ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

Shavari

2006-08-30 07:00:36 | 聖者の生涯

 シャヴァリは、ヴィクラマという山に住む狩人でした。毎日動物を殺してその肉を食べて生きていました。

 あるとき、アヴァローキテーシュヴァラ(観自在菩薩)は、シャヴァリのような狩人に姿を変え、シャヴァリのもとへやってきました。
 
 しかし彼は弓矢を一本しか持っていなかったので、シャヴァリが聞きました。
「お前は矢を一本しか持っていないが、たった一本の矢で、何頭の鹿を射ることができるというんだ?」
 それに対してアヴァローキテーシュヴァラの化身は、
「私はこれで三百頭の鹿が殺せる」
と言いました。シャヴァリは、
「実際に見てみたいものだな!」
と叫びました。

 あくる日、化身は、シャヴァリをある大平原へと連れて行きました。そこには500頭の鹿の群れがいました。シャヴァリが、「この中の何頭を殺すつもりだ?」と聞くと、化身は、「500頭全て殺すつもりだ」と答えました。それを聞いてシャヴァリは、「400頭は助けてやれ。100頭殺せば十分だ」と、皮肉を込めて言いました。

 そこで化身が矢を放つと、本当に一本の矢で100頭の鹿が射られてしまいました。化身はシャヴァリに、射られた鹿を一頭運んできてくれと言いましたが、なぜか重くて、運ぶことができませんでした。ここにおいてシャヴァリのプライドは完全につぶされ、シャヴァリは化身に、「あのようにして鹿を射る方法を教えてくれませんか」と頼みました。すると化身は、「この教えを得るためには、まず一ヶ月間、肉を食べるのをやめなければならない。」と言いました。

 シャヴァリは妻とともに、生き物を殺すのをやめ、果物を食べてすごしました。七日後に化身が再びやってきて、「全ての衆生への慈悲を瞑想しなさい」と指示しました。
  
 いわれたとおりにシャヴァリが慈悲を瞑想し続けて一ヶ月たった頃、再び化身がやってきました。シャヴァリは化身に言いました。
「あなたは私に、(鹿を捕まえる方法ではなく、)鹿を逃がす方法を教えたというわけだな。」

 化身はマンダラを作り出し、シャヴァリとその妻に、中を覗き込むように言いました。二人がマンダラをのぞくと、八つの熱地獄の中で、シャヴァリと妻が焼かれ苦しんでいる姿が見えました。二人は、恐怖のあまり口もきけなくなりました。

 化身は言いました。
「お前達はそこへ生まれるのが怖くはないのか?」
 シャヴァリは答えました。
「本当に怖いです。このような運命から我々が助かる道はあるのでしょうか?」

 そこでアヴァローキテーシュヴァラの化身は、シャヴァリとその妻に教えを説きました。
 
 シャヴァリは、12年の間、概念化を超えた大いなる慈悲について瞑想し、マハームドラーの優れた成就を得ました。そしてシャヴァリは死に、アヴァローキテーシュヴァラのもとへ行きました。
 アヴァローキテーシュヴァラは、シャヴァリに言いました。
「個人的なニルヴァーナは、最高のものではない。お前は衆生のために輪廻にとどまり、想像もつかないほど多くの魂に利益をもたらしなさい。」
 
 こうしてシャヴァリは人間界に戻り、多くの人々に教えを説きました。彼はシュリー・シャヴァリと呼ばれ、また孔雀の翼を着ていたので、「孔雀の翼を着る者」とも呼ばれ、またいつも山にいたので、「山に住む隠者」とも呼ばれました。
 シャヴァリは未来仏マイトレーヤ(弥勒菩薩)がやってくるまで、この人間界で教えを説き続けるといわれています。
 




コメント

リアル

2006-08-29 20:21:49 | 松川先生のお話



 人間の人生のほとんどは、妄想だ。

 それは、未来への期待と恐怖、そして過去への後悔と思い出という妄想だ。

 たとえば明日、苦手な人と会う予定があるとする。
 ここで一日、憂鬱になる。
 そして実際に会って、実はけっこう楽しかったとしたら、どうだろうか。
 この丸一日の憂鬱はなんだっただ?・・ということになる。
全く無駄な一日を過ごしてしまったのだ!

 逆に、本当に嫌な感じで、悪口とかを言われたとしたらどうだろうか?
 しかし、仮にそうなったとしても、たとえば悪口を言われている時間というのは、数秒か、せいぜい数分だろう。
 別にその前の丸一日の憂鬱な時間は、必要ないのだ。
 そしてこの人はその後、数日間、嫌な気持ちになるかもしれない。
 ああ、会わなければ良かった、とか後悔するかもしれない。
 しかしそれも必要ない。必要ないのに人は引きずる。
 そして二日くらい引きずったと考えたら・・・この人が苦手な人と実際に一緒にいた時間がたとえば一時間、嫌なことを言
われた時間が数分だったとしても、それ以外の前後丸々三日間、その人は実体のない妄想の中で苦しまなければいけないのだ!

 次に、喜びについても考えてみよう。
 明日、恋人とデートの予定があるとする。
 ここで一日、うきうきする。
 しかし実際は、何かトラブルがあったりケンカをしたりして、つまらないかもしれない。最悪の日になるかもしれない。

 逆に、本当に楽しかったとしたらどうだろうか?
 しかしその楽しい時間というのは、数時間かもしれない。そしてその中で実際にその喜びを感じている瞬間は、もっと少な
いかもしれない。
 そしてこの人はその後もしばらくの間、その良い思い出に浸ることだろう。
 つまりこの「デート」がもたらす喜びは、前後数日間続くわけだけど、そのほとんどは、妄想、イメージの喜びなのだ。
 そしてその思い出のリピートを求めて、また新たな欲求を起こすことだろう。

 この後者の喜びについては、別に良いことではないか、と思うかもしれない。
 確かに、苦しみの妄想に浸るよりは良いことかもしれない。

 しかしね、もっと素晴らしいことがあるんだよ。
 それは、常にリアルに浸りきるということだ。
 
 上記の例で言うなら、嫌な人に悪口を言われているリアルな苦痛の時間は、数秒とか数分間だ。
 あるいは、恋人と楽しい言葉を交わすリアルな幸福の時間は、数分とか数時間だろう。

 我々の人生のリアルな苦楽は、そんな短いものなのか?

 そうじゃない。瞬間瞬間、わたしたちの前にはリアルな、輝かしい、新鮮な世界が現われ続けているのだ。

 だから妄想を捨て、期待や恐怖を捨て、後悔や思い出にふけることを捨て、瞬間瞬間をリアルに味わい続けるんだ。

 苦しいことがあったら、そのリアルな苦しみの感覚を味わえばいい。しかし次の瞬間には、別の世界が現われているんだか
ら、スパッと捨て去ればいい。
 幸福な時は、リアルにそれを味わえばいい。しかし引きずっちゃいけない。次の瞬間にはまた別の輝かしい世界が現われる
のだから。前のものを引きずると、それは腐っていくし、多くの新鮮な輝きを見逃すことになる。


 朝起きると、世界がある。素晴らしいことじゃないか! 太陽が出ている。なんて素晴らしいんだ(笑)! 雨ならばそれ
もまた素晴らしい。

 一人でいても、誰かといても、瞬間瞬間、世界は移り変わっていく。そのリアルな感覚を、瞬間瞬間味わう。リアルに生き
る。

 そのようにしたならば、世界がその本当の姿を現すことだろう。

 ただしその前には、この未来や過去の幸不幸に対する自分の「とらわれ」をつぶさなきゃいけないね。
 仏教やヨーガで「執着を捨てろ」とかいうのは、実はそういう意味でもあると思います。
 
 執着なく瞬間瞬間をリアルに生きるならば、そのリアルな苦楽は、かなり心地よいんだね。

 しかし妄想に慣れ、弱弱しくなった心には、このリアルな輝きは、強すぎると感じる。まぶしすぎるんだね。だから人は妄
想に逃げる。

 だから突然には無理だ。少しずつ、いろいろなヨーガ等の方法で、心を強くし、とらわれを排除していく必要がある。

 そして徐々にでも、リアルな世界に没入していこう。

 まあしかし実際は、それをするには、現代の日本の生活は忙しすぎる。
 だから毎日少しでも時間を設けて、様々な修行や瞑想に励み、自己や宇宙の本質を見つめるべきですね。 

コメント

三つ

2006-08-28 20:41:28 | 松川先生のお話

 神(仏陀)への帰依。
 全ての衆生への慈悲。
 自己(エゴ)の放棄。

 この三つは一体であり、分けられない。
 
 衆生への慈悲と、自己の放棄こそが、神への帰依となるから。

 神への帰依と、自己の放棄によって、真の慈悲が生まれるから。

 神への帰依と、衆生への慈悲によって、エゴは消え去るから。


--しかしこの根本となるのは、神への帰依であると思う。
 常に神に心を合わせ、神に対して誠実に、最高の信愛を持ち、全てを神の愛と観て生きる。
 その純粋な生き方の先に、強い放棄の精神と、神の意思としての慈悲の実践が生じるでしょう。
コメント

たちまちにして

2006-08-23 18:36:11 | 解説・入菩提行論




【本文】

 極めて重い罪悪をなしても、もしこれ(菩提心)を頼りとすれば、たちまちそれを免れる。あたかも人が勇者に頼って、大危難を免れるように。そこで、どうして迷妄なる衆生によって、(菩提心が)頼りとせられないでよかろうか。

 それはこの宇宙を消滅させる火のように、大いなる罪悪をたちまちに焼き尽くす。これ(菩提心)に対し、無量の賞賛を、聴慧のマイトレーヤが善財童子に説かれた。



【解説】

 過去においてどんな重い罪悪を犯した者であっても、もしその者の心に菩提心が沸き起こり、それを育て、それを人生の柱として生きるなら、「たちまちにして」--それらの罪悪は焼き尽くされるといいます。だからそれを頼りとせよと。
 これはある意味、面白い説き方ですね。菩提心とか慈悲を持つというのは、ややもすると、精神的に余裕のある者のとる道であると受け取られがちです。つまり修行によってある程度の心の安定を得た者が、「よし、衆生も救ってやるか」と(笑)。
 しかしここでは、そうではなく、悪業によって苦しみに沈む者への処方として、「菩提心」が提示されているのです。それこそが、たちまちに君の傷を癒す最高の薬だよと。
 だから、君たちのような、あるいは私たちのような、迷妄と罪悪に悩む者こそ、菩提心を頼りにしないで良いわけがないじゃないかと。そういう強烈な言い方ですね。

 もちろん、念のために言っておきますが、「菩提心を頼りにする」というのは、他人の菩提心をあてにするという意味じゃないですよ(笑)。自分の中に菩提心を育て、それを頼りとするということです。

 ところで、私は思うのですが--極めて重い罪人というのは、誰のことでしょうか? 解脱していない限り、誰にとっても過去というのは、暗く罪悪に満ちたものです。それは当たり前といえば当たり前のことなのです。
 よく、テレビや週刊誌などで、犯罪を犯した者が責められますね。もちろん犯罪は悪いことです。しかし実は誰にも、それを責める権利などありません。過去にどんな罪も犯した者がない者がもしいたら、責めればいいでしょうが、そんな人がどこにいるのでしょうか?
 我々は誰もが罪悪に満ちています。しかしそれはすべて、過去のことといえば過去のことです。だからとらわれる必要はないんだけど、それら過去の行為によって今があるというのも事実です。だから我々の現在は苦に満ちているのです。そしてこの苦に満ちた現在の中で、我々は正気を失い、更なる悪を積み重ね、「しょうがないよ」という妥協の中で、魂を汚す生き方に埋没しています。
 そこから這い上がるために、今と未来を変えるために、ヨーガや仏教では、真理の教えとその修行を提示します。そしてその中でも最高のもの、最も強力で、たちまちにしてすべてのネガティブな要素を打ち砕くほどの威力を持つもの--それが「菩提心」だというのです。
 
 最後の一節は、日本でも有名な大乗仏典の「華厳経」の内容を示しています。この経の中で善財童子という菩薩が、様々なグル、菩薩、神などをたずねて教えを受けるのですが、その中でマイトレーヤ(弥勒菩薩)が、彼に菩提心のすばらしさを様々に説いたというわけです。


コメント

アサンガ

2006-08-19 15:44:41 | 聖者の生涯

 アサンガは、西暦395年ごろ、北インドのガンダーラ国(現在のパキスタンのペシャーワル)で生まれました。彼にはヴァスバンドゥという弟がいました。
 二人が年頃に達し、父親の職業を継ごうとした時、彼らの母親が言いました。

「私は、世俗の仕事をさせるために、お前達をこの世に産んだのではないのだよ。お前達は、ダルマ(仏陀の教え)を学んで、仏陀の教えを、この世に広めてもらいたいのだ。」

 こうして、弟のヴァスヴァンドゥは、インド北部のカシュミール地方に向かい、サンガバドラという学僧について、教えを学びました。兄のアサンガは、鳥足山という山に登り、瞑想に入りました。瞑想により、マイトレーヤ(弥勒菩薩)の教えを直に聞こうとしたのです。
 六年の間、アサンガは厳しい瞑想を行ない、マイトレーヤに祈りをささげましたが、彼の夢の中にさえ、マイトレーヤが現われることはありませんでした。がっかりしたアサンガは、修行をあきらめ、山を降りることにしました。山を降りる道すがら、一人の男が、太い鉄の棒を、一生懸命布で磨いているのに出会いました。アサンガが彼に、「何をしているのですか?」と聞くと、男は答えました。
「わしは針を持っていないので、この鉄を磨いて、針を作ろうと思ってるんですよ。」
 これを聞いてアサンガは思いました。
「この太い鉄の棒を一生懸命布で磨いても、何百年かかったって、針ができることはないだろう。この世の人間というものは、なんとまあばかばかしい仕事に、精を出して時を過ごしているのだろう。ところが自分は、ダルマを悟るという価値ある仕事をなそうとしているのに、勇気と忍耐をもって立ち向かうことなく、もうあきらめようとしているとは、恥ずべきことだ。」
 このように考えて、アサンガは再び山へ戻り、瞑想修行を続けました。

 こうしてまた三年が過ぎましたが、やはり何の達成のしるしも現われませんでした。今度こそ駄目だとあきらめたアサンガが、また山を降りようとすると、道すがら、一人の男が、鳥の羽で岩を磨いているのに出会いました。アサンガが彼に、「何をしているのですか?」と聞くと、男は答えました。
「わしの家はこの山の西側にあるんですが、山が高すぎて太陽をさえぎってしまうので、こうして山を削ってしまおうとしてるんですよ。」 
 これを聞いて、アサンガは前と同じように思い、再び心を奮い立たせて、山へ戻り、瞑想修行を続けました。

 こうしてまた三年が過ぎましたが、やはり何の達成のしるしも現われませんでした。アサンガは今度こそ駄目だとあきらめ、山を降りていきました。その道すがら、アサンガは一匹の犬に出会いました。この犬には前足しかなく、体の後ろ部分には傷があり、蛆虫がわいていました。そんな犬を他の犬達がいじめていました。
 この光景を見たアサンガの心に、いまだかつて経験したことがないような、強烈な慈悲の心がわいてきました。アサンガは、この犬に食べ物を与えようとしましたが、何も持っていなかったので、自分の体の肉を切り取って食べさせました。そして傷口の蛆虫を取り除いてやろうとしましたが、傷口が化膿していて、手でやると傷口を傷めそうだったので、自分の舌でなめて、蛆虫をとってあげようとしました。そうしてアサンガが舌を犬の傷口に当てようとした瞬間、犬が消え、光に包まれたマイトレーヤが現われました。

 アサンガはマイトレーヤに言いました。
「どうして今まで私の前に現われて下さらなかったのですか。」

 マイトレーヤは言いました。
「私はずっとお前から離れたことはない。しかしお前の目が曇っていたので、私を認識できなかったのだ。
 しかし12年の修行によって、その曇りが少し洗い清められ、お前は犬を見たのだ。そしてそのときお前の心に湧き上がったすばらしい慈悲の力によって、お前の目は完全に正しい視力を取り戻し、私を見ることができるようになったのだ。
 信じられないと思うのだったら、私を肩に乗せて、人々のところへ行ってみなさい。」

 そうしてアサンガは、マイトレーヤを肩に乗せて、人々の集まるところに出かけていき、彼らに尋ねました。
「私の肩のところに、何がありますか?」
 人々は皆、変な顔をして、「何もないよ」と答えました。
 しかし少しだけ心の目の開いた老婆がいて、彼女はこう答えました。
「あんたの肩には、腐った犬が乗ってるよ。」

 マイトレーヤはアサンガを、トゥシタ天へ連れて行き、そこで大乗仏教の貴重な教えをアサンガに伝授しました。アサンガはこの教えをもとに、大乗仏教の唯識派の教えを組織的にまとめ上げ、世に広めていきました。弟のヴァスヴァンドゥも、最初は小乗仏教(説一切有部)の教えを学んでいましたが、後に兄の影響で大乗仏教に転向し、兄弟ともに、唯識の教えをまとめた多くの著書を著し、唯識派の基礎を作りました。

 アサンガの師匠のマイトレーヤは、伝説では天界に住む未来仏・マイトレーヤ菩薩と同一とされますが、実際に実在した歴史上の人物であったともいわれており、マイトレーヤ自身の著作とされる作品も残っています。

コメント

ヨーガの価値

2006-08-19 15:21:52 | 松川先生のお話







 どんなにお金を持っているよりも、
 社会的に「成功」とか「勝ち組」とかよばれる状態にあるよりも、
  
 ヨーガに巡り合ったこと以上に、価値のあることはない。

 ここでいうヨーガとは、単に体操のことではない。
 人生を真理に向けて修正し、心の目を覚まさせ、生きる本当の意味に気づかせてくれる道のことだ。

 なぜかヨーガには本来、そういう効果があるんだ。
 ヨーガは思想ではない。もちろん、思想の部分もあるけど、それは脇を固めるものであってね、考え方とかではなく、心と体が真理を実体験していく道なんだ。それらの体験を通じて、思想は後からついてくる。

 そういうヨーガにあなたが出合えたならば、それは、今の社会の常識で幸せといわれるどんな状態にあるよりも幸せだし、価値があることだ。

 だからその道を歩んでいる人は、自信を持ってほしい。
 まだその道に入っていない人は、ぜひヨーガを試してほしいね。

 ヨーガに出合えると、笑えてくるかもしれない(笑)。今まで自分がなんて狭いところで、あくせくしてたんだろうかってね。
 
 少なくとも明るくなるだろう。後には悩みはなくなるだろう。
 でもその途上では、ヨーガによって逆に人生は荒波に巻き込まれるかもしれないよ。
 でもそれもまた楽しいもんなんだ。
 ヨーガを行じ、目を開き、恐れなく、人生の移り変わりの中を、渡っていくこと。その中で様々な経験を自己の成長の糧としていくこと。
 こんな素晴らしい人生はないと思う。

 あなたが何を目指そうと、仕事、趣味、芸術、何を目指そうとも、
ヨーガはそのベースとなるでしょう。
 そしてこの短い人生を、輝きをもって走り抜けることができることでしょう。
コメント

過去の母、未来の仏陀

2006-08-19 14:30:10 | 松川先生のお話





 彼は過去世において繰り返し、私に愛を注いでくれた。
 彼も彼も、あの彼も、全ての衆生は、私の母であり、恩人であり、師であった。
 その恩を、いかに返そうか。
 その愛に、いかに報いようか。
 その恩と愛を、忘れることができようか。
 たとえ彼らがたまたま今生、敵として現われていたとしても。

 だから私は、衆生のために、衆生の幸福のために生きなければならない。
 この膨大なる恩を、一生をかけて返さなければならない。
 彼らの幸福のためにできる、最高のことをやらなければならない。

 
 ところで、もし我々がタイムマシンに乗って、過去世のお釈迦様に会いに行ったら、どうだろうか。
 お釈迦様も、ある時期から修行を始め、何度も生まれ変わって修行を続け、自己を浄化し、仏陀の境地に至った。つまりお釈迦様も、その昔、まだ汚れを持った、普通の人だったこともあるのだ。
 もしそのころのお釈迦様に、我々が会うことができたら、我々はどういう気持ちで接するだろうか。
 当然、最大の敬意を払うだろう。その人は今はまだ汚れ多き普通の人だが、後に偉大なる仏陀、お釈迦様となる人なのだから。
 ところで、全ての衆生も実は、同じ道の途上にある。
 全ての衆生は、今は汚れた心で輪廻の中で苦しんでいるが、後に修行の道に入り、仏陀となっていくだろう。
 つまり、我々の周りには、「仏陀の過去世」の人がたくさんいるのだ!
 よって最大限の敬意を払うべきなのだ。


 このように、我々の過去に眼を向けると、全ての衆生は、最大の恩人である。
 未来に眼を向けると、全ての衆生は、尊敬すべき仏陀の過去世であり、最大の敬意を払わなければならない。

 その最大の恩人であり、尊敬すべき衆生が、今、迷妄に覆われ、輪廻の中でもがき苦しんでいる!
 もし私が修行者ならば、早く自らが悟りを得て、彼らに法を与え、輪廻から救いたい。
 もし私の心が安らかならば、彼らに安らぎを与え、彼らの苦悩を引き受けたい。
 もし私がわずかでも豊かならば、その全てを彼らにささげたい。


 願わくば、今生の小さな世界の一時的なつまらぬ人間関係に惑わされずに、全ての衆生がお互いを、愛と感謝と尊敬をもって見ることができますように。


コメント

菩提心の樹

2006-08-11 15:55:32 | 解説・入菩提行論




【本文】
 他のすべての善は、芭蕉樹のように、実を与えて消滅してしまう。しかし、菩提心の樹は、常に実を結んで消滅しない。ただ豊かに実るだけである。


【解説】
 菩提心以外の善は、実を生じると消滅する。菩提心は、常に実を結んで消滅しない。これは何を意味しているのでしょうか。

 ちょっと言葉の整理をしてみましょう。
 菩提心とは、「衆生を救うために、覚醒を得るぞという勇猛な決意」。
 善とは、自分や他人を幸福にする一切の行為。
 ということは、善と呼ばれるものの中には、菩提心を含むものと、含まないものがあるといえるでしょう。

 たとえば人に優しくする。これは善です。
 この善によって、この人は逆に「人に優しくされる」という果報が生じます。
 しかし普通はこれで終わりです。
 エゴによっても、善を積むことはできます。
 菩提心なしに、カルマの法則を学び、良いカルマを積めば、良い果報が生じ、幸福になります。
 しかし幸福になると同時に、その良いカルマは消えます。
 なぜなら自分が幸福になることで、カルマ(行為)の目的は達成されたからです。

 しかし菩提心というのは、もともと目的が「自分が幸福になりたい」ではなくて、「他者を幸福にしたい」なのです。
 しかもその幸福の定義は、究極的には「他者を解脱させること」なのです。
 しかもその他者という範疇に偏りがあってはいけませんから、「すべての衆生を解脱させること」が、菩提心の目指すところとなります。
 しかし自分が煩悩と苦悩にまみれた凡夫であっては、とても他者を解脱させることなどできないので、まず自分が完全な覚醒を得ようと考えます。
 こうして菩提心を持つ者は、「他者の幸福」と、「それを達成するための自分の覚醒」のことを、常に気にかけるようになります。
 この土台の上に積まれた善は、消滅しないのです。
 なぜなら、目的が「自己の幸福」にはないので、そこで菩提心を持つことによる心の安定や、さまざまな幸福が生じたとしても、それは菩提心に付属する「当たり前のこと」であって、菩提心の究極の目的である「すべての他者が解脱すること」が達成されるまで、菩提心の善は増大し続けることはあっても、消滅はしないのです。




コメント

生命力

2006-08-06 11:37:10 | 松川先生のお話





 この間はかなり高度な、歓喜とエネルギーの話を書きましたが、今回はもう少しわかりやすいというか達成しやすい、エネルギーと歓喜の話をしましょう。

 人間が本来持っている生命力の素晴らしさを、皆さんは知っているだろうか?

 この生命力は、まず濾過され、昇華され、元素変化されなければならない。そしてこの昇華された生命力が、適切な方法で身体にめぐるならば、それはそれは素晴らしい人生が待っているだろう。

 その人は生きているだけで歓喜だ。身体は常にスムーズに動き、活力にあふれている。やるべきことに全力を注ぎ、休むときは安らかに休める。頭脳は明晰で、心は鮮明で安定する。常に心に幸福感があふれる。

 このような心身のシステムと、そのシステムを稼動させるためのエネルギーを、本来、すべての人は持っているんだ! 完全な解脱とか悟りまでいかなくてもね、ヨーガや仏教の修行を正しく進めると、ある段階で、このような状態にだんだんなっていくんだ。

 しかし、そのためのエネルギーを、我々はこのような本来の素晴らしい目的に活用していない。活用していなくても、もともとその元となるエネルギーはあるんだ。じゃあそのほっとかれたエネルギーはどうなるんだ? このエネルギーはもともと非常に強力なので、そのままにしておくわけにはいかない。だから人はそれを様々な低い形で消費するんだね。

 たとえばあるひとは怒りその他の心の興奮状態で消費する。人の心が怒りに燃えているとき、非常に大きなエネルギーを消費しているのはわかるだろう。馬鹿馬鹿しいと思わないか? 本来、強烈な歓喜と心の安定に使えるエネルギーを、心と体に悪い、自分にも他人にも悪い、怒りなんかに消費するなんて。

 あるひとは、たとえば射精という形で物理的に消費する。これももったいないね。一時的な性的エクスタシーよりも、そのエネルギーを昇華して身体にめぐらせたほうが価値がある。気持ちよさも違うし、何より終わることがない、漏れのない歓喜だからね。セックスの歓喜は非常に短く、しかも漏らした後、当然、エネルギー不足になる。

 あるひとは食物の消化という形で消費する。食物の消化には多くのエネルギーが使われる。もちろん、適度に食物をとり、それを消化することでさらに健康的なエネルギーを作り出す好循環が行なわれるならばそれは素晴らしいことだ。しかしそうではなく、単に味覚や、満腹感を追い求め、あるいはストレスなるがゆえに、あるいはそもそも昇華できないエネルギーを何とかしたいために、必要以上に食べる。そして結果的にエネルギーレベルを下げてしまう。

 このほかにも様々な形で、「煩悩」の表現により、人は聖なるエネルギーを、低レベルの形で消費し、喜んでいる。

 つまり、煩悩を昇華して聖なる歓喜に換えるというような表現が密教にはあるけれど、それは正確ではなくて、逆なんだ。もともと聖なる歓喜の源を我々は持っているんだけど、それが使えなくなっているがゆえに、低レベルの煩悩の消費という表現しかできなくなっているんだね。

 だから真の利益を知る人は、まず準備として、煩悩の習性を弱める。そしてエネルギーを本来の、最も価値のある状態で体を回せるようにしなきゃいけないね。そうすると、もう一度書くけど--その人は生きているだけで歓喜だ。身体は常にスムーズに動き、活力にあふれている。やるべきことに全力を注ぎ、休むときは安らかに休める。頭脳は明晰で、心は鮮明で安定する。常に心に幸福感があふれる。

 そのためにはナーディの浄化イコールカルマの浄化も必要だし、エネルギーを浄化して強化して上昇させることも必要だし、様々な体の詰まりを取り除くことも必要だし、もちろん心の浄化も必要だ。
実はここにおいて非常に大きな利益があるのは、慈悲とか四無量心の修行と実践だ。それは歓喜のエネルギーを強めてくれる。
 まあ、本当は一番手っ取り早いのは、しっかりと高い世界の神やブッダと心を合わせることなんだけどね。

 ちょっと表現としては密教的表現だったけどね。だから我々は、
戒を守らなきゃいけない。煩悩を落とさなきゃいけない。心を浄化しなきゃいけない。ヨーガや呼吸法その他でナーディを浄化しなきゃいけない。そして様々な瞑想等のプロセスを進めなきゃいけないんだね。それによって、最初に書いたように、悟りとか解脱までいかなくてもね、大変快活で充実した幸福な人生が待っていることでしょう。
コメント

気のせい

2006-08-06 11:25:22 | 松川先生のお話




 昨日、ヨーガ教室のある生徒さんが、こんなことを言っていました。

 「最近、食べるものに気をつけて菜食中心にしていたんですが、今日、久しぶりに昔大好きだったアンパンを食べちゃいました。でも、食べながら、『あれ、なんでこんなものが好きだったんだろう?』って考えちゃいました。」

 今日の日記のテーマは、菜食の勧めということではありません(笑)。

 味覚って結構、「気のせい」なんですよね(笑)。
 味覚って、五感の中でもとても面白い分野ですね。共通認識が一番得られにくいというか。
 たとえば「アンパンの味」ということで思い浮かべる味も、実は人それぞれ、微妙に違うと思うんですね。味覚って、視覚や聴覚と違い、外に出して、比べることができません。それぞれの口の中での出来事ですから(笑)。

 今日は、こんなことがありました。
 ある生徒さんが、アーサナをやるたびに、「痛い! 痛い!」って言うんですね。それで私が、「ほんとはそんなに痛くないんじゃないの?」って聞いたら、彼も冷静になって、「ほんとだ。よく考えたらそんなに痛くなかった」って言うんですよ(笑)。
 その生徒さんはもともと、「イヤだ」とか「痛い」とか「苦しい」とかいう言葉が、口癖になってたそうなんです(笑)。よく考えたらそうでもないのに、そういう言葉と思いを最初に発することで、いろんなことを痛く、苦しく、嫌な感じにしてたということに、今日、気づいてくれたようで良かったです(笑)。

 まあつまり、今日言いたいことは、「すべては気のせいだ」ということです(笑)。

 苦しい? 気のせいです(笑)。
 あの人が嫌い? 気のせいです(笑)。
 できない気がする? 気のせいです(笑)。

 すべてを喜んで受け入れると、世界も笑顔を返してくれるもんです。たぶんね(笑)。


コメント

逃げないことと心の成熟

2006-08-06 11:20:01 | 松川先生のお話




 人生においては、当然、様々なことがやってきますよね。一般に幸運だとか、不運だとか呼ばれることがいろいろあります。
 しかしそれらには、客観的・絶対的な価値というのは実はないんですね。

 たとえば客観的に見て、同じような体験をしていたとしても、ある人はそれを、成長のための試練だと喜び、またある人は、なんて不幸なんだと悲しむかもしれません。
 ある出来事があったとき、ある人は、そこにかかわった人々の愛を感じ取って恩を感じるかもしれないし、またある人は、全く同じ出来事を経験して、そこにかかわった人々に恨みを感じるかもしれません。

 人生とは面白いものですね。だから人生において重要なのは、条件を整えることよりも、自分の心を整えることです。


 私は各種の運命学もやります。中でもインド占星術、西洋占星術、あと姓名判断、これらは驚くほどよく当たりますね。
 でも私は、今でも依頼されれば他人の鑑定はしますが、自分の運命鑑定に関しては、ある時期から、ほとんど興味がなくなりました。
 それは、人生において、良いことも悪いこともあるでしょう。しかしそれは当然の人生の流れとして受け止め、心を決め、覚悟を決める。といってもリラックスして(笑)、喜びながら覚悟を決める。その上で、いかにその良いこと悪いことから、多くのことを学ぶか。多くの成長の糧とするか。あるいは自分だけではなく、周りの幸福に役立てることができるか。そのようなこと、そしてそれができる確固とした自分の心の形成のほうが、重要だと考えるからです。

 運命学も、その背景にあるのはカルマの法則です。そして過去の自分の行為によって作られたカルマは、必ずやってきます。逃げようともやってきます。逃げると、少しはその発現を遅らせることはできますが、より大きくなって将来、受けなければならなくなります。

 ですから人生のコツは、逃げないことです。そして自分の心の成熟を第一と考えることだと思いますね。
    
 心の成熟といっても曖昧で難しいですけど、簡単にいうとやはり純粋な愛をはぐくむことが第一でしょう。
 なんに対しての愛かって? 神への愛であり、同時にすべての生命への愛です。

 もちろん、それ以外にも課題は多々ありますが、この純粋な愛こそが、最も重要なポイントとなると思いますね。
 
 ヨーガはそれら心の成熟の様々な手助けをする、効果的な補助的技法となります。


 なんだか私の日記は、いつも『ヨーガはすばらしい』で終わる感じで、ヨーガ馬鹿みたいですね(笑)。まあ、実際そうなんですが(笑)。


コメント

菩提心を捨ててはならぬ

2006-08-06 11:10:02 | 解説・入菩提行論





【本文】
 ムニの王者たちは、多カルパの間思惟にふけって、この善福(菩提心)をまさしく発見した。それが善福であるゆえんは、偉大なる安楽に、無量の人の群を安らかに救い上げるからである。

 あまたの生存の苦を超えようと願い、衆生の悩みを除こうと願い、数多くの安楽を受けようと願う人々は、菩提心を常に放ち捨ててはならぬ。

 生存の牢獄に縛り付けられた哀れな人でも、彼に菩提心が生ずるや否や、直ちに「ブッダの子」と呼ばれ、人間と神々の世界においてあがめられるものとなった。

 この不浄の身体を、値のつけられぬほど尊い、ブッダの宝のような身体に変えてしまう--かように甚大な効験のある菩提心という霊薬を、はなはだ堅固に保て。

 無量の思慮があって、しかも世界一である隊商の長(すなわちもろもろのブッダや菩薩方)が、よく吟味し、価値多しと認めた菩提心という宝を、転生の巷にさすらいを習いとせる汝らは、はなはだ堅固に保て。



【解説】
 一行目から行きましょう。ムニというのは、釈迦牟尼の牟尼で、簡単にいえば聖者のことですね。聖者の呼び名の一つです。聖者の王者、つまり聖者の中の聖者とも呼ぶべき偉大な方々は、多カルパの間--カルパというのはものすごい永い時間の単位なので、ここではとにかくものすごく永い間、ということでいいでしょう--ものすごい永い間、思惟を繰り返した結果、【菩提心】というものを【発見】したというのです。
 つまり真理というのは、作り上げるものじゃないんですね。当たり前ですけど。どこかの宗教の教祖がいて、自分の考えで、教義を作り上げるというようなものじゃない。誰が発見しようとしまいと、そこに現前として常に存在するもの。それが真理です。そして【菩提心】も、聖者の中の聖者とも呼ぶべき偉大な方々が、発見した偉大なる真理であるということですね。
 そしてこの菩提心の意味合いというのは、はかりしれないほどの多くの人々を、偉大なる安楽へと、救い上げるんだと。
 この、【菩提心が多くの人々を救う】という教えは、二つの意味があると思いますね。
 一つは、菩薩が菩提心を持つことによって、当然、その菩薩は、自分の解脱だけではなく、人々を救うために修行し、実際に多くの人に教えを説き、修行させ、解脱させるかもしれない。そういう意味ですね。
 そしてもう一つは、この【菩提心】という教えが広まり、人々が少しでもそれを学び、考え、瞑想し、実践するようになれば、どんな修行よりも、それは効果があり、カルマの多少悪い人や、おろかな人々でも、速やかに偉大なる境地に引き上げられる、ということですね。
 そして私は、後者の意味のほうが大事だと思うし、この経典も、後者の意味のほうを重視しているように思うのです。
 というのは、たとえば私は、なんていうか、【人々に、現世的な意味で幸福になってほしい】とは、あまり思わないんです。【人々が、解脱してほしい】とは、少し思います。でも一番思うのは、【人々が、菩提心や慈悲、四無量心などを持ち、育て、確定させてほしい】ということなんですね。なぜなら、それのみが、つまり菩提心を持つことが、その菩提心を持ったその人自身を、最高の安楽、最高の幸福へといざなうからなんです。
 だから繰り返しますが、【菩提心が多くの人々を救う】というのは、菩提心を持つ誰かが、多くの人々を救ってくれるという他力的な考えではなくて、この菩提心という教えが広まれば、それを学んだ多くの人々が速やかに救われるという意味のほうが強いと思うんですね。

 さて、二つ目の詩。
 「あまたの生存の苦を超えようと願い、衆生の悩みを除こうと願い、数多くの安楽を受けようと願う人々は、菩提心を常に放ち捨ててはならぬ。」
 これはこのままですね。つまりこれは逆に言えば、菩提心のみが、数多くの輪廻の苦しみを破壊し、自分のみならず多くの衆生の悩みを破壊し、そして多くの安楽を受けることを可能にするんだと。だからそれらを実現させたいと思うならば、菩提心を決して捨ててはならないんだと。
 つまり【菩提心を持つ】ということは、道徳的に人を愛しましょうとか、そういうことではなくて、【衆生のために私は悟りを得よう】という断固たる決意のことですが、それは非常に実質的に現実的に、自分と衆生の苦悩を除き、安楽を受けさせるという、すばらしい効力があるんだということですね。

 三つ目の詩以降に関しても、ぜひよく吟味して読んでほしいと思います。
 つまり我々は、生存の牢獄--これは今私たちが生きている人生も含めた、輪廻のことですが--これに縛りつけられた、哀れなものたちなんです。言い方をかえれば、悪魔の王の手によって拘留されている、哀れな囚人なんです。そしてそれは、あのお釈迦様だって、あるいは他の偉大な聖者方だって、ずっと以前は、そうだったんです。哀れな囚人だったんです。しかし彼らに、菩提心--すべての魂のために悟りを得ようという決意--が生じるや否や、【哀れな囚人】だった彼らは、【ブッダの子】と呼ばれるようになり、人間や神々においてあがめられる者に変身したんだと。そこまでのすごい効力が、菩提心にはあるということですね。 
 霊薬という言葉が出てきますが、これは錬金術と関係があります。錬金術において、ある金属に、その薬をふりかけることによって全く別の金属に変えてしまう--そういうイメージですね。つまり煩悩に満ち、苦しみに満ちた哀れな生き物の身体や心に、この菩提心という霊薬をふりかけるだけで、たちまち偉大なすばらしい身体や心に変身してしまうんだということです。
 そしてそれは我々においてもそうなんです。過去のブッダや菩薩がそうだったように、我々も、この菩提心を学び、考え、実践し、心の中で育てていくならば、どんなに悪業多く、どんなに心が汚れ、どんなに苦しみに満ちた哀れな人でも、この菩提心の力によって、大変速やかに、たちまちして、偉大なる【ブッダの子】、すなわち【菩薩】と呼ばれ、人や神々にあがめられるようになるんだということですね。
 これは大げさではなく、本当のことだと思います。まあ、人間は無智なので、人間は別としても、菩提心を心に強く保つならば--まあ、まずは最低限、菩提心の意味を知り、その偉大さにあこがれ、自分も菩提心を持とうと決心するだけでも、まず神々に賞賛されるでしょうね。人間よりも智慧のある神々は、その偉大さを知っているからです。神々は、もちろん、お金があるとか、権力があるとか、単に性格が良いとか、顔が良いとか、そんなものは賞賛しません。徳があるとか、煩悩が少ないとか、悟りがあるとか、そういうことを賞賛するわけですね。そして最も賞賛されるのが、【菩提心がある】ということなのです。

 だから、このように、さまざまなメリットがある菩提心という宝物を、決して捨ててはならないよ、絶対に、何よりも、お金よりも権力よりも、何よりも堅固に保ち、絶対に手放すな、ということですね。


コメント

もし菩提心がなかったら

2006-08-05 12:11:19 | 解説・入菩提行論

【本文】
 あたかも夜に、雲深き暗黒に、稲妻の閃光が一瞬、物を照らし出すように、ブッダの威力によって、世人の思いが、しばしの間、福善(幸福の因たる善行)に向かうことがある。
 だから浄き行いは常に力が弱い。これに反し、悪の力は大きく恐ろしい。もし菩提心がなかったら、他のいかなる浄善によって悪を征しえよう。


【解説】
 このたとえは書いてあるままなので、わかりやすいですね。
 我々はほとんど暗闇の中にいるわけですが、ブッダの力によって、ほんのわずかな間だけ、我々は、「善を実践してみようかな」とか、「浄らかな生き方をしたいな」とか思うというわけですね。逆にいえば、ほとんどの時間は悪に心が向かっており、また、常に悪業をなしているんだと。
 いや、私はそんなに悪業をなしていないよ、という人がいるかもしれませんが、仏教で言うところの悪の定義は非常に厳しい。心における執着とか、憎しみとか、嫉妬とか、嫌悪感とかも悪ですし、たとえば日本人が普通に行なっている虫の殺生ももちろん悪ですし、不倫や嘘や悪口なども、もちろん戒律に引っかかることになります。
 ここでいう悪とは、もちろん、倫理的な道徳観ではありません。実際に我々の心身をこの苦界に縛り付け、苦しみのカルマを生じさせる、心と言葉と体の行為ということですね。だから仮に誰かに迷惑をかけていなかったとしても、悪は悪なのです。
 我々の日常を詳細に反省してみればわかるように、ほとんど、そういう意味では悪に満ちているわけです。しかしブッダの慈悲により、パワーにより、あるいはブッダと我々の縁により、ほんの瞬間的に、真理とか善に心が向かうことがある。実際にそのときに、真理や善の実践もするかもしれない。しかしそれは、全体から言ったら、ほとんど悪なわけだから、ほんの微々たるものだということですね。
 このような、ほとんど負けばかりの、善と悪の戦い。ここにおいて、善の軍において、最も力となる救世主的アイテムが、「菩提心」なんですね。
 菩提心はそれだけ、力が強い。
 菩提心とは一応定義すると、「すべての衆生を救うために、私が覚醒を得ようと思う心」ですね。この菩提心を発露させ、まだ弱くてもなんどもそれを考え、誓い、心に植えつけていくならば、私たちは私たちの中の悪に打ち勝ち、悪を征することができるんだと。逆にいえば、この菩提心がなかったら、とても我々は悪に勝つことなどできないぞ、ということですね。


コメント