ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

「解説『ただ今日なすべきことを』」第一回(4)

2018-04-24 17:51:15 | 勉強会より抜粋


【本文】

流水


 人間の執着というのは、苦しみを増し、人生を誤らせますね。

 ここでいう執着っていうのは、性欲がどうとか食欲がどうとかいうことではなくて、あらゆる流れ行くカルマの動きに対する執着とでもいえばいいだろうか。

 たとえば昨日、あるネガティブな意識状態になった人がいたとします。でもそれは、昨日のことなんだね。昨日のことなのに、その自分の過去の瞬間的な意識状態に執着して、苦しみを引きずり続けてるのは、その人自身なんだね。


 原子運動がそうであるように、カルマの流れも、人間の意識も、瞬間瞬間、移り変わっているんだ。だから心は一時も、執着しちゃいけないんだね。瞬間瞬間、新鮮な気持ちで、ありのままにすべてを見つめなきゃいけない。

 そうしたらね、人を憎むなんてことはなくなるよ。瞬間瞬間ね、新たな気持ちでね、人との出会いを喜べるようになる。

 欲求不満とかもなくなるだろうね。あるときにわいた欲求に対するとらわれを持ち続けてしまうから、動き行く現象とのギャップで欲求不満に陥るんだから。

 瞬間瞬間、すべてが生まれ変わり、すべてが新しい! この自然の真理は、すばらしいと思わないか? 仏教でいう無常っていうのは、ネガティブな意味で表現されがちだけど、見方を変えれば、非常にすばらしいんだよね。

 無常そのものが苦しみじゃないんだ。無常はこの世の真理だからね。無常なのに、その過ぎ行くカルマにとらわれるから、執着するから、苦しいんだ。

 また、瞬間瞬間冷静に見れば正しい判断ができる人も、執着によってものを見誤る。恋愛なんかで多いパターンだけどね。ギャンブルにはまるパターンとかも同じだね。


 流れる水は清らかだけど、執着によって流れを止めたとき、無理が起こるんだね。圧迫と錯覚と苦しみが起きるんだ。




 はい、まあこれもちょっと高度なこと言ってますけどね。つまり、すべては無常であると。でもこの無常っていうのは悪い意味じゃなくて、あの、さっきも言ったように、すべての現象っていうのはカルマによって移り変わってると。で、これは、ここに書いてあるように、実は清らかなんです。
 清らかっていうのは、なんていうかな、前にもちょっとそういう例えしたけども、わたしがちょっとあるとき、まあ気付いたっていうか、思いついた例えがね、電車がこう、ウーッて動いてますと。目の前を電車が通ってて、で、われわれはただ目の前だけにこうカメラみたいにこう焦点を合わしてれば、ただ、なんていうかな、こう飛ぶように電車がパーッと目の前を過ぎ去っていく。――でもわれわれは、そのパッと一瞬目に入った、例えば電車の中に座ってる可愛い子とか、あるいは電車の中にある広告とかに目がいって「あっ!」て、目で追っかけるんです。で、ああーって行っちゃうよね。――で、しばらくは見てられるよね。しばらくは見てられる。「あっ、あの子可愛いなあ」とか言いながらウーッと見て、「ああ、行っちゃった」ってなるんだけど、本当はもう瞬間で行っちゃってるんです。本当は。いないんです、すでに(笑)。でも執着によって、まだ自分のものであるっていう錯覚によって、ずっと錯覚し続けてるんだけど、いつかはそれも見えなくなるから、そのときに苦しまなきゃいけない。
 じゃなくて、ただ目の前だけを見てれば、その女の子への執着とか別れの苦しみとか、そんなもの何もなくて、ただきれいな映像が過ぎ去ってるだけなんです。
 で、もっと言えば、電車がありますよね。電車の窓がありますよね。で、ただ目の前だけを見てると、窓を越えたあっち側の景色が見えるんです。これが真理の悟りです。だからこの世は無常なんだけど、とらわれずにいると、その無常の裏側にある真理みたいなものが見えてくる。で、無常自体もいろんなものが現われては消えていく、この、なんていうか、作業というか、これが非常に楽しく美しく感じられるんです。
 でもわれわれはすぐとらわれます。とらわれることによって、ここに書いてあるような、恨みとかね、憎しみとか欲求不満とかいろんなものが生じる。なんでかっていうと、そのもう過ぎ去ってしまったものにとらわれちゃってるから、それと今の現在とのギャップで、つまり妄想と現象とのギャップで苦しむんだね。
 で、お釈迦様が「すべては無常である。無常であるがゆえに苦である」って言ったのは、まあいつも言うようにトリックがあるんだね。無常は苦じゃないんです。無常なものに執着するから苦なんです。つまり無常なのに――まあ今言ったように、移り変わってんのに、その、すでに移り変わってた、つまり一瞬先のものってもう消えてるんだけど、それを消えてないと思って執着してるから、どんどん苦しみが増していくわけだね。だからそうじゃなくて、一切とらわれない。
 簡単に言うと、ちょっとイメージで言うと、心の中に一つ刃物を用意して、何か起きたらすぐパッと断ち切る。はい次、はい次。で、ここに書いてある例のように、昨日ネガティブな思いが生じましたと。でもそれ昨日でしょと(笑)。昨日どころか例えば、例えばT君が誰かにね、例えばT君がなんかちょっときつい言葉をHちゃんに言って、Hちゃんがちょっとカチンときたとするよ。「え!? 何言ってんの?」――まあ、それはカルマによってっていうか、まだ心が未熟だから、何か言われてHちゃんが怒っちゃった。これはしょうがない。次が問題です。瞬時に断ち切るんです。普通は断ち切らない。断ち切らずにうじうじうじうじと、「全くT、くっそー、T!」。で、また過去のことを思い出して、「そういえばあのときもこうだった。このときもこうだった」。で、T君が、「ねえ、ねえ、ねえ、ねえHちゃん」とか来たとしても、プイッてこうなっちゃう(笑)。つまりずっと過去にとらわれてるわけだね。だからもうパッと断ち切る。T君がいかにひどいことを言ったとしても、パッと断ち切って、また非常に新鮮な気持ちでT君を見る。まあこれは執着とかもそうだけどね。なんか自分が愛情が満たされるような言葉を言われたとしても、そのときは嬉しかったとしてもパッと断ち切る。また新たな目でその人を見る。瞬間瞬間ね。
 こういうことを完全にできたら悟りだけど、そこまでいかなくても心がけてみると、非常に面白い。そうするとさ、なんていうか、すべてが新鮮なんです。
 あの、すべてはね、保証されてないんだよ。すべては無常で保証されていない。例えばさ、今こうやってみんな集ってるけど、あの、ちょっと極端に言えばさ、まあ、みんなでそれぞれ会えるのはこれが最後かもしれないんだよ。明日、全員死ぬかもしれない(笑)。それは全く分からない。それどころか、この次の瞬間に皆さんがここに存在してるっていう確証はどこにもない。そういう意味で見ると、すべては瞬間瞬間新しく生まれている。だからその、そうだな、慣れっていうのはなくなるんだね。慣れね。慣れっていうのは錯覚なんです。本当はすべて移り変わってるんだけど、なんとなくわれわれは、ずーっと同じ世界を見ているような感覚があるから、慣れてしまう。慣れることによって、心がちょっとこうどよーんとよどんでくるんだね。
 だから一つのコツとしては、瞬間瞬間、新しく、新しく、新しく。だから例えばさっきU君が遅れてきたけど、そのときに瞬間的な目でU君を見るとしたら、「ああ、U君! 会えて嬉しいよ」と(笑)。「あれ、この間も会ったじゃないですか」じゃなくて、もうその瞬間にすべてを集中するわけだね。もう一瞬一瞬がまた新たなページになってるっていうか。もう前のことは全く関係ないっていう感じなんだね。こういう目で見てれば、何にもとらわれず、何にも苦しむことなく、なんの、なんていうかな、この世に引きずり込まれることもなく、ただ、なんていうかな……まさにリーラーなんだけど。リーラーって、神の遊びのことをリーラーって言うんだけど。まさに神の遊びのように人生が展開していくんです。「ああ、人生っていろんなことがあって面白いなあ」だけなんです(笑)。いや、そうなんです。例えば、会社が倒産して借金地獄になりましたと。それはそれで面白いんです(笑)。


(一同笑)


 「あっ、なんか借金だぞ」と(笑)。で、それをとらわれると、ずっと例えば未来のことを考えたり、過去の栄光を考えたりして「おれはなんてことになってしまったんだ、うじうじうじうじ」とずっと悩まなきゃいけない。そうじゃくて、「あれっ? 借金っていう現象が人生にやってきた」と。「これは面白い」と(笑)。で、そこから、なんていうかな、あの、変な妄想とか過去の思い出や未来への恐怖とか一切持たない。その瞬間――だって借金があろうがなかろうが、例えば今日の夕飯作んなきゃいけない。例えばね。とりあえずそれはもう夕飯作りに集中するわけです。借金があろうがなかろうが、「さあ、この醤油をどれくらい入れようか?」とか、そこに、その面白さに集中する。こういう感じで、なんていうかな、とらわれずに生きていったならば――っていうのはさ、結局そのすべてはカルマだから、カルマによってすべては起きて消えていくのは当たり前なんです。借金を背負うカルマがあったら絶対背負うんです。で、そこから救われてまた金持ちになるカルマがあるとしたら、絶対なるんです。あるいは人に優しくされるカルマがあるとしたらなるし、人から悪口言われるカルマがあるとしたら、絶対なるんです。だからそれをああだこうだ、執着したり嫌がったりしてもしょうがないんだね。そうじゃなくて、それはそれとして、なんていうか、楽しむというかな。そういうその感覚が必要だね。われわれの、なんていうか、実践としては。
 で、それが本当に悟りに近づいてくると、さっき言ったように、そういうわれわれの努力とか関係なく、本当そういうふうに見えるようになってきます。ただ神の遊びのように人生がこう展開していく。だから、なんていうかな、関係ないっていうかな。
 わたしちょっと、正月三日ごろにミクシィの方にも書いたけど、ラーマクリシュナの言葉でとてもわたしが好きなのがあって、あの、「君はなぜね、神に委任状を書かないんだ」と。これはまあラーマクリシュナの独特の言い方なんだけど。つまり、「自分の心配と責任をすべて神にお任せします」と、そのような委任状を書けと。つまりその、神に対して、自分の心配と責任はすべてあなたのものです。つまり何があろうが、どんな苦しみが――ここで重要なのは、苦しみもそうだよ。苦しみも楽しみもすべて神が与え、神が奪うと。
 まあ、もう一つわたしの好きな話で、これは前になんかに書いたけど、あるすごい神の信者がいて。で、ある悪魔がいてね、その悪魔がすごい傲慢で、で、神が、「おう、悪魔。おまえそんなに自信があるんだったら、あの信者のその信仰を崩してこい」と。つまりその信者っていうのは、もうすべては神であって、すべては神に捧げるっていう気持ちがあった。あの信仰を崩してこいと。で、その悪魔は「そんなことはたやすい御用だ」って言って、いろんな苦しみをその信者に与えたんだね。いろんな苦しみを信者に与えて、で、その奥さんと子供を全員殺して、で、その信者自身も病気にして、すごい苦痛の中に放り込んだ。でもその信者はそのときに神にどう祈ったかっていうと、「ああ、神よ」と。「すべてはあなたです」と。「あなたがただお与えになり、あなたがただお奪いになるんです」と。「ありがとうございます」と。そういうのがバクティヨーガの発想なんだね。
 あなたがお与えになり、あなたがお奪いになる。わたしはなんら文句は言いませんと。そういう、なんていうか、誓約っていうか、あの、委任状を書けってラーマクリシュナは言うんだね。「あなたの全権を神に委ねろ」と。
 わたしはね、よくそういう瞑想をやるときがある。その、本当に委任状を書くんです。瞑想の中で紙を用意して(笑)、こう、「神よ」と。「わたしの責任や、」――あの、責任っていうのは、無責任になるって意味じゃないよ。分かると思うけど。「心配やそういったものをすべてあなたにお任せします」と。「あなたへ、わたしの人生すべてを委ねます」って言って、下の方に自分の名前を書いて署名をするんだね。で、こう拇印を押したりする。で、ハイッて紙を渡す瞑想をする(笑)。
 わたしがね、もっと前にした瞑想は、これはちょっとかっこいい話だけど(笑)、こういう瞑想もしたことがある。これはちょっとわたし独特の瞑想なんで、真似する必要はないけど、真似したい人はしてもいいけど。わたしが昔やったまた別のやつは、またこう紙を用意してね、心の中で――まあこれはまさにトンレンなんだけど、「わたしは、今までわたしが積んだ功徳、それからこれから積むであろう功徳の見返りは一切他者のもとに、果報として返すことを契約します」と。で、「他者が作ったすべての苦しみは、わたしの方に頂くことを契約致します」と書いて署名して印を押す。そういう瞑想(笑)。つまりなんとなく、「ああ、すべての魂の苦しみよ来い」とかやってるんじゃなくて、もう契約しちゃうんだね。もう決心をしてしまうというか。そういう瞑想を昔やってたことがある。瞑想っていうかそういうのを思いついて、こう、やったことがある。
 で、もちろんそれも素晴らしいんだけど、今はその神に委ねるっていうのを、まあどっちかっていうとやってるね。で、それもだから一つの考え方です。
 で、そういう感じができたならば、さっき言ったようにすべてはリーラーなんで。だって神に委ねてんだから。すべては神がおやりになってる。「神がわたしを借金地獄に追い込んだ。楽しいなあ」と(笑)。「さあ次は、神はわたしをどうしてくれるんだろうか?」と。「より苦しめるのかな? それとも今度はいきなり幸せにしてくださるのかな? 楽しみだなあ」。こんな感じだね(笑)。もちろんその中で正しい生き方をしなきゃいけないよ。委ねたって言って怠けたりとか、その、悪業を積んじゃいけないんだけど、その、正しい生き方をしつつ、目の前に起こる現象には一切無頓着になる。一切とらわれないと。こういう生き方がまあ最高だね。まあこれはこの「流水」っていう文で書かれてることですね。
 なかなか今日は高度な話ですね。
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聖者の生涯「ナーロー」第二回(2)

2018-04-24 17:17:52 | 勉強会より抜粋


◎十二の小さな試練

 はい、そしてちょっと物語の全体像をいうと、この後にナーローの十二の小さな試練、そして十二の大きな試練というのが始まるんだね。で、この十二の小さな試練というのが、今回もやるところなんですが、これはティローパを見つけるまでの試練です。で、そのあとティローパに弟子入りしてから、今度は十二の大きな試練というのが始まる。
 で、この十二の小さな試練っていうのは、この間ちょっと最初のところだけやったんですが、これもね、最初にちょっと全体像を言ってしまうと、ナーローが師匠のティローを探して旅をするわけだけど、その旅の途中で、いろんな出来事が起きるわけですね。で、出来事が起きて、で、ナーローはそこで選択を誤るんですね。選択を誤って、そこで、実はそこに関わっていたのは、その出来事を現わしていたのは師匠・ティローであったということに気づくんだね。気づいたときにはもう遅くて、ナーローは――いつもこれはパターンがあるんですけどね、気絶して倒れてしまう。で、目覚めるともうティローはいないと。で、その度ごとにナーローは、決心するわけです。決心というのは、「ああ、これがグルだとは思わなかった」と。「次からは、どんなことがあっても、それをグルだと見て教えを乞うぞ」と決心するんだね。でもその度ごとに失敗するんです。
 ちょっと今日のこの細かい話に入る前に、この全体像の部分をもう一度説明するとね、ここでナーローがいろんな場面、出来事に遭うわけです。その出来事っていうのは、何重もの意味を含んでいると考えたらいいです。何重もの意味っていうのは、簡単に言うと、一つはナーロー自身の心のけがれの投影です。つまり、まだナーローっていうのは、インド一の学者であったとはいえ、まだけがれが残っていた。そのけがれの投影として、つまり自分の心の現われとして、いろんな現象がわき起こるわけですね。
 で、もう一つの意味は、それと同時にそのいろんな出来事の一つ一つが、グル、ティローね、ナーローの師匠であるティローの起こした幻であったと。で、それが一つ一つの出来事の中で、いろんな意味があるわけだけど。
 で、この部分をわれわれがどう受け止めたらいいのかっていうことを、一つだけちょっと最初に言うとね――ここでまずナーローの気持ちにわれわれがなって考えてみると、すべては――まあグルと言ってもいいし、神といってもいいんだけど――神やグルの現われであった、というのは、われわれにとってもある意味では真実なんだね。
 これはちょっと、何ていうかな、バクティ・ヨーガにも近いし、あるいは仏教的にいうとグルヨーガという世界になるんですが、このグルヨーガやバクティ・ヨーガの一つの考え方っていうのは、いいですか、バクティ・ヨーガの方がみなさん馴染んでるからバクティ・ヨーガでいうならば、「この世界にはわたしと神しかいない」っていう考えなんだね。わたしと神の二人しかいないんだっていう考えになります。
 つまり、わたしが今、外界のものとしてすごく実体視しているこの世界があるわけだけど、あるいはその世界に住んでいるいろんな誰々さん、誰々さんという、その客観視している実体視している存在があるわけだけど、それは全部まやかしであって、この世界にはグルしかいないんだっていう考えなんだね。あるいは神しかないんだっていう考えがある。で、その神やグルといった存在と、わたしとの対話っていうかな、リーラー、まさに遊戯みたいなものが行なわれているんだと。
 で、その神――まあこれはもちろん神でもいい、仏陀でもいい、グルでもいいわけだけど、その自分を導いてくれている聖なる存在は、さまざまな形でこの世界を創り、そして、自分にある意味仕掛けをしてくるわけですね。で、そのすべてというのは――この辺は頭を柔らかくして考えなきゃいけないわけだけど、同時に自分の心のけがれであって、あるいはカルマの投影でもある。つまり、けがれであり、カルマの投影であり、同時に神の祝福なんだね。でもそれを気づかないと、そのけがれのリーラーっていうかな、カルマの激しい流れにただ巻き込まれるだけになる。
 だからそうではなくて、その一つ一つのいろいろな出来事が――みなさんも日々生きていていろんなことがあるだろうけど、その一つ一つに、ああ、すべてはこれは神の祝福であると。もうちょっと分かりやすくいうならば、神が、あるいは自分の師匠が、わたしに何かを経験させようとして、あるいはわたしを成長させるために、こういう場面を現わしてくれているんだと、気づかなきゃいけないんだね。
 たとえるならば――頭を柔軟にして考えてくださいね――自分のけがれであり、かつ神の祝福っていうのはどういうことかっていうと――つまり、神は自分のけがれを分からせるために、例えばだけどね、その現象を起こしているんだって考えなきゃいけない。例えば例を挙げると、プライドが高い人が目の前にやってきたとして、その人が自分をプライドによって苦しめたとするよ。でもそれは、心の投影っていう意味でいうと、そのプライドが高い人が現われるっていうこと自体、あるいはそのプライドが気になるっていうこと自体が、自分のプライドの高さの現われであると気づかなきゃいけない。で、そのような状況を現わしてくれたのは神だって気づかなきゃいけない。というよりも、もっというならば、神がそのプライドが高い人を遣わしたというよりは、そのプライドが高い人が神なんだと考えなきゃいけないんだね(笑)。神がそのプライドの高い人の姿をとって現われ、自分にプライドの苦しみを気づかせようとしてるんだと。例えばだけどね。これは一例ですよ。
 で、ちょっと分かりやすく言うよ。例えばね、じゃあTさんだったらTさんが、ある日そういう気づきがあったとしますよ。気づきがあって、ハッとして、「あっ、これは神が現わしてくれた幻影であった」と。「わたしはプライドが高いから、それに気づかせるためにこういう現象が起きたんだ」と。で、Tさんはそこで一つ悟りを得て、まあ悟りというか大きな気づきを得て、一つ成長すると。あるいは、そこでまだ十分には成長できない場合もある。まあどちらにしろ、決心するわけです。「わたしは一つ分かった」と。「よって、これを応用して、次にいろいろな現象が目の前にやってくるだろうけども、すべてを神の現われ、グルの現われと観て、そこから何を学べるかを考えよう」と。ね、そういうふうに例えばTさんは決心すると。決心するけども、必ず忘れます。ね。そんなこと忘れちゃって、すぐ日常に埋没する。
 例えば分かりやすいんならいいんですよ。分かりやすいならっていうのは、例えば会社の同僚にそういう人がいたとして、同僚のAさんっていう人が自分を苦しめて、そこでハッと気づいて、「あ、Aさんは神の現われであった」と気づきましたと。次にBさんが来て、Bさんが自分を今度は傷つけてきたら、これは分かりやすよね。「あ、今度はBさんできましたか」って感じになるわけです。でも、そんな分かりやすい感じにはならないんだね。じゃなくて例えば、今度は子どもが、その苦しめる役を演じるかもしれない。あるいは全然違う、近所の奥さんが演じるかもしれない。で、それは、全く自分としては不意を突かれるんですね。不意を突かれるから、応用ができなくなるんです。逆にいうと、応用ができるような環境では修行にならないから。
 つまり、神やグルっていうのは、われわれの本当に心の隙を突いて、われわれがそんな簡単に「ああ、すべては神の現われだ」って見れないような、われわれが油断しているような状況で、そういう仕掛けをしてくるんですね。だから逆にいうと、油断しないと、この仕掛けは成功しないっていうかな。そのような形で、さまざまな神からわれわれへのアプローチがこの人生で起こってるんだね。
 そういう目でこのナーローの物語を読むと、これは別に偉大な聖者の特殊な話ではないっていうことになる。つまりこれは、このナーローだけではでなくて、われわれここにいる全員、あるいは修行とかしてない人もそうです。全員にとって、日々起こってることなんです。ただ修行者と修行していない人の差は何かっていうと、修行者の方がそこに気づきやすいっていうかな。というよりも、ちょっとは気づいてる、ということがいえる。まだ修行の道に入れてない人っていうのは、そういう意味では、本当に気づいてない。全く訳が分からない。それが神の祝福であるとか仕掛けであるっていう発想すら全くない状態で、埋没し続けるんだね。でも、それも必要なプロセスなんだけどね。そのプロセスを通り越してから、今度は修行者になって、そのような一つ一つの現象からいろいろなことを学んでいかなきゃいけない段階に入るわけですね。



◎真の師に近づくプロセス

 はい、そしてこのナーローの話に戻りますが、ナーローの場合も――ナーローの場合は、ティロー、師匠と縁ができて、そしていよいよ師匠に導かれる具体的なプロセスに入るので、今言ったような現象がね、非常な強烈な形で分かりやすい形で、次々と訪れるんだね。
 でも、このナーローの場合も、さっき言った例と同じように、ことごとく失敗する。ことごとく、これが自分の心の現われであり、あるいは神の、あるいはグルの現われであるということを気づかないんですね。何で気づかないかっていうと、この物語だけをみると、はい、こういうことがありました、こういうことがありました、ポンポンポンってあるわけだけど、当然その、例えば一つの出来事があって、次の日にその次の出来事があったっていうことじゃないと思うんだね。つまり旅をしていて、いろんなことがあるわけです。関係ないようなこともいろいろあるわけです。表面的にはね。で、油断しているときにパッと次の現象がやってくる。その現象は一見、自分が身構えていたこととはちょっと違うわけですね。身構えてたら大体成功してしまうから。身構えていない、もう一回言うけども、隙を突いて、自分の心のけがれを露わにするような現象がバーってやってくるわけです。だからいつも失敗する。でもこのプロセス自体が、ナーローが真の師匠であるティローに近づいていくプロセスでもあるわけだね。
 この今の前提の解説だけを聞いても、ちょっと難しいかなと思う人がいっぱいいるかもしれませんが、しっかりとね、智性を働かせて聞くようにしてください。
 はい、では今日のところを読んでいきましょう。
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聖者の生涯「ナーロー」第二回(1)

2018-04-24 17:07:14 | 勉強会より抜粋
20100113 聖者の生涯ナーロー②


◎ダーキニーの導き

 ナーローの続きですね。ナーローは、もう一回説明すると、ナーローパとかよく呼ばれますけども、チベット仏教のカギュー派の――カギュー派というのは、もともとマルパっていう人がいて、その弟子のミラレーパが有名になって、そのさらに弟子のカンポパっていう人がしっかりと体系を作った派なのですが、そのマルパのさらに師匠のインド人のヨーギーっていうかな、密教行者ですね。
 で、このナーロー、そしてマルパ、そしてミラレーパ、この三人がすごく有名なんですけども、実際その物語とか教えとかを見ると、このナーロー、そしてマルパ、そしてミラレーパ、この三人を見てみると、やっぱりね、このナーローっていうのはちょっと桁違いの聖者って感じがするね。まあその師匠のティローもそうなんだけど。ティローとナーローっていうのはちょっと桁が違う。
 これは前も言ったけども、例えばパドマサンバヴァね、グル・リンポチェといわれるパドマサンバヴァとかもそうだけども、それは人によって考え方とかが違うんだろうけど、例えばラーマクリシュナとかもそうかもしれない。たまに桁違いの聖者っていうのが、やっぱり現われるんだね、地球上にね。で、このナーローっていう人もちょっと他の聖者とは違う、大聖者的な人ですね。
 はい、で、その人の生涯だから――だからちょとね、ミラレーパとかマルパとか、あるいはその他の密教系の聖者の生涯、あるいは「84人の成就者」でやってるような密教行者ね、ああいう人たちもちょっと普通とは違う感じのストーリーが多いんですけども、ナーローはより一層高度なので、より一層分かりにくいところがあるんですね。でも、それはわれわれにも当てはめられる部分も結構あるので、ステージとしては非常に遥かな高みにある方の話なんですが、その中からわれわれがね、学べるところっていうかな、われわれの修行人生にも応用できるところをね、学んでいきたいと思います。
 はい、で、前回までのところをちょっと復習すると、非常に簡単にいうとね、ナーローがまず、いわゆる簡単にいうとインド一の仏教学者になったわけですね。もともと天才的な人だったので、インド一の仏教学者としてみんなから称賛を受けるような状態になりましたと。しかしそこにある日老婆がやって来て、一喝するわけですね。一喝っていうのは、「お前は――ナーローに対してね――真理の言葉はよく理解しているが、その真の意味を理解していない」と、こう言い放つわけだね。
 普通だったらそこで、そんな見ず知らずのお婆さんにそんなこと言われても、「何言ってんだ!」となるかもしれないけど、ナーローはただ謙虚だったというだけではなくて、おそらく鋭い智慧があったので、このお婆さんがただ者ではないっていうことを見抜いたわけだね。
 で、このお婆さんって実はダーキニー、つまり修行者を助ける女神の化身だったわけですね。で、そのお婆さんが言うには、「真の意味、真理の本当の意味を知りたかったら、お前の師匠、グルであるティローを探しに行け」というメッセージを残すわけですね。そこでナーローはみんなの反対を押し切って、つまりインド一の大学者という――イメージするとね、日本でいうと東大の、例えば仏教学の大教授の地位とかね。まあ、もっとでしょうね、恐らくね。ものすごい地位と名誉と称賛を受けていたそのすべてを捨てて、一人の密教行者になって、ティローを探しに行くわけですね。


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解説・ナーローの生涯(8)

2018-04-24 16:18:41 | 勉強会より抜粋


◎観念の崩壊と帰依によって

 はい、ちょっとなかなか難しいね。じゃあ一応今日はここまでにして、質問があったら質問聞いて終わりにしましょう。


(I)さっきの、修行者がそういう世界に突っ込んでいく状態になるっていうときに、最初からそうであったのが、修行者の認識が高くなるっていうか、見えるようになってきてそれを認識しだしたのか、修行者が修行に入りだすと現象も加速するっていうか、現象の方からも働きかけてくるんですか?


 そうです。だから最初からそうだったかっていうのは、つまりそれはさっきも言ったように、最初から――まあストレートにいうと、最初から何もないんです(笑)。だから般若心経じゃないけど――般若心経ってさ、つまり全部ないないないっていってるんだね。無眼耳鼻舌身意とか、無色声香……つまり、見えるものはないよ、音もないんだよ。体もないし、心もないんだよ。で、しまいにはお釈迦様の説いた真理もないよとかいいだしてる(笑)。結局何もないのかよ、と(笑)。でもそれは究極の真理なんだね。究極の真理をいうと何もないです、最初からね。でもそうじゃなくて、われわれは今、さっき言った習慣から来る幻の世界にはまってるわけだね。で、だからそれはちょっと説明できないところなんだけど、今のIさんの言い方でいうと、修行者がある段階に達したことによって――そうですね、何て言ったらいいかな。じゃあ、あえて分かりやすくいうならば、神やあるいは師匠が、その幻の世界を利用してわれわれを目覚めさせようとしてるって言ったらいいかもしれないね。うん。だからそれはもともとそうだったっていうよりは、もともと幻は幻なんだけど、もともとわれわれの修行を進めさせる方向で幻が動いてるっていうわけではない。もともとはですよ、もともとはその幻自体はわれわれの主観的なものだから。つまりわれわれの方に、どういう幻を見るかの因はあるんだね。われわれのけがれがあるからこういうのが見えるっていうだけであって。でも、われわれが師や神に自分を明け渡しだすと、今度はあっちからのアプローチが始まるわけだね。つまり幻がちょっと変になってくるっていうか。で、そこでも自分の観念を捨てて、その幻の世界に没入しなきゃいけないんだけど。
 だからそれは、つまりさっきバクティ・ヨーガの話でもしたように、われわれの準備ができた段階で――つまりね、幻自体はもともとは良くも悪くもない、ただの実体のないウニャウニャしたうねりだとしますよ。で、そのウニャウニャとしたうねりを、われわれはガチッと止めて世界を見てるんです。世界はこうですね、こうですね、ちょっとでもほころびは許しませんよと。でもわれわれがバクティ・ヨーガとか、あるいはグルヨーガ的な帰依の修行によって、あるいは別系統では智慧を高めることによって、ある段階に達すると、そのガチガチの世界にちょっと楔が打ち込まれる。楔が打ち込まれるっていうのは、そのガチガチだったのがちょっとずれ始める。ずれ始めた段階で、その人がそういった高い世界と縁があればね、高い世界――神や師と縁があれば、ずれた始めたところから神の愛や師の愛が流入してくるわけだね。 
 で、ここでもう一回言うけども、流入してきた師や神の愛を受け取れるだけの心の放棄、観念の放棄がないと、これはそもそも発動しないんです。
 つまりもう一回言うけども、観念の放棄がない状態っていうのが、さっきから言ってるガチガチに世界を止めてる状態です。これはこうでしょ、これはああでしょ――つまり頭で思ってなかったとしても、潜在意識が完全に世界を止めてるんだね。これはこうじゃなきゃあり得ないと。だから実際にそういう現象しか起きない。つまりさっき言ったような、笑っちゃうような、例えば自分のカルマ落とすために同僚が全員口の悪い人になるとか、そういうのは普通はあり得ないんですね。普通はあり得ないんだけど、その人がちょっとこう明け渡し始めると、普通では考えられないような現象が起き始める。
 じゃあ別パターンとして、もしその人がそのような帰依の心とかがなく――例えば神や師への帰依とか強いつながりもないと。しかし観念は弱いっていうパターンもあります。これは魔境です(笑)。つまり観念が弱いからちょっと世界が変なふうに見える。ね。まあそういう人よくいるよね。「昨日、金星人が来たんです」とか(笑)。「昨日、窓開けたら巨大な人が歩いてました」とかね。本人は本気で思ってると。で、それはある意味では、ちょっとこの世界のガチガチのものははずれ始めてるんです。しかしその人が高い世界の神や仏陀と縁がなかったら、あるいは帰依がなかったら、その人のけがれとかエゴがただ噴出してるだけになる。
 つまりさ、ベースを言うとですよ、もしわれわれが一個ガチガチの殻をはずしたらどうなるか?――つまりね、変な話すれば、はずしゃあいいってもんじゃないです(笑)。ガチガチの殻をはずしたらどうなるかっていうと、単純にわれわれの奥にある良いデータや悪いデータが噴き出すだけなんです。で、それが――だから夢と似てるね。夢みたいな感じで、夢っていうのは寝てるときに見るだけだけど、起きてるときも夢みたいな状態になる。起きてるときも夢みたいに、例えば善いカルマ出てきたときは楽園みたいになって、でもすぐにバーッて変わって世界が地獄に見えたりとか、もうあり得ないような現象がバーッて起きたりする。で、それが現実のような感じで展開されるっていうか。で、それはただそれだけなんだね。で、そこに何度も言うように、神や仏陀の介入があることによって――だから要素として二つですね。観念がまず壊れ始めること、そして師や神に対する帰依によって導きがなされてること。これによって普通はあり得ないような形で、その人の修行を進めるような形で、現実が変容していきますよということですね。いいですか? この辺は難しい話だね。
 
 はい。「聖者の生涯」は本当にいつも難しいのが多いね。なかなか大変ですね。はい、じゃあ、終わりましょう。


(一同)ありがとうございました。
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「何に対して」

2018-04-24 16:01:01 | 解説・入菩提行論



【本文】

 もし、他人に苦しみを与えるのが愚者の本性であるならば、それに向かって私が怒りを起こすことはふさわしくない。それはあたかも、本来「焼く」という性質を持つ火に対して(怒るのがふさわしくないこと)と同様である。

 さらに、もし衆生のこのような過ちは偶然であり、衆生の本性は本来は清らかであるとするならば、それに対する怒りは、(本来清らかな)虚空が不快な煙で満たされたとき、(虚空に対して腹を立てることと同様に)これまた正当でない。


【解説】

 さあ、シャーンティデーヴァの面白くもすばらしい論理がまた展開されていますね。
 他人に苦しみを与えるのは、おろかな凡夫の持つ本性なのでしょうか?
 もしそうだとしたら、それはちょうど、本性的に「焼く」という性質を持つ火に対して、「なぜお前は焼くんだ!」と怒るようなもので(笑)、ナンセンスだということですね。それは本性なんだから、そういうもんなんだから、怒っても仕方ないだろうと。
 次に、そうではなくて、衆生の本性は清らかであり、現在他人に苦しみを与えるような状態は、彼らの本質ではなく、条件によってそのようになっているだけだとしたら・・・何らかの条件で虚空が不快な煙で満たされたとき、その虚空に対して怒るようなもので、ナンセンスだということですね。衆生が本来清浄だとしたならば、彼らには全く非はないのです。清浄なのですから。彼らもちょうど不快な煙のようなマーヤーの魔の幻影に侵されているだけなのです。その被害者である衆生に慈悲を持つならわかりますが、怒るのは意味がないということですね。
 

【本文】

 直接の原因である杖をさしおいて、杖で殴った人に怒りを発するくらいなら、むしろ彼(殴った人)は怒りに駆られたのだから、怒りに対して怒りを起こす方が、私において優っている。


【解説】

 これもまた面白い理論ですね。
 たとえば誰かに杖で殴られたとき。
 直接、私の体に危害を加えたのは、杖です。
 でも我々は、「何だ! 杖! このやろう!」などと怒ることはありません(笑)。 
 そうではなく、杖を操作して殴った人物に怒りを発します。
 それならばさらにさかのぼって、その人物を支配している「怒り」という煩悩そのものに対して怒ったほうがよい、ということですね。

 たとえばやくざの組長(怒りの煩悩)が、ある幹部(怒りに駆られた人)に、「あいつをしめてこい」と命令したとします。
 命令された幹部は、実行犯のチンピラ(杖)に、指示を出しました。
 こうしてチンピラが、あなたを袋叩きにしたとします。
 あなたは誰に怒りを発しますか(笑)?
 そのチンピラは操られただけだから、その幹部に怒りを発するというのなら、そもそも最初の命令を出した組長を怒れ、ということですね。

 そういえば私が中学生の頃、こんなことがありました。
 クラスでいじめられていたA君がいたのですが、いじめっ子達がA君に、「あいつ(私のこと)に唾をかけて来い。そうしたら仲間に入れてやる」と言ったのです。するとA君は本当に私に唾をはいたのです。
 そのときの卑屈に笑うA君の顔を見るとA君を怒る気にはなれず、それを指示したいじめっ子たちに私は殴りかかっていきました(まあこれもどうかと思いますが、この頃は血気盛んだったので(笑))。
 この場合私は、唾自体に怒ることはなく(笑)、唾をはいたA君を怒ることもなく、それをやらせたいじめっ子達に、怒りの矛先を向けたわけですね。

 同様に、杖が男に操られたのと同様に、その男も怒りの煩悩に支配されてその行動をとったのだから、杖を怒らず、男を怒ることもなく、その怒りの煩悩そのものに対して怒りを発すべきだ、という理論なわけですね。

 そう、怒りに対して怒りを発して、粉々に打ち砕いてやってください、怒りの煩悩を。彼が支配されている怒りという悪魔をいかにぶち倒せるか、考えてください。そのために有効な最高の武器は、慈愛の心だと思います。




【本文】

 さらに、前生において私はかような災厄を衆生に加えた。それゆえ、衆生に苦しみを加えた私が(今この苦痛を受けるのは)当然である。


【解説】

 前生にまでさかのぼることもなく、今生を振り返って懺悔してみただけでも、我々は意識的に、あるいは気付いていない分も含めれば、多くの苦しみを、他者に与えてきました。ましてや無数の前生のことも考えたら--今生でも自分はこんなに迷妄なのですから、前生でも多くの過ちを犯し、多くの苦しみを他者に与えてきたということは、容易に推測できます。
 だからカルマの法則から言って、その果報を今生において受けるのは当然のことなんですね。それは当然の報いです。そしてそれによって自分のカルマや心が浄化されていっているわけですから、それは喜ぶべきことでもあります。
 これはオーソドックスな、カルマの法則の理解によって苦しみを耐えて乗り越える思考方法ですね。 



【本文】

 彼の刀とわが身と、この二つが私の苦しみの原因である。彼は刀をとり、私は身をとった。いずれに対して怒りを発するか。

 私がとったこの身体という物質は、触れるのも耐え難い腫れ物である。渇愛によって盲目となった私が、そこで苦悩を受けるとき、何に対して怒りを発するか。



【解説】

 誰かが刀で私の体を切って、私に苦しみが生じたとします。ここで苦しみが生じた原因は何でしょうか?

 一つは彼が刀を手にとり、それで私の身体を切ったということです。
 そしてもう一つは、この身体という物質に、私が「私である」という我執を持ったことです。

 この二つの条件のどちらかが欠けても、苦しみは成立しません。
 だから、もしここで、「私が私の我執に対して怒るのは、不合理である」と考えるなら、同様に刀をとった相手に対しても怒るべきではありません。それは不公平というものです。
 逆に、刀をとった相手を怒るべきなら、同様にこの身体をとった自分自身をも怒るべきです。そして自分自身に、この身体への執着を捨てさせるべきです。
 
 私が執着したこの身体という物質は、「触れるのも耐え難い腫れ物」なのです。変な言い方ですが、この肉体というやつは、小指一本切り落とされただけでも、相当の苦悩を生じさせます。身体のどの部分を針で刺しても、火で焼いても、苦悩を生じさせます。このような、すぐに苦しみが生じてしまう肉体という厄介な物質に「私である」という執着を抱いてしまったのは、我々が無明により、渇愛の煩悩により、盲目になってしまったからです。何が幸福で、何か不幸であるかわからなくなってしまったからです。それによって我々は、さまざまな苦悩を受けているのです。だから決して、怒りを発する相手は、誰か外の世界にいるわけではないんですね。この自分の我執こそを、破壊すべきなのです。



【本文】

 愚か者の私は、苦しみを希望しないのに、苦しみの原因を希望する。苦しみは自己の悪業を原因とするのに、なぜ他人に対して怒りを発するか。

 (地獄界における)刀の葉の林や地獄の鳥どもが、私のカルマから生じたものであるように、この現在の苦しみもまたそうである。何に向かって怒りを発するか。

【解説】

 ここもとても良い部分ですね。ここの意味は読んだだけでもわかると思うので、あえて解説はしません。じっくりと意味を味わってください。

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「救済の心」

2018-04-24 15:51:28 | 解説・入菩提行論


 
【本文】

 一切の衆生が、願いだけで目的を成就することが出来るなら、誰にも苦しみは生じないであろう。誰も苦しみを願うものはない。

 人々は怠惰さから、茨や棘や食の欠乏などによってその身を悩まし、及ばぬ女などを望むことから、怒りを発して(自らその身を悩ます)。

 あるいは、首をつり、あるいは高所より飛び降り、また毒や不健康なものなどを食うことにより、また不道徳な所行によって、人々は自身を殺す。

 かように、煩悩に支配されて、愛しい自身すらも殺すのに、どうして彼ら(衆生)が、他人に対して害を加えるのをやめることがありえようか。

 これら煩悩に狂い、自己の破滅に努めている衆生に対し、ただ救済の心を起こさないばかりか、かえって怒りが発せられるとは、どういうわけか。

 
【解説】

 修行をしていない普通の人というのは、いや、修行をしていてもまだ完成していない人も含めて、衆生はみな、執着や怒りや無智といった煩悩に支配されています。それら執着や怒りや無智によって、人々は、上記にあげたようなさまざまなパターンで、自分のことをわざわざ苦しめているのです。それは自分を苦しめたくて苦しめているのでしょうか? そうではありません。もちろん本当は幸福を求めているのに、執着や怒りや無智といった煩悩に支配され、何が真実かわからなくなり、自分で自分を苦しめるようになっているのです。

 そのような無智によって、衆生は愛しい自分自身のことも苦悩に追い込むわけだから、彼らが自分自身よりは愛しくない他人のことを苦悩に追い込むのは、もうそれは当たり前のことではないか、というわけですね。

 そしてそういう観点で見るなら、たとえば私に危害を加えてくる衆生というのは、大変哀れむべき存在なのです。執着や怒りや無智に支配され、愛しい自分自身を苦しめ、さらに他者をも苦しめなければならない--そのような悪しきカルマに支配された、哀れむべき衆生なのです。菩薩はそのような衆生を救わなければなりません。しかしお前は菩薩のくせに、そのような哀れな衆生を救おうという慈悲を起こすこともなく、そればかりか怒りを起こすとはいったいどういうことなんだと、シャーンティデーヴァは自分を戒めるように言っているわけですね。

 たとえば何らかの被害にあって苦しんでいる人。この人に対しては当然、哀れむべきです。これはわかりやすいですね。しかし真に哀れむべきは、そういう表面的な現象ではなく、無智に侵され、煩悩に侵され、自ら苦悩の道に入り込んでいる衆生の存在です。彼らには無量の慈悲が発されなくてはなりません。
 しかし客観的にそのような無智に苦しむ衆生を見て慈悲を発することはできるのに、ひとたび彼らの無智が私に向けられ、私が攻撃の対象になったとたん、彼らに慈悲ではなく怒りが生じてしまうというのはいったいどういうことだと、そういうことですね。

 よって自分にそれらの攻撃が向けられたときこそ、慈悲を発しましょう。ああ、この人はこんなにも苦しんでいるんだと。
 そして喜びましょう。ああ、この人の無智による攻撃の対象が、私でよかったと。それが他者には向けられませんようにと。そして私がしっかり修行し、三宝や師への帰依を強めることで、その私に攻撃を向けたその縁によって、この人も真理に導かれ、真理に目覚めますように、と。


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