ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

「ヴィヴェーカーナンダの生涯」第一回(7)

2020-01-01 10:39:07 | 勉強会より抜粋


【本文】

 ナレーンドラの家の隣に住むスレーンドラは、あるとき、ラーマクリシュナのもとを訪ね、初対面からラーマクリシュナに強くひかれました。短期間で非常に親しくなり、ラーマクリシュナを自宅に招いて祭礼を催すようになりました。
 ある日、祭礼で信仰歌を歌う専門の歌手が見つからなかったスレーンドラは、隣に住むナレーンドラを招待しました。ナレーンドラは多芸多才で、歌においても優れていると評判だったからです。
 こうして偶然にも、ナレーンドラは初めて、噂に聞くラーマクリシュナにお会いしたのでした。一八八一年十一月のことでした。このときナレーンドラは十八歳で、カルカッタ大学の入学試験の準備中でした。
 ラーマクリシュナはナレーンドラを一目見るなり、非常に強く惹かれました。ラーマクリシュナはナレーンドラの人相を調べると、少し会話を交わし、近いうちにドッキネッショルのカーリー寺院に来るようにと言いました。ナレーンドラはそれを承諾しました。この聖者が、自分の師として自分の真理の探究を助けてくれる人なのかどうかを見極めたかったからです。



 はい。こうしてついに、ナレーンドラはラーマクリシュナに会うわけですね。隣の家に住むスレーンドラ――まあこのスレーンドラも何回も出てきていますが、のちにラーマクリシュナの、経済的な大変な援助者になった人だね。ラーマクリシュナっていうのは、そういう人が何人か人生の中に登場してるんですね。かつてのモトゥルという人とかもそうだし、何人か登場してるんですが、特にその晩年に、あるいはラーマクリシュナが亡くなったあとも弟子たちのために多くの財産をお布施したのがこのスレーンドラという人ですね。で、この人が当時ナレーンドラの隣に住んでいたと。で、ラーマクリシュナを信仰するようになったので、ラーマクリシュナをたびたび家に招いてたと。そこでナレーンドラが歌がうまいと評判だったので、ナレーンドラを招待して歌ってもらったっていうところですね。
 で、ここにおいてついに、運命的なナレーンドラとラーマクリシュナの出会いが始まるわけですね。ここではただ、まだちょっと会話を交わしただけだと。そしてラーマクリシュナも――まあラーマクリシュナって面白い人で、会った人の人相とかあるいはなんかこう手の重さを量ったりとか、いろいろそういうなんか――まあそれが一つの演技なのか本質的なのか分からないけども、そういうのでその人の素養を測ったりするんだね。
 で、ここには書いてないけど、のちに語ったところによると、このときラーマクリシュナはナレーンドラの相を見て、のちにホーリーマザーに「ほとんど完璧だ」って言ったらしいんだね。「ほとんど完璧で、ただ二つだけ問題がある」と。その二つっていうのは、「呼吸が荒い」。そして、「大食いである」と。で、この二つによって、早死にの可能性があると。で、これはまさにピタリと当たってて。ナレーンドラは結局三十九歳で亡くなったわけですけど、ナレーンドラの最後の、まあ一応のね、もちろん運命的なわけだけど、一応のつじつま合わせ上の病気は、喘息と糖尿病だったんだね。まさに、呼吸の荒さと食い過ぎ(笑)。まあそれはもちろん一つのつじつま合わせみたいなものなんだろうけど。でもその辺も当たってるのはとても面白いね。で、非常に、当時のインド人としても短い三十九歳で亡くなった。
 で、このときはまだ軽い会話だけで、ラーマクリシュナは、「ぜひドッキネッショルに来なさい」と。で、当然ナレーンドラも師を探して悶々としてた時期だから、「この人が本物かどうかを知りたい」っていう思いもあったから、訪ねることを約束したわけですね。
 はい。じゃあ次、いきましょう。
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「解説『スートラ・サムッチャ』」第14回(3)

2020-01-01 07:50:53 | 勉強会より抜粋


◎無知の知

 で、だからこの如来の――如来、あるいはこの世界を超越したバガヴァーンと、この輪廻の闇の世界に捕まってるわれわれとの接触っていうのは、なんていうかな、われわれはリアルには感知できない。じゃあどのように感知されるのかっていうと、われわれのカルマあるいはわれわれの、そうだな、いい意味で言ったら、どれだけ目が開いてるか、あるいはどれだけ真理との縁があるかによって、見え方が変わってくるんですね。
 で、また別の言い方をすると、われわれの必要としてるかたちで見えます。必要としてるかたちで現われるんだね。だからお釈迦様が現われて、あるいはいろんな大聖者が現われて、教えを説きましたと。これは、お釈迦様の方に主観性があるわけじゃないんです。何を言ってるかというと、お釈迦様が自分の考えで――例えばお釈迦様だった場合は、インドのある王国に生まれ、そして出家し苦行を行ない、そのあと悟りを得て、で、仏教教団を形成し……っていう一つのストーリーがあるわけだけども。これは、そのようにお釈迦様がして、それによって人々が救われてったっていうんじゃないんです。何を言いたいかっていうと、お釈迦様はもちろん現われました。でもそのように見えたのは、その当時のインドの人たちのカルマです。それによってお釈迦様の存在が――王子として生まれ、出家し、八正道を中心にした教えを説いた存在として見えただけなんだね。もしその当時のインドの人たちのカルマが違うカルマだったら、違うふうに見えます。違う存在としてパッと現われてっていう感じになるんだね。
 だから例えばね、われわれは例えば聖者とかの話にしてもそうだけど、分かりやすいように理解したがるね。分かりやすいように理解したがるっていうのは、例えばお釈迦様が現われたとしたら、「お釈迦様は前生はなんだったんでしょう?」と。ね。あるいは皆さんの知ってるいろんな聖者がいますよね。例えばラーマクリシュナにしろヴィヴェーカナンダにしろ、シヴァーナンダとか、いろんな、ヨーガーナンダとか聖者がいるとして、「はい、例えば彼らは前生どうだったんでしょう?」「いや、多分前生はこういう世界でこういう救済をしてた」と。あるいは例えば、「このときはチベットにいたのかもしれませんね」と。「で、こうしてちょっと――まあ例えばね――天界のここでちょっと休んで、で、その生、みんなを救うためにインドに来ました」とか、「チベットに来ました」とか、そういうふうに分かりやすく考えたがるんだけど、それは完全にわれわれの概念内の話であって、実際はそんなものは越えてると思ってください。だからそんな分かりやすい話ではない。分かりやすい話じゃなくて――というよりも、くり返すけども、どちらかというと、こちら側の条件によって、如来がどういうふうに降りてきて、どういうふうに救済して、で、どういうふうに次に向かうのかっていうストーリーが、まあかたち付けられてるだけなんですね。
 じゃあもともと如来はなんなのかっていうと、もうわれわれの目から見たらもうそれは、実体のない空性というしかないんですけども、実際にはただの空性ではありません。実際には――われわれがあっち側の世界に行ったならば、つまり如来と同じもし世界に行ったならば、まあ言葉では表わせないけども、「ああ、なるほど」と。「こうでこうでこうですね」ってなるわけだけど(笑)。それは今のわれわれには分からないんだね。分からないっていうか、認識すらできない。
 これはね、分からないっていうのを分かることはとても大事です。ま、つまり無知の知ってやつですけども。分からないっていうことはちゃんと理解しなきゃいけない。分からないっていうのは、智慧が少ないから分からないんじゃないよ。世界が違うから分からないんです。さっきの次元の話みたいな感じで――もう一回言うけど、次元っていうのは、ただ能力の違いとかじゃないからね。全く違う世界ですからね(笑)。なんていうかな、馬と柿ほど違うという(笑)。馬と柿っていうのは、馬と柿って全然違うじゃないですか(笑)。ジャンルから違うっていうか。それくらいわれわれの頭をちょっとぐじゃぐじゃにして、もうひっくり返して――しないと分からないような世界なんだね。だから、そういう柔軟な思考があると、この、なんていうかな、われわれが悟らなきゃいけない、悟らなきゃ分からない世界ではあるけども、でもなんとなくうっすらと、何を言おうとしてるのか分かるかもしれない。
 大乗仏典っていうのは、特にこういう表現すごく多いんだね。一見読んだだけでは、何言ってるのか分からないと。ちょっと言葉的には矛盾してるような感じがするし、っていうのが多いんですけども、実際にはそれはわれわれの焦点が合ってないだけであって、あるいはわれわれの概念が非常に狭いだけであって、っていう話ですね。
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