ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

慈悲

2007-07-31 16:33:38 | 松川先生のお話





 慈悲とは、慈と悲。

 慈とは、自分の幸福を相手に捧げること。
 ということは、自分が真に幸福でなければならない。

 悲とは、相手の苦しみを自分が引き受けること。
 ということは、自分は相当、苦しみに強くなければいけない。
 あるいは、苦しみの幻影性を、悟っていなければならない。

 常にあふれる慈悲を世界に送り続けるには、
 与えても与えても減ることのない幸福と、
 苦しみを引き受けても引き受けても壊れることのない心の広さ、強さが必要だ。

 そんな存在になりたいね。
 そのためには、・・・修行だ(^^)。


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神の意思に全力を尽くす

2007-07-30 21:44:42 | 解説・バガヴァッド・ギーター



◎神の意思に全力を尽くす

【本文】
『これまで私は理論的(サーンキャ)知識を述べてきたが、以後は真智(ブッディ)のヨーガについて聞くがよい。 この真智(ブッディ)のヨーガを実践することにより、君は己のカルマ(行為、因業)から解放されることとなろう。
 このヨーガを実践すると、僅かの努力も実を結び、無駄や逆効果など一切なく、その人はどんな危険や恐怖からも護られることとなる。

 クル王の子孫(アルジュナ)よ!断固たる意志と知恵を持つ者は、一つの目的に向かって行くが、それを持たぬ優柔不断の者は、多くの枝葉に目を向けてしまう。

 知識の乏しい者達は、ヴェーダについて語りつつ、その中にある美辞麗句を弄び、これこそがヴェーダの真髄などとたわごとを言う。プリター妃の息子(アルジュナ)よ!』


 はい。バガヴァッド・ギーターっていうのは、カルマ・ヨーガ、そしてバクティ・ヨーガの教えがすごく強いんだね。今の一節っていうのはつまり――さっきから言っていることだけど、バクティ・ヨーガ、神の意思を悟り、そしてカルマ・ヨーガ――それのみに全力を尽くす。
 今日の話っていうのは、すごく真髄的なことなんだけど、さっき言ったように表現しづらいことでもあるので、みなさんもいろいろ考えて欲しいんですが。
 私はやっぱり仏教でいう菩薩の道、これが一番いいと思う。つまり修行してみんなを悟らせるような人生というか。しかしそうじゃないカルマを、今生でいろいろやらなきゃいけない人もいるわけです。例えばヨーガとか修行とかやらせようとしても、全くそんなのはひっかからない人もいる。その人はじゃあ、一切神の意思がないのかっていうと、そうじゃなくて、その人なりの今生でやらなきゃいけないことがあるんだね。もしかするとその人はそこで失敗しなきゃいけないのかもしれない。
 つまり、ものすごい煩悩にとらわれていて――ちょっと極端な例をあげるよ。煩悩にとらわれていて、お金が第一だと考えている。その人を連れて来て、「いや、お金は駄目だよ」と言っても通じない場合。この人は、全力で――例えば、ライブドアとかみたいに、全力で世界一の金持ちになろうと思って、全精力を傾けて事業に励み、すべてが崩れ、逮捕される。まあ、堀江さんがどうかは別にして、これは例としてね。そこで今生何かを悟るかもしれない。これが彼のカルマ・ヨーガの教えなんだね。でもここでね、「よし、俺はお金持ちになるぞ!」っていうときに、ここでお金じゃ駄目だって最初から気づくならいいんだけど、そうじゃなくて、お金持ちになりたいっていう気持ちはまだ強いんだけど、でも弱い心によって「いや、でもこれくらいにしとこうかな」とか、「いや、俺はお金持ちなんかになれるわけないな」とか止まってしまうと、そのお金持ちになり、破綻し、苦しみを味わい、悟るプロセスが進まないんだね。よってこの人は全力でお金持ちになる道を歩まなきゃいけない(笑)。これは一つの例ですよ。
 全てが神の意思っていうのは、そういう感じでみんなを最終的に悟らせる方向で行こうとするんだけど、でも心の弱さとか心のけがれとかが多すぎると、どっちにも行けないっていうか。さっきも言ったように、この瞬間悟れるんだったら、修行できるんだったら、それに越したことはない。でもそうじゃないのに、自分カルマのことも全力でもやらないと。これはもう最悪なんだね。
 例えばYさんとか、いつも例に出すけど(笑)、Yさんはここに最初来た時に、将来の夢をいろいろ語ってて。例えば、ヨーガの先生になりたいとか、あるいは筋肉を鍛えるインストラクターになりたいとか。でも自分の今の安定した会社に執着して、夢はあるけど動き出せないっていう状態だった。でもここでヨーガを続けて、それからインドのヴァラナシへ行って、何かが彼女のなかでバチッと変わったらしくて、そんな安定した収入とかそんなことにこだわっていても人生意味がないと。つまり彼女の一番求めるインストラクターとか、そういう道に向かって、会社をスパッと辞めて、その勉強を始めて、っていう道を全力で歩み出した。これが彼女にとっての、その時点でのカルマ・ヨーガっていうか、本当にやるべきことだったんだね。
 だからその、すごくその受け取りかたって難しいんだね。難しいっていうか、難しくないんだけど、説明が難しいっていうか。でもその辺はみなさん、柔軟な心で受け取って欲しいね。
 ここで書いてあるのは「それを持たぬ優柔不断の者は、多くの枝葉の道に心を向けてしまう」と。それは本当にその人がカルマっていうか、悟りに向かってやらなきゃいけない――例えば、さっきのお金持ちになる道でもいいよ。解脱の道でもいい。それはそれぞれ違うんだけど、優柔不断な者は――例えばお金持ちの例だったら、「ライブドア一流にしたいな」とか思いつつ、ちょっと心が弱くなって、「いや、ちょっとこっちもやったほうがいいかな」とか、「これもやろうかな」とか、「ちょっと俺は不安になってきたから、ちょっと逃げでこういう遊びをしよう」とか、いろいろそんなことをやっていると、だめなんだね。
 つまりね、その人が経験しなきゃいけないことが100個ぐらいあって、それをすべて乗り越えて次のステージに進むときに、弱い人ってやっぱりいろんなところに目を向けながら行くから、進みが遅いんだね。本当にちょっとずつ、1、2、3って進む。
 そうじゃなくて、全力で駆け抜けろと(笑)。12345678って、バーッとよそ見をせずに駆け抜けろと。それによって、カルマによって今生与えられたなすべきこと、あるいは神の使命みたいなものが消化されるんだと。


◎行動せよ

【本文】
『知識の乏しい者達は、ヴェーダについて語りつつ、その中にある美辞麗句を弄び、これこそがヴェーダの真髄などとたわごとを言う。プリター妃の息子(アルジュナ)よ!』


 はい。つまりこの時代っていうのは、ヴェーダが第一の権威を持っていた時代だから、ちょうどこれは、キリスト教でいうと、イエスが現れて――旧約聖書に基づいて、自分たちは全く真理を悟り得ていないのに旧約聖書の言葉をいろいろやりながら聖者ぶって、人々を迷妄に導いている律法学者とかに対して、イエスがバーンと現われて、「お前たちは間違っている、私がキリストだ」って言ったように。あるいは仏教でいうと――仏教もすごくたくさん経典があるので、多くの僧や学者たちが、「仏陀はこう言いました」と。「真理はこうです、こうです」と言葉を弄んでると。そうじゃないんだと。じゃなくて、行動せよと。つまりこの生を、人生を、神の意思に基づいて全力で生きろと。これが、バガヴァッド・ギーターの大きな思想なんだね。
 「ああ、これが真理か。なるほど」と研究をしている暇があったら、行動せよと。神の意思を生きろと。強烈なメッセージがあるね。



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最高の教え

2007-07-29 22:27:22 | 解説・バガヴァッド・ギーター




バガヴァッド・ギーター 勉強会 第一回
「第2章」

2006・12


◎最高の教え

 もともとインドには、ヴェーダっていう経典群があって、それが最高とされるわけだけど、時にはそのヴェーダ以上に尊重されるのが、このバガヴァッド・ギーター。だからヒンドゥー教の聖書みたいなものです。
 バガヴァッド・ギーター自体は実際は、マハーバーラタっていうものすごい長い物語があって、その中の一部なんです。
 マハーバーラタ自体は、いろんな複雑な話なんだけど、いろいろ物語があって、その中で、戦争が起きるわけだね。それは神の意思から来る戦争なんだけど。二つの国が戦争するわけですね。そのときに、主人公のアルジュナっていうクシャトリヤがいて、クリシュナ神――最初はクリシュナっていうただの人間として現れるんだけど、実はそれは神だったんですが――そのクリシュナがアルジュナの軍と、アルジュナの敵に対して、平等に加勢しようとするんだね。その加勢の内容は、どちらか一方には、クリシュナの軍勢を貸し出そうと。どちらか一方にはクリシュナ自身が参謀として就こうと。で、アルジュナはクリシュナをとったんです。つまり、その大量の軍勢は敵に回したんだけど、ただ一人のクリシュナはアルジュナが参謀としていただいたと。
 で、戦争しようとする時に、最初のほうっていうのはアルジュナが怖気づくんです。怖気づくっていうか、――まあ、これは親族間の戦争でもあったので、「私は親族と戦争なんかしたくない」と。戦の間際にクリシュナに対して、「私はもう戦いません」と言うわけだけど。それに対してクリシュナがいろいろ説いてるんだね。その内容が、このバガヴァッド・ギーター。長大なマハーバーラタの中で、戦いに迷うアルジュナに対して、クリシュナが説いた部分の教えですね。


◎真髄の教え

 で、これを、バガヴァッド・ギーターをどう読むかっていうのは、いろんな読み方がある。
 例えば、実際に今出ている本とかでも、いろいろな解説があって。昔のインド人の学者とかもいろんな解説をしてて。まあ、はっきり言うと、いろんな角度から、いろんなタイプの解説をしている。
 それのどれが正しいとも言えないんだけど――それは角度の違いでもあり、段階の違いでもあるから。だから今日の解説っていうのも、私の観点から解説をするけど、みなさんなりにまた全然違う観点で読んでもらってもいいと思います。
 私の印象としては、このバガヴァッド・ギーターの内容っていうのは、ものすごく素晴らしい内容です。もう、なんていうか、ヨーガや仏教の真髄を説いているような内容です。
 ただし、あまり――私も、あまりこの解説を積極的にしてなかったのは、真髄は素晴らしいんだけど、説明しづらいんです。
 逆に、あの『入菩提行論』っていうのは、真髄も素晴らしいし、表現力も素晴らしい。『入菩提行論』って、本質的な真髄の部分と、実際的にどうしたらいいのかっていうのを分かりやすく、われわれが感動するような感じで展開されているんですね。私の印象だとね、バガヴァッド・ギーターっていうのは、本当の真髄の部分をストレートに説いてて。修行して、たぶんみなさんが修行が進むたびに、真意が違う形で分かってくる。例えば、これを最初読んだら、「なるほど、こういう意味で素晴らしい」と思ったのが、五年ぐらい修行してから読むと、「え?こういう意味だったの?」っていう深みのある経典です。それを「こうだよ」って言うのはなかなか難しい部分があって。でも読むにはすごくいい経典ですね。


◎純粋な真理を説く

 このバガヴァッド・ギーター自体がちょっと長くて、さっき言ったように分かりにくい部分もあるので、今回はあくまでもわれわれのヨーガ修行に関係があるかな、というところから始めたいと思います。二章の途中からです。みなさんに配った分ですけども。
 ここであの――もう一回言うけども、戦いを行なっているわけですね、戦争をしているわけです。戦争をしてて、そこで、現代的にいうと、「やはり戦争は良くない」と。「平和が大事だ」ってアルジュナが言うわけだけど、それでなぜか神であるクリシュナが「戦え」と。この考えっていうのもいろいろある。それはまあ、みなさんがそれぞれ考えたらいいと思うけども。まあ、結局神の――ここでは義務っていう訳し方をしているけど、義務っていうとちょっと堅いんだけど――神の使命として、神の意思として、自分の人生があって。それをエゴではなくて、あるいは自分の観念的善悪観ではなくて、いかに純粋に神の意思に則って生を全うするか。これが一つのバガヴァッド・ギーターの発想なんだね。これは非常にすばらしい真理なんだけど、現代日本人にはなかなか受け入れられがたい。非常に純粋な真理を説いてる。それは読み進めるうちに、なんとなく心にこう、入って来たらいいですね。


◎第一におかれるもの

【本文】
『幸と不幸、損と得、または勝敗のことを一切考えず、ただ義務なるが故に戦うならば、
 決して君が罪を負うことにはならぬ。』

 はい。これはいわゆるバクティ・ヨーガ的な――今言ったことと同じだけども、つまり――私がいつも引用するユクテスワの言葉で、『あるヨギの自叙伝』の言葉で素晴らしい言葉として、「神の考える知性というのは――あるいは愛というのは、人間の利己的知性を超えている」という言葉がある。
 つまり、人間が考える善悪にしろ、あるいは良い悪いにしろ、「利己的知性」っていうんだけど――エゴに基づいた知性。われわれがそれを知性と呼んで、これは論理的にこうだから正しいとか、いろいろ言うわけだけど、土台にエゴがあるんです。エゴを土台として組み立てられた知性だから間違いなんだね。だからその、社会常識とか、そういうものと、仏教にしろヨーガにしろ、結局ぶつかるわけだけど。
 ここにも出ていますが、お釈迦様の教えにもあるんですけども、お釈迦様の教えにはストレートにこういう部分がある。
「修行者にとっての善いこと、素晴らしいことは、世の中の人にとっての悪いことである。世の中の人にとっての悪いことは、修行者にとって善いことである。」
 バガヴァッド・ギーターでも、ちょっと後の方で出てきますが、
「修行者にとっての昼は、世人にとっての夜であり、修行者にとっての夜は、世人にとっての昼である」
と。こういう表現がされている。
 エゴに基づいた生き方と、真理を求めている生き方とは、かなり逆になる。まあ、逆かどうかは別にして、あるいは自分の判断は別にして、まず神の意思というか、自分に与えられた神の意思。あるいは本当に誠実に自分が神の意思の下に、どのように何をしなきゃいけないのか。これがもしはっきりしたならば、あとはもう私にはこの道しかないって思ったときに、
「いや、でもな、これこうなるとできないかもしれないな」
とか、
「これはちょっと社会的にどうかな」
とか、それは全部言い訳に過ぎないと。クリシュナから言わせると、
「それは君の臆病さをごまかしているだけだ」
という感じになるんだね。
 だからこれは戦争がどうこうっていう話じゃなくて、戦争は一つの題材に過ぎないわけだけど。みなさんはだから、自分の人生において、何を第一として持ってくるか。それが神の意思かどうか。それが神の意思だと分かったら――こういう話すると、ちょっと危ない話になっちゃうけど――それがいかに社会的常識と外れてようが、あるいは自分が今まで学んできたものに外れてようが、関係ない。トップに置かれるのは、神の意思なんです。神の意思の下に、自分のやるべきことっていうのが、はっきり分かったら、もうそれを進むしかない。たとえエゴと違っていても。
 例えば、自分の今生の使命は、がんがん修行して解脱することだ、と気づいてしまったら、もう他のことは捨てなければいけない(笑)。それは一つの例だけど。だからといって、みんなが同じわけじゃない。例えばここで、アルジュナはこの戦において戦えといわれるわけだけど、じゃあみんな戦ったらいいのか、っていうと、そうじゃない。一般的にはもちろん、殺生とか戦いとかって、否定される。でもアルジュナにとっては、少なくともこの場面においては、ここで戦うことが彼の使命だったんだね。だからそれは当然、人によって違ってくる。例えばそれは、今言ったみたいに、人生を修行に捧げるのが使命の人もいるだろうし。そうじゃない生き方をするのが使命の人もいるだろう。まあ、使命というか、段階というか。今生で本当になすべきこと。
 逆にいうと、本当に今生でなすべきことが分かった人っていうのは、非常に幸せな人だと。多くの人はそれがわからない。
 まず第一段階としてそれがわからない。
 第二段階として、分かってしまったけどちょっと逃げに入ると。段階があるわけだけど。分かった段階でそれはとても幸せなことです。
 で、修行っていうのは、このアルジュナみたいにクリシュナがそばにいてくれたら、それは幸せなことなんだけど、そういう人は普通いないから(笑)、修行して、自分の中の自分をごまかす傾向だとか、あるいは長年かけてこんがらがった自分の表層の意識とかをどんどん解いていくことによって、わかりやすくはなってくるよね。自分の本当の心とか、自分の本当の人生の方向性とかが、見えやすくなってくる。前までは、こうかなこうかなって考えてたのが、なんとなく輪郭が分かってくる。そういう雰囲気があると思いますね、ヨーガ修行っていうのは。
 はい。ここのひとつの教訓としては、幸と不幸、損と徳、または勝敗のことは一切考えずに、われわれが日々、ただ、「これが神の意思だ」と、あるいは「仏陀の意思だ」と思えることを、ただ純粋にやる。それを日々心がけたらいい。これは私も日々、とても心がけてるし、Tさんもよく心がけてるけど、よく失敗して、「また損得を考えてしまった」とか、「未来の計画をしてしまった」とかいろいろ言うわけだけど(笑)。そういうことをやりながら、自分の中のそういう部分を形作っていく。そういう教訓になりますね。


◎神の意思――心の純粋さによって

 はい。ここのところ何か質問ありますか?

(H)神の意思っていうのは、まあ、よくわからないんですが、修行をしていくと、どんどん場面場面でわかるようになるんですか?

 そうだね。場面場面っていうか、場面場面で最初わかるようになって、で、それがいくつもいくつも連続すると、全体像がわかるようになる。「あ、自分はこういう方向なのかな」と。
 まずは場面場面だね。それはね、本当に、心の純粋さの現われとしてわかるようになる。
 ちょっとストレートに言っちゃうと、純粋だったらわかるんです。でも純粋じゃないからわからない。純粋じゃないっていうのは、ごまかそう、逃げよう、っていう修習が多すぎるんだね、小さい時から。もうそれで凝り固まっているから、わかんなくなってるんです。それがひとつひとつ修行で消えていくから、そうなると、本当にエゴを入れない状態で生きているうちに、「あ、これは神の意思だ」と。例えばいろいろな苦しいことがあっても、これはまさに神の意思だと思うようになります。で、現象がはっきりしてくる。もう、笑っちゃうくらいストレートに現象が――まあこれは私もよく言うけども、Tさんとかもそういうことあるけども――ここまでわかりやすくしてくれなくてもいいよっていうくらい、もう本当にここに神がいて、これでもかこれでもかってわれわれに指し示しているように、現象が動き出すんです。
 そうなるとね、それを神の意思じゃないって言えなくなってくるんだね。それぐらいはっきりした現象が起きる。まあ、現象だけじゃなくて、精神的にもね。例えばそんなにはっきりした現象が起きてなくても、それがわかるようになってくる。そういうことが一つ一つ続くようになってくる。それは心がだいぶ純粋化された証拠だね。
 ただ実際は、魔境に入らないように、例えば私とか、あと修行の先輩とかに、一応そういうことを聞いたほうがいいと思うね。「僕は神の意思としてこういうふうな声が聞こえてきたんですけど、どうでしょうか?」と(笑)。単なる魔境の場合もあるからね(笑)。

(一同笑)

 だからね、よく霊能者とかの言うような、神の声が聞こえたとか、そういうレベルの話じゃないんです。それははっきり言って、低レベルな話で。もっと核心に迫ることなんだね。うん。それ以外にありえないっていうか。
 でももちろんそれは間違っている場合もある。心にけがれが多い場合、自分の欲望とか願望とかがかなり加わる場合はあるけども。でもそれも修行の進み具合に応じてどんどん純粋化されていく。


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すべては神の愛の中

2007-07-29 22:22:18 | 松川先生のお話




 神の意思のもとに、我々は生きている。

 これが理解できると、あるいは少しでもその感覚がつかめてくると、こんなに楽なことはないよ。

 楽ってのは怠惰っていう意味じゃないよ。非常に積極的に、純粋に、かつ謙虚に生きられるようになるでしょう。

 最初はよく分からない。自分は自分で生きているような気がする。そしてね、こうなったら幸福だとか、こうなったら不幸だとか、いろいろな限定条件を自分で勝手に作るんだな。そしてそのなかで、喜んだり悲しんだりしている。自作自演なわけだね(笑)。

 しかし本当はそんなもんじゃないんだ。その限定を外したときにね、すべては神の愛であり、否定されるべきものは何もないということに気づく。

 しかし勘違いしてほしくないのは、努力するなということではない。努力はしなきゃいけない。この辺が難しいところだね。

 【すべては神の愛であり、否定されるべきことは何もない】ということをね、心の弱い人が、言葉通りに受け取ってしまうと、失敗します。単なるね、自己の汚れを肯定する人になってしまう。

 精神世界ではよく、「慰めの自己肯定」があるからね。そんなのは誰のためにもならないよ。超えなきゃいけないものは超えなきゃいけない。打ち破らなきゃいけないものは打ち破らなきゃいけないんだ。その努力を全力でした上で、神の愛を感じるんだ。

 日本では【人智を尽くして天命を待つ】という良い言葉があるけれど、良い言葉だね。今の自分を超えるために、ある意味では完全な自己否定を、徹底的にし続けるんだ。しかしそれそのものがね、完全なる全肯定のベースの上にあるんだよ。

 今の自己を超えるために努力しよう。自分はまだまだだ、と思い、自己の汚れを恥じ、上を見続けること。これを仏教では【ざんき】というね。
 しかしね、何度も言うけど、同時にそれは【わたしは常に神の愛の中にいる】という安心感の中にあるんだ。
 それはちょうど、コーチを完全に信頼し、喜びと安心感の中でハードトレーニングに励む、一流アスリートみたいなもんだね(笑)。
 人生は修行だ、とわたしは思う。そういう意味では自己に甘くてはいけない。慰めの言葉も要らないし、動物的な平安もいらない。自己に厳しく、自己の汚れを打ち砕き、真の神の平安、神の愛を味わいましょう。

 この話は前にも、ちょっと違う角度から書いたけどね。今日はまた別の角度から書いてみました。


 ところで、今回、【ざんき】という仏教用語が出ましたが、これはちょっと難しい字なのでひらがなで書いてるけど、【ざん】と【き】に分けられてね、このうち【ざん】とは、自分の汚れを顧みて、恥じ、より精進することなんだね。そしてこれはサンスクリット語では「hri(フリー)」というんだ。フリーっていうのは純粋識別智のブッダであるアミターバ(阿弥陀如来)の種字でもあるね。やはり阿弥陀様みたいな偉大な智慧を得るには、常に自己の汚れを恥じ、精進する気持ちが大切なのかもしれないね。
 まあ、最後はちょっとこじつけみたいだったけどね(笑)。


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慈愛と怒り

2007-07-26 19:26:27 | 松川先生のお話


 慈愛とは、自分の中の幸福を他者へ与えること。
 ということは、自分がまず幸福でなければならない。
 ここで言う幸福とは、物質や概念による幸福ではない。心の豊かさや広さ、純粋さなどがもたらす本質的な幸福のことだ。

 怒りとは、自分の中の苦しみを他者に押し付けること。
 ということは、怒っている人は苦しみにさいなまれているのだ。
 
 怒りを他者にぶつけることで、一時的には自分の中の苦しみが減ったように感じるかもしれない。
 しかし結果的には、苦しみはより増大することになる。

 本質的な幸福を得た者が、それを他者に与えたとき、一時的にはその幸福が減ったように感じるかもしれない。
 しかし結果的には、幸福はより増大することになる。


 だから、怒っている人を非難してはいけない。
 彼こそは慈悲の手を差し伸べられなければならない、救われるべき人なのだから。

 そして決して怒ってはいけない。
 それは自分の心の弱さと、恐怖と、他者への慈悲のなさから生じるものであり、そして結果的により自己の苦しみを増大させるものだと知ろう。

 そして自分の心を磨き、幸福を相手に与えるようにするんだ。
 最初はそう思うだけでも良い。
 みんなに幸福になってほしいと、思うだけでも良い。
 結果的にはそれが、自己の心を成熟させ、本質的な幸福を増大させ、
 あなたも、あなたの周りの人々をも、幸福にしていくことだろう。

 


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水瓶の中でまじりあうもの

2007-07-24 20:17:41 | 松川先生のお話





 インドを中心とした東洋の思想・文化と、西洋の思想・文化は、大きく根本から違うと思う。

 それは、東洋が【無我】あるいはエゴを弱め、捨てていく方向性を持つのに対し、西洋はエゴを増大させ、形作っていく方向性を持っているということだ。

 服を着ようとするのか、脱ごうとするのか。

 食べ物一つとっても、西洋の栄養主義に対し、東洋は少食や断食を勧める傾向が強い。しかし逆に食材の種類や料理の種類に関しては、アジアのそれは西洋の数百倍とも言われるのだが。これは【欲張らぬものは与えられる】ということだろうか(笑)。

 西洋が科学技術その他を用い、どんどんと身の回りを便利にし、モノをあふれさすことで幸福を得ようとしていた間に、インドその他の東洋の哲人たちは、身の回りのものどころか、最も大切な【自我】までも放棄することで、宇宙の真実をつかみ、真の幸福をつかもうとしてきた。

 現代では、東洋的なものにあこがれる西洋人、西洋的なものにあこがれる東洋人、といった人たちも多くなっているが、土台が違うのでなかなか難しいようだ。ヨーガなども、西洋風にアレンジされると、なんか違うような気がしてくる。また、ブランド物の【ヨガマット】などを肩にかけて街を歩くのがトレンディだ、などというテレビや雑誌の特集などを見ると、やっぱりなんか違うような気がしてくる(笑)。まあ、どんな形であれ、ヨーガが広まることは良いことだとは思うのだが。

 わたしは、【だから西洋的思想は悪い】などということを言おうとしているわけではもちろんない。
 現代は、インド占星術では、魚座から水瓶座への移行の時代といわれている。これは、分離から融合への移行の時代なのだ。
 だから今までのような不恰好な融合ではなく、真の意味で東洋と西洋の思想、価値観、技術、文化が融合できる時代がやってくるような気がする。

 そしてその旗頭となれる存在は、日本ではないのかと思うのだ。
 偉大なる大国、インドや中国ではダメだ。なぜなら彼らは今、猛烈に、西洋的な豊かさを求めているから。
 アジアの、東洋の叡智を根っこに持つ民族の中で、唯一、西洋的豊かさの限界を知り、それらを身に着けつつも再び東洋の叡智に帰ろうとしている人たち、そう、日本こそが、東西の真の融合を果たす使命を持っているのではないだろうか。
 
 そしてわたしはそこにおいて、【ヨーガ】が果たす役割は小さくないと感じるのである。

 ヨーガとは、様々な意味があるが、【合一】という意味も持つ。心と体の合一。神と人間の合一。アートマンとブラフマンの合一。そして今、東西の叡智を合一させる使命も、ヨーガは担っているのかもしれない。

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心の湖

2007-07-24 20:15:02 | 松川先生のお話





 仏教では「止観」、つまり「寂止(サマタ)」と「正観(ヴィパッサナ)」というわけだけど、正確に自分の心を見つめる、あるいは宇宙の情報を得るには、まず心が寂静で静まった状態が必要なんだね。

 よくね、インスピレーションとか、気づきとか、自己観察とか、あるいは神とか宇宙とかからのメッセージとか示唆を受けたとかね、精神世界では言うよね。いや、精神世界じゃなくても、日常でも、そういうのを大事にする人はいる。

 しかしその情報がどれだけ正確かということだね。

 わたしたちの心というのは、たとえばここに湖があってね、その中がかき回されている状態だ。

 そうなるとどうなる? 湖底の泥とかがね、ぼあっと、グジャグジャに浮いてね、何も見えないんだよ。
 これが無明だね。
 この泥っていうのは、経験の情報とでも言えばいいだろうか。それが整理されない状態で、心の湖にぼあっとグジャグジャに広がっている。

 この状態で、正確な智慧や、情報を得ることはできない。

 だからまずはね、心を静めることが重要なんだ。

 たとえばヨーガ修行を続けているとね、最初は瞑想なんて、気が散ってぜんぜんダメだったのがね、5分、10分、30分、1時間と、楽に座れるようになってくる。背筋をぴんと伸ばしてね。
 つまりこれは心が整理され、寂静になってきてるんだ。
 寂静と無智は違うよ。ただボーッとして、無智のまま時間が過ぎる、これじゃダメだ。
 じゃなくて、非常に気持ちが良く、クリアな意識で、長く座れる状態だね。
 わたしのヨーガ教室でもよくあるんだけどね、瞑想してて、はい、時間です、と言うんだけど、生徒さんが、なかなか瞑想から起きてくれないんだよ(笑)。気持ちよすぎて、瞑想をやめたくなくてね(笑)。
 
 こういう感じで、心を静めていくとね、つまり湖にグジャグジャに浮かんでいた泥がだんだん沈んで、湖が非常にきれいな水の状態になる。そうするとね、たとえば、あ、この湖の底には、こんなゴミがあったのかとか、あるいはこんな宝物があったのかとか、そういうことが分かってくるんだ。そしてそれは正確な情報になる。

 つまりそうでない場合は、私たちが見ているのは、整理されない心の泥に覆われた、幻影に過ぎないということだね。
 
 だからまずは心の静寂な状態を目指しましょう。それにはヨーガの技法や、マントラとか、いろいろ方法はあるね。あるいはもちろん、日常生活において、心の持ち方に気をつけることも必要だ。

 あるいはね、しっかりと気道を通して、体中を神聖なエネルギーで満たせば、自然に静寂な状態がやってくるよ。この静寂というのは、空虚な、弱弱しい静寂じゃなくて、なんていうか、満たされた感じの、充実した静寂だね。

 そう、そもそも静寂っていうのは、充実してるんだよ。わたしの体験ではね。充実してクリアで生き生きとした心の状態。この状態の中で、いよいよ心の探求、あるいは宇宙の探求をしていくんだ。それが瞑想だね。

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歓喜の種

2007-07-24 16:33:05 | 松川先生のお話




 わたしは普段から、何もしないでも歓喜につつまれています。歓喜というのは抽象的な意味ではなく、物理的に体中、あるいは頭や体の奥のほうが歓喜なんです。気絶しそうなほどの歓喜を感じることもあります。もちろん、心も喜びで充実し、満たされています。

 しかし、ヨーガ教室その他で、人と連続で接する時間が長くなればなるほど、歓喜は減り、疲れや痛みが出てきます。
 そして自分の修行をしたり、あるいは修行しないでも一人でいる時間が長くなるほど、歓喜は復活し、安定してきます。

 ところで、人と接して歓喜が減るということは、数学的に、わたしの歓喜が相手に移行しているということです。それは相手が自覚できるかどうかは別として、【歓喜の種】のようなものが、相手に移行します。
 ですから、これはとても良いことです。
 これはカッコをつけて言っているわけではなくて、私自身にとっても良いことなんです。
 相手に【歓喜の種】を分け与えると、一時的にわたしの歓喜は減りますが、【カルマの法則】からいって、後には、わたしの中の【歓喜の種】が、以前よりもかえって増えてしまうのです! これは今までに実体験しているので、間違いありません。

 正しく本格的なヨーガ修行は、この歓喜の種を育て、実際に歓喜につつまれた体、そして安らぎに満ちた、広く安定した心を形成していくでしょう。 
 だからわたしは、ヨーガ教室の生徒さんたちが苦悩から解放されていく姿を見るにつけ、思うのです。本当に、本格的なヨーガ修行が、もっと世の中に広まってほしいなと。そうすれば多くの人の悩みは消え、人生は歓喜に満ち、変な犯罪も減るでしょうにと。

 今、ヨーガの道に足を踏み入れている方々は、ぜひ自分の中の【歓喜の種】を育て、周りに振りまいていってほしいと思います。
 まあ、そのためにはまずは自己の修行ですけどね。

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聖なるヨーガ戦士

2007-07-16 23:41:04 | 松川先生のお話




 最近、ヨーガ教室にやってくる無料体験者や、新入会者、あるいはメール等で話すだけの人も含め、なかなか社会に適合できない人が多いなという感じがする。
 社会に適合できないというのは、「良い意味で」である。

 それらの人たちは、精神的に適合できないまでも何とかやっていたり、あるいは何か別のことで自分をごまかしていたり、あるいはまったくうまくできずに、引きこもりや、神経症、うつ病になっていたりする人もいる。
 そういう人が今、かなり多いのだ。
 そしてそういう人の中には、かなり純粋な人が多い。
 全員が純粋な人というわけではないだろうが、少なくともわたしのヨーガ教室にやってくる人たちは、純粋な人が多いのだ。

 別の言い方をすれば、今の社会でうまくやっていけている人というのは、逆に何かおかしいのではないかとさえ思う。

 わたしは小さいころから、大学に行くことも、サラリーマンになることも、結婚することもイヤだった。
 もちろん、みんなにもそれらをするなというわけじゃないよ(笑)。
 まあ、わたしは変わった子だったから、今以上にそれらが「はずせない常識」である時代に、よくそれらを分析してね、つまらない仕事とストレスと残業と飲み会が繰り返す毎日(笑)、家に帰ればまた家族とエゴのぶつかり合いがある毎日、そんな中に身を置きつづける人生なんて耐えられないと、小学生のころに思ってたんだ(笑)。ちょっと気が早すぎるけどね(笑)。
 だからわたしは中学生のころから、そのような「常識的価値観」の中に身を置くことよりも、ヨーガの修行で自己の内面を鍛え、浄化するほうに入っていったんだ。
 
 話を戻すとね、なかなか社会に適合できず、あるいは表面上は適合しているけど内側では疑問を持っている人たち。あるいは、自覚的に社会に反発心を持っている人たち。今、こういう人たちは実は意外に多いと感じる。
 そしてそういう人たちの中にはね、わたしから見ると、ヨーガ修行の素質がある人が多いんだよ。
 しかしいかんせん、彼らにはまだ「ヨーガ」がない。だから無智なんだな。そして、ある人は、心は純粋だが、心が弱い。
 しかし彼らがヨーガという武器さえ手にすれば、なぜ自分が社会に適合できなかったか分かるだろう。それが決して恥ずべきことではないということがわかるだろう。
 
 たとえばね、ヒマラヤとかの山の中の、守られた神聖な空間で聖なる境地に浸っている聖者がいたとするよ。彼が死んで、今の日本に生まれ変わってきたら、どうなると思う? きっと、聖者として成長することはないね。彼は刺激のない、ヒマラヤの中だからこそ聖者だったんだよ。それが今の日本みたいな、煩悩的情報の渦、邪悪なヴァイブレーションの渦、そして常識という幻影に囲まれた世界に生まれ変わってきたら、おかしくなってしまうだろうね。
 もちろん、その聖者が、単に聖なる境地ではなく、しっかりとした強さを身につけた聖者だったらまた別だけどね。
 
 さて、ところで、今、ヨーガがブームだ。日本や欧米で広まり続けている。ヨーガ教室も増えた。
 しかし残念ながら、そのほとんどはまだ、本物のヨーガを教えるところではない。
 しかし裾野が広がればね、人々が、本物のヨーガに増える可能性も増すわけだね。だから玉石混合なれども、ヨーガというものがどんどん広まっていくことは、とても良いことだと思う。

 そして、心が純粋で、なんだか社会に適合できないと感じている人たちが増えている。
 そして、ヨーガもどんどん広まっている。
 彼らがその中で「本物のヨーガ」に出会うチャンスを得たとき、彼らは「聖なる戦士」と変わるだろう。その道の第一歩を歩みだすだろう。

 様々な精神世界その他で、2006年から2013年とか、そういった近未来に、大きな世の中のシフトが起きるというようなことが言われ続けている。インド占星術の考えでも、今まさにこの時代は、魚座から水瓶座へとの、大きな時代の移り変わりの時代だ。
 しかし実際にそのような人類の進化の時代がやってくるとして、その中心にいるのは、決して、今の社会の中心で、権力やお金を握って「勝ち組」と言われている人たちではないと思う。あるいは今の社会で何の疑問も持たず、うまくやっている人たちでもない。

 今の社会に合わない人たちが増えている。それは時代の移り目だから、当然といえば当然なのだ。彼らがヨーガを身にまとったとき、彼らは聖なる戦士となり、堕落しきったこの日本と世界を変えるために、立ち上がるときが来ることだろう。

 といっても、勘違いしないでほしいけど、わたしはもちろん、「ヨーガをやって社会に反乱を起こせ」と言っているわけじゃないよ(笑)。

 でも、じゃあどのようにして「聖なるヨーガ戦士」たちが世の中を変えていくのかというと、それはまだ具体的にはわたしには分からない。

 でも一つ確実にいえることは、まずは素質ある者たちが、純粋なる者たちが、縁ある者たちが、しっかりとヨーガ修行等で自分の心身と魂を浄化し、磨き、鍛え、進化していくことだね。
 そのような人たちが増えていったならば、この人間界に大きな進化の変動が起きることは間違いないと思う。

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エピソード2「ラプチへの旅」

2007-07-16 23:36:48 | 松川先生のお話




 ミラレーパはあるとき、グル・マルパの指示に従い、ラプチという山に行って瞑想すべく、道を歩いていました。
 ラプチの入り口に差し掛かったとき、そこに住む人々が、飲み会を行なっていました。その席で話題に上っていたのは、偉大なヨギー・ミラレーパのことでした。
 そしてちょうどそこへ本物のミラレーパが托鉢にやってきたので、人々は喜んでミラレーパを迎え入れました。

 そこに集っていた者たちのある者が、ミラレーパに言いました。
「私は立派な牧場を持っているのですが、昼間から霊や悪魔たちが現われるようになり、そこに近づけなくなってしまいました。どうかそこへ行って、助けてくださいませんか。」

 ミラレーパは同意して、一人でそこへ向かいました。

 ミラレーパがその場所に着くと、霊たちは恐ろしい幻影を出してミラレーパを脅しました。道は上下左右に揺れ、雷がとどろき、稲妻が大地を打ち、山々は震え、川は突然激流となり、谷間は巨大な湖になってしまいました。その湖は後に「悪魔の湖」と呼ばれました。
 ミラレーパがあるしぐさをすると、直ちに洪水はおさまりました。

 ミラレーパが谷間の低いところへ行こうとすると、悪魔たちは岩を降らせて、山々を両側から遮断しました。そこで山の女神が、ミラレーパのために道を作りました。その道は後に「山の女神の道」と呼ばれました。

 小悪魔たちはすべてミラレーパに屈服しましたが、より強い力を持つ悪魔たちは、ミラレーパに反撃するために集まりました。ミラレーパはまた別の神秘的なしぐさをしました。すると突然、すべての悪しきヴィジョンは消え、空は晴れ渡りました。

 ミラレーパは丘の上に座り、慈悲のサマーディに入ると、すべての衆生に対する無量の慈悲が生じ、大きな精神的進歩とインスピレーションを経験しました。そこは後に「慈悲の丘」と呼ばれました。

 
 その後もミラレーパはしばらくその地にとどまっていましたが、あるとき、ネパールの悪魔が、多くの魔の軍勢を引き連れて、ミラレーパに挑戦してきました。彼らはさまざまな凶悪なヴィジョンを作り出し、ミラレーパを脅しました。

 ミラレーパは彼らに、カルマの真実を示す歌を歌いました。
 しかし悪魔たちは改心することなく、ミラレーパをあざ笑い、より多くの凶悪なヴィジョンを作り出しました。

 ミラレーパはしばらく思索した後に、悪魔たちに言いました。
「魔の軍勢よ。私の言葉をよく聞きなさい。
 わがグルの祝福によって、私は究極の真理を完全に悟ることができた。私にとっては、悪魔による苦難や障害は、名誉である。そのような障害や苦難が大きければ大きいほど、覚醒の道での収穫も多い。」

 そして再び、悪魔たちを改心させるための歌を歌いました。
 
 この歌によってほとんどの悪魔たちは改心し、ミラレーパに信を持ち、そして凶悪なヴィジョンは消えました。
 悪魔たちはミラレーパに言いました。
「あなたは、すばらしい力を持った、本当に偉大なヨーギーです。
 あなたに真理を説いてもらわず、神通を見せてもらうことがなかったら、われわれは決して理解でき中他でしょう。
 今後は、決して人々を困らせるようなことはしません。あなたが説いてくださった真理の話に感謝しています。
 我々の知性は限られ、迷妄は無限です。心は、かたくなな習性の沼地に浸っています。
 どうか、深遠であり、利益があり、そして理解しやすく実践しやすい教えを説いてください。」

 悪魔たちの懇願にこたえて、ミラレーパはさらに悪魔たちに、歌によって法を説きました。
 これによって多くの悪魔たちはミラレーパへの信を確定し、大きな敬意を表して、礼拝し、ミラレーパの周りを何度も回って、帰っていきました。

 しかし悪魔たちのリーダーと、その数名の従者たちだけはまだ去ろうとせず、再び凶悪なヴィジョンによってミラレーパを攻撃してきました。

 そこでミラレーパはより深い真理の教えの歌を歌い、それによって彼らは完全に改心し、ミラレーパに帰依し、自らの頭蓋骨を布施し、礼拝し、去っていきました。

 次の日、悪魔のリーダーは、従者たちと、めかした女性の幽霊たちを引き連れて、ミラレーパのもとにやってきました。彼らはミラレーパに多くの食物や酒などを布施し、今後はミラレーパに従うことを誓い、何度も礼拝して去っていきました。

 この経験によって、ミラレーパのヨーガ修行は大いに進歩しました。彼は歓喜に満たされて、一ヶ月間、そこにとどまりました。

 その後のある日、ミラレーパは、ラプチのある場所に行くために旅立ちました。旅の途中、ある岩の上に座っていると、多くの女神たちが現われ、ミラレーパに布施をして、消えていきました。

 さらにミラレーパが歩いていると、多くの悪魔たちがやってきて、ミラレーパを脅すために、道上に巨大な女性性器のヴィジョンを作り出しました。ミラレーパはあるしぐさをして、自分の男性性器のヴィジョンを現わしました。
 九つの女性性器のヴィジョンを通り過ぎてさらに進むと、女性性器のようなくぼみがある岩がありました。これはこの土地の精でした。ミラレーパが男性性器の形の岩をそのくぼみに挿入すると、悪魔たちによって作り出されたすべてのみだらなヴィジョンは消えました。

 平原の真ん中に来たとき、ネパールの悪魔のリーダーが再びやってきて、ミラレーパを歓迎しました。彼はミラレーパに布施と奉仕をし、法を求めました。ミラレーパが真理を教えを説くと、彼は岩の中に溶けて消えていきました。

 ミラレーパは大いに歓喜した状態で、その平原に一ヶ月間とどまりました。 
 


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ヨーガ

2007-07-15 23:09:00 | 松川先生のお話





 どんなにお金を持っているよりも、
 社会的に「成功」とか「勝ち組」とかよばれる状態にあるよりも、
 
 ヨーガに巡り合ったこと以上に、価値のあることはない。

 ここでいうヨーガとは、単に体操のことではない。
 人生を真理に向けて修正し、心の目を覚まさせ、生きる本当の意味に気づかせてくれる道のことだ。

 なぜかヨーガには本来、そういう効果があるんだ。
 ヨーガは思想ではない。もちろん、思想の部分もあるけど、それは脇を固めるものであってね、考え方とかではなく、心と体が真理を実体験していく道なんだ。それらの体験を通じて、思想は後からついてくる。

 そういうヨーガにあなたが出合えたならば、それは、今の社会の常識で幸せといわれるどんな状態にあるよりも幸せだし、価値があることだ。

 だからその道を歩んでいる人は、自信を持ってほしい。
 まだその道に入っていない人は、ぜひヨーガを試してほしいね。

 ヨーガに出合えると、笑えてくるかもしれない(笑)。今まで自分がなんて狭いところで、あくせくしてたんだろうかってね。
 
 少なくとも明るくなるだろう。後には悩みはなくなるだろう。
 でもその途上では、ヨーガによって逆に人生は荒波に巻き込まれるかもしれないよ。
 でもそれもまた楽しいもんなんだ。
 ヨーガを行じ、目を開き、恐れなく、人生の移り変わりの中を、渡っていくこと。その中で様々な経験を自己の成長の糧としていくこと。
 こんな素晴らしい人生はないと思う。

 あなたが何を目指そうと、仕事、趣味、芸術、何を目指そうとも、ヨーガはそのベースとなるでしょう。
 そしてこの短い人生を、輝きをもって走り抜けることができることでしょう。



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心のBGM

2007-07-09 08:05:29 | 松川先生のお話




 マントラをひたすら唱える。
 日々、何をするときも、心の中で唱える。
 そうするとそのうち、ほかの事を考えていても、BGMのように、心の中で自然にマントラが流れるようになる。

 ・・・という話をヨーガ教室の生徒さんにしたところ、
「そうなったら怖いです」
と言われた(笑)。

 そんなことはない(笑)。なぜならわたしたちの心のBGMには常に、しょうもない思考やイメージが流れ続けているからだ。
 常に心のBGMが無心な人はいないのだ。
 それに気づいているかどうかは別にしてね。
 怒り、執着、嫉妬、あるいは経験から来るどうでもいい情報。
 これらの心のBGMが常に自然に流れ、それらが気づかぬうちに重なり合い、わたしたちの思考を作り上げるのだ。

 それらのBGMがマントラになったなら、素晴らしいことじゃないか。

 なぜならマントラとは、人間の発する音の中で、最も神聖なヴァイブレーションを組み合わせたものだから。

 それらのヴァイブレーションは清浄な心を作り、またそのマントラの目的に応じた影響を、心、肉体、あるいは現象そのものに与える。

 だから常にマントラ、または日本語の聖なる言葉でもいいけれど、それらを心に流すといいね。

 そうしたら自然に、人生は浄化されていくでしょう。

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カルマの解放

2007-07-09 08:02:31 | 松川先生のお話





 流し台に汚れがこびりついていたとする。

 そこに激しく水を当てる。

 汚れはいったんはがれ、大量の水とともに流し台に浮き上がる。

 これがカルマの解放だ。

 もしそこで全く心を動かさなければ、カルマは水とともに、排水溝から流れ去る。

 しかしじっくりと耐えても、少しは心が動いてしまうだろう。

 それによって、水が排水溝に流れた後も、いったん浮いた汚れの一部が、また流し台に残ってしまう。

 しかしそれは、以前と比べればカルマは大きく減っているのだから、喜べばいい。

 最悪なのは、カルマが解放され、汚れが浮き出たとき、心を大きく動かし、たとえば憎んだり、愛着したり、あるいはそれのみならず、言葉や行為で更なる悪いカルマをつんでしまったときだ。

 これはちょうど、排水溝が詰まり、水が逆流してしまったときのようだ。

 流し台は以前以上に汚れ、悲惨な状態になってしまう。

 これなら、カルマの解放など起こらないほうがよかったということになってしまう。

 ヨーガや仏教の修行をしたり、神に心を向けると、「カルマの解放」が起こる。

 しかしそこは覚悟をもって挑むべきだ。

 すべては自己のカルマなのだから、心を動かさずに、耐えようと。

 いや、耐えるどころか、喜びを持って、カルマの解放の激流を乗り切ろうと。

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「ティクレ」第三号

2007-07-08 22:35:51 | お知らせ

ヨーガスクール・カイラスの機関誌「ティクレ」第三号が出来上がりました。

定価1000円です。

☆内容
・インド修行旅行記
・真我への道 第一回『土台』
・説法「六派羅蜜」
・クンダリニー・ヨーガのプロセス 第二回「覚醒とさまざまな経験」
・体験記「神の祝福を信じて」


湘南台・横浜・世田谷の各教室で購入可能です。

また、遠方の方は、郵送もいたします。
info@yoga-kailas.comまたは私までご連絡ください。
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エピソード1「小枝を集めるミラレーパの物語」

2007-07-08 22:11:40 | 経典の言葉・聖者の言葉
「ミラレーパの十万歌」のエピソード集



 「ミラレーパの十万歌」といえば、そのメインはもちろんミラレーパの詩であり、それは読むだけでも瞑想修行になるといわれるほどのすばらしいものです。

 しかしこのシリーズでは、あえてその歌の部分は省き、周辺的なエピソードの部分だけをまとめて紹介してみたいと思います。



エピソード1 「小枝を集めるミラレーパの物語」




 あるときミラレーパは、洞窟の中で、マハームドラーの瞑想修行に専念していました。

 ふと空腹感を感じ、何かを作ろうとしましたが、洞窟の中を見渡すと、食材はおろか、水や燃料さえも残っていませんでした。

 そこでミラレーパは洞窟の外に出て、火を燃やすための小枝を集めていると、突然激しい風が吹き渡りました。

 ミラレーパが服を飛ばされないように押さえると小枝が飛ばされ、小枝が飛ばされないように守ろうとすると服が飛ばされそうになりました。

 しばらくしてミラレーパは、反省してこう思いました。
「私はこんなにも長くリトリートにとどまって教えを実践しているのに、いまだエゴを制していない。
 エゴを克服することなく修行をしても、一体何の意味があるというのだろうか。
 好きなように風に、服や枝を吹き飛ばさせよう。」

 こうしてミラレーパは、風に抵抗するのをやめました。すると長い苦行で衰弱したミラレーパの体は、突風に耐えられずに飛ばされてしまい、気絶してしまいました。

 意識を取り戻すと、すでに嵐はやんでおり、ふと見ると、高い木の枝に、自分の着ていた服が引っかかり、そよ風に揺れていました。それを見たミラレーパの心に、この世のすべてのものに対するむなしさが去来し、強い放棄の念に満たされました。ミラレーパは岩の上に座って、瞑想を続けました。


 するとミラレーパの心に、今は離れて遠くに住んでいるグル・マルパに対する、強い思慕の念が沸き起こってきました。ミラレーパは涙を流しながら、グルに対する思慕の歌を歌いました。

 すると突然、虹色の雲に乗って、グル・マルパが現われました。マルパはミラレーパに言いました。

「わが息子よ、なぜそんなに感傷に浸って、必死に私を呼ぶのか。なぜそんなにもだえ苦しむのか。
 グルやイダムに対する変わらぬ信を持っていないのか。
 外側の世界の粗雑な想いが邪魔をするのか。
 八つの現世的な風が、洞窟の中に吹き荒れているのか。
 期待と恐怖に心を奪われたのか。
 お前はグルと三宝に、奉仕をしてこなかったか。
 功徳を、六道輪廻の衆生に捧げてこなかったか。
 悪業を浄化し功徳を増大する、慈悲の状態に達しなかったか。
 何が起ころうとも我々は離れ離れになることはないということを、確信していないのか。
 さあ、ダルマと衆生の利益のために、瞑想を続けなさい。」

 ミラレーパは、このすばらしいグルのヴィジョンによって目覚めさせられ、洞窟へと戻りました。


 
 ミラレーパが洞窟に戻ると、巨大な目をした五人の悪魔がそこにいました。
 
 ミラレーパは、
「これは私の事をよく思わない、この地の神々による魔法の現われに違いない」 
と思い、彼らに対する挨拶の歌を歌いました。

 しかし悪魔たちは消えずに、さまざまな手段でミラレーパを脅してきました。彼らの悪意を知ったミラレーパは、憤怒尊の瞑想をして強力なマントラを唱えましたが、悪魔は去りませんでした。次にミラレーパは大いなる慈悲を持って悪魔に教えを説きましたが、それでも悪魔たちは去りませんでした。

 ついにミラレーパは、こう宣言しました。
「グル・マルパの慈愛によって、私は、あらゆる存在や現象が、すべて自己の心の現われであるということを、すでに完全に悟っている。
 心そのものは、透明に光り輝く空である。
 これらの心の現われを物理的に追い払おうとするとは、私はなんと愚かだったのか。」

 そうしてミラレーパは、自分の悟りを表わす歌を歌うと、立ち上がって、悪魔たちの方へまっすぐに歩いていきました。すると悪魔たちはうろたえて、渦巻きのように消えていきました。

 この出来事によってミラレーパはまた大きな精神的進歩を得たのでした。
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