ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

開かれた心で

2007-01-21 21:02:15 | 松川先生のお話




空からの使者は
慈悲の矢を携え
人々の心臓を撃つ
彼に撃たれるのは、誠実な人である

撃たれたなら、教えの紐で縛られ
祝福の炎で焼かれなさい
はるかな過去から蓄積して来た罪を
すべて焼き尽くしてもらいなさい

逃げずにすべてを彼に任せ
彼が食べられるくらいに柔らかくなれ

功徳のスパイスで味付けし
彼に残らず食べられれば
君は彼の細胞のひとつとなり
我意識は死に、
ただただ
彼の行為の道具となる



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至高のバクティ

2007-01-05 19:15:38 | 松川先生のお話



 私はやはり、バクティ・ヨーガが最高だと思う。
 これが完成すれば、すべてが整う。何もいらない。
 しかし実際は、これはとても難しい。

 バクティ・ヨーガとは、簡単に言えば、神(如来)に完全に心を開くことだ。明け渡すことだ。
 もちろん、世界の宗教で、神への帰依、信仰を教義の中心に置いているものは多い。
 しかし彼らの多くは、信仰の名のもとに他者を排斥する。彼らの多くは煩悩から解放されず、悟りもなく、チャクラも崩壊せず、エネルギーは重い。

 真にバクティが成功し、パラー・バクティ(至高のバクティ)に到達すると、これはヴィヴェーカーナンダも言っているように、衆生に対する、無条件の慈悲の心、四無量心の心がわいてくる。
 また、完全な放棄の感覚がある。バクティが成功している者に、一切の煩悩や雑念はない。
 また、神=如来=真理の本質に溶け込んでいるので、その者はこの世の実体のなさ、マーヤー(幻影の魔術)を悟り、マーヤーを超えた空、明智の真理を悟る。
 そしてそこには本質的な光の輝きと、無上の至福がある。
 そのとき体中のナーディは通り、結節は開き、エネルギーは上昇して頭頂のサハスラーラ・パドマを突き抜ける。不死の甘露が滴り落ち、体中を満たし、体の感覚はなくなり、心は止まり、サマーディへと至る。

 チベットには『食事をしたかどうかは、顔が赤くなっているかどうかでわかる』ということわざがあるそうだが、バクティが成功したかどうかは、上記のような現象がすべて生じているかどうかでわかるのだ。
 
 しかしほとんどのバクティ・ヨーガの実践者、そして世界の信仰者たちは、これらを経験していないだろう。
 このような現象が生じていないのに、自分は信仰をなし、それに成功していると思い込んだ場合、大きな危険がそこには生じる。
 偽物のバクティは、偽善的な感覚となり、狭い心を作り出し、他者を排斥するか、あるいは無智的な意味ですべてを認めるようになる。あるいは大変観念的になり、自分の観念的物差しで真理を計り、真理を語ろうとする。

 バクティが最高なのは間違いない。しかしこのように多くの危険もあり、達成が難しいバクティ・ヨーガをスムーズに達成するためには、バクティの完成によって生じるとされる上記のような境地を、別の角度から実質的に求めていくのが、とてもよい。

 つまりまず、衆生への慈悲の心を磨く。四無量心だ。一人の例外もなく、すべての衆生の幸福を願い、すべての衆生の苦悩を哀れむ。彼らが悟ってほしい、無上の至福に到達してほしいと願う。他者の中に魂の進化や優れた要素を見たら心から喜び称賛し、そして自分のことは捨てる。苦しかろうが楽しかろうが、頓着しない。成功と失敗、苦しみと喜び、得ることと失うことへの頓着を放棄し、ただただ衆生への慈悲の実践を行なう。

 そしてバクティが成功すると自然に放棄の心が生まれるが、それは難しいので、意識的に日々、放棄の実践をする。バクティが成功すればそもそも戒律など一切必要ない。しかし心が汚れているので、バクティに至れないので、まずは戒律で自分を縛る必要がある。教えにのっとって、すべてを放棄し、一切を必要とせず、一切に執着を向けず、ただ与えられたものに満足する。

 また、バクティが成功した者は、自然にすべての真理を悟るが、それはなかなか難しい。悟っていないのに、悟ったような気分になってはいけない。
 よってまずは聖者が説いた教えを学ばなければならない。教学を徹底的に行ない、それを思索し、日々実践する。そして瞑想し、心の汚れを取り除き、日々、心の本質に心を向けるのだ。

 また、バクティに成功した者は、自然にナーディが通り、甘露とクンダリニーのヨーガの完成を得るが、それは実際は難しいので、日々、地道にナーディを通し、甘露を落としていく、クンダリニー・ヨーガの修行が必要だ。

 バクティは最高である。しかし偽物のバクティは最低である。だからバクティを志向しつつ、それが偽物に陥らず、速やかに本当の結果を得るために、慈悲の訓練、放棄の訓練、智慧の訓練、クンダリニーの訓練などで、脇を固める。それらを地道に進めていくことで、本当の至高のバクティが生じやすくするのだ。
 そしてこれらの訓練の進化とともに、本当の意味で神(如来)に心を開くことが自然にできるようになり、そのとき手段と結果は合一する。

 そしてこれらの道を歩むにあたって必ず邪魔をしてくる自己のエゴのマーラの障害に打ち勝つには、現実の生きた師への帰依、すなわちグル・ヨーガが必要になってくる。師は自己のエゴの言い訳を許さず、偽善を許さず、エゴが崩壊するように、巧みに追い込んでくれるからだ。逃げさえしなければ、真の師は最良の道しるべ、最良の友となる。

 慈悲の訓練、放棄の訓練、智慧の訓練、エネルギーの訓練、師への帰依・・・これらを日々繰り返し修行し、神(如来)に心を開け。
 それに成功したならば必ず、衆生への慈悲、放棄、智慧、エネルギーの昇華、サマーディが、自然に生じる。
 生じていないならば、自己の汚れを懺悔し、ひたすら謙虚に修行に励め。
 瞬間的に生じるけれど持続しないならば、持続させるように努力せよ。



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善は急げ

2007-01-03 17:55:32 | 松川先生のお話


 善は急げ。
 不善は置いておけ。

 これはどういうことかというとね(笑)、まあ、心ってのは、あんまり確固としたもんじゃないんだね。一般的には。

 ここでいう善っていうのは、ヨーガ修行も含め、あるいは他人を幸福にすることとかね、あるいは自分の心を良くしようとかね、あるいは神への思いなども含め、あらゆる意味での善、真理、正しいことだね。こういうことを、やろうかな、と思ったとき、すぐにやったほうがいい。
 というのは、そういう善や真理を行なおうという思いが心に浮いたときというのは、これは千載一遇のチャンスであってね、すばらしい「宝のとき」なんだよ。そしてそういう機というのは、すぐに終わるかもしれない。気が変わるかもしれないし、状況が変わるかもしれない。
 だからあらゆる意味での善を行なおうという想いが生じ、それができる条件下にあるとき、すぐにやれということだね。

 そして逆に、あらゆる意味での不善、これは他人を不幸にすること、あるいは自分の心を汚すこと、あるいはヨーガや仏教その他、聖者たちが禁じていること。こういうことをやりたくなったりね、あるいはやるような条件にあるとき。
 そんなとき、それをすぐにやめるとか、そういう思いを捨てることができたらそれは一番いい。
 でもなかなかそううまくはいかない。捨てられない。そんなときは、とりあえず置いておけ(笑)。
 良い思いが、時間がたつと消えてしまうかもしれないのと同じように、悪しき思いも、時間がたつと消える可能性もある。つまり良くも悪くも心や条件というのは無常なんだ。
 もちろん、消えないかもしれないよ。でも消えないまでも弱まるかもしれないね。感情に任せて勢いでやってしまうのが一番愚かだ。

 だから、善は急げ。
 不善は、すぐに断てるなら断て。断てないなら、少なくともちょと置いておけ。


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今年の目標 覚え書き

2007-01-03 17:50:11 | 松川先生のお話



 去年の終わりから今年の始まりにかけておきたいくつかの現象や心の働きによって、今年の目標がはっきりしました。
 今回の日記は読者を意識するより自分自身への覚え書き的な意味が強いので、読者には若干意味不明な部分もあるかもしれませんが、ちょっと書き記しておきたいと思います。


☆目標1.神のただの道具になること。

 2007年について、
『2007年も祝福をおあたえください』
と祈ったが、直後に、
『いや、私自身は幸福でなくてもいいし、いろいろうまくいかなくてもいいから、衆生が悟りに近づきますように』
と祈ったが、直後に、
『いや、そういう自分の考えはどうでもよくて、ただ神の道具になりきれますように』


☆目標2.衆生への慈悲

 2007年、最初に行なった修行は、慈悲の瞑想でした。
 今年はよりいっそう、衆生の幸福のために自分が役立てるよう、精進していきたい。


☆目標3.聖者の修習によって私自身が聖者に近づくこと。

 聖者である月が甘露となって頭から溶け込んできた。
 真の道に向かっている縁ある人々のためにも、私自身が聖者と同一化するしかない。


☆目標4.すべてを神の意思と見て受け入れる、バクティ・ヨーガの完成。


☆目標5.心を残さない。こだわらない。瞬間瞬間鮮明な意識で生きることの実践。
 過去にこだわらず、一瞬前の過去にもこだわらず、
 未来を期待せず、恐怖せず、不安を持たず、すべてを神に任せ、どのような結果が来ようとも神の意思として喜び感謝し受け入れる。
 そして瞬間瞬間、生き生きとした鮮明な意識を持続させる。
 神へ完全に心を開いた喜びの心を持ち続ける。

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三つのヨーガ

2007-01-03 11:49:06 | 松川先生のお話



 今朝、インスピレーションが沸いたので、簡単にまとめてみたいと思います。

 ヨーガにしろ仏教にしろ、その修行法の真髄は、以下の三つのヨーガにまとめられるのではないかと思います。そしてもちろんこれらはすべて同時に進められていかなければなりません。
 ※各ヨーガの名前は、便宜上、私が今考えたものなので(笑)、実際にこういう名前のヨーガが経典等にあるというわけではありません。

1.ダルマ・ジュニャーナ・スムリティ・ヨーガ
  (学習と思索と正念のヨーガ)

2.サンニャーサ・サマーディ・プラジュニャー・ヨーガ
  (放棄と瞑想と智慧のヨーガ)

3.バクティ・カルマ・カルナー・ヨーガ
  (帰依と行為と慈悲のヨーガ)



 それでは、一つ一つ簡単に説明してみましょう。


1.ダルマ・ジュニャーナ・スムリティ・ヨーガ
  (学習と思索と正念のヨーガ)

 最初のヨーガは、正しいダルマ、すなわち正しい教え、正しい真理の概念的情報にかかわっています。
 このような教えをまずしっかりと学習します。それは本を一回読むというレベルの話ではなく、まあ極端に言えば、口から自然に経典の内容が出てくるくらい、教えを繰り返し繰り返し、頭と心にインプットするわけです。
 そしてそのインプットされた教えに思索を加えることによって、それはより強く心に根付きます。
 さらに日々、その教えを心から離すことなく生活する訓練をします。
 ここにおいて、多くの失敗があるでしょう。自分の心の汚れに気づかされたり、自分の理解が机上の空論に過ぎなかったことに気づかされるでしょう。それはそれでかまいません。実生活で教えを実践しようとして成功したり失敗したりした経験をフィードバックし、再び教えを学び、経験を元に思索することによって、心の修正を図るのです。そして再び実生活での教えの実践にトライしていくのです。これにより、自分の心・言葉・行為が、すべてダルマと自然に一致するような状態を作っていくのです。


2.サンニャーサ・サマーディ・プラジュニャー・ヨーガ
  (放棄と瞑想と智慧のヨーガ)
 
 これは仏教的に言うと戒・定・慧ですね。
 私たちが本当に智慧を得るためには、サマーディに入らなければなりません。
 そしてサマーディに入るには、それを邪魔する雑念、煩悩、エゴを、放棄しなければならないのです。
 ラーマクリシュナはそのために、『女と金に少しでも心が向かう者は神を悟れない』という、厳しくもシンプルな教えを説きました。
 お釈迦様やパタンジャリは、五戒や十戒などの戒律によって日々の生活を縛ることで、放棄の状態を作り上げようとしました。
 現代の欲楽に満ちた日本の生活の中で完全な放棄というのは難しいかもしれませんが、それでも日々、放棄ということを念頭において生きるべきですね。一切のものを必要とせず、ただ与えられたものに満足し、心に執着も怒りもこだわりも持たず、ただ前述のようなダルマの教学と思索と実践の繰り返しに励むのです。
 そうすると徐々に、サマーディの力がついてきます。最初はそれは、教えの概念的理解と同時進行で進んでいくでしょう。そして徐々に、概念を超えたサマーディへと進んでいきます。
 そしてそこには必ず、至福があり、心の寂静があり、光があります。この三つのどれか、あるいはどれも生じていないとしたら、それはまだサマーディの入り口にも至れていないといえます。どのような瞑想であれ、成功すればそれは必ずこの至福、寂静、光は生じるのです。
 そしてサマーディによって真実の世界にアクセスし、浸り、その深奥から発する智慧の光に触れ、それを自分のものとしていくのが、智慧の修行といえるでしょう。
 そしてこのヨーガの真髄は、いかにこのサマーディと智慧を、日常において持続させるかです。
 まずは座った状態でサマーディや智慧の経験を深め、そしてそれを日常のさまざまな活動をしながらも持続させるようにしていくのです。
 普通は、日常のさまざまな概念的思考、しかもそれは汚れを多く含んだ概念的思考によって、私たちはサマーディからはじき出されます。だから基礎に、日ごろからの放棄の心と実践が必要なんですね。
 言い換えれば、放棄とはストイックなものではなく、最高の大楽とサマーディと智慧を常に味わうために、それを邪魔する低級の心の喜びを捨てる訓練ともいえるでしょう。


3.バクティ・カルマ・カルナー・ヨーガ
  (帰依と行為と慈悲のヨーガ)

 喜びも苦しみもすべてを神(如来)の愛と見て受け入れ、神に感謝して生きるバクティ・ヨーガ。
 神(如来)の僕として、神の『ただの道具』として、できるだけ神の意思に違わずに、神から与えられた使命を全力で生きるカルマ・ヨーガ。
 衆生の苦悩を哀れみ、衆生の悟りのお手伝いのために人生をささげ、奉仕する慈悲の実践。
 この三つは同一です。
 なぜなら神の意思とは、すべての衆生が悟りを得、純粋な真理・智慧・至福の世界に帰ることであるからです。
 このヨーガの実践においては、未来に期待や不安を抱くことなく、過去の後悔や思い出に浸ることなく、ただ今この瞬間、神や如来に対して、完全に心を開き続けることが重要です。
 それにより、成功にも失敗にもとらわれず、好きも嫌いも超越した心の状態で、ただ神の意思である慈悲の実践に励むのです。
 この実践こそが最高の道であり、ヨーガや仏教の最初であり最後であり、最高の至福をすべての衆生にもたらす道であるといえるでしょう。

 正月からこのようなインスピレーションが沸き、皆さんにこのように伝えることができることを、すべての如来方と、グル、イダム、ダーキニーたちに感謝いたします。

 世界が限りなく純粋でありますように。


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経験

2007-01-02 06:48:24 | 松川先生のお話




 ヨーガ教室のある生徒さんがしみじみ話していたこと。

 ヨーガを始める前に、いろんな経験をしてきて、うらんだり悔やんだりしたこともいろいろあった。
 もちろんヨーガを始めても、それらの過去が消えることはないけれど、心が解放され、根本的な考え方が変わっていくことによって、それら過去の経験が、ぜんぜん別の意味を持つようになった。
 失敗や悲しみ・憎しみに見えていたものらは、すべてすばらしい宝物に変わった。過去の良い経験・悪い経験のすべてが、今後のヨーガ修行という火を燃やすための薪となることを知った。
 
 このような言葉を聴きつつ私は、ああ、やはりヨーガ修行はすばらしいなと、今日も能天気に思いふけるのでした(笑)。


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