ヨーガスクール・カイラス blog

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パトゥル・リンポチェの生涯と教え(117)

2019-11-30 21:20:19 | 聖者の生涯


◎ドゥドゥプチェン三世の二度目の訪問


 ドゥドゥプチェンが教えを受けに二度目にパトゥルを訪問した際、その若きトゥルクは新しい個人教師アク・ロドゥに付き添われていた。アク・ロドゥは優しく、礼儀正しい、灰色の髪をした僧であった。パトゥルは個人教師が変わったことをとても喜び、ドゥドゥプチェンにこう言った。

「よし、彼は”偉いラマ”にとってぴったりの個人教師のようだ!」

 教えが説かれ終わると、パトゥル・リンポチェへの供養として、若きドゥドゥプチェンは、生涯で百回、入菩提行論の教えを説くことを約束した。パトゥルはその供養に喜び、ドゥドゥプチェンは実際にその約束を果たしたのだった。
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一味

2019-11-30 19:36:43 | 経典の言葉・聖者の言葉



 現象を良し悪しに分けることなく、ダルマターたる本来の境地にとどまること、それが「一味」の意味である。なんであれ、概念化しない。そうすれば、すべての現象は明智と分けることのできないその表現としてあらわれてくる。それによって、迷妄の煩悩は浄化され、無分別の智慧となる。かくして、明智の境地にとどまり続ける。
 明智の境地に、迷妄の煩悩が生じてきても、それを分別することなく、あるがままに放置する。そうして無分別にとどまり続ければ、一切の現象は、存在の本質(ダルマター)である真如としてあらわれてくる。原初の智慧は、空であると同時に自然状態で完成しているエネルギーでもあるから、ダルマターたる真如として顕現するということができる。



 ――ナムカイ・ノルブ
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パトゥル・リンポチェの生涯と教え(116)

2019-11-30 18:09:10 | 聖者の生涯

◎ドゥドゥプチェン三世の初転法輪


 八歳のジグメ・テンパイ・ニマがパトゥルから教えを受けるためにダチュカにやって来ると、パトゥルは非常に優しく、その小さいドゥドゥプチェンの面倒をみた。毎日、教えを説くときには、パトゥルはドゥドゥプチェンを自分の枕の上に座らせた。その枕はパトゥルが寝るときによく使っていたものだった。つまりそれは、並外れた敬意を表わす行為だったのである。
 ドゥドゥプチェンはパトゥルが暮らしている部屋に住んでいて、二人の間には一つのついたてのようなものしかなかった。毎日、この小さなトゥルクは、パトゥルが日々の日課として唱える、ロンチェン・ニンティクの修行の一つ、「グル・リンポチェへの祈り」を低い声で唱えているのを聞いた。

 おお、尊敬すべき主、尊師よ!
 あなたは、すべてのブッダ方の慈悲と祝福の輝かしき権化。
 あなたは一切衆生の唯一の守護者。 
 わたしの身体、ハート、心、所有物のすべてを
 躊躇うことなく、あなたに捧げます。
 今から、悟りを得るまで
 私が幸福であっても苦しくても、善い状態でも悪い状態でも、高くても低くても
 おお、パドマサンバヴァ大師よ、どうか私を見守っていてください。


 ある早朝、パトゥルは若きドゥドゥプチェンの泣き声を聞いた。のちにパトゥルは、ドゥドゥプチェンが朝の修行中に眠ってしまい、彼の個人教師にピシャリと打たれたということを知った。パトゥルはそのドゥドゥプチェンの個人教師のことをよく思っておらず、彼のやり方は、素晴らしい魂である若きドゥドゥプチェンに対して手荒すぎると思っていた。
 パトゥルはその個人教師がドゥドゥプチェンに対してしたことに立腹して、ドゥドゥプチェンにこう言った。

「もし死んでも、サンドパリ(パドマサンバヴァの浄土)には行くな! もしそうしたら、グル・リンポチェがおまえをここへ送り返すぞ! 彼はいつもチベット人のことを心配してくださっているからな。おまえはアミターバの浄土スカーヴァティーへ行くのだ! そしてこの邪悪な者たちのところへは戻ってくるな!」


 ドゥドゥプチェンに入菩提行論の教えを与え終えると、パトゥルは使いの者を送って、ザチュカの谷中に、八歳の少年が大衆に入菩提行論の教えを説くということを告知した。
 ダギャル僧院の大勢の僧や在家信者たちが集まってくる前に、パトゥルは自ら、儀式の曼陀羅を捧げて、その少年に教えを説いてくれるよう懇願した。
 ドゥドゥプチェンが解説を始めると、皆は彼の智慧とその満ち溢れた自信に驚かされた。最初、ドゥドゥプチェンのささやかな声は、遠くに座っている聴衆に届かなかったのだが、徐々に彼の声は大きさを増していき、全員が彼の声を聞き取れるようになった。
 パトゥルはキェンツェー・ワンポに、喜びと共に伝言を送った。

「わたしは、ダルマの太陽が沈もうとしていると思っていたが、聖典の智慧のダルマに関しては、ドゥドゥプチェンの八歳のトゥルクが、入菩提行論の第四章の解説の教えを説いたから大丈夫だ!
 悟りのダルマに関しては、ニャラ・ペマ・ドゥンドゥが最近、虹の身体を得たようだ! ブッダの教えの光は、まだ消えていなかった!」
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許すな

2019-11-30 09:21:40 | 経典の言葉・聖者の言葉




 このわたしという存在はそれが何であろうと結局ただ肉体と少しばかりの息と内なる理性よりなるにすぎない。
 書物はあきらめよ。これにふけるな。君には許されないことなのだ。
 そしてすでに死につつある人間として肉をさげすめ。それは凝血と、小さな骨と、神経や静脈や動脈を織りなしたものにすぎないのだ。
 また息というものもどんなものであるか見るがよい。それは風だ。しかも常に同じものではなく、時々刻々吐き出され、また呑み下される。
 第三に理性だが、次のように考えるがよい。お前は老人だ。これ以上理性を奴隷の状態に置くな。利己的な衝動に操られるがままにしておくな。また現在与えられているものに対して不満を持ち、未来に来るべきものに対して不安を抱くことを許すな。


(「自省録」)
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「五つの障害と、五つの優れた法則」

2019-11-30 08:31:19 | 解説・スフリッレーカ



◎五つの障害と、五つの優れた法則

【本文】
 興奮と悔恨、悪意、無気力と惰眠、愛欲、疑念、これら五つの障害は、善の財を奪う盗賊であると知るべきです。

 信、精進、正念、サマーディ、智慧、これらは五つの優れた法則であって、そのために努力をすべきです。これらは最高の力といわれ、また最上のものでもあります。




 これは、最初に出てきたのは「五蓋」といわれていて、五つの障害といわれるものですね。われわれの修行や瞑想の障害となる五つのもの。
 後で出てきたのは「五根」または「五力」。五つの力といわれて、逆にわれわれの修行を進めるもの。
 これはよく対比されるんだね。この五蓋――五つの障害を捨てて、五つの力を得なきゃいけないと。




◎興奮

 まず五つの障害からいくと、「興奮と悔恨」。この話は前から何度も話しているので簡単にいきますが、興奮と悔恨っていうのは、まず興奮というのは未来に対する期待や恐怖だね。例えば瞑想しててね、「さあ、この瞑想が終わったらお茶でも飲みに行くかな」と。最初はちょっとしたそういう思いだったかもしれない。「ああ、お茶でも飲みに行くかな」と。「この間行ったあのお店はちょっとコーヒーがイマイチだったな。そういえばあの街にああいうのができたな」と。一応瞑想の課題はあるんだけど、瞑想やりながら、最初はポツポツとした雑念だったのがだんだんそっちに取り込まれていって、「この間行った店は本当にひどかった。次あの店はどうだろう。次もひどかったらちょっと引っ越さなきゃいけないな」とか、そこまでは考えないかもしれないけど(笑)、とにかくボワーッと盛り上がるわけです。盛り上がって、盛り上がって、「はい。瞑想時間終わりました……K君、今日はいい瞑想できましたか?」「いや、ほとんどコーヒーのこと考えてました」(笑)――これが興奮状態。
 これは一つの例だけど、もちろんいろんなパターンがあるよ。例えば悪いパターンもある。今のは執着だけど、逆に、「ああ、そういえば、昨日会社でこういう失敗してしまったな。この瞑想終わったら会社行かなきゃいけないけど、一体みんなどう言うかな。本当にもう怖いな」と。これは逆に恐怖のパターンだね。つまり今のこの瞬間の瞑想に集中しなきゃいけないのに、そうじゃなくて未来のいろんなことに対して心がざわつく。
 あるいは未来とは関係ない場合もある。未来とは関係ない場合っていうのは、情報を入れすぎたとき、あるいは心が整理されていないときに起こる。例えば、別にこれから起きることじゃないんだけど、いきなり――これはわたしも前よくあったけども――最近観たテレビとか、漫画とか、インターネットとかの情報。あるいは昔観たものかもしれないけど、そういうものがバーッと出てくる、瞑想してると。ここでいう興奮というのはいわゆる興奮じゃなくて、バーッてざわつくってことだね。心の中でいろんなものがあって瞑想に集中できない。これも興奮といいます。
 それが形があるときと形がないときがある。形あるときっていうのは、もうまさにそれが出てくる。例えば漫画見すぎてドラゴンボールがバーッて出てきたりとか、あるいはテレビ見すぎてそのキャスターの顔が出てきたりとか、あるいはいろんな執着が多すぎてその執着のイメージがいっぱい出てきたりとか、こういう場合。
 それからそういうのが無い場合がある。それはつまり、何か落ち着かないと。何かイライラすると。だからといって何かイメージが出るわけじゃないんだけど、心が整理されてないがゆえにそういう心がざわついた状態になる。これは駄目だということですね。


◎悔恨

 はい、次に「悔恨」ね。悔恨とありますが、これは過去に対していろいろぐじぐじと考え続ける。「ああ、あれは本当に駄目だったな。失敗したな」と。あるいは「あれは本当に苦しかった」とか、あるいは「あの人にあんなふうに言われて本当に嫌だった」とか。もちろんそれがどんどん進むと、恨みになったりとかあるいは自己否定になったりとかいろいろ進んでいくわけだけど、その過去に対する無駄な心のとらわれね。
 もちろん懺悔は必要だよ。懺悔は必要だけど、懺悔っていうのは悔恨とか後悔とは違うんだね。懺悔っていうのは冷静な自己反省なんだね。冷静に過去を振り返って、「本当にこれは悪かった」と。「よって仏陀や神に懺悔いたします」と。そこで告白をして、後はもう心はスッキリしてるはずなんです。そうじゃなくていつまでもグダグダととらわれる。これは駄目だと。
 この二つね。つまり未来に対する興奮。それから過去に対する悔恨ね。これが一つ目の障害。


◎悪意、無気力、惰眠、愛欲

 次に「悪意」。悪意っていうのは、怒りとか憎しみとかあるいは嫌悪とか全部ひっくるめてのことだね。もちろんこういう気持ちが心の中にあると瞑想できませんよと。修行できませんよと。
 三番目、「無気力と惰眠」。これはそのままですね。無気力になってしまう。惰眠を貪る状態。これは修行進みませんよと。
 そして「愛欲」。愛欲っていうのは性欲だけじゃなくて食欲とかいろんなのも含めた欲望ですね。これに心が覆われてると修行進みませんよと。


◎疑念

 で、「疑念」。疑念というのは真理とか修行とかに対する疑念。あるいは別パターンとしては、「自分がこの修行やっても意味があるんだろうか」とか、「この修行は素晴らしいけど、自分は素質がないから自分は達成できるんだろうか? できないんじゃないか?」とかこういう疑念ね。だからもうやるからには徹底的に信じなきゃいけない。でもそこで疑念がわくと。
 いつも言うけど、例えばやらないんだったらいいんだよ。例えば修行合宿に来ましたと。修行合宿で三時間瞑想ですと。どうせ三時間やるんだったら徹底的に信じた方がいい。「この教えは素晴らしいし、この瞑想も素晴らしい」と。「そしてわたしも絶対これを達成できるんだ!」って思って三時間やらないともったいない。じゃなくて、三時間座ってるのに、「こんなの意味あるの? 何でこんなことやんなきゃいけないんだろう?」あるいは、「みんなはいいかもしれないけど、わたしは素質がないから絶対駄目だよ」と。これで三時間やってたらもったいない、非常に。だからやると決めたんだったら徹底的に信じる。信じて一切疑いを入れないということですね。
 で、この五つがわれわれの修行や瞑想を邪魔する五つの障害だといわれています。だからこの五つを取り除いていかなきゃいけない。


◎五つの機根と力

 で、逆にわれわれの修行を進める五つ。これが「信、精進、正念、サマーディ、智慧」――これもいつも言っていますね。『ヨーガ・スートラ』でもこの教えが出てくるけど、つまりしっかりと修行やあるいは仏陀や師匠や、あるいは自分がその道を歩んでいけるんだっていうことに対して信を持つ。
 そして実際に精進する。
 そして正念――常に正しい思い、正しい心の働きを失わないようにする。
 そしてしっかりと正しいサマーディに入って、実際に高い智慧を得ると。
 これが五根五力。五つの機根と力といといわれているものですね。
 だから五つのこの障害を捨て、この五つの機根と力を得るように努力してくださいということですね。
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