ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

◎修習と離欲

2008-02-29 22:40:51 | 解説・ヨーガ・スートラ



【本文】
アビヤーサヴァイラーギャーヴィヤーン タンニローダハ

修習と離欲によって、それらは滅尽される。



 まあちょっと分け方はどうあれ、とにかく心はいつも動いていると。その心のさまざまな作用は修習と離欲によって滅尽されますよと。この修習と離欲って大事な言葉です。これは頭に入れておいてください。ここは重要ポイントです。ヨーガとは何だろうか――修習と離欲である。これは重要です。
 はい、修習と離欲とは何かというのが次から出ているね。




◎不断の努力

【本文】
タトラ スティタウ ヤトノービヤーサハ

心の流れの静止をもたらそうとする努力が、修習である。


サ トゥ ディーガカーラナイランタリヤサトカーラセーヴィトー ドリダブーミヒ

それは長期にわたり、深い愛をこめて、不断の努力によって行なわれるならば、しっかりと根付いたものとなる。



 まず修習という言葉自体はアヴィヤーサというんですが、繰り返し行う――つまり不断の努力、繰り返し繰り返し行うことを修習というんですね。
 そうすると何でも繰り返し行なえば修習になっちゃうんだけど、ここでいう修習というのは、ここで書いてある「心の流れの静止をもたらそうとする努力」――これを修習と定義してる。つまり最初に言った、心の流れが止まってしまえば、そのときに真我が現われますよと。「そのためにじゃあ心を止めよう」と、この努力。その一回二回じゃなくて、日々繰り返し繰り返し行うこと――これが修習なんです。 これは現実問題としていえば、ヨーガ修行のすべてがそれに当たる。ヨーガ修行のすべてが、あるいは仏教修行も含めてね、あらゆるものは繰り返されなければいけない。


◎すべては修習

 これもいつも言っていることだけどね。結局今のわれわれは、この肉体もそうだし、精神もそうだし、カルマもそうだけど――過去の繰り返しでできてるんです。過去のいろんな生き方、いろんな思い、いろんな言葉の繰り返しで、今の「これ」があるんです。
 例えばK君だったら、過去のK君、あるいは過去世のK君から積み上げてきた繰り返し繰り返しで、今この瞬間のK君がいる(笑)。でも、これは流動的なんです。今もK君は動いてるでしょ。分かるよね、このシステムっていうのは。
 ずーっと動いているんです。ずーっと動いているんだけど、今動いているこの現象は、Kっていう現象は、過去の積み重ねなんです。でも今も何かを積み上げているんです。今も何かを積み上げているこれが、未来のK君を作るんです。
 でも普通は過去の傾向に左右されるんだね。過去ずーっと来ているから今も同じことやっちゃうんです。だから未来もあまり変わらないんです。これが普通。でもヨーガ修行者はこれを変えようとするんです。
 それはみんなも分かるよね。ヨーガとかやると性格が変わったりするけど、例えば一番分かりやすい例で言うとね、ヨーガ教室に来るまではいつも怒っていましたと。でも怒らなくなりましたと。この「怒っていました」から「怒らなくなりました」には、何らかの修習があるんです。それは肉体的なものでいうと、アーサナをやったり呼吸法やったりして、物理面からまず神経とかが整ってきて、あまり怒りづらくなると。でもこれも修習でしょ。つまり一回二回じゃ変わらないわけですよ。今日アーサナやって呼吸法やったからって、明日から怒らないというわけじゃない。今日もやって明日もやって、あるいは週二回とかでもいいけども、とにかく繰り返し繰り返しやっているうちにその人の呼吸とか神経とかが落ち着いてくる。あるいはここでそういういろんな教えを学んで、「怒っちゃ駄目なんですよ」っていうことを聞いたとして、「そうか。じゃあ怒らないようにしようかな」――一回じゃ駄目です。二回三回と「怒らないぞ、怒らないぞ、怒らないぞ」とやっているうちに総合的にね、肉体面あるいは精神面から「怒らない」という状態ができあがるわけだね。だからすべては修習なんです。


◎ヨーガ修習の力

 さっきも、修行するんだったら自分を作り変えることに重点を置いた方がいいと言ったけども、それも修習だね。一回二回じゃ変わらない。
 例えば行法をやることもそうだし、経典、教えを学ぶこともそうだし、あるいは詞章とかマントラを唱えることもそうだし、いろんな瞑想をすることもそうだし、あるいは実生活で怒らないとかいろんな訓練をすることもそうだし。それを今日だけやるとかじゃなくて、ひたすら毎日毎日毎日繰り返し繰り返しやること。これが修習なんです。 
 だからヨーガというのは修習といっても差し支えない。私がいつも新人の人によく言う言葉としてね、「ヨーガっていうのは――ここでいうヨーガというのはアーサナとか呼吸法のことだけども――ヨーガというのは、たまにたくさんやるよりも、ちょっとでもいいから毎日やってください」と。つまりヨーガというのは、たまにアクロバティックなことをやって楽しむものじゃなくて、作り変えようとしているんです。作り変えるには毎日やらないと駄目なんです。毎日少しずつでもいいからやって、例えば呼吸法でいったら、ゆったりとした1:4:2の呼吸を繰り返すと。これをたまにやっただけだったら何も変わらないけど、毎日やってたら、普段浅くて早い呼吸の人が、一日のうち五分でも十分でも深くてゆったりした呼吸になる。で、またすぐに浅い呼吸に戻るんだけど、でも毎日それをやっているとね、その人の日常全体の呼吸も影響されるんです。だんだんだんだん普段の呼吸も深くゆったりとなってくる。これが修習なんだね。つまり日々の繰り返しによって全体が変わってきてしまうんです。
 もちろん精神的なものもそうだよ。さっきの「怒らない」とかもそうだけど、自分の性格っていうのは絶対的なものじゃないんです。「私はこういう性格なんだ!」って人は思いがちだけど、それは過去にいろんなことをやってきた結果として今があるだけであって、今も動いているんです。確定的な人って誰もいないんです。例えば嫌悪が強い人がいたとして、絶対的に嫌悪そのものっていう人はいないんです。過去からの習性で、ちょっと嫌悪が強いっぽくなっているかな――というのに過ぎないんです。で、それを今からいろいろやっていけば、例えば一年後には慈愛に満ちた人になるんです。でもこれはどっちも実体がない。どっちもただの修習だから。
 例えばK君が「嫌悪が強い!」ってみんなから言われたとして、一年後にK君に会ったら「K君は慈愛の塊だ」ってみんなから言われるかもしれない(笑)。じゃあ、どっちが本当のK君なんだろうかといったら、別にどっちも本当じゃないんです。修習によってころころ変わっているに過ぎないから。
 でも普通は、過去世からのものすごい強い修習の流れがあるから、なかなか自分を変えるって難しい。でもヨーガの力によって、スムーズに変わっていくんだね。
 スムーズにといってももちろん、ぱっと変わるのは難しいかもしれないけど、普通に何もしないで自分を変えようとするよりは、例えばヨーガのいろんな行法をやったり、あるいは瞑想したり、あるいはいろんな教えを学んだりとか、こういうのを総合的にやることで、自分というのはすごく変わっていく。


◎修行の大きなメリット

 ヨーガとか仏教とかの修行をやることの一番大きなメリットは、「自分は変わるんだ」ということが分かることだと思うね。これは私がいろんな人を指導していて思うんだけど、真剣に修行すると人間ってかなり変わります。でも修行しないと、やっぱりなかなか変わらないんだね。で、変わらないっていうことは、変わった経験がないから、「変われない」って思っちゃっているんです。「人間っていうのは変われないもんだ」と。「私はこうなんですよ」と。もうそこから出ようとしない。そういう選択肢がないというか。自分はこうだって決まって、そこから条件を変えようとする。「これはしょうがないんですよ」と。「だからこうしてください」とか。
 ではなくて、ヨーガとかやっていると変われちゃうんだね。「あれ? こんなに変われるんですか」と(笑)。「まるで一年前の自分と全然ちがいますよ」と。
 だから、このメリットは、「じゃあ次も変われるな」っていう肯定的な意識を生むんです。だからこの人はどんなに自分の中にけがれを発見しても大丈夫です。変われるって分かってるから。でもその大きく変わった経験がない人っていうのは、「変われない」というふうに思い込んじゃっている。そういう人は徹底的に早く修行を進めて、一個でも二個でもいいから自分が変わったという経験をしなきゃいけない。
 ただもう一つの問題はね、変わっているのに否定的な人もいる(笑)。こういう人ってよくいるんだけど、「私全然変わってないんです……」。で、周りから見るとずっこけるんです。「え? 君、相当変わったよ」と(笑)。「超変わったじゃん、全然違うよと」(笑)。で、一つ一つ言っていくと――「あ、確かにそうかもしれませんね」。でも否定的だから、まるで自分がずーっと変わっていないように見える。でも冷静に冷静に考えると、相当変わっていたりする。
 だからそういうところは修行者は、喜んでいいんです。ここら辺が難しいところで、修行者は傲慢になっちゃいけない。でも、認めるところは認めて喜ばなきゃいけないんです。あと謙虚にならなきゃいけないんだけど、卑屈にはなってはいけない。すごく難しいところだね。
 得たものは得たと喜べばいい。必要以上に傲慢になる必要はないんだけど、自分が得たものは得たと。変わったものは変わったと喜ぶことで、自分の中にそれに対しての確信が出ます。「人は変われる」と。「ヨーガの力はすごい」と。それによって、また次に新たな問題が生じた時に、それも変えられるということに対する希望というか確信が出てくるんだね。それがヨーガ修行の一つの大きなメリットだと思うね。あまりそういう経験がない場合は、何度も言うけども、なかなか自分の殻を破ることができない。破れないという発想が最初にあるから、当然破れない。

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修行の勧め

2008-02-29 19:51:11 | 松川先生のお話



 少なくとも私が今までヨーガや仏教の修行によって得たものとは、大変な肉体的な快楽と軽快さ、そして精神的なエクスタシー、喜び、明るさ、肯定的意識といった、ポジティブなものばかりだ。
 そして逆に、心身の苦悩は極端に減っていく。

 それは観念論でも思い込みでもなく、ある意味物理的ともいえるプロセスで、心身がそのように変わっていくのだ。

 人間は誰でも幸せを求め、苦悩を避けたいと思う。

 だとしたら、もし人々が、ヨーガ等の修行によって得る境地を仮にお試し体験できたとしたら(不可能だけど)--たぶん、現世を捨てて全力で修行するだろう。

 だって、人々がお金を稼ぎたいと思うのも、そのお金が多くの快楽と、苦悩の除去を与えてくれるという期待があるからでしょう。
 異性を得たいと思うのも、異性が幸福と快楽を与えてくれ、さびしさなどの苦悩を除去してくれるという期待があるからでしょう。
 地位や名誉や成功等もそうでしょう。

 しかしヨーガ等の修行が与える幸福と、苦悩の除去は、それらとは比べ物にならない大変な幸福であり、大変な除去なんだ。
 それをみんな知らないだけでね、それを知ったら、きっとみんな修行するよ(笑)。

 だから修行者っていうのは、欲張りなんだろうね(笑)。私は小さいころ、よく自分の人生をシュミレートして、「なにをどうやっても、なんかつまんねえなあ」って思ってたんだ(笑)。どんなに大成功する人生を描いても、なんかいまいちだ。それは私の潜在意識が、修行によって得る、もっと大きな幸福を知っていたからなんだろうね。

 もちろん、修行者にもいろんなタイプがいるだろう。でも私の修行はそうだったね。修行が進むたびに、その歓喜や至福の感覚は研ぎ澄まされていったんだ。

 もちろん違うパターンもあるだろうけどね。でも修行ってのは結局、自己利益なんだよ。

 でもね、ここにパラドックスがあるわけだけど、最高の自己利益の方法は、「自己を捨てて他のために生きる」ということなんだ。

 「おお、君は自己が幸福になりたいのか。よし、その方法を教えよう。自己を捨てて、他のために生きなさい」とね、こういうことなんだ(笑)。
 これは屁理屈じゃなくてね、道徳論でもなくてね、本当にそうなんだよ。

 私のヨーガ教室では、修行の最後に、いつも、慈悲の瞑想を行なわせています。それは自分の修行で得た神聖なエネルギー、そして自分の中の幸福の要素をすべて他者に差し出し、他者の持つ苦悩をすべて自分が引き受けるというイメージを繰り返す瞑想だね。 
 この瞑想によって、多くの人が、自分の心の苦悩を弱め、幸福感を増していっている。
 なぜなら「エゴ」こそが、自分の苦悩の最大の原因だからだ。

 だから自己の幸福を願うなら、自己を捨てなきゃいけないんだ。

 まあこれは一つの要素だけどね、結局仏教もヨーガも、単にストイックなわけじゃない。それどころか、唯一最上最高の幸福を得る近道を常に提示してるんだけど、幸福とは何かということを常に勘違いしている人々にはね、そんなこと言われても、わけがわからないんだね(笑)。

 だから最初はとにかく先人を信じ、実践してみることが大事だね。

 できるだけ自己を捨て、他者のために生きる。
 私はこの瞑想と実践を始めたころ、倒れるほどのエクスタシーに襲われました。

 そしてそういったことだけではなく、この不浄の肉体を浄化するヨーガ行、気の流れとその流れる道を浄化するヨーガ行、あるいはもっと高度な心身のシステムがあるわけだけど、それらを覚醒させ、人間の神秘の本質を目覚めさせていく実質的修行。あるいは、神への純粋な信仰心を磨くバクティ・ヨーガや、純粋な智性を磨くジュニャーナ・ヨーガ、そして日々の生活を最大の修行の場とするカルマ・ヨーガ。
 それらを真剣に行なうことで生じる、得られるものは言葉にできない。

 もちろん、私はまだ完成者ではない。いや、それどころか、すべてのヨーガや仏教の修行段階のうち、百分の一も終わっていないのではないかと思う。
 それでもね、私は、どんな大金持ちよりも、どんなに現世で成功したといわれる人よりも、自分の人生は幸せで恵まれていると思うんだ。

 まあ、私はそういう結果以前に、修行そのものが好きだっていうのもあるんだけどね(笑)。自己を極め、真実を極めていこうという道を歩くこと自体が好きなんだな。

 でもそれだけじゃなくて、今日話したかったのは、本当にヨーガ等の修行で得る幸福感、エクスタシー、苦悩のなさはね、すばらしいんだよと。どんなセックス、薬物、食物、地位や名誉や愛情の喜びもかなわないよ。それは比較にならない。

 だからみんな修行すればいいのにな、って思うんだ(笑)。
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◎念

2008-02-29 19:48:20 | 解説・ヨーガ・スートラ


【本文】
アヌブータヴィシャヤーサムプラモーサハ スムリティヒ

過去に経験した対象が失われていないものが、念(記憶)である。



 スムリティというのは、パーリ語でいうサティだね。つまり念――四念処の念ですね。ただこれはね、もともとは記憶っていう意味があるんだね。ここでいっているのは、どちらかというと記憶の方にとった方がいいと思いますが。これは書いてあるとおりです。
「過去に経験した対象が失われていないものが、念(記憶)である」。
 つまり、過去に経験したこととか聞いたこと、情報とかが、心の中に浮かんできたりとか心の中をそれが駆け巡ったりする――こういう心の作用。これはつまり記憶ですよと。これを積極的に意図的にやった場合、念というんだね。念ずるとかの念ですね。心の中にある一つの情報・データを一心にそこに集中するのが念だけども。念じようが念じまいが過去の記憶が心を動いている状態。これが五番目の記憶ですよと。
 はい、一応こういうふうに心の作用というのを定義している。とにかく心はいろんな形で動いていますよと。作用していますよと。そしてそれをどうするかというのが次に書かれていますね。
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◎眠り

2008-02-29 19:39:16 | 解説・ヨーガ・スートラ



【本文】
アバーヤ・プラティヤヤーランバナー・ヴリッティルニドラー

空無を対象とする心の作用が、眠りである。



 はい、眠り。ここでは何をいっているのかというと、眠っているときは心が止まっているんじゃないですか?――いや、そうじゃないんですよと。空無――つまり「無」という状態に対して心が動いている状態。これが眠りなんだと。
 これはね、瞑想などでもよく勘違いする人がいて、これも前にも何回も言ったけど、「空だ」「無だ」とか言って、心をぐーっと止めようとする。で、実際に何か止まったような感覚がある。でもそれはただタマス――つまり無智になっている場合が多いんだね。これはいろんな人が警告をしていて、マハームドラーとかの経典でも警告されているんだけど。マハームドラーとか心を止める瞑想というのは、ちゃんと師匠の指示通りしっかりやって、本当にそれを得ていれば素晴らしいけども、ちょっと間違うとただタマスが増大して動物界に落ちるって書いてある(笑)。つまり非常に無智的な、「無」というものを対象として心が動いて、それを心が止まってるという錯覚をしてしまうんだね。
 それは止まっているんじゃなくて、「無」っていう動きをしているんです。変な話だけど。無にただ覆われているだけというか。これは駄目なんです。より悪いんです。人間がああだこうだ理性で考えているよりも悪いんです。無智だから。
 現代の瞑想家とかもそういう人多いと思うけども、自分で瞑想に浸っちゃって、「無だ、私は何もない」と。「無の境地に達した」とか言っている――もちろん中にはちゃんと本当に心が止まっている人もいるだろうけど、そうじゃなくてただその「無」っていう無智的なものに心が覆われているだけの状態。こうなってしまうと、われわれはより下に落ちてしまう。修行していい状態になるどころか、より無智が増大してしまう。
 だからね、少なくともしばらくのうちは――しばらくっていうのは人によるけどね、何ヶ月なのか何年なのか何十年なのか分からないけど、しばらくのうちは無になるとか空になる瞑想――つまり禅的なただ何も考えない――こういう瞑想をたくさんやるよりは――やってもいいんだけど、それは全体の中の本当に一部分にしておいて、その他は徹底的に自分を作り変えるとか、あるいは集中力を増すとか、そういう能動的なというかな、自分を作り変える修行に精を費やした方がいいんだね。
 徹底的に自分を作り変える。無智が多いんだったら無智を消して光を増していく。心のけがれが多いんだったら、けがれを浄化して正しい心に変えていく。徳がないんだったら徹底的に徳を積み上げていく。このように自分を作り変えていく修行を徹底的にやって、ちょっと無になる瞑想をする。
 私の経験でも、本当の心の停止とかそういう世界っていうのは自然にきます。準備が整うと――私の一つの経験で言うと、たとえばあまりそういうのをやりたくなかったとしても――つまり何も考えない瞑想というのがあまり好きじゃなかったとしても、例えば神に変身するとか、あるいは瞑想で慈悲の訓練をするとか、そんなのばかりやっていたとしても、ある段階で「さあ、今日も神に変身したり、慈悲をやろうかな……」と心をぐーっとそういうふうに高めていくと、グッと体が固定されて、グワッと心が止まって、バーッとそういう世界に引きずり込まれます。こういう感じで自然に本当のサマーディとか心が止まった状態ってやってくる。
 だから自分で止めようという瞑想ももちろんいいんだけど、それを自分の修行のメインには置かない方がいいね。それは例えば一日の最後にちょっとやるぐらいでもいいかもしれない。いろんな修行やって、最後にちょっと心をすべて止めてリラックスしよう――これはいいかもしれないけど、それを自分のメインにしてしまうと、さっきも言ったように、ちょっと間違うとただ無智が増大して動物的になる可能性もあります。
 ちょっと話がずれちゃったけど、だから眠りというのも同じだね。眠りというのは別に心が止まっているわけではなくて、空無――つまり無というその状態に対して心が動いている状態に過ぎないんですよと。それも心の作用の一つなんだよ、ということだね。
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◎五種類の心の作用

2008-02-28 22:05:12 | 解説・ヨーガ・スートラ


【本文】
ヴリッタヤハ パンチャタッヤハ クリシュター アクリシュターハ
 
心の作用には五種類ある。それらは煩悩性のものと、非煩悩性のものとがある。


プラマーナ・ヴィパリヤヤ・ヴィカルパ・ニドラー・スムリタヤハ

それは、正しい知識、誤謬、分別知、眠り、念(記憶)である。



 はい。その心の動き、作用というものをここでは五種類に分けている。これは最初に言ったように、ヨーガ・スートラの分け方なので、あまりとらわれなくていいです。仏教とか他のヨーガ哲学とかで、いろんなそれぞれの分け方をしているので、これはヨーガ・スートラ独特の一つの分け方だね。それはこの五つに分けていますよと。



◎正しい知識・誤謬・分別知

【本文】
プラティヤクシャーヌマーナーガマーハ プラマーナーニ

直接経験による知識、正しい推理による知識、聖典に基づく知識が、正しい知識である。


ヴィパリヤヨー ミティヤージュニャーナマタドルーパプラティスタム

誤謬は、真の性質に基づいていない、偽りの知識である。


サブダジュニャーナーヌパーティー ヴァストゥスーニョー ヴィカルパハ

言葉上だけの知識に基づいていて、真実性を持たない言葉が、分別知である。


 はい。まずは最初の三つを説明しましたが、まず一番目、正しい知識といわれる心の作用。
 二番目、誤謬イコール偽りの知識。
 三番目が分別知、言葉上だけの知識――とありますが、ちょっと説明すると、最後の分別知というのは、仏教でも分別知という言葉を使いますが、ここでいう分別知は仏教でいう分別知とは全く違います。言葉は同じなんだけど定義が違うんだね。
 簡単にいうと、一番目、正しい知識。二番目、誤りの知識。三番目は概念だけの考えとか心の作用――つまり実体がないので、正しいとも正しくないとも言えないというか。
 これはいろんな人がいろんなタイプの解釈をしているので、私が今から言うのも一つの解釈として聞いて欲しいんですが。浅い意味と深い意味があると思います。
 まずは深い意味から説明すると、正しい知識というのは、これはつまり真理の知識だね。この世の実相というか、この世の真実を心が知ったりとか、それについて考えたりすることが正しい知識。
 で、誤った知識、二番目の誤謬っていうのは、これはこの観点からいうと、つまり深い意味でいうと、その他――つまり、普段われわれが見たり聞いたりするものすべてがこの誤謬に入ります。例えば「私は人間である」とか、あるいは「ここはアパートである」とか、あるいは「生きてる」とか、そういった常識的な普通の知識はすべて間違いであると。これが二番目の誤謬だね。
 で、三番目は――二番目っていうのは、われわれが錯覚によってこのカルマによって生じた幻みたいな世界を現実と錯覚しているということなんだけど、三番目というのは、別にそういうのもなくて、ただ頭の中で展開される空想といってもいいね。これはちょっと説明しづらいというか、例も挙げにくいんだけど、例えば私が突拍子もないことを考えたとするよ。ちょっと極端なことを言うけどね、「K君に羽が生えて飛んでっちゃったらどうしよう」とか私が考えたとするよ。「羽が生えて飛んで行っちゃったら悲しいなあ……」とか考えてたとして、意味ないじゃないですか(笑)、全く。羽が生えて飛んでいってないんだから、別に。そのような言葉の概念だけのいろんな心の働きがある。
 例えばこのマイクというものを見た場合に、これはマイクっていう一応私たちが知覚しているものがある。これは真実なのかどうかとか、ここはこのマイクを実体だと考えるのは誤謬だと、このマイクの本性を見抜くのが――つまり一切は空であるとか、心のあらわれであるとか見抜くのが、真実の知識。で、三番目っていうのは、こういった実体のあるわれわれの経験とかそういうものを対象としていないんだね。全く心だけの言葉だけの概念的知識というか。これが三番目。
 だからこれも「ああ、そうなのか!」っていうよりは、まあ、さらっと流していいです(笑)。ここを追求しなくてもいい。追求したかったらしてもいいけど――つまり、みなさんの中でもし「おれはヨーガ・スートラを根本にする」と。すべての教えの中でヨーガ・スートラを根本にして他のことを考えるっていう人がいたら、追求してください。でもそうじゃないなら追求しなくていいです。ここでいう分別知とは何だろうってあんまり突っ込まなくてもいいと思う。ある程度にしておいてね。
 はい、今言ったのは深い意味。浅い意味で言うと、これはもうちょっと現実的な、われわれが普段経験していることで、例えばよくたとえとして出されるのが、ロープを見て、縄を見て、蛇と勘違いする――これが誤謬だね。
 よーく見て、ロープだと、縄だと認識する――これが正しい知識です。
 これは浅い意味。つまり現実的な普通にわれわれが事実をちゃんと認識するのが正しい知識で、事実を誤って認識してしまう心の働きが、間違った誤謬ですよと言っているに過ぎない。その浅い意味と深い意味があると思います。
 はい、そして、その正しい知識にも三パターンありますよと。それは直接経験と推理と聖典ですよと。これも深い意味と浅い意味があります。
 深い意味でいうと、直接経験による知識――これは瞑想経験、あるいは修行が進んで悟りの経験。例えば輪廻転生ってあるんでしょうかと。修行していたら仏教でいう宿明通が身について、自分の過去世を思い出したり、あるいはいろんな世界に飛んでいって輪廻のしくみを実際に瞑想で見る――これが直接経験。これによって「ああ、輪廻転生は実在した。カルマの法則にしたがって衆生は輪廻しているんだ」っていうことを、誰かに教えられたんじゃなくて、自分で瞑想とかで直接に経験してしまった。あるいは「神の世界ってあるんだろうか」と。瞑想で神の世界に飛んでいって、「あ、あった」と。これが直接経験の正しい知識だね。
 次、推理によるっていうのは、これはいわゆるジュニャーナ・ヨーガです。つまり分析――いわゆる高度な正しい分析によって真理を追究していく。例えば仏教の四念処みたいな感じで、わたしとはなんだろうかと。肉体であろうか? こうこうこうこうこうだから肉体なわけはないと。では感覚で経験されるものがわたしであろうか? それもこうこうこうこうこうだから、それも違う――って感じで、正しい分析をしていった結果としてたどり着く真理。これが推理による知識。ジュニャーナ・ヨーガですね。
 聖典に基づく真理。これは書いてあるとおりです。まだ自分自身ではそこに到達してないんだけど、でも信頼できる聖典――これは聖典じゃなくてもいい。師匠とか聖者でもいいです。聖者の言葉とか師匠の言葉とか、あるいは信頼できるこういったヨーガ・スートラなどの聖典に書かれている――まだそれを自分のものにはしてないんだが、学んで理解したという段階。これが聖典からくる正しい知識だね。
 これは深い意味です。
 浅い意味の場合は、これは現実的な話ですね。現実的な話っていうのは、直接経験というのは、現実世界でいろんなことを直接的に経験したと。例えば砂糖は甘いと。それは砂糖を実際に食べてみたと。そうしたら甘いと分かったと。もう経験しているから、甘いと。あるいはコカコーラを飲んだことがない人がいたとして、実際に飲んでみた。そうしたら、甘くかつシュワーッとするちょっと痺れがある。これを経験しましたと。これは直接経験の知識です。
 推理っていうのは、表示を見たりする。まだそれを飲んでないんだけど表示見たり、あるいは科学的に成分を分析して、飲んではいないんだが分析によって「これは甘く刺激的なものである」という結論に達する。これが推理の知だね。
 で、三番目が人伝えの知です。つまり信頼できる人の言葉。だからうそをつくような人は駄目だけど、本当にコカコーラを毎日飲んでいるっていう人で、本当にこの人は絶対にうそをつかないっていう人がいて、あるいは本でもいいよ。信頼できる本があって、「コカコーラは甘い」って書いてあったら、「ああ、甘いんだ」と――これは三番目。
 これはだから日常生活における正しい知識だね。これは浅い意味です。だから浅い意味と深い意味があるね。
 この部分だけでも分かると思うけど、あまりこういうことを――何度も言うけども(笑)――掘り下げる必要はないです(笑)。でも一応みなさんの知識として今やっているわけですが、もうちょっと先の方に瞑想の世界とかが出てきますが、あまりこの部分というのは掘り下げる必要がない部分だね。
 はい、そして、「間違った知識」っていうのはもう分かるよね。間違った知識っていうのは、深い意味で言ったらさっきも言ったように、われわれが普通に認識しているこの世界すべて間違った知識ということになります。浅い意味で言うと、さっきのたとえでいうと、コカコーラを他のものと勘違いしてしまう。例えば黒いからしょうゆだと思ってしまうとかね。これが誤謬――間違った知識、浅い意味でのね。
 はい、そして三番目が、そういう実体を対象としているのではなくて、ただ言葉上、あるいは概念上だけの心の働き。これを一応分別知といっています。ただ仏教などで分別智という場合、また全然違う意味になるので、ちょっとこんがらがっちゃうっていうか、ややこしいね。だからこれも、何度も言うように、さらっと通り過ぎて構いません。

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新刊のお知らせ「ラージャ・ヨーガ ――解説ヨーガ・スートラ Ⅰ」

2008-02-28 20:03:41 | お知らせ


 「ラージャ・ヨーガ ――解説ヨーガ・スートラ Ⅰ」ができました。
 
 ヨーガの根本経典である「ヨーガ・スートラ」を、わかりやすく解説しています。

 定価1000円です。

 ヨーガスクール・カイラスの各教室で購入できますが、郵送でも販売いたします。ご希望の方はメールでご連絡ください。




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◎論理的な書物

2008-02-26 20:33:05 | 解説・ヨーガ・スートラ



【本文】
アタ ヨーガーヌシャーサナム

これよりヨーガを解説しよう。


ヨーガシュチッタヴリッティニローダハ

ヨーガとは、心の作用を滅尽することである。


タダー ドラストゥフ スワルーペー アヴァスターナム

そのとき、見る者は、自己本来の状態にとどまることになる。


ヴリッティサールーピャミタラトラ

それ以外のときには、見る者は、変化したものを自分だと思う。




 昔あるヨーガが大好きですごくやっている人と話した時に、その彼の一番好きな言葉というか、一番これが真理だと思う言葉として挙げいたのが、この二番目の言葉――「ヨーガシュチッタヴリッティニローダハ。ヨーガとは、心の作用を滅尽することである」――これはすごく有名な言葉で、よくいろんなネットとか本とかいろいろ引用されるんだね。「ヨーガシュチッタヴリッティニローダハ」。
 ここでは「心の作用を滅尽」って訳したけど、いろんな他の訳もあります。制御するとかね、あるいは「心の作用」をまた別の方にとっている訳もあるけど、この一行をすごく重要視する。
 ただそこまで神格化する言葉でもないように思いますね。私は今勉強会で、何をさっきから言っているのかっていうと、あまりそういうふうには走って欲しくないんだね。つまり、本格的なヨーガをやっている人っていうのはヨーガ・スートラをとても重要視する。それはもちろんいいんです。それはOKなんだけど、まるでそれがたとえば日蓮宗の法華経みたいに、なんか触るだけで浄化されるぐらいの、すごい権威的なものを持っちゃっているんだね。内容ももちろんすばらしいんだけど、別にそこまでこの言葉が全てだというような、そんな世界じゃない。どっちかっていうとヨーガ・スートラって読んでいけばわかるけど、かなり哲学的な話なんです。この言葉が全てを含んでるとかなんか曖昧な感じではなくて、すごく哲学的に説かれているんで、そういう目で見たらこの一行っていうのは全体の中の一行に過ぎなくて、別にそこまでこの一行を神格化する必要はないっていうか。そういう理性的な目でこのヨーガ・スートラを読んだ方がいいね。
 バクティ系の読み物は違いますよ。例えばバガヴァッド・ギーターとかは、もうちょっとバクティ的な目で読まなきゃいけない。例えばクリシュナが、「私に帰依さえすれば、全ては得られる」――そこを、「え? それは一体どういうことだろうか?」とか考える必要はない(笑)。それはただ心でそこに感応して、「そうだ」と。「私は至高者にただこの身を預けるだけでいいんだ!」――これでいいんです。でもこのヨーガ・スートラは違うんです。もう徹底的な論理的な書物なんです。だからそれはそういう曖昧な崇拝の観念じゃなくて、論理的に読まなきゃいけない。





◎ヨーガの定義


 はい、ここのところをまとめると、まずヨーガの定義がばーんと最初に来ているわけだね。
「ヨーガとは、心の作用を滅尽することである」。
 いきなりばーんときてますね。
「そのとき、見る者は、自己本来の状態にとどまることになる。それ以外のときには、見る者は、変化したものを自分だと思う」。
 はい、これはここで何度も言っている話です、この話は。じゃあ、Cちゃん、見る者って何だと思います?

(C)ヨーガを行じている人?

(D)……心?

(K)純粋観照者。

 そうだね。純粋観照者。純粋観照者というのも「見る者」という意味だけど――つまり真我だね。真我つまり純粋観照者。ただ見ているだけのわれわれの本質――真我といいます。
 ヨーガとは、心の作用を滅尽することである。そのとき、見る者――つまり真我は、自己本来の状態にとどまることになる。それ以外のときには――それ以外のときというのはつまり、心の作用が滅尽されてないときね。――そのとき、見る者は、変化したものを自分だと思う。これは分かるね。いつもここで言っていることです。
 まず真我というものは、ただ見ているだけの人。心というのは、プラクリティとか――つまり真我とは全く関係のない――本当は関係あるんだけど、一応関係のないと言っておきます――関係のないエネルギーが展開して、映画を観ているようなものです。真我が映画館で映画を観てるんです。この映画の内容が、ここでいう心です。心が展開する――つまり、たとえば『男はつらいよ』が始まって、寅さんがいろんな経験をする。それを観ている真我がはまっちゃって、まるで自分が寅さんになったかのように喜んだり悲しんだりしている状態が、今のわれわれの状態なんです。
 心の作用を滅尽するイコール――ではRちゃん、どういうことですか? このたとえで言うと……心は映画です。心の作用を滅尽するっていうのは?

(R)映画を消す?

 まあ、消すだね(笑)。消すというか、止めると。映画を消してしまうと。はい、映画終了しましたと。
 当然、映画が終われば、どんなに寅さんにはまっていても、ハッと「あ、終わった」と。つまり心が止まってしまえば、真我というのは自己本来の状態――幻影となって展開していたものが止まってしまうので、心が錯覚から離れる。
 でもこれは実は本当の最終的な段階ではないんです。本当の最終的な段階というのは、動いていようがなんだろうがそこに染まらない状態が最高なんです。だからここでいっているのは途中段階ではあるんだね。途中段階ではあるけども、最低限のことです。最低限のわれわれの解脱の仕方というか。つまり心の動きが止まってしまえば、どんなに馬鹿な人でもやはり映画から醒める。だからまだ真我が完全なる悟りを得ていなかったとしても、心の動きが止まってしまえば、夢から醒めるんだね――つまり悟りというか真我の状態に、元に戻ると。これがここで言っていることだね。

(K)思ったんですけど、作用がなくなって、心に何も映らなくなったら、深い意識に入っていって、そんなに慣れてない人だったら意識飛んじゃったりしません? 慣れてないと、もやもやってなっちゃうんじゃないですか?

 いや、ここで言っている心の作用を滅尽するっていうのは、そういうレベルではなくて、最終段階のことをいっているんです。最終段階っていうのは本当の最終ではないんだけど、仏教的にいうと「行」まで戻った段階です。十二縁起の無明・行・識・名色……ってあるよね。行はまだあるんです。行は流れいてる。でも行からまだ識に展開してないというか。つまりここでいう心の作用というのは、仏教的にいうと十二縁起の動きと考えると――行から本当は識・名色・六処と展開していくんだけど――行まで戻った段階だね。だからそれはそのデータというか、心のこれから発現する要素はあるんだけど、それも止まっている状態。
 普通に深い意識に入って飛ばされるっていうのは、ちょっと話が違っちゃうけども、深い意識に入って飛ばされるっていうのは、その行まで戻ったような話ではなくて、まだ途中段階だね。まだいろんなものが動いている段階です。動いているところに突っ込むから、飛ばされるんです。ちょっと物理的な話をするとね。深い意識に入ったけど、深いところにいろんなものが動いているんです。動いているところに意識がぶつかるから、ショックで気絶するんです。これがわれわれが深く入ったときに意識が飛んじゃうっていう現象だね。これはまだここでいっていることよりは浅い段階。
 で、それをプロセスでいうとね、まずは深い意識にはもちろん入らなきゃいけない。この動いているいろんなものを掃除したり、あるいは止める努力をしなきゃいけない。最初は意識を失ったり、あるいは意識はあるんだけどいろんなものが見えたり聞こえたり、それを整理したりっていうのを繰り返していって、最終的にそういったものが止まるときが来る――その最終段階をいっているんだね。

(K)相当すごいですね……

 そう。だから最初に結論をいってるんです。結論で、ヨーガの目的はここだよっていっている。この状態にならなきゃ駄目。これは一つの解脱だから、当然すごい(笑)。
 でもこれも本当の解脱ではない。本当の解脱ではないというのは、つまり全智を得たわけではない。あるいは無明を完全に破壊したかどうかは分からない。
 本当の完全なる全智っていうのは、さっきも言ったように、一切映画が流れていても全くそれに影響されない状態だから。そこまではいってないんだけど、まずとにかくその映画の流れを止めましたと。よってそれによって真我というものが、やっと自分に気づき出しましたと――ここを目指そうとまずはしているんだね。

(T)それは生活の中でたとえると、普通に暮らしながら二十四時間ずっと神といるとか、そういうふうなのが最高のところということですよね。一時的なものじゃなくて……

 そう。最終的にはね。それは完全な最後の最後だね。


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2007.12.26 ヨーガスートラ第一章

2008-02-26 19:55:59 | 解説・ヨーガ・スートラ



 
◎原始ヨーガ経典

 ヨーガ・スートラについてまずいうと、今のフィットネス的なヨーガじゃなくて、本格的な伝統的なヨーガを重んじる場合、一番古い由緒正しい経典――これがヨーガ・スートラです。これは原始ヨーガともいわれますが、一応ヨーガと名のつくもので、まとまった経典としてしっかり残っているものの一番古いやつだね。まあ古いといっても、五世紀ごろの作品といわれています。
 実際はもちろんこういったヨーガの世界というのは、もっと前からあったわけだけど、それがこういう形でしっかりまとめられたのが五世紀ごろ。これを書いたのはパタンジャリと普通はいわれていますが、ただパタンジャリという人は実は紀元前二世紀ごろの人なんだね。だからパタンジャリが書いたということはあり得なくて、おそらくパタンジャリを含めてその時代のヨーガの聖者というか、聖者でありこういう文章的能力のあった人たちの作品とか言葉を集めて編集したのが、このヨーガ・スートラじゃないかといわれています。
 とにかくその後のさまざまなヨーガに広がっていく、一番の原初的な経典ですね。
 ここにはいろんな哲学が登場してきますが、これはもうすでに学んだものあるけども、あまり学者的に一つ一つを掘り下げる必要はないです。
 カイラスでは、仏教のいろんな経典とかヨーガのいろんな経典とか学んでいるから分かると思うけど、結局同じことを言おうとしているんです。ただ宗派とかいろんな流派によって、結構若干定義が違ったり名前が違ったりするんだね。だから一つの同じものを別の角度から説明しようとしているから、AとBが違うように見えちゃうんだけど、実際は全く同じなんです。
 同じものを――例えばよく言われるように、仏教では「盲人が象を見たたとえ」というふうに言ってるけどね。仏教が言っている「盲人が象を見たたとえ」っていうのは、盲人――目の見えない人に、象を触らせた。それに対してある王様がね、聞いたわけですね。「お前たち、象とはどういうものだったか」と。で、鼻を触った人は、「象とはぶにょぶにょして長かったです」と(笑)。おなかを触った人は、「象とは太鼓みたいに大きかったです」とか。尻尾を触った人は「象とはほうきみたいでした」とか、いろいろそれぞれ言って喧嘩し出した。「いや、おれこそが象を知っている」――これが中途半端なというか、まだ完全な悟りを得てない者たちの喧嘩なんだね。つまり、それぞれが絶対的な真理の一部だけを見ていて、それぞれがああだこうだああだこうだ、あれが正しいこれが正しいと言っている。これはまだ中途半端な者たちの喧嘩です。
 じゃなくて、じゃあ完全にすべてを見たものは喧嘩しないのかっていうと、本当に見たものは喧嘩しない。なぜかっていうと、お互いに象を見たって分かっているから。例えばこれはどういうたとえかっていうと、象というものがわれわれの全く見たことがない理解の範疇外にある動物だとするよ。昔の日本人はもちろん、象とか見たことがなかっただろうけど。それを、私が象を見たとするよ。ここにいる、例えばK君とかTさんとかも象を見たとするよ。この三人が例えば象を見て、で、ばらばらに見たとするよ。ばらばらの場所で三人が象を見ました。この三人が会って、「え? 君も象見たの?」と――二、三回会話を交わせば、「あ、そうだよね」と(笑)。「分かる、分かる」と、分かるじゃないですか。だから本当に見た者同士は分かり合えるんです。問題はこの弟子です(笑)。私が私の弟子に「象とはこうだよ」と伝えるんです。さらにその弟子からその下に、「象とはこうだそうだ」って伝わる(笑)。K君もそういうふうに伝えていって、Tさんからも伝わっていく。この二代三代目の弟子たちが話し合う――ここで喧嘩が起きるわけです。だって、私の伝え方とTさんの伝え方とK君の伝え方は違うわけだね。どこを強調するかとか。だから見たもの同士は分かり合える。でも伝え聞いたもの同士は、師匠が言っている強調部分が違うから――例えば私はね、鼻の長さにすごく感動して、「象の鼻はすごかった!」とか言うかもしれない。でもK君は全くそれには着目してなくて(笑)、実質的な部分というか、「あの体重」とか。つまり私は見た目にとらわれて、K君はもうちょっと実質的なパワーとかそういう部分にとらわれたかもしれない。で、Tさんはまた全く別の観点で――例えば私が「美しい。象とはなんて美しいんだ」と言ったのを、Tさんは「いや、あんな醜いものは見たことない」って伝えたかもしれない。これが、何度も言うけども、見た本人同士は分かり合えるんだけど、言葉にした段階で弟子たちの間に意見の相違が起こる。これがさまざまな仏教・ヨーガの宗派・流派の意見の相違なんだね。
 全く同じものを昔の聖者方は見ていたんだけど、本当は見てないただ学問だけ学んだ者たちが、お互いにああだこうだ言い合っているだけなんだね。だからそういう過ちには陥らないようにした方がいい。
 ヨーガ・スートラでこれから学ぶいろいろな定義というのは、ちょっと独特な定義もある。だからここはあまり掘り下げなくてもいいかなっていう感じがするね。ある程度大まかな理論体系をおさえておけば、後は柔軟な目で他のいろんな体系を見ればいいね。「あ、これはこれに当たるな」っていうのがよく分かる。そういう見方をしていった方がいいね。一個一個、「これどうなんだろう?」ってそこにのめり込むよりは。
 後はもう自分で経験するしかない。自分で経験して、「あ、なるほど」と。つまりさっきのたとえで言えば、自分でいかに象を見るかっていう努力だね。象を見てしまえば、やっと分かるわけです。「あ、なんだ」と。「うちの師匠が言ってたのは」――全然違うことを想像しているかもしれないじゃないですか(笑)。象は耳がでかいって言ったときに、人間みたいな耳を想像するかもしれない。象ってこんなやつなの(笑)?――でも行って見たら、「あ、こういうことかと」。そういう体験による教義との一致を計るまでは、ある程度言葉によるものっていうのは、「まあ、そういうもんなんだ」ぐらいにおさえておいたほうがおいた方がいいね。その最終結論というのは自分で経験してみなきゃいけない。
 はい、一応ね、一番ヨーガの世界では権威を持つヨーガ・スートラの勉強会を今日はしたいと思いますが、今日はサンスクリットとそれから日本語を併記しているので。ヨーガ・スートラっていうのは本当に、その道の人っていうか、本格的なヨーガをやる人からはすごく崇拝されています。本当に崇められている。もうそれそのものがものすごい帰依の対象というか、崇拝の対象になってる。ただ私自身は、そこまでそれを神格化する必要はないと思う。つまりこのヨーガ・スートラですら、さっきも言ったように、言葉では表わせない真理をあらわしたものの一つであって、そういう感じで相対化して見ていいと思います。ヨーガをやっているからヨーガ・スートラが絶対的な経典というわけではない。
 実際にヨーガ・スートラの経典の勉強会を前もちょっとやって分かったと思うけど、結構分かりにくかったりとか、ちょっと現代的には表現が合わなかったりとか。あるいは他のいろんな経典と比べて、いろんな長所短所それぞれある。だからこればっかりをすごく神格化する必要はないんだけど、ただヨーガをしっかりとみなさんがこれから修めていく上において、避けては通れないのがこのヨーガ・スートラだね。
 でもだからといって、何度も言うけど、別にヨーガ・スートラを学ばないと悟れないとか、ヨーガが進まないということはないね。ただ一応学んでおくと、ヨーガというものの原始的な流れっていうかその全体像が見えて来やすいかも知れないね。
 はい、じゃあ今日はそのサンスクリット併記しているので、このサンスクリットを読むこともとてもいいといわれているので――ヨーガ・スートラに関してはね――サンスクリットと日本語という感じで読んでいきましょう。

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幸福の秘訣

2008-02-22 15:45:31 | 経典の言葉・聖者の言葉

 人生を楽しむのは良いことですが、幸福の秘訣は、何事にも執着しないことです。
 花の香りを楽しんだら、その中に神を見なさい。
 私は自分の感覚を、いつもそこに神を感じ神を思うためにのみ使ってきました。

 「私の目は、万物の中にあなたの美を見るために作られました。私の耳は、あなたの偏在の御声を聞くために作られました」――このような神との一体感がヨーガです。

 神を見つけるのに、森や山奥に入る必要はありません。
 執着は、自分自身を世俗的慣習から抜け出させるまでは、どこへ行ってもついてきます。
 ヨーギーは、自分の心の洞窟で神を見つけます。そして、どこへ行くにもその意識をもって行き、いつも神とともにいる至福を感じています。

 人間は、肉体に束縛された感覚意識の中に落ち込んだため、そこから生じる我欲、怒り、嫉妬などのゆがんだ想念にも支配されるようになりました。神を見つけるには、こうした心のゆがみを追放することが必要です。
 東洋人、西洋人を問わず、人は皆、感覚への隷属状態から抜け出さなければなりません。

 朝のコーヒーが飲めなかったからといって腹を立てたり頭が痛くなったりする人は、習慣の奴隷になっている人です。どんな習慣にも束縛されないのがヨーギーです。


 ――パラマハンサ・ヨーガーナンダ
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「要約マハーバーラタ」の冊子が出来ました。

2008-02-14 19:21:34 | お知らせ

 「要約マハーバーラタ」の冊子が出来ました。

 世界最大の叙事詩マハーバーラタを、簡潔にまとめてあります。

 上下巻各1000円です。

 遠方の方は郵送もいたしますので、希望者はご連絡ください。
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ゴキブリ

2008-02-08 21:37:18 | 松川先生のお話
 ヨーガ・スートラの八段階ヨーガの第一は、非暴力である、ということは、少しヨーガを勉強した人なら誰もが知っていることでしょう。

 また、仏教の戒律の第一番目が不殺生である、ということもまたご存知の方は多いでしょう。

 このヨーガの非暴力も、仏教の不殺生も、同じアヒンサーという言葉で表されているものです。単に日本語に訳される段階で、それぞれ不殺生、非暴力という訳語が定着したのだと思いますが、要は、暴力、殺生はもとより、悪口や、心で憎しみを持ったり、陥れたりすることも含めて、他者を害することをやめるということです。


 ヨーガにしろ仏教にしろ、これが第一に来ているわけですが、最初はここで「ええっ?」とつまずく人が、日本人には多いようです。それにはさまざまなパターンがあるようですが。

 たとえば現代では多くの人が行なっている中絶も、自らの子供を殺生するわけですから大変な罪になります。ただし、よく言う水子霊とか水子供養などというのは何の意味もありません。そうではなくて、因果の問題、そしてもう一つは心の傷の問題ですね。だからその解決策は水子供養とかお祓いではなくて、慈愛の心の訓練や、懺悔など、カルマを浄化する修行に励まなければなりません。

 あるいは現代では、虫や小動物を殺すのはあまり悪いこととはされていないようですが、どんな小さな虫にも我々と同じ生命、魂があるわけですから、それらも悪業となり、修行の妨げとなります。いや、修行を志さなかったとしても、殺生のカルマは、自らの心を殺伐とさせ、体に苦痛を生じさせ、来世は地獄に落ちるとされています。
 
 昔、チベットを描いた映画で、チベットの建築風景で、土を掘り返して虫が出てくるとみんなそっと外に逃がしてあげるので、なかなか作業が進まない、というシーンがありましたが、チベットやインドのまじめな仏教徒やヒンドゥー教徒は今でもそんな感じみたいですね。
 私のヨーガ教室でも、ヨーガのスタートの一つとして日々の生活における不殺生を勧めているわけですが、今まで不必要に行なっていた殺生に関しては、多くの人がやめられるようです。まあ、虫などが怖かったとしても、殺すまでもなく逃がしてやればいいわけですからね。また、できればそういう虫などに対しても、慈愛を持って接する訓練が必要です。

 多くの人はそのようになるのですが、それでも多くの人、特に女性が、なかなか超えられない一線があるようです。

 それは「ゴキブリ」です(笑)。

 いろんな虫や動物に対しても親愛を持って接せられるようになったけど、ゴキブリだけはどうしてもだめだというわけです(笑)。

 不思議なもんですね(笑)。なぜゴキブリはそこまで嫌われるのでしょうか(笑)。
 まあ、あともう一つあげるとすれば蜘蛛なんかもそうですね。蛇とかもそうかもしれません。

 ゴキブリに関して考察すると、一つはあのすばやさがだめなんでしょうね(笑)。たとえばカブトムシなんかは人気がありますが、カブトムシがもしゴキブリみたいにすばやかったらやっぱり気持ち悪いでしょう(笑)。あとはあの油っぽさですかね。

 まあとにかく、ゴキブリや蜘蛛は、多くの人が、見ただけで嫌悪感を抱きます。それはゴキブリや蜘蛛自体に、嫌悪されるカルマがあるからであるといえます。それは正しいでしょう。
 しかしですよ、その嫌悪されるカルマがあるゴキブリや蜘蛛に対して、嫌悪する人はどうなるのでしょうか? 来世、今度はその人がゴキブリとなり、嫌悪されるかもしれません(笑)。
 だからこのカルマの輪をどこかで断ち切らなければいけませんね。嫌悪されるゴキブリ。嫌悪する自分。どちらも嫌悪のカルマの輪の中にいるわけです。嫌悪の縁があるわけです。断ち切らなければなりません。もしそれをゴキブリの側に期待できないなら、自分がやるしかないでしょう(笑)。自然に嫌悪がでてしまう。その「自然」に逆らって、愛を発するのです。もし自分がそこで嫌悪でなく愛を発するなら、その嫌悪の輪に化学変化が生じ、ゴキブリも救われる可能性が出てくるかもしれません。


 ところで私は、今はヨーガ教室をやっているのできれいにしていますが、昔は非常に汚い部屋に住んでいました。だからゴキブリもいっぱいいて、食事中など、おかずにゴキブリがよくたかってきていました。たまに友人が来たときなど、友人との間でこんな会話がよく交わされました。

友人:皿の上にゴキブリがいるよ。
私:そうだね。
友人:そうだねじゃないよ。汚いから早く追っ払えよ。
私:ゴキブリの食事を邪魔するのはかわいそうだろ。そっとしといてやりな。
友人:それもそうだな。

 
 まあしかし現実的には、ゴキブリがいたら近所づきあいなども大変でしょうし、病気のおそれもありますから、そもそもゴキブリが出ないように普段から清潔にしているのが一番いいんでしょうけどね(笑)。
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他者のために生きる

2008-02-08 18:30:19 | 経典の言葉・聖者の言葉

 この人生は短く、他のつまらぬ事物は移り変わる。
 しかし他者のために生きる人々だけは生きる。
 その他は、生きているというよりは死んでいる。


 ――ヴィヴェーカーナンダ
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◎すべては神への供養

2008-02-04 19:18:51 | 解説・バガヴァッド・ギーター



【本文】
『プラジャーパティは、はじめに人類を創造し、彼らに「至高者への供養」を教え、こう言われた。
 【これをよく行なう者に栄あれ! その者の願望はすべて満たされるであろう】と。

 行為の結果を供養して神々を喜ばせ、君も神々から喜ばせていただきなさい。
 このように相互に喜ばせあうことによって、君は最高のものを手に入れることになる。

 供養に満足した神々は、供養者にさまざまなものをお授けになる。
 そうしたものを頂戴しながら神々に何の返礼もせぬ者は、盗人と同じである。

 神々に供養した食物のおさがりをいただく人は、すべての罪から免れる。
 味覚の楽しみのために食物を食べる人は、罪そのものを食べることとなる。 』


 はい、もうちょっと深い部分に入ってきましたね。
 われわれのこの世の行為っていうのは、全て至高者、つまりそれは神といってもいいし、如来といってもいいし――まあもちろんこの中ではクリシュナのことだけどね。それはもう、それぞれのものでいいと思います。例えば、クリシュナが好きな人はクリシュナでいい。あるいは名前とかもあんまり好きじゃない人はその絶対的な至高者って考えればいい。あるいは如来がすきな人は如来。あるいは密教の場合は、例えば、それを自分の師匠と同一とみてもいいし。あるいは自分のイダムでもいいし。とにかくこの世の絶対的な至高者、あるいは神々への、供物。自分の為すことは全てそうなんだって考える。
 で、一番わかりやすい例が、ここにも出てる「食事」なんだね。われわれは当然この肉体を維持する為に食事をしなきゃいけない。ね。これは現実というか、物理的なものとしてあるわけだね。物理的に肉体を維持する為に、栄養素を口から放り込まなきゃいけないっていう一つの現象があります。じゃ、これをどうとらえるか。その理想は、このおいしい食物を神々に供養いたしますと。そしてそのお下がりを私はいただきましょうと。
 あるいは別の考えとしては、神々に供養いたしますと。で、自分の体は祭壇であると。自分が神の代わりに、歯をつかってかじって、飲み込むことによって、神々に供養するんだって考えでもいい。
 つまり、「食事イコール何だ?」って言ったら、供養の瞑想だと考える。供養の瞑想として、食事というカルマがあるんだと。つまり私がカルマによって食事をしなければ生きられないっていうカルマがあるのは、供養の瞑想するためなんだって考える。
 それによって供養として、「はい、供養。はい、供養。はい、供養。供養。」これは、素晴らしい悟りをこの人にもたらすだろうと。
 じゃなくて、神関係ないと(笑)。「さあ、うまいもの食うぞ」と(笑)。「ああうまい、うまい」と。「私は味覚こそが楽しみなんだ」と。「さあ今日はどんな美味しいもの食うかな」ってやってる人は、悪そのものを食うことになると。
 これは食べ物だけじゃないんだけど、こういう感じで、執着によって何かを経験し、何かを避け、――つまり執着と嫌悪によってこの世の経験をする人は、どんどんカルマの渦にまきこまれて、がんじがらめになる。
 じゃなくて、この世で生きなければいけない、いろんな行動しなければならないこと、一つ一つを神の供養とするんです。だからこれは智慧が必要だね。いろいろ応用しなきゃいけない。
 例えば、今の日本では裸では生きられない。裸で生きてたら捕まってしまう。あるいは会社に行くときはちゃんときれいな服を着なきゃいけない。しかし、「私はこんなきれいな服を着れていいなあ。わあ、きれいだ」って考えちゃ駄目なわけです。このきれいな服こそ神への供養なんです。そのお下がりを私は着ているにすぎない。
 全てそうだね。もう本当に小さな自分の活動も含めて――例えば、まあ極端な話をすれば、歩くことさえ神への供養だと。あるいは自分が――それはいろんな智慧が必要だけどね、しゃべってることさえ神への供養だと。でもそれは、しゃべってることさえ神への供養だって考えるとしたら、悪いことは言えなくなるね。例えば悪口言って、それを神への供養だとか言ってたら、それは供養にならない。しゃべることが神への供養だと考えるとしたら、人には真実とか真理とか、あるいは人を安らがせる言葉しか言えなくなります。


◎心は神の応接間

 あのね、こういうおもしろい考え方がある。心は「神の応接間」であると。心は神の応接間ですと。よって、常に心に神をお招きしなさいと。
 しかし、ここで考えなきゃいけないことがありますと。心は神の応接間だから、いつもちゃんときれいにしてもてなさないといけませんと。そういう考えなんだね。
 心に神をお呼びするんだから、もう本当に小さな憎しみとか、嫉妬心とか、執着とか、そんなものもあったら失礼だと。だから徹底的に心をきれいにしなさいと。
 で、これとまったく同じ発想で、日々生きるんだね。自分の活動は全て神への供養なんだと。例えばさっき言ったように、何らかの形で自分が何かをしなきゃいけない――まあ、例えばそれはこういう勉強会とかだけじゃなくて、日々の生活でもそうだよ。例えば、誰かにお茶を入れてくれと言われた場合ね、例えば、会社の上司にお茶を入れてくれと言われた場合でも、「ああ、これは神が上司の姿をとって、私に徳を積ませようとしてくれてる」と。だからそこで、一時的にですよ、一時的に、その上司を神と見て、お茶を捧げるわけです。
 そこで、「え! 何言ってんの、あの人」(笑)、最近流行のパワーハラスメントだとか考えて、いろいろ理屈で自分の行動を制限すると、全然駄目なんです。
 だからカルマ・ヨーガの難しさっていうか、ポイントはいかに自分の人生を、受け入れるかだね。


◎三つのヨーガ

 ただしかし、もう一つ問題なのは、受け入れちゃいけないこともあるんです。そこは、その道を避けることこそがカルマ・ヨーガって部分もあるんです。だからそれはものすごく難しいんだね。
 だから前にも書いたけども、私はやっぱり本質的に現代において正しくヨーガを行ずるには、大きく分けるとやっぱり三つのヨーガが必要だと思うね。
 一つは、しっかりと教えを学び、教えに基づいて考え、そしてそれを実践するっていうヨーガです。これは非常に仏教的なヨーガだね。正しい教えを学び、それについてしっかりと考えて、それを実生活で実践してみると。
 で、二番目のヨーガは放棄のヨーガ。つまり、いろんな物を捨てて、しっかり瞑想して、サマーディに至ろうとするヨーガ。
 で、三つ目のヨーガが、今日の話と関係ある、カルマ・ヨーガであり、そしてバクティ・ヨーガであり、そして大乗の慈悲の実践。つまり、全てを神の愛と考え、全ての人生を受け入れ、その中で、慈悲に基づいて、あるいは神の愛に基づいて行動しきることによって悟りを得る。
 この三つっていうのは、三つとも揃わないと、私はうまくいかないと思います。例えばじゃあ今回はカルマ・ヨーガが主題だから、カルマ・ヨーガを実際に実践するには、土台として、正しい教えを学び、考え、実践するっていうのがないと失敗するんだね。
 つまり本来、エゴの方がまず強いから、エゴによって物を見てしまうから、神の意思を間違ってしまう。
 例えば例を挙げると「じゃあ今日カイラスの勉強会に行こうか」と。行こうと思ったらサンダルが切れたと。「神の意思だ」と思って、行かないと(笑)。これは駄目なわけですよ(笑)。じゃなくて、そこは、
「いや、これは私の悪いカルマによってこのような現象が起きたが、このような現象を打ち破って教えを聞きにいくことこそが、神の愛だ」と。つまりそのような、悪業を断ち切るような、場面を与えてくれたというふうに考えたほうがいい。
 そう考え至るには、基本に教えを学んで、それを理解してっていう土台がないと駄目なんだね。あともちろん放棄もそうですね。いろんなものを放棄して瞑想に没入すると。こういう土台がないと、さっき言った、正しい道を選ぼうとするときにね、いろんな物に対する執着とか現世的な考えた方が邪魔をして、間違えてしまう。
 だから観念的なんだけども、概念的な教えをしっかり学んで、それに基づいて考え、実践するっていうヨーガと、それから、いろんな物を実際に捨てていく。あるいはこの世から心を離し、深い瞑想に入ろうとするヨーガ。この二つも単品では駄目なんだけど、この二つが交互に影響を及ぼし合い、最終的なこのカルマ・ヨーガ、あるいはバクティ・ヨーガというものを完成させると思うね。
 だから現代ではそういういろんな方向から自分というものを固めていかないと、非常に難しい。
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