ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

無我と無智

2007-10-26 13:22:54 | 松川先生のお話
 空とか無我という境地は、一歩間違えてイメージすると無智になり、そのような間違った瞑想を続けると、動物界に落ちてしまう、とチベットのマハームドラーの教えに説かれています。
 マハームドラーとは、心の本質に直接アクセスして、この空とか無我とか言われる真理を悟る技法ですが、その教えにおいても、このような注意が促されているわけです。

 また別の教えでは、空への偏った見解と現実への偏った見解はどちらもいけないが、どちらかといえば後者のほうがましだ、とも説かれています。
 これはどういうことでしょうか? 仏教では二つの真理を説きます。それは絶対的真理(勝義諦)と世俗の真理(世俗諦)の二つです(ヒンドゥー教の教えも同様です)。
 絶対的真理とは、空とか無我(非我)の教えですね。世俗の真理とは、これはよく勘違いされるのですが、この世をうまく渡っていくには金が必要だとか、このように人とうまくやらなければならないとか、そういう現世的な常識のことではありません。そうではなくて、カルマの法則とか、輪廻の教えとか、そういったものです。つまり空の境地から言えば、カルマの法則さえも空なのです。しかしそれでもわれわれは、この世に身をおいている以上、カルマの法則にしたがって生きなければならないのです。
 しかし空の境地を知らずにカルマの法則や戒律などの教えだけに偏ると、ちょっと固い感じになり、柔軟な真理の真髄を理解しづらくなります。
 逆に空の教えに偏り、カルマの法則や煩悩滅尽などの相対的真理を無視すると、本人は悟ったような気分になり、気持ちいいのですが、実際はその人を縛るカルマは悪化し、低い世界に落ちてしまいます。
 だから理想は、心のベースで空の真理を理解しつつ、現実的にはカルマの法則に基づき、戒律を守り、心と言葉と行為を教えに基づいて微細に検討しながら生きることが必要なのです。
 しかしもしどちらかに偏ってしまうならば、後者に偏るほうがましなのです。
 
 イメージの「空」とか「無我」ではだめなのです。これらは実際に悟られなければなりません。そしてイメージや単なる論理的思索によって得る「空」や「無我」は、動物界のカルマとしての「無智」と非常に似てるんですね。
 だから、たとえば禅寺などで、あるいは自己流でボーっとして座って瞑想して、ああ、気持ちいいなあ、という瞑想は、もしかするとただ無智を増大させ、動物のカルマを増やしているだけということもあるのです。

 本当の瞑想は、まず強烈な集中力が必要です。そして鮮明な意識が必要なのです。そこで現われるのは闇とか無ではなくて光です。イメージの光ではなくて、本質的な光です。そして真の空や無我に至るには、長い心の旅をしなければなりません。その間に多くの神秘的経験をします。この途上の経験を、禅などでは、すべて邪魔だとして「魔境」といって否定します。密教やヨーガでは逆に、それらの神秘体験を利用して上がっていきます。どちらにしろ、強烈な集中力と鮮明な意識によって、心の奥へ奥へと旅をし、さまざまな経験を超え、最終的に空や無我を悟るのです。そしてそこへ到達するまでは、空や無我のある程度の理解と同時に、カルマの法則をはじめとした相対的真理も、しっかりと学び、実践しなければならないのです。
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光に行け

2007-10-11 22:29:12 | 松川先生のお話



 お釈迦様のおっしゃっている基本的な戒め(十善、五戒)をまとめるならば、次のようになるでしょう。

①身体に関する善の道
 1.他の生き物に害を加えない。
 2.盗みをしない。
 3.一切の性的行為をしない。
   それが無理ならば、少なくとも恋人や配偶者以外との性的行為をしない。
 4.酒を飲まない。

②言葉に関する善の道
 1.うそをつかない。
 2.意味のない冗談などを言わない。
 3.悪口を言わない。
 4.陰口や、人の仲を裂くような言葉を言わない。

③心に関する善の道
 1.執着・むさぼりを断つ。
 2.怒り・憎しみ・嫌悪を断つ。
 3.真理から外れた誤った考え方を断つ。

 心に関しては、気をつけなければならないことはさらに数多くあります。物惜しみ、偽り、怠惰、慢心、自己の容姿や知識や能力などに関するうぬぼれなどです。
 これらを、自らの敵のように見なしてください。

 心において、特に「怒り・憎しみ・嫌悪」には、気をつけてください。
 「忍辱に等しい苦行はない」と言われます。
 また、「数千カルパ(何度も宇宙が創造され破壊されるほどの長い時間)にわたって積み重ねられた功徳も、怒りによって一瞬のうちに打ち砕かれる」と、シャーンティデーヴァも説いています。
 よって怒りを起こさず、忍辱の修行にはげまなければなりません。

 「この人は私を非難した。この人は私を苦しめた。この人は私にこんなことをした。」・・・と、こんなくだらないことばかり考える人の心には、憎しみ・怒りの思いが増し、その思いはその人自身を腐らせ、傷つけるのです。これには何のメリットもありません。
 憎しみ・怒りを捨ててください。それがあなた自身に最も安らぎを与える道です。


 また、現代は愛欲にまみれた時代です。愛欲が肯定され、奨励されています。しかし愛欲には多くのデメリットがあり、できるならば完全に断つべきです。それが無理ならば、前述のように、少なくとも自分の配偶者や恋人以外の対象に、愛欲を向けるべきではありません。 
 異性に関しては、その対象に応じて、友人のように、父母のように、子供のように、あるいは兄弟姉妹のように見なすべきです。それでももし愛欲が起こったなら、お釈迦様が説いたように、その身体の不浄性について瞑想すると良いでしょう。

 
 この我が心は、常に頼りなく、怒りや愛欲やその他によって動揺しています。この心を、わが子のように、宝物のように、あるいは生命のように、しっかりと守らなければなりません。
 そしてこの心を惑わせるさまざまな欲望を、悪獣のように、毒のように、敵のように、あるいは危険な炎のように見なし、それらから我が心を守らなければなりません。
 そうして心を常に正しい思いの状態へと導くのです。

 お釈迦様の一番弟子のサーリプッタは、この世において四つのタイプの人間がいると説いています。それは、
①光から光に行く人
②闇から闇に行く人
③光から闇に行く人
④闇から光に行く人

 ①番目は、前世から心を清め、徳を持ち、修行し、清らかな状態で生まれ、今生でも自然と正しく行き、修行し、より魂を清めていく人たちのことです。

 ②番目は、前世から心を汚し、悪をなし、汚れた状態で生まれ、今生でも自然と悪をなし、より魂を汚していく人たちのことです。

 ③番目は、前世で心を清め、徳を積み、修行し、清らかな状態で生まれてきたものの、今生でさまざまな環境や周りの人々に流され、道を誤り、魂を汚していっている人たちのことです。

 ④番目は、前世から心を汚し、悪をなし、汚れた状態で生まれたのですが、今生で良い縁が目覚め、善や真理を行おうと努力を始め、魂を清める道に入っていく人たちのことです。


 これらのうち、当然、①か④の魂であってください。
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第二章 無上の正しい覚醒を得るためのよりどころ

2007-10-11 22:18:03 | 経典の言葉・聖者の言葉





 すべての衆生が如来の本性を有しているというならば、どんな世界に生まれても仏陀になれるのかというと、そうではありません。人間界に生まれ、人間の身体を得ることこそが、仏陀になるためのよりどころとしては、もっとも優れているのです。そしてただ人間に生まれればよいわけでもなく、他にもさまざまな条件があります。それらについて、以下に説明していきましょう。



◎有暇

 地獄は常に苦しみにさいなまれているので、真理を実践する機会がありません。
 餓鬼はむさぼりに心を焼かれているので、真理を実践する機会がありません。
 動物は無智が大きいので、真理を実践する機会がありません。
 天界は安楽が大きく、その一時的な楽をむさぼることにとらわれているため、真理を実践する機会がありません。

 これらに対して人間界は、そこそこの苦しみとそこそこの安楽がある世界なので、修行しやすいのです。
 人間界である程度の苦と楽を味わうことで、輪廻を離れようという気持ちが生じますし、慢心も静まりますし、衆生への慈悲も生じますし、悪を避けて善を実践しようという気持ちもわいてきやすいのです。

 しかしたとえ人として生まれても、真理が広まっていない辺境の地などに生まれたり、真理の教えがない時代に生まれたり、誤った見解を持ったり、言葉を理解できない者に生まれたりすると、真理の実践はしにくくなります。

 これらすべてをクリアしているならば、有暇を完全に具えているといえます。


◎内的条件

 さらに、真理の実践を可能にする内的条件には、五つあります。

1.人間に生まれたこと
2.優れた聖者と接近しやすい地に生まれたこと
3.言葉を理解でき、思索することができること
4.真理の教えを信じること
5.今生において、「五逆の罪」を犯していないこと

 五逆の罪とは、以下の五つです。
①自分の父親を殺すこと
②自分の母親を殺すこと
③解脱者を殺すこと
④仏陀の体から血を流すこと
⑤真理の教団を分裂させること


◎外的条件

 次に、真理の実践を可能にする外的条件にも五つがあります。

1.仏陀が出現したこと
2.仏陀が真理の教えを説いたこと
3.真理を教える師が存在していること
4.彼らが慈悲を持ち、教えを広めようとしたこと
5.師や教えと出会い、それを実践する機会を得たこと


◎得がたい機会

 これらの、有暇と、内的条件と外的条件のひとつだけを具えるのも、大変難しいことなのです。よって、これらすべて具えた人間の生は、宝のように尊いものなのです。
 それは、どのくらい得がたいのでしょうか? お釈迦様やシャーンティデーヴァは、「盲目の亀のたとえ」で、この得がたさを表現しています。
 この地球全体が海になったとして、その海底に盲目の亀が一匹住んでいます。そして海面には、ひとつのくびきが浮かんでおり、風に吹かれてあちこちに動いています。たまたま海上に上がってきた盲目の亀の頭が、そのくびきの穴に偶然入る確率は、どれほど低いものでしょうか? われわれが、すべての有暇と内的条件・外的条件を具えた人間の生を得る確率は、これと同じほどのものだというのです。

 

◎三つのタイプの衆生

 こうしてすべての有暇と内的条件・外的条件を具えた人間も、三つの段階に分けられます。

1.劣った衆生
 地獄・動物・餓鬼の三悪趣に落ちることを避け、ただ人間や天界に生まれて幸福になることだけを求めるのが、最も劣った衆生です。

2.中くらいの衆生
 輪廻の幸福に背を向けて、自己の解脱・寂静だけを求めるのが、中くらいの衆生です。

3.偉大なる衆生
 他者の苦しみを自らが背負い、すべての衆生の苦しみを正しく滅尽させたいと欲するのが、偉大なる衆生です。



◎きわめて滅しやすいこと

 このように、あらゆる条件を具えた人間の身体は大変得がたく、そして利益が大きいものですが、同時にきわめて滅しやすいものでもあります。死の条件は多く、瞬間といえども時は止まることなく、死のときは近づいています。今日死ななかったからといって、安らぐことはできません。死は必ずやってくるのです。

 このように、あらゆる条件を具えた人間の身体は得がたく、利益が大きく、そして滅しやすいということを理解しなければなりません。そしてこの人間の身体を船だと考え、このチャンスを生かして、死がやってくる前に、苦しみの輪廻の海をなんとしてでも渡りきろうと考えなければなりません。この船は本当に得がたいので、眠りや怠惰に堕している場合ではないのです。
 この身体は、善をなし、輪廻を超えるための船であり、道具であり、僕であるとみなし、徹底的にそのために使わなければなりません。


◎信の重要性

 それらを本当に実践するには、強い信が必要です。信がなければ、聖なる法は、心の連続体に生じません。それはちょうど、火で焼かれた種を植えても、芽は出ないというようなものです。信の心が弱い者は、心を浄化することができず、仏陀になることもできないのです。よってまず強い信を育てることが重要です。



◎三つの信
 
 その信には、「信頼の信」と、「決意の信」と、「清らかな信」があります。

 「信頼の信」とは、以下のことなどを信じることです。
 ・善によって輪廻における幸福が生じること
 ・悪によって輪廻における苦しみが生じること
 ・煩悩によって苦しみの輪廻が生じること
 ・解脱によって苦しみの輪廻から解放されること

 「決意の信」とは、無上の正しい覚醒こそが最高であると理解し、それを必ず得ることを決意することです。

 「清らかな信」とは、ブッダと、ブッダの教えと、ブッダの教えを実践する者たちや、もろもろの菩薩方などを、信じ、理解し、尊敬し、心が清らかであることです。




◎真理を捨てないこと

 また、愛著と怒りと迷妄と恐怖のゆえに真理を捨てない者は、信を持った者であり、最上の器であるといわれます。

 そのうち、愛著のゆえに真理を捨てないというのは、たとえば、
「あなたに食べ物や財宝や女や権力などを与えるので、真理を捨てなさい」と言われたとしても、捨てないということです。

 怒りのゆえに真理を捨てないというのは、たとえば、過去に誰かに害をなされ、あるいは今誰かに害をなされようとしていたとしても、真理を捨てないということです。

 迷妄のゆえに真理を捨てないというのは、たとえば、
「カルマの法則は真実ではない。仏陀と仏陀の教えと仏陀の弟子たちは真実ではない。あなたが真理を実践してなんになるのか。真理などほうっておきなさい」などと言われたとしても、捨てないということです。

 恐怖のゆえに真理を捨てないというのは、たとえば、
「あなたが真理を捨てないなら、毎日あなたの体を切り刻み続けるだろう」などと言われたとしても、捨てないということです。



◎信を持つことのメリット

 このような信があるなら、以下のような大きな利益が生じます。

・「偉大なる衆生」の心が生じる。
・真理を実践するためのさまざまな条件を得る。
・感覚が鮮明になる。
・戒を守ることができるようになるので、煩悩が除去される。
・魔の世界を超える。
・解脱を得る。
・広大な善を積む。
・多くの仏陀を見る。
・仏陀により祝福される。
・多くの仏陀が彼の元にやってきて、菩薩の道を説く。



 まとめるならば、有暇と内的条件・外的条件をすべて具え、心に三つの信を持っていること、これこそが、無上の正しい覚醒を得るための、よりどころなのです。

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法の友よ

2007-10-11 07:20:43 | 松川先生のお話



 法の友よ、君はなぜあの慈悲心を忘れたか。
 君がこの世に存在するのは、ただその菩提心なるがゆえだということを
 長い輪廻の生活で、忘れてしまったのか。
 衆生の苦しみをすべて自分が背負おうという決意を
 もう忘れてしまったのか。
 皆に馬鹿にされ、皆の悪意を受け、皆に打ちのめされても
 その皆を一人残らず救おうという決意を忘れたのか。
 自分の功徳をすべて衆生にささげ、衆生の悪業をすべて自分が引き受けようという
 あの殊勝なる決意はどこへ行ったのか。
 利己主義の世、ギブアンドテイクの世に慣れすぎて
 ただ与え続けるという精神を忘れてしまったのか。

 法の友よ、君はあの清らかな心を忘れたのか。
 聖者とともに暮らし、聖者と一つになり、聖者の友であった
 あの日々を忘れたのか。
 君は如来(バガヴァーン)のただの道具として
 この世につかわされたのだということを忘れたのか。

 法の友よ、君はあの絶対の真理を忘れたのか。
 すべては至高者の愛であり、すべては最初から完璧であるということを
 忘れてしまったのか。
 至高者の愛は完全であり、すべての喜びも苦しみも、成功も失敗も、必要に応じてやってくるということを
 一時の苦楽にとらわれすぎて、忘れてしまったのか。
 あらゆることにとらわれることなく、ただ至高者の道具として
 一瞬一瞬、全力で自己の使命を遂行するという決意を
 もう忘れてしまったのか。

 この世には、どんな清らかな目もくらませる、マーヤーの罠がある。
 そんなことは、最初からわかっていたこと。
 決してそのマーヤーの罠にははまらないぞという決意を
 もう忘れてしまったのか。
 この世の一切は空であり、何の実体もなく、
 すべては魔法の影絵芝居であるということを忘れてしまったのか。
 実体のないカルマの幻影に心奪われることで
 完全に輪廻のマーヤーに絡めとられてしまったのか。

 立ち返れ、君のおおもとへ。
 そこには執着も憎しみもなく、
 偏見も観念も利己主義もなく、
 帰依と智慧と菩提心に満ちている。
 虹の光満ちる、至福と慈悲の光源。
 それは何にもかえがたい、君の宝物だ。
 その宝物を、一時の感情のために、むざむざと汚物と交換するな。

 思い出せ、君のおおもとを。
 神や聖者や仏陀につかえた、あの喜びを。
 日常に流され、聖者の心を忘れるな。
 決して誰をも憎むな。恨むな。怒るな。
 与えられた以上のものをほしがるな。
 あらゆることに不満を持つな。
 君の中には、聖なる真理があり、君をひそかに見守ってくれている師や仏陀や菩薩方がいる。
 これ以上、何が必要なのだ。

 ただ君のおおもとへ立ち返ることだけを目指せ。
 神や仏陀や師の恩寵を思い出し
 ただその恩に報いるために
 ただ彼らの道具として
 ただ衆生の幸福のために生きよう。

 願わくば、これらの言葉をほんの少しでも理解できる、法の仲間たちが、この最も大事な要点を、決して忘れませんように。
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本望

2007-10-11 07:16:53 | 松川先生のお話



 私のヨーガ教室のある生徒さんが、癌の手術で右目の眼球を失った人と接する機会があり、その後ずっと、自分の右目がおかしくなり、今も見えにくい。そして右の鼻も通りづらくなったのだけれど、これはその人のそのようなカルマが移ってきたのでしょうか、という話をしてきた。

 実際、人と人とは、接したり話したりするだけでも、エネルギーのまじりあいを常に行なっている。ヨーガ修行をすると、エネルギーが強くなり、かつエネルギーに敏感になるので、これらの現象がよく起きるし、またよく感じるようになる。

 ところで結局、この生徒さんは、その患者さんの影響を受け、自分の右目もおかしくなってしまったのだろうか? そのようなことが実際にあるのだろうか?

 それについては、ここでは言及しない。この日記で論ずるにはあまりに複雑なテーマだから。


 それはともかく、私はそのとき彼女にこう言った。

「実際にその人のカルマの影響を受けたかどうかは別にしても、あなたはこういうふうに考えるべきだね。
『彼のカルマが私に移り、彼が、今生では無理かもしれないけど、来世、清浄で完全な目を得てくれるなら、今、たとえ私の目がつぶれたとしても、私は本望だ』と。」

 そうしたら彼女は、

「実は私もそのように瞑想していました」

と答えた。

 
 ここにも何度か書いたけど、トンレンという仏教の瞑想法がある。これは簡単に言うと、他者の苦しみが自分の中に吸収され、自分の幸福が他者に注がれるということをイメージする瞑想だ。
 私の経験では、これは座って瞑想するだけではなく、日常において行なうと効果がある。
 たとえば彼女のような状況に置かれたとき。実際にカルマの移入が起きたのかどうかはわからないけど、その可能性を感じるような状況のとき。そう、イメージではなく、本当に自分の目が見えなくなってしまうかもしれないというような状況にあるとき、それでも「彼の苦しみが私に移り、私の幸福が彼に移りますように」と考えられるかどうかだね。
 私は町を歩き、すれ違う人みんなにこういう瞑想をしていたことがある。そうするとやはり、リアルにやればやるほど、エゴが嫌がるんだね。でもだんだん、心をこめてできるようになっていった。そしてそれに比例して、私の心も平安になっていった。

 以前、ある人から、
「トンレンの瞑想をしていたら、効果が出てきたようで、心が不安定になり、苦痛が増してきました。」
というメールをもらったことがあるんだけど、これは明らかに間違いだ。この人はおそらく、トンレンというものの意味をとらえ違え、自分が相手の苦悩を背負うというイメージに酔ってしまったのだろう。

 相手の苦悩を引き受け、自分の幸福を差し出すというトンレンの瞑想を心から行なうと、実は自分の苦しみは減り、幸福は増すんだよ。それが心の仕組みの面白いところだね。幸福を放棄すればするほど、幸福が増すんだ。

 しかしそこに至るまでは、自分とのエゴとの戦いが大変だ。私もつらかったけど、思い切ってやった覚えがある。

 だからこの彼女が、そのような状況にありながら、私に言われる前から、自分でそのような瞑想をしていたというのは、素晴らしく偉大なことだと思ったんだ。

 正直、この生徒さんは、以前は執着や怒りの感情も強く、それが雰囲気としてにじみ出ているようなところも見えたんだけど、ヨーガ修行や、日々の生活の出来事を通じての修行によって、いろいろなものを乗り越えた結果、最近は顔も雰囲気も優しくなり、大変智慧を感じられる言葉を話すようになった。
 でもそのような大きな変化に費やした時間はわずか数ヶ月なんだ。もちろん持って生まれた素養というのもあるだろうけど、人を進化させていく修行というものの素晴らしさを改めて感じますね。

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神や真理に身を任せ

2007-10-06 16:19:31 | 松川先生のお話


 人生は、一瞬先も、何があるかわからない。
 それは、良くも悪くもである。
 そして、だからこそ面白い。

 人間は馬鹿なので、分からないものを分かった気になってしまう。 
 もちろん、計画という試みは必要だ。
 しかしそれはあくまでも仮のものであって、本当は一瞬先も、何も分からないということを認識すべきだ。

 人間が分かっているような気になっているあらゆる法則性も、仮説に過ぎない。

 しかし、だからこそ面白く、楽しいのだ。
 神や真理に身を任せ、心に不誠実さや後ろめたさがなければないほど、このような気持ちになれる。 
 苦悩も喜びも神のリーラ。
 いや、正確に言えば、このような意識を持つ者には、苦悩はない。

 人間は、神の意思と完全に同調できるようになるまでは、苦しまなければならない。
 神が正しいとされることは、人間の利己的知性を遥かに超えているのだ。

 人生を楽しめ。
 ただしそのためには、神や真理に誠実であれ。
 自分の心を高める努力をせよ。
 衆生への限りない愛を持て。
 すべてを受け入れる智慧を持て。
 このような人にとって、人生は一点の曇りもなく、限りなく楽しいものとなる。

 こうだったらいいなとか、こうなったらいやだなとか、
 そのような勝手な定義づけをすべてやめるんだ。
 神だけを見つめ、すべてを任せ、心自由に、誠実に生きる。
 後に起こることは、神の意思のもとに、カルマの法則のもとに、そして自己の使命のもとに、
 すべてが自然に流れていくだろう。
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心と言葉と顔

2007-10-05 08:57:27 | 松川先生のお話
 私はしょっちゅう電車を利用するんだけど、たまにおばさんとか、女子高生とかが、他人の悪口、批判を言っているのが聞こえてくる。
 それは私の隣だったり、目の前に座ってたりするんだけど、目の前に座った、その人の顔を見てみるとね、本当に驚くほど醜いんだよね。
 それは比喩的に言ってるわけじゃなくて、本当に醜く見えるんだ。でもね、もう少し見てみると、その顔がね、造形的に、そんなに醜いわけではないということに気づいてくる。
 だからその悪口や批判や否定的な言葉、そしてその邪悪な心がね、ここまで顔を醜くしてるんだなと。そういう印象を与えるような表情や雰囲気、ヴァイブレーションをかもし出してるんだなと思った。そしてそのような言葉や心を繰り返していくと、その醜い表情は固定化され、本当に造形的にも醜くなっていくだろうね。
 人間の顔の美しい・醜いは言葉のカルマであると仏教では言うけれど、本当にそうなんだろうね。

 だから、心の嫌悪、憎しみ、そして言葉の悪口や批判は極力やめよう。そういう気持ちになっているときは、鏡で自分の顔を見てみるといいよ。

 美しくなりたかったら、心で他人の幸福を願うことだ。言葉で優しい言葉を語ることだ。

 もちろん、心に神を思い、常に真理だけを語るような人がいたら、最も美しくなるだろうね。
 
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