ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

死と無常

2007-12-30 12:34:47 | 松川先生のお話
 人はやがて誰もが死に至るという現実。それを知らない人はいないでしょう。しかし、今日にも死ぬかもしれないという現実を見据えて生きている人はほとんどいません。そうして「今日は死なないだろう」という根拠のない確信を、死の直前まで持ち続けるのです。
 この錯覚を対治しなければ、この人生がまるで無常ではなく確固たる常なるものであるかのように認識されて、今生の小さな楽と苦のみに心がとらわれ、来世のことや、輪廻からの解脱や全智を得ることなどの大きな問題について吟味することができなくなってしまい、真理の実践ができなくなってしまいます。
 たとえ縁によって、真理を学び、考え、瞑想することがあったとしても、そのような心の状態では、今生のみのための修行になってしまい、そのようにしてなした修行は力が弱くなってしまいます。
 また、もし来世のために修行しようと思ったとしても、いつ死ぬかわからないという生の無常性への認識が弱ければ、「少しずつ修行して、そのうち成就しよう」という懈怠に陥り、愚鈍さや無駄話や食べすぎなどの散乱により時を過ごすようになるので、修行への精進や集中の力が弱くなってしまうでしょう。

 「自分は必ず死ぬ。そして死はいつ訪れるかわからない。今日にも訪れるかもしれない」ということに対する認識が正しく生じたならば、最初の段階では、たとえば愛する人や財物などとも必ず分かれなければならないことなどを認識し、それらへの強すぎる渇愛をやめようとするでしょう。
 さらに認識が進むなら、「世俗の八つの法」と呼ばれるものすべてから離れたいという思いが生じるでしょう。

 世俗の八つの法とは、

①何かを得ること
②何かを失うこと
③快楽
④苦しみ
⑤賞賛されること
⑥非難されること
⑦耳に心地よい言葉を聴くこと 
⑧いやな言葉を聴くこと

この八つです。

 これらの世俗の法すべてから離れたいと思い、功徳と修行を積んで真髄の幸福を得たいと思い、そして他の人々もそこへ導きたいと強く思うようになるでしょう。

 よって、死と無常という現実をしっかりと認識することは、非常に重要なことだといわれるのです。経典には、死と無常の正しい認識は、「三界のあらゆる貪欲と無明と慢心をとり除く」「あらゆる煩悩と悪行を一気に破壊するハンマーである」「あらゆる善業を一気に達成する門である」などの言葉によって、大きく賞賛されています。

 では具体的には、どのようにすると良いのでしょうか? 仏教では、以下の三つについてしっかりと思惟すべきだといわれています。
①自分は必ず死ぬ
②自分はいつ死ぬかわからない
③死に対して現世的価値のすべては無益である

 ①番目について補足すると、私たちが結果的にある程度長生きできたとしても、修行ができる時間は非常に短いということも考えなければなりません。なぜなら、まず人生の最初のほう(若年期)では修行したいなどとあまり考えないだろうし、終わりのほう(老年期)は、頭がぼけたり、体が動かなくなったり、さまざまな悪条件により、修行ができなくなります。そしてバリバリ修行できる時期でも、睡眠や仕事によりほとんどの時間はもっていかれるし、その他の時間も、精神的悩みにふけったり、肉体的病に悩まされたり、対人関係で苦労したり、そのようなことに多くの時間を費やすので、一体いつ、修行する時間があるのか、ということになってしまいます。
 よってわずかな時間も無駄にせず、修行し、自らの悪業を滅し、功徳を増大させ、心を浄化し、悟りに近づくことに対して、懸命に努力する誓いをなすべきです。


 ②番目に関して。論理的に考えて、われわれに死の訪れは必定であり、しかもいつ死ぬか全くわからないとした場合、今この瞬間に、死ぬのか生きるのかの確率は、常にフィフティ・フィフティであるといえます。しかしなぜか私たちは生のことしか考えないわけですが、逆に「今日死ぬ」ということのほうをしっかりと考えたほうが利益があります。仏教では「一日一生」といいますが、今日で人生が終わるのだというくらいの気持ちで、瞬間瞬間を全力で生きるということです。


 ③番目はどういうことかというと、どんなに財産を持っていても、地位や名誉を得ていても、愛する家族や友人や恋人がいても、死の時にはすべてを置いていかなければならないし、またそれらは我々の良い転生や悟りには全く助けにはならないということです。
 では死を超えて持っていける(持っていかなければならない)ものとは何でしょうか? それはカルマと、心の習性です。
 つまり良いカルマ(善業)と悪いカルマ(悪業)、そして清浄な心と汚れた心。私たちはこれらにより次に生まれ変わる世界を決定され、そこでの幸不幸も決定されてしまいます。また、来世でも真理を修行するのか、悟りを得るチャンスはあるのかなども、すべてはカルマが決めます。
 それらを認識したなら、今生でお金や地位や人間関係を良くすることに努めるよりも、カルマと心の浄化に努めることこそ必要であると理解し、努力すべきなのです。


 今回は仏教の「死と無常」の教えに関してまとめてみました。

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第七章 サマーディ・ヨーガ

2007-12-29 11:50:14 | ハタヨーガ・スートラ


 サマーディ・ヨーガは至上のヨーガであって、大いなる幸運によって得られる。つまり、グルに対する信に基づいて、グルの慈悲と恩恵によってこそ到達できるのである。
 聖典を信頼し、神秘の智慧を信頼し、自己のグルを信頼し、真我を信頼し、日々に心の目覚めを経験するヨーギーは、直ちにこのすばらしい修行に成功する。
 心を肉体から分離して、それを至高の真我へ合一させる。これがサマーディなりと知るべし。
 われはブラフマンなり。それ以外の何ものにもあらず。ブラフマンはわれに他ならず。われは苦しみにかかわらず。われはサチダーナンダ(絶対の実在・智慧・歓喜)の形相を有す。常に解脱していて、しかも自己の存在を保持す。
 
 サマーディには6種類ある。
①ディヤーナ
②ラサ・アーナンダ
③ナーダ
④ラヤ
⑤バクティ・ヨーガ
⑥マノー・ムールッチャー

(1)[ディヤーナ・ヨーガ・サマーディ]
 シャーンバヴィー・ムドラーをなして、真我の直観を引き寄せるべし。いったんビンドゥ・ブラフマンを見たならば、精神をそこへ集中せよ。
 虚空の中央に真我をすえ、真我の中央に虚空をすえる。かくして、虚空よりなる真我を見たならば、もはや何ものにも妨げられない。行者はサットと歓喜に満たされるとき、サマーディに安住するであろう。

(2)[ラサ・アーナンダ・サマーディ]
 ケーチャリー・ムドラーをなし、舌を上に巻き上げ、通路をふさいだならば、一般的な行法を放棄しても、サマーディは成就するであろう。

(3)[ナーダ・ヨーガ・サマーディ]
 空気をゆっくりと吸い込んで、ブラーマリーのクンバカを行ずべし。それから、ゆっくりと息を吐き出すべし。そのときに、メス蜂のうなり声を出すべし。
 内面にあるメス蜂のうなり声を聞いて、そこへ精神を集中すべし。そのときサマーディが生じ、そこから「ソーハム(かのものはわれなり)」という歓喜が生ずる。

(4)[ラヤシッディ・ヨーガ・サマーディ]
 ヨーニ・ムドラーを修行するとき、行者自らがシャクティ女神の力に満たされ、強い愛情を抱いて至上我と遊び戯れるべし。
 行者は歓喜に満たされたとき、ブラフマンと一体となり、そこに「われはブラフマンなり」という不二一元のサマーディが現われてくるのである。

(5)[バクティ・ヨーガ・サマーディ]
 行者は心臓内に自分の守護神の姿を観想すべし。この守護神に対するバクティ・ヨーガによって、最高の喜びを第一として思念すべし。
 そしてその歓喜による涙と身の毛のよだちとによってダシャーの状態が生ずる。そこにサマーディが生じ、これとともにマノーマニーの境地が生ずるであろう。

(6)[ラージャ・ヨーガ・サマーディ]
 ムールッチャー・クンバカを行じて、心を真我に合一すべし。そうすれば、パラマートマン(至高の真我)との結合によってサマーディが得られる。

 以上で、解脱の原因であるサマーディを説き終わった。
 ラージャ・ヨーガ・サマーディは唯一の真我に関する修行であって、ウンマニーとかサハジャ・アヴァスターとかいうのもすべて、真我と心の合一を言い表している。

 水の中に至高者はまします。地の中にも、山頂にも、火山の炎の中にも、風の中にも、空間にも、至高者はまします。全世界は至高者に満ちている。

 地を行くもの、空を行くもの、すべての衆生、植物、さらには海、山をも含めて、世界全体をブラフマンなりと知るべし。彼は、世界全体を真我の内に見る。

 真我は、不二、永遠、最高である。身体の中にあって身体と関係のない真我の本質を知れば、人は愛著を離れ、過去の経験から来る性向を離れる。

 かような仕方によって、すべてのはからいを離れたサマーディが成就されるであろう。自己の身体、親族、財宝等すべてのものに対して所有欲を抱かなくなり、サマーディを獲得するであろう。

 昔、シヴァ大神は、ラヤ、アムリタなどの秘密の真理と、その方法とを説きたもうたが、われはその説法の概要を取り上げて説いた。これは解脱への因である。

 以上、汝に説いたサマーディは、得がたい、最高のものである。これを知るならば、この地上に再生することはない。
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カルマ・ヨーガの真髄

2007-12-25 22:28:19 | 解説・バガヴァッド・ギーター
バガヴァッド・ギーター 第三章 カルマ・ヨーガ




◎カルマ・ヨーガの真髄


【本文】
アルジュナが言いました。
『ジャナールダ(クリシュナ)様!果報を求める行為よりも智性を磨くほうが良いとおっしゃるのがあなたのお考えなら、
なぜ私に、このような恐ろしい戦いをせよ、とおっしゃるのですか?ケーシャヴァ様!
あなた様が矛盾するようなことをおっしゃるので、私の心は今とまどっております。
そうぞ私にとって最善の道をひとつだけ、はっきりとお示しください。』

至高者は言いました。
『無垢なる者よ!私はすでにこの世で真理を体得する二つの行法を説いた。ジュニャーナ・ヨーガは哲学的思索を好む者のために。カルマ・ヨーガは活動を好む者のために。
 行為を避け、何もせずにいたとしても、人はカルマから解放されるわけではない。
 また形だけ出家したからといって、サマーディの境地を達成できるわけでもない。
 どんな人であろうと、一瞬たりとも何もせずにじっとしていることはできない。
 なぜなら、人間は生来の性質(グナ)により、どうしても何かをせずにはおられなくなるからだ。
 また、一方では行動の諸器官を抑制しながら、他方では心を感覚の対象に向けている者は、またおろかな偽善者と呼ばれよう。
 それとは反対に、心の感覚を制御し、何事にも執着せず、行動の諸器官を動かす人は、おお、アルジュナよ! まことに秀でた人と言われよう。』


 はい、まずジュニャーナ・ヨーガっていうのは、簡単に言うと、「これでもない、これでもない、のヨーガ」といわれます。「これでもない、これでもない、のヨーガ」ってどういうことかっていうと、ヨーガの言葉で言うと真我ですが、真我とは何かと。この追求。ね。それにおいて、「これでもない、これでもない」なんだね。
 つまり私の肉体は私の真我ではない。あるいは感覚も真我ではない。心も真我ではない。あるいは目に見える様々な現象や物質も真我ではない、っていう感じで、我々のこの迷いの世界で経験する様々なものを否定していって、最終的に現れる、心の本質をみたいなものをつかむヨーガ、これがジュニャーナ・ヨーガですね。
 そうではなくて、もう一方のヨーガ、これはカルマ・ヨーガ。
 ジュニャーナ・ヨーガっていうのはこの世の現象そのもの、あるいはカルマ動きそのものも含めて否定しているわけですが、カルマ・ヨーガっていうのはそうではなくて、この世での活動を肯定し、その中で悟りを得ていかなきゃいけない。
 この二つの、一見矛盾するようなヨーガがあるわけだね。でもこれはどちらも矛盾するものではない。
 で、そのカルマ・ヨーガの真髄について、これからクリシュナが説いていくわけですね。

『行為をせずに、何もせずにいたとしても、人はカルマから解放されるわけではない。
 また、形だけ出家したからといって、サマーディの境地を達成できるわけでもない』
と。


◎堕落と改革の繰り返し

 インドの宗教界というのは、とてもおもしろいと思うのは、常に堕落と改革を繰り返しているんだね。
 例えばお釈迦様というのは、ある意味で当時のバラモン教といわれる、インドの宗教界における、大改革者だったわけですね。
 お釈迦様は決して、古い宗教全体を否定したわけではない。
 例えばお釈迦様の仏典で、「バラモン」という題名の仏典がいくつかあるんだね。で、これでお釈迦様がどう言っているかというと、「真のバラモンとは」ということを説いてるんです。バラモンていうのはつまり、仏教以前の、土着のヴェーダとかを信じる宗教家達の僧のことだけども――例えばお釈迦様の経典で、こういう経典があります。
 古の、つまり遥か昔の、偉大なバラモン達は、こうこうこういう素晴らしい生き方をして、悟りを開いていたと。しかし徐々に徐々にバラモン達が、王族とくっつき、王様の機嫌をとるために、いろんな儀式を行ったり、あるいは自分の財産を増やす為に、王様の懐に入ったりすることを始めるようになり、どんどん堕落していったと。よって、今のバラモンは真のバラモンではない。真のバラモンとはこうだ!――という教えを説くんです。
 だから決して、過去の宗教を全部駄目と言ってるんではなくて、古のバラモンていうのは本当は素晴らしかったんだけど、今のお前達はなんだ!――って言っているわけだね(笑)。そういう意味で否定してるんです。
 よってそこで、「私が教えを説こう」と言って、バーッと説いた、生きた教え。つまりその当時死んでたわけだね。その当時ヒンドゥー教っていうかバラモン教は死んでいた。死んでいたところに、お釈迦様が現れて、生きた教えをガーンッて説いた。それが、お釈迦様の仏教なわけだね。
 もちろんお釈迦様は自分の教えを仏教とは言っていない。お釈迦様は、「サッチャ」と言ってるね。「サッチャ」っていうのは「真理」ということです。つまり「私は真理を説こう」と。「サッチャを説こう」と言って、バーッと真理を説いた。
 で、お釈迦様はそういう形で現れて、多くの弟子を解脱させ、素晴らしい救世主だったわけですが、その数百年後、歴史的に言うと、アショーカ王っていう王様がいて、アショーカ王という人はインドを統一した最初の王様だった。で、全インドの王となって、最初は仏教の反対者だったんだけど途中から仏教に改宗して、全インドの王が仏教に改宗したから、インド中が仏教になったんだね。一時だけどね。で、仏教ってすごくみんなから尊敬されて、僧侶達もすごく楽になったって言うのかな。つまり仏教の僧っていうだけで、敬われるような人になっていった。
 しかしそれによって堕落が始まった。ここでいう堕落っていうのは、怠けたり、お金を求めたとかそういう昔のバラモンみたいな堕落ではなくて、僧院にこもって――つまり本質的な真理の探究よりも、言葉を追い求め、あるいは衆生への慈悲よりも、自分の悟りだけを求め、――っていう世界に入っていった。
 で、このように凝り固まって堕落し始めた人たちを、また内部否定し、立ち上がった人達が、後に大乗仏教と呼ばれる人なんだね。
 ただもちろん大乗仏教自体にも悪い部分もある。だからどっちがいい、悪いじゃないんだけど、ちょっとこう腐りかけた、僧院で凝り固まり始めたグループを、「いや、そんなんじゃだめなんだ」って人たちがバーッと現われた。


◎出家とは捨てること

 で、ヒンドゥー教っていうか、ヨーガの世界ね、ヒンドゥー教のヨーガと仏教も同じような感じなんです。
 例えば仏教が言葉ばかりを追い求めてた時代に、ヨーガは徹底的にヨーガの行法とか、あるいは実践的な教えをどんどん打ち出して、それによって民衆がそっちの方に流れていった。で、そこで仏教の人たちは目を覚まされて、「いや、おれ達はそんな文字ばかりを追いかけてる場合じゃない」と言って、また実践的な教えに目覚めて、どんどん仏教の聖者も出るようになったとか。
 こういう感じで、堕落とそこからの改革をインドでは繰り返してきた感じがあるね。
 で、ここで書いてあるのも、さっき言った、一部のね、仏教徒達が過去に陥った堕落と同じで、単純に社会から出離して、僧院にこもって、何もしないと。で、ただ出家という形をとると。あるいは現代では、西洋の人達もそうだけど、例えば西洋人というのは――欧米というのは、おそらく日本以上にチベット仏教とかヨーガが流行っています。もう全然比較にならないくらいブームがあると。で、そのチベット仏教とかあるいはヨーガの世界に憧れて、――私もいっぱい出会ったけどね、例えばリシケシとかに行くと、サードゥ風の衣をまとった、大きな体の欧米人が歩いてたりする。あと仏教もそうだけどね、青い目の僧侶とか、ぽちぽちといると。
 で、彼らはもちろん本当にそれで悟る人もいるだろうけども、そうではなくて、例えば、そのような出家の雰囲気に自分をおくことによって、それが一つのゴールになっちゃうんだね。つまり、東洋のそのようなエキゾチックな出家っていう状態に身を置くことによって、自分はもう悟りを得たような気持ちになってしまう。
 でも出家っていうのはもともと捨てる事だから。あらゆる自分の概念とか、もちろん物質も含めて、観念も含めて、すべて投げ出していかないといけない。でもそうじゃなくて、出家っていうのが一つのステータスみたいな感じになってしまってる。で、出家の生活に入り、そして社会と接せず、で、なんかこう、難しい顔して座ってれば悟るような感覚に陥る人がいる。
 もちろんね、それが今全部悪いって言ってるんじゃないよ。本質を間違ってなければそれで悟る人もいるわけだけど、そのような、例えば、イメージというか、その中に入ったからって悟るっていうもんではない。
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ゴーパーラ・マー

2007-12-17 17:07:26 | 聖者の生涯

 アーゴルマニは、幼くして結婚相手に先立たれてしまい、未亡人となりました。よって普通の夫婦生活を経験したこともなく、もちろん子供もいませんでした。
 彼女は貧乏でしたが信仰心が篤く、そして極端なほどに観念的で融通が利かない、厳格な性質を持っていました。宗教上の伝統的な決まりごとを、極端なぐらいに厳格に守っていたのです。
 アーゴルマニの永年の日課は、午前二時に起床して身を清め、三時ごろから八時か九時ごろまで、ジャパ(マントラ詠唱)などの修行を続けることから始まります。それから沐浴をして、寺院に詣でて食物供養などのおつとめをし、正午には一日一食の食事をしました。昼食後、少しばかり休むと再びジャパを再会し、夕方の礼拝に参列し、その後、また夜遅くまでジャパをしました。これが終わると少量の牛乳を飲んで、わずか数時間だけ眠りました。

 また、彼女はゴーパーラ(赤子の姿のクリシュナ)を自分のイシュタ(理想神。個々人が特別に礼拝する神)とし、常にゴーパーラに熱心な礼拝をささげていました。


 そんなアーゴルマニが初めてラーマクリシュナをお訪ねしたのは、1884年秋のことでした。アーゴルマニは初対面から、ラーマクリシュナの魅力に強烈にひきつけられましたが、なぜ自分がそんなにラーマクリシュナにひきつけられるのか、自分でもよくわかりませんでした。

 最初の訪問後、二、三日して、ジャパを行なっているうちに、アーゴルマニは再びラーマクリシュナに会いたくてたまらなくなりました。そこで彼女はわずか数パイサの干からびたサンデーシュ(菓子の一種)を携えると、急いでドッキネッショルのカーリー寺院へと向かいました。
 しかしアーゴルマニは、自分が持ってきた菓子をラーマクリシュナに差し出すのに躊躇しました。他の人々は豪華な供物を持ってきていたのに、自分が持ってきた菓子は干からびていてあまりにも粗末だったからです。
 しかしラーマクリシュナは、アーゴルマニが着いたのを見ると、彼女が持っていたその粗末なお菓子を、自分からほしがりました。ラーマクリシュナは大喜びでその菓子を召し上がると、言いました。

「どうして菓子に金をかけなければいけないのだ? 甘いココナッツボールを作っておいて、ここに来るときに一つ二つ持ってくるといい。そうでなければ、自分で作ったいつもの料理を少し持っておいで。かぼちゃの葉っぱを混ぜ込んだのや、ジャガイモ、なす、鳥の足、小さな団子のカレーでもいい。あなたの手料理が食べたいのだ。」

 このような感じで、ラーマクリシュナはアーゴルマニに、神や信仰の話は一切されず、あれこれと食べ物の話ばかりをしました。アーゴルマニは、心ひそかにこう思いました。

「おかしなサードゥのところに来てしまった! 食べ物のことしかおっしゃらない。私は貧しい未亡人。どこでそんなご馳走を作れましょう! たくさんだ! もう来るのはやめよう。」

 ところが、そんなことを考えながらアーゴルマニがドッキネッショルのカーリー寺院の門を出た瞬間、アーゴルマニは一歩も動けなくなってしまったのです。まるでラーマクリシュナが自分を引き止めているかのようでした。アーゴルマニはこの場を去るように一生懸命自分に言い聞かせて、やっとのことで家に帰りつくことができました。

 数日後、アーゴルマニは、再びラーマクリシュナを訪ねてやってきました。今度はごた混ぜのカレーを携えて、約五キロの距離を歩いてやってきたのでした。彼女の姿を見るなり、ラーマクリシュナはやはり食べ物をほしがり、そのカレーをおいしそうに召し上がりました。
「なんておいしいのだ! まるで甘露のようだ!」
 ラーマクリシュナが喜ばれる様子を見ると、アーゴルマニの頬に涙が流れました。彼女が貧しいとご存知のラーマクリシュナは、そのささやかな捧げ物をお褒めくださったのだ、と彼女は思いました。

 その後、二、三ヶ月間の間、アーゴルマニは足しげくラーマクリシュナのもとに通い続けました。特に気に入った料理ができると、必ずラーマクリシュナのもとへ運びました。ラーマクリシュナはことのほか喜ばれて、クレソンのスープ、カルミ草のカレーなどを、新たに作って持ってくるように頼まれたりしました。
 あれを持って来い、これを持って来い、とラーマクリシュナの要望を聞くうちに、アーゴルマニはときおり、うんざりしてしまい、彼女のイシュタに祈りました。
「おお、ゴーパーラ、これがあなたへの祈りのお応えなのでしょうか? 食べ物ばかりほしがる聖者のところへ連れてこられるだなんて。もうここへは来ませんよ。」
 
 しかし家に帰りついたとたん、アーゴルマニは、抗いがたい力に引かれて、いつまた師をお訪ねできるだろうか、という思いに駆られるのでした。


 1885年の春のある朝、いつものようにアーゴルマニは早朝三時からのジャパにとりかかりました。途中で呼吸法を行ない、修行の結果をゴーパーラに捧げようとしました。するとそのとき、彼女の左側に、ラーマクリシュナが優しく微笑んで座っているのに気づきました。ドッキネッショルでお会いするのと同様に、生き生きとした姿でした。
「これはどういうことでしょう? こんな時間に、いったいなぜここへいらしたのかしら?」
 アーゴルマニが勇気を出してラーマクリシュナの腕に触れると、ラーマクリシュナの姿は消えてしまいました。そしてそこに、彼女のイシュタであるゴーパーラ、10ヶ月くらいの大きな赤ちゃんの姿のクリシュナが、姿をあらわしたのです。その美しさは、言い表せないほどでした。
 ゴーパーラはアーゴルマニのほうに這ってきて、片手を上げると、
「お母さん、バターをちょうだい。」
と言いました。
 アーゴルマニは、この度肝を抜かれる体験に感極まり、そして当惑し、ありったけの大声で叫び声をあげました。そして泣きながら、彼女は言いました。
「坊や、私は貧しい未亡人です。何を食べさせてあげればいいのでしょうか? バターとクリームはどこから持ってきましょうか? わが子よ。」
 しょうがないのでアーゴルマニは、乾いたココナツボールを、ゴーパーラの手に乗せました。
 もう全くジャパはできませんでした。ゴーパーラは、アーゴルマニの数珠をもぎ取ったり、アーゴルマニの肩に乗ったり、部屋中を這い回ったりしました。

 夜が明けると、アーゴルマニはゴーパーラを腕に抱きかかえたまま、狂人のように走ってドッキネッショルへと向かいました。
 アーゴルマニがドッキネッショルに着いたとき、陶酔状態に入ったままの彼女の髪は乱れ、目は据わり、着物のすそを引きずっていました。周りのことなど、すっかり目に入らない様子でした。
 そんな姿のアーゴルマニを見て、周りの者はすっかりあっけにとられてしまいましたが、ラーマクリシュナは、彼女を見ると直ちにサマーディの法悦境に入ってしまいました。アーゴルマニがラーマクリシュナのそばに座ると、ラーマクリシュナは彼女のひざの上に、子供のようにお座りになりました。アーゴルマニの眼からは、滝のように涙が流れ落ちていました。
 アーゴルマニは、持ってきたバターやクリームや菓子を、自分の手でラーマクリシュナに食べさせました。周りの者は、仰天しました。普通、サマーディ状態に入ったラーマクリシュナが、女性に触れるということはなかったからです。
 しばらくすると、ラーマクリシュナは通常意識を取り戻しました。しかしアーゴルマニはまだ抑えられぬ歓喜状態にあり、有頂天になって、
「ブラフマーは踊る、ヴィシュヌは踊る」
と繰り返しながら、部屋の中で踊りだしました。
 
 ラーマクリシュナは他の信者たちに、微笑んでこう言いました。
「ごらん、すっかり至福に飲み込まれている。彼女の心は今、ゴーパーラの住処にあるのだ。」

 その日、アーゴルマニは、激しい霊的高揚に捉えられ、涙を流しながら、ラーマクリシュナにいろいろなことを話しました。
『ゴーパーラが私の腕の中にいます。・・・そのゴーパーラが今、あなたの中に入ります・・・ほら、また出てきました。・・・おいで、坊や、哀れなお母さんのところへおいで。』
 このように話しながら、アーゴルマニは、いたずらなゴーパーラがラーマクリシュナの体の中に消えて、また出てくるヴィジョンを見ていたのでした。

 ラーマクリシュナは、アーゴルマニの驚くべき恍惚状態を見て非常に喜び、その日からラーマクリシュナは、アーゴルマニのことを『ゴーパーラ・マー』と呼ぶようになりました。

 その日、ラーマクリシュナはゴーパーラ・マーをしばらくドッキネッショルにおとどめになり、夕方になって落ち着いたころ、彼女は家に帰っていきました。ゴーパーラを腕に抱きかかえたまま。
 部屋に帰った彼女は、いつものように数珠を繰ってジャパを始めました。しかしそれは無理なことでした。全生涯をかけて行じてきたジャパと瞑想の対象だったゴーパーラが、今や目の前で遊びまわりながら、あれこれとしつこくねだって困らせているのです。
 ゴーパーラの子供らしい戯れといたずらに圧倒されて、ゴーパーラ・マーは、厳しい規則や伝統的儀式などを守ることを、すっかり忘れてしまったのでした。

 翌朝、ゴーパーラ・マーは、ゴーパーラに料理を食べさせるために、庭で薪拾いを始めました。するとゴーパーラも、彼女のすぐそばで薪を拾って、台所に積み上げていたのでした。こうして母と子は一緒に薪を拾いました。ゴーパーラ・マーが料理を始めると、いたずら好きなゴーパーラがそばに座ったり、背中に乗ったりしながら、彼女の様子を見ていました。そして片言言葉で、あれこれとおねだりをしました。彼女はあるときはやさしい言葉で、またあるときはしかったりしながら、ゴーパーラをなだめようとしました。

 この数日後、ドッキネッショルを訪ねたゴーパーラ・マーは、数珠を繰ってマントラを唱え始めました。するとそこへラーマクリシュナがやってきて、言いました。
「いまさらどうしてそんなにジャパをするのかね? お前は十分なヴィジョンをいただいているではないか。」
ゴーパーラ・マー「もうジャパはしないでよろしいのですか? 私は一切を成就したのでしょうか?」
ラーマクリシュナ「そうだ、一切を成就したのだ。」
ゴーパーラ・マー「一切をでございますか?」
ラーマクリシュナ「そうだ、一切をだ。」
ゴーパーラ・マー「なんとおっしゃいます。私が一切を成就した、とおっしゃるのですか。」
ラーマクリシュナ「その通りだ。もうジャパや苦行をすることはないのだよ。だが、この体が達者であるように、そうした修行を続けてもよろしい。」
 こう言うと、ラーマクリシュナはご自身の体を指差しました。
 ゴーパーラ・マーは言いました。
「承知いたしました。これから先、私はすべてをあなた、あなた様のためだけに致します。」

 この日、ゴーパーラ・マーは、ずっと愛用していた数珠をガンジス河に捨てました。それからずっと後になって、彼女は別の数珠を手に入れました。そのとき彼女は、こう思いました。
「何かをしなくては。何もしないで24時間どうやって過ごせましょうか。私はただ師のためだけに、ジャパをするのです。」

 ゴーパーラ・マーの自分のためのジャパや苦行は終わりを告げましたが、彼女はよりいっそう頻繁にラーマクリシュナのもとを訪ねるようになりました。
 

 驚くべきことに、2ヶ月間もの間、この驚くべきゴーパーラのヴィジョンは、ゴーパーラ・マーから去ることはありませんでした。
 同様のヴィジョンを、わずか一瞬でも経験するだけでも、それはすばらしいことです。しかしそれを数時間でも持続させるのは、普通は非常に困難なことなのです。しかしゴーパーラ・マーは、二ヶ月間もの間、途切れることなく、ずっと赤子のゴーパーラと一緒にい続けたのでした。
 
 二ヵ月後、彼女のヴィジョンと経験は、徐々に途切れるようになってきました。しかしその後も、静かにゴーパーラを瞑想すると、以前のようにまたすぐにゴーパーラが現われたのでした。

 ゴーパーラ・マーは、師のラーマクリシュナが、自らのイシュタのゴーパーラと全く変わらない、という確信を得ました。その直後から、彼女のゴーパーラのヴィジョンは、途切れるようになったのです。それに代わって彼女はラーマクリシュナのヴィジョンを多く見るようになり、必要なときにはラーマクリシュナがヴィジョンで彼女に指示を出されるようになったのです。
 2ヶ月間もずっと一緒にいたゴーパーラのヴィジョンが消えたころ、最初、彼女は不安にさいなまれ、ラーマクリシュナに相談しました。ラーマクリシュナは彼女にこう言いました。
「このカーリー・ユガの時代に、ああいうヴィジョンを見続けると、肉体は長くはもたなくなってしまうのだよ。」

 それでも以前のようにゴーパーラといつも会うことができなくなったゴーパーラ・マーは、ゴーパーラへの強い愛に捉えられて、体内に風のエネルギーが強まり、胸にひどい痛みを覚えるようになりました。これに対してラーマクリシュナは、こうアドヴァイスしました。
「これは、あなたのゴーパーラ・クリシュナへの強い渇仰心のせいだ。霊的なエネルギーが強すぎるのだよ。だがそれがなくなったら、あなたはどうやって生きていくのだね? それがあるのは良いことなのだよ。あまりにも痛むときには、どうぞ何か食べておくれ。」
 こう言って、ラーマクリシュナは様々なおいしい食べ物を彼女に食べさせたのでした。

 
 ある日のこと、ゴーパーラ・マーと、ナレーンドラ(後のヴィヴェーカーナンダ)の二人がドッキネッショルに来たことがありました。
 当時のナレーンドラは、「神は形のないものである」という考えに深く傾倒し、神像を礼拝することなどにはひどい嫌悪感を抱いていました。そして博学で知的で、理性的でした。
 一方のゴーパーラ・マーは、貧しく素朴で、学問もなく、ただ純粋にゴーパーラだけを追い求める信者でした。
 
 ラーマクリシュナは面白がって、あえてこの正反対な二人の弟子を同席させたのでした。そしてラーマクリシュナはゴーパーラ・マーに、彼女が経験したゴーパーラのヴィジョンについて、ナレーンドラに話すようにおっしゃいました。

 ラーマクリシュナに促されると、ゴーパーラ・マーは涙に声を詰まらせながら、初めてゴーパーラに会ったときのことを話し始めました。それから二ヶ月に渡るゴーパーラとの神遊びの詳細を、ナレーンドラに語って聞かせたのでした。ゴーパーラを抱きかかえて、狂人のようにドッキネッショルまで駆けていったときの様子。ゴーパーラがラーマクリシュナの体に出たり入ったりすること。ゴーパーラが薪割りを手伝ってくれたり、食べ物をねだっていたずらをしたこと。こうした出来事を話しているうちに、彼女は信仰に満たされ、再び恍惚状態になってゴーパーラのヴィジョンを見始めました。
 ナレーンドラは、外見は厳しく冷たい合理主義者でしたが、実はその内面は、愛と信仰にあふれていました。ゴーパーラ・マーの話を聞き、そしてその恍惚状態を実際に眼にすると、涙を抑え切れませんでした。
 ゴーパーラ・マーは、ナレーンドラに言いました。
「あなたは学問があって、賢いお方です。私は貧しい無知な未亡人です。何も理解していません。こうしたヴィジョンは本物なのでしょうか? どうぞ教えてください。」
 ナレーンドラは答えました。
「ええ、お母さんがご覧になったことはすべて本当ですよ。」


 1886年、師であるラーマクリシュナが亡くなった時のゴーパーラ・マーの悲しみは、たとえようもないほどでした。その後、長い間、ゴーパーラ・マーは、家からほとんど出ることなく隠遁生活を送りました。
 しばらくして、再び彼女のヴィジョンの中にラーマクリシュナが頻繁に現われ始めると、彼女の悲しみは終わりを告げました。
 その後のあるとき、マヘーシュでの山車祭に参加したとき、ゴーパーラ・マーは、万物万人の中にゴーパーラのヴィジョンを見、その喜びに圧倒されました。最愛のゴーパーラが、山車の上や神像に宿られ、また山車を引き回す人々や、膨大な群集のそれぞれの中に宿られているのを見たのでした。最愛のゴーパーラは、この世のあらゆるところに、様々な姿をとりながら示現されていたのでした。彼女はこの宇宙的ヴィジョンにわれを忘れて、法悦のあまり、外界意識を失い、踊り、笑い、大騒ぎをしたのでした。

 晩年、ゴーパーラ・マーは、自分を出家者とみなして、黄土色の布をまといました。そして1904年、彼女は重い病にかかり、寝たきりになってしまいました。
 西洋に渡って成功したヴィヴェーカーナンダ(ナレーンドラ)の西洋人の弟子であるシスター・ニヴェーディターは、ゴーパーラ・マーの驚嘆すべき生涯について聞いて深く感銘し、ゴーパーラ・マーを自分のインドの自宅に引き取りたいと強く願い出ました。こうして二ヴェーディターは二年間に渡って、ゴーパーラ・マーとともに暮らし、その面倒をみました。そして1906年の7月、ゴーパーラ・マーはその驚くべき一生を終えたのでした。

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菩提心

2007-12-10 15:17:58 | 松川先生のお話




 大乗の菩薩の修行の道に入る門とは何でしょうか。それは、「すべての魂を救うために、私は最上の正しい悟りを得よう」という志を持つことです。そしてこのような心を「菩提心」といっています。

 ある経典には、「輪廻の牢獄に縛られた哀れな魂も、その心に菩提心が生じることにより菩薩と呼ばれる」と説かれています。逆に言えば、菩提心がなければ、大乗の菩薩とはいえないのです。よって、大乗の菩薩の道に入りたいと願う者は、菩提心を生じさせ、増大させる努力をすることが必要です。
 
 そのためには、まずは菩提心を持つことのメリットを修習することが必要です。

 菩提心を持つことのメリットには、二つあります。それは当面のメリットと、究極のメリットです。

 当面のメリットとは、菩提心を持つ者は、死後に悪趣に落ちることなく、善趣に生まれるということです。なぜならば、菩提心を持って生きることによって、過去の悪業は清められ、未来に悪業を積むこともなくなるからです。また、過去に積んだ善業は増大し、未来には無限の善業を積み続けるようになるからです。

 究極のメリットとは、解脱と全智を得るということです。菩提心を持ち育てることにより、解脱と全智も容易に得ることができるとされています。

 このような当面と究極のメリットを理解し、本当に菩提心を生じさせようと思ったら、まずはその土台となる慈悲の心を生じさせることが必要です。
 しかしたとえば、この世の苦しみを真に理解していない者には、慈悲は決して生じません。なぜなら、この輪廻の世界が持つ本質的な苦しみを理解し、何とかしてそれから逃れたいと思う者が、他の衆生に対しても、同様にそこから救われてほしい、と思う心こそが慈悲のスタートだからです。
 よってまずは基本的な教えを学び、悪趣の苦しみや、また一時的な幸福の裏側にも常に苦しみが潜んでおり、解脱しない限り絶対的な安らぎはないことなどを学び、理解します。それを自分について認識した後、他者にも当てはめることによって本当の慈悲が生じる土台ができ、それにより菩提心が生じるのです。よって、基本的な仏教やヨーガなどの法を学び、この輪廻の世界のデメリットと、そこから解脱すべきだということをしっかりと修習することこそ、真の菩提心を生じさせる土台なのです。
 また、同じく基本的教えであるカルマの法則の理解や、三宝帰依などについて思惟することにより、その人は自然に、徳を積み、悪業を浄化する方向へと向かうので、これもまた真の菩提心を生じる土台となるでしょう。

 そのように基本的教えを修習してから、自然に沸き起こる菩提心を何度も心に生じさせます。その後に、その心を堅固にするために、より深く大乗の教えを学びます。そして悪業や煩悩によって菩提心が汚されないように努め、もし汚されたとしてもすぐに浄化するように努めます。そしてさらに六つのパーラミターの教えを学び、また寂止と洞察の瞑想も学びます。

 そのようにして、基本的教えおよび大乗の修行によって心を浄化したなら、次は密教の道に入るべきです。なぜならその道こそ、速やかに功徳と智慧を完成させることができるからです。

 このように、まず輪廻の苦しみやカルマの法則などの基本的な教えを理解していないと、大乗の菩薩の道には入れません。そして大乗の菩薩の道を理解し実践していないと、密教の道には本来入れないのです。
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有暇具足

2007-12-10 15:13:29 | 松川先生のお話



 仏教において、人が真理の修行を行なうことができない八つの条件として、「八難」と呼ばれるものがあります。その八つとは、

①地獄に生まれること--地獄の住人はあまりにも苦しく、修行しようなどという気になれない。
②動物に生まれること--動物はあまりにも無智で、修行しようなどと考えられない。
③餓鬼に生まれること--餓鬼は常にむさぼりの思いでいっぱいで、修行しようなという気になれない。
④天界に生まれること--天界の住人は一時的な楽の状態で満足してしまい、修行しようなどという気になれない。

 よってまずは人間に生まれることが、修行をする最低条件となるのです。なぜなら人間界は、そこそこの苦しみとそこそこの幸せがあり、かつ人間はある程度の思索力を持つので、この人生の意味を考え、修行しようという結論に達することができるのです。
 しかし仮に人間に生まれたとしても、修行を妨害する条件があります。それが次の四つです。

⑤真理の修行者や実践者がいない辺境の地に生まれること。
⑥真理を理解できない愚か者として生まれること。
⑦前世と来世はないとか、カルマの法則はないとか、仏陀や真理の教えもないなどという、誤った見解に陥ること。
⑧仏陀の教えがない時代に生まれること。


 そして逆に、真理の修行を行なうために必要な条件として、「五つの自己の具足」と「五つの他者の具足」というものがあります。自己の具足とは自分が身に着けておかなければならない内的条件であり、他者の具足とは外的条件のことです。

・五つの自己の具足

①人間界に生まれる。
②真理の修行者や実践者がいる地に生まれる。
③愚か者でなく、ある程度の理解力を持つ。
④過去に五逆の罪などの大罪を犯したカルマ、あるいはそれを他に犯させたカルマがない。
 五逆の罪とは、それをなしたなら最悪の無間地獄に落ちるとされる五つの罪です。それは以下の五つです。
 1.父親を殺す
 2.母親を殺す
 3.解脱者を殺す
 4.仏陀の体から血を流す
 5.真理の修行者の集団を分裂させる
⑤仏陀の教えを信じること。

・五つの他者の具足(外的条件)

①仏陀が出現したこと。
②仏陀や、それに次ぐ者たちが教えを説いたこと。
③その教えが、現代にまで残っていること。
④その教えと自分が出会えること。
⑤その教えを指導してくれる師に出会えること。


 自分が以上にあげたすべての幸運に恵まれていると知ったなら、永遠の幸福を得るために、懸命に真理を修行しなければならない、と仏教は説きます。
 ただ現世の幸福だけを望み、現世の苦しみを除くことだけに努力するなら、せっかく人間に生まれても、動物とあまり変わりありません。
 よって、
「このような良き条件を得たこの人生を、私は無駄にできようか。このような良い条件に恵まれながらそれを無駄にしたなら、自分で自分を欺いたことになるし、これ以上の無知蒙昧はない。
 私は苦しみの世界を今まで数え切れないほど輪廻してきた。そうしてやっとめぐってきたこの真理の修行の実践のチャンスを無意味に捨て、また苦しみの世界に戻るとしたら、私は想像もできないほどの愚か者だ」 
・・・などということを、たびたび修習すべきである、と言われています。

 もちろん真理の修行は、解脱・悟りなどの究極の至福だけではなく、現世の幸福に関しても、大きな利益があります。現世の幸福と究極の至福、この二つを得る因である真理の修行に対して昼夜に努力せずに、この恵まれた人生を無駄にするなら、それは宝の山にたどりついて手ぶらでもどってくるものだ、と言われているのです。



 ところで、原始仏典においてお釈迦様は、生命体が死んで次に生まれ変わる世界の確率について、非常に厳しいことをおっしゃっています。
 お釈迦様はあるとき、わずかな土を指先に乗せて、弟子たちにおっしゃいました。
「この私の指先の上の土と、この大地全体(の土)とでは、どちらが多いか?」
 弟子たちはもちろん、それは比べ物にならないほど、大地の土のほうが多いと答えました。
 するとお釈迦様は、
「地獄・動物・餓鬼・人間・天の魂が死んで、次に人間・天に生まれ変わる確率と、地獄・動物・餓鬼の三悪趣に生まれ変わる確率の比較も、それと同じようなものだ」
とおっしゃいました。
 これはつまり平たく言えば、われわれ人間も、天の神々も、死んで次に生まれ変わるのは、99%以上の確率で、地獄か動物か餓鬼という三つの苦しみの世界だ、と、非常に厳しいことをおっしゃっているわけです。
 現代の人々は、「死んだら天国に行く」あるいは「死んだら無になるだけだよ」などと言う人も多いです。何を信じるかはその人の自由ですが、少なくとも仏教の開祖であるお釈迦様は、このような厳しいことをおっしゃっているわけです。
 しかしそれは論理的に考えれば、仏教理論と整合しています。たとえば地獄の因である怒りや憎しみや暴力や殺生。動物の因である無智や、性欲や食欲といった本能的煩悩に流されること。餓鬼の因であるむさぼりや盗み。現代は、お釈迦様の時代以上に、これらの因を積み続ける人生を送る人がほとんどでしょうから、これらの因果関係が正しいとするならば、ほとんどの人間が悪趣に落ちるというのは正しいと思われます。
 また、一度地獄・動物・餓鬼のどこかに生まれてしまったら、前述のように、悪を避け善を行なったり、修行に励むことは難しいので、永い間、ひたすら悪趣を輪廻し続けると説かれています。



 さて、以上あげたもろもろのことを踏まえた上で、四つの法についてしっかりと思惟しなければなりません。その四つとは、

①自分も含めてすべての魂は、苦しみを厭い、幸福を望んでいる。そして本当の意味で苦しみを破壊し、幸福を得ることができるのは、真理の法の実践のみであること。

②今自分は上にあげたようなさまざまな内的・外的条件を備えているので、自分の努力しだいで、真理を実践して成就することが可能であるということ。

③しかもそのような条件に恵まれるのは稀なことであり、このチャンスを逃したらいつ次にそのような条件に恵まれるかわからないため、今生において真理の修行を成就すべきであること。

④今生もいつ終わるかわからない(いつ死ぬかわからない)のだから、わずかな時間も惜しみ、今この瞬間に修行を成就する心意気で努力すべきであること。



 さて、このような教えは、現代では少し厳しく感じられるかもしれません。日本には仏教のこういう厳しい面はあまり伝わらなかったようですね。
 しかし2500年前のお釈迦様の時代も、現代も、これらの原則が変わっているわけではありません。これらはお釈迦様がおっしゃったことをベースとしているので、信じる信じないは自由ですが、少なくとももし仏教の実践を望む方や、お釈迦様の言葉を信じるという方がいらしたら、上記のような考えおよび実践は真剣に行なう必要があると思います。


 今日は、仏教の「有暇具足」という教えについて説明させていただきました。

 ちなみに、ヨーガ的技法を取り入れた密教を中心においているチベット仏教でも、本格的なヨーガ行や瞑想修行に入る前に、この「有暇具足」の教えを徹底的に学ばせ、瞑想させるシステムになっています。
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アーナンダマイー・マー(4)

2007-12-10 15:10:31 | 聖者の生涯

 毎晩行なわれるマーのサーダナの光景は、それをいつもそばで見ていたボーラーナートの心を、強い畏敬の念で満たしました。
 マーはよく、至福のサマーディの状態に入ったまま、何時間も神の歌を歌い続けました。
 またマーは、何時間もハリ(ヴィシュヌ神の別名)の名を唱え続けたりしましたが、これはボーラーナートを不快にさせました。ボーラーナートはヴィシュヌ神の信奉者(ヴァイシュナヴァ)ではなく、シヴァ神やその配偶者であるカーリーやドゥルガーを礼拝する、シャークタ派の信者だったからです。
 そこでボーラーナートが、シヴァやカーリーの名を唱えるようにマーに頼むと、マーはまったくこだわりなく、シヴァやカーリーの名を唱えるのでした。これはマーが宗派主義に陥らず、シヴァもヴィシュヌも、すべての神の名は唯一の絶対者をあらわしているのだということを悟っていたがゆえでした。

 初めのころ、マーは、夜にのみサーダナを行なっていたので、それを見ることができたのはボーラーナートだけでした。しかしその後、マーは昼間に他の人の前でも、サマーディに入ったり、マントラを唱えたりするようになりました。

 子供のように自由に振舞いながらサーダナを行なうマーの姿を見て、村人たちは奇異に思いました。
 ラーマクリシュナも、神に狂う修行段階の時期に、人々に狂人扱いされたように、マーの神的意識状態も、普通の人々には理解されませんでした。
 そして『彼女は悪霊に取り付かれたのだ』と結論付ける人も出てきました。

 以前は無条件で誰にでも愛されたマーでしたが、奇行をなし、悪霊にとりつかれたとみなされるようになって、その人気を失っていきました。そしてボーラーナートも、困った立場に立たされてしまいました。友人や村人たちが、マーのおかしな振る舞いをやめさせるようにボーラーナートにプレッシャーをかけていたのです。そして半ば強制的に、ボーラーナートは、マーを通常の意識に戻すための、悪魔祓いの祈祷師を呼ばされることになってしまいました。
 しかしある祈祷師が呼ばれ、彼がマーに手を触れたとき、祈祷師は体中が強烈な痛みに襲われ、地面にのた打ち回って苦しみ始めました。ボーラーナートがマーに懇願してやっと、祈祷師の痛みは取り除かれ、祈祷師はマーの前にひれ伏して、去っていきました。
 最終的にボーラーナータは、著名な医師であったドクター・マヘーンドラ・C・ナンディに相談することにしました。そしてドクター・マヘーンドラがマーを観察し、さまざまなチェックをした結果、マーが精神病ではなく、神の至福に酔った聖なる狂気の状態であるという結論を出し、ボーラーナートを安心させたのでした。

 この時代のインドは、今と比べて非常に神聖な宗教的な国でしたが、そのような国でさえ、やはり世俗的な人々の観念で成り立っているのがこの世界なのです。だからラーマクリシュナやアーナンダマイー・マーのような、その心のすべてが神に向かっているような人が現われると、世俗を常識とする人々から見ると、それはまさに「狂気」と映ってしまうのでしょう。

 ラーマクリシュナとアーナンダマイー・マーの共通点は他にもあります。それは二人とも、通常だったら長くかかる一つ一つの成就のプロセスを、ものすごいスピードで通過していったことです。

 ただし、ラーマクリシュナは、宗派にとらわれず、ヒンドゥー教の中のさまざまな修行や、ヒンドゥー教以外の修行までも行なって成就したことで知られていますが、マーに関しては、ヒンドゥー教内のさまざまな派の修行はこだわりなく行ないましたが、ヒンドゥー教外の修行を行なったという記録は特に残っていません。



 ある八月の満月の夜、ジューラン・プールニマーという祭儀の行なわれているときのことでした。マーはボーラーナートに夕食を用意した後、夜の修行を始めました。
 するとマーの中に、『今、自らグルの役割と弟子の役割を同時に演じなければいけない』というインスピレーションが生じました。
 そして秘儀のマントラが、マーの口からひとりでに流れ出しました。つまりマーは、自分で自分にイニシエーションを行なったわけです。マーは、自分の中でグルと弟子とマントラが一つになっているという実感のもとに、そのマントラを唱え続けました。
 この経験により、マーは、イニシエーションの本当の意味を理解しました。
「イニシエーションの本質とは、道を求めてさまよう修行者に対して、神自身がグルの役割を演じて現われ、彼の秘密を弟子に明かすこと」なのだと。

 しかし普通は、神は他の人間であるグルの姿をとって、弟子にイニシエーションを与えます。マーのような形で、自分で自分にイニシエーションを行なった他の聖者の例は、まったく知られていません。これもまた、アーナンダマイー・マーという聖者だけが持つ、他の聖者と違った特徴的な面の一つでしょう。




 自らがグルとなり自らにイニシエーションを与えるというセルフ・イニシエーションの経験をした後の数ヶ月間、マーの修行は、より急速に進んでいきました。
 マーは、ヒンドゥー教の教えや神話に出てくるような、さまざまな神々を実際に見、彼らに礼拝しました。
 といっても、普通のやり方で礼拝したわけではありません。マーの修行のすべての根底をなすものは、すべての一元化でした。マーの中で、礼拝者と、礼拝と、礼拝の対象の三者は一つに溶け、合一しました。すべての二元対立は消えうせました。

 この時期の数ヶ月の間、マーは、自分の肉体のことをほとんど意識していませんでした。ほとんど眠ることなく、また食物も、たまにわずかに口にする程度でした。
 当然、マーの境地を理解できない親類たちは、そんなマーのことを心配したり、怒ったりする者もいました。

 1922年12月の初めごろ、マーは初めて、ボーラーナートにイニシエーションを与えました。マーは、ヒンドゥー教の聖典などを読んだこともなかったにもかかわらず、聖典に説かれているとおりの方法で、ボーラーナートにイニシエーションを与えたのでした。
 そしてこの後、三年間、マーは完全な沈黙の行に入りました。彼女は、心から苦しんでいる人を慰めるためか、あるいはある重要なメッセージを誰かに伝えるためにごく数回言葉を発しただけで、後は完全に無言の日々をすごしたのでした。

 この時期、ボーラーナートは職を失ったため、二人は1924年4月に、東ベンガルの主要都市であるダッカに移住することになりました。それまで住んでいた小さな村であるバジートプルよりも、ダッカの方が、永続的な仕事にありつけると思ったからです。そして以前の雇い主でもあった、ナワブという男の下での仕事を確保しました。ナワブの所有する広大な土地の中の、ある庭園の管理人になったのです。そこの小さな家で、マーの「サーダナの遊び」は続けられました。
 そして偶然、同時期にダッカに移り住んだバジートプルの数人の知人たちによって、マーの不思議で崇高な状態の話が、たちまち広まりました。そしてマーの最初の敬虔な信者となった、「シャハ・バグ・ガーデンの母」をはじめ、ダッカの郵便局長であったプラーン・ゴーパール・ムケールジとその家族、地主のニシカンタ・ミトラとその家族、ダッカ大学の教授であったナニ・ゴーパール・バネールジ、ヴァキル研究所の講師であったバウル・チャンドラ・バサクなどが、その噂にひきつけられ、マーのもとにやってきて、その信者となりました。
 ほとんど文字も読めず、まともな教育も受けていないマーに、彼らのような人たちがひきつけられ信者となったのは、驚くべきことです。
 マーは、本当にまともに文字を書くことも読むこともできないように見えました。後年、マーはよく、サインを求められたときに、ペンでちょんと一つの点だけを書きました。そしてこう言うのでした。「それにはすべてが含まれています。」

 ラーマクリシュナも、同じくほとんど無学の人であったのに、多くの知識人たちが、彼の信者や弟子となりました。この点について、プラタプ・チャンドラ・マズンダルという識者は、こう言っています。
「彼(ラーマクリシュナ)の宗教は、至福そのものです。信者たちが彼にひきつけられるのは、信者たちの、理屈を超えた超越的な認識力によるものなのです。」

 マーの信者となった有識者たちも、同じようにマーの面前において理屈を超えた至福を味わい、彼女にひきつけられているようでした。
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<八段階の死のプロセス>

2007-12-08 12:17:05 | 松川先生のお話



◎第一段階

 ☆崩壊する要素・・・色蘊(肉体)
          ・地元素
          ・眼根(視覚)
          ・色境(視覚の対象)
          ・基本的な鏡のような智慧

 ☆色蘊が崩壊するときの外的な印・・・手足などが前より少し細くなり、身体が衰弱し、力が無くなってくる。
 ☆地元素が崩壊するときの外的な印・・・肉体が乾燥し、身体の部分部分が緩んでくる。身体が地面に沈んでいっているような感じがする。
 ☆眼根が崩壊するときの外的な印・・・まぶたを動かせなくなる。
 ☆色境が崩壊するときの外的な印・・・身体のつやがなくなる。身体の力が無くなる。
 ☆基本的な鏡のような智慧が崩壊するときの外的な印・・・眼が見えなくなる。

 ☆第一段階の崩壊の内的な印・・・『蜃気楼のような』と呼ばれる、青っぽい現われが生じる。砂漠などで現われる水の幻のようなもの。


◎第二段階

 ☆崩壊する要素・・・受蘊(感覚)
          ・水元素
          ・耳根(聴覚)
          ・声境(音)
          ・基本的な平等の智慧

 ☆受蘊が崩壊するときの外的な印・・・さまざまな感覚が消えていく。
 ☆水元素が崩壊するときの外的な印・・・口、喉、鼻、舌等が干からびてくる。
 ☆耳根が崩壊するときの外的な印・・・音が聞こえなくなる。
 ☆声境が崩壊するときの外的な印・・・耳の中の空気の音が聞こえなくなる。
 ☆基本的な平等の智慧が崩壊するときの外的な印・・・楽・苦・不苦不楽の感覚がわからなくなる。

 ☆第二段階の崩壊の内的な印・・・『煙のような』光景が生じる。煙がうねって充満していくような光景。


◎第三段階

 ☆崩壊する要素・・・想蘊
          ・火元素
          ・鼻根(嗅覚)
          ・香境(におい)
          ・基本的な分析の智慧

 ☆想蘊が崩壊するときの外的な印・・・親しい人たちのことがよくわからなくなる。
 ☆火元素が崩壊するときの外的な印・・・体温が下がっていき、消化力が衰弱する。
 ☆鼻根が崩壊するときの外的な印・・・息を吸うのが弱く、吐くのが強くなり、呼吸が激しくなる。
 ☆香境が崩壊するときの外的な印・・・においをかぐことができなくなる。
 ☆基本的な分析の智慧が崩壊するときの外的な印・・・対象の違いや、親しい人の名前なども思い出せなくなる。

 ☆第三段階の崩壊の内的な印・・・『蛍のような』光景が生じる。火の粉のような光景。


◎第四段階

 ☆崩壊する要素・・・行蘊
          ・風元素
          ・舌根(味覚)
          ・身根(触覚)
          ・味境(味)
          ・触境(触覚の対象)
          ・基本的な活動を達成する智慧

 ☆行蘊が崩壊するときの外的な印・・・動き回ったりすることができなくなる。
 ☆風元素が崩壊するときの外的な印・・・十のプラーナが、本来の場所から胸に集まり、呼吸ができなくなる。
 ☆舌根が崩壊するときの外的な印・・・下が短く、青くなる。
 ☆身根が崩壊するときの外的な印・・・触覚が感じられなくなる。
 ☆味境が崩壊するときの外的な印・・・味が感じられなくなる。
 ☆触境が崩壊するときの外的な印・・・触覚が感じられなくなる。
 ☆基本的な活動を達成する智慧が崩壊するときの外的な印・・・活動の目的も、活動についても、思い起こせなくなる。

 ☆第四段階の崩壊の内的な印・・・『燃えるバターランプのような』と呼ばれる現われが生じる。


◎第五段階

 四段階のプロセスの後、識蘊と関係する五つの現象が段階的に現われる。それは、
 ①80自性の分別の心
 ②真っ白な現われた心
 ③真っ赤な輝く心
 ④真っ黒な近づいた心
 ⑤死のクリアーライト

 これらが順番に心に現われてくる。
 これらは、粗い意識が順に消滅し、微細な意識になっていく過程である。


 ☆80自性の分別の心

 ◇真っ白な現われた心と関係する33の心
 ・望まない対象を嫌う大中小の三つの心の働き
 ・好きなものと離れることを悲しむ大中小の三つの心の働き
 ・落ち着いた冷静な心
 ・喜び
 ・嫌いなものに恐怖を感じる大中小の三つの心の働き
 ・外的対象と内的対象を行ったり来たりする心の働き
 ・快い対象に執着する大中小の三つの心の働き
 ・欲界の対象に完全にとらわれた心
 ・善行に対する疑念
 ・飢えを満たしたいという心の働き
 ・渇きを満たしたいという心の働き
 ・楽でも苦でもない中位の大中小の三つの心の働き
 ・理解する主体の概念
 ・理解することの概念
 ・理解される対象の概念
 ・合理・不合理を吟味する心の働き
 ・罪を恥じる心の働き
 ・他者が苦から解放されることを望む慈悲の心の働き
 ・他者を完全に保護しようとする哀れみの心の働き
 ・愛する者に会いたいと願う心の働き
 ・何かに対して疑惑を持つ心の働き
 ・ものを集めたがる心の働き
 ・他者の繁栄を見て乱れた嫉妬心

 ◇真っ赤な輝く心と関係する40の心
 ・まだ手に入れていない対象に対する欲望
 ・手に入れた対象に対する愛着
 ・快適な対象を見ることによって生じる大中小の三つの心の働き
 ・欲した対象を達成したことによる嬉しさ
 ・繰り返し、何度もその良さを考える心の働き
 ・以前なかったものを見て驚く心の働き
 ・ものをなくしたときに感じる落胆の心の働き
 ・快い対象に対する満足
 ・抱擁したいと欲すること
 ・キスしたいと欲すること
 ・触れ合いたいと欲すること
 ・心変わりのない心
 ・善に向かう心
 ・自分が優れていると思うプライド
 ・活動を成功させようと思う心の働き
 ・他人の富を奪おうという心の働き
 ・他人を打ち負かそうという心の働き
 ・他人を打ち負かすことを努力しようとする心の働き
 ・傲慢さによって、悪いことをしようとする大中小の三つの心の働き
 ・意味も無く聖者に対して言いがかりをつけようとする心の働き
 ・好ましいものを見て、快楽にふけりたいと思う心の働き
 ・敵を恨む心の働き
 ・善行を努力したいと願うこと
 ・他が理解できるように、真実を話したいと願うこと
 ・真実ではないことを話したいと願うこと
 ・非常に安定した確信
 ・感情を傾ける対象を持ちたくないと思う心の働き
 ・布施したいと思う心の働き
 ・怠惰な者にやる気を出させたいと思う心の働き
 ・敵に勝ちたいと思う心の働き
 ・悪いことをあえて避けず、行なおうと思う心の働き
 ・捏造して欺こうとする心の働き
 ・鋭い良心から来る、きつさ
 ・誤ったものの見方を好んでする心の働き
 ・他者を軽蔑する心の働き
 ・不正直な心の働き

 ◇真っ黒な近づいた心に関係する七つの心
 ・衰えた注意力によって、忘れっぽい心
 ・対象を欲しがったりも嫌悪したりもしない心の働き
 ・蜃気楼を実体と見誤ってしまうような心の働き
 ・ものを言いたがらない心の働き
 ・何事においてもわずらわしく感じる心の働き
 ・怠惰な心の働き
 ・そうであるかないかと疑う心の働き

 比較的まだ粗雑な心であるこれら80自性の分別の心が溶け終わったとき、秋の夜、雲ひとつない中で、月光によってあまねく満たされた虚空のような、とても澄み切った清浄な白いヴィジョンが心に現われる。
 この段階における内的な心の意識は「現われた心」と呼ばれる。このとき四つの「空」の第一が起こる。それは「現われの空」と呼ばれる。
 これは、心臓から上の左右の気道の風が、頭頂から中央管に入ったために生じる。これによって頭頂の結が緩み、父から得た白いビンドゥが中央気道を下り、それが心臓のチャクラまで来ると、この真っ白い現われが生起する。


◎第六段階

 次に、心臓から下の左右の気道の風が、尾てい骨または性器から、中央管に入り、これによって性器とヘソのチャクラの結が緩み、母から得た赤いビンドゥが、中央気道を上がり、それが心臓のチャクラまで来ると、真っ赤な輝く心が生起する。
 それは、雲ひとつない秋の晴天を太陽の光があまねく満たしたような、「現われた心」よりずっと清浄で澄み切って明るいヴィジョンである。
 この「真っ赤な輝く心」は、別名「増加の心」あるいは「非常な空」と呼ばれる。


◎第七段階

 身体の上の風と下の風が中央気道から心臓のチャクラに集まることによって、心臓のチャクラの結が緩み、白いビンドゥと赤いビンドゥが、心臓のチャクラにある赤と白の「不滅のビンドゥ」に到達する。これによって「真っ黒な近づいた心」が生起する。
 それは、汚れのない秋の空に、濃い闇が浸透した夜の初めのような、黒い現われである。
 これが「近づいた心」と呼ばれるのは、クリアーライトに近いからである。
 これは別名、「大いなる空」と呼ばれる。
 「近づいた心」の状態はしばらくすると消失し、一切何も心に現われなくなる。卒倒したときにも似た暗黒の状態になる。


◎第八段階

 最後に、白いビンドゥと赤いビンドゥが、心臓で「不滅のビンドゥ」に溶解し、中央気道の全ての風が、非常に微細な風の中に崩壊する。これによって、今まで顕現していなかった、非常に微細な風と意識が顕現する。
 これによって、粗雑な二元の現われが微塵もない、明るく透明な空の現われが現われる。それは空性を直観的に理解したときのような、主体と客体が合一した状態である。これを「死のクリアーライト」と呼び、また「一切空」とも呼ぶ。
 これをもって「死」という。

 この光明を体験している間は、死後硬直はせず、肉体は腐ることがない。普通の人はこの状態に3日間くらいとどまる。
 死体が鼻血を流したり、精液を放出したりすると、この状態が終わったことを示す兆しである。
 しかし病気で体力が衰弱した人は、この兆しが現われないこともある。
 また、高い境地に達した修行者は、「死のクリアーライト」を仏陀の法身と融合させることによって、3日よりもずっと長い間、この状態にとどまり、それによって何日も肉体が腐らず、死後硬直もしないというケースもある。




<バルドから生へ>

 その後、眠っていた風が再び動き始め、逆のプロセスで、死のクリアーライトから、近づいた心の光、輝く心の光、現われの心の光が現われ、そして80自性の分別の心が生じる。それによって、さまざまなバルドの幻のような現われが生じる。
 そして「蜃気楼のような」に至るまで、さまざまなヴィジョンが逆のプロセスで生じ、「バルドの身体」が完成する。これは肉と骨でできた粗雑な身体ではなく、微細な霊的身体である。
 このバルドの身体は、超常的な力をいくらか有し、香りを食べて生き、他の「バルドの身体」を見ることもできる。
 
 ※無色界に生まれる者は、バルドの身体の経験はせず、死後即座に無色界に生まれ変わる。

 低い世界に生まれる者は、多くの恐ろしいヴィジョンを見、絶望的にそれらを避けようとしつつ、悪趣に引きずり込まれていく。
 人間界に生まれる者は、父と母のセックスのヴィジョンを見、そのどちらかに強い愛著を持ち、どちらかに強い嫉妬心と嫌悪を抱き、子宮に引きずり込まれる。
 天に生まれる者は、壮麗な天の豪邸や神々などのヴィジョンを見る。

 バルドの身体が死ぬときは、やはり同様に、さまざまなヴィジョンが現われ、現われの心の光、輝く心の光、近づいた心の光、クリアーライトを経験し、そしてまた逆に、近づいた心の光、輝く心の光、現われの心の光が生じ、80自性の分別の心が生じ、そして風元素、火元素・・・という形で、その世界に応じた身体を形成し、生まれ変わるのである。



<修行者の場合>

・最も修行の進んだ修行者は、死後、自在に報身や変化身を生じさせ、望むならば望む世界に生まれ変わることができる。

・生成と完成のヨーガを達成した修行者は、生きている間に経験していた空の光と、死後現われる光を混ぜ合わせ、仏陀の法身の境地を達成することができる。

・そこまではいけなくても、かなり修行が進んでいる修行者は、死後、バルドのヴィジョンを利用して、悟りを進めることができる。
 そのためには、生きているうちから、普段から、自分が経験するすべてのことはバルドであると認識することが必要である。

・これらもできない修行者の場合、普通の人と同じように、カルマによって、輪廻のどこかに引きずり込まれてしまう。
 それを避けるためには、まず、カルマによって魅力的に見えるヴィジョンが現われたとき、それらを全て、自分の師と同一であるイダムの曼荼羅であると観想する。
 男女のセックスのヴィジョンを見たら、それもイダムとダーキニーであると観想する。
 愛著や嫌悪の感情がわいてきても、全ては幻影で空であると観想する。
 このようなやり方によって、仏陀の浄土に生まれる可能性が出てくる。
 あるいはバルドにおいて「転移のヨーガ」を行ない、成功すれば、瞬間的に仏陀の浄土に生まれる可能性もある。
 もちろん、これらを達成するにも、生きているうちにさまざまな修行を心に根付かせておく必要がある。
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木のアーサナ

2007-12-08 10:07:03 | ワンポイント・ヨーガ

1 爪先とかかとをそろえて直立する。
2 足先を下に向けて左ひざを曲げ、かかとを右脚の付け根に付ける。このとき、左手で左足首を持って行なう。
3 左手を足首から離して、両手のひらを胸の前で合わせ、二十秒間同じ姿勢を保持する。
4 ゆっくりと息を吸いながら、手のひらを合わせたまま上へ真っすぐに伸ばす。手が伸び切ったら、息を止めるか、普通呼吸をして十~二十秒、この姿勢を保持する。
5 ゆっくりと息を吐きながら、合わせた手を胸の前にまで下ろしてくる。次に手のひらを離して左脚を下ろし、1の姿勢に戻る。
6 少し休んだら反対の脚で同様のことを行なう。

 ※注意……もし、バランスが取れず倒れそうになっても、ドンと足を床に付けないで静かに下ろすように努めること。
 文明生活の中で、現代人の平衡感覚は、極めて衰えています。このアーサナを行なうことによって、平衡感覚がどの程度衰えているかを知ることができるでしょう。
 バランスのとりにくい人は、ふらつかなくなるまで1~3を練習することです。
 4のところで、合掌した手が十分に伸びたら、伸ばしている方の足のひざの裏をできるだけ伸ばし、胸郭も引き上げ、同時に肛門も引き締めます。あごはしっかりとひいておきます。

<効果>
1 平衡感覚を生き返らせる。
2 バランスがよく保てるようになれば、全身の筋肉と神経とがよく整うので、体液、ホルモンの調整がよく行なわれ、毒素の排泄もスムーズになる。したがって、美容と健康が得られる。
3 足の血液循環を促して、足の筋肉を強くする。
4 足から手の指先まで、プラーナが流れるのを感じることができる。
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魚のアーサナ

2007-12-08 10:03:28 | ワンポイント・ヨーガ


1 両足をそろえて伸ばし、仰向けに寝る。両手は手のひらを下にして腰の横にそえておく。
2 ゆっくりと息を吸いながら、両腕のひじを支点にして力を入れ、胸を上の方へ張り上げていく。それと同時に、頭はできるだけ後ろへそらせていき、頭の頂上と両肘と尻で反り橋の形を作る。あごは十分に突き上げられ、目は床に水平な方向を見る。この姿勢を、深い普通呼吸をしながら20秒間保つ。
3 ゆっくりと息を吐きながら、立てた両肘をゆるめて、腰をずらしていき、仰向けに戻り、十分に休んで弛緩する。

※注意・・・床に伸ばした足の力はできるだけ抜いておくこと。



魚のアーサナ変形1

1 蓮華座を組む。
2 ひじを床につけて、上体を後ろに倒していく。頭が床についたら、両手の指で、足の親指をしっかりとつかみ、尻とひじと頭とで体を支えた形を作る。この時、背中は床から離れないでいる。両足はできるだけ床につけておく。
3 息を吸いながら、両手の指で両足の親指を引き寄せるようにして、両肘を立てながら力を入れ、胸を上に張り出していく。同時に、あごを十分に突き上げるようにして、頭を後ろへ反らせていく。この時、目は床に水平な方向を見る。
  十分に胸が反り上がったら、ゆったりとした普通呼吸で20秒間これを保つ。
4 ゆっくりと息を吐きながら、反り上がった胸をゆるめていく。
5 両手を足の指から離して、ひじを使って上体を起こし、元の蓮華座に返る。両足を伸ばして十分に休む。
6 蓮華座の足を組み替えて、2~4を繰り返す。

※注意・・・このアーサナは通常の魚のアーサナに比べて難しいので、初心者は蓮華座の実習を十分に行なうことです。
 3が終わった後、上体を起こさずにそのまま蓮華座を解いて、シャヴァ・アーサナをとってもよい。
 背中が反り、橋の形になった時、特に骨盤を突き上げます。また、この時の呼吸は、気管と肋骨を十分に開くことによって、できるだけ胸の上部で呼吸するようにします。
 橋の形を保っている時は、胸郭と腰に精神集中します。



魚のアーサナ変形2

1 「魚のアーサナ変形1」の1~4を行なう。
2 身体を床に降ろした後、今度は頭の上に両手を回し、それぞれのひじを手で握って、頭の下で手枕をする。
3 この両方の姿勢を交互に繰り返す。


<「魚のアーサナ」全体の効果>
1 これらを実習することによって、胸郭が著しく発達し、胸囲が驚くほど広くなる。
2 背中の筋肉を強くし、背中の血行がよくなり温かくなる。
3 特に交感神経によい影響を与え、マニプーラ・チャクラの辺りが、腹部の伸張によりリラックスする。
4 胃腸、肝臓、脾臓、卵巣によい影響を与える。また痔をよくし、糖尿病にも効果がある。
5 性ホルモンと副腎ホルモンの分泌を正常化する。
6 背中が真っすぐになり、姿勢がよくなる(胸郭が狭くて固いと、背中が丸くなる)。
7 胴体や足の筋肉も強化する。
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変形の猫のアーサナ

2007-12-08 10:02:57 | ワンポイント・ヨーガ


1 正座する。かかとを立てて、尻をその上に乗せる。ひざはくっつけておく。手のひらを太ももに乗せて背筋を伸ばす。
2 ゆっくりと息を吐きながら、上体を前に倒していき、胸を太ももにつける。それと同時に手を床につけ、腕を前方に伸ばしていき、手のひらからひじまでを床につける。この時あごは床につく。尻をかかとから離さないようにする。
3 あごと腕を床につけたまま前方に滑らせていく。それにつれて、尻はかかとから離れていく。
  さらに前に進めると、やがて胸が床につく。この時太ももはほぼ床に垂直になる。あごは前に突き出ている。
  以上の姿勢ができたら、息を止めるか普通呼吸をしながら10秒間保つ。
4 息を吸いながら、上体を後ろに引き付けていき、上体を起こして元の姿勢に戻る。

※注意・・・胸を床につけるのは初心者には難しいですが、「コブラのアーサナ」「ラクダのアーサナ」などを十分に実習することで可能になります。
 頸椎から胸椎にかけて緊張が伝わっていく過程に精神集中します。


<効果>
1 「コブラのアーサナ」と同じ効果がある。
2 特に頸椎と胸椎を柔軟にして、それらに関係する脊髄神経に刺激を与え、それらを整える。その結果、甲状腺、肺、心臓、副腎、大小腸、肺臓、脾臓等の働きを整える。
3 胸郭を広げる。
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休息のアーサナ

2007-12-08 10:02:27 | ワンポイント・ヨーガ


1 両足を身体の前に伸ばして座る。
2 右足を持ち上げ、足の裏が右手の腋の下へつくようにさせる。
3 右肘を右足の裏にしっかりと固定し、右手のひらで右耳の辺りを押さえて固定する。
4 左膝を少し立てて、左手のひらで左膝を上から押さえる。
5 逆の手足でも行なう。

<効果>
1 身体全体の働きを活性化させる。
2 特に手と足に力をみなぎらせる。
3 身体の疲れを取り去る。
4 身体が疲れにくくなる。
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丘のアーサナ

2007-12-08 10:01:38 | ワンポイント・ヨーガ


1 蓮華座で座る。
2 息を大きく吸い込み、プラーナを胸一杯に入れるとともに、両手を伸ばして頭上に上げ、息を止める。
3 息が苦しくなったら、息を吐きながら両手を降ろす。

<効果>
1 身体内のプラーナの働きが活性化される。
2 胸板が厚くなる。
3 肺の内部を浄化する。
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がっせき前屈のアーサナ

2007-12-08 10:01:18 | ワンポイント・ヨーガ


1 床の上に両足をそろえて伸ばして座る。
2 左右の足を折り曲げて、両足の裏側を合わせ、ついで手で足首を持って会陰に引き寄せる。
3 息を吐きながら、手のひらで両膝を圧して床につけるようにする。この時、腕を伸ばし、背筋を立てるようにして、腰を引き締める。息を止めたまま十秒間この姿勢を保つ。
4 息をゆっくりと吸いながら、伸ばした腕を静かにゆるめて足をゆるめる。3~4を数回行なう。(第一段階)
5 足首かつま先を両手でしっかりとつかむ。そしてゆっくりと息を入れて、胸を広げ前に突き出すようにして腰を立てる。この時、できるだけひざを床につけるようにする。
6 息をゆっくりと吐きながら上体を前に倒していき、あごを足の前の床につける。この時、両腕で上体を足に引き付ける。(第二段階)
7 あごが床についたら、手を足から離し、腕を左右に肩と水平に伸ばしていく。さらに上体を前に倒してあごを十分につきだし、両肩と腕を床につける。尻も床についている。
  静かでリズミカルな普通呼吸を行ない、これを10秒間保つ。
8 息をゆっくりと吸いながら、上体を極めてゆっくりと起こしていき、最後に胸の前で合掌する。
  両膝を伸ばして休む。

※注意・・・初心者はまず第一段階を実習して、両膝が床につくようにする。それにつれて次第に次の段階に移っていくこと。
 上体を前に倒していく時は、息を出しながら行なわれるが、普通呼吸を何回も行なって、息を吐くときに体が弛緩する原理を用いて徐々に倒していくやりかたもある。


<効果>
1 泌尿器系の病気に効果があります。
2 腹、腰、背中に血液が十分に供給され、腹部の臓器の機能を高め、背骨、腰の神経組織の働きを整えます。また座骨神経痛を治し、ヘルニアを予防します。
3 股関節、ひざ関節が柔軟になります。
4 月経を正常にして、卵巣機能を高めますので、女性には特に勧められます。
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☆ヴァーヤヴィーヤ・クンバカ・プラーナーヤーマ

2007-12-08 10:00:31 | ワンポイント・ヨーガ


1 蓮華座を組んで座る。このとき、首と背中が真っすぐになるように気を付ける。
2 手のひらを膝に置き、眉間に精神集中をする。
3 両鼻孔で激しく素早く深い二十五回の呼吸を繰り返す。
4 完全に息を吐き出した後、喉・肛門・腹の順に引き締める。息を吐き切ったままで、できるだけその状態を保持する。
5 我慢できなくなったら、腹・肛門・喉の順に緩め、両鼻孔からいっぱいに息を吸う。それから再び喉・肛門・腹を引き締め、そのまま保息する。
6 苦しくなったら、三つのバンダをゆるめて、鼻から嘔吐するように息を吐き出す。
7 2~6のプロセスを繰り返す。

※注意・・・このプラーナーヤーマは、プラーナーヤーマというよりも高度なムドラーといってもいい。詳しいコツなどは熟練した指導者の指導を受けること。

〈効果〉
1 速やかにクンダリニーを覚醒させる。
2 知能を高める。
3 体重を減らし、体を細く強くする。
4 若返る。
5 慢性化した風邪を治し、痰を取り除く。
6 このプラーナーヤーマは他のプラーナーヤーマと違い、サマーディに至るためのものである。このプラーナーヤーマを行じる事によって、数々の神秘体験をする。
7 体内のウイルスを根絶し、かつ免疫力を高める。
8 ヴァータとカパの分泌異常が正常に戻る。
9 ムーラーダーラ・チャクラからサハスラーラ・チャクラまでの間で、生気を自由に動かすことができるようになる。 
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