ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

◎普遍の存在

2009-01-31 19:55:30 | 解説・バガヴァッド・ギーター

◎普遍の存在

【本文】
『カルマ・ヨーガを行ずる人は、すべての執着を捨てて、体と心と知性を用いてさまざまな行為をするが、
それはただ、自分を浄化するためにやっているだけなのだ。

カルマ・ヨーガを行ずる人は、すべての行為の結果を捨て、真の平安の境地に達していく。
しかし行じない人は、行為の果報を求め、心は行為にとらわれ、絶えず不安を抱えている。

肉体感覚を抑制し、識別の力によっていかなる行為にも執着しない魂は、
自分が行為することも他人を行為させることもなく、九門の町(肉体)に常に楽しく住むようになる。

至高者が、この世の生き物のため、行為する力や、行為そのものや、行為の結果を作り出しているのではない。
ただ(至高者によって創造された)自性がそういうものを生み出しているのに過ぎないのだ。

普遍的存在者としての大霊は、いかなる者の罪にも、徳にも、かかわることはない。
だが、生き物はそのことを知らぬがゆえに、迷い苦しむことになる。

だが真我に精通することによって無智の闇を打ち破った人は、
その完全なる叡智によって至高者の存在を明らかにする。ちょうど太陽が万物を明らかに照らすように。』



 はい。まあここのところの前半は、まあ、さっきからの続きの、同じようなことですね。で、後半。これはヨーガの一つの最高の真理であり、同時に仏教、特にマハームドラーとかゾクチェンとかいう密教で説くところの最高真理と全く同じですが、『普遍的存在者としての大霊』っていう表現がされてますが、これはまあブラフマンといってもいいし、シヴァといってもいいし、あるいは真我といってもいいし、あるいはわれわれの心の本性といってもいいし、ブッダといってもいいし、もともと全く何とも関わらない、純粋なわれわれの本質があるわけですね。で、それは、いかなるものにも関わらない。それは罪にも徳にも関わらない。
 そうじゃなくて、至高者――つまりシヴァやクリシュナや如来といった――が創り出したとされる、自性といわれる――まあこれはいつもいってることだけどね、つまり、われわれとは本来全く関係のない映画のような、ものの動きがあって、その自性と呼ばれるものが創り出したいろんな劇みたいなものが、われわれの全ての行為なんだよと。あるいは、行為の――カルマの法則も含めて、この世のいろんな動きなんだよと。しかしそれに惑わされずに、われわれの心の本性、真我に覚醒した人っていうのは、ちょうど万物が――太陽が万物を明らかにするように、至高者の存在を明らかにすると。まあ、これはいつもいってるようなことですね。
 結局われわれの行為っていうのが、何度も繰り返すけども、われわれが実際は為しているわけではないと。だから、ここら辺はちょっと深く読み解かなきゃいけないのは、ここで至高者っていう言葉っていうのは、クリシュナとかシヴァとかいった、われわれが供養すべき偉大な魂であると同時に、われわれ自身だっていうふうに考えなきゃいけない。で、この宇宙の絶対的存在としての至高者がいるんだけど、でもこれが「ああ、至高者ー」ってわれわれが言ってるっていうことは、われわれは今この幻影の中に巻き込まれてるからです。でも本当の本当のこというと、われわれも至高者と一体なんです。これに気づかなきゃいけない。これに気づいたら、実は私は何にもやってなかったと。最初から動いてないし、最初から苦しんでもいないし、常に至高者と一体の、完全なる純粋だったっていうのに最後は気づくんだけど――っていうとこだね。
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心の湖

2009-01-31 16:02:12 | 松川先生のお話




 仏教では「止観」、つまり「寂止(サマタ)」と「正観(ヴィパッサナ)」というわけだけど、正確に自分の心を見つめる、あるいは宇宙の情報を得るには、まず心が寂静で静まった状態が必要なんだね。

 よくね、インスピレーションとか、気づきとか、自己観察とか、あるいは神とか宇宙とかからのメッセージとか示唆を受けたとかね、精神世界では言うよね。いや、精神世界じゃなくても、日常でも、そういうのを大事にする人はいる。

 しかしその情報がどれだけ正確かということだね。

 わたしたちの心というのは、たとえばここに湖があってね、その中がかき回されている状態だ。

 そうなるとどうなる? 湖底の泥とかがね、ぼあっと、グジャグジャに浮いてね、何も見えないんだよ。
 これが無明だね。
 この泥っていうのは、経験の情報とでも言えばいいだろうか。それが整理されない状態で、心の湖にぼあっとグジャグジャに広がっている。

 この状態で、正確な智慧や、情報を得ることはできない。

 だからまずはね、心を静めることが重要なんだ。

 たとえばヨーガ修行を続けているとね、最初は瞑想なんて、気が散ってぜんぜんダメだったのがね、5分、10分、30分、1時間と、楽に座れるようになってくる。背筋をぴんと伸ばしてね。
 つまりこれは心が整理され、寂静になってきてるんだ。
 寂静と無智は違うよ。ただボーッとして、無智のまま時間が過ぎる、これじゃダメだ。
 じゃなくて、非常に気持ちが良く、クリアな意識で、長く座れる状態だね。
 わたしのヨーガ教室でもよくあるんだけどね、瞑想してて、はい、時間です、と言うんだけど、生徒さんが、なかなか瞑想から起きてくれないんだよ(笑)。気持ちよすぎて、瞑想をやめたくなくてね(笑)。
 
 こういう感じで、心を静めていくとね、つまり湖にグジャグジャに浮かんでいた泥がだんだん沈んで、湖が非常にきれいな水の状態になる。そうするとね、たとえば、あ、この湖の底には、こんなゴミがあったのかとか、あるいはこんな宝物があったのかとか、そういうことが分かってくるんだ。そしてそれは正確な情報になる。

 つまりそうでない場合は、私たちが見ているのは、整理されない心の泥に覆われた、幻影に過ぎないということだね。
 
 だからまずは心の静寂な状態を目指しましょう。それにはヨーガの技法や、マントラとか、いろいろ方法はあるね。あるいはもちろん、日常生活において、心の持ち方に気をつけることも必要だ。

 あるいはね、しっかりと気道を通して、体中を神聖なエネルギーで満たせば、自然に静寂な状態がやってくるよ。この静寂というのは、空虚な、弱弱しい静寂じゃなくて、なんていうか、満たされた感じの、充実した静寂だね。

 そう、そもそも静寂っていうのは、充実してるんだよ。わたしの体験ではね。充実してクリアで生き生きとした心の状態。この状態の中で、いよいよ心の探求、あるいは宇宙の探求をしていくんだ。それが瞑想だね。
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◎何のために行動しているか

2009-01-30 22:57:10 | 解説・バガヴァッド・ギーター
◎何のために行動しているか

【本文】
『至高者に行為の結果を供養し、執着心を捨てて自らの義務を遂行する人は、
いかなる罪悪にも染まり汚されることはない。蓮の花が水にぬれることのないように。』


 はい。これはまあ、同じですね。自分の行為の結果を常に至高者に――至高者、ここでいう至高者っていうのはまあ、クリシュナのことだけども、この全宇宙に広がる完全なる真理といってもいいでしょう――それに対して供養し、執着を捨てて自らの義務を遂行すると。ここでいう義務っていうのはもちろん、さっきも言った、神から与えられた、今自分がなすべきことだね。それはもちろん、人々を救う、救済に関係することだったらもちろん一番素晴らしいけども、それ以外でも、自分が今やらなきゃいけないことっていうのは全部神の意思なんだということだね。
 例えば日本の場合は、修行したくてもやっぱ働かなきゃいけない。でもその働かなきゃいけないっていうのは、何のために働いてんだっていう場合、まあ、例えばEさんを一つ例にとった場合ね、Eさんはすごく修行したがってると。もう、出家までしたがってるぐらいで。ということは、Eさんの人生の一つの――一つっていうか大いなる目的っていうのは、修行なわけですよ。修行っていうのはつまり、自分が悟りたいと。あるいは、できれば多くの人を救いたいと。そのためには、この体を、あるいは同じ修行者である奥さんも含めて、この体を維持するために食べなきゃいけないし、で、住居も必要だし。あるいは例えばヨーガ教室に通うお金も必要だし、いろんなものが必要になってくる。よって、働かなきゃいけない。ということは、この働くという行為は、神への奉仕行と同じなんだね。何をやっていてもだよ。
 だから結局その人が何を目的に、何を動機に、何を思いやってるかで変わってくる。
 例えば、こういう話があります。五体投地。五体投地とヒンズースクワットは何が違うんだと。まあ、実際のインドの体力の鍛え方には、ヒンズースクワットと腕立て伏せを混ぜたみたいなやつがあって――こう、こう、こうやって、こうやって、こうやってまたこう立ち上がって、何かこう礼拝みたいにするような鍛え方があるんだね。これは別にみんな修行としてやってんじゃなくて、全身の筋肉のトレーニングとしてやっている。これと、チベット人が五体投地べたーっとやってんのと、何が違うんですかと、ね、いった場合、当然前者は、「さあ、おれは――例えばレスラーだったら――強くなって大会で優勝しよう」と思ってやってる。で、後者は、ある人は、「いや、私は全てをブッダに捧げて悟りたい」と。あるいは、悟りたいまでいかなくても、帰依したいんだと。あるいは、「いや、この徳によってね、全ての人を救いたいんだ」と思ってやってる。体の動きは同じだと。でも後者は徳になり、修行が進みますと。前者は、ただこの物質世界と強く結び付けられる(笑)。非常に逆の結果が出る(笑)。
 全く同じで、例えばじゃあ、工場に行きましたと。工場に行って、例えば、そうですね、機械をガチャンとやる――ガチャンとこう右手で下ろす作業をしてたとしますよ。ガチャン、ガチャン。でもその人は例えば、さあ、給料早くもらってゲームを買おうと。あるいは車を買おうと思ってやってる。それを動機として働いてる。あるいはそうではなくて、別に目的はないんだが、まあ生きていかなきゃいけないから、まあしょうがないから働いてるんですっていう人もいる。あるいはそうじゃなくて、例えばEさんみたいに、自分の働く理由っていうのは、修行と、それから救済っていうものを成立させるため、それだけに過ぎないと思ってやってる。そうするとこの右手のこの行為が(笑)、第一番目の人は、自分を動物界とかに落とす行為となり(笑)、第二番目の人は、特に何の意味もないと(笑)。第三番目の人は、これが修行になる(笑)。
 まあEさんとかの場合、例えばこうパソコンを打つと。これが修行になる(笑)。だから全ては、全ては動機であり、全ては何に向かっているかなんだね。
 例えば歩くという行為をとってみましょう。修行しようと思って道場に向かって歩くと。煩悩を満足させようと思って、例えばソープランドとかに向かって歩くと(笑)。同じ歩く行為だよね(笑)。でも前者は、素晴らしい、歩くこと自体が徳になります。後者は歩くこと自体が動物界への道になるっていうか(笑)。だから全てがそうなんだね。


◎カルマ・ヨーガのコツ

 だからそれは、一つは動機だけども、一つは、それをやってるときにそのように思念すること。これが非常に重要です。だからこれはみなさんがいろんなことやるときのコツだね。例えば自分は修行したいし、真理っていうものに人生を捧げたいんだが、でも働かなきゃいけないと。そういうときはもうそれを、100パーセントそういう思いでやるんです。これは修行だと。神から与えられた修行だと。これによって、自分も、あるいはKさんも修行できるし、あるいは、ねえ、お布施もできるかもしれないし、あるいはヨーガの代金も出るし、そのためにやってるんだと。 で、それはあまりにも固い頭だと、仕事のときは、仕事のイメージっていうか仕事の概念に支配されてしまって、ビジネスマンになってしまう(笑)。こうなってしまうと、それはそれで悪ではないんだが、完全にその、何ていうかな、もったいないんだね。その時間はビジネスマンになってしまうっていうか。常にあらゆる行動を、神への捧げ物として考えるっていうのはそういう意味なんだね。
 で、それはもう最初からもう、さっきも言ったようにプログラミングされてるんです。だから自分で考えてああだこうだする前に、自分にやってきてる現象をいかに受け入れて、それを智慧によって「さあ、どのような意味でこれは神への捧げ物なんだろうか」って考えて、100パーセントそれに没頭するっていうか。で、それでコツというか――としては、しっかりそれにイメージを使ってね、「ああ、こうなんだ、こうなんだ」って思いながらやる。そうすると、全ての人生が、何ていうかな、光り輝いてきます(笑)。そして実際に、自分にも分かりやすい感じで、物事が神の意思として回るようになります。
 あ、本当に神の意思ってあるんだなと。あ、本当にこうこうこういう感じで私を導いてくれるんだなっていうのが、最初はね、半信半疑なんです。最初は思い込みに近い感じで半信半疑なんだけど、だんだん非常に分かりやすくなってくる。「あ、そういうことか」って感じだね。だからこれがカルマ・ヨーガの一つのコツみたいなもんだね。
 だから自分を投げ出すっていう一つの前提条件が必要だね。自分を投げ出して、私は神の道具として、あるいは神の意思として、ただ、何にもとらわれずに淡々とこの世で生きましょうと。それをやってる人には、大きな恩恵がある。
 はい。で、そのように生きる人というのは、まあこの『蓮の花が水にぬれることのない』っていうのは、仏教的にいうと、よくいわれる「泥沼の中の蓮華」というのと同じで、このさまざまな世俗の中にいても、全くそれに影響されない――されずに、聖者として生きることができるよってことだね。

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2月・3月の出張ヨーガ講習会

2009-01-30 16:19:38 | お知らせ


 以下の日程で、出張ヨーガ講習会を開催いたします。


 参加希望の方は、お早めにメールでご連絡ください。

 皆様のご参加を心よりお待ちしております。








2月1日(日)13:30~16:30
☆場所:京の山杣人工房「空」
JR京都駅から徒歩5分 下京区総合庁舎となり
http://somabitoqo.exblog.jp/i11


2月8日(日)13:00~16:00
☆場所:仙台・フラメンコスタジオ・アヴァンセ(スタジオA)
地下鉄長町一丁目駅から徒歩1分
http://andalucia-ole.com/access.html


2月22日(日)12:30~15:30
☆場所:札幌・スタジオオンズ(スタジオB)
JR札幌駅から徒歩5分
http://www.studio-ons.com/contactus/index.html


3月1日(日)13:30~16:30
☆場所:京の山杣人工房「空」
JR京都駅から徒歩5分 下京区総合庁舎となり
http://somabitoqo.exblog.jp/i11


3月8日(日)15:00~18:00
☆場所:名古屋・亜細亜大陸アカデミー
地下鉄矢場町駅から徒歩3分
http://ajiatairiku-academy.com/asia/access.html


3月22日(日)12:30~15:30
☆場所:札幌・スタジオオンズ(スタジオB)
JR札幌駅から徒歩5分
http://www.studio-ons.com/contactus/index.html





☆詳細-----------------------------------------------------------------------------------



☆参加費:3000円

☆内容:クンダリニー・ヨーガ、ハタ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガなどの各種行法実践と講義。
    初心者の方でも問題ありません。お気軽にご参加ください。

☆定員:3名~20名
    ※参加希望者が定員に達しなかった場合、中止になる場合もありますので、ご了承ください。

☆予定しているメニュー:アーサナ(気を調える体操)
            気功(気を充実させる内気功)
            プラーナ―ヤーマ(各種の呼吸法)
            ムドラー(覚醒の技法)
            マントラ
            瞑想
            講義
 
☆持ち物:動きやすい服装
     ヨガマット、または大きめのバスタオルなど(床に横になるときに下に敷けるもの)。

☆申込先:電話またはメールでお申し込みください。



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◎超然とした意識

2009-01-30 15:46:24 | 解説・バガヴァッド・ギーター


【本文】
『真理を悟った神聖な意識の持ち主は、自分自身では何もしていないのだと思っている。
たとえ見たり、聞いたり、触れたり、嗅いだり、味わったり、動いたり、眠ったりしていても。

また話すときも、手放すときも、手に取るときも、また目を開けるときも、閉じるときも、
感覚器官が対象物と作用しているだけなのだと知っており、自分自身は常にすべてから超然としている。』


 はい。まあこれもだから、理想ですね。ここで書かれてるっていうのはつまり、完全に悟った人はこうなんだよっていうようなのを書いてあるわけですが、同時にこれはつまり、われわれが目指すべきポイントであるっていうことでもあるよね。つまり、カルマ・ヨーガの一つのやり方としては、いろんな活動をしながらも、そこでいろんなものを見たり、聞いたり、動いたりしてるものは、自分がそうしてるんじゃないんだと。それは、この感覚器官というものが、対象物と触れ合ってやってるだけなんだと。で、自分っていうものはそれから離れて超然としてるだけなんだと。
 だからこれは前もいったとおり、仏教の教えと全く同じなんだけど、われわれの本質っていうのは、全てから本当は離れている。で、純粋なんだけど、映画を見てる観客みたいなもんなんだね。映画を見てる観客で、もうその映画に完全に没入した状態。で、それによって、その映画の主人公になり切ってる状態――が今のわれわれだと。
 でもそうじゃなくて、その映画はずーっと上映はしてるんだが、「これ、おれとは関係ない」と、完全に客観的に映画を見れることができた状態が、この状態。でもその人が映画を見てる、その映画が動いてるっていうことによって、客観的にはその人は普通に生きてるように見えるんだね。でも常に、「いや、これを経験してるのは自分ではない」と、「自分というのは、こんな、脳の経験でもないし、この、ここにいる体や感覚を経験してるのが自分じゃないんだ」と。もうちょっといえば、全宇宙に完全に広がってる純粋な意識、これが自分なんだと。この限定された感覚の経験なんか自分じゃないよと。単純なこの肉体という機械が、感覚っていう道具を使って、周りと何かいろいろ経験してるだけなんだと。そういう思いを抱きつつ、動けっていうことだね。
 だから例えば、こういうのを食いながらも、「うん、舌という感覚が(笑)、芋金を味わってる」と。全く私はそれとは関係ないというか(笑)。自分が全然超然としていて、宇宙に広がってる純粋な意識であると、客観視するんだね。こういう一つのやり方ですね、これはね。
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歓喜の種

2009-01-30 08:12:43 | 松川先生のお話



 わたしは普段から、何もしないでも歓喜につつまれています。歓喜というのは抽象的な意味ではなく、物理的に体中、あるいは頭や体の奥のほうが歓喜なんです。気絶しそうなほどの歓喜を感じることもあります。もちろん、心も喜びで充実し、満たされています。

 しかし、ヨーガ教室その他で、人と連続で接する時間が長くなればなるほど、歓喜は減り、疲れや痛みが出てきます。
 そして自分の修行をしたり、あるいは修行しないでも一人でいる時間が長くなるほど、歓喜は復活し、安定してきます。

 ところで、人と接して歓喜が減るということは、数学的に、わたしの歓喜が相手に移行しているということです。それは相手が自覚できるかどうかは別として、【歓喜の種】のようなものが、相手に移行します。
 ですから、これはとても良いことです。
 これはカッコをつけて言っているわけではなくて、私自身にとっても良いことなんです。
 相手に【歓喜の種】を分け与えると、一時的にわたしの歓喜は減りますが、【カルマの法則】からいって、後には、わたしの中の【歓喜の種】が、以前よりもかえって増えてしまうのです! これは今までに実体験しているので、間違いありません。

 正しく本格的なヨーガ修行は、この歓喜の種を育て、実際に歓喜につつまれた体、そして安らぎに満ちた、広く安定した心を形成していくでしょう。 
 だからわたしは、ヨーガ教室の生徒さんたちが苦悩から解放されていく姿を見るにつけ、思うのです。本当に、本格的なヨーガ修行が、もっと世の中に広まってほしいなと。そうすれば多くの人の悩みは消え、人生は歓喜に満ち、変な犯罪も減るでしょうにと。

 今、ヨーガの道に足を踏み入れている方々は、ぜひ自分の中の【歓喜の種】を育て、周りに振りまいていってほしいと思います。
 まあ、そのためにはまずは自己の修行ですけどね。
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聖なるヨーガ戦士

2009-01-28 22:49:09 | 松川先生のお話


 最近、ヨーガ教室にやってくる無料体験者や、新入会者、あるいはメール等で話すだけの人も含め、なかなか社会に適合できない人が多いなという感じがする。
 社会に適合できないというのは、「良い意味で」である。

 それらの人たちは、精神的に適合できないまでも何とかやっていたり、あるいは何か別のことで自分をごまかしていたり、あるいはまったくうまくできずに、引きこもりや、神経症、うつ病になっていたりする人もいる。
 そういう人が今、かなり多いのだ。
 そしてそういう人の中には、かなり純粋な人が多い。
 全員が純粋な人というわけではないだろうが、少なくともわたしのヨーガ教室にやってくる人たちは、純粋な人が多いのだ。

 別の言い方をすれば、今の社会でうまくやっていけている人というのは、逆に何かおかしいのではないかとさえ思う。

 わたしは小さいころから、大学に行くことも、サラリーマンになることも、結婚することもイヤだった。
 もちろん、みんなにもそれらをするなというわけじゃないよ(笑)。
 まあ、わたしは変わった子だったから、今以上にそれらが「はずせない常識」である時代に、よくそれらを分析してね、つまらない仕事とストレスと残業と飲み会が繰り返す毎日(笑)、家に帰ればまた家族とエゴのぶつかり合いがある毎日、そんな中に身を置きつづける人生なんて耐えられないと、小学生のころに思ってたんだ(笑)。ちょっと気が早すぎるけどね(笑)。
 だからわたしは中学生のころから、そのような「常識的価値観」の中に身を置くことよりも、ヨーガの修行で自己の内面を鍛え、浄化するほうに入っていったんだ。
 
 話を戻すとね、なかなか社会に適合できず、あるいは表面上は適合しているけど内側では疑問を持っている人たち。あるいは、自覚的に社会に反発心を持っている人たち。今、こういう人たちは実は意外に多いと感じる。
 そしてそういう人たちの中にはね、わたしから見ると、ヨーガ修行の素質がある人が多いんだよ。
 しかしいかんせん、彼らにはまだ「ヨーガ」がない。だから無智なんだな。そして、ある人は、心は純粋だが、心が弱い。
 しかし彼らがヨーガという武器さえ手にすれば、なぜ自分が社会に適合できなかったか分かるだろう。それが決して恥ずべきことではないということがわかるだろう。
 
 たとえばね、ヒマラヤとかの山の中の、守られた神聖な空間で聖なる境地に浸っている聖者がいたとするよ。彼が死んで、今の日本に生まれ変わってきたら、どうなると思う? きっと、聖者として成長することはないね。彼は刺激のない、ヒマラヤの中だからこそ聖者だったんだよ。それが今の日本みたいな、煩悩的情報の渦、邪悪なヴァイブレーションの渦、そして常識という幻影に囲まれた世界に生まれ変わってきたら、おかしくなってしまうだろうね。
 もちろん、その聖者が、単に聖なる境地ではなく、しっかりとした強さを身につけた聖者だったらまた別だけどね。
 
 さて、ところで、今、ヨーガがブームだ。日本や欧米で広まり続けている。ヨーガ教室も増えた。
 しかし残念ながら、そのほとんどはまだ、本物のヨーガを教えるところではない。
 しかし裾野が広がればね、人々が、本物のヨーガに増える可能性も増すわけだね。だから玉石混合なれども、ヨーガというものがどんどん広まっていくことは、とても良いことだと思う。

 そして、心が純粋で、なんだか社会に適合できないと感じている人たちが増えている。
 そして、ヨーガもどんどん広まっている。
 彼らがその中で「本物のヨーガ」に出会うチャンスを得たとき、彼らは「聖なる戦士」と変わるだろう。その道の第一歩を歩みだすだろう。

 様々な精神世界その他で、2006年から2013年とか、そういった近未来に、大きな世の中のシフトが起きるというようなことが言われ続けている。インド占星術の考えでも、今まさにこの時代は、魚座から水瓶座へとの、大きな時代の移り変わりの時代だ。
 しかし実際にそのような人類の進化の時代がやってくるとして、その中心にいるのは、決して、今の社会の中心で、権力やお金を握って「勝ち組」と言われている人たちではないと思う。あるいは今の社会で何の疑問も持たず、うまくやっている人たちでもない。

 今の社会に合わない人たちが増えている。それは時代の移り目だから、当然といえば当然なのだ。彼らがヨーガを身にまとったとき、彼らは聖なる戦士となり、堕落しきったこの日本と世界を変えるために、立ち上がるときが来ることだろう。

 といっても、勘違いしないでほしいけど、わたしはもちろん、「ヨーガをやって社会に反乱を起こせ」と言っているわけじゃないよ(笑)。

 でも、じゃあどのようにして「聖なるヨーガ戦士」たちが世の中を変えていくのかというと、それはまだ具体的にはわたしには分からない。

 でも一つ確実にいえることは、まずは素質ある者たちが、純粋なる者たちが、縁ある者たちが、しっかりとヨーガ修行等で自分の心身と魂を浄化し、磨き、鍛え、進化していくことだね。
 そのような人たちが増えていったならば、この人間界に大きな進化の変動が起きることは間違いないと思う。

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◎平等心の智慧

2009-01-28 18:06:01 | 解説・バガヴァッド・ギーター



【本文】
『ヨーガを行じて魂を清め、自分の心と感覚を抑制し、
すべての生き物と自分とが同じものなのだと悟った人は、絶え間なく働いていても、決して行為に縛られることはない。』


 はい。これはまあ、これもまたカルマ・ヨーガの理想ですね。『ヨーガを行じて魂を清め、自分の心と感覚を抑制し』。
 これはだから、まさにシャーンティデーヴァの世界だね。こう、しっかりと日々動きながら、行為しながら、自分の心と感覚をしっかりとチェックして、それが悪い方向に動かさないようにっていうふうに日々こうチェック――正智、念正智をし続けると。
 で、それを続けることによって、全ての生き物と自分とが同じだと。つまり仏教でいう平等心の智慧が身に付くと。
 で、そこまでもう至ってしまった人は、この世においてどんなに行為をしていても、行為に縛られない。
 この「行為」っていうのは、前も言ったけども、「カルマ」っていうことばです。つまり、二つの意味があるんだね、ここでいう「行為」っていうのは。実際の行為のこともいってるし、なしたことが返るっていうカルマの法則のこともいっています。
 つまり本当に平等心を持って、何も縛られず行為する人は、実はカルマの法則の中から外れるんだっていってるんだね。
 すごいことをいってるわけですね。つまりその人は何やっても大丈夫なんだと(笑)。だから密教のパドマサンバヴァとかもそうだけど、そういうタイプの人は、何やっても許されてしまう。でもそれを、チベット仏教とかは一時誤解して――誤解してっていうか単に煩悩にまみれて、肯定――まあインドのタントラでもそうなんだけどね、全然行為から解放されてないのに、何でもいいんだあっていろいろやっちゃって、堕落した人はいっぱいいた。だからアティーシャとかツォンカパとかが現われて、チベットは、じゃあその前に戒律をしっかりしようっていうふうになったんだけど。
 本来は、本当の意味でこのカルマ・ヨーガができたら、確かに行為から解放される。その人のなすことが全て神の意思に沿ってる。で、それは、普通の人から見ると「あれ? あれ悪業じゃないか」とか、あるいは「ちょっと違うんじゃないか」と思ったとしても、全く関係ない。その域までいった人にとってはね。
 でもここに書いてあるのは、もちろんそれは最後のことなんで、われわれの一つの望むこととして、目指すこととしては、ヨーガを行じて魂を清め、日々自分の心と感覚を制御しましょうと。そして、常に自分と他人を平等に見る訓練をしましょうと。この前の段階で、自分と他人を平等に見る、と同時に、他人と他人ももちろん平等に見なきゃいけない。つまり好きな人と嫌いな人っていう感覚をなくしていく。いろんな人を平等に見る。そして、自分もまた他人も平等だと。こういう平等心を根付かせなきゃいけないんだね。
 これはだから最終的にはそうなるんだけど、いきなりわれわれが明日そうなるってことは無理だから、日々だからこれも、日々の生活を通じて訓練をするしかないね。
 で、前も言ったけどシャーンティデーヴァはもっと強烈なんです。自分と他人を交換しろっていう(笑)。つまり普通は、自分大好き、他人はどうでもいい。これが潜在意識のエゴの本音です。で、これを普通は、このバガヴァッド・ギーターもそうだけど、平等にしろっていってる。シャーンティデーヴァは、それでは生温いと。交換しろと。つまり他人大好き、自分どうでもいいと(笑)。これくらいしないと、エゴっていうのはなかなか破壊できないんだっていう、かなり過激なことをシャーンティデーヴァはいうんだね。うん。
 それはまあどっちのやり方でもいいんだけど、とにかく自分――自分っていうのにとらわれてるがゆえに、不幸に自分をしてる、このエゴの欺瞞っていうか、それを打ち砕かなきゃいけない。それは、自分と他人を常に平等に見る。もちろん他人と他人の中にも、差を設けない。そして、まあもうちょっと過激なやり方をするならば、常に他人を優先的に考え――まあ、宮沢賢治の詩じゃないけどね、自分のことはいつも最後に考え、みたいな、あるよね。『雨ニモマケズ』。そういう感じで、常にその自分っていうのを他者よりも後に置くっていうかな、そういうような訓練を日々してたら、このカルマ・ヨーガの実践に近づくでしょうと。
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出張ヨーガ講習会のお知らせ

2009-01-26 23:37:46 | お知らせ

 以下の日程で、出張ヨーガ講習会を開催いたします。


 参加希望の方は、お早めにメールでご連絡ください。

 皆様のご参加を心よりお待ちしております。








2月1日(日)13:30~16:30
☆場所:京の山杣人工房「空」
JR京都駅から徒歩5分 下京区総合庁舎となり
http://somabitoqo.exblog.jp/i11


2月8日(日)13:00~16:00
☆場所:仙台・フラメンコスタジオ・アヴァンセ(スタジオA)
地下鉄長町一丁目駅から徒歩1分
http://andalucia-ole.com/access.html


2月22日(日)12:30~15:30
☆場所:札幌・スタジオオンズ(スタジオB)
JR札幌駅から徒歩5分
http://www.studio-ons.com/contactus/index.html


3月1日(日)13:30~16:30
☆場所:京の山杣人工房「空」
JR京都駅から徒歩5分 下京区総合庁舎となり
http://somabitoqo.exblog.jp/i11




☆詳細-----------------------------------------------------------------------------------



☆参加費:3000円

☆内容:クンダリニー・ヨーガ、ハタ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガなどの各種行法実践と講義。
    初心者の方でも問題ありません。お気軽にご参加ください。

☆定員:3名~20名
    ※参加希望者が定員に達しなかった場合、中止になる場合もありますので、ご了承ください。

☆予定しているメニュー:アーサナ(気を調える体操)
            気功(気を充実させる内気功)
            プラーナ―ヤーマ(各種の呼吸法)
            ムドラー(覚醒の技法)
            マントラ
            瞑想
            講義
 
☆持ち物:動きやすい服装
     ヨガマット、または大きめのバスタオルなど(床に横になるときに下に敷けるもの)。

☆申込先:電話またはメールでお申し込みください。



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ヨーガ

2009-01-26 23:14:54 | 松川先生のお話




 どんなにお金を持っているよりも、
 社会的に「成功」とか「勝ち組」とかよばれる状態にあるよりも、
 
 ヨーガに巡り合ったこと以上に、価値のあることはない。

 ここでいうヨーガとは、単に体操のことではない。
 人生を真理に向けて修正し、心の目を覚まさせ、生きる本当の意味に気づかせてくれる道のことだ。

 なぜかヨーガには本来、そういう効果があるんだ。
 ヨーガは思想ではない。もちろん、思想の部分もあるけど、それは脇を固めるものであってね、考え方とかではなく、心と体が真理を実体験していく道なんだ。それらの体験を通じて、思想は後からついてくる。

 そういうヨーガにあなたが出合えたならば、それは、今の社会の常識で幸せといわれるどんな状態にあるよりも幸せだし、価値があることだ。

 だからその道を歩んでいる人は、自信を持ってほしい。
 まだその道に入っていない人は、ぜひヨーガを試してほしいね。

 ヨーガに出合えると、笑えてくるかもしれない(笑)。今まで自分がなんて狭いところで、あくせくしてたんだろうかってね。
 
 少なくとも明るくなるだろう。後には悩みはなくなるだろう。
 でもその途上では、ヨーガによって逆に人生は荒波に巻き込まれるかもしれないよ。
 でもそれもまた楽しいもんなんだ。
 ヨーガを行じ、目を開き、恐れなく、人生の移り変わりの中を、渡っていくこと。その中で様々な経験を自己の成長の糧としていくこと。
 こんな素晴らしい人生はないと思う。

 あなたが何を目指そうと、仕事、趣味、芸術、何を目指そうとも、ヨーガはそのベースとなるでしょう。
 そしてこの短い人生を、輝きをもって走り抜けることができることでしょう。

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◎すべては神の導き

2009-01-25 08:56:00 | 解説・バガヴァッド・ギーター
◎すべては神の導き

【本文】
『偉大なる勇者よ! 人はヨーガを行なわずにただ放棄しようとしても、なかなかできるものではない。
ヨーガを実践した聖者は、速やかに至高者のもとへと到達する。』


 はい。まあこれも同じですね。さっきも言ったように、つまり教えに基づいて、心を動かさず――ちょっと噛み砕いていうとね、心を動かさず、神の使命、もしくは自分に与えられた使命をただ淡々と実行する。その中でさまざまに起きてくる心の乱れや、あるいはいろんなカルマの現象を乗り越えつつ、心を平静にもっていくと。このような修行をヨーガっていうわけですが、そういうことはやらずに、ただ人里離れ、放棄、放棄といっても、なかなかそんなことは達成できませんよと。しかし、自分の――ちょっと噛み砕いていうとね、自分に生ずる――まあこれはみなさん修行者だからよくわかると思う――まあ結局ねえ、われわれが何に心を向けるかによって人生の動きは大きく変わります。われわれがこの世の欲望を追い求めたいって思ったら、そっちの方向でカルマは動き出すし、そうではなくて、われわれが本当に神に至りたいとか、悟りを得たいとか、まあそこまでいかなくても漠然と、何か正しい生き方をしたいなとか、そういうことを思い出すと、本当にその人が本質的な幸福、本質的な悟りに近づくように、いろんな現象が動き出すんです。つまりそれは、いいことだったり悪いことだったりするんだけど、その人を鍛えるための、その人を浄化し、覚醒へ導くための、いろんなことが起こり出して、いろんなことをやらなければいけなくなる。で、それを素直に全て受け入れて、しかもその中でまったく心を動かさずに、淡々と、その、それを神の意思と感じて生きることができれば、一番速やかに達成しますよと。しかしそういうことを全部無視して、逃げて、一人になりたいといって、ただ「いや、私は全て捨ててるんです」「捨ててるんです」ってやってると、それでも行けないことはないが、相当時間はかかりますよと。
 これについてみなさんどう思いますか。じゃあ、どう思う――まあどう思うでもいいし、それはなぜだと思いますか。
 じゃあ、Kさん、それはなぜだと思いますか。ちょっと難しい(笑)。

(K)人里離れたところで一人でいること――質問は、みんなの中で……。

 まあ、みんなの中でっていうよりも、いろいろ起きてくる現象をね、つまり修行――まず、第一番――第一前提として、修行を志してるっていうのが前提だけど、志した上で、そこで生じてくる全ての現象を、全ては神が私を導いてくれる現象であると受け止めて、一切それから逃げることなく、修行としてそれをとらえ、そこで何にも心を動かさずに、やるべきことをやる実践をするパターンと、じゃなくて、全てを放棄、放棄といって、現象から全て逃げて、一人になって、何にも触れない実践。この両者は、後者も悪くはないんだが、後者の方が相当時間がかかる。これはなぜかっていう問題だね(笑)。

(K)神が与えてくれた、カルマ落としのチャンスだから。

 そうだね。それは一つだね。うん。


◎教え、ヨーガ修行、実生活

 つまり、自分のことっていうのは自分では全く分かってなくて、結局修行者が失敗するパターンていうのは、観念で修行を捉えようとした場合、失敗するんだね。
 だから、そういう意味でも本当は、師匠が必要なんです。師匠の役割っていうのは、前も言ったけど、追い込んであげることなんだね。エゴを追い込んであげる。教えをただ与えることが役割ではなくて、つまり例えば、教えっていうのがあって、で、エゴっていうやつは非常に巧妙なので、教えを逆利用して何とかエゴの破壊から逃れようとするんです(笑)。
 で、その人っていうのは自分は修行してるんだっていう気持ちの中で、実はエゴを守ってる場合が非常に多い。
 そうじゃなくて、純粋な心が、神に対する純粋な心があると、自分に起きてきた現象を、逃げないと。全部それを受け止めて、修行としてやると。こういう姿勢ができてると、いろんな嫌なこともやってくる、あるいは、執着しそうなこともいろいろある、でもその中でも一切に、いいことにも執着せず、嫌なことにも嫌悪せず、なすべきことをなすと。
 もちろん別にわざわざいろんなことを探す必要はないよ。よし、おれはカルマ・ヨーガやるぞと。ちょっと、じゃあなんか今――例えばCちゃんが今仕事してないっていう素晴らしい状況にあるけど、これは神から与えられたプレゼントだと。でも、カルマ・ヨーガやりたいから仕事しよっかなあっていうのは考える必要がない(笑)。それはね。
 そうではなくて、いやおうなく、例えばEさんみたいに、働きたくないんだけど働かないといけない(笑)。もう、もちろん将来的にね、修行だけに没頭するような状況を目指すならいいことなんだけど、目指したいんだけど今いろんなことやんなきゃいけない状況があると。これはこれでもう神の愛として一〇〇パーセント肯定するんです。肯定して、そん中で生きると。
 そうすると、当然、実際、これは本当のことなんだけども、本当に、そういうことを目指している人には、その人を浄化するようなプログラムが人生に発生します。で、それに一切言い訳を入れずに、淡々と乗り越えようとする人は、それはもう一番その人を自動的に浄化するプログラムだから、速いんだね。
 でも自分の観念で、修行というのはこういうもんだって考えて、本当はプログラムがいっぱい来てるのに、それから逃げて、頭の中の修行の世界っていうのを一人で作りあげてやってると、本来は、まあ今Kさんが言ったようにカルマ落としもそうだし、単純なカルマ落としっていうことだけじゃなくて、自分の考え方を変えるチャンスとか、あるいは見解を変えるチャンスとか、いろいろ自動的に本当はやってきてるんだね。やってきてるのを全部シャットアウトするから、時間がかかるんです、非常にね。
 それでも、何度も言うけど、できないことはないよ。できないことはないけど、すごく時間がかかるっていうことだね。だからカルマ・ヨーガっていうのは、そういう意味では非常に大乗的なヨーガともいえる。一切のことから逃げない。
 ただしもちろんベースとしては、これはラーマクリシュナもいってるけども、実際にわれわれがそういうようなことをやる前には、ある程度自分の信仰心とか、あるいは修行に対する強い思いっていうのは確立されてないといけないんだね。これはラーマクリシュナの例えでいうと、「手に油を塗ってからジャックフルーツの皮をむけ」とかね。ジャックフルーツってベタベタするらしいんだね(笑)。
 だから自分で準備をしてないで、カルマ・ヨーガだっていっても、単にいろんなカルマに巻き込まれて、ボロボロになるだけかもしれない。
 だから私いつも言うように、現代においてはね、やっぱ三本柱が必要だと思います。三本柱っていうのは、まず徹底的に教えを学ぶこと。
 そして、二番目が、肉体的なアーサナやプラーナーヤーマも含めた、瞑想も含めた、修行――つまりその、形のあるヨーガ修行、仏教も含めてね。
 三つ目が、日常生活のカルマ・ヨーガ。この三つがしっかり合わされば無敵です。
 つまり教えっていうのはしっかりあって、でも教えというのは、なかなかその通り生きるのは難しい。実践できてたと自分で思ってても、現実生活で全然できてなかったりする。
 で、この教えを、現実的に実践しやすくするのがヨーガなんです。
 つまり肉体とエネルギーと心というのは密接に関係があるので、ま、みなさんも経験あると思うけど、ヨーガとかやって、あるいは呼吸法とか瞑想とかした後っていうのは、例えばいつもだったらうだうだと考えてしまうことが、すごくすっきりとして、「あ、神の意思だ」って思えたりするかもしれない。そうすると、例えば教えがあって、このように生きなさいっていうのがあって、でも生きられないよっていう日常生活があったんだけど、ヨーガ修行をしっかりやってると、ちょっとはできるんです。前はできなかったことが、例えば「ああ、この上司は嫌だ」と。この上司を愛することなんて全然できないって思ってたのが、ヨーガ修行やってたら、ちょっとはできるようになる。愛するとまではいわないが、まあ憎まないまではできる――っていう感じでだんだん進んでくんだね。
 でもこの三つのどれかが欠けると、まず教えが欠けると、そもそもどうやったらいいか分かんない。教え、ヨーガ修行、実生活のうち、教えが欠けると、ヨーガ修行やってるから前よりは何か心が解放されてくる。心が解放されてきて、前よりは何か生き生きとしてるんだけど、どうやって生きたらいいかよく分かんないから、生き生きとしたまま、悪いことやっちゃうかもしれない。生き生きとして人の悪口言ったりとか(笑)、こうなってしまうんだね。
 で、逆にヨーガ修行がないと、さっきも言ったように、教えはあって、それを実践しようとしてるんだけど、なかなかうまくいかない。なかなか自分の殻を超られない。
 で、逆にその三番目の実生活の訓練っていう気持ちがないと、ヨーガ修行やって、教えを学んで、で、できるだけ誰とも接さない――ま、それは最初の段階ではいいんだけど、それやってると、さっきも言ったように、自分の殻の中の修行になるんだね。ある程度まではいいんだけど。
 じゃあ、この条件のときはどうでしょうか。あなたの慈愛は、座ってるときにみんなの幸福を願えるまではいきましたが、じゃあ、誰かに馬鹿にされたときその人の幸福を願えますかと。これを試すには、馬鹿にしてくれる人が必要なんです。これは、馬鹿にしてくれる人が現われて初めて、「あ、私は馬鹿にされると、大丈夫だと思っていたけど、こんなに心が動くんだ」と。「じゃあ、次に馬鹿にされた時には、心を動かさないように、訓練しよう」と。こういうことができるんだね。これによって、こう、鍛えられていく。よって、実際の生活も必要だと。
 この三つがちゃんと回って、やっとカルマ・ヨーガが成り立つっていう感じがするね。
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◎二つのヨーガ

2009-01-24 22:09:24 | 解説・バガヴァッド・ギーター

◎二つのヨーガ

【本文】
『サーンキャとヨーガを、愚者は異なるものと考えるが、
そのどちらか一方の道を究めた人は、両方の成果を得るであろう。

サーンキャを通じて至る境地には、ヨーガによっても達する。
この二つを同じと見る人は、物事の実相をよく理解した賢者である。』

 はい。ここでいうサーンキャっていうのは、いわゆる哲学的ヨーガ、つまりジュニャーナ・ヨーガとほとんど同義といってもいいね。つまりいにしえの、昔の偉大な賢者たちは、まあ、そうだね、現代ですごく近い人でいうと、ラーマナ・マハリシとかそうですけどね。あの人はジュニャーナ・ヨーガ。あの人はだからずーっと山にこもって、ひたすら哲学的探求――つまり彼のやり方は「私はだれ?」と。「私は何?」と。「Who am I?」と。「私はだれ?」っていうのを追求――哲学的に追求してって、偉大な境地に達したと。でもこれはラーマクリシュナも言ってるけども、現代においてはジュニャーナ・ヨーガって非常に難しいと。それよりもやっぱり、バクティ・ヨーガやカルマ・ヨーガの方がいいんだね。で、ここでヨーガっていってるのはこれはカルマ・ヨーガのことです。つまり、哲学的探求によっても、カルマ・ヨーガ、つまり行為をしながら全てを放棄するっていうように、それによっても、どちらも両方同じその境地に至れるんだってことだね。
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サンニャーサ・ヨーガ

2009-01-24 22:06:35 | 解説・バガヴァッド・ギーター
「サンニャーサ・ヨーガ」
2007.1.31




◎真の離欲・放棄とは

【本文】
『アルジュナは言った。
「おお、クリシュナ様! あなた様は、初めに放棄をせよと私におっしゃり、次には奉仕の精神で行為せよと勧められました。
いったいどちらが本当に正しいのか、ハッキリとお示しください。」


至高者はこうお説きになった。
「放棄も、カルマ・ヨーガも、ともに人を解脱させる。
だがこの二つのうちでは、行為の放棄よりも行為のヨーガ(カルマ・ヨーガ)の方が優れている。

行為の結果に欲望も嫌悪も抱かぬ人は、常に離欲・放棄を行じていることになる。
その人は二元対立を超え、たやすく物質界の鎖を断ち、完全なる自由を得ることができるのだ。おお偉大なる勇者よ!」』




 これはまず、サンニャーサ・ヨーガ。「サンニャーサ」ってこれ、放棄とかいう意味ですね。出家した修行者をよく「サンニャーシン」とかいいますが、サンニャーサ――放棄。つまりサンニャーサ・ヨーガ。放棄のヨーガ。
 ただここでいう放棄のヨーガっていうのは――最初にクリシュナが言っているのは、『行為の放棄よりも行為のヨーガのほうがすぐれている』と。ここでいう「行為の放棄」っていうのは、文字通り「何もしない」っていうことです。つまり、修行だといって一切の行為をやめ、人から離れ、まあ、山にこもって何もしない。これはこれでまあいいと。これは一つの道だと。それよりも、カルマ・ヨーガの方が優れているんだよと。で、ここでいってるカルマ・ヨーガっていうのが、結果的にいうと、全てを放棄して行為に励むヨーガだと。だから、この「サンニャーサ・ヨーガ」っていう題名がついてますが、ここでいうサンニャーサ・ヨーガっていうのはイコール、カルマ・ヨーガといってもいいね。
 だから、これはあの、いろんなヨーガの名前がバーッて出てきますが、実際はだいたいカルマ・ヨーガのことをいってる場合が多いね。
 はい。そして『行為の結果に欲望も嫌悪も抱かぬ人は、常に離欲・放棄を行じていることになる。』と。
 つまり、単純に何もしないことが、離欲――欲から離れる、放棄じゃあないんだと。
 行為をして、例えばそれによって自分の望む結果が得られようが得られまいが、あるいは、行為の結果として嫌なことが来ようが、自分の好きなことが来ようが、一切とらわれずに行為すると。これをしてる人っていうのは、行為をしながら全てから離れてるんだと。で、このようなことをする方が、たやすく『その人は二元対立を超え、物質界の鎖を断ち、完全なる自由を得ることができる』と。
 これはもう、いつも言ってることですね。つまり何もしないで静かに心を静めることは簡単だが、実際に静まってんのかって問題がある。条件によって静まってるけども、じゃあ条件を変えられたら動き出すじゃないかと。そんなんじゃしょうがないってことだね。
 だから、例えばいろんな活動をしながら、一切その結果とか、あるいはそこで生じるいろんな現象にとらわれずに、ただなすべきことを淡々となすと。この方が早く悟りに近づくんだと。だからこれもすごく、何ていうか、大乗的な見解だね。つまり、人から離れてお寺とか山にこもって、うーって瞑想するよりも、人々の中に入って、その中で――人々の中に入りゃいいってもんじゃないんだけど――この生活の中で、あるいは日々のいろんな――まあ例えばそれは奉仕活動でもいいし、何でもいいんだけども――その中で、一切心を動かさない訓練をした方が、早く解脱・悟りに到達するんだよと。
 これがサンニャーサ・ヨーガであり、またカルマ・ヨーガでもあるね。
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◎至高の平安の境地

2009-01-24 21:59:04 | 解説・バガヴァッド・ギーター

◎至高の平安の境地

【本文】
『篤い信仰心を持つ人は、感覚の欲望を制御することで、この無上の叡智を得、
速やかに至高の平安の境地に至る。

だが無智にして信仰もない者や、その完全なる叡智の存在を疑う者は、
この世も来世も平安を得られず、常に不幸となることであろう。』


 はい。これも読んで字の如くですね。篤い信仰心を持ち、それによって自分の欲望を制御し、そしてここまで書かれていたようにしっかり励む者は、速やかに至高の平安――至高の平安っていうのは、もう完全なる平安の解脱の境地ですね――に至るでしょうと。無智であり、信仰もなく、「そんな叡智とか智慧とか悟りとかあるんですか?」と。そういう者は、この世においても平安になれないし、もちろん解脱もできないし、常に不幸ですよと。



◎完全なる叡智の剣で

【本文】
『果報を求めずに行為する人、完全なる叡智によって疑念を捨てた人、
自己の本性に徹して自由自在となった人、この人たちは、カルマに決して縛られることはない。おお、富の征服者よ!

己の心の迷いと疑いを、完全なる叡智の剣で断ち切り、
精神をヨーガに集中し、さあ、立ち上がって戦いなさい! バーラタ王の子孫よ!』


 はい。かっこいいですね(笑)。この最後のまとめ――つまり結局は、この唯一なる完全なる絶対なる、われわれの本性のところにある叡智を発見せよと。で、その一つの手段が供養だと。バクティだと。つまり全てを神の供物とみて、一切にとらわれず行為をせよと。そしてさまざまな方法で修行を行なうことによって、この完全なる叡智をつかめと。これをひとたびつかんだならば、すべては――カルマの悪しき流れとか、あるいは自分の中のさまざまな迷妄とか、それがすべて断ち切られるんだよ――というところですね。
 はい、これはもう、さっきも言ったけども、素晴らしい部分ですので、日々読んで自分の行動の指針にしたらいいね。



◎言葉にできないもの

 はい、最後に何か質問等ある人いますか? 特にないかな? 今回も反応がよく分からないけど(笑)。ああ、すごいな、と思ってるのか、何かよく分かんないなと思っているのか(笑)。

(H)感動しました……

 本当? 本当かな(笑)。S君何か質問はないですか?

(S)完璧です。

 完璧(笑)? ええ? 本当かな(笑)。

(S)僕が完璧じゃなくて……

 ああ、この教えがね(笑)。うん。確かに、質問がないっていうのは、正しいのかもしれない。こういうものっていうのは、ああだこうだ、これはどうなんだろう、こうなんだろうっていうんじゃなくて、純粋にちょっと受け入れて、あとは実践してみる教えだね。こういうものっていうのはね。
 でもバガヴァッド・ギーターとかって、そう思うね。バガヴァッド・ギーターっていろんな解釈書が出てるけど――私はあまりそういうのを読んだことがないんで、どれがいいとか悪いとかは言えないけども――こういうタイプの聖典っていうのは、あまり学術的に解釈したのは読まない方がいい。これはこういう言葉の意味があってこうこうっていうのは、あまり読み過ぎると、真意を失います。本当にクリシュナが言おうとしてきた――今日の説法も同じだけど――本当に言おうとした、言葉にできない「これ」があって(笑)、「これ」を一応伝えようとしてるんですよ。ここで私が言った言葉の一つ一つをとらえてね、この言葉はこうですからこうですから……ってやりだすと、どんどん違う方にずれるっていうか(笑)。だからちょっと曖昧な言い方だけど、これを「心で読め」と(笑)。心で読んで、感じたものをしっかり実践しろと。ちょっと曖昧だけどね。うん。でも一応今日は、その曖昧な部分をできるだけ、こう形にしようとは思ったけど。それはまたみなさんが、日々読んで実践して、体得していったらいいと思うね。
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◎偉大なる叡智の船

2009-01-24 21:00:06 | 解説・バガヴァッド・ギーター



【本文】
『たとえ君が極悪の罪人だとしても、この偉大なる叡智の船に乗るならば、
あらゆる苦痛と不幸の大海を、難なく渡りきって行けるであろう。

燃え盛る炎が、薪を焼き尽くして灰にするように、
この完全なる叡智の火も、あらゆるカルマの報いを焼き尽くして、灰にしてしまうのだ。

この完全なる叡智こそ、この世を浄化する神秘の力なのであり、
ヨーガの修行を正しく成就した人は、その完全なる叡智が実は自己の中にあることを悟るに至る。 』


 はい。つまりまとめると、全てをクリシュナ――完全な如来といってもいいし、神の現われ――と見て、一切の行為の結果や、あるいは計画や、あるいは過去のことに執着せず、与えられた使命を全力で行ない、そして全てを神の供物と考えて生きると。で、具体的には、真理を体得した賢者に仕えて、真理をしっかり学び、そしてさっき課題として与えられたような生き方をしっかりすると。それによって君は無上の叡智を得ると。この無上の叡智っていうのは、まさにカルマを脱した絶対的な叡智を得ると。もし君がそれを得たとしたならば、たとえ君が極悪の罪人だとしても、それは全く関係がないと。ここら辺も、まさにちょっと密教的な感じなんだね。つまりその唯一のわれわれの心の本質である智慧を悟ってしまったならば、まったくその心におけるカルマの束縛とか、そんなものさえも関係がなくなってしまうということだね。
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