ヨーガスクール・カイラス blog

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第三章 無上の正しい覚醒を得るための条件――師

2007-11-16 15:00:31 | 経典の言葉・聖者の言葉



 人間に生まれ、修行する条件が整っていたとしても、縁ある師と出会い、師に導いてもらわなかったら、菩薩道に入ることは難しいのです。それは、過去に積んだ悪しき習性の力が強いからです。
 よって、縁ある正しい師に親しみ近づかなければなりません。


 無上の正しい覚醒を現実に得たいならば、まず最初に、師に帰依し、親しみ近づくことが重要です。
 無上の正しい覚醒を得るには、功徳と智慧を積み重ね、煩悩と無明を取り除いていかなければなりませんが、その方法を教えてくれて、導いてくれるのが、縁ある正しい師なのです。


 師は、
①知らない道を行くときの道案内のようなものであり、
②恐ろしい地域に行くときの警護のようなものであり、
③大きな河を渡るときの船頭のようなものであるといわれます。


①道案内

 知らない道を行くとき、道案内がいなかったら、道に迷ったり、道を間違ったりしてしまうでしょう。
 同様に、無上の正しい覚醒を得るための道に入ったなら、大乗の師という道案内が必要です。正しい大乗の師を道案内とすれば、彼は正しく、菩薩の道に弟子を入れてくれます。間違った道に入ってしまったり、声聞・独覚の道に落ち込んでしまう危険性はなくなるでしょう。


②警護

 盗賊や猛獣などがいる恐ろしい地域を行くとき、警護がなかったら、身体や命や財産に危難が生ずるでしょう。しかし強固な警護を伴っているなら、その心配はありません。
 同様に、菩薩道に入って功徳と智慧の糧を積み、全智の都を目指すには、師という警護が必要です。正しい師という警護がなければ、自己の煩悩や、悪魔や、間違った師などによって、善という財宝を奪われ、善趣という命を絶たれる危険性があるのです。
 菩薩の功徳は、師により守護されているのです。


③船頭

 激しい流れの大きな河を渡ろうとするとき、そのような流れに慣れていない者が一人で船やいかだで渡ろうとしても、水に流されてしまったり、沈んでしまったりして、向こう岸に到達することはできないでしょう。しかし熟練した船頭に頼るなら、無事に向こう岸にたどり着くことができます。
 同様に、輪廻の海を渡るとき、船頭に似た正しい師がいなければ、真理の船に乗ったとしても、また輪廻に沈み、輪廻の流れに流されてしまうことでしょう。
 仮に、覚醒を得るに必要な功徳のすべてを完成させたとしても、向こう岸に正しく導いてくれる船頭のような師がいなかったら、無上の正しい覚醒にたどり着くことはできないのです。

 よって、道案内のようであり、警護のようであり、船頭のようである正しい師に、親しみ近づき、帰依するべきなのです。

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心を広大無辺に

2007-11-08 07:52:10 | 解説・バガヴァッド・ギーター
◎心を広大無辺に

【本文】
『無数の河川が流れ入ろうとも、海は泰然として不動であるように、様々な欲望が次々に起ころうとも、それを追わず取りあわずにいる人は平安である。

 物欲肉欲をすべて放棄した人、もろもろの欲望から解放された人、自意識や執着心のない人、このような人だけが真の平安を得るのだ。

 プリター妃の息子よ!これが絶対真理(ブラフマン)と合一する道で、これによって一切の迷妄が消え去るのだ。したがって、たとえ臨終の時にでもこの心境になる人は、必ずや涅槃の境地に入ることとなる。』と。



 はい、これでこの章は終わりですね。
 ここに一個の石があったとします。それは5センチ四方くらいの、小さな石だったとします。
 それをコップの水の中に投げ入れたら、水はあふれてしまうし、あるいは勢いが強ければ、コップも割れてしまうかもしれないね。
 洗面器の中だったら? あふれるかはわからないけど、すごく水は波立つね。
 プールの中に投げ入れたら? ポチャンって音はして、プールの水全体に影響はあるだろうけど、まあ、そんなんでもない。
 海の中に投げ入れたら? たとえば太平洋に石を一個投げても、海自体はほとんど影響をこうむらないね。
 これと同様に、広い心を持つ人はね、もろもろの執着とか怒りとかに、翻弄されないんだね。
 つまり、ここでいう執着とか怒りっていうのは、本来は真の自分とは何の関係もないんだね。単に、グナとよばれるエネルギーが織り成している幻にすぎない。そういうのが心の中に現われては消えていくわけだけど、常に神に心を合わせ、広大な精神状態でいる人にとっては、そんな小さな執着や怒りの幻影なんていうのは、まったく意に介するものではない、関係ないんだね。
 でも心の小さな人は、そういった心の波立ちにすぐに反応し、取り込まれてしまう。そしてさっきも言った、十二縁起のプロセスに巻き込まれていくんだね。
 しかしこの「小さな心」っていうのもね、後天的なものなんだよ。本来はわれわれの心は、誰であっても、まったく限界のない、無限に広大な心なんだ。しかし十二縁起のプロセスによってね、愛着したり嫌悪したりしているうちに、自分で自分の心に壁を作り、制約を作り――ということを何回も何回も生まれ変わりながらやっているうちにね、海がプールになり、プールが洗面器になり、そしてとうとう、小さなコップのような、狭くて壊れやすい心になってしまった。
 だから修行というのは逆に、心を広大無辺にしていくプロセスなわけだね。
 そして実際にはそのためには、ここに書かれているように、物欲、そして性欲を中心にした愛欲、こういったものを自分の心から取り除いていくプロセスが必要なわけだね。そして心を神に合わせ、エゴを破壊していく。
 エゴという心の壁を取り去り、絶対真理に心を合わせる。それにより、われわれが本来持っていた広大無辺な心――それは正確には『心』といえるのかどうかわからないけど――広大無辺な、絶対真理と合一した状態に、一生をかけてね、何を犠牲にしても、われわれはそれを達成しなければならないんだね。
 もちろんそのための具体的方法論は、またいろいろある。それはこのバガヴァッド・ギーターでも、この後にもいろいろと出てきますね。
 それでは今日はこの辺で、第二章の解説は終わりにしましょう。
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