ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

「解説・マルパの生涯」(6)

2019-12-07 20:44:35 | 勉強会より抜粋



【本文】
 マルパには四人の中心的弟子がいましたが、その中でも最も有名な一番弟子がミラレーパでした。あるときマルパが夢で見た内容とミラレーパが夢で見た内容が一致し、再度ナーローのもとに行かなければいけないというメッセージを受け取ったマルパは、高齢を理由としたみなの反対を押し切って、一人で三度目のインドへの旅に出ました。
 しかしそのころ、ナーローは非常に特殊な状態になっていました。普通の人では会うこともできないような状態で修行をしていたのです。
 マルパは、師に会いたいという強烈な一心で、みなの助けを借りながら、八ヶ月間、ナーローを探し続けました。
 そうしてついにナーローに相見えることができたマルパは、チベットで集めてきた黄金を、惜しげもなくすべてナーローに布施しました。しかしナーローは、
「私には黄金は必要ない」
と言って、受け取ろうとしませんでした。マルパは、
「あなたには黄金は必要ないかもしれませんが、私自身の、そしてこの供物を集めるために助けてくれた人々の、そしてすべての衆生の功徳の完成のために、どうかお受け取りください」
と懇願しました。するとナーローは、
「では、これがグルと三宝への布施となるように」
と言ってその黄金を受け取ったのですが、そのまますぐにぽいと森の中に捨ててしまったのでした。
 黄金を集めたときの苦労を思い出し、マルパが悲しい気持ちになっていると、ナーローは、
「私にもし黄金が必要なら、この大地すべてが黄金なのだ」
と言って大地を足で踏むと、大地が黄金になったのでした。



 はい、マルパには四人の中心的弟子がいて、その中でも一番有名なのがミラレーパね。はい。で、そのミラレーパとマルパが見た夢の内容が一致して、で、それはまあ、いわゆるダーキニーね、女神が出てきて、マルパがまだ受けていない教えがあると。それをね、ナーローの下で受けなければいけないということを示唆するような夢だったんだね。
 で、みんなは――まあマルパはこの当時、何歳だったかは分からないけど、かなりもう高齢になってたんで、ちょっとね、インドへの旅は危険であると。――みんな反対したわけだけどそれを押し切ってね、インドに旅立ったと。
 しかしそのころナーローは、非常に特殊な状態になっていたと。まあこれはナーローの生涯でも最後の方に出てきたかもしれないけど、死んでるとも生きているとも言えないような、ちょっとこうなんていうかな、まあ聖者のある特殊な状態になっていて、普通の人では会うこともできない――まああの、『あるヨギの自叙伝』に出てくるババジみたいな感じなのかもしれないね(笑)。一体、存在するのかしないのか分からないような(笑)。しかしカルマがあったものだけがまあ会えるっていうかな。そういう状態だったのかもしれない。
 で、まあマルパは一生懸命、みんなの助けを借りながら探すわけだね。で、ついにナーローに会いましたと。で、喜んで、マルパはね、チベットで、まあつまりもう長い年数かけて集めた――まあ自分もね、ビジネスとかやったり、あるいは弟子が布施してくれたりして、本当にもう苦労して集めた大量の黄金をナーローにお布施しようとしたと。しかしナーローはそんなものいらんと。ね。で、まあこれは有名な話だね。何回かみんなにも話してますけども、「あなたはいらないかもしれませんが」――ね。「わたしと、それからこれに関わったすべての人、そしてすべての衆生の功徳のために、どうかお受け取りください」と。そこでナーローは、「あ、それなら分かった」と。「じゃあ受け取ろう」って言って受け取るんだけど、ポイッて森に捨ててしまうと。ね(笑)。で、そこでマルパは、ちょっと悲しくなってしまうわけだね。でもそこでナーローが、ちょんと――「わたしにとってはすべてが黄金である」と言って、ちょんと指で、足の指でね、大地に触れると、大地が黄金になりましたっていう物語ね。
 まあこれはあの、よく、布施の、なんていうかな、お布施というものの意味合いっていうかな――を説明するときによく、たとえとして使われる。つまりお布施っていうのはもちろん、例えば聖者にお布施をするとして、聖者がそのお布施を欲しがっているからする、というんじゃないんだと。じゃなくてそのお布施する側が、お布施させていただきたいと。心から、わたしはお布施をしたいっていうその清らかな気持ちによってするんだという話だね。聖者側というか、その受け取り側は、全くそれを欲しているわけではないと。この辺がだから、よく言われる、例えば一般的な献金とかとの違いですね。献金っていうのは、つまり実際に受け手側も欲しがっていて。まあ欲しがっているというか必要としていて。そのために、じゃあこれをそのために使ってくださいっていうその、なんていうかな、やり取りがなされるわけですね。これはこれでもちろん、目的が正しければそれはもちろん、それはそれで素晴らしいわけだけど。でも、仏教とかヨーガでいうところの、まあお布施ね、ダーナと言われるものの本質はそこにはない。そうじゃなくて純粋に清らかな――この辺はちょっとね、伝えるのがちょっと難しいんですね。
 伝えるのが難しいっていうのは――ちょっと、じゃあ浅いことをまず言いますよ。浅いことを言うならば――それは、お布施する者の功徳のためであると。これは浅い話です。つまりその、相手のためではなくて。ね。「わたしが功徳を積みたいんで」――まあここでマルパが言っているように、「わたしが功徳を積みたいので、どうかお受け取りください」と。ね。つまり、「さあ、このお金で、先生、お寺でも立ててください」――そういうものではなくて(笑)、「わたしの功徳のためにこのお布施をお受け取りください」と。これはまあ基本的なお布施の概念です。でもこれもね、実はまだ浅い話なんです。
 もうちょっと本質的なことを言うと、あの、これは分かる人は分かるでしょうけども、お布施というのは、それそのものが純粋な喜びなんだね。お布施自体がね。これはその――まあわれわれはね、この日本に生まれて、小さいころからちょっとこう、なんていうかな、餓鬼的な――つまり金銭的なね、ちょっとこう、餓鬼的な発想を教え込まれているから、ちょっとけがれちゃっているんだけど(笑)、前生から仏教とか、あるいはバクティヨーガとかの教えを学んできている人は、心の中に必ずこれを理解できる気持ちがあるはずです。徳とかももう関係ないんだね。徳になるとかそんなのも関係なくて。もちろん、これを何に使ってもらうとかそんなのも関係なくて。純粋に、お布施させてくださいと。なんていうかな、清らかな気持ちがあるんだね。これがまあ、本来的なものなんだね。まあだから、これはまあ、なんていうかな、ここでマルパはちょっと悪い例として、よくたとえに出されるわけだけど。ここでマルパがシュンとしちゃったのが本当は間違いなわけです。ね(笑)。つまり、お布施はもう、「もうこれを受け取って欲しいんです」と。これで、受け取ってくださったらもうそれだけでもう歓喜なはずなんだね。歓喜で、それがどう使われようが関係ないんです。それをナーローが森に捨てたって、別に関係ないんです。もうそれはナーローの勝手だから。でもここでちょっと、まだマルパには、そのビジネスマン的なけがれがあったのかもしれない。つまり受け取ってもらって、それで例えばナーローがね、ナーローが自分で例えば、なんかおいしいもの食べたとか、あるいはお寺を立てたとか、そしたら喜ぶかもしれないけど。じゃなくて、受け取ったそばからポイって捨てられたら、「ああ、マジかよ」と(笑)。ね。「おれの苦労はなんだったんだ」ってその(笑)、合理的なこう、なんていうか頭が働いてしまったんだろうね。でも、そうじゃないんだと。そうじゃなくて、なんていうかな、布施そのものが純粋な喜びっていうかな。
 これの逆に、いい例として挙げられるのが、これも、ここで前に話したことがあると思うけど、これは原始仏典にある話なんだけど、原始仏典の中で――まあちょっと簡単に、端折って言いますけどね。これまあ何回か話したね。昔、お釈迦様の前の仏陀――つまりお釈迦様が地上に現われる前にカッサパっていう仏陀がこの地上に現われたんだけど、そのときお釈迦様はカッサパの弟子で――なんだっけな、名前?――ジョーティパーラか。ジョーティパーラっていう名前のカッサパの弟子だったんだね。まあそういう時代があったんだけど。そのころにカッサパの在家の第一の信者がいたんだね。この在家の第一の信者っていうのは、ガティーカーラっていう名前の信者だったんだけど。
 このガティーカーラとカッサパのエピソードとして、まあガティーカーラっていうのは、本当はね、もう偉大な魂だったんだけど、でも出家はしなかった。なんで出家しなかったかっていうと、盲目の両親を養っていたんだね。つまり目の見えない両親を自分で養っていたから、まあ自分が出家してしまうとその盲目の両親が生きていけなくなるっていうんで、まあ出家はしなかった。で、在家で、カッサパの、仏陀カッサパの第一の信者として頑張ってたわけだけど。
 で、いかにカッサパがガティーカーラを信頼してたかっていうエピソードがいろいろあるんだね。それは例えば、カッサパが食事時間になって、「さあ、そろそろ食事をしたい」と。で、弟子たちに言うわけですね、「ガティーカーラのところに行って、食事を持ってこい」と。で、弟子たちは「分かりました」って言って、ガティーカーラの家に行くんだね。そうすると、ガティーカーラは留守であった。留守で、盲目のお父さんお母さんだけがポツンとこう座っているだけだった。そしたらそのカッサパの弟子たちが何も言わずに、窯からご飯を取り(笑)、鍋からスープを取り、持って行こうとしたんだね。そうするとその音を聞いて、盲目のお父さんお母さんは「誰ですか?」と。「誰かなんか勝手にご飯とスープを持って行こうとしているみたいですけど、あなたたちは誰ですか? 何やってるんですか?」って言ったら、「いやあ、実は、仏陀カッサパがね、食事時間なので、食事を欲しがっているので、ここから持っていくんです」って言ったら、その盲目のお父さんお母さんは、「ああ! どうぞどうぞ」と(笑)。「ありがとうございます、どうぞ持っていってください」と。ね。で、ガティーカーラが仕事から帰ってきたら、ご飯とスープがないと。ね(笑)。「一体何があったんだ?」と。で、お父さんお母さんに聞いたら、「カッサパ様の弟子がやってきて、持っていったんだよ」と。それを聞いてガティーカーラは、「わたしはなんと信頼されているんだ!」と。ね(笑)。それと、自分が――つまり自分がなんの行動もしていないのに、布施をさせていただいた。しかも、それはあっちから布施を受け取りにやってきてくださったということに、大いなる歓喜が生じ――お父さんお母さんは数週間、ガティーカーラは数か月間、歓喜が消えなかったっていうんだね(笑)。その、「ああ! ご飯を持って行ってくださった!」「しかも無断で持って行ってくれた」と。「こんな幸せなことがあるだろうか!」っていう歓喜が、数か月続いたっていうんだね(笑)。で、お父さんお母さんでさえも数週間続いたんだね(笑)。この純粋な気持ちっていうかな。
 で、別のときには今度は、まあインドって雨期があるわけだけど。雨期っていうのは出家修行者も――出家修行者っていうのは普段は森とか放浪するんだけど、雨期だけは、まあある家っていうか寺みたいな所に住むんだね。で、あの、カッサパ、仏陀カッサパが住んでいたその住まいが、雨漏りし出した。そしたらカッサパが、あの、弟子達にまた命令するんだね。「おまえたち、ガティーカーラー家に行って、屋根をはぎ取ってこい」と。ね(笑)。で、弟子たちは「分かりました」って言って(笑)、ガティーカーラの家に行って、あの、屋根をミシミシってやり始めるわけだね(笑)。で、またそのときは、ガティーカーラがいなくてお父さんお母さんしかいないだけど、「我が家の屋根を取るのは誰ですか?」(笑)


(一同笑)


 ――聞くんだね。そしたらそのカッサパの弟子たちが、「いやあ、カッサパ様の家が雨漏りしているんで、屋根を持って行きます」と(笑)。で、またお父さんお母さんは歓喜になるんだね。で、ガティーカーラが帰ってきたら、屋根がないと(笑)。「一体どうしたんですか?」と。そしたらまたお父さんお母さんが言うには、「いやあ、カッサパ様の弟子たちがね、カッサパ様の家が雨漏りしているんで、屋根を持って行ったんだよ」と。そこでまた同じように、「なんとわたしは幸せなんだ」と(笑)。「なんとわたしは信頼されているんだ」と。ね。「わたしが何もしないでも、このように布施ができる。それをさせてもらえるっていうのは、なんと素晴らしいんだ!」と言って、また数か月間歓喜が消えなかったと(笑)。しかも、雨期なんだけど、ガティーカーラーの家はね、全く雨がさし込まなかったって言われている。まあこれは仏典で、原始仏典で有名な、布施の話なんだけど。まあこういう気持ちが、本来的な布施の本質なんだね。
 つまり、なんていうかな、まあここではもちろんカッサパの役に立ってるんだけど、役に立とうが立たまいが関係ないっていうか、布施させていただく――その気持ちっていうかな。自分の、なんていうかな、まあ本当にくだらない――はっきり言ってくだらないもんです。くだらないっていうのは、例えばお金にしろ、あるいは例えば食べ物にしろ、あるいは自分の体を布施するにしてもね、わたしのカルマによって今生じている、もしそれを布施以外に使ったならば全くくだらないものにしか使えないようなものを、布施という清らかなものに使わせていただける喜びっていうかな。それがもう理屈ない喜びとしてあるんだね。これはバクティヨーガの、神への帰依が理屈ないっていうのと同じようにね。だから本質的には布施というのは全く理屈がないと。
 で、まあもうちょっとレベルを落としてっていうか浅い意味で言うならば、それは、なんていうかな、現実的な目的のためではなくて、功徳のためであると。まあこれは、それぞれの理解においてどっちの理解でもいいわけだけど。
 その観点から言うならば、マルパとナーローのこの場面のね、物語っていうのはすごく、いい、まあ例えば話になるんだね。つまり布施させていただくこと自体が喜びなんであって。そのあとそのお金を、例えばどこかに捨てられようと、全くそれは関係がないっていうかな。
 例えばさ、もうちょっと現実的な話で言うと、例えば皆さんがね、例えばわたしだったらわたしに、なんかすごく、こう清らかな信を生じて、わたしに「どうかお布施を受け取ってください」ってお布施をしたとするよ。で、それをわたしが受け取ってですよ――そのお金で明日、キャバクラに行ったとするよ。 


(一同笑)


 例えばの話だけどね(笑)。そしたら、「先生、何やっているんですか?」と。「あの布施でそんなキャバクラなんか行ってるんですか?」――そんなこと思ってもいけないっていうことだね(笑)。つまり、なんていうかな、このお布施でどうしてほしいっていうのは全く関係がないっていうか。それはもう、ガティーカーラが受け取ってもらっただけで何か月も喜びが続いたようなものでなければいけないと。
はい。これはあの、何度かね、この話はしてましたけども。

 ここまでで何か質問その他ありますか? 特にないかな? 

 まあ今布施の話が出たので――わたしは本当にね、布施はとても勧めます。もう徹底的に布施してください。もちろんこのカイラスとかわたしに布施してもいいけども、もしわたしとかカイラスに布施するのが嫌だったら(笑)、もちろん他の所でもかまわないよ。例えばチベットの組織でもいいし、ヒンドゥー教系のね、聖者でもかまわない。とにかくまあ、自分の好きなところでかまわないので、布施は本当にやった方がいいです。これはわたしがいろんな人を見てきた経験でもあるし、わたし自身の経験でもあるけども、布施をしっかりしている人っていうのは、確実に修行が進みます。それから、修行からドロップアウトしません。布施をしっかりしている人はね。
 もちろん布施は、なんていうかな、それぞれの条件があるだろうから、例えばお金があまりない人は、まあもちろんその自分の条件内で、できるだけの布施をすればいい。その布施の気持ちが大事ですね。自分のできる限界内での布施を、心を込めてし続けると。これは本当に大切です。これはなんていうか、理屈を超えている(笑)――超えているっていうか、もうなんていうかな、あの、「大切だ」としかもう言いようがないんだけども。
 もちろん、戒律を守ったりとか、教えを学んだりとか、そういうのはまあ全部必要なんだけども、布施の功徳ね、これは戒律とか教学とかに比べると、ちょっとこう、論理的に説明が非常に難しいんだけど。でも、すごく重要です。ですから、まあなんていうかな……限界までっていうとあれだけども(笑)、自分のできる範囲で――まあそうですね、自分が今思っている――今、皆さんそれぞれ、お布施とかっていうのは大事だっていう気持ちあるでしょう。その気持ちを、もうちょっと上げてください。今思っているよりももうちょっと、大事だって強く思ってください。で、なんていうかな、力を込めてね、布施行にも、修行のね、ポイントを置いてったらいいと思いますね。 
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第13回(14)

2019-12-07 17:09:15 | 勉強会より抜粋


◎慈悲による怒りについて


 はい、ほか何かありますか? 

(N)いつもお世話になります。慈悲っていうところで今日はちょっと、慈悲っていうか四無量心って出たんですけども、まあよくいる仏教を会っている人のタイプで、「慈愛っていうのは人に対する厳しさだ」と言って、「慈悲の悲は人に対する優しさだ」っていう人達がいて、まあそれはそれでいいと思うんですけど、よくなんかふと思うと見かけるのは、頭ごなしに人を怒りながら教えていこうという、そういうパターンの人をよく見かけるんですけど、これってなんか言っていることは正しいんだけども、自分で見ててちょっとおかしいなって気付き始めてっていうか、そういう人が結構多いなっていうのを見たときに、「これってでも悪業にならないのかな?」っていうのがちょっとした素朴な疑問というか。自分が怒りを持って人を教えるというのは、ケースバイケースとしてあると思うんですけども、「どうなのかな?」っていう……。



 あの、まず今なんか仰った、「慈愛は厳しさで、慈悲が優しさ」っていうのは、それは誰が言ってるのか知らないけど(笑)、正統的な教えの逆です、それは。逆に、もしそういうふうに定義づけるんだったら、慈愛は「優しさ」だね。で、慈悲が「厳しさ」です。なぜかと言うと、さっきから言っているように――慈愛っていうのはベーシックな話だから。みんなに対する愛の気持ちなわけですね。で、慈悲は実際に救わなきゃいけないから。だから厳しい方法もとらなきゃいけないときがあると。
 で、ここからその質問の主旨に入るわけだけど、確かに、まあ怒りというよりは厳しいスタイルをとらなきゃいけないときもある。とった方がいい場合もある。でもこれはね、前に、ずーっと前に何かの勉強会でもあったけどさ、例えば子供を怒るときとかの話も同じでね。まあちょっと同じことを言うけど、子供を怒るときにね、よくあるパターンとしてはさ、「おまえ! こいつ!」――バーッて言ったあとに、「おまえのこと思って言ったんだよ」とか言うけど(笑)、子供は分かっているよね。「今怒ってたでしょ、本当に」と(笑)。ただカッときてただけでしょうと。つまりそれじゃ駄目なんです。
 つまり、逆に言うとこの慈悲っていうのは大変なんです。大変っていうのはどういうことかっていうと、まず慈愛の場面で、本当にみんなが愛しくてたまらない。でも、愛しくてたまらないこの子を――この子っていうかこの相手を成長させるためには、相手に嫌われることも前提の上で厳しい態度をとらなきゃいけないときがあると。本当はとりたくない。本当はとりたくないけども、頑張って自分を鼓舞してとるんだね。だからここには一切怒りなんてないでしょ。怒りのフォームはあるけどね。頑張って頑張って頑張って、ちょっと大魔神みたいにこう「ウウウ」ってこうフォームを作って、「おまえ!」ってやるんだね。ここには何の怒りもない。だから逆に言うと、ちょっと演技しているっていうか。で、そうだったらいいんですけども。そうじゃなくて、感情が入っている場合、当然これは大きな悪業になるね。で、相手のためにもなりません。
 じゃあ、どれだけ感情が入ってたら駄目なのか。目安としては百ゼロです。だからこれは一つのアドバイスとして言うけどね。例えば皆さんが、子供がいる人は子供を叱るときも、あるいは周りに対する愛の鞭みたいなことをやろうってときも、もし一パーセントでもエゴからくる感情、怒りや嫌悪が入っていたら、やらない方がいいです。それはただの言い訳になってしまう。だってそれは一パーセントと言いつつ実は五十パーセントぐらいのときが多いからね。だからちょっとでも入っていると思ったら、それはエゴの欺瞞だと。わたしはただのエゴの言い訳のために相手を怒ろうとしているだけだと。そんな資格はわたしにはないんだと。そのような気持ちにグッと戻ったらいい。
 だから、この怒りで相手を救う、もしくはちょっと厳しいやり方で相手を救うっていうのは高度な方法になるんですけども、それができる人っていうのは、自分の感情を克服した人だって思ってください。感情が克服されてないのにやった場合は、当然それは大悪業になる。
 じゃあ、「感情を克服した段階でやったら悪業にならないのか?」――あの、簡単に言いますけど、なります。でも菩薩は、それでいいって考えるんです。これがさっき言ったマンジュシュリーの話にも関わるけども。
 だからちょっと話をまとめるとね、まずわたしは相手に対して怒りが全くないと。しかしここで相手に、怒りのフォームをとった方が相手が進むと。この場合はとるしかないと。で、そこで出てくる表面的なデメリットは、相手に嫌われるかもしれない。それからわたしは――少なくとも例えばですよ、厳しいことを言ったことによって、自分は口のカルマを積まなきゃ――実際これはあるからね。実際に、例えば相手への愛があったとしても喉は詰まります。厳しいことを言ったらね。
 あるいは例えば、そうだな――ちょっと話がずれるけどさ、相手を引き上げるために嘘を言うことがあるかもしれない。この場合も喉が詰まります。
 あるいは、まあ、こういう場合はあるかどうか分かんないけど、ミラレーパとマルパみたいにね、相手に対して実際に殴ったりとか――相手の修行を進めるためにね――殴ったりとか、あるいは相手の身体にダメージを負わせる場合がある。これも当然やった方はカルマを背負います。で、それでオッケーって考えてるんだね、菩薩っていうのは。で、これも、もう一回言うけども、言い訳になっちゃいけない。自分に本当は何か暴力のカルマがあって、相手を殴りたくて殴っちゃった、これはもちろん駄目だよね。ただの大悪業。相手もこっちも、ただ悪業と苦しみだけで終わってしまう。じゃなくて本当に智慧があって、智慧によって見て、相手に今厳しい態度をとった方がいいと考えると。本当は自分はそれは嫌だと。嫌っていうか心は向かっていないんだけど、でも智慧によってそのようなモードを取ると。で、それによって相手は進むけども、自分はカルマを背負うと。これは全くかまいませんと。わたしの思想として、理想としてはオッケーですと。ここまでいってるんだったらかまわない。
 だからちょっとね、話をまとめるけども、一般的にいう愛の鞭、あるいは相手の成長のために厳しくする、っていうのは正しいんだけど、正しいんだけど、ここまでの極めたことを考えているんだったらいいってことだね。でもそうじゃない場合がほとんどだと思う。まあただ、それは人のことは分かんないからね。人のことは別に批判しなくてもいいんですけども、自分に関してはそのような感じでいたらいいと思う。
 だからそうなると多分、ほとんどの場合は怒れなくなると思うよね。ほとんどの場合はたぶんエゴが混じったカッとくる怒りの場合が多いだろうから。
 で、もう一回言うけどね、智慧によって状況を見なくちゃいけないんだけど、この智慧もまずわれわれ、ないよね。だから話が戻るけども、修行を進めなくちゃいけない。でも修行を進めていって、自分の感情もコントロールできるようになってくると、まあ変な話、そのある段階においては、そういうときは確かに来ます。そういうときっていうのは、今言ったちょっとミニマムな意味でね――まあマルパみたいにとかまでいかなくても、ミニマムな意味で、「ああ、ここはわたしは今、全然感情がないけども、ちょっとこの人、厳しく言ってあげた方がいいな」ってときは当然あるわけだね。本当は言いたくないと。言いたくないけど言わなきゃいけないな。――こういうのは、ミニマムな意味では皆さんもあるかもしれない。これは全く問題ない。これは涙を飲んで厳しくしてあげてください。そこで生じる自分の悪業っていうのは考えなくてかまわない。考えなくてかまわないっていうのは、カルマにはなるけども、それは菩薩としては喜びであるっていうかな。
 『入菩提行論』にあるように、「菩薩は衆生のために働いて、喜びを持って紅蓮華地獄に沈む」って書いてあるね。これ変な話で、つまり普通でいったら、仏教、修行って幸せになるためにやっているんじゃないんですか?――でもシャーンティデーヴァが言っているのは、なんか帰結するところがさ、「これとこれこれ、これやって――喜びを持って紅蓮華地獄に沈む」とか言ってる(笑)。「紅蓮華」ってかっこいいこと言ったって地獄ですよ(笑)。つまり紅蓮華っていうのは赤い蓮華のように血が滴り舞い落ちる地獄っていうことだからね。そこに喜びを持って沈むと。つまり何を言っている分かります?――つまりすべては心です。みんなの修行が進むんだったらわたしは地獄に落ちてもいい、ぐらいの気持ちができた人にとっては、地獄さえも天に変わるんだね。その境地を目指しているから。だからそれを考えたら、ちょっと話を戻すけど、全部その理想どおり自分にエゴが入ってないと思えるんだったら、それでかまわない。でもなかなかそうじゃない場合が多いと思うんで、自分のことに関してはかなり念正智してやったらいいと思うね、厳しくしようと思うときはね。いいですか?


(N)ありがとございました。
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