ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

一人ビッグバン

2008-11-29 21:39:50 | 松川先生のお話

 昨日はまた、面白い体験をしました。
 これは瞑想中ではなくて、寝ようと思って横になったときに不意にやってきました。
 まず両手の指の先から胸の中心まで、そしてそこから頭まで、バーッと、強烈な快感を伴う振動が生じました。

 実は私にとってのヨーガ修行や瞑想は、常に快感を伴うものでした。それは単に「すがすがしい」という意味ではなくて、実際にはっきりした、強烈なエクスタシーです。それは冗談ではなく、セックスよりも、この世のどんな快楽よりも良いものです。
 密教などではそれを「大楽」や、ただ「楽」などと呼んでいます。そしてそれに様々な表現をつけて、いろいろな「楽」を定義しています。
 これは私はよく分かるのです。私もいろいろな「楽」を経験してきたからです。楽は楽で、エクスタシーなのですが、はっきりと、それぞれ違うタイプの楽なのです。

 昨夜の「楽」もまた、今まで経験したことのないタイプの「楽」でした。それは表現が難しいのですが、とても強烈で、激しく、鋭く、強い振動を伴い、はっきりした感じの「楽」でした。
 
 そしてそれと同時に、「光がぶつかる音」が聞こえ続けました。これは表現できないので、一番いい表現を使ってみましたが、自分の中にいくつもの光が飛び込んできて、それらが強烈にぶつかり合い、非常に大きな、しかし心地よい和音を作り出しているような感じでした。

 光がぶつかる心地よくも大きな音。強烈なエクスタシーを伴う鋭い振動。なんだか自分の中でビッグバンが起きているような感じでした。

 それはかなりはっきりとしたものでしたが、もちろん恐怖などは無く、久々の新しい体験で、かなり楽しかったです。
 さて、このビッグバンのような体験で、自分の中にまた新たに生まれ出てくるものがあるのか。それもまた楽しみです。

 ああ、やっぱり修行は楽しいな(笑)。どこまで行っても終わることがない(笑)。
 
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「ディンカパ」

2008-11-29 15:17:30 | 経典の言葉・聖者の言葉




 
 ディンカパはブラーフマナで、シャーリプトラという地のインドラパーラ王の大臣でした。

 彼と王は輪廻に失望し、二人で火葬場にあるルーイーパの家に行き、門をたたきました。
 「どなたですか?」
 師ルーイーパが答えました。
 「王と大臣です。」
と二人は答えました。
 ルーイーパは、
「それでは中にお入りください」
と言うと、彼ら二人をチャクラサンヴァラ・マンダラでイニシエートしました。
 イニシエーションのお礼として、彼らは自分たちの身体を差し出しました。

 その後、彼らはオーデーシャという異郷の地に行き、そこで托鉢をしました。その後、ルーイーパが王を売ったのは、ダーリカパの伝記の中で明らかにされる。

 師ルーイーパとブラーフマナ階級の大臣の二人は、一週間後、仏教徒の王のお膝元であったジャイナタプラにつきました。彼らは酒を売る女の家に行き、酒売りのかしらであるその女を見つけて言いました。
「奥さん、人を買いませんか?」
 女将は家の中から答えました。
「買いましょう。いくらですか?」
「金300トーラで結構です。」
 師ルーイーパが言うと、彼女は代金を支払い、ブラーフマナを引き取りました。
 師はそこを去る時、こう言いました。
「こういう値で買われたのだから、彼をひとりで寝かえてください。彼がお金を料金分稼いだら、彼を解放してください。」

 ブラーフマナは、酒売りとしての仕事をよくこなしたので、従業員たちは喜びました。ブラーフマナは、「主人と従業員たちすべての主人」と呼ばれました。

 あるとき、昼間の仕事が終わり、食事が運ばれてこないまま夜になったので、ブラーフマナは庭に眠りに行きました。ブラーフマナに食事が運ばれてきたとき、15人ほどの娘たちがそのブラーフマナ階級の子息に奉仕し、彼の体が光り輝いているのを見ました。
 酒売り女が女将にそのことを告げると、女将は後悔し、大臣に願いました。

「私どもが12年間あなたを働かせた罪は私にあります。ですから12年間、私にあなたを供養させてください。あなたに奉仕いたしましょう。」

 彼は拒否しました。しかし彼は酒売り女たちとジャイナタプラの人々に法を説いた後、修行の仕方を授けました。そして700人の従者たちを従えて、ダーカの領域に行きました。

 彼は米の脱穀をする仕事をしたので、「ディンカパ」という名前で知られました。

 ディンカパは詩句の中で、このように歌っています。

 
 かつて聖典ヴェーダを朗読した私ディンカパは、米をつき、瞑想を行なう。
 私は臼の中で米をよくつき、手で集めて山にした。
 私はグルの教示によって米をついた。黒い米をついた。
 私は本初の善によって罪をついた。ヴァジュラの智慧の杵によって。
 私は空なる法性としての臼の空洞の中で、月と太陽のように光輝いた。
 絶えず捨てることと取ることとを無差別としてつき、
 フーム字で分別をかき混ぜることにより、
 大楽のバターが生じ、
 非二元性の風味を味わう。


 なぜディンカパを酒売り女に売る必要があったのでしょうか。
 「ブラーフマナ」という大きな分別を持つ彼に、酒売りを体験させることによって、階級のおごりを断ち切るために、彼を酒売り女に売ったのである、といわれます。

 師ディンカパの伝記、終わり。
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ちょっと変わった独り言、つれづれ

2008-11-29 11:48:37 | 松川先生のお話


 一般社会の常識に迎合するような言葉を語るということは、意味がないとかあまり良くないというより、悪でさえあるという気が、最近はしています。
 ・・・なんてことを書くと、大変誤解されるかもしれませんが(笑)、別に社会に反抗しろとかいうことじゃないんですけどね。
 
 この世は偽善で満ちているような気がします。それはなんていうか、誰かに対する偽善とかいうより、もう何が偽りで何が本音かわからないほど、偽善で固まってしまっているのではないでしょうか。

 心を解放し、洗うこと。それをする時間も、多くの現代人には無いようです。
 
 周りとあわせるより、神に心を合わせなきゃいけない。

 神という言葉が嫌いなら、自分の本質といってもいいでしょう。

 それをするともしかすると、周りから叩かれるかもしれない。非難されるかもしれない。

 でも神や、自分の本質に非難されることに比べたら、全くましです。

 しかしこれは大変難しい話かもしれません。そもそもその神や自分の本質の本当の声を聞くには、「修行」が必要だからです。思い込みや、自己の汚れた心的情報を神の声と勘違いすることも、大いにありうるからです。

 だから、周りのものに声を合わせるより、内なる真理、あるいは神に心を合わせるため、自己の浄化に励まなければならない。そのためには・・・あれ、やっぱり「ヨーガ修行が一番」になっちゃいましたね(笑)。

 まあとにかく、「神」や「光り輝く自己の本質」に対して、誠実な道を歩んでください。

 皆さんが顔色をうかがって歩調を合わせようとしている「世間」、それを形成している人々の誰もが、本質を持たず、お互いに周りにあわせようとしているだけなんですから。こんな意味のないことはないでしょう。

 輪廻があろうと無かろうと、人は死にます。貴重な人生、ただ「神」や「光り輝く自己の本質」に、誠実な道を歩みたいですね。

 バカな考えにこだわったり、言葉をもてあそんでいる暇があったら、自己の本質を探れ。その道こそがヨーガです。
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ルーイーパ

2008-11-28 22:17:57 | 経典の言葉・聖者の言葉

「84人の成就者たち」より





「ルーイーパ」


 グル・ルーイーパとは、彼が魚の腸を食べたことによる命名です。

 一人の王がいました。王国は財宝の神クベーラに負けないほど裕福でした。王には、宝石、真珠、金、銀などで飾られた王宮があっただけではなく、3人の息子がいました。
 この王が死んで間もなくして、占星術師にどの息子が王国を継承すべきかを相談しました。その占星術師は、
「二番目の御子息が王国を継承すれば、領土は強固となり、家来や領民たちが幸福になるでしょう。」
と発表しました。  
 そのため、父の王国を次男に継承させることになりました。
 本人は望んでいなかったにも関わらず、兄と弟は、家来たち全員と一緒になって、彼を王位継承者として即位させました。彼はそれを逃れようと試みましたが、兄弟と領民たちは彼をとらえ、金という鎖で拘束しました。
 そこで王は、護衛と家臣にわいろとして金と銀を配りました。夜、つぎはぎの衣をまとい、ラーマパーラ王の地であるラーメーシュワラへと赴きました。
 
 そこで彼はシルクで作られた床座を放棄し、黒い羊の皮の床座に座りました。また彼は王の寝室を放棄し、灰の中で眠りました。
 王は見た目が麗しかったので、誰もが食べ物と飲み物を分けてくれ、食事に事欠くことはありませんでした。
 その後、彼がブッダガヤーに行くと、そこでダーキニーたちが彼の面倒を見、教えを授けてくれました。
 次に、王の住まいであるシャーリプトラに行き、すべての人々から施された食物を食べ、火葬場に住みました。

 ある日、市場に向かい、酒売り女のところへ行きました。その酒売り女の女将は、在俗のダーキニーでした。ダーキニーは王を見てつぶやきました。
「この者は四つのチャクラの汚れなどすべてが浄められているが、心臓にはまだ米粒一つほどの『階級への分別』のけがれがある。」

 ダーキニーはつぼの中に腐った食物を入れて、彼に渡しました。王がそれを投げ捨てたので、ダーキニーは怒りました。
「食物の善し悪しの分別を捨てないならば、どうしてあなたは教えにふさわしかろうか!」

 分別および外面的な相への執着は、悟りへの妨げになることを悟り、王はそれらを振り棄てました。彼は、漁師がガンジス河で捨てた魚のはらわたを取り、12年に及ぶ修行期間の間は、それを食べました。
 魚市場の女性たちが、魚の内臓を食べている彼を見て、ルーイ―パ(古くなった魚のはらわた)と呼んだのをきっかけに、彼はいたるところでルーイパという名で知られました。そして、その名のもとにシッディ(成就)を得ました。

 彼の伝記の残りは、ダーリカパと、ディンカパの伝記のときにも登場します。

 大成就者(マハ-シッダ)ルーイーパの伝記、終わり。

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新刊案内『クンダリニー・ヨーガ 第一巻』

2008-11-27 09:57:45 | お知らせ
『クンダリニー・ヨーガ 第一巻――今明かされる、真のクンダリニー・ヨーガ』 
           

松川慧照 著

クンダリニーヨーガの全容を、基礎から秘儀に至るまで惜しげもなく公開。巻末に行法指導つき。




定価:1,000円



郵送もいたします。希望者はメールまたは電話でご連絡ください。


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アーナンダマイー・マーの教え【まとめ】

2008-11-26 15:25:11 | 経典の言葉・聖者の言葉





※この内容は、アーナンダマイー・マーの教えに、松川慧照がアレンジを加えてまとめたものです。







日々の生き方のアドヴァイス



 私は、私の父と母であるあなた方すべてに、一つのことを行なうよう嘆願いたします。
 あなたは、あなたが背負っているすべての病から救われたいと考えています。
 あなたは、人が病気のとき、正しい食事と正しい薬の両方を必要とするのをご存知でしょう。
 あなたに必要な薬は、神の名を繰り返し唱えることと、神について熟考することです。
 あなたに必要な食事は、「自己の制御」です。
 できれば毎日、または少なくとも週に一度は、修行をしてください。
 そして次の規則を、できれば毎日、または少なくとも週に一度は、必ず守ってください。


1.自分が正しい言葉を発しているか、正しい思いを持っているか、正しい行ないをなしているかを観察してください。

2.食物や衣服は、極端なほどにシンプルなものにしてください。

3.世事のことよりも永遠のものを思い、心を平静にしておいてください。
  絶えず強い献身の心を持って、彼の御姿、そしてギーターで明らかにされる彼の教えと彼の栄光を、思念してください。

4.人生におけるすべての心配事は、自分を成長させるための神からのプレゼントだということを、一日中、忘れないようにしてください。

5.あなたの両親、子供、夫、妻、隣人などが、いつか「彼」との絆を確立することを願いつつ、彼らに対する奉仕の精神を保ち続けてください。

6.自分は常に真理の中にあり、至高者の御胸の中で成長し、彼を見出すために日々ますます自己を放棄しているのだという確信を強めてください。
 
7.これまでにあなたが経験してきたすべての喜びと悲しみは、あなた自身の心の投影に過ぎず、それらはすべて矢が飛び去ったような束の間のものでした。
 しかしあなたが常に神とともに遊戯(リーラー)するならば、それは永遠の平和と幸せをもたらします。
 それを常に覚えていてください。

8.彼と遊戯するために、あなたの心に、彼と自分をつなぐロープを確立してください。
 彼の御姿、性質、恩恵および美しさなど、聖典に説かれていること、および聖者によって説かれたことを学び、歓喜してください。

9.あなたが、自分は精神的に進歩をしていないと感じるとき、その原因は常にあなただけにあると考え、精神的進歩へのあなたの意志をより一層強化するように努めてください。
 そしてより純粋な、またはより高い自我意識を持って、彼を崇拝してください。
 すなわち、
「私は彼を愛する。」
「私は神のしもべである。」
 ――これらの自我意識は、あなたと神をつなぐために、強く持つべき「良い自我意識」です。

10.以上のことを、一日中、忘れないようにしてください。
 これらを心に留めつつ、日々彼の名を繰り返し唱えることは、
 あなたが今生、そして過去世において犯したすべての罪を浄化するのに十分な力となるでしょう。








あらゆる行為を捧げる



 人は、日常生活のあらゆる行為を、至高者にささげようとしなければなりません。

 朝起きた瞬間から、夜眠りに落ちるまで、人はこの心構えを継続しようと努力しなければなりません。

 そうすることによって、人は徐々に次のようなことを感じるようになるでしょう。
「私は、執着、怒り等の好ましくない性質を、彼に捧げてもよいのだろうか?
 私にとって最愛である彼に、そのような悪いものを捧げることはできない。
 よって私は、私の心の中から、悪しき思いを完全に取り除こう。
 また、私にとって最愛である彼に、すべてのものを捧げるなら――『私のもの』などはどこに残るだろうか?」

 このように自己反省をし続けることで、人は最終的に、悪いことや好ましくないことは何もすることができなくなります。

 このようにすべてをささげ続けて、人が彼の蓮華の御足の下で無心となり、少しの「私のもの」もなしにすべてを犠牲にしたとき、
 何もなくなったその人に、彼は彼のものを運んできてくださるかもしれません。

 あなたは、その幸運な瞬間に、彼が何を行なうかを知っていますか?

 あなたのその少しの献身へのご褒美として、彼はあなたを完全にします。
 そしてあなたには、何も達成できないものはなくなるでしょう。
 そのとき、あなたの自己献身は、完全なものとなります。
 まさしくその瞬間、「分けられない一者」は姿をあらわします。
 完全なる完全性が、おのずから明らかになるのです。
 






唯一者を見つけるには


 唯一者を見つけるには
 彼を求めて、泣き叫ぶほどに切望することです。

 安穏と幸運の時期にも、
 逆境と苦悩の時期にも、
 ただ彼だけに、避難所を求めてください。

 いつでもどんなときでも、彼を求める心を保ち続けてください。

 彼こそは完全なる慈悲であり
 幸福の泉であり
 完全なる至福なのです。






おまかせ

 神への愛を持ち、陽気な心で、すべてを神に任せることのできない人は、
 人生が極端に重荷となり、決して何も価値あることを達成できません。

 人は、すべてはただ「彼」によって与えられ、「彼」によって奪われるという信念を持ち、
 喜んで世界に奉仕しなければなりません。

 そのような精神でなされる行為は、マインドとハートを浄化するのを助けてくれるでしょう。





ただの道具


 それは、すべてに偏在する完全なる意思。

 この意思と調和して、彼の手の中のただの道具になることによって、彼を悟るべきです。






生きる意味


 人は、心の真の本性に覚醒しなければなりません。

 そしてその道の途上、たとえ彼が大地に倒れたとしても
 その大地をしっかりと踏みしめて、何度でも立ち上がらなければなりません。
 このように努力し続けることは、人の義務です。

 もし人が心の本性に目覚めないならば
 この人生に何の価値がありますか?
 彼はただ意味なく人生を浪費しただけです。

 このようにして人は意味なく年をとり、死に、また生まれ変わり、
 何度も何度も、意味のない人生を浪費してきました。

 今こそ、あなたが誰なのかを突き止めてください!
 生と死の意味を悟ってください。
 その原因と、それからの解放を悟ってください!

 人がその内なる本性への旅人になるとき
 彼は真に価値ある人生を歩みだすでしょう。

 何百もの障害と、何百もの妨害をその足元に踏みつけ、
 剛健な心を奮い起こし、
 この不死の国への巡礼の旅を、確実に達成しなければなりません!





英雄のように


 人は、英雄のようでなければなりません。
 不幸や苦悩の時期こそ、不屈の精神と忍耐を持ち、雄々しくあってください。
 時は決して静止していません。






プレゼント


 すべての衆生に――たとえそれがあなたに害をなす人であっても――愛と幸福を全力で与えてください。
 彼らはお返しに、「不屈の心」というプレゼントをあなたに与えてくれるでしょう。






それ



 なぜ、「未来において悟りを得よう」というのですか?

 それは「今」「ここ」にあります。

 ただし、それを覆っているヴェールは、破壊されなければなりません。

 ヴェールがバラバラに崩れ落ちるとき、「それ」があらわれます。

 それは自ら光り輝き、永遠なる輝きであり、すべての二元性を超えています。








戦場


 人生は、まさに戦場です。
 
 世俗的な富ではなく、精神的な富を勝ち取ることによって、この戦いに勝利しなければなりません。

 自らが無智であるのに智者であると思いこむ人は、すなわち無智な人です。
 自らが無智であることを知り、智慧を得ようと努力する人はすなわち智者であり、称賛に値します。






彼だけが


 彼だけが、彼の恩寵の真の意味を知っています。

 彼の御業の真の意味は、人知を超えており、どんな人でも理解することができません。

 巡礼者の数だけ、異なった道があります。彼はすべての巡礼者に適した道を用意します。

 そして彼は苦しみによって苦しみを破壊し、
 悲しみによって悲しみを絶滅させるでしょう。







一撃


 至高者は、それぞれの人のカルマや傾向に応じて、さまざまな名前や形で崇拝されています。

 あなたが信じる彼の名前と形に対して、誠実に、熱意をもって、心から助けを求めてください。

 至高者は、わが子が悲しみに沈んでやるせない涙を流し、自分に助けを求めているのを見て、無関心でいることはできません。

 彼はわが子を救うために、わが子に厳しい一撃を加えるでしょう。
 ――しかしその後、彼は愛するわが子を再び抱擁し、慰めるでしょう。






欲望


 人は欲望の奴隷です。

 欲望はその人自身の心が作りだすものです。
 人は自作自演で、何かを得て喜んだり、失って悲しんだりしているだけのことです。
 そこには真の幸福は何もありません。

 唯一の真の実在だけを、常にじっと見つめてください。

 ――そうしなければ、そこには欲望が生じ、
 また間違った行為が生じ、
 あなたが生まれてきた意味のすべてが台無しになり、
 そして苦悩と死が生じるでしょう。






年金

 「それ」に到達したとき、人は「永遠の神の年金」を得ます。

 普通の年金は、額に限りがあり、またあなたが生きている間だけもらえるものですが、
 「永遠の神の年金」は、限界のない至福であり、生死を超えて決して終わることがありません。
 その素晴らしさは、言葉では表現することができません。

 もしこの世で、何かを望むべきであるとするならば
 人は、この至福の年金をこそ望むべきです。







一味平等



 至高なる神の遊戯の中では、得ることも失うことも一味平等です。

 これがこの世界の真実です。

 何も欠けるところがない彼に心を向けてください。

 ただ彼を瞑想してください。

 彼に祈りを捧げてください。

 彼をよりどころとしてください。

 より多くの時間を、神の名を唱えることと瞑想に捧げてください。

 彼の御足に、あなたの心を明け渡してください。

 絶え間なく神の名を唱え、瞑想し続けようと努力してください。








ただその彼だけを


 至高なる神の愛の中に避難所を求めること
 それ以外に、現世の心配や苛立ちから解放される方法はありません。

 彼のことを常に心に思いながら、あらゆる活動に従事してください。

 過ぎ去った過ちや不幸を後悔したり、
 まだ来ていないことを期待したり恐怖したりするのは、
 単に心を悩ませて、身体を損なうだけです。

 彼を思う心を、常に保ってください!
 すべてはただ彼の愛によって生じ、維持され、滅します。
 ただその彼だけを、心に念じ続けなければなりません。 




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日々の生き方のアドヴァイス

2008-11-23 15:58:34 | 経典の言葉・聖者の言葉
 日々の生き方のアドヴァイス

inspiration:Anandamayi Ma
arrange:Keisho Matsukawa



 私は、私の父と母であるあなた方すべてに、一つのことを行なうよう嘆願いたします。
 あなたは、あなたが背負っているすべての病から救われたいと考えています。
 あなたは、人が病気のとき、正しい食事と正しい薬の両方を必要とするのをご存知でしょう。
 あなたに必要な薬は、神の名を繰り返し唱えることと、神について熟考することです。
 あなたに必要な食事は、「自己の制御」です。
 できれば毎日、または少なくとも週に一度は、修行をしてください。
 そして次の規則を、できれば毎日、または少なくとも週に一度は、必ず守ってください。


1.自分が正しい言葉を発しているか、正しい思いを持っているか、正しい行ないをなしているかを観察してください。

2.食物や衣服は、極端なほどにシンプルなものにしてください。

3.世事のことよりも永遠のものを思い、心を平静にしておいてください。
  絶えず強い献身の心を持って、彼の御姿、そしてギーターで明らかにされる彼の教えと彼の栄光を、思念してください。

4.人生におけるすべての心配事は、自分を成長させるための神からのプレゼントだということを、一日中、忘れないようにしてください。

5.あなたの両親、子供、夫、妻、隣人などが、いつか「彼」との絆を確立することを願いつつ、彼らに対する奉仕の精神を保ち続けてください。

6.自分は常に真理の中にあり、至高者の御胸の中で成長し、彼を見出すために日々ますます自己を放棄しているのだという確信を強めてください。
 
7.これまでにあなたが経験してきたすべての喜びと悲しみは、あなた自身の心の投影に過ぎず、それらはすべて矢が飛び去ったような束の間のものでした。
 しかしあなたが常に神とともに遊戯(リーラー)するならば、それは永遠の平和と幸せをもたらします。
 それを常に覚えていてください。

8.彼と遊戯するために、あなたの心に、彼と自分をつなぐロープを確立してください。
 彼の御姿、性質、恩恵および美しさなど、聖典に説かれていること、および聖者によって説かれたことを学び、歓喜してください。

9.あなたが、自分は精神的に進歩をしていないと感じるとき、その原因は常にあなただけにあると考え、精神的進歩へのあなたの意志をより一層強化するように努めてください。
 そしてより純粋な、またはより高い自我意識を持って、彼を崇拝してください。
 すなわち、
「私は彼を愛する。」
「私は神のしもべである。」
 ――これらの自我意識は、あなたと神をつなぐために、強く持つべき「良い自我意識」です。

10.以上のことを、一日中、忘れないようにしてください。
 これらを心に留めつつ、日々彼の名を繰り返し唱えることは、
 あなたが今生、そして過去世において犯したすべての罪を浄化するのに十分な力となるでしょう。
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見ること

2008-11-23 15:54:58 | 松川先生のお話


 チベットの風狂者へールカがまとめた、チベット仏教の聖者マルパの伝記のサブタイトルは、「見ることはすべてを達成する」だが、確かに真実の悟りというものは「見ること」によって達成される。

 われわれはこの世界を見ているようで何も見ていない。実は今この瞬間もあなたは眼をつぶっており、ただ過去世から作り上げてきた習慣的な思考の反復を行なっているにすぎない。

 そのようなすべての固定観念が、あなたの瞼を縛りつけている。それらをとりはずし、眼を開けなければ、本当のことはわからない。
 
 しかしあなたが実際に目をあけることに成功したとしても、最初のうちは、「見る」ことには大きな恐怖が伴うだろう。それはあなたの想像をはるかに超えている、というよりも、想像の範囲外の世界である。あなたの中には恐怖と混乱が生まれる。なぜならそれは全くの未知なるものだからだ。心の中での類型化が不可能な体験だからだ。

 もしその人に「準備」ができていれば、その恐怖を乗り越え、実はその未知なるものが、実はただ一つの既知なるものであったことに気づく。そこですべてが明らかになる。

 しかしもしまだ準備ができていないうちに、間違って目を開いてしまうと、彼はその恐怖と混乱と絶望により、最悪の結果を生む危険性もある。
 最悪の結果とは、以前よりもよりひどい観念的世界に縛り付けられるということだ。

 足場のない未知なる領域に踏み込んでしまったとき、人は必死で足場を探す。そこは比較的自由な心の空間なので、足場を探せば、無数の足場がある。そこには、今まであなたがなじんできた足場よりもさらに悪い足場もたくさんある。それらの悪い足場に逃げ道を求めてしまったら悲惨である。その後ずっとその人は、その低い意識の世界で生きなければならないから。その人は修行などしないほうがよかったということになる。

 だから眼を開こうとする前に、周到な準備が必要だ。それはつまり、より高い観念で自己を縛りつけるということ。別の言い方をすれば、神聖なる足場を強固なものにし、そこを自分の避難所とするということだ。

 仏陀や神や師への帰依。教えの学習と精密な実践。これらの観念で、自分自身をがちがちに縛り付ける。神や仏陀や教えのしもべとなる。
 それにできるだけ時間をかける。仮にそれだけで一生終わってしまってもかまわない。
 そして十分に準備が整ったならば、最後に足場を外す。神や仏陀という観念の糸さえも解いて、眼を開けてみる。
 もし完全に準備ができていれば、それほどの恐怖はなく、「見ること」を達成するだろう。
 もし中くらいの準備ができていれば、若干の恐怖が生じ、「見ること」を失敗する可能性もあるが、それでもまた神聖な観念の世界に戻ることができるだろう。

 だからひたすら、神聖な観念に自分を縛りつける。神聖な観念の世界を自分の中に作る。
 そして最後は、眼を開けて、見るのだ。
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「赤い岩の宝石の谷」の物語

2008-11-21 20:41:22 | 経典の言葉・聖者の言葉
ミラレーパの十万歌


英訳:Garma.C.C.Chang
英訳からの和訳:Keisho Matsukawa




パート1 ミラレーパ、悪魔を征服し、改心させる


第一話 「赤い岩の宝石の谷」の物語



 すべてのグル方に礼拝いたします。


 あるとき、偉大なヨーギー・ミラレーパは、宝石の谷の鷲の城に滞在して、マハームドラーの瞑想修行に集中していました。
 空腹感を感じ、何か食物を調理しようとしましたが、よく洞窟の中を見ると、塩や油や小麦粉はおろか、水や燃料さえ何もないということがわかりました。
 彼は言いました。

「私はものを無視しすぎたようだ!
 外へ出て、少し薪を集めなければならないな。」

 彼は外へ出ました。しかし彼が手に小枝を集めると、突然、強い風が起こりました。その風は森の木を吹き飛ばし、彼のぼろぼろの服を引き裂くほどに強い風でした。服をつかもうとすると薪が飛ばされ、薪をつかもうとすると服が破り飛ばされました。

 ミラレーパは考えました。
「私はこんなにも長い間、ダルマを実践し、リトリートにとどまっているのに、未だ自我執着を取り除いていない! それを征服できないならば、ダルマを実践していったい何になるのだろうか。好きなように風に、薪や服を吹き飛ばさせよう!」

 このように考えて、抵抗をやめました。しかし、食料不足による身体の虚弱により、次の突風に彼はもはや絶えることができず、気絶して倒れました。
 
 彼が意識を取り戻したとき、嵐はやんでいました。高い木の枝に、自分の服の切れ端が揺れているのが見えました。現世とそのすべて事柄の無益さに関する思いが、ミラレーパを襲いました。そして強い現世放棄の思いが彼を圧倒しました。彼は岩の上に座り、再び瞑想を始めました。
 すると間もなくして、白い雲の一群が、東方のかなたにある「トウォの谷」から上昇するのが見えました。

 「あの雲の層の下あたりには、わがグルである偉大な翻訳者マルパの僧院がある。」
 ミラレーパは考えました。
 「今この瞬間、彼と彼の妻は、タントラの教えを説き、法友たちにイニシエーションを与えているだろう。
 そうだ、わがグルはあそこにいる。今そこへ行けば、会うことができるだろう。」

 グルのことを思うと、グルを求める抑えがたい強烈な切望が生じ、彼の眼は涙でいっぱいになりました。そして彼は「わがグルへの思い」という歌を歌い始めました。


 父マルパよ、あなたのことを思うと、私の苦しみは取り除かれます。
 私、乞食僧は、熱い歌をあなたに歌います。
 
 東方の赤い岩の宝石の谷の上に、
 一群の白い雲が浮かんでいます。
 その下には、後ろ足で立ち上がるゾウのような、巨大な山がそびえ、
 その近くには、飛び跳ねるライオンのような、もう一つの峰がそびえ立っています。

 トウォ谷の僧院には、大きな石の座があります。
 今、その玉座で崇められているのは誰ですか?
 それは翻訳者マルパでしょうか?
 もしそうなら、私は嬉しく、幸せです。
 私の敬意は限られていますが、あなたにお会いしたいのです。
 私の信は弱いけれども、あなたとともにいたいのです。
 瞑想するほど、わがグルへの思いは募ります。

 グルの妻ダクメーマは、一緒にいらっしゃるでしょうか?
 彼女には、実の母よりも感謝しています。
 もし彼女がそこにいるなら、私は嬉しく、幸せです。
 旅は長くとも、彼女に会いたいのです。
 沈思するほどに、あなたへの思いは募ります。
 瞑想するほどに、わがグルへの思いは募ります。

 もし集いに参加できたら、私はどれほど幸せでしょう。
 そこであなたは、へーヴァジュラ・タントラを説いていらっしゃるかもしれません。
 私の心は単純ですが、学びたいのです。
 私は無智ですが、唱えたいのです。
 沈思するほどに、あなたへの思いは募ります。
 瞑想するほどに、わがグルへの思いは募ります。

 あなたは今、口頭伝授の四つの象徴的イニシエーションを授けていらっしゃるかもしれません。
 もし集いに参加できたら、私は嬉しく、幸せです。
 私の功徳は足りませんが、イニシエーションを受けたいのです。
 私は貧しく、多くの布施はできませんが、それを欲します。
 沈思するほどに、あなたへの思いは募ります。
 瞑想するほどに、わがグルへの思いは募ります。
 
 あなたは今、ナーローパの6ヨーガを説いているかもしれません。
 もしそこにいられるなら、私は嬉しく、幸せです。
 努力は足りませんが、私は学びたいのです。
 忍耐力は乏しいけれども、私は修行したいのです。
 沈思するほどに、あなたへの思いは募ります。
 瞑想するほどに、わがグルへの思いは募ります。
 
 ウェウとツァンの兄弟が、そこにいるかもしれません。
 もしそうなら、私は嬉しく、幸せです。
 私の経験と悟りは劣等ですが、彼らのものと比べてみたいのです。
 
 深い信仰と尊敬においては、あなたから離れたことはありませんが
 私は今、あなたに会いたいという気持ちで、苦しめられています。
 この熱い思慕が私を悩まし、
 この大きな苦悩が、息を詰まらせます。
 お願いします。慈愛に満ちたグルよ、
 私をこの苦悩から救ってください。


 このようにミラレーパが歌い終えるや否や、尊敬すべきジェツン・マルパが、五色の衣のような虹の雲の群れに乗ってあらわれました。その顔はどんどん強くなる天の光輝に照らされ、壮麗な礼服を着て、ライオンにまたがって、ミラレーパに近づいてきました。

 マルパは言いました。

「わが息子、偉大な魔術師よ。なぜそのように感傷に深く浸り、必死に私を呼ぶのか。
 なぜそのようにもだえ苦しむのか。
 グルやイダムに対する永遠の帰依心を持っていないのか? 
 外側の世界の妨害想念が誘惑するのか。
 八つの現世的風が、洞窟の中で吹き荒れているのか。
 恐怖と思慕に、お前の強さを奪われたのか。
 お前はグルと三宝に奉仕をしてこなかったか。
 功徳を、六つの世界の衆生にささげなかったか。
 悪業を浄化し功徳を得る慈悲の状態を達成しなかったか。
 何があろうとわれわれは離れないことを、お前は確信しているだろう。
 ゆえに、ダルマと衆生の利益のために、瞑想を続けなさい。」


 この崇高な喜ばしいヴィジョンによって心目覚め、ミラレーパは次の歌によって応えました。


 グルの顔を見、彼の言葉を聞くとき、
 私、乞食僧は、心臓の中のプラーナによってかきまぜられます。
 わがグルの教えを思い出すと、尊敬と崇拝の念が心に生じます。
 彼の慈悲に満ちた祝福が私に注がれるとき、
 すべての破滅的な思いは止滅します。

 師よ、「わがグルへの思い」という熱い歌は、
 あなたによって聞かれたに違いありません。
 しかし、私はまだ闇の中にいます。
 どうか私を哀れみ、加護を与えてください!

 不屈の忍耐が、グルへの最高の布施です。
 グルを喜ばせる最高の方法は、激しい瞑想修行に耐えることです!
 一人この洞窟にとどまることが、ダーキニーたちへの最高の奉仕です!
 聖なるダルマに私自身を捧げることが、仏教に対する最高の奉仕です。
 それは、私の人生を瞑想に捧げて、私の仲間である絶望的な衆生を救うことです!
 そして、死と病を愛することは、悪業の清算のための祝福です。
 禁じられた食物を拒絶することは、悟りと解脱に到達することを助けます。
 わが父であるグルの慈愛にこたえるために、私は瞑想をし続けます。

 わがグルよ、どうか私に加護を与えてください。
 この乞食僧が、この隠れ家にとどまり続ける手助けをしてください。 


 ミラレーパは意気揚々として、衣服を直し、腕に薪を抱えて、洞窟に戻りました。
 中に入ると彼は、皿ほどもある大きな目を持った、五人のインドの悪魔を見つけて、ぎょっとしました。一人は彼の寝床に座って説法をし、二人はそれを聞き、もう一人は食べ物を用意し、ささげ、残りの一人はミラレーパの本を学んでいました。
 ミラレーパは思いました。
「これは、私のことをよく思わない地元の神々の魔法による現われに違いない。私はここに長く滞在してきたが、彼らに何の布施も挨拶もしなかった。」
 そして彼は、「赤い岩の宝石の谷の神々への挨拶の歌」を歌い始めました。

 わが庵のあるこの孤独な場所は、
 仏陀方を喜ばせる地、
 成就者たちの住む地、
 私が一人住む避難所である。

 「赤い岩の宝石の谷」の上には、白い雲が流れている。
 またその下には、ツァン河がやさしく流れている。
 そしてその間を、コンドルが旋回する。

 ミツバチは、花々の香りに酔わされ、
 その間でハミングする。
 鳥たちは、大気を歌声で満たしつつ、
 木々に降りては、また飛び立つ。

 「赤い岩の宝石の谷」では、
 若いスズメたちは飛ぶことを学び、
 猿たちは飛び跳ねて遊びまわるのを好む。
 そして獣たちは走り回り、競争する。
 一方私は、二つの菩提心の修行をし、瞑想を楽しむ。

 あなた方、この地方の悪魔たち、霊たち、そして神々は、
 皆、ミラレーパの友達である。
 慈愛と哀れみの甘露を飲んで、あなた方の家に帰りなさい。
 

 しかし、インドの悪魔たちは消えず、鋭く、ミラレーパをにらみつけました。彼らのうちの二人はミラレーパの方に進んできました。一人はしかめっ面で下くちびるをかみ、もう一人は激しく歯ぎしりをしていました。残りの一人は後ろに回り、不気味で恐ろしい笑い声を発して、大声で叫びました。彼らは皆、恐ろしい顔や態度によって、ミラレーパを脅そうとしていました。
 ミラレーパは彼らの悪意を知って、激怒している仏陀の瞑想を始めて、強力なマントラを力強く唱えました。しかしそれでも悪魔たちは去りませんでした。
 次に偉大なる慈悲をもって彼らにダルマを説きました。しかしやはり去りませんでした。

 ミラレーパはついに宣言しました。
「マルパの哀れみによって、私は、すべての存在とすべての現象が、自分の心に他ならないとすでに完全に悟っている。心そのものは、空の透明さである。したがって、こんなことをして何になるのか。私はなんと愚かだったのか。これらのあらわれを、物理的に追い払おうとするとは!」

 そして敢然と「悟りの歌」を歌いました。


 四つの悪魔を克服した、父なるグル 
 翻訳者マルパに礼拝します。

 あなたの知っている私、「タクセン・カルモの息子」という名前の者は、
 三つの管を完成させながら、母の子宮で養育されました。
 赤ん坊として、私はゆりかごで眠り、
 若者として、戸口を見張り、
 成人として、高い山に住みました。
 雪の山頂の吹雪は恐ろしいけれども、私は恐れません。
 崖は険しく危険ですが、私は恐れません!

 あなたの知っている私、「黄金の鷲の息子」という名前の者は、
 卵の中で、翼と羽毛を育てました。
 赤ん坊として、私はゆりかごで眠り、
 若者として、戸口を見張り、
 成人として、空を飛びました。
 空は高くて広いけれども、私は恐れません。
 道は険しく狭いけれども、私は恐れません!

 あなたの知っている私、「魚の王ニャチェンヨルモの息子」という名前の者は、
 母の子宮内で、黄金の目を回しました。
 赤ん坊として、私はゆりかごで眠り、
 若者として、泳ぎ方を覚え、
 成人として、大海で泳ぎました。
 とどろく波は驚くべきものですが、私は恐れません。
 釣り針は多いけれども、私は恐れません!

 あなたの知っている私、「カギューのグルたちの息子」とい名前の者は、
 母の子宮内で、信仰を培いました。
 赤ん坊として、私はダルマの門に入り、
 若者として、仏陀の教えを学び、
 成人として、洞窟にひとりとどまりました。
 悪魔や霊や悪鬼は多いけれども、私は恐れません。

 雪ライオンの爪は、凍ることはありません。
 そうでなければ、三つの完全な力を持つライオンを
 「王」と呼んで何になりましょうか。

 ワシは、空から落ちることはありません。
 そうでなければ、とんでもないことです。
 鉄の塊は、石で砕かれることはありません。
 そうでなければ、鉄鋼を精錬して何になりましょう。
 私、ミラレーパは、悪霊も障害も恐れません。
 彼らに脅かされるなら、私の悟りや解脱とは何でしょうか?

 汝ら、霊と悪魔たち、ダルマの敵たちよ
 今日、私はあなた方を歓迎しよう!
 あなた方を迎えるのは、私の喜びだ!
 どうか、あわてずに、ここにいてください。
 語り合い、ともに遊ぼう。
 立ち去ることなく、今夜はここに泊っていってください。
 我々の、黒と白のダルマを戦わせよう。
 そして誰が最も遊び上手か見てみようではないか。

 あなた方はここに来る前に、私を苦しめることを誓ってきた。
 もしあなた方がこの誓いを達成せずに帰るなら、
 恥と不名誉が後に残るだろう。


 ミラレーパは毅然として立ちあがり、洞窟内の悪魔たちへまっすぐに向かっていきました。悪魔たちはおびえて、後ずさりし、失望して目をきょろきょろさせ、激しく震えました。そして渦巻きのようにともに回りながら、一つになって溶け込んで、消え失せました。

 ミラレーパは思いました。
「これは悪魔の王、妨害者ヴィナーヤカで、害を与えようと思ってやってきたのだ。嵐もまた、彼が生じさせたものだ。わがグルの慈悲によって、彼らは私を害する機会を得なかった。」

 この後、ミラレーパは大きな精神的進歩を得ました。
 
 この物語は、悪魔の王ヴィナーヤカに関するものですが、三つの異なった意味を持つので、
「わがグルについて考える六つの方法」
「赤い岩の宝石の谷の物語」
 または、
「薪を集めるミラレーパの物語」
と呼ばれます。



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瞑想について

2008-11-18 00:37:27 | 松川先生のお話
 瞑想とは、本来は非常にはっきりとしたものでなければならない。決して中途半端に神秘的な、オカルティックなもんじゃないんだ。
 神秘的は神秘的だよ。しかしそれは、どんどんはっきりしたものになっていく。
 器の狭い人は、自分の中途半端な神秘体験に満足して、人に教えを説き始めたり、すぐに先生になろうとしたりする。そんなんじゃだめだね。もっと求道心を持たなきゃ。

 瞑想の世界を記述するのはすごく難しい。いろんなパターンがあるしね。たとえばあるときは、扉を開けるように、またあるときは、瞬間的に世界が変わる感じで、入っていく。

 そう、ぜんぜん違う世界に入っていくんだよ。ただボーッと座ってればいいというもんじゃない。もちろん、初期のうちはボーッと座ってるところから始まるわけだけどね。でも長い間ボーッと座っているよりは、呼吸法とかムドラーとかをたくさんやって、最後に少し座ったほうが、まだ瞑想の効率はいいよ。

 もちろん、高度な段階ではね、深い瞑想に入り、しかも日常もその状態が変わらない、という意味で、瞑想と日常の区別がなくなるわけだけど、最初は低い意味で、日常と瞑想の区別が無いんだな(笑)。だから最初は、日常は無理でも、瞑想時には、日常を超えた、はっきりした深い世界に入っていけるようにしなくちゃならないんだ。

 たとえば、心理学というものがあるね。しかし心理学は、それを学ぶ者にとっては、机上の理論に過ぎない。しかし瞑想というのは、実践心理学的なところもあるんだ。
 たとえば深い意識に、はっきりした状態で入っていくとね、実際に自分の心の奥にあるいろいろなものを、見ることができる。感じることができるんだ。
 あ、こんなところに、昔経験したこういう記憶があるぞと。そしてそれが、今の私の性格に、こういう影響を及ぼしてるぞ、とかね。
 私の経験だと、面白いことに、それに気づいただけで、それが消える場合がある。そうすると、そういう悪い性格の癖みたいのが消えて、性格が一変してしまう。
 もちろん、気づいただけでは消えないものもあるね。こういうのは、いろいろと思索して整理するか、あるいは日常を通じてね、その瞑想の経験をもとに、気をつけて生きることでね、消していったり、整理していくことができる。あるいはある場合は、ヨーガ的な技法で、エネルギー的に消すこともできる。
 

 そしてね、人体というのは、小宇宙だ。小宇宙というのは、この人間の内部に、心の中に、あるいは脳の中に、あるいは身体に張り巡らされる気道の中に、じつはこの大宇宙と同じすべての要素が含まれているということだ。
 だから瞑想によって「内的五感」を開発すると、それら内宇宙の神秘というか現実を、実際に見、聞き、感じ、探索することができるんだ。これこそ内側の科学であって、瞑想の科学であって、最も早く、何の実験器具もなしに、宇宙の本質を認識できる道なんだ。もちろんこれは、他人に対して証明できないという欠点はあるけどね。個々人がそれぞれ修行するしかないというね(笑)。 

 だからそこでの証明の基準は、自分自身の謙虚さ、そして自分自身あるいは神々に対する誠実さにかかっているんだ。
 謙虚さや誠実さが足りないと、低い段階で満足し、道を踏み誤るからね。

 もう一度いうけど、瞑想というのは相当はっきりしているよ。目を開けた世界と、目をつぶった瞑想の世界、どちらもリアルだ。いや、そのうち、瞑想のほうがリアルになってくる。
 たとえば暗闇で瞑想してると、面白いんだけど、目を開けて暗闇でボーっとしているときよりも、目をつぶって集中したときのほうが、明るいんだね。まぶしいくらいに光り輝く。もちろん、目を開けてても、集中すれば明るくなるけどね。

 現代人は瞑想する時間すらない。だから少しは時間を作ってね、まず前段階で呼吸法その他の準備を行ない、あるいはバクティ・ヨーガとか、教えを学ぶとか、いろいろな準備を行なった上で、少しでもいいから瞑想の時間、自己探求の時間を作るべきだね。

 それはとても大事なものを思い出させてくれる時間だ。それはとても貴重だ。そしてそれをどんどん深めて、クリアな状態で深めていかなきゃいけない。

 私たちは私たちの奥にある、そして同時にこの宇宙の中心にある、「それ」にね、定期的に触れてなきゃいけないんだ。もちろん、年中触れているのが一番なんだけど、少なくとも定期的にね、瞑想とかで、触れるんだ。

 そのために一番手っ取り早いのは本当はバクティ・ヨーガなんだけどね。でもバクティ・ヨーガが向く人は現代人では少ないかもしれないから、みんなに無理強いはしないよ。

 ある人はハタ・ヨーガやクンダリニー・ヨーガ中心に、あるいはある人は思索、ある人は集中の瞑想中心にと言った形でね、それぞれの特性にあった道をね、磨いていけばいいんじゃないかと思いますね。

 しかし何度もいうけど、やったつもりとか、見せかけだけの瞑想じゃだめなんだ。リアルでクリアで、極微なのに極大。言葉では説明できかねるけど非常にリアルな世界にね、入っていかなきゃいけないんだね。

 まあ、書けば書くほどわかりづらくなるかもしれないんで、この辺にしましょう(笑)。

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ヨーガの基礎(13)

2008-11-18 00:21:12 | 勉強会より抜粋

◎トンレン

 はい、ではもう一つ瞑想をいきますが、瞑想ってね、本当にたくさんあるんですが、おおまかに言うとまず、心を無にしていく、つまり空っぽにしていく瞑想がありますね。それから、物理的にエネルギーであるとかヴァイブレーションを利用する瞑想があります。それは今やったマントラとかもそうだし、あるいは今日はやらないけども、体中をエネルギーを回していくような瞑想とかいろいろあります。で、もう一つ、心を浄化する瞑想があります。で、そういったものを組み合わせなきゃいけない。
 で、特にね、この心の浄化の瞑想って大切です。なぜかというと、もちろん最初のうちは大丈夫なんだけど、みなさんのヨーガ修行が進んでくると、さっきも言ったように、ちょっとこう深い心の世界に入っていきます。で、それはとてもいいことなんです。つまりみなさんの表面の、つまり建前みたいなのがどんどん崩れてきて、本当に本当の自分が現われてくる。本当の自分が現われるってとてもいいことなんだね。で、それをきれいにしてしまえば、みなさんはもう本当に心から幸せな人生が待っている。でも汚い場合、つまり深い意識にけがれがいっぱいある場合、それが出てきちゃったら、ただのわがままな人になってしまう(笑)。
 あるいは非常に、逆にヨーガをやったおかげですごい怒りっぽくなったりとか、それは実際あるんだね。それはしょうがないっていえばしょうがないんだけど。それをこういった精神的な浄化の瞑想で補うわけですね。そういうのをやってると、みなさんがヨーガが進んできて深い意識に入ってきても、あまり困らない。逆に根っからの非常に幸せな人になります。
 はい。で、その心を浄化する瞑想っていろいろあるんですが、その中でも代表的な今日は――聞いたことあるか分からないけど、トンレンっていう瞑想をいきます。
 トンレンっていうのはこれは、簡単にいうと慈悲の瞑想です。で、これをちょっと今からわたしが誘導していきますので、ちょっとね、まあ人によっては「え!? そういう考え方は初めて聞いた」と、「それは怖い」とかあるいは「できそうもない」っていう人がいるかもしれないけど、思い切ってやってください。イメージの瞑想なので、思い切っていろいろイメージしていってください。


◎自己を癒す瞑想

 はい、じゃあいきますよ。
 じゃあ目をつぶって今から言うことをイメージしていってください。
 これはいくつかのプロセスがありますが、今日はまあパッパッパッパッとやっていきます。
 はい、目をつぶって――自分の目の前に、もう一人の自分をイメージしてください。もう一人の自分。
 つまり自分を二つに分けて、目の前にもう一人の自分がいます。で、この目の前に座っている自分は、自分の中のネガティブな部分をすべて背負った自分です。
 つまり過去のさまざまな失敗、過ち、あるいは思い出したくもないこと、あるいは否定的な感情、あるいは悪い性格とか、いろんなものを背負った自分です。
 で、こっち側の今座っている方の自分は、そうじゃない、自分の中のポジティブな、非常にいい部分、清らかな部分、あるいは過去のさまざまなよかったこととか、そういうのを一身に持った方の自分です。 
 はい、この二つの自分をイメージして、自分の呼吸に集中してください。
 呼吸をコントロールしなくていいです。ただ集中します。
 つまり、吸ってるなあ、吐いてるなあっていうのに集中します。そして自分が息を吸うたびに、その目の前に座っているネガティブな自分の苦しみ、後悔、嫌な思い、全部吸い取ってあげます。つまりこっち側のいい方の自分が、呼吸と一緒に全部吸い取るイメージをします。
 逆に息を吐くたびに、その苦しんでるネガティブな自分に対して、許しであるとか、癒しであるとか、安心であるとか、そういったものをパーッてすべてこっち側の自分が白い光として相手に与えてしまいます。相手って、相手も自分なんだけど。
 これを呼吸に合わせて繰り返していきます。つまり自分で自分を癒す瞑想ですね、これは。
 はい、じゃあまずこれを少し繰り返しましょう。
 自分が過去から心の奥に隠してきたさまざまなネガティブな思い、卑屈さ、後悔の気持ち、こういったものをすべてグーッと吸い取ってあげて、それに対する許しや癒しや安らぎをパーッて与えることを繰り返します。



◎愛する人へのトンレン
 
 はい、みなさん家でこれをやるときは、一個一個プロセスを十分にやった方がいいと思いますが、今日はちょっとパッパッと次に移ります。
 次のプロセス。今度はいったんその目の前の自分を消して……今度は目の前に、自分の愛する人を一人思い浮かべてください。誰でもかまいません。家族でもいいし、恋人でもいいし、友人でもいいし、あるいは憧れてる人でもいいので、自分の好きな愛する人を誰か一人チョイスして、目の前にリアルに思い浮かべます。
 はい、そしてその目の前の愛する一人の人が、何らかの形でとても苦しんでいる姿をイメージしてください。何でもいいです。精神的、肉体的、あるいは極端にいえば地獄に落ちて苦しんでるでもかまわない。何らかの形でその愛する人が苦しんでいます。それを見て、当然その愛する人が苦しんでいるので、自分の中に強い慈悲の思いが湧いてきます。で、これは瞑想なので、意識的に湧き起こさせてください。意識的に、「ああ、かわいそうだ」と、「なんとかしてあげたい」と。もっといえば「自分が身代わりになってもいい」「なんとかこの苦しみから彼を救ってあげたい」っていう強い思いを意識的にグーッと湧き起こさせてください。
 はい、そしてその強い慈悲の思いを持ったまま、また自分の呼吸に集中して、息を吸うたびにその愛する人の苦しみが黒いエネルギーとなってグーッと自分の中に吸収されるイメージをします。逆に息を吐くたびに、自分の中の幸せのエネルギーがパーッと白い光となってその愛する人に注がれるイメージをします。はい、これを呼吸とともにゆったりと繰り返すことで、目の前の愛する人はどんどん苦しみから解放されて幸福になっていくというふうにイメージします。
 逆に自分自身は、その相手の黒いエネルギーを吸い取ってるんだけど、それで自分がけがれたりはしません。逆に自分の中のエゴが破壊されて、より純粋で透明な自分になっていくというふうにイメージします。はい、ではこのイメージを少しまた呼吸に合わせて繰り返しましょう。


◎人数を増やす

 はい、ではこれをさらに続けながら、目の前の愛する人の人数を増やしていってください。つまり一人ではなくて、二人、三人と、好きな人、愛する人を思い浮かべてください。この段階ではまだ愛する人だけでいいです。自分が愛してる人、あるいはこの人に愛情を持ってるって思う人を一人、二人、三人と、だんだん増やしていきます。で、全く同じことをします。みんな、その愛する人々が苦しんでいて、その苦しみを全部グーッと自分が呼吸とともに吸い取り、自分の幸せをすべてパーッて彼らに与えるっていう瞑想をまた繰り返します。


◎無関心な人へのトンレン

 はい、次にまだその瞑想を継続しながら、目の前の人々の中に、好きでも嫌いでもない人を入れていきます。つまり知り合いで、別に好きでも嫌いでもない、あるいは顔を知ってるし名前も知ってるけどあまりよく知らないとか、そういう人々。つまり無関心になりがちな、好きでも嫌いでもない人を一人一人思い出して、目の前のその輪の中に入れていきます。で、全く同じことをします。つまりあまり自分が関心がない、好きでも嫌いでもない人たちも苦しんでいる。その苦しみをまたグーッと吸い取る練習をします。逆に自分の幸せを彼らにも分け隔てなくパーッと与える瞑想をします。呼吸とともにね。この辺からちょっとエゴが嫌がり出します。ちょっとやりにくくなってきますが、思い切ってやってください。


◎嫌いな人へのトンレン

 はい、次はまたその瞑想を続けながら、いよいよ今度は自分の嫌いな人を目の前のグループに入れていきます。嫌いな人がもしいなかったら、苦手な人とかでもいいです。つまりちょっとネガティブなイメージを抱きがちな人。過去にちょっと嫌なことをやられたとか、そういった苦手な人、嫌いな人、そういう人々を目の前にまた思い浮かべます。で、全く同じことをします。
 つまりその自分の嫌いな苦手な人々もまた苦しんでいて、で、その苦しみを呼吸とともに黒いエネルギーとしてグーッと吸い取ります。で、逆に息を吐くたびに、自分の中の幸せのエネルギーを白い光と変えて、パーッとその嫌いな人々にも捧げる瞑想をします。これによってその目の前の人々はどんどん幸福になり、苦しみから解放されます。自分はというと、よりいっそう透明、純粋な状態になっていくっていうふうにイメージします。はい、ではしっかりと呼吸に合わせてイメージを繰り返しましょう。


◎すべての衆生へのトンレン

 はい、では最後に、目の前に自分がイメージできる限りのこの宇宙の多くの生き物、つまり人間だけじゃなくて、動物やあるいは他の生命体も含めて、多くの宇宙の生き物を思い浮かべ、同じことをします。つまりもうこの宇宙の全部の苦しみを自分一人で引き受けるぐらいの気持ちで、グーッと黒いエネルギーを吸い取ります。逆に自分の中の幸せはすべてこの世界に差し出すような気持ちで、パーッと白い光を吐き出します。これによってこの宇宙のすべての生き物がどんどん幸せになり、苦悩から解放されるというふうにイメージします。逆に自分はよりいっそう純粋、透明な状態になっていくっていうふうにイメージします。
 はい、ではしばらく繰り返しましょう。これはみなさんの心を強烈に浄化して、非常に幸福感を与える瞑想です。
 あとチベットではこれは病気の治療にさえ使われている瞑想です。病気も治ってしまうぐらいの力がある瞑想ですので――病気って自分の病気がね、治ってしまうぐらいの力があるので、しっかりと心をこめてやってみてください。


◎心を安定させる瞑想

 はい、では瞑想を終わりましょう。さっきも言ったように、瞑想もいろんな瞑想がありますが、一つ一つしっかりと身に付けていけばかなり――例えば今やった瞑想もね、非常に力があります。非常にわれわれの心を改革してくれるものがあるので――まあ今の瞑想なんてね、本当に、「さあ、はい、瞑想しましょうか」ってかしこまってやらなくても、普段からやってもかまわない。普段こう道を歩いてて、いろんな人を見かけて、「みんなの苦しみよ、はい、グーッと来い」と。「自分の幸福は、パーッとみんなに行け」ってやるだけでも相当力があります。力があるっていうのは何度も言うけども、自分の心が非常に安定します。
 ちょっとなんか逆説的なんだけど、本当なんです(笑)。これをみなさんがしばらくやっていると、あれ!?って感じで安定します。
 これはだから心の仕組みを利用してるんです。だから一つ一つの瞑想が非常に深い意味があるので、ぜひ固めてほしいですね。
 はい。で、これから段階的にまたさまざまな行法を、次のもの、次のものっていう感じで教えていくようになると思います。
 はい、ではいったん行法の実習はこれで終わりにして、あいさつとして、さっきのね、ア・ウ・ンのマントラがありましたよね。あれを三回声を合わせて一緒に唱えます。さっきはちょっとバラバラに唱えましたが、三回、ちょっと短めに一緒に唱えます。これはインドのヨーガ道場とかでやるあいさつ。これをみんなでやります。三回ね。はい。

【アウム】

 はい、ありがとうございました。

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Kali my love

2008-11-17 07:27:42 | 経典の言葉・聖者の言葉
カーリーの御名を唱えつつ、深く沈め、おお、心よ
ハートの底知れぬ深淵の中、
あまたの貴い宝石が隠されているところに。

しかし、はじめの数回の潜水に失敗しても、
海の底には宝石は無い、などと信じてはいけない。
堅い決意と自制心とをもって、
深く沈み、母カーリーの御国にまっすぐに行け。

海の底深く、天上の智慧が横たわる。
シャーンティというすばらしい真珠だ、おお心よ。
しかもお前自ら、それを集めることができるのだ
純粋な愛を持ち、聖典の規則を守りさえするならば。

これらの海底にはまた、
色欲、怒り、その他という、六匹のワニも住んでいて、
えさを求めて泳ぎ回っている。
識別智というターメリックを、身に十分に塗りつけておけ。
そのにおいだけで、お前は彼らの害から守られるだろう。

海の底に数え切れぬ真珠と宝石が散らばっている
飛び込め、と私は言う
そしてそこで手にいっぱい集めよ!--と。



       --「ラーマクリシュナの福音」より
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覚醒への道を歩め

2008-11-16 10:28:44 | 松川先生のお話

 最近、前世がどうとか、霊がどうとかいう話が、テレビとか、巷でもよくはやってるみたいだね。

 もちろん、輪廻転生がある以上、前世は存在する。そして霊というのもあるだろう。

 ヨーガ教室に初めて来た人とかに、最近、よく聞かれるんだ。「先生は霊が見えますか?」って。私はいつもこう答えるんだ。
「調子の悪いときに見えるよ」
ってね。

 実際、たとえば教室の指導が続いて、自分の修行があまりできなくて、エネルギー的にも精神的にも調子が悪くなると、霊を感じたり、見たりしだします。

 ある程度霊的な素養を持つとね、霊的な世界に入るようになる。しかしそこで何とかの霊とか、そういうのを見るようになる人は、はっきり言うとエネルギーや精神の状態があまりよくない人だ。

 霊というのは、動物や虫がそこら中にいるように、普通にそこら中にいるよ。それはこの世とダブったかたちで霊的な世界に存在している。しかし私たちが霊的な世界に入ったとき、何が見えるか、何を感じるかというのは、その人の精神性にかかっているんだ。

 たとえばお釈迦様とか、ラーマクリシュナとか、その他インドやチベットの聖者たちがね、あなたにはこういう霊がついてますなんて話をしてますか(笑)? 彼らは神とかブッダとか、光とか、そういう話しかしない。

 だから皆さんの前に立って、「あなたにはこういう霊が見えます」とか言う人は、それはそのように言う人自身の世界を見ているに過ぎないと考えたほうがいい。言われたほうには関係がない。まあ、もちろん、単に嘘をついている人もいるだろうけどね。嘘じゃなかったとしても、その人には本当に見えていたとしても、見えているものが真実とは限らないんだ。

 それは修行をしているとよくわかるんだよ。修行の段階や状態で、見えるものや感じるものはぜんぜん変わってくるんだから。


 私は不思議なんだよ。何でみんな、あんなの信じるのかなってね(笑)。全く証明のできない世界でしょ? まあ、占い感覚で気軽に相談とかしてるのかもしれないけどね。
 私は、修行しろ、って言いたいね(笑)。修行すれば自分で見れるんだから。しかも正しい修行をすれば、いろいろな段階を踏んでいろいろな経験をするからね、一時的に自分が見たり聞いたり感じたりしたものにもこだわらなくなるだろうね。
 生まれつき、霊的素質があって、いろんなものが見えたり感じたりするひとは、実際、たくさんいるんだろうと思います。しかし彼らは器が狭い。だから自分の世界しか知らないんだね。そう、それは霊的な意味での「井の中の蛙」だ。
 そういう人たちの、証明のできない言葉を聴いて、慰めてもらってもしょうがないじゃないか。霊のせいになんかしちゃいけない(笑)。すべては自分のカルマだからね。

 
 私は中学生のころからヨーガ修行をはじめたんだけど、最初のころ、神秘体験の連続でね、非常に興奮したね。いろいろなものが見えたり聞こえたり、身体的にもいろんなことが起きてね。
 でもその数年後にそのときを振り返ると、それはすべてぜんぜん大したことがない、中途半端なものだったとわかった。でもそのときはね、すごいと思ってたんだ。
 修行の道は、この繰り返しだ。「すごい経験をした!」とか、「すごい段階を達成した!」とか思うんだけど、一年後にさらに次の段階を達成して、以前を振り返ると、ぜんぜん大したことがなかったとわかるんだ。
 そして修行を進めるたびにね、この広大な宇宙の真実を知り、神の真実を知り、逆に自分がどれだけ小さな、まだまだな段階だということがわかって、かえって謙虚になっていくね。まさに「実るほど頭をたれる稲穂かな」って感じだ。日本には良いことわざがいっぱいあるね(笑)。




 さて、前世がどうこうというのも同じだ。修行をすると、仏教的にいうと「宿明通」という力がついて、自分の前世を思い出すことがあります。これは人にもよるけど、私はかなりはっきりと、いくつもの前世を思い出しています。
 しかし他人の前世を読むというのは、結構大変なことです。それは正確に言うならね、その相手と完全に意識を合わせた上で、サマーディというね、究極の瞑想状態に入らなきゃいけないんだ。これは相当高い修行段階にある人がね、かなりの集中力と時間をかけないと無理だ。
 だからよく、簡単にね、ああ、あなたの前世はこうですと、霊視しましたとか言う人がいるけど、こういう人は相当、不誠実な人だよ。何を適当なことを言ってるんだという感じだよね(笑)。不誠実というのは、相手にも不誠実だし、自分自身に対しても不誠実だ。
 もちろん、ある人はね、カウンセリングの方便として、相手を安心させるために、前世とかを持ち出してね、見えてもいないものを見えていると適当に言っている人もいるかもしれないけどね。
 
 だから自分の前世を知りたかったら、修行しましょう(笑)。だって、さっきの霊の話と同じで、他人がそんなことを言ってきても、何の証明もできない話なんだから。そんなのを聞いてもね、迷いをまた一つ増やすだけだと思うよ。迷いの原因をね。

 ただ、前世を一つ二つ思い出しても、あまり意味がないというのも確かだけどね。だってものすごい数の輪廻を繰り返しているわけだから。


 お釈迦様は形而上的なことを説かなかった、とか言う人もいるけど、そんなことはありません。お釈迦様は神の話、輪廻の話、前世の話などをたくさんしていますね。
 でもお釈迦様はね、そういう話をしながら、弟子たちに、「君たちはこれを信じてはいけない」って言うんだね(笑)。なぜなら、それはまだ君たちのものではないから、と。君たち自身が、修行して、それを確認しなさいと。
 仏教もヨーガも、本来そういうものだ。教祖様の言ったことを鵜呑みにする宗教じゃないんだ。覚醒するための、目を開くための道を教える宗教なんだね。それが、西洋的な、キリスト教とかとの大きな違いだ。キリスト教も、教えはすばらしいと思うけど、「キリストへの道」とか「神への道」とか「神を悟るための道」といったものがね、そのメソッドが具体的に説かれているわけじゃないからね。

 だから皆さんにも、覚醒への道、心の目を開くための道を歩いてほしい。
 何度も言うけど、「自称・目の開いた人」の、何の証明もできない話を聞いて、鵜呑みにしてもね、そのときは安心したりしたとしても、深い心の部分は、混乱するだけだよ。また新たな、混乱の種を一つ持ってしまったようなもんだ。
 まあ、段階もあるだろうけどね。それまで唯物的な思想しかなかった人が、そういう人の話を聞いて、精神世界に目覚めていくきっかけにはなることはあるかもしれない。
 しかし本質的には、皆さん自身が覚醒する道に、早く入ってほしいですね。本当のヨーガや仏教には、誰もが覚醒できる、目を開くことのできるメソッドがちゃんとあるんだから。


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◎静寂の境地への入り方

2008-11-15 18:17:22 | 解説・ヨーガ・スートラ



 もう一度『ヨーガ・スートラ』自体の位置づけから話すと、五世紀ぐらいって言われていますね、『ヨーガ・スートラ』の成立自体が。
 インドにはもともと、ヴェーダっていう古典ですね、これは宗教だけじゃなくて、生活全般――例えば、食べ物から病からあるいはセックスから、あるいは日々のいろんなしきたりから、あるいは神への祈り方にいたるまで、さまざまないろんなものを集積したヴェーダっていう古い経典があるんだね。このヴェーダ=インドの叡智の集積みたいなところがあるんだけど、ヴェーダ自体には、例えばわれわれが今やっているような「さあ、魂の浄化のためにこのような修行をしよう」みたいなことは書かれていない。かなりね、祈り中心の内容なんだね。
 で、インドの宗教っていうか、インドの思想界全体が、――その前までは神に祈って雨を降らせてもらうとか、神に祈って幸福にさせてもらうっていう、どこの国にもあるような土着の祈りの宗教中心だったんだけど、そうじゃなくて、自らが自らを浄化し、修行し、悟る、みたいな感じのがだんだん出始めてきた。その代表的なのがお釈迦様です。お釈迦様は、そのインドの大きな流れの中の中心人物だったんだね。
 お釈迦様はそれで後に仏教と呼ばれる教えを興して、それがインドの主流になっていくわけだけど。そうじゃなくてヒンドゥー教の伝統的な流れっていうのも、そういったヨーガ的な教え――つまり自らが修行して悟る、みたいな流れをどんどん明確にしていったわけだね。
 仏教っていうのはやっぱり、非常に知的な宗教なんだね。教えがすごく洗練されてて、非常に経典としてまとまってるというか。ヨーガもそれに対抗したのかどうか知らないけども、非常に洗練された形で教えがまとまってきた。その今残っている一番古い形のものが、この『ヨーガ・スートラ』ですね。
 だから現代でちゃんとヨーガをやっている人たちの誰に聞いても、『ヨーガ・スートラ』っていうのは一番権威があるっていうか、一番古くて、一番今やっているヨーガのもととなっているものとして、非常に尊重されているんですね。
 実際、仏教とかをよく知っている人がこの『ヨーガ・スートラ』を見ると、「あれ? ほとんど仏教じゃない?」っていう感じがする。一応表面上は、ヒンドゥー教と仏教っていうのは喧嘩ばかりしてきたんだけど。実際はインドっていう大きな流れの中で、一つの宗教の大きなムーヴメントとして、いろんなものが現われてはそれを取り入れたり、合わせたり、あるいは悪いものを取ったりして、インド全体が成長してきたっていう感じなんだろうね。だからこれをみると、非常に面白い。原始仏教、それから大乗仏教、それから密教的な要素も全部含めて、『ヨーガ・スートラ』の中にいろいろ見受けられるんだね。でもちょっと頭が堅い人っていうか、ヨーガの一面しか知らない人が見ると、『ヨーガ・スートラ』はまさにヨーガの経典にしか見えない。
 仏教も同じだけどね。仏教も非常にヨーガ的なものってすごく含まれてるんだけど、堅い宗派主義的な目で見ると、「いや、仏教とヨーガは違う」という感じになっちゃうんだけど、柔軟に見ると非常にもう見分けがつかないくらいのものですね。
 はい、今回の『ヨーガ・スートラ』のこの部分っていうのは、寂静の瞑想――つまり仏教でいうとパーリ語で「サマタ」。サンスクリット語で「シャマタ」、チベット語で「シネー」ね。そう。シネーと呼ばれる――これはだから、仏教をいろいろ見ると、絶対出てくる瞑想。だいたい仏教で瞑想という場合、サンスクリット語でいうとシャマタとヴィパシャナーですね。パーリ語でいうとサマタとヴィパッサナー。チベット語でいうとシネーとラントン。日本語でいうと寂静と正観っていうかな。つまり心を寂静にする瞑想、それから正確に観察する瞑想――止観ですねつまり。止と観。この寂静の瞑想について書かれている『ヨーガ・スートラ』の部分が、今日のこのページですね。つまり、いかに寂静の境地に入るかが、いろんなパターンでここには書かれているんです。
 さあ、『ヨーガ・スートラ』が明かす寂静の瞑想への入り方の一番最初を、まず読んでみましょう。今日はサンスクリット文も併記してあるので、サンスクリットから読んで下さい。
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心の散動

2008-11-15 11:23:21 | 解説・ヨーガ・スートラ
◎心の散動

【本文】
ドゥフカ・ダウルマナシャーンガメージャヤトヴァ・
シュワーシャプラシュヴァーサー ヴィクシェーパサハブヴァハ

苦しみ、不満、手足の震え、不規則な呼吸等が、心の散動状態に伴って起こり、集中を続けることができなくなる。


タットプラティシェーダールタメーカタットヴァービヤーサーハ

心の散動を対治するには、ある一つの対象に繰り返し心を集中する方法を用いる。


 さっき挙げたさまざまな障害ね。病気、無気力、疑念、怠惰、落ち着きのなさ、執着、誤った見解、サマーディに入れない心の状態、サマーディに入っても長くとどまれない心の状態――こういったものから、その結果として心にいろんな苦しみが出たり、不満が出たり、あるいは実際に不規則な呼吸や手足の震え――ってあるけど、これは何をあらわしているか曖昧だけど、落ち着きがなく貧乏ゆすりとかそういうことをいっているのか(笑)、他のことをいっているのか分からないけど――とにかく、呼吸が荒くなったり精神的に不満や苦痛が出たりして、それによって全く瞑想どころじゃなくなってしまいますよ、ということだね。そういったものを対治――つまり対抗治療ですね。そういったものをしっかりなくすには――さっきオームの音を唱えながら神を念ずるというのが一つあったけども、そうじゃなくて――ある一つの対象にしっかりと繰り返し心を集中する方法でも、心を寂静に持っていけますよと。
 もう一回まとめるけども、オームを唱えながら神を瞑想するやり方、それからもう一つはさまざまなことに精神集中していくことによっても、こういった心の障害を除いて、ヨーガの完成に近づくことができますよということですね。
 はい、じゃあ一応いったんこれで終わって、最後に質問があったら聞いて終わりにしましょう。



◎オーム瞑想

(T)オームを唱えながらっていうのは、ずっと「オーム、オーム、オーム……」というふうに唱えるんですか?


 そうそう。つまり「アーウーム……」これをずーっと続けるんだね。で、心では、自分の好きなものでいいけど――例えばシヴァ神ならシヴァ神でもいいし、クリシュナでもいいし、自分の心にフィットする、仏陀でもいいよ――それをイメージしながら、「オーム……」とやり続けるんです。
 有名なヨーゲシヴァラナンダいう、もう死んじゃったんだけど、最近まで生きていた近代の大聖者がいて、その人が若いころ師匠にいわれた修行っていうのが、このオームを一日十二時間唱えることだったんだね(笑)。十二時間ずーっと、「オーム……」。そういう修行もあるんだね。
 ただ現代では、みんなにそれをやらせようとは思わない。ちょっと精神状態とかカルマがまた違うから。今の日本人にそれをやらせても、ちょっと効率が悪いかなっていう感じがするね。そこまでそれをやる土台もまだできていない。だからそれができる人っていうのは、相当まず集中力があって心が安定している人ですね。
 例えば今のこのカイラスでね、来た人に、「お、来ましたか」と。「君に秘儀を伝授しよう。オーム…」ってやって(笑)、「はいじゃあ、今日はクラス一時間だけど、一時間やってね。はい、スタート」――もう次から来なくなる(笑)。一時間でも多分なかなか辛いと思うね。十二時間なんてちょっとありえないというか。だから現代では、もっと現代人にあったいろんな効果的なやり方があっていいと思う。
 ただね、オーム瞑想はすごくいい瞑想ですよ。だからそれを十二時間はちょっとあれだけど、五分でも十分でも、あるいは三十分でもやるのはとてもいいことだね。
 このオーム瞑想のときはね、いろんなやり方があるんだけど、これは内観の力を得、とか書いてあったけど、これね、すごく自分の心に深く入っていけるので、私は唱えながら目をつぶった方がいいと思うんだけど、開けたかったら開けてもいいけど、そこで展開される心の景色というか、心を観察してたらいいです。例えば何でもいいんだけど、「オーム……」ってやってたら、もし光が見えてきたら光を観察すればいいし。あるいはいろんなイメージがわいてきたら、そのイメージをただ観察する。こういうことを繰り返していると、だんだん自分の心がよく分かるようになってくるというかな。あるいはより深い意識に入って、その深い意識をよく観察できるようになってきます。そのような力がつくというか。これは絶対的にやらなきゃいけないわけじゃないけど、いい瞑想の一つだね。
 せっかくなので、ちょっとだけみんなでオーム瞑想をやってみましょう。短いのでちょっとあわせて五回ぐらい。もう一回いうと、アとオの中間ぐらいの音を「アー……」と出して、最後のほうで「ウー……」に変化して、最後は鼻から「ンー……」と消える感じね。あわせるので若干短めに五回ほどいってみましょう。その間目をつぶってそこで展開されるいろんな――例えばね、ぐにゃぐにゃと何かうごくとか、何でもいいです。とにかく観察してください。はい。

【オーム5回】

 これはやりたい人はやったらいいね。いろんな瞑想法があるので、好きなのを選んでやったらいいと思う。もちろん「何をやったらいいですか?」って私に聞いてきたら「これとこれをやったらいいんじゃない?」って指示するけど、もし自分で何かやりたいのがあるんだったら、好きなものを選んでやったらいいと思います。この瞑想もその一つですね。
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