ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

2006-12-31 13:40:32 | 聖者の生涯





 マヘーンドラナート・グプタは、インドと西洋の両方の学問、科学、芸術に通じた、偉大な教授でした。
 しかし家庭がうまくいかず、大きな苦悩を感じたマヘーンドラナートは、自殺を思い立って家を出ました。
 自殺する場所を探してふらふらと放浪していたとき、コルカタ郊外のドッキネッショルへとたどり着きました。そしてそこにあるカーリー寺院に、すばらしい聖者が住んでいるという話を耳にしました。
 死ぬ前に、聖者にお会いするのも悪くはないと思い、マヘーンドラナートは、その寺院へと足を運びました。

 そこにおられたのは、まだあまり多くの人には名前を知られていない大聖者、ラーマクリシュナ・パラマハンサでした。
 ラーマクリシュナは信者達に、楽しげに教えを説いていました。その光景を見た瞬間、マヘーンドラナートは、感動のあまりに言葉を忘れ、立ち尽くしました。

 その後、ラーマクリシュナのあまりに強い魅力に圧倒されたマヘーンドラナートは、再びカーリー寺院を訪ね、ラーマクリシュナに会いに行きました。ラーマクリシュナはマヘーンドラナートに、多くの質問をしました。
 ラーマクリシュナは尋ねました。
『お前、結婚しているのかね?』
 マヘーンドラナートは普通に、
『はい、しております。』
と答えました。するとラーマクリシュナは驚いた顔をし、
『ああ! 彼はもう妻を娶っているのだ! 主よ、彼をお助けください!』
と叫びました。マヘーンドラナートは狼狽しました。
 ラーマクリシュナは重ねて尋ねました。
『子供はいるのか?』
 マヘーンドラナートはどきどきしながら、
『はい、おります。』
と、か細い声で答えました。するとラーマクリシュナは再び叫びました。
『ああ! 育てなければならない子供たちまでいるとは!』
 このやり取りで、マヘーンドラナートがもっていたプライドに、大きな打撃が加えられました。

 少しして、ラーマクリシュナは言いました。
『私の息子よ。お前は良い人相を持っているのだよ。前生から神との交わりに日々をすごしたヨーギーたちは、独特の表情を持っているのだ。
 ところで、お前の奥さんについてだが、彼女は、神や光の方に向かう、智慧の性質をもつ人か? それとも、神から離れて闇の方へ向かう、無明の性質をもつ人か?』
 マヘーンドラナートは答えました。
『彼女は申し分のない女でございます。しかし無智で。』
 するとラーマクリシュナは、厳しい調子で言いました。
『彼女は無智でお前は賢いというのか! お前は、自分が叡智を獲得したと思っているのか!』
 こうして再び、マヘーンドラナートのプライドに打撃が加えられたのでした。

 次にラーマクリシュナは尋ねました。
『お前は、神を【形のないもの】として瞑想するのが好きか? それとも【形あるもの】として瞑想するのが好きか?』
 この質問に、マヘーンドラナートは困惑しました。神が形あるものなのか、形のないものなのか、それはどちらかのみが真実であるはずなので、このように両者を並列して、【どちらが好きか?】という質問をされることが理解できなかったのです。
 しばらく考えた後、マヘーンドラナートは答えました。
『私は神を、形のないものとして瞑想したいと思います。』
 するとラーマクリシュナは言いました。
『それはよろしい。それは全く正しい。
 しかし同時に、その見方だけが正しくて他は全て間違っている、というような早合点をしないように気をつけるのだよ。【神は形あるものである】という見方も、同様に正しいのだ。』
 ここで再びマヘーンドラナートのプライドに打撃が加えられました。そしてマヘーンドラナートは、ラーマクリシュナの言葉の意味が理解できませんでした。マへーンドラナートは多くの書物を学んできた学者でしたが、ラーマクリシュナの言うような説には、今まで出会ったことがありませんでした。
 そこでマヘーンドラナートは言いました。
『【神は形がある】というのはいいでしょう。しかし神は決して、人々が拝んでいる偶像の中にはいらっしゃいません。ですからそれを、拝むときは偶像ではなく神そのものを心に思わなければならないということを、教えてやらなければなりません。』

 これに対してラーマクリシュナはまた厳しい調子で言いました。
『お前達カルカッタの人々の間では、【他人に説教すること】が流行になっているようだね!
 他人に教えるというお前はいったい何ものなのだ?
 必要があれば宇宙の主ご自身が、お教えになるだろう。たとえ偶像崇拝に何か間違ったところがあるとしても、全ての礼拝は彼にささげられているのだということを、彼がご存知がないはずはないだろう。彼は喜んでそれをお受けになるだろう。
 なぜお前達は、自分の力の及ばないことで心を悩ますのだ? 神を知り、そして敬うことを求めなさい。それがお前達の、最も身近に与えられたつとめである。』
 
 ここにおいて、マヘーンドラナートのうぬぼれは、完全に破壊されました。彼は思いました。
『この方のおっしゃることは全く本当だ。他人に説教して回る必要がどこにあるか。その前に私は神を知っているのか。私は神を愛しているのか。
 私は何も知らないのに、他人に教えようというのは、愚の骨頂であり、恥ずかしいことだ! これは数学や歴史や文学ではない。神の科学なのだ!』
 これが師と議論をしようという、マヘーンドラナートの最初の試みであり、そして幸いなことに最後の試みでした。

 こうしてマヘーンドラナートは、ラーマクリシュナの魅力に完全にとりつかれました。彼はこの世の苦を味わい、自殺をしようと放浪していて、生涯の師である神人に会ったのでした。
 マヘーンドラナートは、学校の校長の仕事もそっちのけで、足しげくラーマクリシュナのもとへと通い、時には何日も泊まったりして、教えを聞き、瞑想し、そして法友たちとの交流を楽しみました。
 一介の田舎の聖職者だったラーマクリシュナのもとには、この頃から、前生から約束された弟子達が、続々と集まり続けていました。その多くは若者であり、当時すでに28歳くらいだったマヘーンドラナートは、彼らの中では年長者でした。
 またマヘーンドラナートは、自分の学校に通う若者達の多くを、ラーマクリシュナのもとにつれてきて、ラーマクリシュナに弟子入りさせました。このことで子供の親御さんたちから苦情を受けましたが、マヘーンドラナートは構わずそれを続けました。
 
 マヘーンドラナートやその他の前生からの弟子達がラーマクリシュナと出会い、彼のもとに通って教えと霊的訓練を受けたのは、ラーマクリシュナの生涯の最後の五年間ほどのことでした。1886年、ラーマクリシュナはこの世の肉体を去りました。
 その後、弟子たちは紆余曲折の末、ブラフマーナンダをリーダーにラーマクリシュナ・ミッションを設立し、各自の修行と、教えの普及につとめました。また、ラーマクリシュナの一番弟子だったヴィヴェーカーナンダは、西洋に出て、ヴェーダーンタ協会を設立し、西洋に教えを広めました。
 マヘーンドラナートはこのどちらにも参加せず、自らが設立した学校の一室にある自分の部屋で、瞑想し、また人々にラーマクリシュナの教えを説く日々をすごしました。多くの人がマヘーンドラナートを訪ね、教えを受けました。その中には『あるヨギの自叙伝』の著者であるパラマハンサ・ヨーガーナンダもいました(『あるヨギの自叙伝』の『至福の聖者』という章で、二人の交流の様子が描かれています)。

 マヘーンドラナートは学校の校長をしていたため、ラーマクリシュナやその周りの人たちには、親しみを込めて『マスター』と呼ばれていました。その後、尊敬をこめて『マスター・マハーシャヤ』とか『シュリーマ』などと呼ばれましたが、彼自身は謙虚に、書物などにはただイニシャルで『M』と自称しました。

 Mは、ラーマクリシュナのもとに行くたびに、その中での細かな出来事やラーマクリシュナの言葉を、その驚異的な記憶力で、克明に日記に記していました。そしてあるときからそれを『シュリー・ラーマクリシュナ・カタームリタ(甘露の言葉)』という書物にし、出版する作業を始めました。
 これを読んだヴィヴェーカーナンダは、Mに、絶賛の手紙を送ってきました。しかしその中でヴィヴェーカーナンダは、『あなたはこの仕事によって多くの祝福と、そしてより多くの呪いを受けるでしょう。それが世の習いです』と記しました。
 実際、この言葉どおりになりました。神人の生きた言葉をリアルに記したこの書物は、多くの人に感動と衝撃を与えましたが、同時に、さまざまな方面から、さまざまな批判も受けました。
 ヴィヴェーカーナンダ自身、Mに対しては称賛の言葉を述べましたが、自分の弟子達に対しては、『Mのようなやり方をしてはならない。あれは食欲のない者の口の中に、無理やりパンを押し込むようなものだ』と言いました。ラーマクリシュナのすばらしさをストレートに表現したMに対して、ヴィヴェーカーナンダは全く逆のやり方をとっていたのでした。ヴィヴェーカーナンダは、現代人、特に西洋人にはラーマクリシュナの一見狂人のような振る舞いや教えは理解できないと思い、弟子にラーマクリシュナのことを人々に広めることを禁じ、あくまでも自分の言葉で、西洋に教えを広めて行ったのでした。

 Mは、『シュリー・ラーマクリシュナ・カタームリタ』で、師との五年間の日々を、事細かに記していったので、その量は膨大なものになりました。そして1932年6月3日、その最後の第五巻の校正を終えました。
 まるでそれでやっと今生の使命を終えたかのように、その翌日の6月4日、
『おお師よ! おお母なる神よ! 私を抱き取ってください!』
と祈りを唱えつつ、Mはこの世の肉体を去ったのでした。


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2006-12-17 20:39:09 | 松川先生のお話



 私の幸せどこにある?
 それ、その「私」を捨てたとき。

 「私」がないというならば
 「私のもの」もありはしない。

 「私」はどこにもないのだから
 「私のもの」もどこにもない。

 その確信を得るならば、
 マーヤーの束縛は断ち切られる。

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サンミッラバーシニーの死

2006-12-17 18:20:15 | 経典の言葉・聖者の言葉





 仏典には、お釈迦様の過去世の物語が、ジャータカその他に多く残されています。
 原始仏典にも大乗仏典にもそのような話は多くありますが、それらの中からいくつか紹介していきたいと思います。


 その昔、ヴァラナシにおいて、ブラフマダッタ王が君臨していた頃、お釈迦様は、あるブラーフマナの家系に生まれました。
 青年に達する頃には、お釈迦様はすべての学識を修め、かつ禁欲の梵行をしていました。
 あるとき彼の父母はお釈迦様に、そろそろ結婚するように言いました。しかしお釈迦様は、
『私には家庭生活は必要ありません。私は禁欲の梵行に励み、父母の臨終と共に、出家します』
と主張しました。しかし父母はお釈迦様に結婚するよう繰り返し懇願したので、お釈迦様は一計を案じ、
『では、もしもこのような少女が存在したら、結婚しましょう』
と言って、自ら作成した黄金の像を見せました。
 そこで父母は、なんとしてでもそのような少女を探そうと、召使達を捜索に向かわせました。

 ところでその同じ時代、ある功徳の高い魂が、梵天界で死に、ヴァラナシの大金持ちのブラーフマナの家の少女として生まれ変わっていました。彼女はサンミッラバーシニーと名づけられました。彼女は美しく、しかし性欲に支配されることはなく、禁欲の梵行生活を送っていました。

 このサンミッラバーシニーは、まさにお釈迦様が作成した黄金の像にそっくりでした。そこでまもなく召使達は彼女を発見し、共に禁欲の梵行を行なっていた二人は、本人達が望んでいないにも関わらず、父母達によって結婚させられたのでした。
 しかし結婚後も二人は、お互いのことを一度も肉欲によって見ることはなく、禁欲の梵行を貫いていました。

 まもなく、お釈迦様の父母が亡くなりました。お釈迦様は彼らの葬儀を行なった後、サンミッラバーシニーに言いました。

『妻よ。私は出家するつもりだ。お前は私の家とお前の家の膨大な財産を自分のものとしなさい。』

 すると妻はこう答えました。

『私はあなたをあきらめることはできません。あなたが出家するなら、私も出家します。』

『それでは、来なさい。』

 こうして二人は、人々がうらやむ膨大な財産を唾のように捨て、出家してヒマラヤに行きました。

 二人はヒマラヤで永い間修行生活を送った後、山を降りてヴァラナシにやってきて、王の庭園にとどまっていました。
 その時、サンミッラバーシニーは赤痢にかかり、お釈迦様が托鉢に出かけている間に、死んでしまいました。

 非常に美しいサンミッラバーシニーが死んだのを見て、人々は死体の周りに集まり、泣き叫びました。
 お釈迦様は托鉢から帰ると、サンミッラバーシニーが死んだのに気付き、こう言いました。

『壊れる法のもとにあるものが壊れた。すべては無常であり、これもまた同じことなのだ。』

 そしてサンミッラバーシニーの死体の横に座り、托鉢で得た粗末な食事をいつものように食べて、口をすすぎました。

 周りに集まっていた多くの人が、お釈迦様に尋ねました。

『尊者よ。この女性の修行者は、あなたにとってどういう人だったのですか?』

『家庭生活を送っているときの、私の妻でした。』

『尊者よ。私たちはこらえきれずに泣き叫んでいるのに、なぜあなたは泣き叫ばないのですか?』

『この人は、生きているときには、私にとって重要な人でした。しかし今は高い世界に転生していったので、何でもありません。私の力の及ばないところに行ったのに、なぜ私が泣き叫ぶことがありましょうか。』


  親愛なるサンミッラバーシニーよ
  あなたは今、多くの者の中に存在している
  彼らの中にいれば、わたしなど何になろう
  だから私に憂いはない

  もし人が死ぬごとにいちいち悲しむならば
  常に死神の力が及びつつある、自分自身を悲しみなさい

  修行者は、たとえ瞬きをする一瞬の間でも
  現世的な喜びのことを念じたりはしない

  修行によって自分自身を支配し
  輪廻から解放されようとするとき
  まさに生き残っている者こそ気の毒だと思いなさい
  解放された者をのことを悲しむことはない


 このようにお釈迦様は、人々に教えを説きました。そしてその後再びヒマラヤに入り、瞑想し悟りを得て、梵天界へと転生していったのでした。

 この時のサンミッラバーシニーは、後のお釈迦様の妻であり高弟であるヤソーダラーでした。



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縁起の歌・2

2006-12-17 16:04:08 | 松川先生のお話






悟りを得ていないから
経験や情報に翻弄される
経験や情報によって、ものの見方の方向性が決定される

ものの見方の方向性が決定されることで、
私たちは、体、感覚、心、経験のデータ、そしてその固定的なものの見方に縛り付けられる

そして私たちは、経験から来る間違った欲望により、欲望の対象を追い求め
それをまた経験する

視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・意識という六つの感覚によって経験されたそれらは
ありのままに経験・評価されることは決してない
なぜならこの感覚というものも、過去の経験から来る偏見に満ちた観念に支配されているからだ

その誤った苦楽の感覚を味わい
誤った、喜びと苦しみの感情が生じる

それが誤った情報として心の奥にインプットされ
このインプットされた誤ったデータが、誤った観念の方向性をより強める

このプロセスが繰り返されることにより、その誤った観念は完全に固定され
私たちはその喜びと苦しみの対象に縛り付けられる

そしてそれらはこの粗雑な世界にあるものなので
私たちはこの粗雑な世界に強く縛り付けられるのだ

そうして私たちは瞬間瞬間、この粗雑な欲望の世界に現われているのだ
快楽という罠に引っかかり
気付いたら、苦しみの世界に縛り付けられているのだ

魔が支配するこの苦悩の世界から脱出したかったら
喜びと苦しみの対象から脱出しなければならない
快と不快、苦しみと喜び、称賛と非難、得ることと失うこと--こういったものに一切とらわれてはならない

とらわれないためには、常に経験と自己の心の反応を観察し
この世界の真実を探らなければならない

そのためには、そもそも快楽の対象を求めたり、苦悩の対象を避けてはいけない
ただただカルマの流れの中で、自己を捨て、神とブッダにすべてを任せ、
神とブッダの意思のままに、ただ自己の為すべき使命を果たすのだ

それを実践するためには、固定観念を壊さなければならない
過去世から培ってきたものの見方から解放されなければならない

その指針として、真理の教えを学べ
自己の観念を一切入れず、真理の教えと、師や聖者の言葉のままに生きるのだ
そのような教えや師や聖者に出会える者は稀であり、幸いである
そしてそれを実践できる者はもっと稀であり、幸いである

そしてそのためには、過去の経験にとらわれる習性を捨て
ただただありのままに、悟りを得よ

過去の経験から来る心の虚偽性を見抜き
心の本質の、他によらぬ生来の輝きに気付け

口で『悟りだ』『心の本質だ』と言うだけでは
それはただ新たな情報と観念となり、より魔の罠にはまっていくだけだ

真理を学び、ただ教えと師の言葉のみを実践し
自分の考えを放棄し、固定観念を壊し
快楽を求めず、苦悩を避けず、ただカルマの流れと神とブッダの意思にすべてを任せ
なすべき事を全力で行ない
経験することや自己の心の働きを常に観察し続け
快と不快、苦しみと喜び、称賛と非難、得ることと失うこと、これらの一切にとらわれない
これらの道を実際に真剣に歩く者のみが
真の解放を得るだろう


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2006-12-17 16:01:42 | 経典の言葉・聖者の言葉



自我心(エゴ)を克服した人にとっては、心は最良の友であるが、
それを克服できない人にとっては、心こそ最大の敵となる。

             (バガヴァッド・ギーター)


憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、邪なことをめざしている自分の心が自分に対して自分でなすほどには、それほどひどいことをしない。
母も父もその他の親族も、正しく向けられた心が自分のためにしてくれるほどの益をしてはくれない。

             (ウダーナヴァルガ)


たとえ一切の人間と神々が私の敵であろうとも、私を無間地獄の火に投げ入れることはできない。
しかし煩悩にまみれた私の心はそれを可能とする。 

             (入菩提行論)


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イダム

2006-12-17 16:00:19 | 松川先生のお話





 イダムとは、密教の修行において、修行者を守護する高位の守護神のことです。

 守護神といっても、いわゆるまだ輪廻に縛られた神ではなく、色界において報身(サンボーガカーヤ)として姿を現した、完全なるブッダの化身といっていいでしょう。

 イダムはそれぞれ、さまざまな顔だったり、いろいろな法具を持っていたりしますが、これらは、修行者が昇華しなければいけないさまざまな要素を示しています。修行者はこのイダムを観想し、これらと合一することを目指すことによって、自分の中に眠る聖なる性質を、この現世において目覚めさせようとするのです。

 しかし現実的な問題としては、イダムを心に常に抱きつつも、修行者は、イダムよりも自分の師匠への帰依を強めることが優先されます。それは解脱していない弟子の汚れた心で観想されたイダムのイメージは、同様に汚れを持ち、それは弟子の成長にならないばかりか、汚れを増長させる結果にもなりかねないからです。
 よって現実的に目の前に存在する師匠は、弟子とイダムをつなぐ架け橋として必要なわけです。弟子は師匠といダムが同じであると見ることによって、実際の師匠のエネルギー、言葉、波動、指導などによって、自己の汚れの修正を行なってもらい、最後には師匠と同一であるイダムと合一するわけです。

 これに関する有名な話が、ナーローパとマルパの話の中でありますね。
 あるときナーローパは、寝ていたマルパを起こし、
『マルパ、起きろ! お前のイダムであるへーヴァジュラが現われたぞ!』
と言いました。マルパが起きてみると本当に、いつも瞑想で観想しているへーヴァジュラが、現実の存在として目の前に現われていました。
 ナーローパは言いました。
『さあどうする? お前のイダムであるこのへーヴァジュラを礼拝するか、それともグル(師匠)である私を礼拝するか?』
 マルパは、
『私の師匠であるナーローパには、いつでもお会いできる。しかしへーヴァジュラが実際に現れるというのは、稀なことだ。』
と考え、へーヴァジュラに礼拝しました。
 するとナーローパは、
『間違いを起こしたな!』
と言って指をパチッと鳴らすと、へーヴァジュラはナーローパの心臓に吸い込まれて溶け込んでいきました。そしてナーローパはこう言いました。

『グルが現われる以前には
 仏陀釈迦牟尼さえ存在しなかった
 1000カルパの偉大なブッダ方は
 ただグルゆえにやってくる』

 マルパは普段から、イダムよりも師匠の方が大事であることを理解していましたが、このときは心が魔にとりつかれ、このような判断をしてしまったのでした。そしてこの後しばらくマルパは、魔の影響によって、心身ともに衰弱し、苦しめられました。しかし最後はナーローパの神通力により、その魔の障害から救い出してもらいました。

 イダムには、優しい顔をした平和のイダムと、恐ろしい姿をした怒りのイダムがいます。さらに怒りのイダムは、怒りのイダムと激怒のイダムに分けられます。
 平和のイダムはやさしい慈愛の象徴であり、怒りのイダムは激しい慈悲の象徴ともいえます。
 一般に平和のイダムはバガヴァット、怒りのイダムはへールカと呼ばれます。
 また、女性系のイダムの場合、平和のイダムはバガヴァティー、怒りのイダムはダーキニーと呼ばれます。

 男性のイダムは、純粋な覚醒したエネルギー、菩提心、至福、方便などをあらわし、女性のイダムは、空性、智慧などをあらわします。
 密教でよく描かれる男女の神の合一の絵は、この二つの要素、つまり智慧と方便、空性と菩提心の合一による完全な解脱の表現です。


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心をいやおうなく不動にする

2006-12-17 15:58:28 | 経典の言葉・聖者の言葉



『ヨーガ・スートラ』より




マイトリー・カルナー・ムディトーペークシャーナーン
スカ・ドゥフカプンニャープンニャヴィシャヤーナーン
バーヴァナータシュチッタプラサーダナム

慈愛、哀れみ、喜び、および無頓着が、それぞれ幸福、不幸、良い、そして悪い対象に対して思われるなら、心は静寂となる。


プラッチャルダナ・ヴィダーラナービャーン ヴァー プラーナシャ

息を吐き出す法と、息を止めておく法によっても、心の静寂が得られる。


ヴィサヤヴァティー ヴァー プラヴリッティルトパンナー マナサハ
スティティニバンディニー

あるいは、いろいろな対象を持った感覚現象が発現するならば、それは心をいやおうなく不動にする。


ヴィショーカー ヴァー ジョーティシュマティー

あるいは、すべての悲しみを超える『まばゆいばかりの光明』が発現するならば、心をいやおうなく不動にする。


ヴィータラーガヴィシャヤン ヴァー チッタム

あるいは、感覚対象へのすべての愛著を捨てた聖者の心を瞑想することも、心をいやおうなく不動にする。


スワプナニドラージュニャーナーラムバナン ヴァー

あるいは、睡眠中に得た叡智を対象とする瞑想も、心をいやおうなく不動にする。


ヤターヴィマタディヤーナードヴァー

あるいは、何であれ、自分にとって好ましいものを瞑想することによっても、心は不動になる。


パラマーヌ パラママハットヴァーントーシャ ヴァシーカーラハ

以上のような方法で、心が不動になった人には、極微の原子から極大の無限者に及ぶすべてのものに対する支配力が生ずる。


クシーナヴリッテーラビジャータシェーヴァ マネールグラヒートリ・グラハナ・グラーヒェーシュ
タットスタ・タダンジャナタ サマーパッティヒ

かくして心の作用がすべて消え去ったならば、水晶がその傍らの花などの色に染まるように、認識主体、認識器官、認識対象が、集中して同一になる。


タトラ サブダールタジュニャーナヴィカルパイヒ サンキルナー
サヴィタルカー サマーパッティヒ

言葉、その言葉の示す客体、そしてそれに関する知識、それらを区別し熟考する分別智が混じているものは、サヴィタルカとよばれる瞑想である。


スムリティパリシュッダウ スワルーパシュニェーヴァールタマートラニルバーサー
ニルヴィタルカー

憶念が清められたときに、すなわち意識自体がなくなってしまったかのようで、客体だけが一人輝き現われる。これがニルヴィタルカとよばれるものである。


エータヤイヴァ サヴィチャーラー ニルヴィチャーラー チャ スークシュマヴィサヤー
ヴィヤーキャーター

これに準じて、それよりも精妙な対象に関係するサヴィチャーラとニルヴィチャーラは説明される。


スクシュマヴィシャヤトヴァンチャーリンガ・パリャヴァサーナム

より精妙な対象というのは、万物の根源である自性に至るまでの形而上的な諸原理を総括した表現である。


ター エーヴァ サビージャハ サマーディヒ

以上が有種子サマーディである。


ニルヴィチャーラ・ヴァイシャーラディェーディヤートマプラサーダハ

ニルヴィチャーラの瞑想が曇りなき状態に達したとき、内面的静寂が生ずる。


リタムバラー タトラ プラジュニャー

その内面的静寂の中に、真理に満たされた智慧が生ずる。


スルターヌマーナプラジュニャービャーマニャヴィシャヤー

伝承や推理から得られる智慧は普通の対象に関するものである。今述べた智慧とは、はるかに高い段階のものであって、伝承や推理の貫通し得ないところまで到達しうる。


タッジャハ サンスカーローニャサンスカーラプラティバンディー

ここから生じるサンスカーラは、他のサンスカーラの発現を妨げる性質を持っている。


タシャーピ 二ローデー サルヴァニローダーッニルヴィージャハ サマーディヒ

これ(他のすべてのサンスカーラを退けるサンスカーラ)さえも止めてしまったとき、一切の心の作用が止まってしまうので、無種子サマーディが出現する。


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光と闇が交わる時

2006-12-17 15:13:42 | 松川先生のお話




 インドでは、日の出前後と日の入り前後は、光と闇が交わる時間ということで最も神聖な時間とされ、沐浴や祈り、修行をするのがよいとされます。

 特に朝はよいですね。アーユルヴェーダなどでは、日の出一時間半前に起床し、瞑想や祈りをせよ、といいます。日の出一時間半前というと、4時とかになってしまいますが、まあ、その辺はインドとの事情の違いで、インドは昼は暑いので、早朝はとても気持ちいいですからね。
 でも私は今も、早いときには4時ごろに起床して修行します。遅くても6時かな。朝4時ごろから6時ごろまで、このあたりの時間は、短くてもいいので、少しでも瞑想とかしたらいいと思いますね。神を心に思うだけでもいいです。
 朝のスタートというのはとても大事です。時間があるなら朝のうちに、呼吸法や瞑想やマントラなどを行なうといいですね。呼吸法で気の流れを清め、瞑想で心を清め、マントラで言葉を清める。もちろん、もっと余裕があれば、アーサナ等で身体も清めるといいでしょう。
 あと、朝一番に見るものも大事だといいます。ですから理想は、部屋に神の絵などを飾り、目が覚めたらベッドの中からまずそれを見る。そして口にマントラをつぶやく。このようにして一日をスタートさせるのがよいですね。

 昼夜が逆転すると、自律神経のバランスや、気の流れのバランスが狂うのであまりよくないですね。まあ、仕事とかいろんな事情がある場合はしょうがないですが。
 夜はしっかり寝て、朝は日の出前、または日の出とともに起き、少しでもいいから修行して一日をスタートさせる。日中はしっかりと修行や仕事その他の活動をする。夜寝る前は一日の反省と明日の精進を誓い、床につく。睡眠は8時間は寝すぎだと思います。まあ、こういう生活を行なっていたら5時間前後で十分だと思いますね。とはいえ無理して減らす必要はないですけど。

 まあ、あまり私も観念的なことを言うのは好きではないのですが、良い人生を送るのベースとなる一日の規則的なサイクルの例として、ちょっと書いてみました。


 あ、ちょっと付け加えになりますが、経典では、ヨーガの呼吸法は、日の出時、真昼、日の入り時、真夜中、まあですから具体的には6時ごろ、12時ごろ、18時ごろ、0時ごろの一日4回行なえ、と言います。つまりそのようにして正しい呼吸と気の流れを体に浸透させていくわけですね。
 一日四回というとなかなか大変だと思うかもしれませんが、一回につき10分程度でもよいので、興味のある方は試してみてください。これを数ヶ月続ければ、体中の気道が浄化されるといわれてますので。

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転生について、簡単に言うと

2006-12-10 15:05:51 | 松川先生のお話



どうすれば良い転生をし、悪い転生を避けられるのか、仏教的な見地から簡単に言うと、


地獄に行きたくなかったら、
他者を憎むのをやめ、
小さな虫も含めて殺生をやめることですね。
いろんなことに不満を抱いたり怒るのもやめることです。

動物に生まれたくなかったら、
性欲や食欲などに簡単に翻弄されないようにしてください。
あるいは社会の常識や流行などに翻弄されず、
真理とは何かを日々学び、考えることですね。

餓鬼界に生まれたくなかったら、
まず、現世幸福をうたい文句とした宗教とか霊能者とかと縁を切ることです。
そしてお金や食べ物その他のものを貪ることなく、布施の実践をすることです。

人間に生まれたかったら、みんなの幸福を願ってください。
人間に生まれたくなかったら、一切の性的行為をやめてください。

阿修羅界に生まれたかったら、知性を磨き、向上心を培うことです。
阿修羅界に生まれたくなかったら、戒律を守り、他者への批判をやめ、称賛の修行をすることです。

第一天界に生まれたかったら、徹底的に戒律を守り、徹底的に布施功徳を積むことです。

第二天界に生まれたかったら、自己の欲求を捨て、ただひたすら徳を積むことです。

閻魔様の世界である第三天界に生まれたかったら、瞑想において死の経験を何度もし、人々にカルマと死の真実を説くことです。

歓喜の園である第四天界に生まれたかったら、徹底的に四無量心を修習し、多くの人に真理を説き、多くの人に修行をさせることです。

すべてが思いのままになる第五天界に生まれたかったら、上記のすべてを達成した上で、徹底的に神通力を身につけることです。

欲界の最高位である第六天界に生まれたかったら、神通力によって徹底的な供養の修行をなすべきです。

最高の歓喜の世界である色天に生まれたかったら、煩悩を捨て、サマーディに入り、四無量心を身につけることです。

光と意識だけの世界である無色天に生まれたかったら、心を止めることです。

悟り、解脱したかったら、三宝と師に徹底的に帰依し、徹底的に現世を捨て、徹底的に菩提心と空を修習し、徹底的に心の本質を探究してください。

大乗の菩薩の道を行きたかったら、常に苦界で他のために生きることを願ってください。

しかし一番良いのは、すべての如来方の僕として、転生も含め、すべてを如来方と師にお任せすることです。



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バクティ・カルマ・ヨーガ

2006-12-10 11:03:00 | 松川先生のお話




私の観念で、ことの良し悪しを決めたりはしません

すべてを神にゆだね、受け入れます

そして常に神に誠実になり

今目の前にある真理の実践にただ全力を尽くします

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11月11日 合宿勉強会より

2006-12-10 10:48:58 | 勉強会より抜粋

◎なんでも供養すること

(R)例えば何かもらったりとか、徳を使ったり、漏らしてしまったら、どうしたらいいですか?

(松川)どうしたらいいか?

(R)そこで、それはもう起きてしまったことだから……

(松川)それはね、いくつか道があるけど、最高の道は「供養」です。心の中でいいからね、何でもかんでも、もう何でもかんでも供養すればいい。
 例えば、生き方としては二つある。二つっていうか、もちろん色々あるわけだけど。例えばT君みたいに頭陀的に「おれは一切徳を減らさない」と。「毎日チャパティでいいんだ」と。確かに毎日チャパティだったら徳は減らないかもしれない。そういう道か、もしくはそうじゃなくて――例えばRさんにね、「うまいものやめろ」って言っても無理かもしれない。「それはじゃあ、それでいいですよ」と。そこでストレスになって修行できないぐらいだったら。
 私ももちろんそうだけどね。私ももともと、あまり食欲を無理にぶち破ろうと思ったことはなかったんです。「食って頑張るか」という感じ(笑)。
 ただその場合、そこで生じた味覚の喜びとかを全て供養するんです。「これは仏陀や神に捧げます」と。「あ、うまい」と。「このうまさを捧げます」と。これやってると段々段々味覚が薄れてくる。で、味覚とは違う喜びが出てくる。
 これをあらゆることに対してやるんです。例えば道を歩いていて、「綺麗な景色だ」と。「捧げます」と。あるいは服を買ったりもらったりしたら、「これは私が着る前に全部捧げます」と。「そのお下がりを私は着るんだ」と――という感覚だね。


◎どの道を選ぶのがよいか
 
 だからといって、じゃあ何をやってもいいのか、というと、そうじゃないよ。もちろんある程度は自分で節制をして、徳を漏らさないような生活をして――だからといって現代では、あまりかたくなになる必要もないと思うね。
 例えば会社とかでね、誰かが「はい、おすそ分けよ」と言って何かくれたときに、「あなた私の徳を減らすんですか!」とか言ったら(笑)、ただの皆からの嫌われ者になってしまう。
 逆に言えば、発想としては、例えば誰かにもらいましたと。じゃあそれを私が神に供養しましょうと。あるいは、物によってはカイラスに持って来てもいいけども。そうすると、その、くれた人の徳が倍増するわけです。その人は神に供養するとかいう発想はなかったんだけども、Rさんがもらってそれを「あの人の徳になるように」って神に供養するイメージをしたら、Rさんの徳もちょっとは減るかも知れないけど、その人がちょっと結び付けられるわけだね、神とか仏陀と。そういう発想もできる。
 そうじゃなくて、「あ、あなた徳が分かっていませんね」と。「私要りませんよ」とかやってたら――それはそれでいいんだけどね、いいんだけど、ちょっと大乗的じゃないね(笑)。だからといって、もらいまくるのもどうかと思うけど(笑)。その辺はだから中庸が大事なんでしょうね。その辺はだから智慧が必要だね。一番自分にとってどの道を選ぶのがいいのかと。


◎後悔をしない
 
 あともう一つ、ポイントとしては、懺悔はしてもいいが、後悔はしないほうがいい。終わったことに関しては、悪かったことにすぱっと懺悔したらいいけど、あとはそれをどう徳に結び付けられるかということを考えたほうがいい。
 もらってしまったものを「ああ、おれはまた徳をすり減らした」とか考えるんじゃなくて、「あ、そうか」と。「もうじゃあ、徹底的にこれを供養しよう」と。「これによってあの人の徳にもなりますように」と。そう考えたらいいと思うね。


◎決意の重要性
 
 あとはさっき言った、日ごろから何を考えているかです。日ごろから「私は悟りたいんだ」とか「衆生の悟りの手助けをしたいんだ」と考えていたら、表面上現世的なことが起こるけど、全部そっちに結びつきます。
 だからさっき言ったように、表面上誰かが何かをくれたと。これは一見、ただくれただけなんだけど、ここでRさんがそれを供養したりすることによって、その人が目覚めるチャンスなのかもしれない。
 人間て結局ね、心の方向に向かうんです、すべて。だから最初に決意とか、思念が一番大事だっていうんだね。
 だからいつも言うように、「え? でも私、解脱願っているんですけど、まだ解脱していません」と――それは願ってないんです。願う割合が少ないんです。多くの他のことを願っているから、そっちのほうにばかり現象が動いているんだね。
 だから自分の中の思念、決意や心の方向性の100%は難しいとしても、かなりの部分を自分の悟りとか、あるいは衆生の救済に向けるんだね。それが一番大事な、というかな――最初に必要な、修行者の心構え。まあ、修行というのは、何か一個あったらOKという話なんだけど、この決意でも完璧に出来れば、もうOKです。だってそれで心がそっちに向かったら、全ては自動的に整ってくる。
 よく仏教では、「意楽」っていうんだよね。意楽って難しい――覚えなくてもいいけども、意識の意に楽って書いて「いぎょう」って言うんだけど。これはあの――仏教ってね、仏教用語って無駄に難しいんだね。言っていることは別に簡単なのに、言葉が難しいから。だって「意楽しなさい」とかお坊さんがやってきて言われたらね、「また難しいこと言われた」と思って、「あーよくわかんないな」とかなるけど、「悟ることを決意しなさい」って言われたら、分かりやすいじゃないですか。
 仏教読みってすごく特殊なんですよ。経行だってそうでしょ。経ってかいて行ってかいて、何でこれで「きんひん」なのと(笑)。読み方がちょっと特殊なんだね。だからそれは一つの読み方だから、必ずしもその通り読む必要はないけどね。
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心の歌

2006-12-06 09:57:03 | 松川先生のお話





思考の結び目をほどけ!
そこにシッディと解放がある
自らの心に映る思考の幻影を吟味せよ

真理の教えを心に保ち続けることで、大きな至福が生じ
覚醒の光は無明を破壊し
あの真理を直視することで、全ては解放される

純粋な識別智を育てよ
すべての外側の現象は、自らの心の鏡
それらを観察することで、全てが一つであることを理解せよ


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見つめよ、自分の心を

2006-12-04 07:33:49 | 松川先生のお話





 純粋な至福が完全に満ち足りて、完全に純粋化し
 不苦不楽としかいいようのない境地に至る
 空に虚空が満ちるように
 そのような至福の充満の後に来る安定した心で、全てを見る

 瞑想においては、表面上の藻やゴミに惑わされるな
 深く入ったと思っても、そこにあるのもまだ不純な色やゴミに過ぎない
 もっともっと深く潜れ、深く潜れ、心よ
 静めよ、静めよ、心の湖を
 見つめよ、見つめよ、自分の心を
 教えによる心の安定と、功徳の光によって、どんどん潜れ
 湖の最奥に眠るあの生来の光に飛び込め

 そして日常においても、常にその至福と光の状態から離れないこと
 それが修行の核心


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幸せ

2006-12-04 07:31:20 | 松川先生のお話




 正しい修行は、人を幸せにします。

 そしてその幸せという言葉の意味は、段階的に高まっていきます。

 そのプロセスを簡単にまとめてみましょう。


① カルマの浄化による幸せ
②-1 徳を積むことによる外的な幸せ
②-2 徳を積むことによる内的な幸せ
③ 心の浄化による幸せ
④-1 四無量心、菩提心の増大による幸せ
④-2 空の悟りによる幸せ
⑤ 空の悟りと菩提心の合一による幸せ


① カルマの浄化による幸せ

 悪業をやめ、苦しみに耐えることによって過去の悪業を浄化する。
 自らの内部に苦しみの因である悪業が少なくなったならば、当然、その人に苦しみの現象はおきづらくなります。


②-1 徳を積むことによる外的な幸せ

 悪業の浄化のみならず、幸福の因である徳を積むことにより、その人の人生は思いのままに動いていくでしょう。


②-2 徳を積むことによる内的な幸せ

 徳が満ちると、何もしなくても精神的に満ち足りた幸せな状態になります。


③ 心の浄化による幸せ

 心における汚れが浄化されていくことで、外的条件に左右されないようになってきます。
 つまり、幸福の現象が起きるというよりも、客観的に不幸に見えるような現象の中でも、幸福を感じることができるようになってきます。


④-1 四無量心、菩提心の増大による幸せ

 心の浄化による幸せの最たるものが、四無量心、菩提心、利他心の修習と、その増大による幸せです。
 それは概念的なものではなく、実際に肉体的・精神的な最高のエクスタシーが増大するでしょう。


④-2 空の悟りによる幸せ

 これは我々がイメージする『幸せ』の感覚とはちょっと違う、本質的な純粋な幸せです。


⑤ 空の悟りと菩提心の合一による幸せ

 これが最高の幸せです。


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