くの布施を行なっていました。

 さて、あるときアガスティヤは、このように考えました。
「在家の生活は悪い動機・執着・悪業に満ちていて、怠惰の場となっており、財を獲得しても執着することに忙殺され、心を乱すことに熱中し、限りない事業の実行と獲得のために疲労し、いつも不満を感じ、満足を得るのは難しい。
 これに反して出家の生活は、在家のデメリットを離れた楽しみがあり、ダルマにかなった行ないがあり、解脱の法を行なうよりどころである。」

 こうして彼は、自らの多くの財産を草のように捨て去って、出家修行者となりました。
 
 しかし出家した後も、この名声高き偉大なる魂のもとへは、多くの信者たちがたずねてきました。彼は、在家の人々と接すると、厭離の楽しみが乱され、執着を離れることの妨害となると考えて、南の海の真ん中にあるカーラー島という島に渡り、ひそかにそこに住むことにしました。

 そこにおいて彼は、苦行においてひどくやせ細っていましたが、美しく輝いていました。
 彼は森で手に入る食物だけで生活し、また布施の習性から、たまたまやってきた客人に、自らが食べるために集めてきた木の実や根や清水を捧げ、その残り物だけを食べていました。
 戒律や誓いをひたすら守り、寂静の心によって感覚器官を不動にし、動物や鳥たちでさえもが、彼を聖者であると理解していました。

 このような卓越した苦行者であるアガスティヤを見て、インドラ神は心惹かれて、彼の堅固さを知りたいと思い、彼が住んでいる森の中から、食用となる根や実などをすべて消し去ってしまいました。
 しかし菩薩は、瞑想に専念する心を持ち、足るを知るが故に、無執着なるが故に、食物にも自分に肉体にも愛着がないが故に、森から食物が消えた原因について思いめぐらすことはありませんでした。
 彼は食用に適さない木の葉を煮てそれを食べ、安らかな心をもって、以前とまったく同様に生活していました。

 それを見たインドラ神は一層驚いて、彼への尊敬の念を一層強くしつつ、さらに彼を試みるために、巨大な風を巻き起こし、森のすべての蔓、草、木、葉などを吹き飛ばしてしまいました。
 しかしアガスティヤは動ずることなく、落ち葉を拾ってきてはそれを煮て食べ、何の苦痛も感ずることなく生活しながら、瞑想の喜びを楽しみつつ、満足して暮らしていました。
  
 それを見たインドラ神は、彼の「足るを知る」心の堅固さに一層驚き、人間のブラーフマナの姿に変化して、アガスティヤの前にあらわれました。
 それを見た菩薩は喜んでブラーフマナに近づき、やさしい言葉とともに、食事に招待しました。ブラーフマナがそれを承諾すると、菩薩は布施の喜びに目も顔も輝き、苦労して入手したわずかな食物のすべてをブラーフマナに布施しました。そして自らは何も食べることなく、歓喜の状態で瞑想に入りました。

 インドラ神は、次の日も次の日も、五日間連続で、同様にブラーフマナに姿を変えて、菩薩の前にあらわれました。菩薩は毎日、一層歓喜した心をもって、自らは何も食べずに、食物を布施し続けました。

 さて、インドラ神はこの上もなくおどろき、このお方は卓越した魂であるがゆえに、三十三天界の主である自分の地位を奪われてしまうのではないかという恐怖と懸念が生じました。そこでインドラ神は、自らの神としての正体をあらわすと、菩薩に尋ねました。

「いとしい親族や従者たちを捨てて、あなたは一体何を望んで、この苦行の苦しみに住するのですか。
 財物を軽んじ、悲しみに打ちひしがれた親族を捨てて、安らぎのない苦行林へ赴くのは、些細な理由によるはずはない。
 私のこの好奇心に、どうぞあなたはお答えください。あなたの心がこのような功徳の探究に魅せられたのはどうしてでしょうか。」

 菩薩は答えました。

「尊者よ、聞いてください。私の努力が何を目的としているかを。
 輪廻転生を繰り返すことは、はなはだしい苦しみである。老いの不幸も、病の恐ろしさも同様である。また、死なねばならぬという心の悩みも同様である。
 私はこの苦しみから、世間の人々を救おうと決意した。」

 そこでインドラ神は、「この方は私の地位を狙うような者ではない」と安堵し、また、その言葉に心やわらげられ、菩薩を称賛しつつ、こう言いました。

「苦行者よ。あなたの語った素晴らしい言葉に対して、私は施物をあたえよう。何でも欲するものを言いなさい。」

 しかし菩薩は、世間のもろもろの楽しみに無関心であり、欲望は苦の原因であると知っていたので、「足るを知る」の心をもって、こう答えました。

「いとしい妻子、権力、大きな財産を得たとしても、火のような欲望は、決して満足に至ることはない。
 よって私は願います。愛著の火が、決して私の心に入りませんように。」

 そこでインドラ神は、菩薩をさらに称賛して、再び言いました。

「聖人よ。あなたの語った素晴らしい言葉に対して、私は施物をあたえよう。何でも欲するものを言いなさい。」

 菩薩は答えて言いました。

「インドラ神よ。よき徳に住する方よ。
 人は怒りの炎によって、まるで敵に支配されたかのように、財も、美も、和も、敬いも、名声も幸福も失ってしまう。
 そのような怒りの炎が、私の心から遠ざかりますように。それが私の願いです。」

 その言葉を聞くと、インドラ神はさらに驚いて、彼をたたえて、再び言いました。

「あなたの語った素晴らしい言葉に対して、私からの贈り物を何か受け取ってください。」

 菩薩は答えて言いました。

「私が、愚者を決して見聞きすることがありませんように。
 私が、愚者に話しかけることがありませんように。
 私が、愚者とともに住むことの倦怠と苦悩を受けることがありませんように。
 これが私があなたにお願いしたいことです。」

 これを聞いて、インドラ神は言いました。

「苦難に落ちた人こそ、よき人々に憐れまれるべきです。
 愚かさは、もろもろの苦難の根本であり、最悪のものです。
 あなたは慈悲深い人であるのに、なぜ慈悲を必要としている愚者と会うことを望まないのか。」

 菩薩は答えて言いました。

「尊者よ。ここでいう愚者とは、現時点においては治療不可能な愚者たちのことです。
 そのような愚者に会うことは、どうしてもだめなのです。
 もし少しでも治療可能な愚者ならば、私は利他の努力を怠ることはないでしょう。
 しかし現時点において治療不可能な愚者は、会うに値しないのです。
 彼は悪行を善行であるかの如くに行ない、他の人をも悪に引き込みます。
 そして自己を賢者と考える慢心の迷妄に焼かれ、乱暴であり、有益な助言をする人に対しても、ただ怒りによって返すのです。
 このような愚者と会うことは、私の心の汚れとなり、彼自身も悪業を積むことになってしまいます。
 よってそのような愚者には、会うことさえも許されないのです。」

 この言葉を聞いてインドラ神は、彼を称賛して、再び言いました。

「あなたの語った素晴らしい言葉以上に、価値あるものはない。どうか私の贈り物を受け取ってください。」

 菩薩は答えて言いました。

「私は賢者にお会いしたい。
 賢者のお言葉を聞きたい。
 インドラ神よ、私は賢者とともに住みたい。
 私が賢者と会話をともにすることができますように。
 神々の王よ。この贈り物を私に与えてください。」

 インドラ神は言いました。

「あなたは賢者を極度に偏愛しているようですが、まずそのわけを話してください。
 あなたはまるで馬鹿のように、賢者に会うことを渇望しています。そのわけを話してください。」

 そこで菩薩は答えて言いました。

「尊者よ、聞いてください。私の心が賢者に会うことを切望するわけを。
 彼は自ら功徳の道を歩む。
 その道によって他の人々をも導く。
 常に利他心に満ちているので、怒りの心が生ずることはない。
 彼は常に偽りを離れた戒律を守り、誰に何を言われても、利他心が崩れることはない。
 こういうわけで、私は功徳を偏愛しているので、功徳を偏愛する賢者を偏愛するのです。」

 そこでインドラ神は菩薩をさらに称賛して、再び彼に贈り物をすることを申し入れました。

「あなたは『足るを知る』ことを成就しているがために、何も必要としていないのでしょうが、私のためを思ってくださるなら、どうか私の贈り物を受け取ってください。
 私はあなたに心から奉仕したいのです。あなたに贈り物を拒絶されることは、私には大きな苦悩なのです。」

 インドラ神のこの上ない奉仕の願望を知って、彼の利益を願う心から、菩薩はこう言いました。

「それではインドラ神よ、清浄な戒律を守って生活してるわれわれ苦行者たちに、飲食物の供物をお与えください。」

 インドラ神は言いました。

「わかりました。素晴らしい飲食物を、あなた方苦行者たちに与えましょう。
 さあ、さらに贈り物を差し上げましょう。何でもおっしゃってください。」

 菩薩は答えて言いました。

「さらに私の願いを聞いてくださるなら、インドラ神よ。二度と私に近づかないでください。」

 このように言われてインドラ神は、驚き、また激怒しつつ言いました。

「そのようなことを言わないでください。私はあなたに贈り物を与えたいと思って来ているのに。この世の人々は、祈り・誓い・供養や苦行などの様々な手段によって、私にまみえたいと願っているというのに。」

 菩薩は答えて言いました。

「どうか怒らないでください。神々の王よ。私はあなたを尊敬しており、不敬を働くわけではありません。
 しかし、あなたの超人的な光り輝く姿を見、あなたの恵みの優しさに触れると、私の中に、楽を求める怠惰な心が生じるのではないかということを、私は恐れているのです。」
  
 これを聞くとインドラ神は、菩薩を右回りの礼で礼拝して、姿を消しました。

 夜明けになって、菩薩は、インドラ神によって送られた数々のすばらしい飲食物を見ました。さらに、インドラ神の招待に招かれた幾百人の聖者たち、そして彼らに供養しようと待っている神々の子たちを。

  
 このように、苦行林に住む苦行者たちにとっても、「布施」と「足るを知ること」は不可欠な要素なのです。
 ましてや、在家者にとってはなおさらです。
 したがって、善き人は、「布施」と「足るを知ること」に励むべきです。
 そして、布施・愛著を捨てること・怒りを捨てること・迷妄を捨てること・賢者に会うこと・足るを知ること、そして如来の素晴らしさについて、思惟を巡らすべきです。

 このようにもろもろの前生においても、世尊は素晴らしい言葉の宝庫だったのです。まして正覚を開いた後においては、なおさらのことなのです。 

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こころ

2009-02-24 07:25:31 | 松川先生のお話

 「私は二面性があるんですよ」と言う人がいるけれど、
 二面性どころじゃない。数え切れないほどの面を、人間の心は持ち合わせている。
 なぜなら我々が「心」と呼び、また「私」と呼んでいるこのこれは、単なる情報の含まれた粒の寄せ集めに過ぎないからなんだ。
 その粒のある傾向の集合部分に意識がシフトしたとき、人は善人になるし、別の集合部分にシフトしたときは悪人になる。
 でもそのどれも、本当の自分じゃないんだ。
 我々が認識する表象的な心の海の奥に、潜在意識の海がある。しかしこの潜在意識もまた、本当の自分ではない。これもまた情報の粒の集まりに過ぎないんだね。
 情報っていうのは、過去に経験したこと、または経験してないけど見たり聞いたりしたことの記憶だ。
 だから心というのは、単なる記憶の集まりに過ぎないともいえるね。

 これは他人についても同じだ。「あの人はいい人だ」とか「あの人は嫌なやつだ」と言うけど、それも正しくない。それも彼の中の情報の粒の集まりのある面をちょっと見てるに過ぎないからね。その人にはいい面も悪い面もあるだろう。そして自分とその人との縁、カルマ的条件によって、自分がその人のどの面を見、どう感じるかが決まってくるんだね。

 だから自分の心も自分ではない。
 自分が観ている他人の心も、本当のその人ではない。
 また、他人が見る自分の心も、本当の自分を見ているわけではない。

 よく「本当の自分」と表現される潜在意識も、単に表層意識より深いというだけであって、本当の自分ではない。

 それらただの情報に過ぎない心のもっと奥に、それらを見ているだけの、純粋観照者と呼ばれる、本当の自分がいるんだね。

 もちろん、しかしその前には、その偽りの心、情報の粒の集まりに過ぎない心の浄化から始まらなければいけない。汚れた考え方や思いを徹底的に浄化する。過去の経験への悪い思いを徹底的に整理する。
 つまりね、経験そのものには善悪はない。その経験のとらえ方が汚れてるから、心が汚れるんだよ。 
 しかし過去のことについては、すでに間違ったとらえ方によって悪い心ができてしまっている部分がある。それはいろいろな修行で浄化しなきゃいけない。そして未来については、一切の経験において心を汚さず、逆にきれいな心をより磨くための条件としてとらえるんだ。
 このようにして心の海を、きれいに、透明にしていく。
 なぜか?
 この心の海が透明になって初めて、その奥にある純粋観照者、真我を発見することができるからなんだ。


 さて、話を戻すと、一般の場合、人間は、自分の潜在意識の汚れた欲求を隠すため、この世で善人として生きていく。それは少しずつ少しずつ偽善を重ねて、いつの間にか、もう、何が自分の潜在意識なのか、よくわからなくなってしまっている。重ねすぎてるんだね(笑)。もう、わけがわからないんだ。
 ヨーガや仏教の修行を続けると、逆に、これらの偽りの心の積み重ねが、どんどんはがれていく。それによって、潜在意識の、もう少しハッキリした、自分の心の要素が現われてくるんだね。
 だから本格的なヨーガや仏教の修行を続けるとね、ある時期、まるで煩悩が増えたように感じることがあるんだよ。修行してるのに、以前よりわがままになったり、欲求が強くなったように感じることがある。
 しかしそれはそうじゃないんだね。表面の様々な汚れが取り除かれて、やっと本質的な汚れと清らかさが顔を出し始めたってことなんだ。それが本当の心の浄化のスタートなんだね。
 
 だから単にいいお話の書いてある本とかを読んで、善人になった気持ちになっていてはいけない。修行して、自分の偽りの要素を吹き飛ばし、深い自分の心と対峙しろ。それは壮絶な戦いになるかもしれないし、何度も負けて、地をはいつくばうような泥臭い感じになるだろうけど、修行とはそういうものだ(笑)。

 そのようにしてね、前述のように、過去の経験から来る心を浄化し、未来の経験において心を汚すことなく、心の海を透明にしていこう。
 それによって最も幸せになるのは、その人自身だよ。その状態をサットヴァというんだ。サットヴァの心の状態になったとき、その人は平安で、生き生きとして、至福に満ち、智慧にあふれ、周りの人をも幸福にしてしまう輝きを放つことだろう。

 まずはそういう状態を目指したいですね。そしてその奥に、解脱があります。

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慈悲喜捨

2009-02-23 23:35:19 | 松川先生のお話
 四無量心について、改めて簡潔に書いてみよう。

 四無量心とは、四つの心の実践を無量に行なうということである。それは簡潔に言えば、

慈・悲・喜・捨

の四つということになる。

 よく「慈悲」と言うが、その慈悲は、この四無量心の最初の二つにあたるわけだ。

 慈とは、すべての他者の幸福を願うこと。
 悲とは、すべての他者の不幸を悲しみ、救いたいと願うこと。
 
 そして喜とは、すべての魂の進化を喜ぶことであり、
 捨とは、自己を捨てることである。 

 つまり簡単に言えば、
 他の幸福を願い、他の不幸を悲しみ、他の魂の進化を喜び、そして自分の苦楽についてはどうでもいいと。 
 この実践を日々心がけるならば、精神性は高められることでしょう。


 そしてさらに言うなら、実はこの四無量には別の四つの無量の面もあります。
 それは
 1.期間が無量であり
 2.対象が無量であり
 3.功徳を積むことが無量であり
 4.智慧を磨くことが無量である

 1の「期間が無量である」というのは、「いついつまで」とか限定がなく、すべての魂が苦悩から解放されて解脱しない限りは、これらの心を持ち続けるということですね。
 2の「対象が無量である」というのは、「あの人は幸福になってほしいけどこの人はどうでもいい」といったような限定を設けずに、すべての魂に平等に四無量心を発するということですね。
 3と4に関しては、四無量心を実行に移す場合、膨大な功徳と智慧が必要になるわけだけど、器の狭い人は、ある程度の功徳や智慧で満足してしまう。そうではなくてひたすら功徳を積み続ける。そしてひたすら智慧を磨き続けるということだね。



 つまりまとめると、

 すべての魂が苦悩から解放されるまで、
 すべての魂に対して平等に、
 幸福を願い、不幸を哀れみ、進化を喜ぶ。
 そして自分の苦悩はどうでもいいと。
 そして思いだけではなくて実際に人々を救うために、自らの功徳と智慧を磨き続ける。 

 このようなことに人生を使いたいですね。

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3月~5月の出張ヨーガ講習会

2009-02-23 21:18:24 | お知らせ


 以下の日程で、出張ヨーガ講習会を開催いたします。


 参加希望の方は、お早めにメールでご連絡ください。

 皆様のご参加を心よりお待ちしております。







3月1日(日)13:30~16:30
☆場所:京の山杣人工房「空」
JR京都駅から徒歩5分 下京区総合庁舎となり
http://somabitoqo.exblog.jp/i11


3月8日(日)15:00~18:00
☆場所:名古屋・亜細亜大陸アカデミー
地下鉄矢場町駅から徒歩3分
http://ajiatairiku-academy.com/asia/access.html


3月15日(日)12:30~15:30
☆場所:京の山杣人工房「空」
JR京都駅から徒歩5分 下京区総合庁舎となり
http://somabitoqo.exblog.jp/i11


3月22日(日)12:30~15:30
☆場所:札幌・スタジオオンズ(スタジオB)
JR札幌駅から徒歩5分
http://www.studio-ons.com/contactus/index.html


3月29日(日)15:00~18:00
☆場所:岡山・「何でも館」内レンタルスペース
JR高島駅から徒歩1分
http://www.nandemo-ya.net/rentalspace/


4月12日(日)15:30~18:30
☆場所:京の山杣人工房「空」
JR京都駅から徒歩5分 下京区総合庁舎となり
http://somabitoqo.exblog.jp/i11


4月26日(日)13:30~16:30
☆場所:京の山杣人工房「空」
JR京都駅から徒歩5分 下京区総合庁舎となり
http://somabitoqo.exblog.jp/i11


5月17日(日)15:30~18:30
☆場所:京の山杣人工房「空」
JR京都駅から徒歩5分 下京区総合庁舎となり
http://somabitoqo.exblog.jp/i11






☆詳細-----------------------------------------------------------------------------------



☆参加費:3000円

☆内容:クンダリニー・ヨーガ、ハタ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガなどの各種行法実践と講義。
    初心者の方でも問題ありません。お気軽にご参加ください。

☆定員:3名~20名
    ※参加希望者が定員に達しなかった場合、中止になる場合もありますので、ご了承ください。

☆予定しているメニュー:アーサナ(気を調える体操)
            気功(気を充実させる内気功)
            プラーナ―ヤーマ(各種の呼吸法)
            ムドラー(覚醒の技法)
            マントラ
            瞑想
            講義
 
☆持ち物:動きやすい服装
     ヨガマット、または大きめのバスタオルなど(床に横になるときに下に敷けるもの)。

☆申込先:私宛にメールでお申し込みください。



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◎真の放棄

2009-02-23 19:11:55 | 解説・バガヴァッド・ギーター



【本文】『真の放棄と、結果を求めぬヨーガは、同じであることを知りなさい。パーンドゥ王の息子よ! 感覚を満足させたいという欲望を捨てずして、なんびともヨーギーになることはできないのだ。』


 はい。『結果を求めぬヨーガ』。ここでいうヨーガっていうのは、さっき言った神の意思の実行ですね。つまり結果を求めずに神の意思を実行するということは、これは正に『真の放棄』なんだと。これも真の放棄という言葉を聞いたときに、単純に世間を捨てればいいのかっていうとそうではないんだと。結果を求めずに神の意思の人生を全力で生きる。これこそが真の放棄なんだよということだね。
 そして『感覚を満足させたいという欲望を捨てずして、なんびともヨーギーになることはできない』。これもその言葉どおりだね。
 あの、いろいろ質問とかあったら途中で聞いてくださいね。

(K)すいません。『真の放棄』の意味をもう一回お願いします。

 結果を求めることなく、ただ神の意思としてこの人生を全力で生きる。それはそういう一つ一つの説明っていうのは前の章でも何度もやっているんだけども、まず神の意思とはなんだろうかっていうのがあるわけだけど、それはもう修行するしかないんだけどね(笑)。修行して日々誠実に生きる。そして純粋に生きる。いろいろね、エゴが勝ってしまうとエゴの方の見方をしてしまって、「ああ、これは神の意思だ」と思って、単に自分の煩悩を満足させてしまう人もいますが、そうじゃなくて――まあ智慧がなくてわからないのはしょうがないけども、少なくとも誠実でなくてはいけない。神に対して誠実になって、神の意思として今私がやるべきことは何かっていうことをまず探るわけですね。で、その自分にやってきたいろいろな出来事を逃げずに受け止めて、神の意思としてそれを全力で生きる。で、全力で生きたけど失敗しちゃったとか、全力で生きたけどあまり大した結果が得られなかったとか、そんなことはどうでもいいということだね。
 つまり、「これだけやったんだからこうじゃなきゃ嫌だ」とかそういうのは全部捨てて、ただ自分にやってくるさまざまな現象を全力で生きると。で、これこそが真の放棄なんだということだね。
 つまりこれは言葉のトリックだね。だから放棄っていうと――例えばですよ、会社で嫌な同僚がいてチクチクと意地悪をしてくると。そこでヨーガ教室に来て、先生に相談したら、「相手に慈愛を発しなさい」と言われたと。でもそれは嫌だと(笑)。辛いと。会社辞めましたと。放棄だと。それは違うんだっていうんだね(笑)。それは放棄とは言わないんだと。
 本当の放棄というのはこの場合は、ああ、そうかと。先生がそう言ったし、今私に与えられた神の意思っていうのはこの嫌な、自分に意地悪してくる人を愛する修行をすることなんだなと。で、それをして――さっきKさんが言ったことみたいに、相手がまったく全然それに返してくれなかったとしてもまったくそんなのは問題ではない。そこで生じる結果というのは問題ではなくて、あるいはそれをやることが苦しいのか楽しいのか、それもまったく問題ではない。それが成功したら嬉しいとか失敗したら嫌だとか、そんなのはまったく問題ではない。ただこれは神の意思なんだなと思って淡々と生ききると。これが本当の放棄だと。
 だからそうではなくて、今の例でいうと、「ああ、苦しい。嫌な人がいるから会社を辞めました」っていうのはこれは放棄ではなくて逃げだと(笑)。ぜんぜん放棄してないわけだね。だからここらへんは、その言葉の間違いをしないようにしなければならないね。
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ディヤーナ・ヨーガ

2009-02-21 19:49:31 | 解説・バガヴァッド・ギーター
20070214 バガヴァッド・ギーター⑤ 「第六章:ディヤーナ・ヨーガ」




◎瞑想を中心にしたヨーガ

 はい。今日は第六章、ディヤーナ・ヨーガっていうタイトルがついていますね。ディヤーナっていうのは、これはディヤーナっていうインドのサンスクリット語がね、中国に渡って禅という言葉になりました。つまり禅とか禅定、瞑想のことですね。つまり瞑想のヨーガ。
 この前までっていうのは――あまりわれわれの知っているヨーガ、ヨーガ修行との世界とはちょっとイメージが違って、日々の生活の中でのカルマ・ヨーガとか神を祈るとか、神の使命であるこの人生を全力で生きるとか、そういう話ばっかりだったけど、このディヤーナ・ヨーガっていうのはわれわれのよく知っている瞑想を中心としたヨーガ。われわれがこういう教室とかでよくやっているハタ・ヨーガとかも、当然その瞑想のための体や呼吸を整えるものなので、結局このディヤーナ・ヨーガに通じるヨーガということになりますね。つまり今普通にヨーガとして世界に知られているヨーガ。このディヤーナ・ヨーガの話に、ここから入っていきます。




◎真のヨーギーとは

【本文】
『至高者はこうお説きになった。行為の結果に執着せずに、ただ使命として行為を行なう人
それこそが真の出家修行者、真のヨーギーなのであり、祭祀の火を絶やさぬ人や行為をせぬ人がそうだというのではない。』


 はい。ヨーギーとは何かと。この『祭祀の火を絶やさぬ人』っていうのは、これはつまりヒンドゥー教のね、いろいろな宗派があるわけだけど、祭祀、つまり神へのいろいろな儀式を行なうときに火を焚くわけだけど、例えばお釈迦様の弟子だったカッサパ兄弟っていう人がいるわけですが、このカッサパ兄弟とかもそうだったって言われますが、神への火をずっと焚いてね、で、それを決して消してはいけないと。どんなことがあっても火をくべてそれを消さないようにするんだね。それが神への儀式の凄く大事なことだって考え方ね。で、そういうこと一生懸命やって、はい、私はだから偉大な真のヨーギーなんだと。こういうことは間違いだと(笑)。それはヨーギーのポイントではないと。
 もちろんこの神への祭祀の火を絶やさぬ人っていうのは一つの象徴的なことなわけだけど、単純に昔から伝わっている儀式を一生懸命やっている人をヨーギーというのではないのだよと。
 で、もう一つ。『行為をせぬ人がそうだというのではない』。これは前の章からずっとあるけども、単純に世間から離れて山に籠ったり部屋に籠ったりして、ただ何もしないでいると。はい、私は何もしないでいる世間から離れているヨーギーなんだよ、それは違いますよということだね。
 じゃあ何をもって真のヨーギー、真の出家修行者なのかというと、『行為の結果に執着せずに、ただ使命として行為を行なう人』だと。で、この意味っていうのはもう前の章で散々説かれているね。つまりわれわれは行為を離れることはできないんだね。身・口・意と言いますが、体・心・言葉――この行為、動きっていうのはストップさせることは不可能。ストップしたらそれは解脱です。解脱っていうかニルヴァーナだね。われわれは――つまりわたしはすべてから離れたと言いながら、例えば山に籠ったら山での行為が始まるわけです。部屋に籠ったら部屋の中でのいろいろな心の動きとか、部屋の中での体の動き、あるいは言葉が始まるわけです。だから結局われわれは行為から離れられないんだね。だからそうじゃなくて、ただ私の人生における今やるべきことはなんだろうかと。あるいは神の意思、使命とはなんだろうかと。それをただ考えてその結果には一切執着しない。これが真のヨーギーなんだよっていうのがこの一行ですね。

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無我と慈悲

2009-02-21 15:50:14 | 松川先生のお話


1.他者の幸福を願うこと。
2.他者の苦しみを救いたいと願うこと。
3.他者の善を喜ぶこと。
4.他者が自己に与えた苦痛には頓着しないこと。
  (または、すべての他者を平等に見ること) 

 この四つは、まあ、4番目が派によって多少違うと思いますが、四無量といい、仏教発祥の考え方なのに「ヨーガ・スートラ」などにも載っていて興味深いですね。

 さて、歴史的考察なども無視して、私が修行者としての立場から「仏陀は何を悟ったか」を類推するならば、やはり「無我と慈悲」だと思いますね。
 慈悲というのはもっと耳障りのいい言葉では「愛」といってもいいんですが、恋人や家族への人間的な愛などではなく、全宇宙の全存在を認め、許し、受け入れる愛ですね。
 無我というのはおそらく、多くの人が感じている無我の意味と、私が感じている無我というのはちょっと違っていて・・・我が無いというよりも、我の放棄によって真実が現われるという機能的説明というかな。
 だからこの「無我」も「慈悲」も、悟りそのもというより、悟りというものに至る究極的に単純化されたポイントといってもいいかもしれませんが・・・

 まとめると、我を放棄し、我を形成するすべての要素を破壊し、すべての他者に愛を発する。

 そこには至福があり、安穏があり、悟りがあります。

 その悟りの内容は、やはり言語化するには限界があるような気がします。

 私の感覚では、修行や論理的分析の積み上げは悟りに必要ですが、その積み上げたその上に悟りがあるわけでは決してないということです。
 はしごを一段一段上り、壁の向こうの「悟りの世界」を見るのですが、向こうの世界とそのはしごとは、何の関係もないでしょう(笑)。
 はしごは悟りに必要なのですが、はしごの上に悟りがあるわけではないのです(笑)。


 愛とか慈悲とかいうと、それは仏陀自身というよりも大乗仏教に入ってからの考え方ではないかと言われる方もいるかもしれません。確かにそういう考え方もあるでしょう。しかし私は原始仏教の教えの中にも、また仏陀ご自身の生き方の中にも、十分に、愛や慈悲の重要性のメッセージを、個人的には感じるのです。
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スワイショウ ステップ3

2009-02-21 11:44:42 | シャンバラ・ヨーガ 修行体系奥儀 入門編

1-3 スワイショウ ステップ3

①スワイショウ・ステップ2と同様に上半身を回転させるが、腕の軌道を少し変え、

手が首のあたりと腰を打つようにする。

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