ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

精根尽き果てるまで

2007-02-27 10:16:52 | 勉強会より抜粋

ヨーガスクール・カイラス 勉強会より 抜粋



バガヴァッド・ギーター 勉強会
「第3章」

2007・1・17

※いずれ全文をまとめて本にする予定ですので、ご期待ください。


◎精根尽き果てるまで

【本文】
『ジャナカ王のような人たちも、義務の遂行によって完成の域に達した。
 ゆえに、世の人々に手本を示すため、君も自分のなすべき行為を立派に行ないなさい。
 何事であろうと偉人の行為を、一般の人々は真似るものだ。
 ゆえに、指導者的立場の者が模範を示せば、世のすべての人々はそれに追従するであろう。
 プリター妃の息子よ! 私には、三界においてしなければならぬことなど何もない。
 何の不足もなく、何も得る必要がないのに、それでもなお私は活動している。
 なぜなら、もしも私が真剣に活動しなかったならば、人類も私に見習って、誰も活動しなくなってしまうからだ。プリター妃の息子よ!
 私が活動をやめたならば、世界はやがて破滅するだろうし、望ましくない不順な人々を増やし、人々を滅ぼすこととなってしまうだろう。」


(松川)はい。前のバガヴァッド・ギーターの説明のときにも言いましたが、このカルマ・ヨーガ的な説明を読んでると、ヴィヴェーカーナンダをすごく思い出しますね。
 ヴィヴェーカーナンダってどういう人かというと、ラーマクリシュナの一番弟子ですが、彼の思想っていうのは一言で言うならば、「活動せよ」なんです。
 つまり彼こそはバガヴァッド・ギーターの、今説明してたような、カルマ・ヨーガの教えを第一においた人で、つまり世を捨てたと言いながら、瞑想ばっかしてる修行者たちを非難したわけだね。「そうじゃない」と。「君の師匠であるラーマクリシュナの意思、あるいは神の意思というのはそこにはない」と。「この世において全力で活動しろ」と。「もう、精根尽き果てるまで神の意思を実践しろ」と。で、彼らの場合はもちろん、世を捨てた修行者だから、彼らのとっての活動っていうのは人々を目覚めさせることだけだったんだね。だからヴィヴェーカーナンダっていうのはもう全力で――まあ彼の使命っていうのは西洋へのヨーガの普及だったわけだけど、もう体がボロボロになるまで世界を飛びまわって、ヨーガの普及に励んだと。
 で、ちょっとこう、「いやー、私は瞑想の人生がいい」とか言ってる人がいると、バーッと叱咤するわけだね。
「君はそれが君のグルであるラーマクリシュナの意思だと思ってるのか」と。


◎全力を尽くせ

 まあこれはね、この背景にあるのは、昔ラーマクリシュナが生きていて、もうすぐ死ぬってときね。彼は咽頭癌で死んだわけだけど、ラーマクリシュナが病床にあってもうすぐ死ぬってときに、ヴィヴェーカーナンダはラーマクリシュナのもとに行って、お願いをしたわけだね。その頃のヴィヴェーカーナンダっていうのは、とにかく自分は人から離れて修行して、悟りたいと思ってた。で、ラーマクリシュナに、
「いや、どうか私に、いつもサマーディに入れて、いつも寂静の境地に至れるような力をお授けください」
ってラーマクリシュナにお願いしたわけだね。
 そしたらラーマクリシュナは怒りだして、ヴィヴェーカーナンダを叱ったわけですね。
「お前はなんてつまらないことを考えてるんだ」と。
「お前は後に偉大なる存在となって、多くの人がその木陰で安らぐように、多くの人を安らがせる存在とならなきゃいけない」と。
「それが君の使命なのに、君は今自分の平安をひたすら求めている。恥を知れ」
というふうに言ったわけだね。
 それでやっとヴィヴェーカーナンダは自分の師匠の愛の偉大さってのに気づいて、涙したって話があるわけだけど。
 それを心の根本にヴェヴェーカーナンダは置いていたので、兄弟弟子とかが自分の修行だけに没頭しようとすると、叱ったわけだね。「君はラーマクリシュナの意思をわかっていない」と。「彼の意思はまさに人々の覚醒の為に働くことだ」と言って、ひたすら活動しまくったわけですね。
 だからカルマ・ヨーガの、バガヴァッド・ギーターの話しっていうのはまさに――今ちょっとこの一節とかはそうだけども――もちろんこれはいろんな段階があるよ。段階があるっていうのは、例えば、修行すらあまり興味がないと。自分の解脱すら興味がないっていう人に関しては、どうすればいいのかと。それは私はね、その人が興味のあることを全力で行えばいいと思う。例えば「私は今野球選手になりたい」と。「修行とか言われても全く興味がない」と。それだったらもう全力で野球やれと。
 でも普通はそうじゃないんだね。「修行興味ありません」と。「野球選手……なりたいなー」と言いながら無駄な毎日が過ぎていくと。野球選手になりたいんだったら、じゃあ野球に全力を注げと。それによってね、例えばその人が全力で野球に打ち込んで、成功するかもしれない。失敗するかもしれない。しかしそれは素晴らしい経験になるんです。彼の段階ではね。で、それが彼がそのような全力でいろんなことに打ち込むことを繰り返して、人生の後半で修行に向かうかもしれない。あるいは向かわないかもしれないけど、そういうことを何生も繰り返しているうちに、必ず修行に向かいます。でも全てを中途半端にやってる人っていうのは全然カルマが――さっきのEさんを例に出した話しでも言ったように――全然カルマが悟りに向かわないんだね。
 だから修行とか、あるいは人々の救済とかに向かえばいいけど、そこまでまだカルマがない人は、今自分が興味があるっていうか、そういうことに全力で向かえばいい。
 私はね、前も言ったけど、自分の自慢をするわけじゃないけども、私は経験する前に悟った(笑)。どういうことかって言うと、小さい頃に野球選手になりたくて、「あー、野球選手になりたいなー」って思って、頭の中でいろんなシュミレーションして、イメージしてたんだ。巨人軍に入って、エースとして大活躍して、芸能人と結婚して、大金持ちになって、国民的ヒーローになって惜しまれて死ぬと。
 そこまでイメージしたときに、「え? そんなもん?」と思った(笑)。「俺がこの世に生まれてきた意味はジャイアンツ?」って考えたときに、「え! そうじゃないだろう」って思って(笑)、そこで野球選手の夢は消えた(笑)。
 つまりその、あきらめたわけじゃなくて「え? それ、なんか意味ないな」って思っちゃった。多分それはだから過去世において経験してたんだろうね。そういう欲求の意味のなさっていうのをね。過去世において、いっぱいそういう経験がある人っていうのは、最初から修行に心が向かう。そうじゃなくて、この世で全力で何かにぶち当たって、それによって破壊されたりして、目覚めなきゃいけない場合もあるんだね。
 だからそれはもう徹底的に、そのときそのときの、心が集中するところに全力でかたむければいい。そうじゃなくて、修行というものに価値を見出し始め、悟りとか解脱とかに価値を見出し始めた人はそれに全力を尽くせばいい。そうじゃなくて更にもっとカルマがよくて、「人々の為に働きたい」と。そういうとこに価値を見出し始めた人は、もちろんそれに全力を尽くせばいい。
 で、ここに書かれてるのはもちろん、最終的な理想だね。


◎修行者の責任

 だからこれはね、一つ一つの詞の意味を説明するんじゃなくて、今さっき読んでもらったとこの全体として言うと、これはわれわれ自身が衆生の見本にならなきゃいけない。これは私はいつも言うけども、こういうこというとちょっと重く感じるかもしれないけど、真理というものがあったとして、それに最初に、悟らなくても、ちょっとでも最初に触れた者は責任があるんです。これはいつも言ってるけどね。
 特にここにいる皆さんていうのは、真理に触れたじゃなくて、実際に修行を始めている。ま、それは最初は健康の為のヨーガ修行だけだったかもしれない。しかし、そうじゃなくていろんな勉強会を聞いたりとか、あるいは自分の日々の修行を進めることによって、世の人々がはまっている様々な煩悩の苦しみではなくて、そこから脱出した素晴らしい心の本性の静けさ、喜び、至福みたいななものに、完全にではなくてもちょっと気づき始めてる。これは責任があるんです。まだ気づいてない人に、その道を教えてあげなきゃいけない。あるいは自分がその見本とならなきゃいけない。
 別に皆を強引に引っぱってきて、「お前修行しろ」ってやる必要はないんだけど、皆が皆さんを見て、「あ、彼はなんか幸せそうだな」と。あるいは「あ、彼は輝いてるな」と。
 まあ例えばね、極端な話を言えば、お釈迦様の一番弟子のサーリプッタ。彼がお釈迦様の弟子になったのは、お釈迦様の古い弟子だった、アッサジって人がいて、アッサジを見てなんですね。つまりアッサジが普通に歩いてただけなんだけど、そこから――まあサーリプッタも素質があったわけだけど、「彼はただものではない」と思った。アッサジが普通に歩いてたんだけど「あの振る舞いはただものではない」と(笑)。すごい人物に違いないって言って、聞いたら、「いや、私はたいしたもんじゃない」と。「ただ私はお釈迦様という方の教えを学んでるだけなんですよ」と。「じゃあその教えをぜひ教えてください」と言って、教えてもらって――まあその教えを聞いただけでサーリプッタは悟っちゃったんだけど(笑)。ちょっと素質が違うんだけど(笑)。
 ただ、まあそのときのアッサジみたいに、われわれはなんなきゃいけない。つまり多くの人が「なんかちょっと彼は違うな」と。あるいは「あのように生きればいいのかな」と。「あのように生きれば幸せそうだな」と。
 だからもちろん言葉によって法を説くのも大事なんだけど、言葉じゃないんだね。結局は。重要なのはね。言葉ももちろん必要なんだけど、その人が話すヴァイブレーションとか、エネルギーとか、あるいは行動がかもし出す影響ね。
 だからもしこの中で将来的にヨーガの先生とか、あるいは瞑想の先生とかなる人がいるかもしれない。その人に言っておくと、相手に利益を与えるのは言葉じゃありません。こちら側の神聖なエネルギーです。だから皆さんが人と話すときに覚えておいたらいい。例えば困ってる人がいて、その人になにか相談を聞いてあげるときに、三時間その人に話をするよりも、二時間半修行して、三十分話した方がいい(笑)。その方が相手にいい影響を与える。絶対に。ね。
 あるいはもちろん修行だけじゃないんだけど、日々その人が正しい生き方を繰り返して、その影響を相手に与えてあげたほうが絶対に利益になる。
 だからこのへんは大乗的な話と関わってくるわけだけど、自分の修行とか、正しく生きるとか、カルマ・ヨーガそのものが、単に自分の悟りの為にあるんじゃなくて、それを見た周りの人達、あるいは自分と縁のある人達になんらかの影響を与える為に、あるんだと。そういう責任があるんだということだね。

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第6章 ディヤーナ・ヨーガ

2007-02-27 09:14:59 | ハタヨーガ・スートラ



(1)[粗大なディヤーナ]

 自分の心臓の中に、至上の甘露の海を観想すべし。
 その大海の真ん中に、高貴な宝石の砂でできた島がある。
 島には美しい花を豊かにつけた木が生い茂り、花の香りが四方に立ちこめている。
 この島の中央に魅惑的な一本の樹があるとヨーギーは想像すべし。この樹には四本の枝があり、常に花と実がついている。これは四ヴェーダをあらわしている。
 そこでは大蜂がうなり、鳥が歌っている。
 行者は不動の心で、そこに宝石作りの庵を想像すべし。
 その庵の中央にはすばらしい椅子があって、自分のイシュタ(理想神、守護神)がその上に座したまうとヨーギーは想像する。この観想の仕方はグルたちが古来から説いてきたことである。
 そして、この守護神の姿はどうか、装身具や持ち物はどんなものか、と絶えず観想することが、いわゆる粗大なディヤーナである。

   [粗大なディヤーナの別法]

 千の花弁のある大蓮華の花心の上に、十二の花弁を持つ可憐な小蓮華がついていると観想すべし。
 その小蓮華は白色で、強い光を放っている。
 この小蓮華の中心に三角形があり、その中央にオウム字が鎮座する。
 オウム字の上にはナーダがあり、その上に二羽の白鳥がおり、そして行者のグルなる神が、三つの目を持ち、真っ白な衣を着け、ビャクダンの粉末を身に塗った姿でましますのを観想すべし。
 そして、グルなる神の真っ白な花をつづった首飾りと、左に寄りそう、鮮血にまみれたシャクティ神妃を観想すべし。
 かような仕方でグルを観想することによって、粗大な観想は終了する。

(2)[光明のディヤーナ]

 この光明のディヤーナを修習すれば、ヨーギーはヨーガを達成し、真我を直観するに至るであろう。
 ムーラーダーラの部位に、蛇の姿をしたクンダリニーがおられる。そこにジーヴァートマン(自己の魂)は灯明の炎のような姿で立っている。これを光明体なるブラフマンとして観想すべし。
 これが至高の光明観想である。

   [光明のディヤーナの別法]
 
 眉間の中央、ブラフマ・ランドラの上に、聖音オームよりなる光がある。この炎を観想すべし。これが光明観想である。

(3)[微細なディヤーナ]

 グルの祝福という大きな幸運を受け、行者のクンダリーが目覚め、そのクンダリーが行者の真我と一体化したとき、それは目の穴から行者の身体の外に出て、外の世界を散歩する。ただし、それは普通の人の目には見えない。

 ヨーギーはシャーンバヴィー・ムドラーなるディヤーナ・ヨーガによって、この行を達成することができる。
 この微細なるディヤーナは秘法であって、神々といえども容易に得がたいものである。

 光明のディヤーナは粗大なディヤーナの100倍、微細なディヤーナは光明のディヤーナの100万倍も優れている。
 これらの方法によって、真我は直観されるに至るであろう。それゆえにこのディヤーナ・ヨーガは尊重せられるのである。
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常に本質に心を合わせて

2007-02-26 19:54:59 | 勉強会より抜粋


バガヴァッド・ギーター 勉強会
「第3章」

2007・1・17

※いずれ全文をまとめて本にする予定ですので、ご期待ください。





◎常に本質に心を合わせて

【本文】
『このように回転する法輪に従って正しい行為をせぬ者は、必ずや罪深い生活を送り、感覚的快楽に浸ってむなしい一生を終えることであろう。
 だが自己の本性を知り、それに満足し、喜び、それに安らぎ、楽しむ人にとっては、もはやなすべき行為は何もなくなる。
 そのような人にとっては、行為しなければならぬ目的もなく、行為せぬことによって失うものもない。
 したがって、他の何ものにも頼る必要はまったくないのだ。
 ゆえに、行為の結果に執着することなく、ただ己のなすべき義務としてそれを行ないなさい。
 なぜなら、無執着の心で行動することによって、人は至高の境地に達しうるからである。』


(松川)はい。ここまでというのは、もうさっきから言ってることの繰り返しだけどね。つまり無執着の心で神の意思としての行為をひたすら行ないなさいと。で、それは永遠不変のブラフマン――つまりこれは神といってもいいし、自己の本性といってもいいんだけど――まあ、だからチベット的な言い方をすると、常にリクパに心を合わせなさいと。そうすれば――もうちょっとかみ砕いて言うと――リクパ、あるいは智慧、あるいは神の本性と言ってもいいが、それに心を合わせ続けて生きるならば、絶対に、純粋に、今何を為すべきで、何を為すべきでないかわかるんです。
 あのね、私もよくこういうことがある。例えば、いろんなことで迷う。ね。「これどうすればいいのかな?」って何時間か迷ってる。こういうときの最大の対処法は、修行して瞑想することです。修行してしっかり瞑想すると答えが出ます。で、それは出ないときもあるけど、出ないときは自分の瞑想が足りないときで――出たときっていうのは、もうね、それ以外にないんです。もう、一つなんです。「こっちとこっちがあるけど、今日はこっちにしとこうかな」じゃなくて、「あ、なんでこれがわかんなかったんだろう」ってぐらいに出るんです。
 で、それはものすごく理想なんだけども、常にわれわれが宇宙の本質、あるいは心の本質に心を合わせ続けて生きていたならば、そのときそのときの、正しい行為、正しい心の持ち方、正しい供養の仕方が当たり前のようにわかるんです。そのような生き方で、一切の行為の結果にも執着せず、行為そのものにも執着せず、生きなさいってことだね。

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神への誠実さを持って

2007-02-26 18:35:02 | 勉強会より抜粋

ヨーガスクール・カイラス 勉強会より 抜粋



バガヴァッド・ギーター 勉強会
「第3章」

2007・1・17

※いずれ全文をまとめて本にする予定ですので、ご期待ください。




◎神への誠実さを持って

【本文】
『ゆえに、君は定められた義務を成し遂げるがよい。行為をせぬよりは、行為をするほうがはるかによいのだ。
 第一、君は行為しなかったら、自分の肉体を維持することさえできないだろう。
 行為を至高者への供物としなければ、そのカルマが人をこの世に縛り付けてしまう。
 ゆえに、クンティー妃の息子よ! 行為の結果を至高者にささげ、ただひたすらに活動するがよい。 』

(松川)はい。まず、『定められた義務を成し遂げるがよい。行為をせぬよりは、行為をするほうがはるかによいのだ。』――あの、この辺のね、全体に言えることなんだけど、ここで出てくる「義務」っていう言葉、これは何かっていうことだね。これはすごく説明が難しい。
 説明が難しいっていうのは、もともとこのバガヴァッド・ギーターっていうのは、大昔からいろんな人が解説してる。で、それぞれの立場からいろんな解説をしてるね。それだけね、逆に言うと、多種多様な解説が可能な経典です。それぞれの例えば段階とか、それぞれの立場とかによって、いろんな解説が可能になってくる。
 で、私も今までの修行とか、勉強とかを土台として、このバガヴァッド・ギーターの解釈っていうかな、感じるところはいろいろあるわけですが、それを皆さんに説明するのは非常に難しいっていうか(笑)。でもそう言ってたら勉強会にならないので、なんとかね、説明したいと思いますが。
 『定められた義務を成し遂げるがよい。』――この義務というのは、ちょっと端的な言い方すると、神から与えられた、われわれが解脱に達する為の、今生の使命です。で、それは、大きなことから小さなことまでたくさんある。大きなことっていうのは、例えば、「いや、私はこれから修行一筋に生きて、多くの人が真理に目覚める為だけに人生を捧げます」って考える人がいるかもしれない。それはその人にとってはその思いっていうか、その行動に人生を捧げることが、その使命っていうことだね。
 で、小さなことっていうのは、そうじゃなくて、日々生じるいろんなこと。例えばさっきTさんが「お茶を入れなきゃいけない」とか言ってて、そこでCさんが「じゃ、私が録音の用意しようか」と。これはまさに神から与えられた使命だと。つまりもう必然的に自分がそれをやるような感じになる。それはもう、そこで「え! なんでTさんもっと早く用意しないんだ」とかじゃなくて、「あ、これはもう神から与えられた使命だ」と。全力でやるんだね。
 まあこれは今、一つのわかりやすい例だったけど――だから逆に言うとね、この部分ていうのは実は非常にわかりにくいんです。だから、私にとって今、神の意思とはいったい何だと。神が私に与えた使命とはいったい何だってことを、日々、小さな事から考え続けること自体が修行になる。
 で、慢心とかエゴが強すぎると間違います。でもいつも言うけども、私はやっぱり最も修行において――修行においてっていうよりも、われわれが生きるうえにおいて最も大事なのは、神への誠実さだね。誠実さ。
 誠実さがあれば、間違うのはしょうがない。じゃなくて、不誠実にエゴによってわざと間違う、あるいは、エゴによって自分の利益をとってしまうようでは、それはもちろんカルマ・ヨーガにはならない。
 言ってることわかるかな? つまりまだわれわれの智慧が十分でない場合、本当に誠実に「いや、これは神の意思だろう」と思ってやっても、もしかするとそれは履き違えるかもしれない。でもそれはしょうがないんだね。で、その場合、私の経験では、間違った場合、神から鉄槌がきます(笑)。つまり間違った場合、ガーンッて、例えば現象がぐじゃぐじゃになったりして、そこで気づきます。「あ、間違いだった」と(笑)。「やっぱりあっちのほうが正しかったんだな」っていうのがわかる。そうやって修正していけばいい。
 これを繰り返すと――いいですか? われわれは段々わかってきます。しかし次の問題があります。段々わかってきたが、実行しにくいって段階があります。それはなぜならば、結構、神の意思は厳しいからです(笑)。で、段々ね、正解をとれるようになってくるんです。正解をとれるっていうのは「さあこの現象において私はどうするのが神の意思かな」っていうのを、潜在意識っていうか、深い意識は実はわかってる。答えが。でもそれはエゴが嫌がることだから、避けたがる。で、知らないふりして「こうかな、こうかな」ってやってるんだけど、それでまた失敗すると。で、これを繰り返すうちに、でも「やっぱ神の意思はこれしかない」って追い込まれて、そっちをとると。で、その練習をするうちに、今度は心から喜んで神の意思をとれるようになってきます。それは経験によってわかるんだね。今まで自分はエゴの側についてたけども、そうではなくて、一見苦しそうに見える神の意思をとることが、本当は私にとっては最高の喜びだって気づきはじめるんです。
 この喜びに気づいた人は、小さな堕落とかはあっても、本質的に堕落することはない。つまりもうひっぱってもらえるから。
 だからちょっと今、言ってることが伝わったかどうかわかんないけども、ここでいう義務っていうのは私はそう感じがするね。


◎カルマ・ヨーガの秘儀

 神っていうのは常にわれわれに、行為の使命を投げかけてる。で、われわれはその手のひらの中で放り出されてるんだね。だからわれわれは普段、自分で生きてるような感じがするけど、そうじゃない。完全にもうプログラミングの中で生かされてる。
 でももちろん選択肢があるんだね。選択肢の中で「さあどっちをとりますか?」って中に常にわれわれはいる。で、その神の意思っていうのを間違わずに――っていうかね、われわれが無執着に生きていれば、だいたい正しい方をとれます。つまり、自然に生きてたら正しく生きられるんです。でもわれわれはエゴが強すぎるから、強引に違うほうをとってるんだね。それによって、いつも間違う。
 その自然に生じる流れ、現象こそが、神が私に与えた最も解脱、あるいは幸福に近づく最短の道なんだね。だからそれを徹底的に無執着で成し遂げる。これがカルマ・ヨーガなんですよと。そうじゃなくて自分の観念によって、一切の行為をしない。これはだめだと。だめだっていうよりもね、さっきカルマの法則の話をしたけど、カルマって結局、過去に何かをなしましたと。まあ過去に何かっていうよりも、もう、ものすごい回数生まれ変わって、われわれはいろんなことをやってきた。で、そのカルマっていうのは当然、今、そして未来において受けなきゃいけないんだね。だからある意味では負債がいっぱいたまってるわけです。で、それはわれわれは、この世においていろいろ経験するっていうかたちで、その清算をしなきゃいけない。
 だから、イメージで「いやー、私は全て止まりました」とか言っても、そんなことは不可能なんです。必ずその、カルマの清算の中にわれわれは放り投げられなきゃいけない。
 で、もうちょっと深いこと言うと、そのカルマの法則自体も、神の愛であり、神の意思なんです。
 つまりこのあいだもヨーガ・スートラで言った話とつながるけども――ちょっとこのへんは比喩的な表現も入れて言うけども、神がわれわれの魂を成長させる為に、カルマの法則という、一つの幻影の中にわれわれを放り込んで、経験をさせてるんです。
 まあ、ちょっと身近な例をあげましょう。例えば、プライドの高い弟子がいたとしてね、そのプライドの高い弟子に対して師匠が――じゃ、例えば、Eさんがプライドが高かったとしてね、私がある時期、「Eさんすごいね、すごいね」ってものすごく褒めて、Eさんのプライドをどんどんどんどんどんどん増大させていったとします。そして、ある日の勉強会からいきなり今度はEさんを馬鹿にし出したとします。これは本当にEさんをそうするって意味じゃなくて――これはあり得る話なんです。これはどういうことかっていうと、師匠が弟子のプライドを落とす一つの方法としてそういうのがあります。つまり、「この人ちょっとプライドがあるな」と。でも例えば今のEさんのプライドは、中途半端だと。ないわけでもないが、すごいあるわけでもない。この場合は落ちにくいんです。よって、いったんものすごい増大させてあげて、いい気になってるときにバーッて馬鹿にすると。そうするとすごくグワーッてなる。でも一回じゃ駄目で、また次のときも馬鹿にすると。そうすると「グサッ」てきて、それを何回か続けるうちに、心が学習するんだね。「プライドは苦だ」と(笑)。で、離れるようになる。
 で、このプログラムを例えば私が考えたとしますよ。で、Eさんに対してそれをやったとしますよ。で、例えば、一回、二回、三回と褒め、で、次からEさんに皆の前でものすごく馬鹿にするようなことを言ったと。Eさんは傷ついたと。次の勉強会でも、バーッと馬鹿にするようなことを言ったと。また傷ついたと。はい次、三回目において、Eさんは恐れて、勉強会に来なくなったとします。つまり、いろいろ理由をつけてね。「いや、僕は勉強会に行ってるよりも、一人で瞑想するのが好きなんだよね」とか言って――つまり単純に、馬鹿にされたくないから、来なくなったとします。ここにおいて、このプログラムはもう駄目になっちゃうわけだね。つまり、本当はそこで更に馬鹿にされ続けることによって、私が描いたプログラムが完成して、プライドは消えるはずなんです。
 だからこれと全く同じことが、神とわれわれの関係においてあるんです。われわれはいったん、神の愛によって、この幻影の世界に放り込まれて、いろんな間違った生き方をさせられたんだね。その後、修行の道に入って、その清算をしていく中で悟っていくんです。でもここで、中途半端にそういうものを嫌った人が、「いや、俺は修行だ」とか言って、そのカルマの清算から逃げて、まるで悟ってるような、単純に全て止めた世界に入ると、駄目なんだね。神が最初にやったプログラムが発動しない。
 これがだから、また言い方を変えると、カルマ・ヨーガの秘儀だね。だから全てのカルマの動きさえ、神の愛なんだと。そう思いきれるかどうかです。
 だからカルマ・ヨーガって、いつもいうけど、バクティ・ヨーガと、もう密接な関係がある。神に対する、あるいはこの宇宙の、絶対的な存在に対する――まあそれは如来と言ってもいいんだけど、完全な信ね。彼の愛は絶対であって、彼の智慧も絶対であって、私はその意思の中で引っ張られてるんだという強い信がないと、カルマ・ヨーガは成功しない。
 だから小賢しい智慧があると駄目なんです。小賢しい智慧っていうのは、ちょっとこう、経典とか読んで、「うん。こうだ、こうだ、こうだ」って考え始めると逆に失敗する。だから本質をとらえるのは難しいヨーガだね。カルマ・ヨーガっていうのはね。
 『行為をせぬよりは、行為をするほうがはるかによいのだ。 』――これを読んで、「あ、そうか。じゃあ俺はいろいろ遊ぼうか」とかね、「仕事した方がいいのかな?」とか。
 あのさ、これ実はバガヴァッド・ギーターの日本語訳のやつには、行為っていうとこが仕事ってなってる。仕事でもいいんだけど、仕事って書くと、われわれは一般の職業と勘違いしちゃうから、行為というふうに直したんだけど。いろんな勘違いが生まれると思うね。こういう微妙な表現ていうのは。でも本質をね、感じとって欲しいと思います。
 はい、そして、

『行為を至高者への供物としなければ、そのカルマが人をこの世に縛り付けてしまう。
 ゆえに、クンティー妃の息子よ! 行為の結果を至高者にささげ、ただひたすらに活動するがよい。』

 はい、そしてこの行為をもって、悟りに至る一つの秘儀として、ここに出てきましたが、「行為を至高者への供物とする」と。
 つまりどういうことかと言うと、まあ、詳しいものっていうのはまたこれから出てきますが――じゃあこれは出てくるのを待って次にいきましょうね。

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第五章 プラーナーヤーマ

2007-02-26 13:11:38 | ハタヨーガ・スートラ




1「プラーナーヤーマの規定」

 今やわれはプラーナーヤーマの規定を説こう。これを修行するだけで、人間は神々と同等になることができる。

(1)[食事規定]

 節食をしないでヨーガを始める者は種々の病にかかり、いかなるヨーガにも成功しないであろう。

[ヨーギーに適した食物]
 米飯、大麦、小麦、各種の豆類、各種の野菜等を、ヨーギーは食すべし。

[節食]
 清らかで、甘く、汁気に富む食物を好んで食し、胃の半分をあけておく。これが節食ということである。
 胃の半分だけを食物をもって満たすべし。胃の三分の一は水をもって満たし、あとは気の回遊のためにあけてお

くべし。

[禁止事項と推奨事項]
 初心者は、厚味の野菜、酒、椰子の実、野菜の茎、イチゴ、たまねぎなどを食してはならない。
 ヨーガ修行のはじめのうちは、旅行を避け、異性を避け、火の儀式などを避けるがよい。
 その他、絞りたてのミルク、砂糖、キャンディ等の菓子類、熟したバナナ、ココア、ざくろ、酸味の果汁を避け

るべし。

 消化しやすいもの、甘美なもの、栄養になるもの、心を喜ばせるものを、ヨーギーはたしなむがよい。
 しかしヨーギーは、消化しにくいもの、禁じられた食物、腐敗した食物、冷えすぎたもの、あまりに刺激的なも

のは避けなければならない。

 ヨーギーは、日の出前の水浴、長期の断食等の体を苦しめる行を行なってはならない。
 食後三時間以内に食事をしてはならない。

 以上のごとくに生活を規制して、プラーナーヤーマを行ずべし。
 毎日、プラーナーヤーマを始める際に、最初に少量のミルクとバターをとるべし。
 食事は一日一食か二食がよい。
 二食の場合は、正午と夕方に食事をすべし。

(2)[気道の清掃]

 草の座、あるいはカモシカの皮、あるいはトラの皮、あるいは毛布の座、あるいは大地の上などに、正しい姿勢

で座り、東方または北方を向く。気道の清掃を完了した後にプラーナーヤーマの行を修習すべし。

 気道に汚物が詰まっているうちは、風は気道を通れない。それではどうしてプラーナーヤーマの行が成就されよ

う? どうして真実の叡智がありえよう? それゆえに、まずはじめに気道の清掃をなし、そのあとでプラーナー

ヤーマの行を修習すべし。

[二種の気道清掃法]
 気道清掃には、サマヌとニルマヌの二通りがある。サマヌはビージャを使ってなし、ニルマヌはダーウティ・カ

ルマによってなすべし。
 ダーウティ・カルマについては、すでに説いた五つの浄化法のところで述べたごとくである。よってサマヌの仕

方において気道の掃除がいかに行なわれるべきかを教えよう。

[サマヌ清掃法]
 ヨーギーは座席に着き、蓮華座を組むべし。それから、グルに教えられたとおりに、グルを初めとする方々を礼

拝し、気を清めるべく気道の清掃を行なうべし。

 緑色で、エネルギーに満ちた風の種字(ヤ)を思念して、種字を十六回黙誦する間、月の気道をもって風を満た

すべし。
 次にその4倍の時間の間、クンバカによって風を保持する。そして最後に、吸ったときの2倍の時間をもって、

風を太陽の気道によって吐くべし。

 へその根において、火と地の元素の結合した光を思念すべし。
 火の種字ハムを16回念誦する間、太陽の気道によって、風を満たすべし。
 次にその4倍の時間の間、クンバカによって風を保持する。そして最後に、吸ったときの2倍の時間をもって、

風を月の気道によって吐くべし。

 次に、眉間に意識を集中して、月の輝く姿を思念しつつ、種字タムを16回念誦する間、両方の気道によって風

を満たすべし。
 そして種字ヴァムを64回念誦する間、クンバカによって風を保持する。その間に、アムリタ(不死の甘露)が

流れ出ることを想像し、それが全身の気道を清めていくことを思念すべし。
 それから、地の種字ラムを32回念誦する間に、しっかりと風を吐くべし。

 以上のごとき仕方で気道の清掃を行なって、気道を清めるべし。しかる後に正しく座って、プラーナーヤーマの

行を行なうべし。



2[クンバカの種類]

 クンバカには8種ある。
①サヒタ
②スーリヤ・ベーダ
③ウジャーイー
④シータリー
⑤バストリカ
⑥ブラーマリー
⑦ムールッチャー
⑧ケーヴァリー

(1)[サヒタ]
 サヒタ・クンバカには二種ある。サガルバとニルガルバである。
 サガルバは種字を唱えて行なうものであり、ニルガルバは種字の誦唱を省いたものである。

[サガルバ・プラーナーヤーマ]
 東方または北方に向かって座る。地のごとくに赤い色のブラフマ神を、ア字の形で念想すべし。
 賢明なる行者は、左の鼻でもって、アムを16回唱える間息を吸うべし。吸息を終わり、ウッディーヤーナ・バ

ンダをしてクンバカをなすべし。
 黒色のハリ神を、ウを64回唱える間、クンバカして念想すべし。
 次に、白色のシヴァ神を念想しつつ、マを32回唱える間、右鼻から息を吐くべし。
 そして今度は同様の念想をしつつ、息を右鼻から吸い、クンバカし、左鼻から吐くべし。
 鼻を換えては、繰り返してプラーナーヤーマを行なうべし。
 指は、右手の親指で右鼻を押さえ、薬指と小指で左鼻を押さえる。中指と人差し指は眉間に当てるか、何もせず

に宙に浮かせておく。

[ニルガルバ・プラーナーヤーマ]
 ニルガルバ・プラーナーヤーマは、ビージャ・マントラの誦唱なしでなされる。

 プラーナーヤーマの初期段階においては発汗が生じる。
 中級段階においては、背骨の震えが生じる。
 上級段階においては、身体が跳び上がる現象が生じる。
 以上はプラーナーヤーマの成就の三種の兆候である。

 プラーナーヤーマから空中飛行が生じ、プラーナーヤーマから病気平癒が生じる。また、プラーナーヤーマの結

果シャクティが覚醒し、プラーナーヤーマからマノーンマニーが生じ、歓喜状態が生じる。プラーナーヤーマを行

ずる者は幸福になることができる。

(2)[スーリヤ・ベーダ]
 まず太陽の気道で外界の空気を力の限り吸うべし。
 ジャーランダラとともにクンバカをして、汗がにじみ出るまで、大いにがんばって保息すべし。
 
[十種の風]
 ヴァーユ(風)には十種ある。--プラーナ、アパーナ、サマーナ、ウダーナ、ヴィヤーナ、ナーガ、クールマ

、クリカラ、デーヴァダッタ、ダナンジャヤ。

 プラーナはいつも心臓の中で働き、アパーナは会陰部で、サマーナはへその部位で働き、ウダーナは喉の中央に

ある。ヴィヤーナは体内にあまねく行き渡る。
 以上は五つの主要なヴァーユである。
 
 次に、五つの副次的なヴァーユのある場所を説こう。
 ナーガ・ヴァーユの働きはおくびにあり、クールマ・ヴァーユの働きはまばたきにある。
 クリカラ・ヴァーユの働きはくしゃみにあり、デーヴァダッタ・ヴァーユの働きはあくびにあり、ダナンジャヤ

・ヴァーユは全身に行き渡って存在し、いかなる場所でも、死後までは体を離れない。
 ナーガ・ヴァーユは意識を生じ、クールマ・ヴァーユはまばたきを生じ、クリカラ・ヴァーユは飢渇を生じ、デ

ーヴァダッタ・ヴァーユはあくびを生じ、ダナンジャヤ・ヴァーユからは声を生じる。

 上記のヴァーユのすべてを太陽の気道に集中させ、そのあとにイダー気道によって吐くべし。しっかりと、力を

緩めずに息を吐くべし。
 そして再び太陽の気道をもって息を吸い、規定どおり保息し、そして息を吐く。このプラーナーヤーマを連続的

に繰り返し繰り返し行なうべし。

 スーリヤ・ベーダ・クンバカは老いと死を破壊する。また、クンダリー・シャクティを目覚めさせ、体内の火を

増殖する。

(3)[ウジャーイー]
 両鼻で息を吸い、ジャーランダラ・バンダをなすべし。そしてクンバカをなすべし。
 喉を少し開け、ブラフマ・ランドラの下で呼吸の音を出しながら、息を吐くべし。
 このウジャーイー・クンバカを修習するならば、行者は決して粘液質の病気にかからない。その他、神経性疾患

、消化不良、赤痢、肺結核、せき、脾臓肥大等の病気にもかからない。
 人は老衰と死をなくするために、ウジャーイーを修習すべし。

(4)[シータリー]
 舌を使って息を吸い、徐々に腹に満たすべし。ほんのしばらくクンバカをしてから、両鼻を通じて吐くべし。
 この吉祥なシータリー・クンバカをなすならば、消化不良、粘液および胆汁の過多から来る病気は起こらないで

あろう。

(5)[バストリカ]
 鍛冶屋のふいごのように、両鼻を通じて連続して息を出し入れすべし。
 かくのごとく20回行なった後、クンバカをなすべし。クンバカが終ると、再び前記のごとく息を出し入れすべ

し。
 賢者にして、このバストリカ・クンバカを行なうならば、いかなる疾患も苦痛もなく、毎日無病息災であるであ

ろう。

(6)[ブラーマリー]
 夜半過ぎたころに、生き物の声がまったくしないところで、両手で両耳をふさいでプーラカ・クンバカをなすべ

し。
 そうすると耳の中で、内から発する心地よい音が聞こえるであろう。はじめにコオロギの声、次にはフルートの

音、それから雷、太鼓、蜂、銅鑼、トランペットの音などが聞こえてくる。
 そしてしまいには、かのアナーハタの音の響きが聞こえ、その音の中に光が存在し、その光の中に心が存在し、

そして心はその中で消えてしまう。これがヴィシュヌ神の高位の座に達した境地である。

(7)[ムールッチャー]
 気楽にクンバカをして、心を眉間に置く。すべての対象を捨てたならば、心が恍惚となって、歓喜が生ずる。真

我に心が結びつくことから、必然的に歓喜が生ずるのである。

(8)[ケーヴァリー]
 すべて人間の気息はハムの音を立てて出て行き、サハの音を立てて入ってくる。昼夜を通じて二万一千六百回の

呼吸がある。生き物はいつも、無意識にマントラを唱えているのである。
 ハムとサハはムーラーダーラと心臓の蓮華と両鼻腔の合流点との三箇所で結合して、「ソーハム」または「ハン

サ」というマントラとなる。
 呼吸回数が減るときには寿命が延びる。呼吸回数が増えるならば寿命は減ずる。
 それゆえに、気が体内にとどまる間は死は来ない。肉体が気と結びついているとき、ケーヴァラ・クンバカがあ

る。
 すべての生き物は無意識の内にマントラを唱えて呼吸をしているが、ヨーギーはこのマントラを意識して、数を

数えながら暗誦しなければならない。
 両鼻から気を吸入して、ケーヴァラ・クンバカを行ずべし。初日には一回からはじめて、最終的には24回暗誦

するまでの間、気を保持すべし。
 ケーヴァラ・クンバカを毎日八回、三時間ごとに行ずべし。
 あるいは毎日、早朝、正午、夕方、夜半、夜中の五回、行ずべし。
 あるいは毎日、朝、正午、夕方の三回、行ずべし。
 ケーヴァリーの行が完成するまでは、マントラの長さを日ごとに増して、最終的には5倍に至るべし。
 ヨーガに通じた人は、プラーナーヤーマとケーヴァリーを説く。ケーヴァリー・クンバカの修行を完成したとき

、この世において成し得ないことは何一つとしてない。
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第四章 プラティヤーハーラ

2007-02-24 23:08:43 | ハタヨーガ・スートラ



 いざ、われは至高なるプラティヤーハーラ・ヨーガを説こう。これを会得すれば、それだけで愛欲等の煩悩が消滅する。

 動きやすくて、安定しがたい心が外的対象にさまよい出るごとに、それをその対象から引っ込めて、真我の統制下におくべし。

 称賛であろうと、悪口であろうと、心地よい声であろうと、恐るべき声であろうと、それらのものから心を引っ込めて、これを真我の統制下におくべし。

 良い感覚に対しても、悪い感覚に対しても、その他いろいろな感覚に対しても、心は出現するものである。それゆえに、その心を引っ込めて、それを真我の支配下にもたらすべし。

 さまざまな感覚に心がひかれたときに、それから精神を引っ込めて、真我の支配下に置くべし。

  
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アーナンダマイー・マー(3)

2007-02-24 08:38:16 | 聖者の生涯


 ニルマラーとボーラーナートは、最初のころ、アスタグラーマの、サーラダ・サンカル・センという人の家に住んでいました。そしてニルマラーのすばらしい霊性の高さを最初に『発見』したのは、センの義理の兄弟である、ハラ・クマール・レイでした。
 ハラ・クマール・レイは、教養はあるけれども情緒不安定な人でした。彼は、宗教的熱情に襲われ、彼の仕事(何らかの事務の仕事)を満足に遂行できないということがしばしばありました。

 ハラ・クマール・レイが初めてニルマラーに会ったとき、彼は『マー(母)』と言って、無意識のうちに地面にひれ伏しました。
 そのとき以来、ハラ・クマール・レイは、事あるごとにニルマラーの役に立とうとし、そしてついには、ニルマラーに毎日お会いすることを許可してほしいと、ボーラーナートに懇願しました。毎日彼女と話をし、また彼女のプラサードを受けたかったためです。
(※一度神や聖者にささげられた食事のお下がりはプラサードと呼ばれ、神聖なものとされます。)

 ボーラーナートはこれを受け入れ、ニルマラーに対しても、彼にプラサードを与えるようにと言いました。

 ある日、ハラ・クマール・レイがニルマラーに対して深い敬意を示しているとき、突然彼は、次のような予言的な言葉を叫びました。
『今私があなたを「マー(母なる神)」と呼んでいるように、いつか全世界があなたをそう呼ぶときが来るでしょう!』

 このアスタグラーマの地で、ニルマラーが普通の人間ではないと気づいたのは、ハラ・クマール・レイだけではありませんでした。ボーラーナートの友人の一人であるクシェートラ・モーハンも、ニルマラーにひれ伏し、ニルマラーのことをドゥルガー女神であると言いました。

 また、あるとき村人たちとともに神への賛歌を歌っている間に、ニルマラーが至福のサマーディの超意識状態に入ってしまいました。当然、村人たちの目はニルマラーにひきつけられ、ニルマラーが普通の人間ではないということに、多くの人が気づき始めたのでした。







 1916年、アーナンダマイー・マーは重病にかかったため、彼女の両親が住んでいたケーオーリアーの近くのヴィディヤクトという場所に移り住みました。

 ここでの一つのエピソードは、マーが、本当の至福のサマーディ状態と、擬似的なトランス状態との違いを明確に見極めることができることを証明しました。
 マーのいとこのアンナプールナが、サマーディのようなこん睡状態に入りました。無智な村人たちは、アンナプールナを聖女だと思い、崇拝し始めました。
 しかしマーが自らも至福のサマーディ状態に入りながらアンナプールナに会ったとき、彼女は至福のサマーディに入っているわけではなく、夫が不在であることからくる悲しみにより、トランスのような状態になっているだけだということがわかりました。
 そこでマーは、アンナプールナの耳元で、
『あなたの最愛の人からの手紙が、まもなく届くでしょう』
とささやいたところ、アンナプールナはトランスから覚め、通常の意識状態に戻ったのでした。

 後年にもマーは、一見聖者に見える人がトランスに入っているときに、それが本当のサマーディではないことを見抜き、通常の意識に戻すことを行ないました。そして聖人ではない人がサマーディに入った振りをする、いわゆる霊的な詐欺について、人々に警告を発しました。

 マーは1918年までヴィディヤクトにとどまり、その後バジートプルというところで再びボーラーナートと一緒に暮らし始めました。このバジートプルにおける、1918年から1924年までの6年間は、マーの人生の中で、『サーダナの遊び』と呼ばれる時期でした。この時期、マーはサーダナ(解脱・悟りのための修行)に励み、さまざまな経験をしました。

 通常、われわれのような普通の人間や、道の途上の修行者が、今生において解脱や悟りを得ようとするとき、肉体を持った師の存在は不可欠です。弟子は師についてさまざまな指導と試練を与えてもらい、自己のカルマを浄化し、修行のステージを上がっていくのです。
 一方、もともと完成者として、世の人々を救うために地上にやってきた神の化身たちの場合は、本来は師を必要としません。しかし一応、師に弟子入りする形をとり、成就していくパターンと、一切他人に師事することなく、自己の内側の声だけを聞いて成就していくパターンと、両方あるようです。

 たとえばラーマクリシュナやパドマサンバヴァなどは、本来はもともと完成された魂でしたが、後の人への模範を示すため、何人かの師につき、修行をし、成就のステージを示していったといわれています
 
 そしてアーナンダマイー・マーの場合は、明らかに後者のタイプでした。マーには明確な人間の師がおらず、また、経典なども読んだことがありませんでした。サーダナのさまざまな段階を、マーは、ただ自分の内側から聞こえてくる声に従って、修行していったのです。

 この時期、夜になると、マーはさまざまなマントラを唱えていました。また、さまざまなアーサナを行なっている修行者たちの道場の隅に、マーが座っているのが見かけられました。

 これについてマーは次のように言っています。

「サーダナのさまざまなステージがこの体を通して明らかにされていたとき、さまざまな経験をしました。
 時々、『このマントラを繰り返しなさい』という声をハッキリと聞きました。そこで私が『何のマントラですか?』と聞くと、『ガネーシャのマントラです』とか、『ヴィシュヌのマントラです』などと、その声は答えるのです。
 あるときは、私の中にふと、『この声の主は、どんな姿をしているのかしら?』という疑問がわきました。そうしたらすぐに彼は、自らその姿をあらわしたのです。
 こういう具合に、あらゆる疑問や質問が私の中にわくたびに、すべては迅速な答えによって対処されました。そのようにして、全ての疑いや不安は、即座に消滅していったのです。
 またあるとき、その声は、『今日からあなたは、誰に対してもお辞儀をしてはいけません』と言いました。『あなたは誰ですか?』とたずねると、その声は、『あなたのシャクティです』と答えたのです。
 私は、私の中に、時に応じて私を導いてくれる、いくつかのタイプのシャクティがいることを知りました。こういうことがサーダナの各段階で起こり、真理の悟りが段階的に明らかになっていったのです。
 しばらくして、私の内側からこういう声が聞こえてきました。
『あなたは誰に従いたいと思うのですか? あなたは「すべて」です。』
 これを聞いて、すぐに私は、この宇宙のすべてが、私自身の現われであることを理解しました。
 そうして、部分的な悟りは、完全なる叡智に変わりました。そしてこの世のすべてのさまざまな現われの源である「唯一の実在」である、自分の本性を発見したのです。」

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2007-02-23 18:10:12 | 松川先生のお話

愛とはとらわれなきいつくしみ。

愛だけがすべてを溶かし、
愛だけが壁をぶち壊し、
愛だけが眼を開かせ、
愛だけが悟りを招き、
愛だけが真理を明かし、
愛だけが悪魔を去らせ、
愛だけが神の微笑を呼び、
愛だけが人々の恩に報い、
愛だけが敵に打ち勝ち、
愛だけが怒りを癒し、
愛だけが智慧を磨き、
愛だけが悩みを払い、
愛だけが苦痛を溶かし、
愛だけが神と自己を悟らせる。

こんな素晴らしいものを、なぜその手にとらないんだい?
 
きっとそれには、自己の放棄が必要だからだね。

でも保障しよう。
その放棄したものに比べ物にならないほどの恵みを、
愛は与えてくれるだろう。

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第五章 サンニャーサ・ヨーガ

2007-02-23 16:31:11 | 経典の言葉・聖者の言葉




アルジュナは言った。
『おお、クリシュナ様! あなた様は、初めに放棄をせよと私におっしゃり、次には奉仕の精神で行為せよと勧め

られました。
いったいどちらが本当に正しいのか、ハッキリとお示しください。』


至高者はこうお説きになった。
『放棄も、カルマ・ヨーガも、ともに人を解脱させる。
だがこの二つのうちでは、行為の放棄よりも行為のヨーガ(カルマ・ヨーガ)の方が優れている。

行為の結果に欲望も嫌悪も抱かぬ人は、常に離欲・放棄を行じていることになる。
その人は二元対立を超え、たやすく物質界の鎖を断ち、完全なる自由を得ることができるのだ。おお偉大なる勇者

よ!

偉大なる勇者よ! 人はヨーガを行なわずにただ放棄しようとしても、なかなかできるものではない。
ヨーガを実践した聖者は、速やかに至高者のもとへと到達する。

ヨーガを行じて魂を清め、自分の心と感覚を抑制し、
すべての生き物と自分とが同じものなのだと悟った人は、絶え間なく働いていても、決して行為に縛られることは

ない。

真理を悟った神聖な意識の持ち主は、自分自身では何もしていないのだと思っている。
たとえ見たり、聞いたり、触れたり、嗅いだり、味わったり、動いたり、眠ったりしていても。

また話すときも、手放すときも、手に取るときも、また目を開けるときも、閉じるときも、
感覚器官が対象物と作用しているだけなのだと知っており、自分自身は常にすべてから超然としている。

至高者に行為の結果を供養し、執着心を捨てて自らの義務を遂行する人は、
いかなる罪悪にも染まり汚されることはない。泥沼に咲く蓮華のように。

カルマ・ヨーガを行ずる人は、すべての執着を捨てて、体と心と知性を用いてさまざまな行為をするが、
それはただ、自分を浄化するためにやっているだけなのだ。

カルマ・ヨーガを行ずる人は、すべての行為の結果を捨て、真の平安の境地に達していく。
しかし行じない人は、行為の果報を求め、心は行為にとらわれ、絶えず不安を抱えている。

肉体感覚を抑制し、識別の力によっていかなる行為にも執着しない魂は、
自分が行為することも他人を行為させることもなく、九門の町(肉体)に常に楽しく住むようになる。

至高者が、この世の生き物のため、行為する力や、行為そのものや、行為の結果を作り出しているのではない。
ただ(至高者によって創造された)自性がそういうものを生み出しているのに過ぎないのだ。

普遍的存在者としてのすべての本質は、いかなる者の罪にも、徳にも、かかわることはない。
だが、生き物はそのことを知らぬがゆえに、迷い苦しむことになる。

だが真我に精通することによって無智の闇を打ち破った人は、
その完全なる叡智によって至高者の存在を明らかにする。ちょうど太陽が万物を明らかに照らすように。

それに覚醒し続ける人、それと自我とを結びつける人、それにしっかり帰依する人、それを至高の境地とみなす人

は、
完全なる叡智によってすべての罪汚れを清め、生死輪廻の必要のない解脱の境地へと到達する。

神秘的な明智と謙虚な心によって、ブラーフマナも、牛も、象も、
犬も、犬食いも、一切差別することなく、賢者はすべてを平等に見る。

すべてを平等に見て常に心動かざる人は、すでに現世において生死輪廻を超越しており、
至高者のように完全無欠で、すでに至高者の中に安住している。

快いことに出合っても喜ばず、不快なことに出合っても悲しむことなく、
しっかりと覚醒していて、何事にも惑わされない人は、自我と至高者とが一体となっている人である。

外界の感覚的快楽に心惹かれることなく、常に内なる真我の楽しみに浸っている人は、
常に至高者に心を集中し、限りなき楽を永遠に味わっている。

感覚的接触による快楽は一時的なもので、後に苦しみが生起する原因となる。
それゆえ、初めと終わりを考え、ブッダ(覚者)は、そのようなむなしい快楽には心を向けないのだ。

肉体を脱ぎ捨てる前に、愛欲や怒りの衝動を抑えることのできた人は、
どの世界でも永遠に心穏やかに過ごせる幸福な人である。

内なる世界で幸福を味わい、心穏やかに過ごし、光り輝き、
罪汚れを清め、あらゆる疑念を取り除き、自我を抑制し、

愛欲や怒りや物欲をなくし、自分の心を抑制し、自己の本性を知り、
すべての生類のために働く聖者こそ、至高者となり、この世でもあの世でも、永遠・神聖・完全なニルヴァーナに

至るのだ。

私が一切の供養と修行の究極目的であり、すべての世界のマヘーシュヴァラ(大自在主)であり、
すべての生類の幸福を願う朋友であると知る人は、永遠なるシャーンティ(平安)の境地に達する。

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何かをせずにはおられない

2007-02-23 11:07:09 | 勉強会より抜粋
ヨーガスクール・カイラス 勉強会より 抜粋



バガヴァッド・ギーター 勉強会 
「第3章」

2007・1・17

※いずれ全文をまとめて本にする予定ですので、ご期待ください。




◎何かをせずにはおられない

 そこでこのクリシュナが言ってるのは、

『行為を避け、何をせずにいたとしても、人はカルマから解放されるわけではない。
 また形だけ出家したからといって、サマディの境地を達成できるわけでもない。
 どんな人であろうとも、一瞬たりとも何もせずにじっとしていることはできない。
 なぜなら、人間は生来の性質(グナ)により、どうしても何かをせずにはおられなくなるからだ。』

 この間もちょっと勉強会で言いましたが、我々の行動というのは、身・口・意の三つがあります。もうこれは何回も言ってるね。
 じゃあ、Kさん。身・口・意はなんでしたっけ?

(K)肉体・言葉・思い。

(松川)肉体・言葉・思い、まあ、心ね。
 つまり肉体の動き、それから、言葉の動き、そして心の動き。
 この三つの動きっていうのは、我々は止められないんです。実は。それがここで書いてあることだね。
『生来の性質(グナ)により、どうしても何かをせずにはおられない』
と。
 何かをせずにはおられないっていうのは、例えば、「いや、そんなことありません。私は怠け者だから、一日中家にいても耐えられます。」――そうこと言ってるんじゃない(笑)。 ね。それはただつまり、怠けるっていう行為をしてるんです。だらだらするっていう行為をしてる(笑)。ね。


◎勘違いの危険性

 まあ一番大丈夫なのは、言葉だね。言葉は意思の力で止められます。よって、無言の行っていう修行があるんです。つまり無言の行っていう修行は、心と体を止めることは不可能だが、言葉は意思で止められるから、この三業の身・口・意のうちの少なくとも、口の業を止めてしまうっていう修行だね。でも体と思いは絶対止められません。体は、まあ細かい事言えばだよ、怠けてるといったって、寝返りはうつだろうと。ね。あるいは腹が減れば食事に行くだろうと。あるいはトイレに行きたくなるかもしれない。あるいはもっと細かい事を言ってしまえば、心臓は動いている。つまり肉体の動きっていうのは一瞬たりともわれわれは静止することは不可能。もっと言ってしまえば、原子が動いている(笑)。ね。だから肉体を停止するっていうのは全く不可能。それは、グナと呼ばれる、この現象世界を創り出している根本エネルギーの働きなんだね。それがある限り、われわれはこの肉体の動きから――まあ今言ったのは非常に細かいことだけど、実際はこんな細かいことではなくて、大きな動きもわれわれは止めることが普通できない。
 例えば、まあこれは性格によるけどね、一日中、例えば瞑想してくださいって言われて、できる人がどれくらいいるかだね。素質がある人は別だよ。例えばミラレーパの弟子のレーチュンパっていう人は、少年時代にミラレーパの元に行って、ミラレーパが「この子は素質のある子だ」って言って、「君、私が一つ瞑想法を教えるから――まあ瞑想法って言うのは、非常に単純なものなんだけど――それをちょっとやってみなさい」って言って、少年が帰って……で、その少年のお父さん、お母さんがミラレーパの所へやってきて、「家の子が帰ってないんだけど、あなたのところに行ったみたいだけど、知らないか?」って言ったら、「いや、三日前に来たけど知らないよ」と。
 それでみんなで捜索したら、原っぱで瞑想してた。「お前三日もなにやってたんだ」って言ったら、「え? 3日? いや、ちょっとだけ瞑想しただけですよ」と。でもそのレーチュンパが空を見たら、瞑想を始めた時刻よりも、前の時刻になってた。で、混乱して、「一体何があったんだ!」って。
 つまり彼はものすごい集中力があったから、いったん瞑想に入ったら不動の状態で、ずーっと瞑想し続けられたんだね。
 だからそういうものすごい集中力がある人は別だけど、まあ、合宿とかやってもわかるように、「はい、瞑想に入りましょう」――ま、30分経つと、「ああー」っと始まったりして、一時間も経つと「おおー」ってこう、まあ、痛いのはしょうがないけどね。動きたくなってしまう、っていうかね。だから体の活動を止めるっていうのはなかなか不可能だね。
 で、心も全然不可能です。心は皆さん瞑想して、止まってるような感覚はあるかもしれないけど――もちろん、短い時間は止める事は可能です。でもそれもかなり高い段階だと考えてください。皆さんが考えている、心が止まったっていうのは、それは止まったようなイメージを動かしてるんです。本当に止まってるわけじゃない。映画が終わりましたっていう映画を観てるようなもんです(笑)。映像で、「はい、映画終了」っていう幕がその映像の中でひかれてるっていうか。そういう感じだね。つまり心が「うん。オレは心が止まってる」っていうイメージを繰り返してるだけなんだね。本当に止まってるわけじゃない。
 もちろん本当に止まることもできるよ。それはでも、かなりもうちょっと先の段階だね。
 それは短い間は皆さんでももしかしたらできる人がいるかもしれない。つまりものすごく集中して、呼吸法とかムドラーとかいっぱいやって、で、まあ数秒間、もしくは一分間ぐらい、本当にその、寂静の止まった境地を体験できるかもしれない。でもそれを持続させるのは難しいね。
 それから、いつも言うように、止まった寂静の境地と、タマスは違います。タマスっていうのはは本当は動いてるんだけど、闇に覆われてわかんなくなってるだけです。これも止まってるとは言わない。本当は内側ではいろいろ動いてるんだけど――だから夢とかも同じだね。よく夢を見ないって言う人がいる。本当に、クリアな意味で夢を見なくなったらかなり高い段階です。でも普通は夢をいろいろ見る。しかし、タマスだから覆われて夢を思い出せない。だからこのへんの勘違いがあるんだね。
 だからよく日本の瞑想教室とか禅とかでもそういう勘違いっていっぱいあると思う。「なにも私は心に雑念も浮かびませんでした」と。それは、浮かばないっていうイメージを繰り返しただけかもしれないし、あるいはタマスで覆われてるのかもしれない。
 本当のその、寂静の境地っていうのは、ちょっとでも体験できたらそれはものすごい素晴らしいことです。そこから得られるメリットって非常に大きい。だからそれはまあ、目指すのは素晴らしいんだけど、なかなかそれは難しい。
 はい。で、インドのサドゥーとかもそうだけど、あるいは仏教の修行者とかもそうだけども、さっきも言ったように、出家して、行為をしない、つまり現世的行為をしないっていう状況に身をおいてるという形に満足してるけども、実際は例えば、「虹の階梯」とかいろんな話でも言われるけども、例えば僧院に入ったとしたら、僧院内でのいろんなことがある。僧院内の人間関係があったり、僧院内で地位を得たいと思ったりとか、つまりまたいろんなカルマの動きが始まってるんだね。あるいはサドゥーになったら、サドゥーになったで、「ああ、今日なんか供物もらえるかな」とか(笑)。ね。いろんな心の動きが始まる。
 だからもちろんそのような状況を作り出すこと、出家っていう状況を作り出すことは素晴らしいことなんだけど、それがゴールじゃないんだね。ただそれによって満足してる人っていうのは、それは愚かだと。


◎本質を忘れるな

 そして、逆に『一方では行動の諸器官を抑制しながら、他方では心を感覚の対象に向けている者は、またおろかな偽善者と呼ばれよう。』
 はい、つまり「行動の諸器官を抑制しながら」っていうのは、つまり例えば戒律を守って、例えば一般の人に比べて禁欲をしてますと。あるいは、テレビとかも観ませんと。あるいはおいしすぎる食べ物を食べないようにしていますと。――という態度をとっていながら、心の中ではものすごく――例えば、欲望を追い求めていると。あるいはそれを表層の意識でそれを気づいていなくても、実際ものすごくいろんなことを追い求めてると。これは偽善者だっていう厳しいことを言ってるわけですね。
 もちろんそういうスタイルに入ることが悪いって言ってるわけじゃない。例えば出家して、現世を離れて修行生活に入ること、これが悪いわけではない。しかし逆に言うと、もしそういう人がいるとしたら、そこに気をつけなさいよっていうわけだね。
 つまり単純に、そのような外的な条件を整えたとしても、心がひたすら欲望を追い求めていたら、それは偽善者にすぎないと。だから本質を忘れるなと。で、その本質というのが、次に書いてある、

『それとは反対に、心で感覚を制御し、何事にも執着せず、行動の諸器官を動かす人は、まことに秀でた人と言われよう。 』
と。

 つまりわれわれが――例えば出家の人たちが外的な状況を、そのように整えるのは何の為なのかって言うと、心において欲望を完全に破壊してしまう、もしくはコントロールしてしまうことが本来の目的なわけだね。
 それには、外的なものを少なくしたほうがいい。もしくは捨てたほうがやりやすいっていうだけなんです。
 だから外的なものを捨てれば解脱するするんだったら、乞食は解脱してるのかと(笑)。ね。
 例えば、こういう人がいる。「いや、私はなにも所有していない。どうでしょうか」と。それは徳がなくて金がないからだと(笑)。その人がもし大金を手にしたら、いろんな物買うかもしれない。徳がなくて金がないから、ただ所有してないと。
 だから外的なものだけ見たらわからないんだね。そうじゃなくて目的は心における、完全なる欲望からの解放だと。あるいは感覚がもたらす、幻影の喜びからの解放だということをまず、念頭におかなきゃいけないっていうか、第一の目的におかなきゃいけないんだね。
 だからこれは理想だけども、――つまり心で感覚を制御し、何事にも執着せずに、行動の諸器官を動かすと。つまり、この世で普通に生きてるように見えながら、全くなんにも執着していない。これが最高の理想ですよと。
 だからこれは対比して言ってるわけだね。この世を捨てたようなふりをしていながらいろんなものに執着している人と、普通に生きているように見えながら全く執着してないで行動してる人と。これは後者のほうが素晴らしい。もちろん、前者のかたちをとって、何も執着せずに生きると。これは素晴らしいけどね。ただ、ここで言ってることっていうのはわかるよね?


◎出家の意味

 で、もう一つ言えることは、出家とかあるいは世を捨てるってことの意味だね。つまりさっきも言ったように、修行しやすい環境をつくるってことだけを言ってるだけであって、本当の意味でわれわれがこの世において、さっきも言ったように、身・口・意の心を止めるってことは不可能なんです。だってどんなかたちにしろ、生きるためには行動しなきゃいけない。
 例えば、もう一回言うと、僧院内に入ったら僧院内の人間関係もあります。「じゃー、僧院やめた」と。放浪してサドゥーになると言っても、当然生きなきゃいけないから、お供物とかお布施をもらう人との関係がある。あるいは自然の中でね、例えば、生きる中で当然体を動かさなきゃいけないし、その中での「あー、雨が降ったら嫌だな」とか、「あー、寒いな」とか、そういうような心の動きがいっぱいある。
 私は前も言ったけど、インドでいろんな修行者に会ってきて、これは別に批判するわけじゃないけども、私の感覚だけどね、インドの修行者の七、八割はビジネス・ヨーギーとかコマーシャル・ヨーギーっていう人達だね。つまり生活の為にサドゥーやってるって人がほとんどです。悲しい事にね。で、残りの二、三割の内、さらにその中の半分ぐらいは、ビジネスでやってるわけではないが、ちょっと動物的なヨーギーが多いね。つまりマリファナとか吸って、あるいは吸わなくても――私も以前ガンジス河とかバラナシとかで、一見聖者っぽい人がいて、「ちょっとこい」とか言われて、なんか教えを説いたりしていて、私も興味があったから、そのそばで修行したりして、ずっと一緒にいたりしたんだけど、その人はあんまり修行しない(笑)。一日中ガンジス河で「あー、ピース、ピース」とか「ハッピー」とか言って(笑)。「えー、これでいいのかな」って。そういうタイプの人もかなりいる。
 で、残りの中で、まじめに本当に悟りを求めて厳しい修行に打ち込んでる人ってのも、もちろんいるね。で、その中で、もちろん素晴らしい心の達成をしてる人もいるだろうけど、その中でもやっぱりいろんな性格の人がいるね。本人は悟りを求めているんだろうけど、すごく細かいことにとらわれてる人とかね。例えば、話してても、ものすごい言うことはとても崇高で、確かにまじめに修行してるんだなって感じはするんだけど、さっきも言ったように、例えば、今日どういう食事を得られるかをすごく悩んでいたりだとか、自分の持ってる、もちろん持ってるものはわずかなんだけど、例えば、水を入れる物とかね、お供物入れる物とかなんだけど、その汚れをものすごく気にしたりとか、例えば、自分の着てる服の破れをすごく気にしたりだとか。
 だから――例えば、サドゥが一枚の服しか持っていなくて、この人が自分の服が破れてるのをすごく気にしてることとですよ、大金持ちが百着服を持っていて、その人が自分の服の汚れとかを気にするのと、何が違うんだと(笑)。同じなんだね。結局レベル的には。状況っていうか、その人のカルマにおいて、現象が違うだけであって。
 もちろんそのサドゥが、「いや、こんなんではだめだ」と、「私は一切のことに執着しないようにしよう」って思ってるんだったら問題ない。でもそうじゃなくて、何度も言うけども、「自分は修行してるんだ」っていうようなフィーリングっていうか、イメージに惑わされて本質を見失ってしまう場合がある。それは駄目だっていうことだね。だからこれはもちろんわれわれも気をつけなきゃいけない。
 例えば、一応修行のかたちをしていると。あるいは普通の人よりもできるだけいろんなことにとらわれないような――外的に見るとね、生活を送ってると。しかしその、残されたわずかのものの中で、いかに欲望を満たすかっていうのに心が向いてるとしたら、それは単にスケールが小さくなっただけで、やってることは全く変わらないってことだね。だからそのへんは気をつけなきゃいけないね。


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はだし

2007-02-22 21:07:32 | 松川先生のお話

歩いて歩いて
もっと歩いて
靴が擦り切れてしまったら

やっとはだしで歩けるな
大地の痛みと暖かさを
ゆっくりゆっくり踏みしめながら

嵐や雷に神を思い
太陽や虹にも神を見て
心に笑顔を抱いていけ

移り変わる景色にとらわれず
執着も嫌悪も持たなければ
無常の美しさを知るだろう

歩いて歩いて
もっと歩いて
命が擦り切れてしまったら

ちょっと一人にしてほしい
次は何をすればいいのか
神にたずねてみたいから


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第三章 ムドラー

2007-02-22 18:01:52 | ハタヨーガ・スートラ




 シヴァ大神は神妃に向かっておおせられた。
「神妃よ、御身の前で、私はムドラーを説こう。
 この法は十分に注意して秘しておかなければならない。この法こそは、ヨーギーに幸福をもたらすものである。
 この法は下級の神々では入手できないのである。」

(1)マハー・ムドラー

 片足のかかとを会陰部にしっかりと押し付け、他方の足を前に伸ばし、両手で足の親指をつかむ。
 喉と肛門を引き締めて息を止め、眉間を凝視すべし。
 マハー・ムドラーを大いに修習することによって、肺結核、便秘、脾臓肥大、慢性の発熱、その他すべての疾患を除去することができる。

(2) ナボー・ムドラー

 ヨーギーはどんな仕事に従事していても、いたるところで、いつも、舌をしっかりと巻き上げて、息を止めるべし。このナボー・ムドラーは、ヨーギーたちの病患を消す。

(3)ウッディーヤーナ・バンダ

 胃を背後へ引っ込め、へそを上に上げる。大鳥がつかれを知らず天かけりをなすがゆえに、このバンダはウッディーヤーナ(天かけり)と呼ばれる。この法は、死という象に対するライオンのごとくである。
 すべてのバンダの中で、ウッディーヤーナは最も優れている。
 ウッディーヤーナを完全に修習するならば、解脱はおのずから来るのである。

(4)ジャーランダラ・バンダ
 喉を引き締めて、あごを胸に押し付けるべし。喉のところでバンダがなされたとき、十六の気道が閉じられる。
 ジャーランダラ・バンダとマハー・ムドラーは、死を破壊する。
 ジャーランダラ・バンダの行を終了したとき、ヨーギーはシッディを得る。六ヶ月間この行法を修習する人は、シッダとなること疑いなし。

(5)ムーラ・バンダ
 片方のかかとで会陰を圧し、肛門を収縮し、アパーナ気を上方へ引き上げる。
 これが老衰をなくするムドラーで、ムーラ・バンダと呼ばれている。
 およそ生死輪廻の大海を渡ることを希求する衆生は、人里はなれたところに隠れて、このムドラーを正しく修習すべし。
 このバンダを修習することによって、必ず気のシッディが得られる。ヨーギーは黙々として、怠らず、努めて修習すべし。

(6)マハー・バンダ
 会陰部を収縮し、息を止め、ジャーランダラ・バンダを行なう。これがマハー・バンダと呼ばれるものである。
 マハー・バンダは最高のバンダであって、老いと死をなくする。このバンダの恵みによって、すべての願望を実現することができる。

(7)マハー・ヴェーダ
 マハー・ヴェーダがなくては、マハー・ムドラーとマハー・バンダの両者は役に立たない。
 まずマハー・バンダを行ない、両手をそろえて床につけ、尻を床から少しばかり持ち上げ、そしてゆっくりと床に打ちつける。
 ヨーギーにして、毎日マハー・ムドラーとマハー・バンダの二つを、マハー・ヴェーダと一緒に修習するならば、その人は最もよくヨーガを心得たヨーギーである。
 その人には、死に対する恐れはなく、老衰もない。ヴェーダ・ムドラーはヨーギーによって注意深く秘密にされなければならない。

(8)ケーチャリー・ムドラー
 舌の裏にある筋を、一週間に一度、少しずつ切り放ち、新鮮なバターを塗っておいて舌をしぼり、舌を引っ張るべし。
 六ヶ月間、かようなことを絶えず繰り返すと、舌は次第に長くなる。そこで、舌を反転して、それを三つの気道の合流する場所である頭蓋の穴に入れる。そして視線を眉間に注ぐ。これでケーチャリーは出来上がったのである。
 この法の修習によって、失神、飢え、乾き、けだるさは生じなくなる。また、病気、老衰、死もなくなり、神の身体に生まれ変わる。
 行者の体は火にも焼けず、風にも枯れず、水にもぬれず、蛇にもかまれない。
 体は魅力にあふれ、必ずやサマーディが生ずる。舌が頭蓋の穴に触れたとき、舌はいろいろな味覚を感ずる。
 日ごとに、種々の味覚から歓喜が生ずる。最初は塩味と酸味、次には苦味と渋味。
 そして新鮮なバター、ギー、ミルク、クリーム、蜜、甘露などの味がする水が生じる。

(9)ヴィパリータカリー・ムドラー
 太陽はへその下にあり、月は頭部にある。太陽は月から流れでるアムリタ(不死の甘露)を毎日飲んでしまう。それゆえに人間は死神に支配されるのである。
 そのため、太陽を上に、月を下方に置くべし。これがヴィパリータカリーと呼ばれるムドラーであって、すべてのタントラにおいて秘せられている。
 床上に頭を置き、両手で体を支え、足を上にして不動にして保つ。
 このムドラーを不断に修行して、老死を破るべし。その人はあらゆる世界においてシッダであって、カルパの終わりにも滅びることはない。

(10)ヨーニ・ムドラー
 耳と目と鼻と口を、それぞれ親指、人差し指、中指、薬指等をもって閉じるべし。
 息を十分に吸い込んで、プラーナ気をアパーナ気とつなぐべし。そして賢者は「フム」と「ハンサ」を心で唱えながら、六つのチャクラを順々に思念して、深く眠り込んでいるシャクティ女神を目覚めさせ、ジーヴァとともにサハスラーラ蓮華の上に立たせるべし。
 そしてヨーギーは自分自身がシャクティ女神の力に満たされ、至高神シヴァと合一して、至上の至福を得ていることを観想すべし。
 行者は自らが至福そのものとなって、「われはブラフマンなり」ということを実感すべし。
 ヨーニ・ムドラーは至上の秘儀であって、神々にとっても得がたいものである。ひとたびこの行法の完了に達した人は、とりもなおさずサマーディの境地にある人なのだ。その人はさまざまな罪によっても汚されない。
 それゆえに、解脱を望むならば、このムドラーの修習をなすべし。

(11)ヴァジローニー・ムドラー
 両手のひらを床につき、両足をそろえて上に上げる。頭は宙に浮かす。これはシャクティの覚醒と長生きの因である。
 このヨーガは、ヨーギーたちに解脱とシッディをもたらす。
 このヨーガのおかげで、ビンドゥ・シッディが現われるであろう。このビンドゥ・シッディが現われたならば、この世において成し遂げられないことは何もない。
 大きな享楽に縛られた人でも、このムドラーを修習するならば、必ずやすべてのシッディが得られるであろう。

(12)シャクティチャーラニー・ムドラー
 ムーラーダーラ・チャクラで、個々人のシャクティである至高神クンダリーが、三巻き半のとぐろを巻いた蛇の姿で臥している。
 この女神が体の中で眠っている限り、魂は獣同然であって、たとえ幾千万のヨーガを修習しても叡智は生じてこない。
 戸口の錠前を鍵で無理やりこじ開けるように、クンダリーの覚醒によってブラフマンの戸をこじ開けるべし。
 密室においてシャクティ・チャーラナ(シャクティの刺激)を修習すべし。両鼻から息を吸い、プラーナ気をアパーナ気としっかりとつなぐべし。
 気がスシュムナー気道の中に入り、力強く現われ出るまでは、アシュヴィニー・ムドラーをもって秘所をしめるべし。
 息の束縛であるクンバカによって、かのシャクティー女神は息が詰まりそうになって、登り道に姿をあらわす。
 シャクティ・チャーラナがなくてはヨーニ・ムドラーは成し遂げられない。最初にシャクティ・チャーラナを行ずべきで、その次にヨーニ・ムドラーを修習するのである。
 この行法は、謹んで秘し、日々修習すべし。
 このムドラーは最高に秘すべきものであって、老いと死を滅ぼす。それゆえに、シッディを願う行者はこの修習をなすべし。
 常時にこのムドラーを修習するヨーギーは、シッディを手に入れることができる。そしてヴィグラハ・シッディを得て、あらゆる病患は消滅する。

(13)ターダーギー・ムドラー
 パシチモーターナの体位をなし、おなかを引っ込める。これがターダーギーであって、老いと死をなくする。

(14)マーンドゥーキー・ムドラー
 口を固く結び、舌先を舌根の方へ移動しておいて、少しずつアムリタ(不死の甘露)を飲むべし。
 常時にこのムドラーを行ずる人は、いつまでも青春を保ち、しわも白髪も現われない。

(15)シャーンバヴィー・ムドラー
 眉間を凝視しながら、心臓の中心にある真我の楽園を見つめるべし。この行法はすべてのタントラにおいて秘密とされている。
 このシャーンバヴィー・ムドラーを得た人は救済者の中の救済者であり、最高神であり、創造主である。
 マヘーシュヴァラ(大自在主)は言われた。
「まことに、まことに、さらにまことに、まことに、シャーンバヴィーを成就する人はブラフマンであり、その他のものではありようがない。」

(16)五つのダーラナー・ムドラー
 これらのダーラナーを会得するならば、この世に成就し得ないことは何もない。
 人間の身体のままで天界へ往来することができる。どこへでも意のままに瞬時に行くこともできるし、空を歩む力も得られる。このことに狂いはない。

①地のダーラナー・ムドラー
 地元素は黄色く、土に属し、la字が具わっている。
 ブラフマ神を青蓮華の座にすえて、心臓にとどめるべし。
 そして、気を心と一緒に心臓内の地元素の実体に導いて、2時間半の間そこにとどめておくべし。
 このムドラーは人に安定をもたらし、常に大地の克服をなす。
 このムドラーを常に行ずる人は、自ら死を克服し、シッダとして地上を遊行する。

②水のダーラナー・ムドラー
 水元素は月のごとくに清らかで、白い。va字を具え、常にヴィシュヌ神と結びつく。その気を心臓内の水元素の実体に導いて、心とともに2時間半の間そこにとどめておくべし。
 このムドラーは、耐え難い熱脳や罪の汚れの破壊者となるであろう。
 この至上のムドラーを知る人はヨーガの会得者であって、彼は深くて恐るべき水の中に落ちても、決して死にはしない。
 この至上のムドラーは注意深く秘すべし。

③火のダーラナー・ムドラー
 火元素はへそに存在し、赤く、種字はraで、形は三角、火よりなり、輝き、ルドラを主神とし、人にシッディを与える。
 この火元素の実体に気をつれてきて、心とともに2時間半の間、そこにとどめておくべし。
 このムドラーの修行者は、もしも燃え盛る火の中に落ちたとしても、死ぬことはない。

④風のダーラナー・ムドラー
 風元素は緑色で、サットヴァ・グナからなり、ya字を種字とし、その主宰神はイーシュヴァラである。
 気を心と一緒に風元素の実体のところにつれてきて、2時間半の間、そこにとどめておくべし。
 この修行者は空中を歩くことができる。
 この至高なムドラーは、老いと死をなくする。風のために死ぬことは断じてない。
 さらには空中歩行の力を与える。
 このムドラーは、詐欺師や、敬信の念のない者には決して授けてはならない。もしも授けるようなことがあれば、自らのシッディを破るであろう。

⑤空のダーラナー・ムドラー
 空元素は海のすばらしく清らかな水のごとく、澄み渡る天空のごとく明るく輝いている。ha字を種字として具え、その主宰神はサダー・シヴァ神である。気をそこにつれてきて、心とともに2時間半の間、とどめておくべし。このムドラーは、解脱に通ずる門の扉を開くであろう。
 このムドラーを心得た人は不死であり、この宇宙が終るときにも滅びることはない。

(17)アシュヴィニー・ムドラー
 肛門を、繰り返し繰り返し、引き締めたり緩めたりするべし。これがアシュヴィニー・ムドラーであって、シャクティを覚醒させる働きをする。
 このアシュヴィニーは最高のムドラーであって、肛門や直腸の病を治す。また、体を強健にし、若死にを防ぐ。

(18)パーシニー・ムドラー
 両足を、縄のごとくしっかりと絡ませて、首の後ろにあてがうべし。これこそはパーシニー・ムドラーであって、シャクティを覚醒させる働きをする。
 このパーシニーは偉大なるムドラーにして、体を強健にする。シッディを願う行者たちは努力してこれを修行すべし。
 
(19)カーキー・ムドラー
 口をカラスのくちばしのごとくに尖らせて、空気をゆっくりと吸い込む。このムドラーはすべての病気を治す。

(20)マータンギー・ムドラー
 両鼻から水を吸い、口から吐き出す。次に口から吸い込んで、両鼻から出すべし。これを繰り返して行なうべし。これがマータンギーという高級なムドラーであって、老いと死をなくする。
 人里はなれた、人気のないところに住み、心を集中してこのムドラーを修習すべし。そうすれば、象の様に強力になることができる。
 ヨーギーはどこにいても、このムドラーの行によって、すばらしい幸福を味わうことができる。
 それゆえに、あらゆる力を絞って、このムドラーを修行すべし。

(21)ブジャンギニー・ムドラー
 口をいくらか前に突き出して、空気を食堂を通じて飲み込むべし。
 このムドラーは、消化不良等の腹部疾患のすべてを治し、老いと死をなくする。

 ここにわれはムドラーの章を説き終わった。これらはすべてのシッダたちの愛重物であって、老いと死をなくする。
 この章は、詐欺師や信のない者には、授けてはならない。注意して秘すべし。低位の神々たちといえども得がたき章である。
 幸福と解脱を与えてくれるところのこのムドラーの章は、実直で、心が平静で、グルに対する信仰を尊ぶ者だけに授けるべし。
 このムドラーの章は、あらゆる病患をなくする。常時にこの法を修習する習性を持つ人の消化の火はますます盛んになる。
 かかる人には老衰は来ず、また彼は火難、水難等にあわない。まして風難の恐れがあろうか。
 せき、喘息、脾臓肥大、ハンセン病等の20種の疾患は、もろもろのムドラーの修習によって消え去ること疑いない。


 
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アーナンダマイー・マー(3)

2007-02-22 09:49:17 | 松川先生のお話


 ニルマラーとボーラーナートは、最初のころ、アスタグラーマの、サーラダ・サンカル・センという人の家に住んでいました。そしてニルマラーのすばらしい霊性の高さを最初に『発見』したのは、センの義理の兄弟である、ハラ・クマール・レイでした。
 ハラ・クマール・レイは、教養はあるけれども情緒不安定な人でした。彼は、宗教的熱情に襲われ、彼の仕事(何らかの事務の仕事)を満足に遂行できないということがしばしばありました。

 ハラ・クマール・レイが初めてニルマラーに会ったとき、彼は『マー(母)』と言って、無意識のうちに地面にひれ伏しました。
 そのとき以来、ハラ・クマール・レイは、事あるごとにニルマラーの役に立とうとし、そしてついには、ニルマラーに毎日お会いすることを許可してほしいと、ボーラーナートに懇願しました。毎日彼女と話をし、また彼女のプラサードを受けたかったためです。
(※一度神や聖者にささげられた食事のお下がりはプラサードと呼ばれ、神聖なものとされます。)

 ボーラーナートはこれを受け入れ、ニルマラーに対しても、彼にプラサードを与えるようにと言いました。

 ある日、ハラ・クマール・レイがニルマラーに対して深い敬意を示しているとき、突然彼は、次のような予言的な言葉を叫びました。
『今私があなたを「マー(母なる神)」と呼んでいるように、いつか全世界があなたをそう呼ぶときが来るでしょう!』

 このアスタグラーマの地で、ニルマラーが普通の人間ではないと気づいたのは、ハラ・クマール・レイだけではありませんでした。ボーラーナートの友人の一人であるクシェートラ・モーハンも、ニルマラーにひれ伏し、ニルマラーのことをドゥルガー女神であると言いました。

 また、あるとき村人たちとともに神への賛歌を歌っている間に、ニルマラーが至福のサマーディの超意識状態に入ってしまいました。当然、村人たちの目はニルマラーにひきつけられ、ニルマラーが普通の人間ではないということに、多くの人が気づき始めたのでした。


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失意の人に対して

2007-02-21 07:57:51 | 経典の言葉・聖者の言葉




 なぜそう意気消沈しなければならないのかね?
 君は、自分が人生について何もかも理解していると思うのかね? 神の世界では無駄に終る人生などはないのだ、ということを知りなさい。
 あるとき、ブラザー・シャシが、君に似たある人に実にふさわしい教えを与えた。ある人が散歩に出て、水路に行き当たった。彼は走って飛び越えようとして何歩か後ろに退いた。彼が走って運河を飛び越えたとき、後戻りした分を取り戻しただけでなく、水路自体をも飛び越えていた。彼が後戻りしたのは役に立ったか支障になったか、君にわかるか? 人は今生では後戻りせねばならぬこともあるかもしれない。しかし次の生では確実に前進するだろう。

 無駄な人生などない。一つだけ覚えておきなさい。「神中心」の生を生きよ。そうすれば、主は思し召しのままに君を導いてくださる。
 彼は私たちの過去も、現在も、未来もご存知なのだ。
 一番賢いやり方は、完全に彼におまかせすることだ。君が主の御手にすがるかすがらないかは問題ではない。彼はいつも君の手をしっかりと握っておられるのだ。そのことには疑いもない。彼は決して君を見捨てたりはなさらない。彼は慈悲そのものであられるのだ。


        --スワーミー・アドブターナンダ


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心を広大無辺に

2007-02-20 20:11:53 | 勉強会より抜粋

バガヴァッド・ギーター 勉強会 第一回
「第2章」

2006・12

※いずれ全文をまとめて本にする予定ですので、ご期待ください。






◎心を広大無辺に

【本文】
『無数の河川が流れ入ろうとも、海は泰然として不動であるように、様々な欲望が次々に起ころうとも、それを追わず取りあわずにいる人は平安である。

 物欲肉欲をすべて放棄した人、もろもろの欲望から解放された人、自意識や執着心のない人、このような人だけが真の平安を得るのだ。

 プリター妃の息子よ!これが絶対真理(ブラフマン)と合一する道で、これによって一切の迷妄が消え去るのだ。したがって、たとえ臨終の時にでもこの心境になる人は、必ずや涅槃の境地に入ることとなる。』と。


【松川】
 はい、これでこの章は終わりですね。
 ここに一個の石があったとします。それは5センチ四方くらいの、小さな石だったとします。
 それをコップの水の中に投げ入れたら、水はあふれてしまうし、あるいは勢いが強ければ、コップも割れてしまうかもしれないね。
 洗面器の中だったら? あふれるかはわからないけど、すごく水は波立つね。
 プールの中に投げ入れたら? ポチャンって音はして、プールの水全体に影響はあるだろうけど、まあ、そんなんでもない。
 海の中に投げ入れたら? たとえば太平洋に石を一個投げても、海自体はほとんど影響をこうむらないね。
 これと同様に、広い心を持つ人はね、もろもろの執着とか怒りとかに、翻弄されないんだね。
 つまり、ここでいう執着とか怒りっていうのは、本来は真の自分とは何の関係もないんだね。単に、グナとよばれるエネルギーが織り成している幻にすぎない。そういうのが心の中に現われては消えていくわけだけど、常に神に心を合わせ、広大な精神状態でいる人にとっては、そんな小さな執着や怒りの幻影なんていうのは、まったく意に介するものではない、関係ないんだね。
 でも心の小さな人は、そういった心の波立ちにすぐに反応し、取り込まれてしまう。そしてさっきも言った、十二縁起のプロセスに巻き込まれていくんだね。
 しかしこの「小さな心」っていうのもね、後天的なものなんだよ。本来はわれわれの心は、誰であっても、まったく限界のない、無限に広大な心なんだ。しかし十二縁起のプロセスによってね、愛着したり嫌悪したりしているうちに、自分で自分の心に壁を作り、制約を作り――ということを何回も何回も生まれ変わりながらやっているうちにね、海がプールになり、プールが洗面器になり、そしてとうとう、小さなコップのような、狭くて壊れやすい心になってしまった。
 だから修行というのは逆に、心を広大無辺にしていくプロセスなわけだね。
 そして実際にはそのためには、ここに書かれているように、物欲、そして性欲を中心にした愛欲、こういったものを自分の心から取り除いていくプロセスが必要なわけだね。そして心を神に合わせ、エゴを破壊していく。
 エゴという心の壁を取り去り、絶対真理に心を合わせる。それにより、われわれが本来持っていた広大無辺な心――それは正確には『心』といえるのかどうかわからないけど――広大無辺な、絶対真理と合一した状態に、一生をかけてね、何を犠牲にしても、われわれはそれを達成しなければならないんだね。
 もちろんそのための具体的方法論は、またいろいろある。それはこのバガヴァッド・ギーターでも、この後にもいろいろと出てきますね。
 それでは今日はこの辺で、第二章の解説は終わりにしましょう。

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