ヨーガスクール・カイラス blog

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パトゥル・リンポチェの生涯と教え(18)

2018-04-20 22:51:22 | 聖者の生涯




◎ジグメ・ギャルワイ・ニュグと悪霊


 パトゥルの根本グルであるジグメ・ギャルワイ・ニュグは、その慈悲深さで有名であった。


 あるとき、悪霊が彼を殺そうと心に決め、ギャルワイ・ニュグの洞窟にやって来て、その中をじっと見つめていた。悪霊はそこで、白髪の老人が眼を閉じて、静かに瞑想に座り、慈愛と慈悲の光を周りに放っているのを見たのだった。


 その光景は、悪霊に深い衝撃を与え、悪霊の持っていた悪しき心の習性は消え、そこに菩提心が芽生えたのだった。悪霊は、もう二度と殺生はしないと誓いを立てた。


 その後、害をもたらす思考が心の中にわずかにでも生じると、それはすぐに、静かに慈愛の光を放っていたジグメ・ギャルワイ・ニュグのヴィジョンに置き換えられるのだった。もう二度と、その悪霊は悪さをすることができなくなってしまった。
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「身をもって経典を読もう」

2018-04-20 22:10:06 | 解説・入菩提行論



【本文】

 菩薩の誓いを保ち、大乗の意義に精通した善友を、たとえ生命にかけても、常に見捨ててはならない。

 そして徳生童子解脱法門から、師匠に対する態度を修学せよ。ここで仏陀によって説かれたこと、および他で説かれたことを、経典の所説から知るべきである。

 修学すべきことは、もろもろの経典に見られる。ゆえに、もろもろの経典を読め。そして虚空蔵経に根本の罪過を省察せよ。

 またシクシャー・サムッチャヤは、必ず繰り返し見るべきである。何故なら、正しい行法がそこに詳しく示されているから。

 あるいは簡単に、まずスートラ・サムッチャヤを見よ。そして聖ナーガールジュナの作を、第二に努力して読め。

 そこに、避けるべきことと、なさねばならぬことが記されてある。ゆえにその学処を見て、世の人々の心を守護するために、修行せよ。

 身と心の状態を間断なく省察すること、これがまさに、一言をもって言えば、正智の定義である。

 ただ身をもってのみ、私は(経典を)読もう。口で読んで何の役に立とうか。
 病人に対し、医書を読んで聞かせるだけで、何の役に立とうか。


【解説】

 善友というのは、真理を実践するすばらしき友。そしてもう一つ、自分の師匠という意味でも使われます。
 つまり菩薩の誓いを保ち、大乗の教えに精通した法友や師匠を、たとえ自分の命と引き換えにしようとも、見捨てたり、裏切ったりすることがあってはならないということですね。

 徳生童子解脱法門というのは、華厳経の中にある教えですが、これのみならず様々な経典から、師匠に対する正しい態度を学びなさいということですね。

 そしてとにかく、様々な正しい経典を読み、菩薩としてなすべきこと、なしてはならないことを学びなさいということですね。

 シクシャー・サムッチャヤとスートラ・サムッチャヤというのは、ともにシャーンティデーヴァの作とされる論書ですが、わかりやすく和訳されたものはありません。シクシャー・サムッチャヤは、マイミクのBuSuKuさんが専門的に研究されているので、期待しましょう。

 さあとにかく、それら経典をしっかりと学び、なすべきこととなしてはならないことを学んだら、世の人々の心を守護するために、修行しなさいと。

 そしてこの「正智の守護」の章の終わりとして、その正智という言葉の定義が明確に示されています。
 それは--身と心の状態を間断なく省察すること--だといいます。
 そしてそれは、その後の文とあわせて考えても、あるいはこの章全体を分析しても、決して、単に「私は今歩いている」とか「腕をあげた、足を上げた」というような意味での自己観察ではありません。
 そうではなく、いかに自分の身口意の動きが、教えとずれていないだろうか、教えどおりに生きているだろうか、それを省察し続けるということです。それが正智なのです。
 
 そして最後のしめの一文も、とても印象的ですね。
 病人に対して、医書を読んで聞かせるだけでは、何の役にも立ちません。実際に薬を飲ませたり、治療を行なわなければ。
 同様に、経典を読んで満足しているだけでは、何の役にも立ちません。身をもって経典を読む--すばらしい言葉ですね。つまり、経典の教えを実際に実践するということです。実践しなければ、どんなにすばらしい経典も、何の価値もないのです。
 そして繰り返しますが、いかに自分がその教えの内容を実践しているか、それを絶え間なく自己観察すること、これこそが「正智」なのです。
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パトゥル・リンポチェの生涯と教え(17)

2018-04-20 22:01:46 | 聖者の生涯

◎幽霊の出る要塞



 深い岩の峡谷に激流の川が流れているカム地方のニャトンには、恐ろしい幽霊が出る要塞があった。そこでは、昼間でも幽霊の叫び声が聞こえてくるのだった。そこに近づこうとする者は誰もいなかった。その要塞の影に触れただけで、人々は気分が悪くなってしまうのだった。


 ある日パトゥルは、入菩提行論の教えを説き終わると、「もし誰かがニャトンの幽霊が出る要塞でこの経典を百回説いたら、悪霊は黙り込み、もう今度は危害を加えなくなるだろう」と予言した。


 パトゥルの近しい弟子の一人、ツァンヤク・シェーラブは、ただちにその挑戦を志願した。これを聞くと、地元の村人たちは大変気の毒に感じ、首を振って、ツァンヤク・シェラブは確実に死ぬ運命にあるのだから、もう二度と彼にお会いすることはないだろうと思い、悲しんだ。


 ツァンヤク・シェーラブは、幽霊の出る要塞に着くと、広い部屋を選び、その床にマットをひいた。そして、慈悲と菩提心を生じさせ、「目に見えない聴衆たち」に向かって声に出して、入菩提行論の全十章をすべて説いた。


 その夜は、何も起きなかった。そのようにして、来る日も来る日も、ツァンヤク・シェーラブは教えを説き続けた。近隣の村人たちが、遠くで、シェーラブがお茶のためのお湯を沸かしている火から煙があがっているのを見て、驚いた。

「彼はまだ死んでいないようだ!」


 しばらく後に、村で一番の勇敢な男が、決心して幽霊の出る要塞に行き、何が起こっているのかを自分の眼で確かめてくることにした。


 そこで彼は、ツァンヤク・シェーラブがまだそこにいて、楽しそうに入菩提行論を説いているのを目にした。彼はまだ、「目に見えない聴衆たち」に向かって、教えを説いていたのだ。


 勇敢な村人は、村に戻り、自分が見たことを皆に伝えた。村人たちは自分たちもその教えを聞こうと考え、要塞へと向かった。日に日に、その要塞の聴衆は増えていった。ツァンヤク・シェーラブが百回説き終わる頃には、村人全員がその要塞の中で座って、この上ない信仰心を抱きながら彼の教えを聴いていたのだった。


 それ以来、パトゥルが予言したように、ニャトンの要塞では、何もトラブルは起きなくなったそうである。

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解説・ナーローの生涯(6)

2018-04-20 21:29:53 | 聖者の生涯



◎最初の試練

 はい、で、その最初の試練が、グロテスクな姿をした病気の女がいると。で、それをナーローは同情を寄せつつも、鼻をつまんで、女の上を跳び越すと。言ってみれば別にナーローはただそれだけだったんだけど、そこでその女がね、虹の光を放って空に舞い上がりこう言いましたと。
「究極の実在の中では一切が同一になり、それは習慣を生み出す思考や限界から解放されている。そうした思考や限界にまだ束縛されているのなら、どうしてグルを見つけることができようか」
と。
 はい、これはこういう形で一つの試練というか、師と気づかなきゃいけないのに気づけないっていう現象が起きて、そのために師はナーローに教訓的な言葉を述べていくんだね。こういう感じでナーローの最後のというかな、ちょっと残っているけがれみたいなものを修正させられてるって考えたらいいね。
 はい、だからこの物語っていうのは本当に、この教えもそうだし全体もそうだけど、本当に何度も言うけど(笑)、桁外れの人の話なので、ちょっと難しいかもしれないね。うん。でも頑張って本質っていうかな、利益のある部分をちょっと学んでいきたいと思います。
 はい、じゃあちょっとこの言葉についてちょっと見てみましょうね。

「究極の実在の中では一切が同一になり、それは習慣を生み出す思考や限界から解放されている。そうした思考や限界にまだ束縛されているのなら、どうしてグルを見つけることができようか」

と。
 はい、究極の実在、これはさっき言った例えばダルマカーヤ、あるいはダルマターとかダルマダートゥとかいろいろ言葉がありますが、その中では――ヨーガ的にいうならば、いわゆるわれわれが真我に到達し、あるいは最終的に至高者に溶け込んだような状態なわけだけども、その中では一切は一つですよと。何の区別も何の特徴もないっていうかな、一切が一つに溶け込んでいる。
 はい、じゃなくてわれわれの今の状態っていうのはそうじゃなくて、その究極の実在で生きてるんじゃなくて、ここの言葉でいうと「習慣を生みだす思考」によってできていると。つまりこれはいつも言ってる経験からくる習性ってやつです。経験から来る習性ね。
 つまりこれは単純な話なんだけどね、つまりもう一回言いますよ、本来はわれわれはすべてが同一である完全な悟りの世界にいるはずなんです。今この瞬間もね。しかしわれわれはありのままにこの世を見るならば、すべてが同一である究極の悟りっていうのがこの瞬間瞬間現われてるんだけど、じゃなくて、われわれはそれを取らずに自分の経験からくるレッテルの方を常に取り続けてるんだね。これがわれわれの今の状態ですよと。
 ちょっと難しいよね。でも難しくないでしょ? いつも勉強会で言ってるような話なんで――つまり、いつも言うように「レッテル」です。つまりわれわれが何かを経験しましたと。で、われわれが経験したその過去の情報に基づいて、今目の前にある何かを判断する。あるいは、ある状況になったならば絶対にこういう思考をするとか、こういうこと言うとか、こういうイメージをするとかいうその習慣が完全に出来上がってしまってる。これは仏教用語では習気(じっけ)っていうんですが、習気とか薫習とかいうね。
 薫習っていうのは、いつも言うように、お香をね、バーッて炊いてその上に布をこうしばらく置いておくと。これによって布にお香の臭いが染み付くわけだね。それをものすごくたくさんやると、もう洗っても匂いが取れないと。完全にお香が染み付いちゃったと。これを薫習っていうんですが、こういう形でわれわれは、過去のいろんな経験やいろんな訓練っていうかな、いろんなことをひたすらやったことによって、われわれの物の見方やあるいは行動パターンが、完全にもう習慣化してしまってるんだね。習性となっている。で、それで見てるので、全くありのままに見てないっていうことです。
 これはすべてに行き渡る話なんだけど、でも小さなことではみなさん多分理解できると思うんだね。小さなことっていうのは、例えば子供の顔見ると怒るのが習性になってると。ね。別に悪いことやってないんだけど、悪いことやってないんだけど、顔見ると「また! お前は!」「母ちゃん、何もやってないよ!」と(笑)。「今日は別に何もやってないよ」と。でも顔見るとアーッと怒ると。これは習性だよね。もしかすると、確かに昨日までは悪ガキだったが、今日はいい子かもしれない。今日はお母さんのために、例えば、今日誕生日だからと思って後ろにカーネーションでも隠して来たかもしれない。そしたらお母さんが、「お前またたくらんでるだろ!」と、「あっちいけ!」って言うかもしれない。そしたら子供は傷つくよね(笑)。「え? 花持ってきたのに……」と。まあこれは日常的な例だけど、こういう小っちゃな例ってよくあるよね。つまり一つの習慣的な見方によって、真実を見誤まってしまうっていうか。
 で、それが、そういった一つ一つの小さな例だけではなくて、全体に渡ってそうなんだと。われわれは根っこから、完全にベースからこの世を見誤ってるんだね。すべてただの習慣によって見てる。その習慣っていう、あるいはレッテルっていうシステムを打ち砕かない限り、われわれは――ここに書いてある究極の実在ね、一切が溶け込んで一つである究極の実在には目覚めることはできないんだね。
 はい、だからここでいうと、つまりナーローが、病気でグロテスクな、おそらく例えばハンセン病とかで体が腐ってるとか、そういうグロテスクな状態に対するいわゆる分別があったんだね、まだね。つまり、ああ、あれは気持ち悪いとか、まあ可哀そうだけどちょっと気持ち悪いと。で、ちょっとこう鼻をつまんで――つまり臭いのは嫌だと。鼻をつまんで、それを飛び越えるっていうことをやったわけだね。まあこれ自体はそんなに責められることではない。多くの人がそういうふうにやるかもしれない。しかしそれは、ティローパの目から見ると、非常に大きな障害だったんだね。ナーローの持ってる大きなまだ乗り越えなきゃいけない障害だった。
 言ってみればこれは、嫌悪だね。ナーローがまだ――もちろんわれわれよりはナーローっていうのは嫌悪とか少なかっただろうけど、まだ小さな嫌悪があった。つまりこれはわたしにとって排除すべきものであると。これはわたしにとって受け入れられないものであるっていう小さな気持ちですね。
 例えばさ、ここでこの病気の女性が、ナーローに助けを求めてきたとしたらですよ、おそらくそれは助けてあげたでしょう。例えば「もう痛くてしょうがないので、ちょっと包帯巻き直してください」とか言ったら、おそらくナーローは優しく巻き直してあげたでしょう。そういうことはもちろんするわけです。しかしそんなことはもう当たり前の話であって。じゃなくて、本当の心の根っこの根っこの問題で、その「ウッ」ていう気持ちっていうかな、を言ってるんだね。だからすごくここは厳しいことを言ってるわけですね。だからほんの瞬間でももし、例えば病気でグロテスクな感じの患者を見て、ほんの一瞬でもウッとなるとしたらもう駄目なんです。それは乗り越えなきゃいけない小さなけがれがまだ残ってるということなわけだね。
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解説・ナーローの生涯(5)

2018-04-20 21:20:44 | 聖者の生涯



◎グル探しの旅

【本文】

 旅の途中、ナーローは、サンヴァラのマントラを七十万回唱えました。すると、空から声が聞こえてきました。

「不二一元の至福を体現した、すべての衆生の主であるティローが、東の方角に住んでいる。
 仏陀でありグルであるティローを探せ。」

 こうしてティローという師の名が明かされ、ナーローは、東の方角に彼を探しに行きました。

 ナーローが狭い道を歩いていると、グロテスクな姿をした病気の女が、道をふさいでいました。ナーローは彼女に同情を寄せつつも、鼻をつまんで、女の上を跳び越しました。すると女は、虹の光を放って空中に舞い上がり、こう言いました。

『究極の実在の中では一切が同一になり、
 それは習慣を生み出す思考や限界から解放されている。
 そうした思考や限界にまだ束縛されているのなら
 どうして、グルを見つけることができようか。』

 そうして女は消え、ナーローは気絶して倒れました。
 意識を取り戻したナーローは、あの病気の女がグル・ティローの化身だと気付き、
「これからは、誰が現われても、教えを乞うぞ」
と思いました。しかしこの後もナーローは、何度もティローの化身と会うのですが、それと気付かず、ことごとく失敗を重ねるのでした。




 はい、ここからナーローの師匠、ティロー探しが始まるわけですが、これは後でも明かされるわけだけど、ナーローはもう本当に苦労してね、いろんな試練を乗り越えてやっと会うんだけども、でも実際は本当のことをいうと、最初からティローはずっとナーローのそばにいたんだね。そばにいたけどナーローはそれを認識できなかったと。 つまり本当にティローっていう人ていうのは――ナーローはさっきも言ったようにちょっと桁外れの存在なんだけど、その師匠だから、ティローって(笑)。もうちょっとね、本当にね、ティローもまた――まあティローの話って伝説しか残ってないんだけど、人間だったんだろうかっていうぐらいの(笑)、ちょっと桁外れの人なんだね、ティローっていう人もね。だから、ちょっと桁外れの、しかも完全に成就してる状態だから、われわれの認識を超えた状態で現われるんだね。
 で、これも前にやったアサンガとマイトレーヤの話とちょっと似てるわけだけど、アサンガもマイトレーヤ、弥勒菩薩をこう瞑想してて、で、ずーっと本当は側にいたんだけどけがれてたから気付かなかったと。それと非常に似た話だね。ずーっとティローはナーローの側にいたんだけど――つまりナーローの方が認識のけがれがあったがために、ストレートな形でティローとまみえることができなかったんだね。で、それがいろんなちょっといびつな形でティローと巡り会い、で、そのたびにナーローは失敗すると。でも、それが逆にいうとナーローの訓練だったんだね。
 つまり、もう一回言うけどね、ナーローっていうのはこの時点で――はっきり言うとさ、われわれはもちろんこの時点のナーローにも敵わないよ(笑)。ね。「いや、ナーローはまだ大学とか行って言葉面だけ勉強いっぱいして、本当にまだまだだな」なんてわれわれが思っても、全然われわれより上ですからね(笑)。もうすでにこの時点で、ティローの弟子になる前に、相当なもちろん学問と、相当な瞑想のステージ、それから智慧も高いと。で、神通力もあると。で、そのナーローですらまだ多くのけがれがあったんだね。で、そのけがれによっていろんな失敗をする。
 で、これはいつも言うように、一般論として言うならば、すべては――よく日本でもいわれるのが、これもわたしが昔好きだった宮本武蔵の言葉でもあるんだけど(笑)、宮本武蔵だったか作家の吉川英二だったか忘れたけど――「われ以外、みなわが師」っていう言葉があるんだね。つまりわたし以外、つまり他人っていうのは全員わたしの師であると。
 で、これには二つの意味があって、一つは一般的な意味でね、みんなから何らかのことは学べるんだと。どんなひどい人からでも学べるし、まあもちろん反面教師っていう学び方もあるし、すべての人がわたしの師匠となり得ると。もちろん人間だけじゃなくて自然とか動物もそうだけどね。あらゆるものは自分の師なんだっていう、こちら側の考え方の問題ね。これは一般的な意味だと思う。
 もう一つ、もっと深い意味でいうと、「本当にみんなわが師」って考えがある(笑)。つまりそういう「考え方」ではなくて、つまりその師というのは、師匠というのは、つまりクリシュナとかと同じで、もし師匠が完全な解脱を果たしているとしたら、それは密教ではよくダルマカーヤとかいうわけですが、ダルマカーヤっていうのはつまり、すべてに偏在してるわけですね。クリシュナみたいに。よって、みんなわが師なんだね。で、そのみんなわが師である存在が、自分がもしその師匠と完全に師弟関係があるとしたら、師匠っていうのは当然弟子の修行を進める方向で動き出すから、いろんな現われとして師匠が現われて、自分の修行を進めてくれるんだね。これがマハームドラーの一つの修行の特徴というかな。
 しかし、これからいくつか続く物語見ると分かるけども、みんなもそうだろうけども、大体分かんなくなるんです。分かんなくなるっていうのは、分かりやすくないんだね、だからね。分かりやすいんだったらいいですよ。あるいは予告するんだったら分かりやすいよね。例えば師匠が、例えば「明日五時ごろ、おれの現われが現われるから頑張れよ」と。「ちょっと観念崩されるかもしれないけど頑張れよ」と。そしたらちょっと身構えて「え? これか!」と。「うわっ! でも師匠だから頑張るぞ!」ってなるんだけど、そんな簡単な問題じゃない。
 逆にいうと、忘れたころにやってくる。例えばこの物語でもそうなんだけど、一個試練で失敗してナーローが「ああ、失敗した」と。「よし、次からはすべてを師と見るぞ」と。ね。で、この物語見ると分かるんだけど、大体パターンがチェンジするんだね。つまりある種の何か試練がやってきて失敗しちゃって、「ああ、わたしはあまりにも自分の煩悩によって、これを自分の師と見れなかった」と。「でも、次は絶対見るぞ」と。ガチガチにこっちで固まってるんです。すると全然違う方向から今度はやってくる。だからこっちで頭が固まってるから、全く不意なところからやってくるから、今度はそれもまた師と見るっていうのができなくなるんだね。
 たとえば日常的な例で挙げると、例えば誰かにすごく傷つけられたりひどいことを言われたりして、で、すごい傷ついたと。あるいは言い返してしまったと。そこでハッとして、「いや、すべての現象はわが師の現われである」と。「そう見えなかった」と。「わたしは相手を実体視してしまって、すごく相手を責めてしまった」と。「こんなんじゃいけない」と。「次にそういうことがあったら絶対わたしは師と見るぞ」って思うわけだね。で、もちろん次そういうことがあるかもしれない。そしたらそれはもちろん「師の現われだ」って見て、頑張ってそれを抜ければいいんだけど、でもそうじゃなくて、そういうふうに思ってるときに全然違うことがやってくるんだね。全然違うことっていうのは本当に、全くジャンルから違うっていうか。つまり誰かが自分を傷つけるじゃなくて、逆に自分を誘惑してくるかもしれない。あるいは第三者的な存在として現われるかもしれない。全く自分の予期せぬ形でやってくる。で、それでまた心を乱される。で、自分はこっちに目が向いてるから、「ちょっと何やってんの? わたしは今これを待ってるんだ」(笑)、で、こっちで乱されて「もういい加減にしろ」と。で、こっちが師だったりするわけだね。こういう感じでこう振り回されるっていうかな、これがマハームドラー的な師弟関係の特徴なんだね。で、まさにナーローはこれにはまっていくわけだね。
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・マハーバーラタ 第44話 後編」

2018-04-20 21:09:00 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・マハーバーラタ 第44話 後編」です。
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