ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

シャーンティ

2007-08-29 16:30:05 | 解説・バガヴァッド・ギーター

◎シャーンティ

【本文】

『自己を統御できぬ人には、知性も、深く考える力もなく、そうした人に平安の境地は望むべくもない。平安の境地無くして、どうして真の幸福が得られようか。

 人の感覚が対象物を求めて揺れ動くと、心もそれにつられてさ迷うこととなる。ちょうど水の上の小船が、風に吹き流されてしまうように。

 故に、武勇の士(アルジュナ)よ! もろもろの感覚を抑制し、それぞれの対象から心を完全に離せる人の覚智(さとり)は、まことにしっかりと安定している。

 あらゆる生物にとっての夜に、物欲を捨てた賢者は目覚めており、またあらゆる生物が目覚めている昼は、逆に賢者によって夜とみなされている。』


 はい。この辺も繰り返しなので、言わんとしていることはずっと同じことなのですが、ここで平安っていう言葉が出てきますが、これがよく出る「シャーンティ」です。シャーンティっていうのは、単純に世界平和とか、心の何となく平和って意味じゃなくて、悟りによってあらゆる――何ていうかな、本当の意味での整った状態なんだね。つまり、神の意思によって、あるいは宇宙の意思によって、自分の心が整っている状態。これがシャーンティ。その状態を常に持続しなさいと。それを邪魔するのが、日々の感覚的、あるいは様々な現象の経験だと。
 だからそういう中で生きながらも、そういうのに全く心を煩わされずに、このシャーンティの境地、あるいは神の心っていうものに、常に心を合わせている人。この人っていうのは賢者だよといってる。さっきも言ったけども、賢者にとっての昼は、いろんな他の生き物にとっては夜であるみたいな考えがあるんだけども、つまり結果的にそうなるんだね。われわれが神の意思に基づいて生きようとしていると、そういう感じになる。だから逆に言うと、世の中の人はどうでもいいと――どうでもいいっていうのも変だけど、人のことはどうでもいいんです。世でこうだから、私はこうでなきゃいけないかなとか、そんなことは関係ない。だから自分が神の意思から外れてないかどうかだけを、心の第一位に置くんだね。自分がどうするべきかっていうことの。
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雷と満月

2007-08-29 08:25:36 | 松川先生のお話




 私の主宰するヨーガ教室の世田谷教室が最近オープンしたので、昨夜、数名のスタッフと生徒さんたちとともに、チラシを配りに行ってきました。

 天気予報によると、世田谷方面は昨夜は曇りということだったのですが、さあ、それでは配り始めようとしたとたん、いきなり空が光り、ものすごい雷が鳴り始めました。
 普通だったら、「配り始めようとした途端に雷がなるなんて、なんて運が悪いんだ!」と考えるかもしれませんが、もともとヨーガの神であるシヴァ神には、雷の神であるルドラ神という側面もあるので、われわれは、「シヴァ神の祝福だ!」と、能天気に喜んでいました(笑)。

 実際それは、ものすごい雷でした。たぶん、すぐ近くで鳴っていたのだと思いますが、ものすごい光と轟音が、しばらくの間、鳴り続けました。雨もものすごかったのですが、しばらくするとやんだので、何とかチラシ配りをすることができました。
 そして雷と雨がやんだ後も空は曇っていたのですが、その雲の隙間から、きれいな満月が顔を出しました。月もシヴァ神の象徴なので、本当に祝福を感じました。

 こんなにも祝福を受けている世田谷教室、皆さんもぜひお越しください(笑)。


 雷といえば、先日もすごい体験をしました。お盆に、湘南台のヨーガ教室で合宿を行なったのですが、合宿の合間、みんなで外を歩いていると、突然、雷が鳴り出しました。それもまたものすごい雷だったのですが、なぜか雨は全く降ってこなかったので、そのままみんなで歩いていると、突然、私の前方斜め上、一メートルくらいの空間に、バチバチバチッと電気が走ったのです。私のすぐ後ろにいた人からは、私に雷が落ちたように見えたそうです。ふっと後ろを振り向くと、何人かの生徒さんが、驚いて道に倒れこんでいました。
 みな、非常に驚きながら、興奮して今の出来事について話していると、再び、われわれのすぐ前の空間が、ピカッと光りました。遠い空が光っているというより、本当にすぐ目の前の空間に、雷が発生した感じです。こんな経験は本当に初めてでした。


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潜在意識

2007-08-26 23:56:51 | 松川先生のお話

 潜在意識というのは、100かゼロの世界だ。何となくとか、どちらともいえないとか、そういうものはない。

 この潜在意識に、私たちは、たとえば憎しみ、性欲、愛情欲求、貪り、食欲、名誉欲、プライド・・・といった様々な欲望を隠し持っている。

 しかしこの潜在意識は、これらの欲望をストレートに表現してもかなわないということを知っているので、表層の意識に指令を出し、あるいはだまし・・・その潜在意識の欲望を成就するための計画を立てるのだ。

 この綿密な計画には、自分自身さえもだまされる。なぜなら私たちは、普通、自分の表層の意識しか認識できていないから、その裏に潜む潜在意識の悪だくみに気づかないのだ。

 つまり人間のほとんどの思い、言葉、行動、これらは偽りなのだ。潜在意識の欲望をかなえるための偽りのしぐさなのだ。

 人間はそれをきれいに飾りたがる。しかし瞑想等で自分の潜在意識を知れば知るほど、それは理解できる。
 私も昔、自分はなんて心がきれいな人なんだろうと思っていたんだけど(笑)、修行していてある時期、瞑想によって、汚れた潜在意識の世界をこれでもかというくらいに垣間見るようになり、愕然とした覚えがある。
 極端に言えば、自分が良かれと思って、善だと思ってやっていたことでさえ、その背後にはエゴがあり、エゴの巧妙な仕掛けにはまっていただけだったということに気づくのだ。

 そしてこの潜在意識の欲望というのは、無明によって形成された欲望なので、この潜在意識の欲望の指令に従う限り、人間は決して幸福になれず、一時の満足と引き換えに、多くの苦しみをなめなければいけなくなる。

 じゃあどうすればいいのか? 修行するしかないね(笑)。

 端的に言えば、エゴの放棄、そして四無量心。
 こういうことを徹底的に学び、考え、実践し、潜在意識に植えつけるんだ。
 無明から生じた様々な煩悩、その対極にあるのが、エゴの放棄と四無量心なんだよ。
 だからそれらを潜在意識にぶち込むことによって、苦悩を生み出す煩悩的潜在意識を消すんだね。
 四無量心というのは、ここに何度も書いてるけど、
 ①すべての魂の幸福を願う
 ②すべての魂が苦しみから解放されることを願う
 ③すべての魂の進化を喜ぶ
 ④自分のことについては捨てる。

 まあ、エゴの放棄というのは、四無量心の4番目とイコールといってもいいから、結局、四無量心なんだけどね。

 最初はなかなか難しい。でも四無量心の訓練を、苦しみながらも続けるならば、必ず潜在意識はいつか浄化されて、自然に自分と他人の利益を生じさせる人になるだろう。
 つまり今度はだんだん、潜在意識の四無量心が、自分に指令を出すようになるからだ。

 だから、潜在意識に支配されるという仕組みは変わらないんだけど、指令者の首をすげかえろということだね(笑)。今、我々の心の司令官である煩悩という悪魔は、私という王国をダメにする悪徳司令官であると(笑)。真にこの私という王国を幸福にする四無量心という司令官を、新たに任命するんだ。煩悩を追い出してね。

 もちろん、ヨーガ修行を続けると、この理解不能・制御不能の潜在意識を、理解したり、制御したりすることができるようになってくる。潜在意識においても自由になるんだね。こうなったら修行は楽だね。完全にそうならなくても、だんだんと自分の心のコントロールがしやすくなってくる。そのようにして自己の深い意識を知り、そのデメリットを知り、深い部分で心の掃除、入れ替えをしなきゃいけない。

 だからただ単にぼーっと座って瞑想しててもダメなんだ。それは表層意識の遊びに過ぎないからね。それはまだ潜在意識の術中の範囲内だから。
 ヨーガその他の技法によって、潜在意識を浄化しつつ、深く入っていくんだね。その世界っていうのはね、いろんな発見があって、すごく面白いよ。机上の心理学ではない、実践的心理学という感じだね。
 そうして深い部分の心の浄化を進めることによってね、この人生はなんとも幸福なものに変わっていき、最後には高い悟りを得るでしょう。



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体ごと神を見よ

2007-08-26 21:51:35 | 松川先生のお話

心が神や真理に向かっていると、
すべてはうまくいく
一見、うまくいっていないように見えても、
実はうまくいっている
そしてどんな状況においても、心に苦悩はなく、すがすがしい

心が魔に支配されていると、
すべてはうまくいかない
一見、うまくいっているように見えても、
実はうまくいっていない
そして低級な喜びと引き換えに、真の歓喜を失う

心を神や真理に向けるというのは、
なんというか、体ごと心を向けるという感じだ
覚悟を決めるという感じだ
そのためには強さも必要だし、
功徳と縁が最も必要だ

日々、自己と戦い、真理を見つめ、神を見つめよう
日々、自己の身と心をチェックし、修正しよう
今日の私の心は、光り輝いているかな?
今日の私の心に、闇の要素は入り込んでいないかな?
私は今全力で、最も価値ある生き方を選択しているのかな?


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悪魔の首を切り落とせ

2007-08-24 17:30:54 | 松川先生のお話
執着という悪魔が
 愛欲と嫉妬という娘を連れてやってくる
 彼女は疑いと怒りと無智という赤ん坊を生み
 人々の友情と真愛と平安を打ち砕き
 苦しみと後悔の泣き声をあげる

 心よ、すべての安らぎを打ち壊す嫉妬という女悪魔を八つ裂きにしろ
 諸悪の根元である執着という大悪魔の頭を打ち砕け
 
 心よ、お前の本来の性質は、もっとすがすがしく、軽やかで、慈悲に満ちた透明なものではなかったか
 その重苦しく、苦悩に満ち、エゴに覆われた状態はなんだ
 悪魔の娘に翻弄されたその闇の状態を恥ずべきものと思え

 智慧の剣で悪魔の首を切り落とせ
 慈悲の弓で悪魔の心臓を射抜け

 我が心が金剛の輝きを発するならば、悪魔が何かをなすことは決してできない
 
 クリアな頭と智慧を取り戻せ
 広大な慈悲の心を取り戻せ
 すべての本質を見抜く目を取り戻せ
 君の心に巣くう悪魔を切り裂くことによって

 これは、心に刻まなければならない深遠な教え
 理解できる者は実践すべし
 直感的にしか理解できない者は、深く思索すべし
 全く理解できない者は、忘れてかまわない
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安定

2007-08-24 16:32:34 | 松川先生のお話




 本来、この世界は無常と変化を習性としている。物理的な意味でも、精神的な意味でも、現象的な意味でも、一瞬たりとも、何かが固定されてとどまるということはない。

 それなのに人は、安定を求める。無常と変化を習いとする世界に安定を求めるわけだから、それは幻影の安定に過ぎない。たとえばそれは、目の前の風景が変わりだしたのに、写真を撮って、いつまでもその変わらぬ映像を見続けようとしているようなものだ。
 しかしいかにそのような幻影の安定に心を向けようと、現実は常に移り変わっていく。カルマの流れによって、創造と破壊は繰り返される。そして幻影の安定が保てなくなったとき、人はショックを感じる。でもショックを感じるほうが無智だ。だって最初からそんな安定などはないのだから。

 勇気を持って、変化の世界を受け入れよう。勇気とともに、智慧と愛があれば、この旅は楽になる。この無常の本質を見極める智慧と、受け入れる愛だ。 
 たとえば、誰かに裏切られたと言って嘆く人がいる。しかしそれは、その裏切られたと感じる現象もまた、次の何かの創造のための変化であると気づいていない無智だ。なぜそのような神のリーラを楽しまないのか。 
 この世には一瞬たりとも安定はない。しかしそれは悪いことではない。それそのものが宇宙の摂理だからね。だから智慧者は、自らの心を磨くんだ。なぜって、ありもしない幻影の安定を追い求め、結果的に自らを苦しめているのは、自らの心のとらわれだからね。
 つまりね、悪いのは世界じゃないんだ(笑)。あるいは、悪いのはあなたを裏切った、あるいはその他様々な害を与えてくるように見えるその他人じゃないんだ。未成熟な、とらわれが多すぎるこの自分の心こそが、自分を苦しめているんだね。
 とらわれなく、こだわりなく、だからといって無気力なわけではなく、純粋にこの世を見つめたとき、その人の心身は充実する。この無常の風に吹かれよう、この無常の波で波乗りを楽しもう、苦も楽も、神からのプレゼントとして喜んで受け入れようという、歓喜に満ちた心の安定がやってくるんだ。 
 そう、それがこの世における、本当の安定なんだ。世界を止めようとする安定じゃなくて、自己の心のとらわれをなくすことによって、世界の無常の本質をありのままに受け入れることによって、真の安らぎ、安定、シャーンティがやってくる。
 そしてそれは、大変な充実性と、積極性と、こだわりのなさを含んでいるよ。その人は人生において、様々なことにチャレンジし続けるだろう。しかもその成功と失敗にさえこだわらずに、全力でただチャレンジしつづけるだろう。そして多くのものを得るだろう。そしてその得たものを手放さなければいけないときにも、笑って手放すだろう。 
 そしてこの人が輪廻も放棄したならば、真に無常を超えた世界に没入するんだね。でもこの人が大きな愛を持っていたならば、衆生のために、輪廻の放棄もせずに、繰り返しこの世にやってきて、なすべき事をなすだろう。


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生命力

2007-08-20 20:55:25 | 松川先生のお話



 この間はかなり高度な、歓喜とエネルギーの話を書きましたが、今回はもう少しわかりやすいというか達成しやすい、エネルギーと歓喜の話をしましょう。

 人間が本来持っている生命力の素晴らしさを、皆さんは知っているだろうか?

 この生命力は、まず濾過され、昇華され、元素変化されなければならない。そしてこの昇華された生命力が、適切な方法で身体にめぐるならば、それはそれは素晴らしい人生が待っているだろう。

 その人は生きているだけで歓喜だ。身体は常にスムーズに動き、活力にあふれている。やるべきことに全力を注ぎ、休むときは安らかに休める。頭脳は明晰で、心は鮮明で安定する。常に心に幸福感があふれる。

 このような心身のシステムと、そのシステムを稼動させるためのエネルギーを、本来、すべての人は持っているんだ! 完全な解脱とか悟りまでいかなくてもね、ヨーガや仏教の修行を正しく進めると、ある段階で、このような状態にだんだんなっていくんだ。

 しかし、そのためのエネルギーを、我々はこのような本来の素晴らしい目的に活用していない。活用していなくても、もともとその元となるエネルギーはあるんだ。じゃあそのほっとかれたエネルギーはどうなるんだ? このエネルギーはもともと非常に強力なので、そのままにしておくわけにはいかない。だから人はそれを様々な低い形で消費するんだね。

 たとえばあるひとは怒りその他の心の興奮状態で消費する。人の心が怒りに燃えているとき、非常に大きなエネルギーを消費しているのはわかるだろう。馬鹿馬鹿しいと思わないか? 本来、強烈な歓喜と心の安定に使えるエネルギーを、心と体に悪い、自分にも他人にも悪い、怒りなんかに消費するなんて。

 あるひとは、たとえば射精という形で物理的に消費する。これももったいないね。一時的な性的エクスタシーよりも、そのエネルギーを昇華して身体にめぐらせたほうが価値がある。気持ちよさも違うし、何より終わることがない、漏れのない歓喜だからね。セックスの歓喜は非常に短く、しかも漏らした後、当然、エネルギー不足になる。

 あるひとは食物の消化という形で消費する。食物の消化には多くのエネルギーが使われる。もちろん、適度に食物をとり、それを消化することでさらに健康的なエネルギーを作り出す好循環が行なわれるならばそれは素晴らしいことだ。しかしそうではなく、単に味覚や、満腹感を追い求め、あるいはストレスなるがゆえに、あるいはそもそも昇華できないエネルギーを何とかしたいために、必要以上に食べる。そして結果的にエネルギーレベルを下げてしまう。

 このほかにも様々な形で、「煩悩」の表現により、人は聖なるエネルギーを、低レベルの形で消費し、喜んでいる。

 つまり、煩悩を昇華して聖なる歓喜に換えるというような表現が密教にはあるけれど、それは正確ではなくて、逆なんだ。もともと聖なる歓喜の源を我々は持っているんだけど、それが使えなくなっているがゆえに、低レベルの煩悩の消費という表現しかできなくなっているんだね。

 だから真の利益を知る人は、まず準備として、煩悩の習性を弱める。そしてエネルギーを本来の、最も価値のある状態で体を回せるようにしなきゃいけないね。そうすると、もう一度書くけど--その人は生きているだけで歓喜だ。身体は常にスムーズに動き、活力にあふれている。やるべきことに全力を注ぎ、休むときは安らかに休める。頭脳は明晰で、心は鮮明で安定する。常に心に幸福感があふれる。

 そのためにはナーディの浄化イコールカルマの浄化も必要だし、エネルギーを浄化して強化して上昇させることも必要だし、様々な体の詰まりを取り除くことも必要だし、もちろん心の浄化も必要だ。実はここにおいて非常に大きな利益があるのは、慈悲とか四無量心の修行と実践だ。それは歓喜のエネルギーを強めてくれる。
 まあ、本当は一番手っ取り早いのは、しっかりと高い世界の神やブッダと心を合わせることなんだけどね。

 ちょっと表現としては密教的表現だったけどね。だから我々は、戒を守らなきゃいけない。煩悩を落とさなきゃいけない。心を浄化しなきゃいけない。ヨーガや呼吸法その他でナーディを浄化しなきゃいけない。そして様々な瞑想等のプロセスを進めなきゃいけないんだね。それによって、最初に書いたように、悟りとか解脱までいかなくてもね、大変快活で充実した幸福な人生が待っていることでしょう。


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いいじゃないか

2007-08-20 20:48:43 | 松川先生のお話




 お釈迦様の在家の弟子には王様も何人かいたわけだけど、その中で第一の信者だったビンビサーラ王という王様はね、彼の最初の息子が妃のおなかにできたときに、ある仙人に、「この子は後に、父を殺すであろう」と予言されるんだね。

 それを聞いた妃は、いろいろな方法で、その子を流産させようとするんだね。しかしそれを知ったビンビサーラ王は、それをやめさせるんだけど、「でも、この子はあなたを将来殺すかもしれないんですよ」と妃が言うとね、「それがどうしたんだ。別にいいじゃないか」と、王は言うんだね。

 素晴らしいよね? そしてね、これは有名な話なんだけど、この生まれた王子は、その後、ほんとうにね、父である王を、牢屋に幽閉して、餓死させるんだ。
 しかしビンビサーラ王は、この子がね、父親殺しという大罪を犯してしまった無明のこの子が、何とか、お釈迦様のもとで、真理に気づきますようにと、祈りながらね、全く自分の死についてはこだわらず、苦しまずに、息子の不憫さだけを哀れんでね、死んでいくんだ。

 このようでありたいね。こだわるな。別にいいじゃないか。周りの者が、他人が幸せであれば別にいいじゃないか。私のエゴにこだわるな。「私が」「私は」「私の」といったこだわりを持つな。「私はこんなことをされたんです」とか、「私はこれが不満なんです」とか・・・その自分の狭い心こそが、すべての不満や苦しみの原因ではないのか? 別にいいじゃないか。ただ周りの幸せだけを、あるいは真理の実践だけを、あるいはブッダの、神の意思のもとに生きることだけをね、至上のテーマとして生きる。それを実際に実践していたこの偉大なるブッダの信者である王を見習って、生きたいですね。 

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純粋な歓喜

2007-08-20 20:46:30 | 松川先生のお話


 こみ上げるものがある。こみ上げるというとき、皆さんは何を思い浮かべるだろうか?

 怒り。感動。悲しみ。喜び。嬉しさ。

 しかしそれらこみ上げるものの正体は、ネガティブなものであれポジティブなものであれ、正体は「純粋な歓喜」なんだ。 
 
 そのこみ上げたものに何の意識も展開させることなく、純粋なまま取り出すなら、それは純粋な歓喜にほかならない。それがすべての感情の正体、エネルギーの正体だ。

 しかしそこにね、煩悩があるから、言い換えれば経験と記憶から来る間違った見解があるから、我々はその純粋な歓喜の水にね、泥や汚れを混ぜるように、悪しき感情、あるいは弱い喜びに堕落させてしまうんだ。

 ちょっと今日の日記は、あまり読み手のことを考えずに、私が自分の修行の中で感じてきたことをそのまま書いています。こういう類のことは、あまり論理的にまとめないほうが、ポイントが伝わりやすいと思ってね。

 だから煩悩即菩提という言い方もね、後期大乗仏教とかではあるけれど、あれはもちろん、煩悩を肯定しているわけではない。煩悩として何かが現われるのはハッキリ言って集中力がないからだ。でも純粋にこの世の本質に集中するなら、あらゆる感情、エネルギー、表われは、歓喜そのものになるんだ。 

 高々セックス、食べ物、地位、名誉、これらがもたらす歓喜は微々たるもんだ。だってそれは汚されたものだからね。純粋化された歓喜に集中できたら、そこで味わう歓喜は表現不可能なものなんだ。

 こういう感覚を、論理的納得ではなく、エネルギー的な修行も行いつつ、心の汚れも少しずつ取りつつ、だんだん、実質的に経験できるようになってくると、この世のあらゆる現象や、そこで感じる思いがね、歓喜に満ちたものになってくるんだ。

 だからヨーガではね、まず集中力を鍛えさせるね。瞑想とは単純に言えば集中力のプロセスだ。しかし実際にはそれを成し遂げるには徳も必要だし、煩悩を落とすことも必要だし、慈愛をはじめとした四無量心も必要だし、戒などである程度の枠組みに沿った生き方を自分に課すことも必要なんだね。それらを土台に、世界の本質に集中するんだ。あるいはね、エネルギーの浄化と、気道の浄化、そして定められた道に気を通すことによってね、それが起きることもある。とにかくある種の世界、領域に突入すると、それはトリップでもない、非常にクリアな、普通にいう鮮明というのとはまた少し違う鮮明な世界に、心は突入していくんだ。そしてそれは、歓喜に満ちているんだ。歓喜といってもね、いろんな段階の歓喜が修行ではあるわけだけど、まあとにかく、純粋な歓喜と表現するのがいいような感じにね、入っていくんだね。

 まあ、そうなったら、この世は、何があろうと歓喜だね。
 
 そしてそうなったらその人は、まず、心を乱したり、怒ったり、苦しんだりすることはほとんどなくなるだろうね。そしてどんどんね、正しい選択を取れるようになってくる。他人に対しても、他人のためになる選択を取れるし、また、何も言わないでもね、他人をひきつける人になるだろうね。なぜならその人が感じている純粋な歓喜を、他人もまたなんとなく感じ取れるからだ。

 まあ、もう一回書くけど、今日の日記は、あまり読み手のことを考えずに、私が自分の修行の中で感じてきたことをそのまま書いています。だから何か質問とかされてもあまり答えられないかもしれないけどね(笑)。


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運と徳

2007-08-20 19:58:02 | 松川先生のお話


 運勢、運命の流れというのは、当然、存在する。今日はこれこれの運が良いとか悪いとかね。
 
 しかしよく考えてみよう。たとえば極端な話、もし全くものを盗まれるカルマがない人がここにいたとしたら、この人はどんなに盗まれる運気のときでも、盗まれることはありえない。

 そこまで極端じゃなくてもね、とても徳が多くて、悪業が少ない人の場合ね、運が悪い時期というのは、その膨大な徳の中での、まあ、少し徳が発現しにくい時期という程度になるから、あまり問題はないんだね。

 だから結局ね、運気が良いとか悪いとか考える前に、まずは徳を積むこと。つまり良いカルマを増やすこと事の方がね、大事なんだよ。

 そして別の見方をするならば、運気が悪い時期というのは、必要なんだ。なぜなら、運気が悪いということはすなわち、悪いカルマを解放する時期ということだからね。そういう時期がなかったら、悪いカルマはどんどん我々の内側にたまってしまう。こういう人は、前述の例とは逆でね、運気とは関係なく常に苦しい人になる。

 だから、今後、できるだけ悪いカルマを作らないということは当然として、過去につんでしまった悪業を浄化するために、運気が悪い時期というのは必要なんだよ。だから占いとかでね、悪い運勢が出てるのを見たら、喜べばいいよ。ああ、私のカルマが浄化される時期なんだな、ってね。そしていつかはね、悪い運気のときですら、何も悪業が出てこないほど、悪業を浄化しようと、そして徳を積もうと、考えるべきだね。

 悪業の浄化によって苦しみは消える。
 徳が満ちることによって幸福は増える。
 そして最終的には、悟りを得て、良いことにも悪いことにも一切心を動かさない、完全なる真理と智慧と歓喜と愛の状態に至るべきだね。 
 その状態を目指して歩んでいる人にはね、占いとか、運気がどうとか、そういうのはあまり関係なくなるんだね。



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女中のようであれ

2007-08-19 10:43:25 | 解説・バガヴァッド・ギーター

◎女中のようであれ

【本文】
『しかし、自分の感覚を制御しつつ、対象物を楽しみながらも、それに対する好悪の感情を全く持たず、自己の魂を完全に統御している人は、至高者の恩寵たる心の絶対平安を得る。

 この絶対平安の境地においては、その人のあらゆる苦は消滅してしまう。何故なら、その安らかな心境に入るや否や、ただちに真の知性が確立されるからである。』


 はい。これもちょっと、理想論ではありますけどね。結局このバガヴァッド・ギーターの世界っていうのは、現世から離れろとは言ってない。つまりヒマラヤに入って、一切の現世の刺激から離れて、悟りを目指すと言ってるのではなくて、この世で――まあ、楽しみながらって書いてあるけども、別に積極的に楽しめって言っているわけじゃなくて――食事はおいしいし、友人との語らいは楽しいだろうと。それはそれとして、全くそれがうまくいってもそんなに喜ばず、それが駄目になっても悲しまず。
 ラーマクリシュナの言い方でいうと、ラーマクリシュナはいろんな面白いたとえを言っているわけだけど、例えば一つは、「女中のようであれ」と。女中のようであれっていうのは、女中っていうのは、お金持ちの家に働きに来て、その家の子供――私もね、実は小さい頃、うちのおじいさんがちょっと小さな会社の社長をしてて、その親族っていうのはみんなその会社で働いてて、共働きだから子供たちはおばあちゃんの家に昼間預けられてたんだね。そこにお手伝いさんがいた。だから昼間、そのお手伝いさんに育てられた感じだったんだけど。私もそのお手伝いさんの女性に、よく遊んでもらったり育てられたりしたんだけど、自分の子供のように育てるわけだね。当然、ずーっといるから、そのご主人の子供をまるで自分の子供のように、かわいがって育ててた。「ああ、かわいい○○ちゃん」とか言ってやるわけだね。しかし、そのように、「ああ、かわいい○○ちゃん」ってやって、ご飯も食べさせてもらったりして、まるで家族の一員のようでありながら、女中の心は常に本当の家にあるんです。つまりまるで本当のその主人の子供のお母さんのように振舞いながら、笑ったりいろいろしながら、常に心は本当の家族のことを忘れていない。――このようであれと。つまり、この現世の中にいて、演技してるんだね、われわれはね。現世で家族と共に暮らして、「ああ、私のかわいい子供」とか、「私の愛する旦那さん」とか、「ああ友人たちよ」とかやりながら、本当の家族は神のところにあって、本性っていうか、自分の本音は、潜在意識は常に神でいっぱいなんです。神でいっぱいなんだけども、この世で演技して生きてるっていうか。それが一つのパターンだね。そのようであれとラーマクリシュナは言ってる。そのようであったら素晴らしいね。
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修行の動機と目的

2007-08-19 10:31:59 | 松川先生のお話



 人が仏教やヨーガの修行の道に入る動機・目的には、もちろん良いものも悪いものもあるだろう。
 悪いものというのは、たとえば修行で力を身につけて、欲望をかなえようとか、何かを支配しようとか、そういう魔術的なものだね。こういう魔術的な思いで修行をすると、かならずしっぺ返しが来る。後で痛い目にあうから、やめた方がいいね。

 そうではなくて正しい修行の目的・動機にも、段階がある。

①今生と来世において、三悪趣の苦しみを断ち切るために修行する。
②今生と来世において、天の喜びを得るために修行する。
③輪廻から解脱するために修行する。
④衆生を救済するために修行する。


 まず①から説明しよう。
 三悪趣というのは、地獄・動物・餓鬼という三つの苦しみの世界だ。
 私たちは死後、これらの世界に生まれ変わる可能性がある。
 地獄は、精神的恐怖と憎しみと肉体的苦痛の世界だ。
 動物は、無智と恐怖の世界。
 餓鬼は、様々な意味での飢えに苦しむ世界だ。
 これらのどこかに生まれたら、悲惨な生が待っている。だからそれらに落ちる要素を取り除く修行をしなければいけない。
 ところで、今生と来世はつながっている。だからそもそも来世においてこれらの世界に落ちる要素があるひとは、今生においてもこれらの心の要素や苦しみは現われているということになる。

 たとえば地獄の要素が強く、来世、地獄に落ちる可能性が高い人は、今生においても、怒りっぽく、心が憎しみに満ちている。あるいは恐怖心が強かったり、闇や魔的なものを好む。そして実際、怪我をしたり、肉体的苦しみにさいなまれることも多いだろう。
 もしこの人が地獄のカルマを浄化する修行に励むならば、心は憎しみから解放され、肉体的にも気持ちの良い快適な人生を送れることになる。そしてもちろん来世も、地獄に落ちることはない。

 動物の要素が強く、来世、動物に生まれ変わる可能性が高い人は、まず性質としては無智だ。あまり深くものを考えられず、欲望や快楽を追い求め、煩悩の赴くままに生きる。そして恐怖心が強い。また、弱肉強食の環境におかれがちだ。そして来世はそのまま動物に生まれ変わり、恐怖と怠惰の中で生きることになる。
 
 もしこの人が動物のカルマを浄化する修行に励むならば、心は無智と恐怖から解放され、智性は進化し、単なる肉体的快楽を超えた、もっと高度な精神的喜びを味わえるようになるだろう。そしてもちろん来世も、動物に落ちることはない。

 餓鬼の要素が強く、来世、餓鬼に生まれ変わる可能性が高い人は、今生においても、いろいろと貪る。それはいろいろなパターンが考えられるが、代表的なものはお金と食べ物だ。食べ物を貪り食う。あるいはお金こそ人生の第一だと考える。あるいは別パターンとしては、地位や名誉や異性を貪る場合もあるし、あるいはコレクターなんかもそうだね。
 とにかく、この無常な世界においてね、何かに執着し、それを集め、手元に置くことにとらわれる。あるいは、他人はどうでもいい、自分だけがそれらを手にしたいと考える。
 たとえばここにリンゴが一つあったとして、目の前に友人がいたとする。
「これを友人が食べたら、私は何を食べたらいいんだ!」
というのが、餓鬼の発想だ。
「これを私が食べたら、友人は何を食べたらいいんだ!」
というのが、天の発想だ。
 とにかく、この餓鬼の心は、その人の心を貧しくし、失う恐怖、求めても得られない苦痛を味わわせる。
 
 もしこの人が餓鬼のカルマを浄化する修行に励むならば、このような実体のない苦しみから解放され、もっとおおらかで幸せになるだろう。そしてもちろん来世も、餓鬼に落ちることはない。


 さて、②番目について。三悪趣の苦しみがないというだけではなく、より強烈な精神的・肉体的幸福を得たいならば、我々は天の要素を身につける修行に励む必要がある。そのようにして我々は、生きているうちから、心は快活で幸福であり、肉体的にも、歓喜に満ちた肉体を手に入れることができる。そして来世は、天の世界に天人として生まれるだろう。

 ③番目。仮に天に生まれることができたとしても、天さえも無常である。天の神も死ぬ。天から地獄に落ちる可能性だってある。よってこの天も含む輪廻そのものから解放される必要がある。よって、より素晴らしいカルマを持つ人は、天さえも求めず、解脱を求めるのである。

 そして④番目。仮に自分が解脱できたとしても、それがなんだというのだろうか? もともと自分と他人の区別はないという真理がある。しかし自分と変わりないはずの多くの魂は、いまだ解脱のチャンスもなく、輪廻の中で苦しみ迷っている。よって自分は彼らを救おう、救うための智慧と力を身につけるために修行しよう、このような動機・目的こそが、最高の修行の動機・目的なのである。そしてこのような人を菩薩(ボーディサットヴァ)と呼ぶ。

 そして今日の話の結論としては、みんなにこの菩薩の道を歩いてほしいんだ。
 もちろん、そこまでのカルマがなく、「私は三悪趣から解放されるだけで十分だ」とか、「自分が解脱するだけでいいよ」と考える人は、しょうがないかもしれない。しかし少しでも菩薩の道に興味を持った人は、そのカルマがあるのだから、菩薩の道を歩いてほしいね。

 なぜなら、この菩薩の道こそが、周りに対して恩恵を与えるのはもちろんだが、本人も最も幸福で、智慧にあふれ、歓喜に満ちた存在になる道なんだよ。 

 つまり別の言い方をすれば、すべての人がこの菩薩の道を歩むこと、それこそが私の願いであるし、多くの聖者方の願いでもあるんだね。なぜならそこにこそ、苦しみからの解放、そして心の解放の秘儀が隠されているからだ。


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2007-08-18 22:17:01 | 松川先生のお話


暗黒に満ちたこの世界の
因は自己のカルマに過ぎない。
運というのもカルマに過ぎず
縁というのもカルマに過ぎない。
恩恵を身に受けようと思うなら
完全な悟りを目指すため
禁戒・勧戒よく守り
薫習の浄化に励むべし
健全な心と肉体で
根気をもって修行して
三宝に対して
信を持ち
寸分も真理から外れぬように
先達の言葉をよく聞いて
尊者の言葉をよく聞いて
タンハーを
沈静させ
積読ではなく
天への道をよく学び
貪瞋痴の滅し方をよく学び
何でも感謝し
忍辱し
ヌンをも超えた不生の世界を
念じるならば
のんきな私の心にも
反省と精進の気持ちが沸き起こる
頻繁に修行し
奮闘努力し
偏在の智慧を
本当に得よう
満身創痍で
みんなのために
Moonのように闇を照らそう
めんどくさいとか辛いとか
悶々とした思いも捨て去って
ヤントラとマントラの秘儀を尽くし
ユングらも超えた実践心理学である瞑想に励め
四種の無量心こそがその鍵だ
爛々とトゥモの炎を燃やし
凛々とした勇気を持ち
ルンとツァとティクレの道に励み
蓮華の一族のような智慧と慈悲を育て
ロンチェンパやミラレパのような真の悟りを得よ
One benefits all.それのみがすべてのためになる。



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 さて、以上は、言葉遊びのようですが、ふと思いつき、まとめてみたら意外とまとまったのでアップしてみました(笑)。

専門用語が多いので少しだけ解説します。

薫習:布にお香の香りが染み付くように、心に染み付いた様々な傾向、習慣。
三宝:仏法僧、すなわち悟りを得た覚醒者と、その教えと、その弟子たちの集まり。
タンハー:苦しみの因となる渇愛の心。
貪瞋痴:すべての煩悩の根本となる三つ。愛著と怒りと無智。
忍辱:苦しみに耐える修行。
ヌン:エジプト神話でいう原初の世界の混沌の神。
ヤントラ:象徴的図像などを使った修行。
マントラ:真言。聖なる音を使った修行。
四種の無量心:他者を慈しみ、他者の苦を悲しみ、他者の善を喜び、自己のことは捨てるという四つの心。
トゥモ:下腹部から熱のエネルギーを燃やして覚醒を目指す修行。
ルンとツァとティクレ:生命エネルギーと、エネルギーの通る管と、心の精髄を浄化しコントロールする修行。
蓮華の一族:アミターバ(阿弥陀如来)、アヴァローキテーシュヴァラ(観音菩薩)などが属する仏陀の一族。
ロンチェンパ:チベット仏教ニンマ派、ゾクチェンの偉大な聖者。
ミラレパ:チベット密教カギュー派、マハームドラーの偉大な聖者。



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鏡のヨーガ

2007-08-15 15:46:38 | 松川先生のお話
スターウォーズの中で、ヨーダのもとで修行をしているルークが、森の中でダースベーダーの幻と出会い、その首を切り落としたところ、それがルーク自身の顔になっていた、という場面があります。

 この場面については以前、「カルマの法則」という解釈で取り上げた方もいましたが、また別の角度から検討すると、これは「すべては自己の心の鏡」という仏教の教えに通じるものがあるといえるでしょう。

 この「すべては自己の心の鏡」という考え方は、私は「鏡のヨーガ」と呼んでいますが--外側の現象にはなんら実体はなく、すべては自分の心が鏡に映ったようなものに過ぎない、というものです。
 これは、よく使われるたとえを使って説明しましょう。
 たとえばここに、あなたと友人がいて、大小二つのりんごがあったとします。
 ここでその友人が大きいほうのりんごを取ったとき、もし「あいつは意地汚い」という思いがあなたに浮かんだならば、それはまさにあなた自身が、意地汚いのです。
 なぜなら、もしあなたに意地汚さ、むさぼりの心というものが全くなかったならば、相手が大きなりんごを取ろうと、「意地汚い」という思いは浮かびようがないからです。単に「ああ、彼は大きなりんごをもらえてよかったな」と思うだけでしょう。
 この法則が、すべての他者への反応に応用できるのです。
 すなわち、誰かに対して邪悪な印象を持つならば、そう思った人自身の中に邪悪さがあるからです。
 誰かを傲慢だと思う人は、その人自身の中に傲慢さがあります。
 他人の嫉妬心がよく見える人はその人自身が嫉妬深いし、他人の自己中心的なところが気になる人は、実はその人自身に自己中心的なところがあるのです。

 たとえば野生の動物を捕まえてきて、全面鏡張りの部屋の中に置いたらどうでしょうか?
 その動物は、鏡に映る多くの自分自身の姿を、自分自身とは気づかずに、吠え、あるいは恐怖し、威嚇し、あるいは逆に執着するかもしれません。
 これが我々の姿なのです。
 我々が、鏡の部屋の中で戸惑う動物を見て、「全部自分なのにバカだなあ」と笑っているように、神々も、他者との関係で喜んだり苦しんだり、期待したり恐怖したりしている我々を見て、「全部自分なのにバカだなあ」と笑っているかもしれません。

 さて、ということは、ここに心が清らかで、他者への思いやりと慈愛にあふれ、一切の執着も怒りも恐怖もない人がいたとしたら、その人にとって、この世はどう見えるでしょうか?
 すべてが愛にあふれた、すばらしい世界に映るでしょう。その人の住む世界はどこであろうと、至福の世界になるでしょう。
 だから我々は、自己の心の浄化に励まなければならないのです。

 そしてこのような人は、他者にも良い影響を与えます。
 なぜならこのような人の存在は、他者の中に眠る慈愛や幸福の要素をも、引っ張り出してくれるからです。 

 このような人になりたいですね。
 自らはどこにいようと至福の世界に生き、
 そして他者をもその至福の世界へと自然に導きいれる。 
 そのような人になりたいですね。 

 もちろんいきなりそのようにはなれません。だからまずは、他者の中から多くを学ぶ姿勢を心がけることです。
 他者の中に悪を見たならば、それは自分の心の悪が鏡に映っているのだと考え、反省し、自己の心の浄化に励みましょう。
 他者の中に良い部分を見たならば、それを喜び、称賛し、自分の中にある同じ部分を増大させるように心がけましょう。
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真愛

2007-08-14 21:13:33 | 松川先生のお話


 はるかな過去世のことを考えると、
 自分に大きな恩恵を与えてくれた魂ばかりである。

 もちろん、彼らが自分に不利益を与えた場合もあるが、
 それを考え出すと、輪廻のダークサイドに引き込まれる(笑)。

 よって、すべての衆生から受けた恩を思う。
 それを返すために、彼らを幸福にしたいと思う。

 ひたすら、他者の幸福を願う。
 しかし煩悩やエゴがあると、それは偽善になってしまう。
 そうならないように、自己の心を透明にする。
 汚れを取り除き、透明にする。

 自らのエゴを破壊し、幸福を他に与え、他者の不幸を全部引き受ける。 
 そのようなことを考え、瞑想し、そして実践する。

 こういったことを続ける者は、最も幸福になる。
 なぜなら、不幸をもたらす唯一最大の敵は、エゴにほかならないからである。
 「私が幸福になりたい」というエゴが、不幸を作り出しているのだ。
 それを破壊したとき、幸福がやってくる。

 また、他者への幸福を真に願うとき、何が起こるだろうか?
 カルマの法則から考えると、その果報は膨大である。
 なぜなら、多くの他者から、幸福を願われるという果報が発生するからである。

 衆生の幸福を願うものは、多くの神々から守護されるだろう。 
 真愛を発する者は真愛を受ける。
 気休めや表面的な優しさを発する者は、気休めや表面的な優しさを受ける。
 エゴに満ちた偽善的な愛を表現する者は、エゴに満ちた偽善的な愛を受ける。
 
 だから、真愛を発そう。
 それには、エゴの破壊が必要だ。
 真理の理解が必要だ。
 だから今こそ、修行し、エゴを破壊し、智慧を悟り、
 衆生に真愛を発そう。

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