ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

流水

2006-03-30 15:46:42 | 松川先生のお話




 人間の執着というのは、苦しみを増し、人生を誤らせますね。

 ここでいう執着っていうのは、性欲がどうとか食欲がどうとかいうことではなくて、あらゆる流れ行くカルマの動きに対する執着とでもいえばいいだろうか。

 たとえば昨日、あるネガティブな意識状態になった人がいたとします。でもそれは、昨日のことなんだね。昨日のことなのに、その自分の過去の瞬間的な意識状態に執着して、苦しみを引きずり続けてるのは、その人自身なんだね。
 

 原子運動がそうであるように、カルマの流れも、人間の意識も、瞬間瞬間、移り変わっているんだ。だから心は一時も、執着しちゃいけないんだね。瞬間瞬間、新鮮な気持ちで、ありのままにすべてを見つめなきゃいけない。

 そうしたらね、人を憎むなんてことはなくなるよ。瞬間瞬間ね、新たな気持ちでね、人との出会いを喜べるようになる。

 欲求不満とかもなくなるだろうね。ある時に沸いた欲求に対するとらわれを持ち続けてしまうから、動き行く現象とのギャップで欲求不満に陥るんだから。

 瞬間瞬間、すべてが生まれ変わり、すべてが新しい! この自然の真理は、すばらしいと思わないか? 仏教でいう無常っていうのは、ネガティブな意味で表現されがちだけど、見方を変えれば、非常にすばらしいんだよね。

 無常そのものが苦しみじゃないんだ。無常はこの世の真理だからね。無常なのに、その過ぎ行くカルマにとらわれるから、執着するから、苦しいんだ。

 また、瞬間瞬間冷静に見れば正しい判断ができる人も、執着によってものを見誤る。恋愛なんかで多いパターンだけどね。ギャンブルにはまるパターンとかも同じだね。


 流れる水は清らかだけど、執着によって流れを止めたとき、無理が起こるんだね。圧迫と錯覚と苦しみが起きるんだ。  



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ヨーガの語源

2006-03-28 16:32:10 | 松川先生のお話



 「ヨーガ」という言葉の語源は、大ざっぱに言うと二つある。
 一つは、「コントロール」だ。もう少し正確に言うと、御者が馬を調御することだ。
 私達の体や心や感覚というのは、暴れ馬のようなもので、普通はコントロールしづらい。そして心身の不調にさいなまれ、人生はつまらないものになっていく。苦しみ多きものになっていく。そしてコントロールできない感情や肉体のために、多くの失敗を起こす。
 ヨーガを修行すると、普通はコントロールできないこれら肉体、心、感覚といったものを、自分のコントロール下におくことができるようになる。だから自分の目的に応じて常に最高の力を発揮することができるようになるし、感情や肉体の不調に悩まされることもなくなる。心の奥底にある、最もすばらしい光り輝く自分の本質こそが、自分の支配者に
なるのだ。

 もう一つの意味は、「合一」だ。
 何と何が合一するのか? 例えば、肉体と心。普通の人はこれがバラバラになっているのだが、ヨーガによってこの二つの調和がうまく取れるようになってくる。

 あるいは、ヨーガの呼吸法を続けると、身体の中にある、いくつか種類の異なる「気」が合一し、特殊な気を作り上げて行く。

 あるいは、ヨーガの修行を続けると、下腹部から燃えるような熱のエネルギーが発生し、それが身体の中を上昇する。そして頭の中にある「神秘の月」と称されるものを溶かし、そこから「不死の甘露」と呼ばれる月の滴をしたたり落とさせる。この甘露は心身にえもいわれぬ歓喜を生じさせる。そしてこの下から生じる熱と、上から落ちてくる甘露が合一した時、そこに「もう一人の自分」が誕生する。

 あるいは、私達は常に、楽と苦、称賛と非難、成功と失敗、希望と恐怖、満足と不満足、好きと嫌い、敵と味方・・・といった相対の思い、対立する二元の思いの中にいる。たとえそのうちの楽の方を得ても、それはその裏に潜む苦をも増大させるに過ぎない。得た楽が大きいほど、それを失った時の苦も大きい。好きなものへの執着が大きいほど、嫌い
なものへの嫌悪も大きくなる。ヨーガの修行を続けると、これら対立する感情が合一していき、「平等心」が身につくようになる。この平等心こそが、感情や先入観に左右されずに物事を正確に見極める力を育てることとなり、人生においても失敗をすることがなくなる。

 そして最も崇高な意味での合一は、ジーヴァートマンとパラマートマンの合一だ。
 「私とは何か?」を追求し続けた結果、発見する「私」の本質、それがジーヴァートマンと呼ばれるものだ。
 そして「宇宙とは何か?」を追求し続けた結果、発見する「宇宙」の本質、全世界の本質、正体、それがパラマートマンだ。
 そして最後に行者は、実はこのジーヴァートマンとパラマートマンが同じであることに気づく。こうして「私の本質」と「宇宙の本質」は合一する。これがジーヴァートマンとパラマートマンの合一だ。
 例えば海の中に、海水の詰まったビンがある。ビンの中も外も海水だ。しかしビンという壁が、「私(自我、エゴ)」という間違った錯覚を生じさせる。このビンを割った時、ビンの中の海水と大海の海水は合一する。しかしもともと、ビンという壁が錯覚させていただけで、もともとビンの中も外も何も変わりはなかったのだ。

 同様に、もともと、この世のすべては真理であり、神であり、ブッダである。
 では歴史上に現われたお釈迦様やヨーガの聖者たちと、我々の違いは何なのか? 彼らもブッダだし、私達もブッダだ。しかし彼らは、「目覚めたブッダ」なのだ。そして私達は、「まだ寝てるブッダ」なのだ。この夢の中で、ある者は悪夢を見、ある者はよい夢を見る。しかしすべては夢なので、私達がこの世で体験するすべての事象は、はかなく無常
だ。
 目を覚ませ。ビンをたたき割れ。この夢の世界ではなく、真実の世界で会おうじゃないか。
 ヨーガこそが、目を覚ますための秘密のカギであり、合言葉なのである。言葉で言えるのはここまでだ。あとは実践するしかない。
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因か条件か本質か

2006-03-24 22:23:14 | 松川先生のお話
我々が心・言葉・身体によってなしたことが因となり、条件が成立することによって果報を生む。
 これがカルマの法則です。
 条件のことを縁ともいうので、因・縁・果ということですね。日本語でも因縁とか因果とかいいますね。

 たとえば簡単にいうと、ある人が誰かに悪口を言った場合、自分もいつか悪口を言われるというカルマの因が生じます。
 この因が成熟するには時間がかかります。
 そして成熟した因が果として現象化するには、条件(縁)が必要です。

 たとえばとても心やさしい人の中で生活していたら、『悪口を言われる』という因が、果として現れることができません。よってそのためにはここで『口の悪い人』の登場が必要なのです(笑)。そうして条件が整った段階で、因が果となり、実際に悪口を言われるという現象が起こります。

 そしてこの法則を知らない人は、一生懸命、条件を整えることで、苦しみから逃れ、幸せを得ようとします。
 たとえばこの例の場合でしたら、口の悪い人が登場したら、その人から逃げようとするかもしれません。
 逃げることで、条件は整わなくなり、一時的に『悪口を言われる』という果報から逃げられるでしょう。
 しかし因が消えたわけではなく、またその因はすでに成熟しているので、すぐにまた悪口を言われるような環境に放り込まれてしまうでしょう。
 あるいは、そういう縁が生じていないのに無理に交際相手を求めたり、無理にお金や地位や物質を求めるのも同じです。
 無理に『幸福の条件』を整えようとしているのです。
 その人に幸福の因があれば、条件を整えることで、確かに幸福になるでしょう。
 しかしこれには問題があります。それは未成熟の果物を無理やり収穫しているようなものだからです。

 オカルティックな方法などで幸福を得ようとするのも問題があります。
 ある種の精神集中や瞑想の技法を使えば、ある程度、願望をかなえることはできますが、これもまた無理やり条件を整えようとしているわけです。

 たとえばここに『幸福の因の容器』があるとします。
 普通、ここに蓄えられている幸福の因は、少ないものです。しかし条件を整えて幸福を得ようとするということは、ちょうど、ひしゃくやおたまなどを使って、この少ない幸福の因を汲み取ろうとするようなものです。それによって一時的には幸福になりますが、そのうち幸福の因は底をつき、その人は何をやってもうまくいかない人生になってしまいます。
 そうではなくて、幸福の条件を無理やり調えるようなことはせずに、幸福の果が返ってくることを期待せずにただひたすら幸福の因(すなわち善の行為)を積み続けたらどうなるでしょうか? 
 それは器からあふれ出るようになるのです。その人は幸福になりたくなくても自然に幸福になってしまう人生になるでしょう。そしてお釈迦様は、そのように生きなさいとおっしゃっています。

 つまり、条件ではなく因に着目すべきなのです。

 条件を整えることで幸福になったり不幸を避けたりするのではなく、幸福の因を育て、不幸の因を滅することです。
 
 具体的には、まず善を行うことで幸福の因を増やす。
 無理やり幸福の条件を求めないことで、幸福の因の無理なロスを防ぐ。
 悪を行わないことで、苦しみの因をこれ以上増やさない。
 自然に生じた苦悩から逃げず、喜んで受け入れることで、苦しみの因を減らす。

 これらを行なうなら、その人はある時期から、自然に幸福になり、なかなか不幸になれない人になるでしょう。

 これがカルマヨーガの一つの道です。
 これに『神の愛』という要素を加え、幸も不幸もすべては神の愛として自然に受け入れ、ただ神の意思に沿った生き方(善)を行ない、神の意思にそぐわない生き方(悪)を避ける。これがバクティ・ヨーガです。

 そして最終的には、因も縁も果も超え、善も悪も超えた、本質的な至福と悟りの世界に入っていきます。

 しかしそのためには、まずこの二元の世界で、善という光に満ち、悪という闇を滅した心の状態を作らないとだめなのです。

 まあとにかく、現世的な幸福を求めるにしろ、至福と悟りを求めるにしろ、条件を無理に整えるのではなく、善因の増大と悪因の減少に心を配る。
 成功にも失敗にもとらわれず、幸運にも不運にもとらわれず、淡々と全力でなすべきことをなす。
 こういう生き方がいいと思います。
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