ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

「上に引き抜くこと」

2018-05-12 14:01:38 | 解説・ナーローの6ヨーガ

◎上に引き抜くこと


【本文】
☆上に引き抜くこと(ポワ)


 死に際して意識を上に引き抜くというこの教えは、無上ヨーガタントラの大きな特徴の一つである。これは非常に大きな意味のある教えなので、努力して修習しなければならない。

 ポワの法を死の際に実際に実践するには、身体の気道が浄化されていなければならない。浄化されていないのにイメージだけでポワを行なっても、それは意味がない。
 よって生きているうちに、チャンダーリーの火の修行によって、気道を清浄にしておく必要があるのである。



 この「上に引き抜くこと(ポワ)」っていうのは、これはね、つまり、何て言うかな――解脱を生きてる間にもしわれわれがしたならば、必要ない教えです。つまりこれは、まあぶっちゃけて言えば、まず解脱者には必要ない。それから、高い世界に生まれ変わることが確定している人にも必要ない。つまりこの教えが必要な人っていうのは、修行結構やってきたんだけど――つまりね、東大に入ろうとして、一生懸命受験勉強してきたけど、かなり不安だと(笑)。そういう感じだね(笑)。一生懸命修行してきたけど、結局もうすぐ死ぬんだけど、解脱できてないと。しかも絶対的に人間界とか天界とかに行けるかっていったら、何か地獄に落ちる可能性もあると。「やばいんじゃない?」と(笑)――そういう人のための最後の最後のスーパーテクニックだね。もうおまけみたいなもんです(笑)。「しょうがねえな」って感じ(笑)。
 つまりもう一回言うけども、解脱してたらもう生死とか自由になってるから関係ない。で、高い世界に生まれ変わることが決まってたら、もうほっとけば行くわけだから関係ないね。じゃなくて、このポワっていうのは――まあ後から出てくるけども――自分の意志の力で、自分の魂っていうかな、それを高い世界にガーンッて放り投げる修行なんだね。
 でもここに書いてあるように、イメージだけでやってもそれは意味がないよと。つまり、この間のバルドの教えでも出てきたけど、ちょっと簡単に言いますけどね、われわれが死ぬと、エネルギーとそれから意識の塊みたいなものが、人間の穴のどこからか抜けますよと。またはチャクラの場合もあるけど。つまり鼻とか口とか耳とか目とか肛門とか性器とかから抜けますよと。それによって生まれ変わる世界が決まってしまうと。で、一番いいのはこの頭のてっぺんから抜けること。こうすれば解脱の世界か、もしくは高い天の世界に行きます。高い天ってうのは、梵天とかね。つまり高位のアストラルとかのすごい高いところに行けますよと。
 で、普通は――何度も言うけど――自然にそうなるのが最高なんです。自然にそうなるっていうのは、生きているうちから、ほっとけばエネルギーが頭に集中するような状態になってたとしたら、死んだら頭に集中する。それによって頭から自然に抜ける。でもそうはなっていない。何か死んでほっといたら、「あれ? 何かエネルギーの流れが下になってた! やばい!」と(笑)。このタイプの人が、ウッと現実的にエネルギーを操作できるようにしといて、無理やりエネルギーをガッと上に上げてしまう。で、意識をポーンと抜けさせる。これがこの修行なんだね。
 ――ということはもう一回言うけども、イメージだけではしょうがないです。本当にエネルギーを操作できなきゃいけない。で、本当にその意識っていうものを自分の意志の力によって移動させることができるようになってなきゃいけない。これがこの修行です。
 まあだから複雑だよね。相当な上級者にはいらない教えなんだけど、かといって簡単に達成できる教えでもないっていうか(笑)――っていう感じがするね、これはね。ただチベットの多くの信者たちは、この教えを普段からやってるっていわれています。ただそれは現実的にできるかどうかは別です。つまり、まあ気休めじゃないけども――つまりやっとけば、死ぬときに間違わないだろうっていう感じで、多くの人がやってるんだね。このポワの教えをね。ただどの程度の人がこれを現実的にできるかっていうのは、まあ分からないね。なかなかそれは大変だと思います。


(K)先生確か若い頃に、意識がバーッて上に飛んで行って、宇宙にまで行く体験があったって、そういう話を昔していらっしゃいましたよね? それってこれと関係してくるんですか?


 それはね、そうかもしれない。つまり前生とかで、そういう経験をしてたかもしれないし。それは分からない。そうかもしれない(笑)。


(K)よくたまーに誰かがそういう宇宙にいくみたいな話をするんですよ。で、地球を見下ろすみたいな話をするんですけど、何かそういう本当に物理的な上昇なんですよね? もうちょっと内的な意味が含まされた上昇だったのかなって。意識の上昇って。


 意識の上昇は物理的――あのね、つまり物理的に言うと、まずね、その前の段階で、意識の塊みたいのがあるんですね。で、それに意識が完全に没入する状態がある。で、没入したとするよ。没入して、それがグーッて動くと、自分もグワーッて上昇してる感覚があるんだね。そういう感じだね。だからそれは物理的な動きがあって、それに意識が没入してるから――前わたし若いころによく経験したのが、いわゆるクンダリニー・ヨーガとかでエネルギーを回す修行があるわけだけど、エネルギーを回すって、意識の塊みたいなものを中心にエネルギーをグワーッて回すわけだね。これやってたら、それに意識が入っちゃったことがあって、ジェットコースターみたいに、「ウワーッ! ウワーッ!」って(笑)――でも本当にそうなるんです。その段階でバーンッて上に抜けたら、わたしはもう仏陀(笑)。まあ、例えばだけどね。


(K)それって小周天の話ですよね?


 まあ、やってることは小周天。でも小周天自体はそこまで普通行かないんです。ここにわたしがいて、「はい。回ってますね」って感じでしょ? でもそれが高度になると、そこに意識が入っちゃうんです。つまり自分が「ウワーッ!」って(笑)――で、ここまで行かないと、つまり駄目なんです。だって自分がここにいてさ、エネルギーがポーンッて、「何かどうしたんだろう?」――これじゃ全然上に行ってないじゃないですか(笑)。で、こいつに意識が完全に没入しなきゃいけない。没入して、で、その没入したものをボーンッて行くから、もう自分はここに入ってるんです。だからボーンッて行ったってことは、自分が「ウワーッ!」って感じで行ったってことです。感覚的にはね。


(K)自分の経験では、小周天のとき、こんなに小さくなくて、これぐらい大きいのがグルグルしてた感じがしたんですけど。


 いや、それはそれぞれのイメージだからさ。現実的には小さいです。だから本当はね、イメージするときも小さくイメージした方がいいんだね。どういうふうに感じるかっていうのはその人のいろんなカルマであるとか、エネルギーの状態によって変わってくるけども。実際にはすごく小さくイメージするんだね。


(K)気の塊でもなくて、意識の塊なんですか?


 意識の塊――いや、回ってるのは気だけど――つまり、気に乗って意識が動いてるんです。でもそうじゃない場合もあるよ。つまり意識はどこかにあって、気だけが回ってる場合もある。でもこれはそうじゃないんだね。この修行をするには、気の流れに意識をしっかり乗せて、意識をボーンッて行かせなきゃいけない。――っていうことは、まず第一段階で、そもそもエネルギーをいじくれなきゃいけない。エネルギーをコントロールできなきゃいけない。で、コントロールする際に、もちろん気道が詰まってちゃ駄目だよね。詰まってたら動かないから。だからまず気がしっかり通ってて、で、エネルギーがコントロールできるようになってて、エネルギーに意識を乗せて、それを動かせるようになってないと駄目だと。だからこれもなかなか基礎的なことができてないと駄目だっていうことですね。
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「睡眠の光明のプロセス」

2018-05-11 21:26:51 | 解説・ナーローの6ヨーガ

◎睡眠の光明のプロセス

【本文】
 よってまず覚醒時に、実際にプラーナを中央気道に入れることができるように懸命に修行すべきである。
 そのように熟達したならば、眠りに入る前に心臓にフーム字を観想することによって、簡単に睡眠の光明を経験できるであろう。

 睡眠の光明があらわれるプロセスは、まず煙のようなヴィジョンがあらわれる。
 次に陽炎のようなヴィジョンがあらわれる。
 次に蛍が飛び交うような、赤いピカピカした光があらわれる。
 次に風のない場所に置かれた灯火のようなヴィジョンがあらわれる。
 次に白い滴があらわれ、月の光のような輝きがすべてに行きわたる「明らかな光」があらわれる。
 次に赤い滴があらわれ、太陽の光のように赤またはオレンジの輝きがすべてに行きわたる「明らかな増大する輝き」があらわれる。
 次に黒い滴があらわれ、夜の暗闇がすべてに行きわたったような「成就間近」が生ずる。その前半においては意識があり、後半においては意識をいったん失うが、それは過失ではない。
 次にその真っ暗な意識不明の状態から目覚めて、明け方の澄んだ空のような「一切空」あるいは「光明」と呼ばれるものがあらわれるのである。
 その最後の光明の中にできるだけ長い間とどまることが重要である。



 これは何回か出てきたけど、つまりこの睡眠の光明だけではなくて、起きてるときのサマーディの状態、あるいはわれわれの死んだときにも同じプロセスが生じます。つまり、このパターンを睡眠の中でも経験するのが、この光のヨーガの睡眠を利用した修行だってことですね。
 で、最終的な最後の光明。これはよく英語の訳とかではクリアーライトとかいったりしますが、透明な純粋な光。ここに没入すると。で、そこから意識を失って寝ちゃうんじゃなくて、その光明の状態を、寝ながら、睡眠のままで、できるだけ長く保ちなさいということですね。
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「高度な注意」

2018-05-10 22:38:23 | 解説・ナーローの6ヨーガ



◎高度な注意

【本文】
 覚醒時の修行においてチャンダーリーの火のヨーガをしっかり修習し、プラーナを中央気道に入れて空を経験できる者は、眠り始めに心臓にフーム字を観想することによって、2、3日かからずに、睡眠の四つの空を経験することができる。

 覚醒時に四つの空を完全に体得できていなくても、至福・光・無分別のサマーディを堅固に保てる者が、睡眠の前にそのようなサマーディに入り、その後に眠りにつくことによって、睡眠のサマーディに入ることができるが、これは無上ヨーガで定義するところの「睡眠の光明」ではない。しかしながらこのような素養を持つ人が、心臓にフーム字を観想しながら眠りに入るならば、本当の「睡眠の光明」を得ることに徐々に近づいていくであろう。




 まず、さっきから言ってるように、覚醒時、昼間の修行において、ちゃんと中央気道に実際にエネルギーが入り、本質的な空の経験のできる人は、さっきから言ってるように、睡眠のときにフーム字に集中すれば、素晴らしい――つまり起きてるときに経験してるのと同じものだから、睡眠のときにもその四つの空を経験できますよと。
 しかしここでいってるのは、さっきも言った四つの空ね。白い光、赤い光、暗闇、そして透明な光――これを経験できてないと。しかしその前に言いましたが、その前の段階で、「至福・光・無分別」っていう段階があります。つまりもう一回言うと、素晴らしい光、そしてエクスタシー、そして心が止まった状態ね。これは前も言ったけどね、これは全部セットで来るというよりは、その人の修行の進み具合によって、どれかが強かったり、どれかが弱かったりします。この段階の瞑想っていうのはね。つまりある人は心は止まってるが光がない、暗いとかね。ある人はすごい光で、すごい気持ちいいけど、心はざわめいてるとかね。それぞれの得意分野って違うから。もちろんこれが全部揃えば素晴らしい。で、この経験のサマーディが、かなり確定されてると。しかしその上の、さっき言った四つの空とかはまだ経験できてないと。このタイプの人が寝る前にね、自分の得意なパーッと至福と光と心が止まったサマーディに入って準備オッケーとして寝ましたと。そしたら素晴らしいサマーディ――寝ながらそのサマーディの状態に入れるけども、それはここでいってるのとはちょっと違うんだよと。
 何ていうかな、だから高度な注意だね、これはね。今みんなに言ってもしょうがないっていう感じの注意なんだけど(笑)。でもまあそういうことですね。しかしそのタイプの人であっても、何度も何度もこのタイプの観想をするならば、擬似的な状態ではなくて、本当の睡眠の光明に近づきますよということですね。




◎至福・光・無分別


 だから、皆さんはそのさらに前の段階だね。みなさんはまずはその至福・光・無分別。これさえもほとんどの人は多分経験できていない。だからまずはこれを経験できるようにしたらいい。
 もちろんね、実際じゃあ何やればいいのかっていうと、やることはいつも言ってることと同じなんだけどね。日々の修行と、それから日々の生活における念正智の実践と、あとしっかり教えを学ぶとかね。そういうのをしっかり繰り返すしかない。
 だからバロメーターって考えたらいい。それを繰り返して、「はい、瞑想で何が起きましたか?」「どうなったらいいんでしょうか?」――つまりそれがここの三つなんですよと。もう一回言うけども、エクスタシーと光と無分別――つまり心が止まりましたっていう段階ね。この三つがどれだけ強いか弱いかが、このサマーディのバロメーター――第一段階でね。四つの空とかはさらにその上にあるわけだけど、第一段階ではこの三つのバロメーター。
 だから例えば――それはさっきから言ってるように、個人個人で、この三つの何が得意か違うから、だから人と比べるのはあんまり意味がない。例えば「おれは光が弱いけど、あいつは光が強い。おれは劣ってる」とか考える必要はない(笑)。でも心の停止は自分の方が優れてる場合もあるからね。それは人それぞれだから。あくまでも自分の中で――つまり以前の自分よりも、その三つが伸びてるようにしなきゃいけない。前は光が見えなかったけど、最近は光が見えるとか。あるいは前は心が止まってなかったけど、最近はある一定期間、一定時間心が停止したような経験をするとかね。あるいは前は全然瞑想しても気持ち良くなかったけど、最近はワーッていう感じでエクスタシーに包まれるとかね。その辺をバロメーターにしたらいいね。
 もうちょっとね、これに関して実用的な話をすると、まずエクスタシーを強めたかったら、肉体を使った帰依とか奉仕の修行が一番いいです。まあ例えば行法としては五体投地とか一番いいね。つまり自分の体をいじめて、帰依をするっていう修行ね。あるいは別パターンとしては奉仕行ね。例えば自分の師匠とか聖者のために――ミラレ―パみたいに一生懸命――つまり、ここで問題は結果じゃないんです。つまり、「さあ、奉仕によって、わたしは師匠のために大きな家を建てました」と。でもそれはコンピューターで、「エイッ」て作ったのかもしれない(笑)そういう結果をいってるんじゃなくて、そのためにいかに自分の肉体をボロボロにしたかが大事なんです。一生懸命自分の体を使って、これだけの奉仕をしましたと。あるいは布施でもいいよ。布施も、一生懸命身を粉にして働いて、ボロボロにして、それをお布施しますと。これによって、われわれの現象界レベルの浄化が起きるんだね。で、これがわれわれのエクスタシーにつながります。だからエクスタシーを増したかったら――これは一つの方法ですよ。一つの方法だけども――そういう効果的な方法がある。
 で、次に光をもっと増したかったら、今度はこれはアストラルの世界がやっぱり中心なんだね。だからできるだけイメージを浄化する。イメージを浄化するっていうのは――現実的に言うとですよ、あまり関係の無い本とかテレビとか、もちろん映画とか、そういうのを観ない。できるだけ、もちろん正しい教えを書いた本を読み、で、イメージももちろん普段から聖なるイメージでいっぱいにする。普段から神々のことをイメージしたりとか、いろんな瞑想のイメージをし続けたりとかっていうのは必要ですね。もちろん光の根本には功徳が必要なので、これもだからしっかりと布施とか奉仕とか法施とかで徳を積み続けるっていうのはもちろん大事だけども、それプラス今言ったアルトラルの浄化ね。これがとても重要になってきます。
 で、もう一つ言うと、言葉のカルマも非常に重要です。つまり普段から正しい言葉を語り続ける。もちろん嘘をついてはいけない。あと人の悪口を言ってはいけない。じゃなくて、優しい言葉。あるいは人を励ます言葉。あるいは法施ね。真理の言葉を語る。あるいはもちろん経典を読むとか、マントラを唱えるとかでもいいけど――つまり言葉の世界も非常にここは関係してくる。あと逆に、人から悪口を言われる。これは最高です。だからこの最高のシチュエーションとしては、みんなにいい言葉を言いまくる。で、みんなからは悪口言われまくる(笑)。これは最高です(笑)。 よくこういうことを嘆く人がいるけども。「わたしはみんなに本当に優しくしてるのに、みんなから悪口言われるんです」と。わたしはそういう相談されると、「最高のシチュエーションだ」と(笑)。「それは祝福だ」と答えます(笑)。それはもう考えられる最高のシチュエーションです。それによってその人のアストラルと呼ばれる心のイメージの世界が超浄化されます。で、それも光の増大にとてもつながるんだね。
 あと光に関しては、もちろん気道の浄化が必要です。だからこれはプラーナ―ヤーマとかムドラーとかいった、物理的な気道をしっかり浄化することによって、光が見えやすくなります。
 それからちょっと戻るけど、エクスタシーに関しては、さっき言った肉体をいじめて帰依をするっていうだけではなくて、当然もう本当に基礎としては禁欲が必要ですね。禁欲をしっかりして、徳を積んで、で、肉体を使って奉仕をすると。これはとても素晴らしい。
 で、最も深いコーザルに関係するのが、心の停止ね。つまり無分別っていうやつですね。で、これはもちろん普段から教学をしたりして心を静めるっていうのは、もちろんベースなんだけど、それだけじゃなくて、バクティ・ヨーガ的な――つまり、常に神に、もしくは自分の師に、心の本性に――あるいはこの宇宙の本性に、常に心を向け続ける訓練ね。これが一番いいかもしれないね。それによって、余計なその他の思いとかが一切止んでいきます。
 つまり無分別――無分別って、何もないっていう意味じゃないからね。分別が無いと。でもこの分別が無いっていうのは、ちょっと誤解を恐れずに言えばですよ――これは言葉の問題なので難しいんだけど、誤解を恐れずに言えば――一つの分別しかないとも言えるんです。つまりこれはどういうことかって言うと、例えばバクティ・ヨーガだったら、「ああ、この世は神の愛でしかない」と。「この世はただ神の愛だ」と。で、バクティ・ヨーガっていうのは、ほとんど最後の最後の一歩手前までは、分別状態です。つまり二元的な状態です。で、最終的な、その「神の愛しかない」っていう状態に没入するんだね。これは仏教とかでやる帰依の修行も同じだけど、自分の師とか、あるいは仏陀とかに心をずーっと向け続ける。で、その向け続けるときに、心の本質みたいなものを自分なりにイメージして、で、それに対してグーッと心を向け続ける。これは一つのいい修行だね。
 あともう一つ、また別の方面から言うと――さっきの言葉とかと同じでね――みなさんが修行とか、正しい生き方をしたがゆえに、もしくは神とか仏陀とか自分の師とかに帰依をしたがゆえに、心が傷つけられる。心がズタズタになる。これが最高のシチュエーションです(笑)。これがみなさんを無分別状態に導く――実はてっとり早い方法です。
 実は今話してる話っていうのは、秘儀的な話なんです。秘儀的なっていうのは、オーソドックスな話じゃないんです。オーソドックスなやり方ではなくて、「ちょっと裏技教えますよ」という話なんだね(笑)。オーソドックスに言うと、さっきから言っているように、まず禁欲して、戒律を守って、徳を積んで、はい、それによってエクスタシーが高まり、で、しっかり心の浄化をしましょうと。あるいはイメージの浄化をしましょうと。これだけでもいいんだけども、裏技を言うと、それだけじゃなくて、痛めつけるっていうプロセスがあると一気に進むんです。
 もう一回まとめるけど、まず帰依や奉仕のために肉体を痛めつける。それは例えば五体投地――だから五体投地とかみなさんやるときも、激しくやるといんだね。そーっとこう怪我しないようにゆっくりとやるんじゃなくて(笑)、バーンッ(笑)――だからちょっとやってみるとね、「よいしょ【五体投地をする】」――こういう感じでやるんじゃなくて(笑)――わたしもね、昔よくやってたのは、わざと――あの、思いっきりぶつける必要はないよ。そこまでやる必要はない。つまり勢いつけて、うわーってやる必要はない。でも投げ出すようにやるんだね。投げ出すっていうのは……

【五体投地をする】

 ――こういう感じでやるんです。こういう感じのやり方をやってると、まあ経験あるだろうけど、まずね、クラクラしてきます(笑)。それから額とか手から血がダラダラ流れてくる。で、膝はもう超痛くなります(笑)。でもそれでも構わずやるんだね。構わずやり続ける。そうすると相当肉体レベルの浄化が起きます。で、これがエクスタシーに最終的につながっていきます(笑)。大変な話だけどね。
 で、正しい言葉を語る。そして正しいイメージを持つ。これがオーソドックスな方法なんだけど、裏技として、それプラス、悪口を言われると。ただ悪口を言われるって、別にわざわざ言われる必要はないけども、そのような状況に立ったときに、そこから逃げないっていうことだね。それを喜びとすると。
 あるいは心の問題も同じね。修行とかして、あるいは正しい生き方をしようと思ってたらカルマ落としがやってきて、いろいろ心がズタズタにされる状況がやってきたと。で、その状況で逃げることもできるわけです。ちょっと一旦置いておこうかなと。ちょっと心が辛いから、この件に関してはちょっと置いておこうっていうことができるわけだけど、「いや、これこそチャンスだ!」と思って、自分の心を徹底的にボロボロにする。もちろん背景には、何度も言うけど、真理とかあるいは修行っていうのがなきゃ駄目ですよ。それを持って、しかし心はボロボロにされると。ね。これは最高のシチュエーションです。
 あと帰依とかね。例えば最高なのはさ、K君の話とかでもあったような気がするけど、例えばKくんがね、「おれは仏陀が好きなんだ」と。「おれは修行したいんだ」と。「修行します!」って言って、で、それを例えば、全く理解のない親とかにね、もうボロクソに言われると。でもK君は、「いや、わたしは仏陀に帰依する」と。でも親からは「お前そんなわけわかんないことやって!」とワーッて言われて、それでK君の心がうーっと苦しいと。これは最高の修行です(笑)。これは一つの例だけどね。うん。で、そうなったときに――だからわざわざそうする必要はないんだけど、わざわざそういう環境を作り出す必要はないけども、そうなったときに逃げないと。それを喜びと考えると。これは一つのいい修行ですね。


(K)そのときしかも、両親にご飯作って、部屋を全部片付けて、家の家事全部やって、おばあちゃんの面倒も見て、何もかもやってる最中に、こうワーワー言ってきたので、ちょっとびっくりしました。
 

 それは最高の修行だね。自分は奉仕して、正しい言葉を語り、正しい行ないをなすと。でも周りからカルマを落とされる。それは最高だね。
 はい。ちょっと話が飛びましたが、とにかくこの至福・光・無分別。これがわれわれの瞑想のバロメーターになります。
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「昼間の準備修行」

2017-09-07 07:51:29 | 解説・ナーローの6ヨーガ


◎昼間の準備修行

【本文】
 昼間の修行において、三宝を供養し、イダムに供物をささげ、睡眠の光明を保つことと、それへの障害を取り除いてくれることを祈願する。
 そして自分をイダムとして観想し、またグルヨーガを行ない、睡眠の光明を保つ祈願を何度も行なうべきである。



 これも準備段階ね。まず、昼間の段階においてこういうことをしなさいと。こういう感じでしっかり修行して夜の準備をしなさいということですね。




◎光のヨーガの寝方

【本文】
 実際に寝るときには、頭を北に向けて、右わきを下にして横になるライオンの寝方をする。自分をイダムとして明らかに観想し、心臓に四枚花弁の蓮華を観想し、その中央に青いフーム字を観想する。



 「実際に寝るときには、頭を北に向け」――頭を北に向けるっていうのは、日本ではよく北枕っていわれて良くないっていわれるけど、仏教とかでは、あとチベットとかでは、いい寝方とされるんだね。で、おもしろいことに、その理由はどっちも実は同じなんです。なぜかというと、「お釈迦様が寝るときに頭を北に向けて寝た」っていわれてるんだね。で、日本人はそれを否定的にとって、だからそれは縁起が悪いって言うんだけど(笑)――じゃなくて仏教の伝統では、それが最高の寝方っていわれてる。で、それにエネルギー的な根拠があるかどうかは分からない。つまり北っていうのは北極があるから、そういう磁場の影響とかで、そういうのがあるのか、もしくは単純にお釈迦様がそうだったからっていう意味でいってるのかは分からないけど、まあ伝統的にはそういわれるんですね。
 わたしも偶然……北枕かな、今、多分(笑)。よく寝てるのは。でもまあ、あんまり気にしなくていいと思う。うん。例えばベットが南向きだった場合ね、「北枕だ」って言って、無理やり逆に寝る必要はない。でももし自分である程度操作できるんだったら、北枕がいいですよと。
 そして右わきを下にして寝るね。これもまあ仏教で――これもね、二つ意味があります。ひとつは、これもお釈迦様が死ぬときにそうやって死んだんだね。つまりこういう感じですね。右手を枕にして、こういう感じで――まあリアルに言うとね(笑)、右手を枕にして、で、左右の足を重ねる感じです。こういう感じです。こういう感じで寝るんだね。こうしてお釈迦様は死にましたと。
 で、それだけではなくて、その寝方の方が――つまり密教的に、あるいはヨーガ的にいうとね、人間の体っていうのは右と左の気道がありますよと。で、右の気道っていうのはラジャス。つまりわれわれを活発にする気道なわけだね。で、左の気道っていうのはタマス。つまりわれわれの心とか体をスローダウンさせる気の流れですね。で、寝てるときってどうなりますか? つまりタマスに偏りがちだよね、当然ね。つまり非常に停滞した意識状態になりやすい。それは当たり前なんだけどね、寝てるんだから。で、右わきを下にするっていうことは――これは一つの説だけど――つまりわれわれは肉体を持ってる以上、重力の影響を受けるんです。あと血流ね。血流と気の流れってとても関係があります。つまり右わきを下にすることによって、血流とかがグーッと右側に集中します。で、気の流れも右側に集中しやすくなります。つまりちょっと活発なエネルギーが動き出す。つまりそれでバランスがとれるんだね。つまり寝てるんだけど、鮮明な意識を保ちやすい。だから左を下にして寝ると、逆にかなりタマスになります。よく寝る。
 実際ね、実は――みなさんどうしてるか分からないけど、わたしはほとんど右わきを下にして寝ます。もしくは仰向けどっちかですね。でもまあ七、八割はこうやって寝ます。でも実はですよ、実は、本当のこと言うと、わたしは左を下にした方が好きなんです。よく寝れるんです(笑)。でもそれはタマスだって分かってるから、無理やり右で寝てる(笑)。
 みなさんも実験したらいいかもしれない。こういうこと言うと――やっちゃ駄目だけど、よく寝たかったら左を下にした方がいい(笑)。でもそれは無智になります。だから右を下にした方がいい。「いや、実はうつ伏せで寝てます」っていう人も中にはいるかもしれない。それは餓鬼の寝方です。餓鬼に堕ちます(笑)。実際そうなんだね。まあわたしはそれはね、多分ね、わたしの経験で言うと、お腹のチャクラに気が集まるからだと思うね。お腹のチャクラは餓鬼の世界と繋がってるので――つまり餓鬼っていうのは、低い霊的な世界です。だからうつ伏せでばっかり寝てると、ちょっとそういう悪い低い霊の世界と繋がりやすくなる。だからあんまり良くないね。だから寝るんだったら、ヨーガみたいにシャヴァ・アーサナで仰向けで寝るか、もしくは仏教的に右わきを下にするか、そのどちらかがいいと思います。まあもしくは頭陀的にね、座って寝るでもいいよ、もちろん。椅子とかでね。あるいは座法を組んで寝るっていう人がいたら、それはもう最高だけどね。横になるんだったら右わきを下か、仰向けがいいですね。
 はい、そしてその姿勢のまま「自分をイダムとして明らかに観想し」――あの、もう一回言うけども、今から説明する内容も、これは現実にこれが完璧にできるのは相当高い段階です。しかしまだみなさんは、そこまでいっていない真似っこの段階だけども、これをやることのメリットはあります。これはこれでみなさんの修行を進めてくれるので、やりたい人はこれもやったらいいと思う。だってどうせ寝るでしょ? どうせみんな寝るわけだから(笑)、だったらその時間を利用して、こういうのやるとやらないとでは、やった方いいね。
 もちろんこの前の方で夢のヨーガっていうのもあったよね。そっちでもいいです、もちろん。この夢のヨーガとか、光のヨーガの真似事にね、ちょっと寝るときにチャレンジしてみるっていうのは、まあいいことだと思うね。
 はい。で、「自分をイダム」――イダムっていうのは、つまり神様ね。仏教とかヨーガのいろんな神に、自分が変身したっていうふうにまずイメージすると。そして「心臓に四枚花弁の蓮華を観想し、その中央に青いフーム字を観想する」と。





◎二つの観想法

【本文】
 そして残りの四つの花弁にも種字を観想する方法と、観想しない方法がある。

 前者の方法においては、まずア字に心を向け、眠り始めたときにヌ字に心を向けることによって、第一の空である「輝く光」があらわれる。次にタ字に心を向けることによって、第二の空である「増大する輝き」があらわれる。次にラ字に心を向けることによって、第三の空である「成就間近」があらわれる。次にフーム字に心を向けることによって、第四の空である「一切空」があらわれる。

 後者の方法においては、ただ中心のフーム字にのみ集中する。



 これは技術的な話ですけど、つまり二つやり方がありますよと。一つはフームだけじゃなくて、その四つの花弁に「ア・ヌ・タ・ラ」という四つの文字を観想し、その一つ一つに集中していくやり方ね。で、もう一つはそういう面倒くさいやり方じゃなくて、ただフーム字だけをイメージし、ひたすらそのフームに集中しながら睡眠に入るというやり方。で、これは実際、もしみなさんやりたかったら、フーム字だけでいいです。ただフーム字を観想し、それにひたすら集中する。で、眠りに入るというかな。それがいいと思います。




◎堅固なサマーディの経験

【本文】
 これはどちらのやり方をとってもかまわない。

 ただし、昼間に堅固なサマーディの経験がないと、睡眠の空を保つことは難しい。



 これはもう「えー!?」って感じだけどね(笑)。つまり、「昼間に堅固なサマーディ」、本当にもう確固とした、はっきりした、しかも持続的なサマーディを経験してないと――つまりここまでいっておいてね、でも昼間にしっかりサマーディ経験しないと難しいよって(笑)。「えー!?」って感じなんだけど。
 でもさっき言ったように、もう一回言うけども、でも別にサマーディに入れてない人でも、それはそれでメリットがあります。だからやりたかったらやったらいい。
 あの、ここでいうサマーディっていうのは、中間ぐらいのサマーディのことだと考えたらいい。あのね、サマーディっていう言葉ってとても広いんです。よくサマーディとか三昧とか使われるけど、本当の本当のサマーディっていうのは――ちょっとこういうこと言うとあれかもしれないけど――本当の本当のサマーディっていうのは、聖者でもそんなにしょっちゅう入れません。一回でも入れればそれはものすごいことだね。本当のサマーディっていうのはつまり究極的なね、サマーディね。じゃなくて、多くの場合、多くの人が「ああ、サマーディだ」とか言ってるのは、非常に初歩的なサマーディなんだね。初歩的なっていうのはつまり、言ってみれば深い意識に入りましたと。で、この深い意識の中にもいろんなレベルがあるわけだけど。で、それを非常に広い意味でサマーディといってる。
 じゃなくて、ここでいってるサマーディっていうのは、もうちょっと深い。でもその究極的なところまでは行っていないサマーディですね。それは例えば仏教でいう「四つの静慮」とかね。ああいう世界。つまり例えば――まあこれは何回か言ったけど、一つのそのバロメーターとして、素晴らしい光――これはさっき言った本質的な最後の光ではないけども、素晴らしい光が生じ、ものすごいエクスタシーが生じ、そして心がピタッと止まる段階ね。例えばね。これが非常に純粋さを増していくっていうかな。こういったサマーディ。あるいは、ここに書いてあるような四つの空ね。四つの空っていうのは、まず白い光が登場し、赤い光が登場し、そして暗闇に入り、そして透明な光が登場するっていうプロセスがあるわけだけど、こういうのを経験するとかね。こういった経験っていうのは、ものすごく結構大変だけども、でもまあ頑張れば何とかできる経験ですね。
 で、こういったサマーディを昼間にしっかり堅固にすると。つまり堅固にするっていうのは、確定させるっていうかな。で、それができてる人にとっては、睡眠のときにフーム字に集中すれば、簡単にその境地に入れますよということだね。
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「睡眠の光明を生じさせる方法」

2017-09-05 10:21:33 | 解説・ナーローの6ヨーガ

◎睡眠の光明を生じさせる方法


【本文】
2.睡眠の光明を生じさせる方法


 睡眠の光明を生じさせる場合には、まず栄養のある食物をとり、寒すぎず暑すぎない環境の中で寝るように心がける。
 また、ある教えには、なかなか睡眠の光明を生じさせられない場合は、2、3日間眠らずにいてからやってみるべきだとも述べられている。


 この睡眠の光明っていうのは、前の方でも出てきましたけども、つまり寝るときってわれわれは心臓に必ず意識が――意識っていうかな、エネルギーが集まるようになってるんだね。寝るときってね。で、死のときもここに集まります。で、光のヨーガでもここに集めようとしてるんです。で、寝るときは頑張らなくても自然にここにエネルギーが集まるから、それをうまく利用すれば、この光のヨーガ、光明というものを経験しやすいんですね。よって睡眠を利用した修行をしたりするんですね。
 そのまず基礎的な話として、「まず栄養のある食物をとり、寒すぎず暑すぎない環境の中で寝るように心がける」ということだね。だから例えば、寒い中で頭陀の修行として寝ると。それはもちろん素晴らしいことだと。あるいは超暑いときに、もちろんクーラーとか入れずに、もう苦行として寝ると。それはもちろん素晴らしいけども、それは心を鍛えるとかカルマを落とすとかいう意味では素晴らしいけど、光のヨーガには向いてないと(笑)。光のヨーガをやるときは、非常にゆったりとしたいい環境で、ある程度の栄養も摂って寝た方が、その状況は作り出しやすいですよっていうことですね。
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「サハジャの光明の維持」

2017-09-05 10:04:10 | 解説・ナーローの6ヨーガ



◎サハジャの光明の維持

【本文】
 そのような土台をしっかりと固めた上で、自分自身をヤブ・ユムのイダムとして明らかに観想する。その心臓のダルマ・チャクラの中の日輪座に青いフーム字を観想し、そこから光が放たれ、すべての世界を浄化して、すべての衆生がその光に溶け込み、フーム字に吸収されると観想する。
 次に、自分の身体も、フーム字に溶け込んでいく。それからフーム字の「ウー」の部分がハ字に溶け込む。そしてハ字が三日月に溶け込んでいき、三日月がティクレに溶け込む。ティクレはナーダに溶け込み、ナーダは空に溶け込む。

 壺の呼吸法を行ないながらこれを行なうことによって、実際に左右の気道のプラーナが心臓の中央気道の中に入り、とどまり、溶け込み、四つの空の順序で、すぐれた光明があらわれる。そのときに、大楽の心だけは、不動なものとして保ち続けるべきである。

 もともとチャンダーリーの火の修行によって「サハジャの大楽」を生じさせることができるようになった者ならば、このやり方によって、サハジャの光明は簡単に維持できるであろう。



 これはもう一回言うけども、先ほど言ったように、そもそも普段から中央気道に気を入れ、そのエクスタシーと空が一体化したような状況を経験できるようになった人が、この呼吸法ね――瞑想を入れた呼吸法をやることによって、簡単に本質的な光明に没入し、それを維持できますよと。
 でもそれは相当なレベルの高い話だね。まだそこまでは皆さんは行っていない。ただしね、そこまでは行ってないけども、この呼吸法自体はとても利益があります。つまりわれわれはまだ――みなさんはまだサハジャの大楽すら経験していない。経験していないんだが、経験してないから、これをやっても本質的なここでいってる光明は経験できないんだけど、でも修行のプラスにはなります。だからこの修行はこの修行で、やりたかったらやってもいいね。
 ここでいっている壺の呼吸っていうのは、単純にクンバカのことです。つまり息を吸って、息を止めると。それだけね。で、バンダは普通はしなくてもいいんだけど、肛門はした方がいいと思う。何でかっていうと、人間の意識って下に下がりがちだから、肛門ぐらいしっかり閉めといた方がいい。で、普通お腹のバンダはしません、このチベットの呼吸法のときはね。で、喉のバンダはどっちでもいいです。したかったらしてもいい。で、これは胸に集中するので、胸にグーッと力を込めるような感じで息を止めるんだね。
 で、ここに書いてあるような観想を行なうんですね。まず自分の胸にフームね。フームという字をイメージして、フーム字から光が放たれ――まあこのパターンっていうのはいろいろね、観音様の瞑想とかいろんなパターンであるけども、パーッと光が放たれて、ワーッてすべての衆生がこの自分の胸のフーム字に入ってきて、で、自分の体自体も光に溶け込んで、フーム字にガーッて吸収されると。はい、フーム字だけになりましたと。この宇宙にはもうフーム字しかありませんと。で、そのフーム字も、下の方からサーッと上に向かって溶け込んでいく。で、最後にちょっと細かく言うとね、ティクレって書いてあるけど、ティクレってフームの一番上のまあるいやつです。あれに溶け込むと。で、ナーダってあるけど、ナーダっていうのは、本当はフーム字ってナーダはないんだけど、こういうちょっと縦のひょろっとした形のやつをナーダっていうんですね。だからこの瞑想をするときは、そのフームの上にナーダと呼ばれるこういう感じのをイメージして、最後にそれだけになって、それも最後に溶け込んでいく。で、最後にその一切が溶け込んだ光だけの世界をイメージしながら息を止めるんだね。そういう瞑想法があります。
 で、これは――つまりみなさんが今の段階でこれをやっても、それはただの真似っこです。真似っこだけど、利益はあります。それはそれでやりたかったらやったらいい。だからそういう意味では、これはムドラーなんだけど、いわゆるヨーガ系のムドラーと、チベット系のムドラーがあるわけだけど、まあ好きな方をやったらいいね。でもいつもいうように、みなさんにとってまず利益があるのはヨーガ系のムドラーです。つまりここでやってるようなヴァーヤヴィーヤとか、マハー・バンダとか、そういうムドラーね。つまりヨーガ系っていうのは気をガーッて上げる効果が非常に高いんだね。で、チベット系のムドラーは、気を上げる効果はあまり高くないんだけど、非常に深い意識に入る効果が高い。で、われわれに日々まず必要なのは気を上げることなんだね。つまり気が下がった状態で深い意識に入ると変な経験をするから。「チベットのムドラー毎日やってました」「どうなりましたか?」「なんかおどろおどろしいものが出てきました」(笑)。つまり、気が上がってない状態で深く入っちゃったから、変な世界に入っちゃいましたと。それはあんまりよくない。で、ヨーガ系の場合は、普段日々活動しててね、気が下がりがちだから、それをまずガッと上げてくれる。そうすると素晴らしい意識状態になる。で、もちろんヨーガ系のムドラーも深い意識に入るから、そのまま瞑想すればいい経験をすると。もちろん組み合わせてもいいけどね。ヨーガ系のムドラーやって、こういったチベット系のもやるのでもいい。それはまあ好きに使ったらいいと思います。


(K)「三日月に溶け込んでいき」の三日月って象徴か何かなんですか?



 違う違う。三日月は、今日は面倒だからフーム字を書かなかったけど(笑)、じゃあ一応書くけどね。フーム。フームというのは、こういう字なわけだね。ちょっと雑ですけど……まあこんな感じなんですね。で、そこにまず書いてある、ウの部分が溶けこんでいくって、ウの部分ってこれです。前にチベット語勉強した人は分かると思うけど(笑)、これはチベット文字の――まあちょっとチベット文字の勉強になっちゃうけど、このフームっていうのは、実際はいくつかに分解できるんだね。まずこの文字っていうのは、このね、この部分の文字っていうのが――まあ言ってみればここは「H」です。もしくは「ハ」ですね。ハというチベット文字なんですね。で、これが「U」なんですね。つまり「HU」でこれで「フ」。で、この部分が伸びる音ですね。だからこれでフーなんですね。で、これが消える音。つまり「ン」ですね。これで、フーンっていう音になるんだね。で、ここでいってるウーの部分っていうのは、この一番下の部分。つまりここからまず上に向かってサーッと溶けていきますよと。で、次にハの部分。つまりこの部分もサーッと溶けていきますよと。で、溶けた段階で、今度はこれだけになりますね。で、ここに三日月っていうのはこれね。三日月も溶けていきますよと。で、ティクレっていうのはこれですね。で、これだけになるわけだけど、このティクレも溶けていって、で、宇宙にこれだけになると。ね。で、これも最後に消えますと。で、光だけの世界になる。そういう瞑想なんだね。これはまあ、実際はこの瞑想だけではなくて、いろんな瞑想で応用されます。だからチベット系のこういう瞑想ではよく出てくる。そのパターンがね。このフーム字をイメージして、消していくっていうね。
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「サハジャの大楽」

2017-09-02 14:15:08 | 解説・ナーローの6ヨーガ

◎サハジャの大楽

【本文】
 これを経験するには、プラーナが中央気道に入り、とどまり、溶け込むというプロセスによって生じた、「サハジャの大楽」を得、それにしっかりと習熟することが必要である。


 なかなか大変ですね。まずこれを経験するには、いつもこれは六ヨーガ関係のときは言ってますけども、まずポイント――物理的ポイントとしては、プラーナを中央気道に入れなきゃいけませんよと。ね。中央気道っていうのはつまり、われわれの身体のど真ん中を走ってる気道があるわけです。普通はこの気道は使ってないんです。この気道が使われるときっていうのは、死の時です。死の時にはこの気道に気が入るんです。で、修行者は――特にこの六ヨーガとかの修行者は、生きていながらこの中央気道に気を入れようとする。で、これはすべてクンダリニー・ヨーガとかそういった――あと仙道とかも全部同じです。全部最後に目指してるのは、この中央気道に気を入れる。で、それを実際に行なうことによって、強烈なエクスタシーが生じます。で、強烈なエクスタシーと空の経験ね。空の経験っていうのは、一切は実体がなく、単に実体がないだけじゃなくて、さっき言った二元を超えた、言葉では説明できない本質的な世界があるわけだけど、そこに没入する。それとそのエクスタシーが混じり合ったような経験ね。これをサハジャの大楽っていってるわけですが。
 つまりもう一回言うけども、クンダリニー・ヨーガ系の修行によって、しっかりと中央気道に気を入れ、で、その先のプロセスもあるわけですが――それによって空とエクスタシーを経験し、それが混ざり合ったような経験をすると。で、実際ね、現実的な話を言うと、おそらく一生懸命修行しても、それを経験するのはとても大変なことです。しかし頑張れば経験できるかもしれない。でもそれはね、例えば経験したとして、多分最初は一瞬です。一瞬っていうか、例えば数秒かもしれない。数秒その状態を経験しました。でもすぐにまた元に戻ってしまう。あるいはうまくいけば三十分とか経験できるかもしれない。でもまたすぐに元に戻る。しかし頑張って――つまり、それで満足せずに、何度も何度もその経験をできるように頑張ると。それが習熟するってことだね。
 もちろん理想としては、いつでもその状態に行けますよっていうのが理想だけど、そんな甘いもんじゃないんだね。修行って全部そうなんだけど、到達することも難しいけども、それを確定させるのは非常に難しい。到達しただけでもそれは素晴らしい。でもそれは一回かもしれない。また元に戻っちゃうかもしれない。だからそれを何度も何度も、今言った状態に「習熟」するわけですね。はい。で、これは土台ね。さらにその先があります。
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「光明を生じさせる方法」

2017-09-02 10:11:48 | 解説・ナーローの6ヨーガ


20090419 解説・ナーローの6ヨーガ⑧




◎光明を生じさせる方法

 今日はナーローの六ヨーガ――まあたぶん最後かもしれないですね。今日は新しい人も含め、結構多くの人が参加していただいて、申し訳ない気がするんですが、かなりマニアックな(笑)――つまりこの六ヨーガ自体がかなり高度でマニアックなんですが、特にこの最後の部分は結構高度っていうか、マニアックっていうか……皆さんにあまりしばらくは関係ない話なので、まあ後々のね、われわれが到達するような話として見ていったらいいですね。はい。じゃあまず読んでみましょう。



【本文】
☆光明を生じさせる方法



1.覚醒時に光明を生じさせる方法


 光明には、「共通の光明」と、「無上ヨーガタントラの特別な光明」の二つがある。

 「共通の光明」は、大乗であろうと小乗であろうと、マントラヤーナであろうとパーラミターヤーナであろうと、所作・行・ヨーガ・無上ヨーガのどの方法によろうとも、有と無や常と無常などの二元を離れ、ものの本質である空性に到達したときに生じるものである。

 「無上ヨーガタントラの特別な光明」も、本質的には「共通の光明」と同じなのだが、サハジャの大楽という方法によって空性を悟り、経験する光明なので、「無上ヨーガタントラの特別な光明」と呼ばれるのである。これは別名、「サハジャの光明」とも呼ばれる。



 ここでいう「光明」というのは、瞑想して、「何か先生光が見えました。明るくなってきました」――というものとは全く違います。つまりレベルが全く違うんだね。
 つまりここに書いてあるように、「どの方法によろうとも、有と無」――有と無って分かるよね?――つまり「物は存在してるんだろうか? 存在していないんだろうか?」。われわれは普段存在していると思ってる。でもある種の瞑想経験では一切が無いような感じがする。しかし最終的にはその有と無を超えた、言葉では表わすことができない、一元的な世界に入るんですね。または常と無常ね。一般的にはもちろん「すべては無常ですね。移り変わりますね。」しかしそうじゃない常に見える世界がある。しかし真実は常と無常を超えてる……とかね。つまりその二元を超えた世界――それを空性といってるわけですが――そこに入ったときに生じる本質的な光なんだね。
 本質的な光ってどういう意味かっていうと、つまり一般的な光ではないんです。一般的な光っていうのは二元でしょ。つまり闇の逆の言葉でしょ、光っていうのは。つまり光があるから闇があると。逆にいうと、闇っていうのが存在するから光っていうのが成り立っている――じゃない光なんです(笑)。本質的な光なんだね。だからこれは本当に最終的な高度な話をしてるんだね。で、それが「共通の光明」。
 で、「無上ヨーガタントラの特別な光明」も、これもいってることは同じ。つまり境地としては同じなんだけど、そこに達する方法論が、サハジャの大楽という方法によって空性を悟る。これはつまり、この前の方でね――これはまたみなさん、この本を買った人はね、最初の方を――まあ全体的に難しいんだけど(笑)――復習したらいいと思いますが、ものすごいエクスタシー、つまりこれも本質的なエクスタシー、気持ちいい状態を経験しつつ、空の世界に入っていく修行。これがこの六ヨーガに代表される「無上ヨーガ」、つまり「この上ないヨーガ」といわれる道の特徴なんですね。で、その果てに経験する光なので、光自体は同じなんだけど、サハジャの大楽という強烈なエクスタシーと共に没入する光なので「サハジャの光明」といわれますよ、ということですね、ここは。
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「バルドとアストラル」

2017-09-02 09:34:38 | 解説・ナーローの6ヨーガ


◎バルドとアストラル

 はい。じゃあ最後に何か全体的に質問があったら聞いて終わりにしましょう。



(T)先生、バルドとアストラルの違いってあるんですか。



 違い? つまりアストラルっていわれるのは「場」だよね。場。バルドっていわれるのは「状態」というか。つまりバルドっていった場合は、まずさっき言ったように、無色界――つまりコーザルといわれる世界に行って、その後、アストラルの霊的な世界に来ます。で、よくいわれる、さっきから言ってる霊的な身体を使っていろんな経験をするのは、全部あれアストラルです。だからアストラルっていうのはつまり、場所のことなんだね。で、バルドっていうのは、場所というよりはそういう状態のことなんだね。だから経験してるのは同じアストラルです。でもバルドじゃなくてもアストラルには行けるわけだね。
 例えばバルドじゃなくて、普通に瞑想の達人がね、意識的にアストラルに行くこともできる。あるいはバルドじゃなくてアストラルに住んでる人もいっぱいいるから(笑)、普通に。それはだからアストラルっていうのはまさに場所なんだね。でもわれわれはアストラルをよく知らない、普通はね。だからバルドっていう状態によってアストラルを経験したら、それイコールバルドっていってもそれはおかしくないかもしれないけど。
 そうだな、例えば昔――ちょっと話が飛ぶけどさ、オーストラリアって流刑地だったんだね、昔ね。囚人が追放される所だった。例えば囚人がこうオーストラリアに追放されましたと。その囚人にとってそこはどこですか? それは流刑地です。でもオーストラリアはオーストラリアだよね。そういうことですね。つまりバルドなんだけど、アストラルはアストラル。もともと住んでたアボリジニとかいるわけだし(笑)。そこは今も昔もオーストラリアはオーストラリア。でも考え方っていうかな、状態としては、彼らは流刑地に飛ばされたっていうことになる。
 

(K)先生、その、普通に瞑想してて、さっきの四段階ありましたよね。地、地の元素が崩壊してとか、あれ。それを経過しないでいきなりこうアストラルに入るっていう瞑想もあるっていうことですか。


 うん? だから、そうそう。アストラルは――さっき言ったのは死のプロセスの話だから、別に死のプロセスを経ないでも――あの、アストラルっていうのは非常に意味が広いです。例えば夢もアストラルだから。あるいはもっといえば、潜在意識もアストラル。だからわれわれが例えば夢じゃないけど、瞑想、あるいは瞑想じゃなくてもちょっと深い意識に突っ込んじゃいましたと。で、なんか普段考えてなかったようないろんな思いが出てきたと。これもアストラルです。あるいは例えばドラッグをやっていろんなのを見ると。これもアストラルです。だからアストラルって広いんだね、意味としては。つまり意識の段階を三段階に分けて、表層の意識、それから最も深い心の本質の意識、で、その中間の、心の本質まではいってないけどもわれわれが普段考えてる意識よりはちょっと深い世界。これをアストラルっていってるんだね。

(K)バルドの体験ってコーザルから始まるっていうじゃないですか。でもこう普通に瞑想したら逆に現象界からこう深く入っていくわけですよね、どっちかっていうと……。

 そうだね。うん。

(K)っていうことはクリアライト――普通に瞑想してクリアライトを見るためには、逆にこう最後の方に見えてくる感じ?

 ん?

(K)普通に瞑想して……

 あ、っていうかね、バルドも同じです。バルドもね、つまりそのプロセスでいうと――元素が崩壊しますね。で、四つの空を経験しますね。これがつまりこの世からアストラル、コーザルへと向かっている道筋なんです。で、はい、コーザルのバルドに来てクリアライト来ました。そこからまた逆流してくるんです。これがバルドなんです。

(K)じゃあ、クリアライトが見えてる人っていうのは、もう無色界まで瞑想でいけてる人なんですか。


 本当のクリアライトだったらね。でも光っていっぱいあるから、「クリアライトだ」とか言っても全然違う光かもしれないよ。


(K)じゃあ、あの、ちょっとまた話が違っちゃうんですけど、サンヤマとかでラージャ・ヨーガ的にサマーディを目指す場合は、クリアライトとかの話出てこないと思うんですけど、クリアライトを通らずにサマーディに入っていくってことですか。

 いや、その場合は、だからそのサマーディの意味にもよるんだね。サマーディって意味が広いから。ただ本当の本当のサマーディだとしたら、それはそのクリアライトっていうか、コーザルの本質的な光に飛び込むわけだけど、ただそれがここで書かれてるプロセスを踏むかどうかは別。
 つまりもう一回言うけども、このプロセスっていうのは物理的なんです。物理的っていうのはつまり、物理的に体の操作をして、死と同じ状態を作り出すんです。それによって死と同じプロセスでコーザルに入っていく。でも別に死と同じプロセスを通らなくてもコーザルには入れる、アストラルにも入れるっていうことだね。


(K)分かりました。

 はい、他何かあるかな。はい、じゃあ特になかったら終わりましょう。


(一同)ありがとうございました。
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「その他の方法」

2017-09-02 09:25:23 | 解説・ナーローの6ヨーガ


◎その他の方法

【本文】
 バルドを自由に乗り越える方法は、基本的には、これ以外にはない。
 その他、普段生きているときから、「私は死んでいる。すべてのあらわれはバルドである」と常に意識することを訓練したならば、死の時に意識を保つことはできるかもしれないが、力は弱い。
 あるいは、実際には「四つの空」が生じていないが、そのイメージだけを修習した場合も、死の光明を少しは保てるかもしれないが、やはり力は弱い。



 これは分かるよね。つまり生きてるときから――まあこういう修行も実際あるわけだけど――すべてはバルドだと。わたしは死んでるのだと。つまり、もうこの予行演習を生きてるうちからしとくと。つまり「ああ、これバルドなんだ」と。「ああ、ここに現われている全員、バルドの現われに過ぎない」。こういうことやってたら、つまりその習慣によって死後も「ああ、バルドだ」ってなるかもしれないけど、そのやり方は、やらないよりはいいが力は弱いよと。そんなに有効じゃないよ、ということだね。
 で、次に、イメージでその、さっきからやってる四つの空ね、これを修習してた場合も、まあ少しはプラスになるかもしれないけど、これも本当にその空を経験した場合と比べて、やっぱり力は弱いですよと。
 よって、理想はね、本当に四つの空を経験しましょうと。で、それを死後の世界でもちゃんと保つ訓練をすると。それ以外にないってここではいってるわけですね。




◎重要な道の基礎

【本文】
 よって、死の光明を明らかに経験し、バルドを自由に乗り越えたいと思う者は、表面的な技術に走ることなく、実際に中央気道にプラーナを入れることができるように、チャンダーリーの火のヨーガなどを、正しく努力して実践すべきである。
 そのようにして実際にプラーナが中央気道に入り、とどまり、溶け込み、四つの空を生じさせ、また睡眠の光明も経験するべきである。
 そして、覚醒時の光明と、睡眠時の光明から、それぞれ優れた幻身として生起することを修習するならば、死の光明を経験し、バルドを乗り越えるための、すぐれた力を獲得することになる。

 よって、チャンダーリーの火の修行に励むことこそが、重要な道の基礎であるということを思念しなさい。



 はい、これはまとめですけどね。何度も言うように、いろんな補助的なテクニックはいろいろあるけども、それはまああくまで補助であって、結局中心的なものはチャンダーリー、つまりクンダリニーのヨーガですよと。つまりクンダリニー・ヨーガをしっかりやって、物理的に中央気道に気を入れて、で、その四つの空をしっかり経験しておきなさいと。
 つまりこれは、ナーローの六ヨーガっていうのはまさに、さっきから言ってるように、結局チャンダーリー、クンダリニー・ヨーガから派生する六つのヨーガなんだね。だからクンダリニー・ヨーガにおける達成が一番大事ですよ、とここでいってるんだね。
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「母と息子の光明」

2017-09-02 07:54:15 | 解説・ナーローの6ヨーガ



◎母と息子の光明


【本文】
 生きているうちに修行によって経験する四つの空を「息子の光明」と呼び、死の時にあらわれる四つの空を「母の光明」と呼ぶ。修行者は、死の時に、「息子の光明」を「母の光明」に混ぜ合わせる。

 それをするには、覚醒時にプラーナを中央気道に入れ、とどめ、溶け込ませたうえで、四つの空、特に四番目の空に慣れておかなければならない。また、睡眠時に、どれだけ睡眠が深くても、睡眠を光明と混ぜ合わせられるようにしておかなければならない。

 死の光明を死の光明であると認識し、息子の光明と混ぜ合わせることができたならば、その後にバルドがあらわれるプロセスもハッキリと認識できるので、バルドを自由にわたることができる。



 これも何度も同じ繰り返しですけどね。生きてる間に経験した四つの空。これは息子の光明と呼ばれます。で、死んだ後に経験する、その死の空、これを母の光明と呼ぶと。で、それを混ぜ合わせるんだと。
 混ぜ合わせるっていうのはつまり、簡単にいうと、自分の生きてるときに経験してきたその空の状態をグーッと生起させて、実際に死後に訪れる状態と混ぜ合わせる。溶け込むと。
 はい、それは――それを実際になすには、何度も言うように、生きてる間に中央気道にエネルギーを入れるクンダリニー・ヨーガ的な修行、そしてそこから生じる四つの空――特に四番目の空に慣れておかなきゃいけませんよと。あるいは睡眠のときに――これは夢のヨーガとか光のヨーガの修行によって、その睡眠自体をね、その光り輝く空に混ぜ合わせる修行をしっかりやっとけと。
 はい、そして、それができていれば死の光明をしっかりと認識し――もちろん完全に認識して、そのまま悟りの世界に入ることもできる。しかしそれができなかったとしても、その後にバルドを明確に認識し、そして自由に渡る。
 つまりこれは何をいってるのかというと、みなさんよくさ、死者の書とかの教えで、いろんなバルドの渡り方が書いてある。つまり「はい、この状態ではこうなるからこっち選んじゃいけませんよ」とか書いてあるね。でもあれは、普通は不可能なんだね。不可能っていうのは、何度も言うけども、まず大部分の人は気絶します。気絶っていうのはつまり、意識がよく分かんない状態でバルドを行くので、死んで、気づいたら他の世界にもう生まれ変わってる。これは最悪の状態。で、もうちょっと意識がある場合は、さっき言ったみたいに、非常に混沌とした意識です。混沌とした意識だから自分が死んだのかどうかもよく分かってない。分かってないし、例えば「よし、おれは死んだから今こそバルドの教えを使おう」なんてことは考えられないんだね。そこまでは意識が明確じゃない。
 じゃなくて、このバルドの四つの空をしっかりと認識し、でも悟りまではいかなかった。でも認識はできた。この状態でバルドに入った場合は、まさに理想的な――つまりいろんなものが現われるんだけど、ちゃんと記憶もあって、例えば食べ物が現われた。神が現われた。いや、それは当然こっちでしょと(笑)、神を選ぶ。ね。明確な意識で正しくバルドを渡れるんですよと。あるいは例えば自分の師匠とかね、自分のずーっと敬愛していた神とかが現われたきたら、「いやあ、もうそこに行きます」と。ね。そういう感じで正しく、潜在意識のエネルギーに惑わされずに、死後の世界を渡ることができますよということですね。
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「四つの空の認識」

2017-08-27 07:53:21 | 解説・ナーローの6ヨーガ


◎四つの空の認識

【本文】
 四つの元素が撤退していく兆しがあらわれてきたなら、いずれかの方法で生命エネルギーを中央気道に集め、四つの空をハッキリと認識するように努めるべきである。そして最後の光明があらわれたときに、できるだけ明らかなサマーディの境地にとどまるべきである。



 これはつまり「ああ、そろそろ死ぬのかなあ」って思ってたら、あれ? なんか体に力がなくなってきて沈み込んできたと(笑)。ね。で、なんか陽炎が見えてきたと。あるいはなんか口と鼻の中が乾いてきて、舌があーって縮んできたと。煙のヴィジョンが見えてきたと。ね。そして体がだんだん冷えてくると。こういうようにもう明らかに元素が撤退してるって分かったら、「やばい! もうちょっとだ!」と(笑)。「もうすぐ四つの光が始まる!」と。でも普通の人はなかなかその四つの光も明確には認識できない。よって、「いずれかの方法で」って面白いけども、ムドラーやったりとか(笑)・・・・・・でもこの段階ではもうできないかもね(笑)、ムドラーはね(笑)。だからしっかりと神や師を思念するとか、まあとにかく生きてる間に慣れ親しんできた方法を使って、グーッてこの中央気道に意識を、エネルギーを集中させなさいと。そして明らかにその最後のね、一切空、クリアライトと呼ばれる透明な光を経験しなさいっていうことですね。
 つまりこれは本当にリアルな話なんです。リアルに、なんでこういうね、死の時にこうなりますよっていうことが教えとしてあるかっていうと、リアルに、「あ、もうすぐ死だ」っていうことを自分で理解して、その準備をするためなんだね。こうなってきたらもう死だから、本腰入れてちょっと準備しなさいと。そして、さあもう次だよ、次来るよ、来るよ……はい、来た! はい、それをしっかりと認識しなさいと。こういうすごくリアルな教えなんだね。




◎サマーディにとどまる

【本文】
 死の光明の時、プラーナと心が中央気道に集まり、プラーナが心臓に溶け込むことによって、もろもろの二元的な分別は寂滅し、雲のない虚空のようになる。それをハッキリと確認し、サマーディの境地にとどまるべきである。

 死の時にこれをスムーズに行なうには、生きているうちから「空の教え」を学んでおくことと、「楽空無差別」のサマーディに慣れ親しんでおくことが必要である。
 ジェツン・ミラレーパも、次のようにおっしゃっている。

「死の光明は法身であり、そうであるものをそうであると知らねばならない。
 そのためには、すぐれたグルに師事して、
 もののありかたの真の意味と、
 道の光明を、
 学び、理解せねばならない。」



 これはね、何をいってるのかっていうと、われわれが死んで、さっきも言ったその四つの空を経験し、最後に透明な光に溶け込む。これは誰でも経験するわけです。ね。つまりそれはもう物理的にみんなその経験がやってくるんです。
 ここでまず最悪のパターンとしては、気絶です。気絶っていうのは、全く認識できない。意識がもう完全に飛んじゃって、バーッていろいろ起きてるんだけど、本人は全く暗闇にいると。これは最悪。
 じゃなくて、ある程度修行してると、その状態には入れます。で、そのときに、ここに書いてあるようなちょっとこう二元的なものが消えていき、つまりそれはヴィジョン的に虚空っていうよりは実際虚空のような感じになるんだけど、意識もちょっとこう二元性から解放されたみたいな感じになるんだね。
 で、問題はここで、われわれがその空の境地というものを全く経験がないとしたら、そうですね、恐怖が出るか、もしくは何の意味もなく過ぎ去ります。何の意味もなく過ぎ去るっていうのは、ワーッてその空の境地に否が応でもこう引き込まれるんだけど、その価値とか意味とかを全く理解できずに、「何だこりゃ」ってぼーっとした感じで、次のバルドに移行します。もしくはすごい恐怖が出ます。「うわー! 自分っていうものがなくなっていくー!」「おれを形成してるものが、わー! なくなっていってしまう!」っていう恐怖があります。これでもやはり固定されないっていうか、その悟りの世界に一瞬足を踏み入れるんだけど、またすぐにバッと二元の世界に戻ってきてしまいます。
 よって、生きている間にちゃんとやっとけと(笑)。生きてる間に空の――まあ、生きてる間も怖いんだよ。生きてる間に例えば本当にみなさんが空と呼ばれる境地に足を一歩踏み入れたら、非常に怖いです。つまりもう概念を超えた世界になるから。何だこりゃって感じで怖くなる。だからそれを何度も何度も練習して、慣れ親しんでおきなさいと。
 これはいつも言うけどね、この空の話っていうのは本当はできないんです。なぜできないかというと、言葉にした段階で嘘になるんだね。これはもう経験するしかない世界の話なんです。あるいは近い言葉で表わすしかないね。「二元を超えた」とかそういう近い言葉でしか表わせないんだけど、ストレートに表わせないんです。
 これは何度も言ってるけど、わたしも例えばそういった非常に深い、空的な境地を経験した後に、みんなに話そうとしたとするよ。例えばそれを木曜日に経験して、土曜の勉強会で話そうかなと思ったとするよ。二日もたったらもう忘れてます。忘れてるっていうのは、頭では覚えてるけど、心はもう忘れてます。だから言うことはちょっと違ってます(笑)。それだけ言葉とか概念を超えた世界なんだね。でもそれを何度も慣れ親しんでると、感覚的にそれに対する理解というかな、安心みたいなのが出てくる。そうすると死後も同じ世界に飛び込むから、そこで安定し、まあよくすればそのままその世界に没入し、仏陀になることもできるかもしれない。最高にいい場合ね。でもそこまでいかなくても、その素晴らしいむき出しになった悟りの境地っていうのを十分に味わうことができるかもしれない。それができるように、ちゃんと普段からそういった――まあここで「楽空無差別に慣れ親しんでおく」って書いてあるけど、それ自体が大変なんだけどね(笑)。
 楽空無差別っていうのはつまり、最高の空の境地をまず経験し、そしてそれと同時に最高の楽――つまり前のね、チャンダリーの方に出てきた四つの楽といわれる、つまりこれは完全にクンダリニー・ヨーガの素晴らしいエクスタシーの状態です。これはね、一般的にはそういわれてないけど、わたしは原始仏教でいう第四静慮だと思うんです。これはね、わたしだけの説です。密教でいう四つの歓喜っていう教えがあるんだね。四つの歓喜、四つの楽っていうのは、原始仏教の四つの静慮に対応するっていうのが、私の個人的な考えです。最終的に原始仏教では最後の第四静慮、これは不苦不楽の境地っていってるんだけど、密教においては楽空無差別の境地といってる。まあちょっとこれは表現の違いがあるんだけど。
 つまり楽空無差別って変だと思わない? 楽っていうのはさ「ハーッ、気持ちいい!」ですよ。空っていうのは、一切が消えてる。その二つが差別がない、つまり混ざり合ったような状態っていってるんだね。これが最後の瞑想というか、段階ですよと。これをしっかりと経験しろと。それは非常に難しいんだけどね。だからこれもその人の能力とか努力によって、どこまで経験できるかにもよるけども、とにかく自分のその――ここの文脈でいうとね、クンダリニー・ヨーガ的な、例えば気道を浄化し、甘露を落とし、体を歓喜で満たし、心を純粋な至福で満たすような修行をしっかりと進めると。で、同時に、心を空にしていく。
 この心を空にしていくっていうのは、何度も言うけども、ちょっとみなさんにリアルな指導をすると、わざわざ「空だ、空だ」ってやる必要はない。それよりは待った方がいいです。待つってどういうことかっていうと、しっかりと真面目にみなさんが修行をしてたら、あっちからやってきます、空の境地っていうのは。
 例えば、「さて、今日も修行するか」と。「ああ、先生からこれやれって言われたマントラ唱えるか」。わー……って唱えてるうちに、ウーッて意識が変わってパーッて空に入ったりしちゃう(笑)。そういう方がいいんだね、本当はね。「よし、じゃあ空に入りましょうか」。「ウーッ……空」とかやってるよりはね。こんなんで入れるとしたら逆に大聖者です、その人は(笑)。自在に空に入れるとしたら――それはもちろんそういう境地になっていくんだけど、最後にはね。でもまだまだそこは無理だと考えてください。だから「空だ、空だ」ってやるよりは――もちろんね、空のある程度概念は学んでおくことはいいことだよ。でも、「空だ、空だ」ってやるよりは、心を本当に純粋にするような、あるいは与えられたいろんな修行、これを徹底的にやることによって自然に空の境地がやってきます。そしたらそれを大事にして空の経験を高め、そしてその純粋な至福の経験も高め、で、最終的にはそれが合一するんだけど。そこまでいくかどうかは別にして、そういう修行をしっかりやっときなさいと。
 はい、そしてそれがうまくいけば、死後に現われる光を悟りの光そのものとして認識し、その素晴らしい経験をできますよっていうことですね。
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「四大元素の撤退」

2017-08-26 15:06:46 | 解説・ナーローの6ヨーガ


◎四大元素の撤退


【本文】
【死の兆候とプロセス】

 実際に自分に死が迫ってきたことは、どのようにして知ることができるのか。

 要約すると、まず身体の地元素が撤退していくとき、身体を動かすことができなくなり、身体の力を保てず、力が抜け、身体が地面に沈みこむような感じがする。
 内的経験としては、陽炎のようなヴィジョンが見える。

 水元素が撤退していくときは、口と鼻の中が渇き、舌が縮む。
 内的経験としては、 煙のようなヴィジョンが見える。

 火元素が撤退していくときは、体が徐々に冷えていき、熱は体のどこかに集まっていく。
 内的経験としては、蛍の光のようなヴィジョンが見える。

 風元素が撤退していくときは、吐く息が長くなり、息を吸いづらくなる。
 内的経験としては、不動の灯明の火のヴィジョンが見える。



 はい、これはつまり実際にね、事故とかで急死する場合、あと病気とかで急死する場合は除いて、こう静かにグーッと死のプロセスをいく場合、まずこれは「撤退」ってあるけども、つまりこのね、われわれの肉体っていうのは、いつも言うように地・水・火・風、もしくは空も入れる場合もあるけど――まあ空っていうのは空間とか意識なので一応除いといて、地・水・火・風でできてますよと。
 つまり地っていうのは固体であると。水っていうのは液体の部分。で、火、火元素っていうのが熱エネルギーですね。体温とか。で、風っていうのがいわゆる気とかプラーナとかいう生命エネルギーです。
 で、死んでもさ、別に死んだ時点では肉体は消えるわけじゃないよね。つまり地元素の固体とか、あと水元素の血液とかがパッと消えるわけではない。でもここでいってるのは、その奥にある――つまり実はこの地元素の奥に固体のおおもととなってる微細な地のエネルギーっていうのがあるんだね。これが肉体から撤退するんです。これが完全に撤退したらもう生きてられないんです。しかしまずその撤退が順番に始まっていくんだね。このプロセスです。これがこういう形で始まりますよと。
 だから死の時には誰もがこういうような経験をね、まあちょっと意識が朦朧としてたら分かんないかもしれないけど、はっきりとした意識があるとしたら、こういう感じの経験を自覚として経験しますよっていうことですね。
 はい、そしてこのようにだんだん体から四大元素のおおもとみたいのが撤退していって、で、その後で次にその四つの光のプロセスに入るわけですね。



◎四つの死の光明

【本文】
 それから初めの「明らかな光」が、雲のない虚空に月の光が輝くようにあらわれる。

 次に、「輝き増大する光」が、何もない虚空に太陽があらわれたような、赤あるいはオレンジの光としてあらわれる。

 次に、「大いなる空」とも呼ばれる「成就間近の光」が、何もない虚空が夜の暗闇に覆われたようにあらわれ、何の思念もなくなってしまう。

 そしてその暗闇の昏睡から目覚めるとき、「一切空」と呼ばれる光明があらわれる。それは明け方の何もない虚空のような光明である。

 これらの死の光明を経験しているとき、もろもろのプラーナは心臓の「不壊なるもの」に溶け込み、頭の白いボーディチッタは下に下がり、へその赤いボーディチッタは上に昇り、それらが心臓で合一する。



 はい、このようにまず元素が崩壊、撤退していった後に、この四つの光の経験をするんですよと。このように物理的には心臓に頭の白いエネルギーと臍の赤いエネルギーがグーッと昇り、意識もその心臓の中に溶け込んでるんですよということだね。われわれは眠るとき、睡眠のときにもエネルギーや意識がこの心臓に集まります。よって死の時のその光を経験しやすいんですね。その物理的な作用を利用してるっていうことだね。
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「それぞれの生命体がバルドを渡る方法」

2017-08-26 14:41:34 | 解説・ナーローの6ヨーガ



◎それぞれの生命体がバルドを渡る方法


【本文】
②それぞれの生命体がバルドを渡る方法

 最も優れた生命体は、生きているうちに仏陀の境地に至るので、完全に生死からもバルドからも自由になっている。

 優れた生命体で、しかし生きているうちに仏陀の境地には至れなかった者は、バルドにおいて仏陀に至る。

 その他の生命体は、死が近づいたなら、すべての財産を師や聖者に供養し、すべての欲を捨てて、悪業を懺悔し、心に何のとらわれもなくし、覚悟を決めて死を迎えるべきである。
 生きているうちにバルドの教えを何度も修習し、真理の教えを思念しつつ、息子が愛する父の部屋に行くように、喜ばしい心をもって死を迎えるべきである。
 それから自分をイダムとして明らかに観想し、面前にグルと種々の仏陀や菩薩を観想し、それらに供養して、「死の光明を悟り、バルドにおいて幻身を成就できますように」と強く祈願するべきである。

 「中くらいの生命体」は、生きているうちに、生命エネルギーを中央気道に集めること、四つの空を経験すること、その空からイダムとして生起すること、また睡眠の四つの空を経験すること、夢の幻身と、夢から変化身として目覚めることなどを、繰り返し修習しておかなければならない。



 これは、最初の二つは、さっき言ったことですね。生きてるうちに完全に完成した人は、それはもうバルドとかは関係ないですよと。次に、ほぼ完成していた魂は、バルドの瞬間に仏陀になりますよと。
 で、そうじゃない、その他大勢の普通の魂は、「死が近づいたなら、すべての財産を師や聖者に供養し、すべての欲を捨てて、悪業を懺悔し、心に何のとらわれもなくし、覚悟を決めて死を迎える」と。
 財産を師や聖者に供養するって分かるよね、この意味は。T君、どういう意味だと思いますか。


(T)徳を積む。


 そうだね。一つは徳を積む。もう一つは?


(T)執着を取る。


 そうだね。徳を積むっていう意味と執着を取るっていう二つの意味があります。
 つまり一つは、その師や聖者への供養によって、高い世界に行くための徳をしっかりと積むと。
 で、もう一つは、財産にとらわれていたらその財産にまつわる世界――例えばお金にとらわれてたら餓鬼になっちゃうし、権力とかにとらわれてたら――まあその権力の種類にもよるけどね――餓鬼、もしくはその人が本当は天界に行けるはずだったのに阿修羅になっちゃうとか、いろいろある。よって、一切のとらわれをなくさなきゃいけない。
 で、それを、一番いいのは、自分の師とか聖者に供養すると。で、もちろん物質的なそういった供養だけじゃなくて、心の中からもできるだけそのようなとらわれ、欲、すべて捨てると。そしてその死の準備をしなさいと。
 もちろん、そんなこといっても、急死するかもしれない。だから布施、あるいは供養っていうのは、生きている間から徹底的にやっといた方がいいね。
 例えばT君が大金持ちで、「いや、先生、僕死ぬ直前になったら、徹底的に布施しますよー」とか言ってたら、明日死んじゃうかも(笑)。「ああ、あのときやっとけばよかったのに……」。

(一同笑)

 「ちょっと徳足りなくて変な世界行っちゃったね」――って言われるかもしれない(笑)。だからできるときに布施とか供養っていうのは徹底的にやっといた方がいい。うん。
 さっき言った徳を積む、それから執着をなくす、もう一個加えるとしたら、絆を強めるっていうのがもちろんあります。自分の師、あるいは聖なる存在との絆をそれによって強くしていくんだね。まあいつも言うけど、本当はそれが一番大事なのかもしれない。
 徳を積むっていうこと、それからとらわれをなくす――つまり浄化をするっていうこと。それから絆を強める。この三つが修行のポイントだと思います。それは今言った話だけじゃなくて、日々のいろんな修行もそれを狙ってやってるわけだけど。
 この中で最高のことを挙げるとしたら、絆を強めるっていうことです。これは何回か言ってるけどね。つまり徳があるってことは、もしわれわれが死んで徳があったとしたら、もう何の障害もなく、普通にスムーズにいい世界に行きます。膨大な徳があったらね。次に、執着とかあるいは心のけがれとかがあるっていうのは、これは逆に、われわれが低い世界とのいろんな引きずり下ろされる絆ができちゃってるっていうことです。で、そうじゃなくて師や聖者と絆を作るっていうのは、その師や聖者や神々、仏陀というものから垂れてるロープみたいなものに、しっかりとつかまってるっていうことです。これがなんで一番大事かっていうと、これは環境に左右されないから。
 つまりちょっとすごい変な言い方すれば、超・徳がなく、超・悪業に満ちてるけども、絆がしっかりしてる人がいたとするよ。この人はどうなるかっていうと、つまりイメージでいうと、バルドにおいて超暴風雨(笑)。もうありえないような、「うわー!!」っていう状態に巻き込まれます。でも絆があるから、なんとか吹き飛ばされないんです。「うわー!!」ってなるんだけど、「うわー!!」ってなっても、なんとかそれさえ離さなければ、もう超大変な思いはしたけども助かったってなるんだね。
 だから本当はその大変な思いもする必要はないんだよ、ちゃんと徳を積んで執着を切っておけばね。だから全部こう徳もしっかりあり、執着もなく、けがれもなく、悪業もなく、そして絆がしっかりしてる。これが最高だけど。それは当たり前っていうか全部やんなきゃいけないんだけど、でも一番をいうとしたら、やはり絆です。
 だから自分の師、あるいは仏陀、あるいは自分の信じる神、こういったものとは徹底的に強い絆を作る。まあ言い方を換えれば「縁を強める」っていうことです。「縁を強める」っていうのは、とても抽象的な言葉で難しいんだけど、まあそれはいろんなね、例えば日々そういうものを思うとか、それももちろんいいわけだけど、一つヒントを言うと、「常にそっちを選択する」っていうことです。それが縁を強めることになります。
 これは分かるよね。つまり、簡単な話でいうとさ、例えば「あ、今日、ヨーガ教室の勉強会だ」と。「あ、でも今日、友達とちょっと映画観に行きたいな」と。さあどっちを取るかっていう問題がある。まあどっちを取っても、その場面だけを見るとそんなに影響はないんだけど、そこで例えば友達との映画を取ったら、自分と友達との縁、それから自分がそういった映画とかを観る縁が強まる。修行との縁はちょっと弱まります。ちょっとだけね。で、ヨーガ教室に来たら、わたしとか修行仲間との縁、修行との縁はちょっと強まります。で、その友達とかとの縁はちょっと弱まります。一回はちょっとなんだけどね。でもこれを何度も繰り返すうちに、どんどんその縁っていうのがこう方向性が固まってくるんだね。
 で、それは何度も言うけど、一回はちょっとです。でもですよ、よく考えてみてください。一日っていうのはその選択の連続なんです。今言ったのはちょっと大きな選択だけど、じゃなくて考え方とか、あとちょっとした行動とかね。
 だからヒンドゥー教のヨーガにしろ、あと密教にしろ、徹底的にその師匠の言うことに従わせるっていうのはそういう意味もある。例えば師匠が指示を出す。それは一見「別にこっちのやり方でも問題ないかな」って思うものでも、師のやり方を取るわけだね。あるいは師のやり方が、それは論理的にいってちょっと面倒くさいよっていうやり方でも、師の言ったことを取る。これを繰り返すことによって縁が強まるんだね。
 あるいは教えっていう意味でいったら、もちろん教えがあり、自分の煩悩があり、さあどっちを取りますか?――教えからいったらこっちの道しかないと。で、煩悩からいうとこっちしかないと。でもちょっと煩悩取っちゃおうかな。・・・・・・これも一回はそんなたいしたことではない。しかしその集積が縁っていうのを作り上げるんだね。
 だからこれは一つのヒントだけども、縁を強める一つの方法としては、「常にそっちを選択する」っていうことです。自分のね、心を観察してたら分かります。常に人生っていうのは選択です。一瞬一瞬。つまり自分の中にいろんな縁があるから。さあどっちを取りますか?――この連続なんだね。
 考え方からしてそうなんだよ。実際の行動までいかなくても、どういうふうにそれを考えるか。それ一つとってもそうです。だから二十四時間選択なんだね。
 だからまたいつも言うけど、念正智が一番大事なんだね。自分の心を観察して、間違った方向に進まないように気をつけなきゃいけない。
 はい。まあとにかく、生きてる間からそれは徹底的にやらなきゃいけないわけだけど、もし死が来たっていうのが分かったら、しっかりとここら辺のね――供養、布施、懺悔、そして覚悟を決めると。それをまずやりなさいと。

 はい、そして「生きているうちにバルドの教えを何度も修習し、真理の教えを思念しつつ、息子が愛する父の部屋に行くように、喜ばしい心をもって死を迎えるべきである」。
 そうですね、ここに集まっている皆さんのカルマでいうと、ここはやはりバクティ・ヨーガもしくは菩薩行的な意識を持っていくといいね。つまり、バクティでいったら――さあ死ぬと。そのときに「さあ、わたしは至高者のもとに帰りましょう」と。「さあ、至高者、わたしを受け取ってください」という気持ちをもって死になさいと。つまりここは、心を乱しちゃいけないっていうことです。つまり「あ、もう死ぬかもしれない。ああ、どうしよう、どうしよう……」「あ! おれはもう死んでしまう……うわー!」――これは変な世界へ行きます。心が乱れてるとね。変な世界へ行く可能性が強まってしまう。だからゆったりとした、安定した、そして高い世界にゆだねるような気持ちで死になさいと。
 あるいは菩薩行の場合は、別パターンとしてはね、「さあ、今生のわたしの肉体は終わりを告げようとしている」と。「来世はもっともっと人々の役に立てるように――例えば地獄に生まれ変わって救済したい。もしくは人間界でもいいけども、いろんな苦しむ人々のいるところに行ってみんなの苦しみを背負いたい」って思いながら死ぬと。これはこれで素晴らしい。とにかくそのような覚悟をもって、しっかりと死になさいっていうことですね。
 はい。これはまあ普通の、つまりまだ仏陀の境地まで達してない人たちのことが書かれてるわけですが、その中間の人たち。中間っていうのはつまり、普通の人よりは結構修行が進んでいるが、でもまだ死んですぐに仏陀になれるほどまでいってるかどうか分からない。つまりこれは可能性としては、そのような素晴らしい境地に死んで達する可能性もあるが、まあそこまでいけないかもしれない――こういう状態だね。こういう状態の人は、でもそれだけの要素は結構いいものを持ってるから、それを生きてる間にしっかりと修習しときなさいということですね、ここはね。

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「教えの修習の重要性」

2017-08-25 15:20:43 | 解説・ナーローの6ヨーガ


◎教えの修習の重要性

【本文】
 もし、この三つの生命体いずれの条件もそなえていない者が死を迎えたならば、生きている間に多く修習したいずれかの真理の教えを繰り返し思念しながら死を迎えるべきである。死はいつやってくるかわからない。死を迎えた緊急時においても真理の教えを思念できるように、普段から繰り返し真理の教えを心に根付かせておくべきである。



 つまり、死んだらすぐに仏陀になれるような境地にはもちろんないと。ね(笑)。そして四つの光の経験とかもあんまりしてないと。そしてバルドとかギーターの教えとかが、死後の世界で自然に出てくるほども修習してなかったと。「やばい!」と(笑)。この人が、ああ、でも死にそうだと。もうこれはだから最終手段です。もうしょうがない。とにかくすぐに死後に出てくる可能性はないが、一番可能性のあるもの、つまりあんまりおまえ、修習してこなかっただろうと。してこなかったみたいだけど、その中でも一番修習したのはどれだと。要するに、一番修習したものを死の直前に修習するんだね。まああんまりなんか教えとか修習してなかったけど、しいて挙げるならば『バガヴァッド・ギーター』かなと。よし、それだったら『バガヴァッド・ギーター』を徹底的に――もっと短いのでもいいよ。例えばこの発菩提心の詞章はいつも唱えてたなと。じゃあ発菩提心の詞章でいい。発菩提心の詞章をワーッて唱える――とかね。しかし、それさえもできないかもしれない。つまり死の緊急時において、そんなこと頭からすっ飛ぶ。そんなんじゃもう最悪です。よって、そのときになんとか真理の教え、あるいは神や仏陀を思い出せるように、普段から徹底的に修習をしなさいと。
 だからわたしいつも言ってるよね。短い人生で――よく多くの人は瞑想っていうと、無の瞑想をやっぱりみんなやりたがるんだね。はい、瞑想しましょう、心を無にして――まあこれはこれでもちろんいい瞑想です。それはそれでね。でもそれよりも、修習系の瞑想をいっぱいやった方がいいんだね。徹底的に神への愛を修習するとか、菩提心を修習するとか、慈悲を修習するとか。それのみが、われわれの中にそのようなものを確立してくれる。無の瞑想をやっても、そのときはいいんだけど、何も別に創造されないから。経験はするけどね。経験はするけど、創造はされない。よってひたすら――もちろんそういう無になる瞑想も、一日のうちでちょっとはやるのはいいけども、大部分は創造的な瞑想をやった方がいいです。つまり自分の心を作り変える瞑想。それをどれだけやったかによって、死の直前のパニックのときに、さあ、何が出てくるかが決まる。
 面白い話があって、ヒンドゥー教のインドの人たちって、本名もしくはミドルネームとかに、神の名前をくっつけるんだね。だからクリシュナさんっていっぱいいるんです(笑)、結構インドで。そこらへんのなんか店屋のおやじさんとかがクリシュナさんだったりする。あるいはラクシュミーっていう女性とか、サラスヴァティーとかそういう女神とか神の名前を結構つける。本名でつけたり、あるいはミドルネームでね、何とか・何とか・クリシュナ・何とか。つまり普段から呼ぶ名前としては「クリシュナ、クリシュナ」って呼んでる。何だっけ? K君もインドで……


(K)ラーマクリシュナシヴァーナンダ。


 ラーマクリシュナシヴァーナンダっていうすごい名前の人と会ったって(笑)。まあとにかくそういうのをつける。ね。で、子どももその名前で呼ぶんです。これ、何でだと思いますか? じゃあT君、何でだと思う? 子どもに神の名前をつけて、みんなその名前で呼ぶんです。


(T)その神の名前を修習させるため?


 それは五十点だね(笑)。


(T)このバルドの話と関係ありますか?


 もちろん関係ある。


(T)死後の世界で、何だろう、その神のイメージが出てきやすくするくため。


 まあ、もちろんそうなんだけど。今五十点って言ったのは、その子のためというよりは、周りのためなんです。


(T)ああ、なるほど。


 そう。つまり周りが、例えばかわいい子どもが生まれたらね、「ああ、クリシュナちゃん、クリシュナちゃん」「ああ、クリシュナ、クリシュナ」って言うわけです。
 面白い話があって、これはある経典に載ってるんだけど、ある男が息子にね、さっきの話じゃないけど、息子にナーラーヤンっていう名前をつけてた。ナーラーヤンってヴィシュヌ神のことです。ヴィシュヌ神の別名なんだけど、息子にナーラーヤンっていう名前をつけてたんだね。で、息子に超執着してた。もう溺愛してた。で、そのお父さんが死ぬときに、もう息子のことで頭がいっぱいだった。で、「ああ! ナーラーヤン、ナーラーヤン!」って死んだら、ヴィシュヌ神が出てきたっていう(笑)。


(一同笑)


 だからそれは一つの理想的な例なんだね。つまりそのためにやってるんです。つまりヒンドゥーの人たちは子どもに、かわいい子ども――つまりかわいい子どもだから集中するじゃないですか。「ああ! クリシュナ! クリシュナー!」ってやるわけです。それによって死ぬときも「ああ! クリシュナ! クリシュナ!」って出てきて、それからもちろんクリシュナ神のことも普段から信仰してるから、それが結びついてクリシュナ神とかが出てきたりする。イメージとしてね。そういうことをやるんだね。
 ただこれももちろん補助的な話だよ。うん。実際に例えば「クリシュナー!」って言ってその神のイメージと結びつかなかったら、単純にその子どもが出てきて終わるかもしれない。
 これは日本の南無阿弥陀仏とかもそうだけどね。ひたすら南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏って生きてる間に唱えると。本当にこれが成功したら、死のときにも南無阿弥陀仏と唱えることによって、阿弥陀様が出るかもしれない。でもなかなかそれは難しいかもしれないね。それはだからその人の信仰心の強さによるでしょう。だからあの浄土教っていうのは、そういう意味でいったら日本のバクティ・ヨーガかもしれないね。一つはね。徹底的にその阿弥陀様へのバクティを極限まで強めることができたら、もちろんあれでも救われるかもしれない。でもなかなか難しいかもしれない。まだ今言ったヒンドゥーの方が智慧があるかもしれないね。うん。だってやっぱりみんな子どもとか好きだから。自分の子どもとかに愛着するから、それを利用して、ね、死後のときにも登場させようっていうかね。
 ただそれはまあ、すべて補助的なことです。とにかく心が徹底的に神や仏陀やあるいは聖なるものを求める状態を、いろんな工夫をして、生きてる間に作っておかなきゃいけないんだね。
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