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寂静という名の至高の成就

2018-06-02 23:27:10 | 経典の言葉・聖者の言葉


寂静という名の至高の成就


ナーロー




 ヴァジュラダーキニーに帰依いたします!

 帰依処である全智の主、衆生の守護者に帰依いたします!

 ここに、「真の意味」について簡潔にまとめよう。

 すべての現象は、自己認識の心以外にどこにもない。
 それが知覚し、認識しているので、
 それは、自分自身を知る経験のようである。

 もし心がそのようでなければ、
 きずなはなく、したがって何もあらわれないであろう。
 このようにして、相対性についての結論に達しなさい。
 それが、「すべての現象は心に基づいている」と教えられるものである。

 現象のまさにその土台は、心の本性である。
 人は、推論などを通して吟味することによって、それを分析することができる。
 しかし、生来の光り輝くこの心、
 そして散漫な思考による一時的なけがれ、
 それらが同じなのか別なのかということは、
 きわめて深遠である。
 
 それがきわめて深遠なので、専門家はそれを分析する。
 そこに解釈はあるが、それらが書かれることはない。

 空それ自身を知覚する心は、
 解脱した心でもある。
 それは、仏陀の一族でもある。
 それはスガタガルバ(仏性、如来蔵)である。

 その味わいは、実のところ、
 大いなる至福でもある。
 それはまた、「秘密のマントラ」といわれるものでもある。
 それは智慧と方便である。

 それは深遠で広大である。
 それは父と母のサマンタバドラである。
 現われと空の広がりの境地の原初の智慧の中に
 いわゆる「原初のブッダ」がある。
 
 自己認識と、それとともにあるけがれは
 他の何かに依存しないので
 自ら生じた原初の智慧そのものである。

 正智であるので、それは明晰。
 自己認識であるので、それは非概念。
 自己認識は、それ自体を概念化することはできない。
 
 散漫な思考の動きがないので、
 その心の形態は、概念化されない。
 明晰なる非概念は、原初の智慧である。
 例えばそれは、スガタの原初の智慧のようである。

 したがって、心の本性の輝きの中で
 心は原初の智慧である。
 これを悟って、「ブッダは、どこか他を探しても見つからない」ということが教えられる。

 それでも、その心は一時的に、
 苦悩へ導く散漫な思考によってけがされる。
 水、黄金、そして空のように、
 それは一時的な汚れと純粋さである。

 それでも、本性の輝きの心の中で
 それらの実体は、髪の毛の先ほどの価値もない。
 それは例えば、空中の蓮華のようである。
 それは確立されない存在である。

 それは存在せず、まったく確立されることはできない。
 双方が相互に依存しているので、
 一つが、もう一つなしにはありえない。
 それは存在するのでも存在しないのでもない。

 これは、両方とも不完全な論理だからである。
 存在するのでもしないのでもないということもできない。
 存在し、かつ存在しないということでもない。

 それはまた、表現されない。 
 それはまた、非表現でもない。
 したがってそれは、すべての構造を超えている。
 このように、究極について結論に達しなさい。

 「心は空に基づいている」と教えられる。
 それは、構造を超えた自己認識。
 にもかかわらず、あらわれは空であり、空はあらわれである。
 したがって、あらわれと空は分けることができない。

 これは例えば、水に映る月のよう。
 その道により、非二元についての結論に達しなさい。
 「空は何にも基づいていない」と教えられる。
 構造化を超えた自己認識は、
 サンサーラの実際の土台である。
 それはニルヴァーナのそれでもある。

 それは、偉大なる中観でもある。
 それはまた、見られることでもある。
 それはまた、瞑想されることでもある。
 それはまた、成就されることでもある。

 それは、推論の真理でもある。
 原因、方法、そして果報
 三つのタントラで有名な
 そして、土台、道、果報として有名な、
 その様相でもある。

 すべての土台である根源的意識、
 そして、どのような集積がサンサーラにあろうとも、
 それはこれに依存していると教えられる。

 ああ、心の本性とともにあるけがれ
 それは、宇宙に満ちる六つの世界の衆生などのような現われ
 概念を超えた苦しみの魔術の輪である。

 散漫な思考によるけがれがない、
 この構造化されていない自己認識は、
 無住処ニルヴァーナ。
 それはヴァジュラサットヴァでもある。
 それは第六のブッダでもある。
 それは六つの家族でもある。
 それは若々しいマンジュシュリーでもある。
 それはヴァイローチャナでもある。
 それは大いなる至福のダルマカーヤでもある。
 そして「一つになる」と呼ばれているものである。
 それは第四アビシェーカでもある。
 それはサハジャの歓喜でもある。

 スートラとタントラの中で有名な
 これらすべてと、他のものの
 大部分は、これに基づく。
 そしてそれらはそれぞれの性質によって組み立てられる。

 ああ、シミ一つない完全なるもののあらわれ
 ルーパカーヤの心の集積の本性
 そして、完全なる純粋な領域、
 マンダラなどのあらわれ、
 これらすべての偉大で素晴らしい現われが、
 空間いっぱいに充満してあらわれる。

 外道の哲学教義は、
 誤謬見解の海にとどまる。

 シュラーヴァカ、独覚や唯識派などの仏教の伝統は、
 知覚する者と知覚されるものを知覚し
 非二元を概念化する。
 さらにまた彼らは、真理、虚偽などの
 概念のクモの巣に落ちる。
 
 それらの誤りのない方向で、
 見解、瞑想、行為を通して、
 真の解脱は達成される。
 ちょうど、よく訓練された競走馬のように。

 もし人に実際の正しい見解がないならば、
 誤った瞑想と行為が生じる。
 よって、果報には到達しない。
 盲人が人々を導くことはできないように。

 井の中の蛙のようなわたしの概念的知性に、何ができようか。
 攪拌することによって、深遠さを発見しなさい。
 真の意味の、海のような深さを!
 すべての賢者は、わたしの過ちをお許しくださるだろう!

 この教えを通して生じた功徳によって、
 卓越した幸運に恵まれた衆生が
 彼らの思い違いのけがれを、完全に捨てますように。
 そして、真の悟りの叡智が授けられますように!


 これにて、主ナーローパによる「簡明な見解」を完了する。
 パンディタ・ジュニャーナシッディの面前で、ロツァーワ・マルパ・チューキ・ロドゥがこれを懇願し、そして翻訳した。

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