ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

「善き願いの歌」

2007-03-16 11:10:05 | 経典の言葉・聖者の言葉





すべての魂の父なる保護者、自己の目的を達成されたお方、
マルパ・ロツァーワの足元にわたしは礼拝します。

ここに集まった我が弟子たちよ、聴きなさい。
あなた方は私に親切で、
わたしは、あなた方に哀れみを感じています。

師と弟子たちが、互いに感謝し合い、
『覚者の浄土』で出会うことができますように。

今ここにいるすべての信者の方が
長生きし、永遠に栄えますように。

有害な思考が生ずることなく、
この方たちの、発願が叶えられますように。

この地方に祝福がありますように。
病気と戦争を免れ、
豊かな収穫に恵まれ、幸運が増しますように。
願わくば、信者たちがいつもダルマに専念しますように。

願わくば、わたしを見聞きした者たち、
わたしの生涯を知り、心にそれを抱いたすべての者たち、
わたしの話を記憶している者たち、
わたしの話と名前をただ聞いただけの者たちと、
覚者の浄土で再び会うことができますように。

わたしの生涯を見習って瞑想する者たち、
わたしの話を乞う者、語る者、聴く者たち、
わたしの話を読み、崇拝する者たち、
この生においてわたしを手本とする者たち、
この者たちが、覚者の浄土でわたしを見つけることができますように。

願わくば、もしも前途ある者たちが、
わたしの実践した苦行によって
瞑想することが可能であるならば、
彼らがあらゆる障害と過ちを免れますように。

苦行によってダルマの実践を行なう者たちが、
測り知れない功徳を獲得しますように。
この道に従う人を勇気づける者たちには、
測り知れない感謝が与えられるべきです。
わたしの話を聴いた者たちが、測り知れない祝福を与えられますように。
これら3つの測り知れない祝福によって、
わたしの話を聴いただけの者たちが解放を達成しますように。
それを熟考するやいなや、直ちに真の成就が得られますように。

わたしの洞窟で瞑想する者たち、
わたしの所有するわずかばかりの物を、神聖なものとして大切にする者たち、
この者たちがどこに存在しようとも、
平和と喜びがもたらされますように。

ちょうど空間が地、水、火、そして風を包み込むように、
わたしに全空間を抱かせたまえ。
神々とナーガの8つの集団と、
大勢の土地の神々が、障害を生じませんように。

願わくば、敬虔な信者たちの願いが、
真理のダルマと反発し合うことなく叶えられますように。
すべての衆生、その最も価値のない魂でさえも、
誰一人としてサンサーラの生につながれることなく、
わたしの道案内によって解放へと導かれますように。
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バクティ

2007-03-15 22:59:48 | 松川先生のお話

 任せる。

 誰に? 神に。

 自分は、今やるべきことを全力でやるだけだ。

 誠実であれば、すべてはうまくいくだろう。

 一見、うまくいっていないように見えても、それは人間の利己的知性による間違った見解かもしれない。

 実は一切は、うまくいくだろう。

 人間には理解不能かもしれないが、神の秩序と摂理のもとで、すべてはうまくいくだろう。

 神の方を向いて生きるならば。

 問題は、本当に神の方を向いているのか。それだけだ。

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サーラダー・デーヴィー(2)

2007-03-06 19:21:42 | 聖者の生涯


 1872年6月5日、ラーマクリシュナは36歳、サーラダーは18歳になっていたころのことでした。ラーマクリシュナが住んでいたカーリー寺院では、ショーダシー・プージャーという祭典が行なわれていました。
 その日、ラーマクリシュナは、一般向けの祭典とは別に、自分の部屋で、秘密の儀式を行なう準備をしていました。夜九時から行なわれたその儀式には、ラーマクリシュナの指示により、サーラダーが呼ばれていました。
 ラーマクリシュナはサーラダーに、神のために設けられた座に座るように指示しました。すでに半意識的な神的ムードに入っていたサーラダーは、ラーマクリシュナの言葉のままに神の座に座りました。
 ラーマクリシュナは祈りを唱えて女神を呼び出されました。
『おお、聖なる母よ。おお、永遠の乙女、あらゆる力をつかさどられるお方! 完成に至る扉を開きたまえ。この乙女の心身を清め、衆生の救済のために彼女自身のうちにご自身を現したまえ。』

 この儀式の間、サーラダーは、半意識のまま、動くこともしゃべることもできませんでした。そしてついにラーマクリシュナとサーラダーは完全にこの世の意識を失い、超越的な次元で一体となりました。

 こうして儀式は終わり、片田舎の素朴な少女だったサーラダーは、聖なる女神の化身としての意識と地位を与えられたのでした。

 この特別な儀式の後、六ヶ月間、ラーマクリシュナとサーラダーはひとつの部屋でともに過ごしましたが、生涯一度も肉体的な関係を持つことはありませんでした。
 それどころかこの時期、昼夜を問わずに至高の法悦状態に入り続けるラーマクリシュナに、サーラダーは戸惑いを隠せませんでした。ラーマクリシュナは夜も一睡もすることなく、神に酔った状態で意味不明の言葉を話したり、泣いたり、笑ったり、死体のように不動になったりしました。
 あるときはラーマクリシュナがサマーディに入り、死体のような状態になったまま、長い間この世の意識に戻ってこないこともありました。サーラダーは恐怖しましたが、このような時はラーマクリシュナの耳元で神の御名を繰り返せば意識がこの世に戻ってくると知り、それからはそのようにしました。しかしラーマクリシュナがいつそのような状態に入るかまったくわからなかったので、心配したサーラダーは、いつもラーマクリシュナと一緒に一晩中起きていました。そのようなサーラダーの苦労を知ったラーマクリシュナは、これからは一緒の部屋で寝ずに、少し離れたナハヴァトという場所で休むように指示しました。

 ナハヴァトのサーラダーの住居は湿気が多く、そのためサーラダーはひどい赤痢に冒されてしまいました。1875年9月、小康状態にあったサーラダーは、故郷のジャイラームヴァーティに帰りました。しかしまもなく病はぶり返し、生命の危機に陥りました。
 サーラダーの危篤を耳にしたラーマクリシュナは、非常に悲しんでこう言いました。
『どうなってしまうのだろうか。この世にやってきて去るだけなら、肉体の形をとったことの目的をいつ果たせようか!』
 サーラダー自身は、やせ衰えた自分の体を鏡で見てこう言いました。
『まったくうんざりだわ! 肉体などというものは! 今ここで脱ぎ捨てさせてください。どうしてこれ以上生かしておくことなどありましょうか。』

 あるとき、サーラダーの体中がひどくむくみ、体中の穴から体液が流れ、目もほとんど見えなくなってしまいました。
 サーラダーの弟は彼女に、
『シンハ・ヴァービニー女神の像の前に横たわり、女神が妙薬を与えてくれるまで、飲食を断つべきだ』
と言いました。サーラダーも同意し、サーラダーは飲食を断ってシンハ・ヴァービニー女神の前に横たわりました。しばらくするとついにサーラダーのヴィジョンに女神が現われ、ひょうたんの花の絞り汁に塩を混ぜたものを点眼するようにと指示しました。サーラダーが言われたとおりにすると、目が見えるようになり、病も回復に向かいました。

 ラーマクリシュナ自身もサーラダーの故郷のジャイラームヴァティに何度か訪問しましたが、皆からよく『狂った婿』として嘲笑されていました。ラーマクリシュナは時々座席から飛び上がって、
『このたびは、イスラム教徒も不可触賤民(チャンダーラ)も含めて皆が救われるだろう!』
などと叫びました。村人たちは、『なんと気の狂ったことを!』と言いました。
 ラーマクリシュナはどこへ行ってもいつも皆の中心でくつろぎ、歌と話で皆を大いに楽しませました。しかし時に人の偽善を砕く鋭い言葉や、きわどい冗談などを発し、決まりが悪くなって座を立つ者もいました。そのような時、ラーマクリシュナはその場に残った者たちに言うのでした。
『雑草抜きは終わった。さあ、腰を下ろしなさい。私が話をしよう。』



つづく
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寂しさの穴

2007-03-05 14:58:03 | 松川先生のお話


 心に寂しさの穴があるね。
 それを埋めるために、今まで、恋人とか、遊びとか、いろいろなものを埋め込んできたんだね。
 でもぴったり穴に合うものなんてありはしない。だから妥協するしかなかったんだね。
 しかもすべては無常だから、埋まったと思っても、また穴に隙間ができたり、穴がより大きくなったりもする。

 これからは、何かで埋めるのではなく、静かにその穴を見つめてみよう。
 そこは心の奥底への入り口なんだからね。
 怖がらずに、心の奥に入るんだ。

 いろんな化け物がその中にはいるだろう。
 憎しみとか嫉妬とか執着なんかの化け物がね。
 そいつらを一つ一つ整理していけ。

 トンネルを抜けたら、光の世界を見つけるだろう。
 それはもともとそこにあったもの。
 そこへの壁を作ってきたのは、自分自身だったと知るだろう。

 内側に光の世界を見つけたら、
 外側の世界も光り輝いて見えるだろう。
 なぜならこの世は、心の鏡に過ぎないから。

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修行の方法――念正智

2007-03-04 23:28:36 | 勉強会より抜粋


ヨーガスクール・カイラス 勉強会より 抜粋


2007.2.3「修行の土台、方法、目的、結果」


※いずれ全文をまとめて本にする予定ですので、ご期待ください。



◎修行の方法――念正智

 はい、そして方法。ここでいう方法っていうのは、もちろん修行法っていろいろあるわけだけど、結局のところ、最も重要なのは、この間も言ったけど、念正智です。念正智ね。
 これは何度も出てきてるね。『入菩提行論』でもたくさん出てきたけども、念正智。ここでいう念正智っていうのは、まず教えがあって、その教えを、さあいかに二十四時間心から離さずに生きるか、なんだね。ここでいう念正智はね。
 つまり、どんなに素晴らしい教えがあっても、あるいはどんなに素晴らしい瞑想の経験があっても、その時だけで終わってたらしょうがない。例えば「ああ、これ素晴らしい教えですね」と。「はい、ありがとうございました」と(笑)。で、全然違う生き方をしてる人(笑)――とかね。あるいは瞑想入ってすごい経験をした、と。私は真実を知った、と。で、瞑想から出たら、普通にもう汚れた生き方をすると。これではしょうがない。
 だから学んだこと、あるいは瞑想で経験したこと、あるいは修行してて気づいたこと、これをそこで終わらせるんじゃなくて、例えば――まあ私はよくこう見てるとね、いろんな人が「ああ、先生気づきました」と。「これはこうこうこうじゃないですか」と。「ああ、それは正しいかもしれないね」と。でもその人の生き方はあまり変わらないと。これじゃ駄目なんだね。
 気づいたこと、学んだこと、経験したことを、さあ、じゃあこれから実践しようと意志しなきゃいけない。――なぜかっていうと、意識的にそれをやらない限り、われわれの心とかわれわれの行動っていうのは、自動的に過去のカルマの総和によって動かされてるロボットみたいなものなんだね。
 つまりわれわれは今修行してて、ちょっといい教えを学んだり、ちょっといい経験をしたりしてる。でもこれは、われわれのはるかな過去からのデータバンクの中ではほんのちょっとなんです。負けるんです、普通は。意識しないとね。意識すれば勝てるんだけど。意識してないと、もう膨大なそうじゃない考え方、そうじゃない過去のカルマがいっぱいあるから、放っておくと、教えに集中してるときはいいんだけど、してないときは、もういろんな悪い考えが出たりとか、否定的になったりとか、邪悪になったりとか、で、実際にそういう行動に出たりとか、してしまうんだね。
 だからそれは、もう、監視員を心の中に置くんです。監視員を置いて、自分の心をチェックして、その変な過去の悪いカルマの流れに巻き込まれないように、そうじゃなくて君はこれで行かなきゃいけないんだよ、と。一瞬たりともそれから目を離しちゃいけないよ、と。これが念正智だね。
 念正智っていうのは、大雑把なカテゴリーだけど、それは何の念正智かっていうのはまた別問題です。それはまあ、それぞれの課題があるだろうし、あるいはそれぞれの学んでる教えがあるだろうし、それぞれパターンがあるね。
 例えばバクティ・ヨーガが好きな人は、全ては神の愛である、と。神に心を開かなきゃいけないと。これを忘れないようにする。
 あるいは例えば仏教的に、全ては無常であるとか、あるいは全ては原因と条件と結果の連続に過ぎないとか、それを念正智してもいいし。
 あるいは、衆生への慈悲とか、さあいかに人々の幸福を願おうかと。さあ私はいったい慈悲を発してるだろうかと。私の行動っていうのは人々のためになってるんだろうかと。それを日々一瞬たりとも忘れずに考えるでもいい。
 それは、中に入るのは何でもいいんだけど、そのような正しい思い、正しい行動、これを常に持続させる。これが、修行の方法です。
 だからこれもさっきの目的と同じで、例えば一日一時間くらい時間をとって懸命に修行すると。で、修行した気になってると。で、他の二十三時間は邪悪に生きてると(笑)。これじゃ全然駄目だからね。だからそういう人がやってきて「私はもう一日一時間すごい修行をしてるんです」。それで二十三時間は邪悪に生きてたら、それは修行してるとはならない。
 だから例えばね、こう座ってみんながこういうとこで修行するときっていうのは、ある意味で「準備」なんです。本番は――変な言い方だけども、修行してないとき(笑)。何で修行してるんですかっていったら、修行してないときのために修行するんです(笑)。つまりこういうふうにしっかり修行したり、教えを学んだりっていうのを集中的に行えば、修行してないときにちょっとはそれがね、やりやすくなる。よって、修行するんだって考え方もできる。
 だから本末転倒にならないようにしなきゃいけない。結局われわれは本質的に自分を変えていかなきゃいけない。修行って方法論――例えばただ呼吸法をやればいいってもんじゃない。それによってわれわれの体や心が変化して、まあ最初は体から変化して、で、心も変化して、っていうふうにだんだんなっていくのが、われわれの修行の目的だから、それをまた外さないようにしなきゃいけない。


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神聖なる自己否定

2007-03-02 17:07:03 | 松川先生のお話


 神聖なる自己否定が必要だ。
 そしてそれは実は、神聖なる自己肯定につながるんだ。

 今の自分の汚れを、決して肯定しちゃいけない。
 自分はまだまだだ、まだまだだ、と常に思い続けること。
 修行が進めば進むほど、その思いは強くなる。
 それが神聖な自己否定だ。
 そこに卑屈さはない。あるのは前進の意志だけだ。

 そして、それは同時に神聖なる自己肯定である。
 つまり自分は神に守られている。
 自分は今は汚れているが、本質的には穢れなき真我である。
 自分が真理を求め続ける限り、道は開かれる。
 そこには傲慢さはなく、また、ただの楽観視でもない。
 自己を投げ出したところにくる確信がある。

 間違った自己否定は、卑屈さを生む。それはプライドの裏返しに過ぎない。つまり間違った自己肯定が、間違った自己否定を生む。

 間違った自己肯定は、慢心を生む。それは心の弱さからくる。弱いから、逃げたいから、否定しなければならないことを肯定して、自分を安心させる。

 だから心の強さが必要だ。

 心の強さは、内側の強さだ。そして内側に強い人は、外側に優しい。

 卑屈にならずに、神聖なる自己否定をしよう。

 傲慢にならずに、神聖なる自己肯定をしよう。

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真我の純粋智性によって

2007-03-02 16:12:54 | 勉強会より抜粋



ヨーガスクール・カイラス 勉強会より 抜粋



バガヴァッド・ギーター 勉強会
「第3章」

2007・1・17

※いずれ全文をまとめて本にする予定ですので、ご期待ください。



◎真我の純粋智性によって

【本文】
アルジュナが問いました。
『おお、ブリシュニ族の子孫であるクリシュナ様! 人は自分の意志に反し、つい罪深い行動をとってしまうことがありますが、これはいったい何の力によるものなのでしょうか?』

至高者が答えました。
『その力とは、ラジャス・グナから生じる欲望と憤怒の心から生まれる。
 それは人を狂わせ罪を犯させる最大の敵である。
 煙に巻かれた炎のように、埃に覆われた鏡のように、子宮に包まれた胎児のように、人の智性もさまざまな欲望によって覆われている。
 このように、叡智は仇敵に覆われて曇っている。
 消えることのない欲望の火こそ、その仇敵である。クンティー妃の息子よ!
 欲望は、感覚器官と心と知性を住処とし、叡智を覆い隠し、人の魂を迷妄にする。
 バーラタ王の最も優れた子孫よ! まず己の感覚器官を統御し、叡智と識別智を壊そうとする罪深き欲望を完全に消し去りなさい!
 感覚は肉体より優れ、感覚より心は優れ、心より知性は優れているが、知性よりも彼(真我)はさらに優れている。
 このように、知性よりも真我は優れていることを知り、その真我の純粋智性によって己の心を制御し、大いなる勇者よ、欲望という名の恐るべき敵を惨殺せよ!』


(松川)はい。これは素晴らしいですね(笑)。まあ簡単に言うと、さっき言った、三つのグナ。三つのグナっていうのは、まずラジャス・グナ。これはわれわれの心を欲望とか怒りとかに向かわせる動きのエネルギー。
 タマス・グナっていうのは、われわれを、ボーッとした無智に陥らせる無智の闇のエネルギー。
 サットヴァ・グナっていうのは、真理を見る光を与えてくれる――まあ迷妄の世界なんだけども、その中ではいいエネルギーだね。
 で、このラジャス・グナが織り成す欲望や怒りの心によって、われわれは支配され、それによって自分の意志――つまり「私は正しく生きたい」と思っていても、グナによって発生する様々な欲望や怒りの心によって、どんどん罪深い行為をとってしまうと。巻き込まれてしまうっていうことだね。そして、つまりわれわれが悟る為の智慧を覆っているこのような欲望や怒りといったものこそが、われわれの最大の敵だと。
 これはシャーンティデーヴァと同じような表現が使われているね。「欲望は感覚器官と心と知性を住処とし」と。つまり、われわれの感覚や心や知性といったものに、欲望は住み――住みと言うか、「寄生し」と言ったほうがいいかもしれないね。それによってわれわれの叡智は覆い隠されていると。
 ここでね、「感覚は心より優れ云々」って書いてあるのは、これは仏教の五蘊と言ってもいいし、あるいはヨーガでいうところの五つの器っていう教えがあるんだけどね――それは何かっていうと、まずわれわれの最も外側にある雑なものは肉体だと。肉体よりもうちょっと内側にあるのが感覚であると。感覚よりもうちょっと内側にあるのがわれわれの心と言ってる。心よりもうちょっと内側にあるのが――これはまあ理性とか知性とかブッディとかいうんだけど。つまり普段われわれが、あーだこーだ考えてる心よりも、もうちょっと更に内側にある知性の根本みたいなもの。
 しかしそれよりもそれを超えた、それとは一切本来関係がない、純粋な真我。ね。これは仏教的に言えばわれわれの心の本性と言ってもいい。空性と言ってもいい。――これこそが最も優れているって表現をここでは使ってるけども、それは本来は相対的にこう、優れてるってもんじゃなくて、それこそが唯一本当のもんなんだっていわけだね。もうちょっと正確に言うとね。
 よって、単純なる知性――つまりわれわれがいろんなことを学んで、経験して、頭でいろいろ考えてとかそういうことよりも、全ての本質である心の本性。チベット的に言うとリクパを悟ることが最大の、最高の重要事項なんだね。だから常に心の本質を悟って、それによって恐るべき欲望という敵を惨殺せよと。
 さあ、これはどういうふうに読むかっていうのはすごく難しいことだけど、今私が言ったような説明でここの今の一連のことを説明したとしたら、これはマハームドラーやゾクチェンの教えだね(笑)。こうなるとね。
 心の本性をしっかりと悟って、それによって、相対的なわれわれの意識に根付いてる欲望は全て消えるんだと。
つまりそこにものすごい――例えばこういうことです。蛍が飛んでいると。「あ、この蛍をどっかにやんなきゃいけない。」一匹とって二匹とって……。「大変だなー」……そんなことやってるよりも、太陽の光を現わせと。つまりわれわれの本質っていうのは太陽であると。太陽の光が現れたときには蛍の光など見えなくなると。こういう感じなんだね。つまりわれわれの心の本性にアクセスすることが最も大事なんだっていう考え方だね。
 ただしここで終わっては駄目なんですよ。ゾクチェンとかマハームドラーが間違えるパターンがあるとしたら、ここで終わるだけの場合。「心の本性にアクセスすればいいんだー」って言って、この世においてあまり努力をしない。こうなると、ちょっとこう――これはね、あるチベットの高僧も言ってるんだけど、マハームドラーとかゾクチェンって一歩間違えると動物界に落ちます(笑)。つまり「心の本性だー」とか言って――まあ、まさにここで否定されてたことだけど、なんにも活動せず――なんか本当は悟ってないんだけど、そのような瞑想に入ってるような気分になって、一生を送ると。単純に無智が増大して動物界に落ちると。
 それではだめなんだね。だから心の本性に常にアクセスしながら、その心の本性から立ち現われる純粋智性によって神の意思を読み取り、それにのっとって全力で生きる。これがカルマ・ヨーガだね。なかなか難しいですね(笑)。
 
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徹底の必要性

2007-03-01 17:01:20 | 勉強会より抜粋


ヨーガスクール・カイラス 勉強会より 抜粋



バガヴァッド・ギーター 勉強会
「第3章」

2007・1・17

※いずれ全文をまとめて本にする予定ですので、ご期待ください。



◎徹底の必要性

【本文】
『バーラタ王の子孫よ! 無明なる者は果報を求めて行為をするが、賢者は、ただ世の人々を正しく導くため、何事にも執着せず活動しなければならぬ。
 果報に執着して行動する無智な者たちの心を惑わせてはならず、彼らがあらゆる行為を奉仕の精神でやるように、賢者はしっかりと導き励ましてやらねばならぬ。
 あらゆる行為は、生来のグナによってなされるのだが、真我が我執によって惑わされている者は、【私がなしているのだ】と思い込んでしまう。
 だが、偉大なる勇者よ! グナと行為をよく知る人は、自分の感覚が対象を求めているだけであって、真我はそれにかかわってはいないと達観する。
 生来のグナに惑わされ、世俗の人はグナによる活動に執着する。
 たとえそれが明智が欠けているためだとわかっていても、賢者は彼らの心を不安にさせてはならぬ。
 すべての行為を私にゆだね、いかなる欲望も所有意識も放棄し、真我に心をしっかりと定め、心乱されることなく、勇ましく戦いなさい!
 私のこの教えを信じ、あら捜しをすることなく、誠実に行動する人は誰でも、カルマの鎖から解放されて自由になる。
 だが私の教えをけなし、これを実行しないものは、無知蒙昧となり果てて、破滅の淵に沈むことであろう。 』


(松川)はい。まあ、この辺はまた――わかるよね? わかるよねって言うか……(一同笑)。まあ多分皆さんはわかると思います(笑)。
 このあいだヨーガ・スートラでも言ったし、さっきも言ったけども、真我とグナっていうのがあって、このグナっていうのは仏教的にいうと縁起によるカルマの流れと言ってもいい。その縁起によるカルマの流れをわれわれは自分だと思って、われわれの本質がそれにとらわれてしまう。
 まあ、それは仏教的比喩を使えば、本来透明で一切汚れてない水晶に、その前に何かが現われ、水晶にそれが映りましたと。で、その水晶が、自分がそれになってしまったと勘違いしてしまうんだね。これが真我とグナの関係です。で、そこで我執。つまり「これは私だ」っていう我のとらわれ。我執が生じてしまうと。そしてその人はその我執によって、どんどんどんどん悪しきカルマの輪に巻き込まれ、苦悩の中に放り込まれてるわけだね。
 だからここで、さっきからずーっと言っているように、「いかなる欲望も所有意識も放棄し、全ての行為を完全なる神に捧げなさい」と。「そして全力で生きなさい」と。「私のこの教えを信じ、あら捜しをすることなく、誠実に行動する人は……」
 これはすごく重要なとこだね。つまりこれはもう本当に純粋な信仰の重要さを説いてる。
 私は実は数年前、あることを悟った(笑)。それは何かっていうと――私はもともとね、どっちかって言うと論理的思考が好きだったんだね。つまり教えを論理的に組み立てて、悟っていくようなのが好きだったんだけど、あるとき瞑想してて気づいたんです。
「純粋な信仰には論理はいらない」と。
「汚れた疑念があるから論理が登場する」と(笑)。
 これは皆さん「え?」って思うか、「そうだな」って思うかは皆さんそれぞれだろうけど、本当に純粋な信っていうのは、エゴを超え、論理も超え、ただあるんだね。そこにね。で、そこで疑いの心とか、あるいは――ここで言う疑いっていうのは、進歩的な疑いじゃなくて、エゴによって生じる、さっきから言ってる利己的知性。エゴイズムに基づいた知性といわれるものによって、われわれは純粋な信から遠ざかり、自分であーだこーだ考えようとする。
 考えようとすればなんだって考えられるよ。例えばここでのバガヴァッド・ギーターでクリシュナが「こうだ!」って言ってることに対して「ちょっと待って」と。「それはこうじゃない、こうじゃない」って言えば、どんなことだって言えますよ、それは。でもそれは、その前に、自分は、お前はなんだと(笑)。ね。つまり君は何がしたいんだと。私は悟りたい。なぜ悟りたいかというと、「自分は徹底的に無智であって、徹底的にカルマが悪くて、苦悩の中にいるんだ」っていう最初の認識がなきゃいけない。この認識がしっかりできていたら「さあ私に光を与えてください」と。ね。「私に光を与えてくれる完全なる神の言葉は全てまず受け入れましょう」と。こういう純粋な信仰の気持ちがでるんだけど、傲慢さがあると、自分の考えとかあるいは自分の論理で、神の言葉、もしくは経典の言葉っていうのを、その概念の中に入れたがるんだね。こっから間違いが始まるんだね。
 だから――ちょっと実践的なこと言うと、われわれにまず最も必要なのは懺悔です。懺悔っていうのは、日々瞑想によって自分の過去を振り、自分の過去の悪い行ないはもちろんそうだけど、それだけじゃなくて、自分の心の汚れ――これを一つ一つ、神や仏陀に懺悔する。これを真剣に何ヶ月か、あるいは一年でも行ったならば、どういう状態になるかっていうと――「俺はどうすればいいんだ!」と(笑)。こんなに汚れの集積、汚れのかたまりの、悪しきカルマが多すぎると。なんとか私は光明を見出したいという、ものすごいすがるような気持ちになる。
 これによって純粋な信仰が生まれます。ただ、日本人は、私は思うのは、信仰というものをちょっと間違ったイメージで捉えがちなんだね。それは弱いものがするもの――実はね、なんでこういう話をしてるかと言うと、私がそうだったんです。私は昔、ヨーガ修行とか始めたとき、ヨーガはもちろん好きだったんだけど――なんで私はヨーガが好きだったかって言うと、もともと私はね、さっきも言ったように、野球が好きだったり格闘技が好きだったりして、自分を鍛えるのが好きだったんだね。ヨーガっていうのも、自分を鍛えていく道じゃないですか。鍛えて悟りに向かうっていうのが好きだったんだけど、そうじゃなくて一般にいわれる宗教とか、あるいはバクティ・ヨーガとかの信仰の道っていうのは、なんかこう心の弱い人が逃げ道として、そういうところに入って、自分では努力しないですがってるみたいなイメージがあったんだね。
 だから「いや、そういうのはちょっと俺は嫌いだ」と。俺は自分の力で切り開いていくっていうのが好きだって思ってたんだけど、段々そういう修行を進めていくと、信仰の本当の意味に気づいてきた。
「あ、俺が信仰と呼んでいたものは間違っていた」と。
「本当の信仰っていうのは非常に純粋であって、それは全く否定されるような汚れはなくて、素晴らしいものなんだな」
っていうのがわかってきた。
 こういう話をして皆さんの感じるところっていろいろあると思うけども、私はそういう経験があったわけだね。
だからここで言ってることっていうのも、すごくそういうふうに感じる。
 まあ、もちろんその前段階でだよ「君はこの道を歩みますか?歩みませんか?」っていうのはあるかもしれない。
 もし皆さんがバガヴァッド・ギーターに基づいて、それを受け入れ「さあ修行しよう」と思ったら、このクリシュナの言葉に一切――ここでは「あら探し」って書いてあるけども、利己的な言い訳とか、疑いをさしはさんではいけない。とにかくそれを全力で実践すると。ちょっと極端な話すればですよ。全力で実践して間違ってたってわかったってそれでいいじゃないですか。とにかく全力で実践するんです。全力で実践して、そして答えを得るんだね。
 これは仏教とかでも同じで――結局ね、教えっていうのは全力で実践して答えを見出さないと駄目なんです。例えば「日々正しい言葉を語って、悪口を言わなかったら、言葉のカルマが非常に綺麗になりますよ」と。声がきれいになって――まあ、言葉の世界っていうのはイメージの世界でもあるから、皆さんの夢見がよくなりますよ、とか。まあそういう例えば教えがあったとして、「本当かな?」と言う前にやってみろと。で、全力でそれをやれば必ず答えが出る。それは正しくそうなるかもしれないし、ならないかもしれない。でもなったとたらそれはその人にとっての経験であるし――こういう形で、さっきから言ってるけども、一つ一つのことを全力で達成しようという気持ちがないとだめなんだね。
 だから本当はね、これもいつも言ってるけど、修行っていうのは――最高の理想は、一つのことを徹底的にやるんです。そういうのは現代人には合わないんだけど――例えば五体投地の礼拝の修行があるとしたら、本当はそれだけを毎日やるんです。それによってわかってくる。わかってくるっていうか効果が現れてくる。でもそれはそうじゃなくて、例えば――まあ一時間、二時間ってやっただけでもかなり効果がでてきます。でも10分やって「よし、五体投地」とか言って、次の日も五体投地10分やって、そうすると「ああ、五体投地つらいなあ」と。それしかないんだけど、一時間、二時間と継続することで、その五体投地が持っている本来の意味とかが経験できるようになってくる。他のマントラとかもそうだけどね。
 ただそれはもちろんその人のカルマとかその人の状況とかあるから、全ての人がそうしなきゃいけないわけじゃないけど。そういうなんていうか、徹底的に疑念をさしはさまずに、やるんだったらやると。
 私いつも言うけどさ、疑うくらいだったらやんなきゃいい。やるんだったら疑うなと(笑)。ね。疑うくらいだったらやめればいいし、つまり半信半疑でやるぐらいだったら、全力で、少なくともそれをやる間は、全神経をそこに集中してやれと。そうじゃないと人生がもったいない。特にこの形而上的なね、修行とか精神世界のことに関してはね。
 で、もちろん何度も言うけども、その前提として、神への誠実さっていうのが必要なのは言うまでもない。つまりその全力でやるからには誠実に、何が本当に神の意思なのかっていうのを読んでやらないともったいないからね。
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