ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

人に生まれることの稀有さ

2006-07-27 14:29:29 | 解説・入菩提行論
第一章 菩提心の賛嘆

 --オーム、ブッダに帰依いたします--

【本文】
 もろもろのスガタと、仏子(菩薩)と、法身と、すべての敬うべき師主たちの前に、恭しくひれ伏して、仏子の律儀への趣入(すなわち菩薩行の実践)を、聖典にしたがって、私は簡単に説こう。

 ここに(経典にないような)斬新なことは何も述べられない。また私には著作の才能もない。ゆえに、私は他人のためを考慮せず、もっぱら自己の心を(菩薩行に実践によって)薫じようと、これを作った。

 これによって、私の清浄な心の流れは、善を実現しようと強く増進する。ところで、私と同じ性質の他の人が、これを見るならば、これはまたもって効用を生ずるであろう。


【解説】
 これは序文の部分です。
 ここでシャーンティデーヴァは、謙遜をしていますね。しかしこの書全体を見るならば、もちろんシャーンティデーヴァが、多くの人々のために、この書を書いたのは間違いのないことです。しかしこのような書き方でこの書が始まるところに、シャーンティデーヴァの謙虚さとともに、ユーモアを感じますね。私は才能がないので、自分のためにこの書を書いたんだけど、まあ、自分と同じ性質の人がいたら、少しは役立つかもしれないですね、みたいなことを言ってるわけですね(笑)。

 ここで少し言葉の解説をしますと、スガタというのはお釈迦様の呼び名の一つで、普通は【善逝】と訳されますが、善逝といってもよくわからないので、あえてスガタとしました。ここでは、【もろもろの】と言っているので、お釈迦様だけではなく、この宇宙に偏在する多くのブッダ方のことを言っているのでしょう。



【本文】
 この恵まれた人生は、きわめて得がたい。これを得て初めて人間の目的(すなわち解脱)は達成せられる。もし、ここで(真の幸福の因である)善福を認識しなかったら、どうして再び(このような幸福が)めぐり来よう。


【解説】
 これは仏教の基本である、「人に生まれることの稀有さ」の強調です。
 基本的なことですが、もう一度簡単に説明しましょう。
 我々は、解脱しない限り、地獄・動物・餓鬼・人間・天の五つの世界を輪廻し続けます。六道輪廻という場合は、最後の天を、阿修羅と天に分け、六道とします。
 輪廻するというのはつまり、死んでは生まれ変わり、死んでは生まれ変わり、これを永遠に繰り返すということです。解脱しない限り、終われないということです。
 お釈迦様は輪廻転生を説かなかったとか、あるともないとも言わなかったとか言う人がたまにいますが、そんなことはありません。お釈迦様の実際の言葉に最も近い内容を探るには、現存する原始仏典を探るしかないわけですが、少なくとも原始仏典には、輪廻転生の話はたくさん出てきます。というより、輪廻転生があることが大前提となって、教義が展開されています。また、解脱者が身につける神通力の一つに「宿明通」という、あまたの過去世を思い出す能力があるということも、お釈迦様はお説きになっています。
 「お釈迦様は輪廻を方便として説いたのだ」などという推測をするのは自由ですが、推測ではなくてお釈迦様自身の言葉に最も近いと思われる経典をそのまま素直に受け取るならば、輪廻転生は実在すると考えるのが自然ではないでしょうか。
 さて、この六道輪廻のうち、下の三つの世界(地獄・動物・餓鬼)は「三悪趣」と呼ばれ、大変な苦痛に満ちた世界です。人間以上の世界は善趣といって、一応幸福な世界なのですが、自分の人生を振り返れば、人間界に生まれても、幸福なことばかりではないことはお分かりでしょう。
 天に生まれたらどうでしょうか? 私は天こそ、最悪の輪廻の苦痛の世界だと思いますね。なぜなら、天の神も死ぬからです。天はすばらしい歓喜と幸福に満ちた世界です。しかし死ぬのです。そして死んだらほとんど、天より低い世界に生まれ変わります。天から地獄に生まれ変わることも、稀ではありません。
 我々の幸福や苦しみというのは、相対的なものです。つまり以前の経験と今の経験の比較や、自分と他人の比較によって、苦楽を感じるわけですね。ということは、たとえば動物から地獄に落ちるとか、人間から地獄に落ちるのに比べて、天から地獄に落ちるというのは、これ以上にない苦痛ということになるでしょう。天での快楽が大きければ大きいほど、その後の地獄の苦痛も大きく感じられます。だから「天こそ最悪の苦痛の世界」と書いたのです。
 そして確率からいうと、我々はほとんど、地獄・動物・餓鬼の三悪趣を輪廻し続け、本当にたまに、人間や天に生まれるだけだ、といわれます。これは脅しではなくて、論理的に正しいことです。なぜなら、すべての現象の原因は自己の善悪の行為(カルマ)だからです。良い行ないによって幸福になる。悪い行ないによって不幸になる。そしてその良いカルマを多く持っていれば良い世界に生まれるし、悪いカルマを多く持っていれば苦しい世界に生まれるということです。
 そして地獄・動物・餓鬼の世界では、良いカルマを積むことはほとんどできません。
 天の神はどうでしょうか? 実際は天というのは、この欲界の輪廻を超えた、もっと高い天もあるのですが、ここでは欲界の天のことを指しています。この欲天の神は、無智をその性質としているので、あまりの快楽や幸福に溺れ、修行もせず、徳も積まず、ただ功徳を浪費するだけなのです。
 そしてこの輪廻の中で唯一、まじめに修行し、徳を積むチャンスがあるのが、この人間界だというのです。
 人間界は、地獄ほど苦しくないので、真理を探究する余裕があります。動物ほど無智ではないので、ものを考えることができます。餓鬼ほど貪りが強くないので、他者への善を行なうことができます。天ほど楽しくないので、人生に溺れることがありません。
 だから人間に生まれたときこそ、チャンスなのです。徳を積み、修行し、解脱し、この輪廻から抜け出る唯一のチャンスなのです。

 そして、ここでシャーンティデーヴァが言っていることを、もう少し噛み砕いてまとめて書きますと、こういうことです。

「人間界こそが、唯一、徳を積むことができ、修行ができ、解脱することができる世界である。
 しかしこの人間界に生まれるチャンスは、極めて少ない。
 いま私は、その稀有なチャンスを得ている。それなのに今、徳を積んだり修行をしようという強い気持ちを起こさなかったら、いったいいつ解脱できるというのだ?
 ものすごい低い確率でやっとめぐってきた今のこのチャンスを逃したら、再び人間界に生まれ、解脱のチャンスにめぐり合うのは、至難の業だよ。次はいつになるかわからないよ。また、苦しみの輪廻を永い間さまよわなければならないよ。」
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年齢について

2006-07-25 19:38:24 | 松川先生のお話
 人は年齢によって自分や他人を観念的に捉えてしまいがちですが、いわゆる何回太陽や四季がまわったかという年齢によって、自分や他人を限定的に捉えてしまうのは意味がないことですよね。
 肉体面を見た場合、たとえば30代で老人のような肉体の人もいれば、逆にいつまでも非常に若々しい肉体を保っている人もいますね。
 ヨーガ的に考えると、肉体の老いとはナーディ(気道)の詰まりに他ならないので、ヨーガ等で気道が通りだすと、逆に若返りますし、まあ、いつまでも全く老いないということはないでしょうが、少なくとも老いのスピードは弱まりますね。
 特に女性は、見た目からすごく若返りますね。私が知っているヨーギニーの多くは、実年齢より10歳は若く見られていて、よく『詐欺だ』と言われたりしています(笑)。

 精神における年齢は、もっと、時間的な年齢では測れないことです。なぜなら輪廻転生を前提とするなら、どれだけ魂の進化に時間を費やしてきたか、人それぞれ違うからです。

 だから、何歳になったとか、もうすぐ何歳だとか、そういうことを考えるのはあんまり意味がないですね。

 もし肉体面の老化を気にするなら、ぜひヨーガをやられてください。

 精神面について言うならば、上記のようなことを考えると、相手の年齢がどうであろうと、あるいは見た目や社会の評価がどうであろうと、決して人を見下したり、見くびってはいけません。その人が実はどれだけ偉大な精神性を育んでいるか、外からはわからない場合も多いからです。

 まあ年齢の話は別にしても、一般に人と接するときは、その人の長所を探すような癖をつけたほうがいいでしょうね。それが結果的に自分の見識や、心の柔軟性を高めてくれるでしょう。

 そして人の欠点を探すのをやめ、自分の長所を伸ばすことと、自分の欠点を克服することに、時間を費やすことです。人生は短いからね。
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菩薩の道(1)「布施と歓喜」

2006-07-14 09:48:51 | 経典の言葉・聖者の言葉



 大乗仏教の実際的な修行プロセスとしては、六波羅蜜が有名だ。大乗仏教(マハーヤーナ)自体、波羅蜜乗(パーラミターヤーナ)と呼ばれることもある。また、菩薩乗(ボーディサットヴァヤーナ)と呼ばれることもある。

 そして大乗仏教の理想的人格である菩薩(ボーディサットヴァ)には、菩薩の十地と呼ばれる、十段階のプロセスがあるといわれる。そしてこれに対応するのが六波羅蜜をさらにグレードアップさせた十波羅蜜だ。

 さて、この十地および十波羅蜜にはさまざまな解釈があります。
 ちなみに、十波羅蜜と名前がつく修行も、内容が違うものが多々あります。私が知っているだけでも、三種類はあります。
 しかし、ここでは「十地と十波羅蜜」とはなんなのかを、学術的に語るということはしません。そうではなくて、「十地と十波羅蜜」というテーマを利用して、あくまでも私が考えるところの菩薩の修行の道を、表現してみたいという感じです。
 つまりこの話の中には伝統的解釈だけではなく、私の経験や思索から来る内容がかなり入っているということはお断りしておきます。





1.布施の完成--歓喜

 
 菩薩の第一段階は、「歓喜」と呼ばれる。
 そしてここに対応するのが、布施波羅蜜の修行だ。
 これはなんなのか。そしてなぜそれが「歓喜」の境地を呼ぶのか。

 ここでいう布施とは、たとえばお寺にお金をお布施するとか、そういうことをさすわけではない。
 端的にいえば、「自己の幸福を衆生のためにすべてささげる」ということではないかと思う。
 それが菩薩の修行のスタートだ。
 つまりこれは、「慈愛の実践」というのとほぼイコールなのではないかと思います。

 具体的にこの布施の実践としてあげられるのは、いろいろ考えられる。
 ・他者の幸福のために奉仕をする。
 ・生き物の命を救う。
 ・貧しい人にお金や食べ物を分け与える。
 ・人々に真理の教えを与える。
 ・人々の修行の手助けをする。
 ・衆生の救済のために自分のプライドその他をささげる。
 ・衆生の救済のために自分の時間、人生をささげる。
 ・人々に、修行の実践から来る歓喜を与える。
 ・苦しむ人の心に安心を与える。
 ・仏陀、聖者、神々、菩薩や自分の師などに対して財物その他を供養する。
 
 箇条書きにするとこういったものが考えられるが、日常から常に、他者の幸福のために自己の幸福を差し出そう、という心構えが大事ではないかと思います。

 ところで、この波羅蜜(パーラミター)という言葉の意味については、さまざまな解釈がありますが、ここでは「完成」という説をとりましょう。
 つまり「布施のパーラミター(完成)」という場合、「他者のために自己の幸福を差し出す」という実践を、適当に行なうのではなく(もちろん最初は徐々にでいいのですが)、完成に向けて全力で行なっていくということですね。
 
 そして、これによってなぜ「歓喜」が生じるのか。

 それはまず第一に、このような菩薩の道に入ったのだと、幸福をすべて差し出す生き方をしようという覚悟が出来たとき、とてつもない歓喜が生じます。

 第二に、常にこういった心構えを培うことで、それそのものがまたものすごい歓喜を生じ続けさせます。

 そして第三に、こういった布施・慈愛の実践により、実際に徳が増大し、自己執着が減少します。
 この徳の増大と自己執着の減少は、ものすごい歓喜を呼びます。
 なぜなら徳とは物理的な歓喜のエネルギーの源であり、自己執着は歓喜を止め苦を増大させる原因だからです。
 これは道徳的なことを言っているのではありません。現実的・物理的にそうなのだということをお断りしておきます。


 また、こういった歓喜は、単に精神的な喜びというだけではなく、精神的にも肉体的にもはっきりと生じる、物理的・実際的なエクスタシーです。
 たとえば布施の一つの形である、聖者や仏陀に供養をするということを瞑想上で行なう修行があります。私はこの供養の瞑想を数回行なっただけで、失神寸前の、体が固定されてしまうような歓喜に襲われることがあります。
 あるいは、衆生の苦悩を吸い取り、幸福を差し出すことを瞑想で訓練する「トンレン」という瞑想があります。私がこの修行を集中的に行なっているときは、呼吸そのものが強烈なエクスタシーになってしまい、息を一息吸ったり吐いたりするたびに、のけぞるようなエクスタシーに襲われ、困ったことがあります(笑)。

 
 ところで、仏教では色界の第一カテゴリー、あるいは真の瞑想の第一カテゴリーは慈愛の世界であり、かつそれは喜と楽の境地であると定義されています。
 ということは、それもやはり対応するのではないかと思いますね。つまり、菩薩の道を歩むことを決意し、自分の幸福を他者に差し出すという慈愛の実践によって歓喜に満ち溢れた境地。それが菩薩の第一段階なのではないでしょうか。


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正中線で生きる

2006-07-06 14:12:17 | 松川先生のお話


 ヨーガ等の修行が進んでくると、まず丹田に気が集まり、それだけではなくて、重心が丹田、そして正中線に落ち着くようになります。
 そしてそれはさらに中丹田(胸)、そして上丹田(眉間)へと上がり、最後には頭から抜けるようになります。

 これはどういうことかというと、体の中心に棒が一本刺さったような感じになり、その他の力は抜けます。肩の力が抜け、リラックスした状態になります。
 リラックスしているのですが、正中線がぴんと張り、頭から上に引っ張られているような感じなので、常にしゃんとした感じになります。

 瞑想においても、普段の生活においても、このような体の状態を保てることが理想となります。

 多くの人の場合、たとえば正中線ではなく、肩で生きています。つまり肩に棒が刺さった感じで、いつも肩を張って生きるパターンです。
 あるいは別の人の場合、背中に棒が刺さり、猫背の感じになります。

 リラックスといっても、ただ力が抜けているだけでは、ただの怠け者になってしまいます(笑)。
 しかし緊張していては、余計なところに力が入り、瞑想できませんし、気の流れも滞ってしまいます。

 瞑想中の精神状態も、緊張でもなく、ただ力が抜けているだけでもない、純粋な集中とリラックスの状態をつかまなければなりません。

 これは人生においてもそうですね。自分の中心に、天に向かって一本、中軸を入れ、それをピンと張りつつ、背筋を伸ばしつつ、肩の力を抜き、リラックスして生きることが、人生で全力を出す秘訣です。

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