ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

「カルマの法則」

2019-11-27 07:32:52 | 解説・ヨーガ・スートラ


◎カルマの法則

【本文】
『サティ ムーレー タドヴィパーコー ジャーティヤーユルボーガーハ

根因がある限り、業遺存の結果として、出生と寿命と幸不幸の経験とが発現する。


テー フラーダパリターパパラーハ プンニャープンニャへートゥトヴァート

これらの果報は、喜びと苦しみを与える。その原因が功徳であるか悪であるかに従って。』



 これはまさにカルマの法則の説明ですね。煩悩が断たれない限り、このカルマの動きっていうものも断たれない。そのカルマの動きによって、「出生と寿命と幸不幸の経験」ってありますが、まず出生っていうのは、どこに生まれますかっていうことだね。つまり地獄に生まれたり、天に生まれたり、人間に生まれたり。そしてそこにおける寿命がありますと。寿命もそのカルマによって決定されると。そしてそこにおいていろいろな幸不幸を経験しますと。で、それは、その原因が功徳であるか悪であるかによって、喜びと苦しみが与えられますよと。
 まあちょっと、非常に回りくどい言い方をしているけど、簡単に言うと――徳をしっかり積めばいい世界に生まれ、そこで寿命も長く、そして幸せな人生を送りますよと。悪業が多ければ、悪い世界に生まれたり、寿命が短かったり、あるいはいろんな苦しみを人生で経験しますよ――ということだね。
 ただちょっと寿命についていうと、実は、寿命は別に徳があるから長い、徳がないから短いっていうわけではない。寿命が長い人っていうのは、簡単に言うと、その世界が合っている人です。合ってない人は短い。だから、例えば人間界を考えた場合、人間界ですごく寿命が短く死ぬ人がいるとしたら、どっちかです、天に行く人か、低い世界に落ちる人か。どっちにしろ人間が合ってない。例えば、ものすごく徳が高くて、でもちょっとだけ人間界のカルマがあって人間界に来ちゃったと。あんまり人間界のカルマがないからすぐ死んで、天に生まれ変わる人かもしれない。あるいは逆パターンかもしれない。本当は地獄に行かなきゃいけないんだけど、ちょっとだけ人間で消費しなければいけないカルマがあって、ちょっとだけ人間として生きて、すぐ死んで地獄に落ちるのかもしれない。とにかく、合ってない人だね。だから別に長いからいいとか、短いから悪いっていうわけじゃない。寿命に関してはね。
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「瞑想による除去」

2017-04-09 08:23:54 | 解説・ヨーガ・スートラ

◎瞑想による除去

【本文】
『ディヤーナへーヤースタドヴリッタヤハ

静慮は、すでに働きとして現われたものを除去することができる。』


 静慮っていうのはディヤーナ。これは瞑想といってもいいわけだけど、つまり深い瞑想に入ることによって、自分が気づかない、さっき言った潜在的なものでなくて、今自分にあらわれてるいろんな執着とかいろんな煩悩みたいなものは、ある程度瞑想によって取り除くことはできますよ、というところですね、これは。


◎業遺存

【本文】
『クレーシャムーラハ カルマーシャヨー ドリシュタードリシュタジャンマヴェーダニーヤハ

煩悩を根因として業遺存が生じ、それらは現世においてあるいは他生において経験される可能性を持っている。』


 これはもう、まさにカルマの話ですね。つまりわれわれが煩悩っていうのが生じて、煩悩によっていろんなことを経験したり、あるいは経験しないまでもいろんなこと考えたりする。それがわれわれのカルマの深い要素として蓄積されるんだね、われわれの中にね。これを「業遺存」といっている。
 これは仏教的な言葉を使うと、「薫習」とかいうのにすごく近いね。薫習とか習気っていうわけだけど。つまりもう、われわれの中に根付いてる、例えばよくいわれている、布をお香の上にずーっと置いておくと、お香を取っても布にお香の臭いが染み付いてしまうように、われわれのカルマのいろんな日々の行ないとか、日々のいろんな考えによって、潜在的ないろんなカルマの傾向みたいなのがわれわれの心の中に根付くわけですね。
 そしてそれは「現世においてあるいは他生において経験される可能性を持っている。」
 可能性を持っているっていうのは、経験されないかもしれないっていうわけじゃなくて、いつかは必ず経験します。つまりその内側に眠ってるそのカルマの習性みたいなものが現象化して、われわれはこの世でいろんな苦楽を味わうわけですね。
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「心の逆転変」

2016-06-29 09:43:12 | 解説・ヨーガ・スートラ


◎心の逆転変

【本文】
『テー プラティプラサヴァヘーヤーハ スークシュマーハ

これらは、それが潜在、未発の微妙な状態で存在する間は、心の逆転変によって初めて除去することができる。』


 これもちょっと難しい感じだけど、実はそんなに難しい話じゃなくて、「潜在、未発の微妙な状態」っていうのは、簡単な表現をすると、われわれの煩悩、あるいはカルマっていうのがそんなにまだわれわれの現象としてあらわれてなくて、まだその――仏教的にいうと行だけどね。サンスカーラ。心の奥のデータとしてまだ眠ってる状態。でもそれは未来において出てくるでしょうねっていう状態。で、これはね、逆の言い方すると、それを例えば日々の戒律守ったりとか、ただ瞑想したりとかで落とすのは不可能なんだね。そのまだあらわれてない奥底に眠ってる微妙な状態の煩悩をどうやって滅尽するんだと。それがここに書かれてる「心の逆転変」っていうやつなんだね。
 これは具体的な修行法のことをいってるんじゃなくて、心の逆転変っていうのは、真我っていうか心の落下のプロセスとして、さっき言ったみたいに、まずは純粋な状態がありましたと。ここでいってる純粋っていうのは真我じゃなくて、心の認識力の元みたいなもの。これは純粋だったんだけど、純粋な状態から――じゃあちょっと仮の言い方をするとね、純粋な状態だった人が、一人の他人と会いました。その他人と喜びと苦しみを経験することによって一つ無明ができます。「あ、こういうことやられて私は嬉しいな」と。「もっとやりたいな」と。「でもこういう部分は私はちょっと嫌だな」と。「こういうのは避けたいな」と。一つ無明ができましたと。次の人と接しました。また「え、こういうのは私は嫌だな」と。「でもこういうのは大好きだな」と。
 まあこれは赤ちゃんを考えたらいいかもしれないね。赤ちゃんって本当は過去世からのけがれは持っているわけだけど、一応純粋だと仮定して、赤ちゃんが生まれたころっていうのは純粋に自分を表現したりすると。「わー」って、「楽しいな」と。でもだんだん不自由さに気づいてきます(笑)。ね。「わー」って言うだけではミルクもらえないとか(笑)。そこで、もらえないことに対する嫌な気持ちが出てくる。あるいは優しくしてもらったときの喜びがある。で、お母さんに「あのときの優しさをください」ってガーッて叫んでも、ちょうどお母さんが忙しくてあっち行ってたりすると、「何でこれがもらえないんだー」っていうとらわれが生じる。こういうことが日々、一分、一秒ごとにいろいろ重なって重なって重なって、無明の集積ができるわけです。これが逆転変じゃなくて転変なんだね。これをわれわれは遥かな過去からやってきてるんです。で、どんどんどんどん無明に巻き込まれてるんです。
 最初は一つ、二つの無明だったのが、もうわけ分かんなくなってる。で、どんどんどんどんどんどんどんどんこう、グワーッてなってきたのを――まあこれはこのあいだも言ったけど、ヴィヴェーカーナンダの言葉を使うと、エヴォリューションじゃなくてインヴォリューション。ワーッて展開していたものを、グーッて戻すんです、元に。これはちょっと別の表現をすれば過去に帰るといってもいい。ワーッってここまできちゃったものを、ウーッってここまで戻すんだね。原初の状態にどんどん戻っていく。だからこれが修行といってもいいんです。
 でもこのね、じゃあスタートしました。バーッてきました。戻ってきました。この位置は同じなんだよ。位置は同じなんだけど、スタート時と戻ってきたときは違うんです。何が違うのか。Rちゃん、何が違うと思いますか?

(R)……?

 まあ、もう悟ってるっていうことだね。どういうことかっていうと、ここに日本に人がいてね、例えばL君みたいな若者がいたと。L君はインドに憧れを持ったとしますよ。で、日本から船で中国に渡り、中国を歩いて旅をしたとするよ。中国を旅してって、ネパールを越えてインドに入りましたと。インドでいろんな経験をするうちに――まあ、よくそういう人いるわけだけど、私の友達にもよくいたけど、インドで二、三年ね、放浪して、「もう飽きた」という人がいるわけだけど。で、例えばそこで、「インドってそんなでもなかったな」と。まあこれは仮の話ね。仮の話として、日本が自分にとっては素晴らしいと気づいたとするよ。私にとっては日本こそが、もって生まれたカルマの地だし、日本が合ってると気づいた。で、そこで、また苦労して戻っていくわけです。まあ今は飛行機でパッと戻れるけど、昔だとしたら三蔵法師みたいに、本当に苦労した旅で、やっと苦労してインドに来たのに、また苦労して戻んなきゃならない。で、苦労していろんな困難を乗り越えて、中国を通ってやっと日本に帰ってきましたと。「はー」と。それが例えば二十年かかったとして、例えば、「二十年前の東京にいます」というのと、「二十年経って東京にいます」っていうのは、東京にいるっていうこと自体は変わってないわけですよ。じゃあ元に戻っただけじゃないですか。でも違うわけだね。「経験してきました」。それによって、「インドや中国のことがよく分かりました」と。そして、「私にはそれは必要ないということが分かりました」と。これが解脱する前と解脱した後の違いなんです。
 つまり、「私はいろんなこの世の幻影を経験して、その経験から脱却するっていうことによって、幻影が全く私に必要ないことが分かりました」と。これが帰った後と、帰る前の状態なんだね。この帰るプロセスを、「心の逆転変」っていってる。だからこの心の逆転変というのは別に、そういう修行法があるっていうよりは、修行そのもののことを表わしてるといってもいい。
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「生命欲」

2015-08-29 08:12:34 | 解説・ヨーガ・スートラ


◎生命欲

【本文】
『スワラサヴァーヒー ヴィドゥショーピ タタールドービネーヴェーシャハ

それ自身の本性の中を流れており、賢明な人にさえもあるといわれるのが、生命欲である。』


 はい。この生命欲っていうのは、「生きたい」「死にたくない」っていう煩悩で、われわれは普段はあまり認識はしない。認識はしないけども、根本にあるんだね、われわれのね。
 これは「賢明な人にも」っていうのは、「心がきれいで修行が進んでてあまり執着ないです」と。「あまり嫌いな人もいません」と。あるいは「ある程度ものをありのままに見れます」と言う人でも、生命欲っていうのはすごくあるっていうとこだね。
 つまりわれわれは永い、永い間もう輪廻に結び付けられてて――つまり逆の言い方するとわれわれが死んでも生まれてくるっていうこの輪廻。これ自体も生命欲のあらわれなんです。自殺しても生まれ変わります。なぜかっていうと根本に生命欲があるから。自殺したらどうなるかって話って質問としてよく受けるけども、自殺しようが自殺しまいがその人の生きていたときのカルマによって当然生まれ変わるわけだけど、自殺ってある意味――自殺自体がどうこうっていうんじゃないけども、例えばある百ぐらいのカルマを経験しなきゃいけない人生があったとして、それが五十くらいで「耐えられない」っていって自殺したとしたら、今生の五十、プラス来世に加算されるわけだね。だからより苦しい人生になる。来世ね。それだけといってしまえばそれだけなんだけど。 だから自殺自体に問題があるっていうよりはそこで逃げてしまうことによって、今生の分を加算された苦しみを来世味わなきゃいけない。つまり自殺したいっていう人は別に生命欲がないから死ぬんだっていうんじゃなくて、逆なんです。この人生っていうか、生命っていうか、「自分の思い通りに生きたい」あるいは、喜びにとらわれすぎてて、執着やあるいは苦しみにとらわれすぎてて嫌悪が強すぎて、そのように思い通りになれない状態から逃げてしまう。その裏側にはものすごい執着があるわけだね。だから自殺する人も同じです。あるいは自分のことを卑下する人達も同じです。いつも言うように、卑下とか卑屈さの裏側にはプライドがあります。つまり完全に自分っていうものを持ちすぎてるから、そういう状態が起きるんだね。
 だから口でいくら「いや、私はもう自分に対してなんの執着もないんだ」とか、あるいは「生きることにあまり価値を求めてない」とかいう人がいたとしても、その根本ではものすごく求めてるんだね。で、もがいてるわけです。ものすごく求めてるんだけど、どうしたらいいか分かんない袋小路に追い込まれてしまったという状態だね。
 でもこれはね、良いことではあるんだよ。良いことっていうのは、そこまできて縁と徳があれば、「修行しかないのか」ってなるから。そこまで追い込まれてやっと、「やっぱり修行しかないのか」と。
 私、いろんな人に会ったけども、修行始める人で多いパターンって、小さいころから、この世から消えたいと思ってた人って結構いるんだね。つまり死にたいじゃなくて、消えたい。存在をなくしたいと。そういうことを思ってたっていう人、たくさん聞いたことがある。それは言葉を変えればニルヴァーナなんです。つまり輪廻からの解脱なんだね。でもそれは、「はい。そうですか。じゃあ、はい」って感じじゃ不可能なんだね。死んだからってそれは解脱できるわけじゃない。
 これがだから魂の一つの旅なんだね。魂がいろんなことを輪廻で経験して、もう行き詰まるんだね、最後は。最初は喜びを「わー」って求めて、苦しみから「わー」って逃げての繰り返しをやってるんだけど、だんだんだんだん、カルマが行き詰まって、「あれ? この世って苦なんじゃない?」ってことに気づき始める。気づき始めるけども、袋小路に入ってる。逃げたくても逃げられないし、この現世で完全な至福を実現することは不可能だっていうことに気づき始めた。「さあ、どうするんだ」と。「解脱しかないの?」っていう状況に追い込まれるんだね。そこで縁とか徳があると、みなさんのようにちゃんと修行できるような環境とか条件が整うわけだけど。
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「愛著と嫌悪」

2015-07-05 11:34:55 | 解説・ヨーガ・スートラ



◎愛著と嫌悪

【本文】
『スカーヌシャイー ラーガハ

快楽にとらわれることを、愛著という。』

『ドゥフカーヌシャイー ドヴェーシャハ

苦しみにとらわれることを、嫌悪という。』


 これは素晴らしいシンプルな定義だね。「快楽にとらわれることを、愛著という。」「苦しみにとらわれることを、嫌悪という。」
 これは分かるよね?
 これもまさに十二縁起をちゃんと理解してると、素晴らしい、「あ、まさに仏教だ」と思う。つまり十二縁起では――ちょっとあまり詳しくは説明しないけど、パッパッと言うと、まず無明があって行があり、識が――ちょっと簡単に言うと、無明だから行、つまり経験の残存印象みたいなものにとらわれて、識、つまり固定的な識別的なものの見方が完成し、名色、六処……まあ名色、六処っていうのは、われわれのエゴみたいなのが完成して――ここでいうと我想みたいなものが完成して、その我想と対象が完全に分けられて、それが触、触っていうのは接触します。つまり経験が始まります。経験が始まることによってわれわれはそこで、苦しみやあるいは喜びを味わうわけですね。
 はい、次が問題で、その喜びを味わったときにそれに完全にとらわれてしまう。「もっとその喜びを得たいんだ」と。「いや、この喜びを失いたくないんだ」と。これを愛著といってるんだね。
 逆に苦しみがきたときにそれにとらわれる。とらわれるっていうのは、「もう二度とこんなのは嫌なんだ」と。あるいは「今味わってる苦しみから早く離れたいんだ」と。これを嫌悪といってるんだね。
 で、これがわれわれは、無始の過去からっていうわけだけど、ものすごい数え切れないほど輪廻の中でいろんな喜びを味わって、いろんな苦しみを味わって、その中でもう傾向ができてるんです。「こういうのは嫌だ」と。もうとらわれちゃってる。そのいろんな苦しみに対して。  で、いろんな喜びに対して逆にとらわれちゃってるから、それをわれわれは生まれたときからその要素として持ってる。
 で、この人生の中でも同じ。この人生の中でもいろんな喜びを経験してとらわれて、いろんな苦しみを経験してとらわれてるから、心の中に執着と嫌悪っていうのが根付いてるんだね。だから過去にいい思いをして、「これはいいんだ」って思ったものに対してはものすごい執着があるし、過去に悪い思いをして、「こんなのは嫌だー」って思ったものに対してものすごい嫌悪の感情がある。それは気付かない部分と気付く部分があると思うけどね。
 例えば輪廻を通して丸顔の人にいじめられた人がいたとします。そうするとその人は今生、丸顔の人を嫌悪します。「私、丸顔の人が生理的に苦手なんです」と。ね。そう言ったりするわけだけど、それはもう完全に過去の経験なんだね。
 好きなものもそうだよ。例えば「私はスポーツが大好きなんだ」と。それは小さいころにスポーツは素晴らしいっていう経験をいっぱいしたのかもしれない。あるいは過去世でいっぱいスポーツをしてたのかもしれない。そういった経験の喜びに対して、「それは素晴らしい」ととらわれてしまうと。これを執着とか愛著とかいってるんだよと。で、苦しみに対してとらわれることを嫌悪といってるんだよと。
 ということは一番いいのは、カルマ・ヨーガだね。これもいつも言うように。つまり成功や失敗にとらわれない。あるいは喜びや苦しみにとらわれない。とらわれないっていうのは、その瞬間はいいよ。その瞬間、例えば「あ、これ楽しいね」と。「あ、おいしいね」と。あるいは「ああ、これはちょっと辛かったね」と。これはいいんだけど、そこでスパッと切るんです。もう後は関係ない。これができたら無明に陥りません。
 だから無明っていうのは、また別の言い方をすると、経験にとらわれる意識状態といってもいい。どういうことかっていうと、これもね、よく出す例えですが、例えばKさんがちょっと冷たかったとしましょう。一回冷たくされたと。二回冷たくされたと。三回冷たくされたと。四回目に今度はKさんは――その冷たかったっていうのはいろいろ事情があって、今度はすごく優しくなってて、自分にすごく利益を与えようとしていてくれたかもしれない。でも三回の経験があるからKさんを嫌いってなってしまって、Kさんが冷たい女だって断定してしまう。それによってもうKさんに会わないかもしれない。会っても偏見によって避けるかもしれない。それによってKさんの本質を見失うわけだね。意味分かるよね?
 執着の場合もあるよ。これはよくある情のパターンだね。例えばある好きな女性がいたとして、その女性は例えばその会社に大きな迷惑をかけてるかもしれない。しかしあまりにその女性に執着してる――まあそれは過去のいろんな女性とのセックスや、あるいは愛情のやりとりによって、もう女性の良い部分しか見えなくなってる。これによって本当はこの女性がいろんなまわりの人に悪影響及ぼしてて、まわりから「いや、あの女性はもう外した方がいい」っていうのがあったとしても、執着によって見えないから正しくない判断をしてしまう。
 現実的な話をしても、そういういろんな執着による、ものがありのままに見れない状態、あるいは嫌悪によるものが見えない状態がたくさんあるわけだね。で、われわれの人生はすべてこれでできあがってると。つまりわれわれが――いつも言うけども、この部屋を見ただけでもね、ここに十人いれば十人違うふうに見えてます。これはすべて過去の経験を土台として見てるだけなんだね。仏陀は違いますよ。仏陀はもう完全に悟ってるから、経験関係なしなんです。ただありのままにパッと見る。それができるかどうかなんだね。それは無明か無明じゃないかっていう。
 でも普通はここに書いてあるように、喜びにとらわれて執着するか。苦しみにとらわれて嫌悪するか。それに覆われて無明というベースっていうかな、が、どんどん堅固たるものになっていくんだね。
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「我想」

2015-07-04 07:06:15 | 解説・ヨーガ・スートラ


◎我想

【本文】
『ドリグダルシャナシャクティヨーレーカートマテーヴァースミター

知る働きとしての能力を、知る者と同一視することを、我想という。』


 これはちょっと難しくなってきたね。この「知る働きとしての能力」っていうのは、まあ「ブッディ」とかいうわけだけど、われわれの心の奥の奥にある要素だね。これは仏教的にいうと「行」とか「識」にあたるんじゃないかと思いますが、われわれの意識の非常に深くにある、われわれがこの世でいろんなものを経験したり、見たり、聞いたりする能力の根本にあるものです。これは「ブッディ」とか、漢字で覚醒の覚と書いて「覚」とかいうんだね。
 で、「知る者」っていうのは、これはヨーガでいう「真我」のことです。つまりわれわれの本質です。これはいつも同じこと言ってるけども、もう一回言うとね、真我っていうのは本来、最初から最後まで全く寂静であって、悟っていて、完璧であって、けがされることがない、絶対的な存在なんだね。で、この世のさまざまな現象を経験してるのは、今言った覚とかブッディとか、あるいは仏教的な言い方すると行とか識とかになるのかもしれない。あるいは密教的な言い方すると、密教ではよく微細な意識とか微細な風とか、そういう言い方するんだけど。根本的なそういう経験の主体みたいのがあるんだね。で、この経験の主体というのは、それを見ているこの真我とは全く関係がない。
 これは何回か言ったけど、映画にのめり込んだ人のようなもんだね。映画のフィルムが流れてますと。そこでは主人公がいろんな経験をしてるんだけど、それを見てる観客がいて、あまりにも観客がのめり込みすぎて、映画の主人公が悲しい場面に陥ると、観客も悲しくて泣いてしまう。で、映画の主人公が戦いに勝ったりすると、観客も「やったー! 勝ったー!」って気持ちになる。もう完全にのめり込んでると。これが「真我」と「知る働き」っていわれてるものとの関係です。
 つまりわれわれは本来は一切は関係がないんだと。関係がないんだけども、知る働きってものが経験してるいろんなものを自分と同一視してしまってる状態。
 で、それに対して私っていう――まあだから、ちょっと大雑把な例えを言うとね、コンピューターがありますと。コンピューターがいろんな計算をしますと。で、コンピューターにいろんなデータが入ってますと。データがいろいろ積み重なって、そのコンピューター独特のデータの集積ができますと。それをいろんな計算をはじき出したりしているのに対して「おれ」って思っちゃってるようなもんだね。「これはおれだ」と。だからコンピューターがそこで馬鹿にされたり、コンピューターが殴られたりすると、「うわっ! やめてくれ!」と。まるでそれが自分であるかのように、一体化してしまってるというか。
 本当は一体化してないんだよ。永遠に真我とそれからこの外的なものっていうのは一体化することはありません。これはね、実は密教のゾクチェンとかマハームドラーとかでも全く同じ例えを使います。つまり心というのは本来、水晶みたいなもんだと。水晶っていうのは透明であって、永遠にけがれることはないと。しかしその前に来たいろんなものを映し出すと。映し出したときに自分はその映し出したものと一つだと思っちゃうんだね。例えば水晶の前に豚が通ったとしたら豚が水晶に写る。そしたら「あ、おれは豚だ」と。写ってるものが自分と同一視してしまう。でもそれはもともと関係ないんだと。
 じゃあ水晶は豚によって一時的にけがれたのかっていうとけがれてないよね。ただ写ってるだけだから。だからこれが、真我とかわれわれの心の本質は永遠にけがれないんだよと。だから今もそうなんだよ。いつも言うけど、今この瞬間もここにいる全員は仏陀なんです。でもお釈迦様とわれわれの違いは、われわれは寝てる仏陀なんです。お釈迦様は目覚めた仏陀だと。でも仏陀っていうのは同じなんだね。
 例えば人間がいたとして――例えばCさんが寝てますと。Kさんが起きましたと。でもどっちも人間でしょ? 寝たり起きたりすることによってその主体が変わったりはしない。人間っていうのは変わらない。同じように真我とか仏陀の本性っていうのは、それが混沌とした無明に陥っていようが、あるいは目覚めていようがどっちも仏陀なんです。  だからこれが仏性とかいうわけだね。すべての衆生は仏性を持っています。でもこの仏性を持ってるって表現っていうのは勘違いしちゃいけないのは、「われわれは仏陀の種を持っていて、その種を育てていかなきゃいけないんだ」っていうんじゃないんです。そうじゃなくてさっきも言ったように、最初から完全な仏陀なんです。だから寝ちゃってるだけなんです。だから寝ちゃってて、夢を見てますと。その夢が、今われわれが現実だと思ってるこの輪廻だね。だから目覚めなさいと。
 でもいつも言うように、あんまり頭でそういうことばっかり考えちゃうと、目覚めた夢を見てしまいます。これは最悪です。夢の中で「あ、おれは寝ていたんだ」と。「今目覚めた」と。「仏陀なんだー」って夢をガーッてずっと見てると。これは最悪だね。抜けづらくなります、逆に。
 だから謙虚に、謙虚に修行した方がいい。しかしもう一方の頭で今言ったようなことは頭においておいた方がいいんだね。「われわれの本質は真我であり――ヨーガ的にいうと真我であり、仏教的にいうと如来の本性とか仏陀の本性とかいうのがわれわれの本質なんだ」と。
 ということだね。しかしそうではなくて、ただ流れているだけのカルマの働きみたいなものに対して、「これが私なんだ」って錯覚してしまうこと。これが我想だと。
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「苦しみの真理」

2015-06-28 07:35:19 | 解説・ヨーガ・スートラ


◎苦しみの真理

 だからお釈迦様が悟りを開いて一番最初に言ったのが、「人生は苦ですよ」と。
 私ね、小学校時代に「マンガ四聖諦」っていうのを読んで、なんかお父さんが買ってきて、「マンガ四聖諦? なんじゃこりゃ?」と思って。で、その中で「お釈迦様がお悟りになって一番最初、弟子に言いました」と。で、私そのとき興味津々でね、「え? 悟りってなんだ?」と。「一体お釈迦様は何を言ったんだ?」って思って読んだ、「この世は苦しみである」とか書いてあって、「え? 何それ?」「それが悟り?」って思ったんだけど。
 まあ、だからちょっと仏教って陰気臭い宗教に聞こえるわけだけど。でもそれはね、だんだん修行してて分かってきた。それが分かること自体がもう悟りなんです。つまり普通の人は苦だってことさえ分かってない。それが分かるだけでももう相当、完全とはいわないけども、無明が晴れてきている。
 ちょうどそれはね、肉体の苦痛の反応とも似ている。どういうことかっていうと、人間の体って、動物もそうだけど、痛みを感じる能力がある。これは能力です。何で能力かっていうと、つまり「肉体のどこかが損傷されたぞ」と。「ここままじゃまずいぞ」と。「このままだと腐るぞ」とか、あるいは「炎症をおこしてこのままだと肉体が機能不全になるぞ」と。それを知らせるために痛みっていうシグナルがくるわけだね。つまりわれわれにこの痛みっていう機能がなかったら、知らないうちに病気になってたり、あるいは怪我が発展して腐ってしまうかもしれない。だから修行っていうのは――ちょっと話がずれるけども、修行のデメリットってあって、痛みに強くなるから、私もあんまり慣れないとき――慣れないときっていうか、修行が進んできてその状態にあまり慣れてないときによくあったのが、――まあこれは地獄のカルマの浄化だったと思うんだけど、歩いてるとよくね、どこかにぶつけて、足を切るんです、何気なく。で、かなり深く切るんだね。かなり深く切って、ドバーッて血が流れてるんだけど、痛みに強くなってるから、「なんかちょと痒いな」くらいで、普通に歩いてて、みんなに「どうしたんですかそれ?」って言われて、「え?」って見たらものすごい傷になってたりして。それはまあちょっと話がずれたけども、修行してると痛みに強くなっちゃうから、逆にそういう危険もあるわけだけど。普通の場合ね、痛みを感じられるっていうのは、人間としての素晴らしい能力だと。
 それと全く同じ発想で、魂が――一応魂って言葉を使うけども、われわれの本質がどんどん至福の状態から転がり落ちて、今ものすごい危険な状態にいると。もうグジャグジャの邪悪な要素が身について、本来の至福の状態からいったらもう最悪の状態。「このままでいくともう、地獄にさえ落ちかねないようなドロドロの状態にあるぞ」っていうシグナルとして、賢者は苦しみを感じるんです。つまり、「なんかこの世はおかしいんじゃない?」と。苦しみを感じるはずなんです。それはお釈迦様がそうだったようにね。
 お釈迦様はああいう王子様として生まれながら、この世に苦を感じて修行の道に入った。これはもう能力なんだね。智慧っていうか。
 だから、「いや、私はお釈迦様がそう言ってるけど僕は別に苦しくないよ」って言うのは、その人は徳があって苦しくないんじゃなくて、智慧がないから苦しくない。だからそれがここに書いてあることなんだね。つまり無明に入ってしまってると、もう何が何だか分からない。あるいは正統的な評価ができないから、この世の苦っていうのが分からない。分からないから当然、「ここから抜け出して修行したいんだ」っていう発想にも至れない。っていうのがここのところだね。非常に仏教的な考え方ですね。
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「無明」

2015-06-24 06:41:26 | 解説・ヨーガ・スートラ

◎無明

【本文】
『アニティヤーシュチ・ドゥフカーナートマス 二ティヤ・シュチ・スカートマキャーティラヴィディヤー

無常、不浄、苦、非我であるものに対して、常、浄、楽、我であると考えることを、無明という。』


 これはびっくりしましたね。何がびっくりしたかというと、このあいだ四念処の話したよね? で、ここで出てくる四つの「無常、不浄、苦、非我」、まさにこれは四念処ですね。
 つまり分かるよね? じゃあRさん、無常は何にあたったっけ? 四念処で。

(R)心。

 心だね。一応四念処においてはオーソドックスには、心は無常だと。で、肉体は不浄であると。で、感覚っていうのは苦しみであると。で、すべての現象、事象っていうのは、ここでは非我と書いてますが、これは同じですね。仏教では「無我」っていいますが、「アナートマン」ってやつだね。実体がないと。
 で、お釈迦様もそうだし、この『ヨーガ・スートラ』でも、すべてこのわれわれの世界で見える現象、あるいは自分自身も含めて、「すべては不浄であって、無常であって、苦しみに満ちていて、実体がないんだよ」っていうのを根本においてる。でも無明っていうのは真実が見えないので、不浄なものを清らかだと思い、無常ではなく永続していると思い、苦しみではなくて楽なんだと思い、実体がないんではなくてそこに私とか、あるいはあなたっていう実体があるって錯覚してしまう。この錯覚そのものを無明っていってるんだね。これが無明の定義ですね。
 まあこの間、四念処の話をしたときの話を当てはめればすごく分かるかもしれない。例えば無常っていうのは、一瞬一瞬われわれはもう移り変わっている。それはもう物理的にも原子運動っていうのは一瞬一瞬変わってるし、われわれの心だって一瞬一瞬変わってるし、カルマの流れっていうのも一瞬一瞬変わってる。でもわれわれは無明だから、なんか変わってないように見える。変わってないように見てしまうからそれに執着してしまう。執着することによって、次の瞬間に何かが変わると、苦しみが生みだされる。でもそんなことは最初から分かってるんだね、無常っていうことは。でもそれが頭で分かったとしても、心が無常だと思えないっていうか。で、それが一つの無明です。
 あるいは苦しみもそうだね。この間も言ったように、この世の現象っていうのをつぶさにリアルに観察すると、苦しみだと。例えば、それは感覚の――極端な例をこの間あげたね、もう一回言うけども、例えば最高の理想の異性と――じゃあ、この間PさんいなかったからPさんに聞くけども、最高の理想の異性と――まあ三十分にしよう。三十分間セックスができますと。もうありえないくらい最高の状態。しかしその後三十分間体をつかまれて、体中切り刻まれます。そういうお店があったら入りますか?

(P)入らない。

 入らない。多分ね、どんな快楽主義者も入らないと思うんだよね。じゃあ昔快楽主義者だったTさんに聞いてみようか。Tさんどうですか? 入りますか? 入ってみたい? ちょっとは。

(T)いや、入りません。快楽主義だからこそ入らないです。

 あ、そうだよね。いや、そうだと思うよ。でも今言ったのはこれは冗談じゃなくて、この間も言ったけど、今言ったのは触覚の問題。触覚っていう一つのパートを見て、その最高の部分と最悪の部分、これは表裏なわけだけど。これを「セットでどうですか?」って言ったら、「いりません」ってなる。意味分かります?
 つまり苦楽があるってことは苦なんです。それをわれわれはすごく曖昧な状態で、「まあ、喜びもあるし苦しみもあるからいいんじゃない?」って捉えてるけど、それは非常に考え方が曖昧なんだね(笑)。ものすごいリアルにその極限状態を見ると、駄目なんです。
 これはね、密教とかでは似たような修行やるんだね。例えば食べ物への執着をとるときに、自分の一番好きな食べ物と、あと腐ったような、見るのも嫌なような食い物を一緒に食うんです。そうすると「うまい!」「うわっ! まずい!」「うまい!」「うわ! まずい!」ってなって、どうでもよくなるんです(笑)。味覚自体から離れたくなるんだね。
 つまりわれわれはものすごい正当でない見方で苦楽っていうのを見すぎてて、楽の幻影を人生全体になんとなく持ってるんだね。「人生って結構いいんじゃない?」と。まあ、いいとは言わなくても、「苦しみもあって喜びもあって、そんなもんじゃない?」って見てるけど、リアルに見ると苦しみなんです。
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「煩悩の田地」

2015-05-31 06:53:27 | 解説・ヨーガ・スートラ

◎煩悩の田地

【本文】
『アヴィディヤー クシェートラムッタレーシャーン プラスプタ・タヌ・ヴィッチンノーダーラーナーム

無明が、煩悩を生み出す田地である。他の諸煩悩は眠り込んだり、弱まったり、中断したり、増大したりするが、無明は常にその田地として存在する。』


 まあ、これは分かりますね。これは前から言ってるけども、『ヨーガ・スートラ』ってね、まさに仏教なんです。ちゃんと読むとね。仏教の教義と同じです、ほとんど。ここはだから仏教の十二縁起の法とかを理解してるとよく分かる。
 十二縁起の法っていうのは、まず無明がスタートです。つまり無明っていうのは、すごく単純な言い方してしまえば、真理が見えない状態。真理が見えない状態によって、その後の展開がバーッて始まるわけですね。
 逆に明――無明の逆は明っていうわけですが、これはサンスクリットで「ヴィディヤー」っていって、チベットでは「リクパ」と言ってるね。チベット仏教ではこのリクパの境地ってすごく強調するわけだけど――つまり、「無明がなくなって悟りの光がすべてを照らしてる状態」っていうのがわれわれの良い状態なんだけど、そうじゃなくて、われわれの悟りの光が闇に覆われてる状態、これを無明といいます。で、われわれは――この無明っていうのはこの田地と表現されていますが、根本として常にあるんだね。つまり修行して悟って解脱しない限りはこの無明から抜けられない。で、この無明っていうベースの上に、他の四つの煩悩が――これは分かるよね? あるときはすごくある物に執着するけども、そうでないときもあったりとか。こうやってこう強くなったり、弱まったりするわけだけど、無明自体はそのすべてのベースとして常にあるんだよってことだね。
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「クリヤー・ヨーガの目的」

2015-05-21 07:50:21 | 解説・ヨーガ・スートラ


◎クリヤー・ヨーガの目的

【本文】
『サマーディ・バーヴァナールタハ クレーシャ・タヌーカラナールタシュチャ

 それらは、サマーディを修習し、煩悩の力を弱めるためにある。』


 これは今のクリヤー・ヨーガの目的ですね。それはまずこれらをしっかりと行なうことによって、まずサマーディに入れますよと。サマーディを修習することができますと。
 もうひとつは煩悩が弱まりますと。そのためにこの三つがあるんですよってことだね。
ここはいいですね。


◎五つの煩悩

【本文】
『アヴィディヤースミター・ラーガ・ドヴェーシャービニヴェーシャーハ クレーシャーハ

無明、我想、愛著、嫌悪、生命欲の五つが煩悩である。』


 これは仏教においては煩悩の根本を三つ、つまり「愛著」「嫌悪」「無智」に分けますが、ここではそれがかぶった形で、若干多くして五つにしてるわけですね。
 「無明」。まあこれは無智と言ってもいいけども。
 で、「我想」。我想っていうのはエゴイズムだね。「私」っていう考え方。「これが私だ」と。つまりこの本当は私っていわれる実体はどこにもないのに、私っていう思いを持ってしまう状態。
 で、「愛著・嫌悪・生命欲」と。まあ、一つ一つに関してはまた後で出てくるので、先にいきましょうかね。
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「クリヤー・ヨーガ」

2015-05-21 07:43:30 | 解説・ヨーガ・スートラ


◎クリヤー・ヨーガ

【本文】
『タパハ・スワーディヤーイェーシュワラプラニダーナーニ クリヤーヨーガハ

苦行、読誦、神への祈念(または行為のすべてを神にささげること)、これらをクリヤーヨーガという。』


 はい。これは『ヨーガ・スートラ』を勉強してる人は分かると思いますが、『ヨーガ・スートラ』に八段階ヨーガっていうのがあって、この第一段階が「禁戒」なわけですね、まずね。これは分かる人いるかな……じゃあ、Rちゃん。禁戒ってなんだっけ?

(R)してはいけないこと。

 その内容は?

(R)不殺生、盗んではいけない、邪淫……

 まあ、次に嘘をついてはいけないっていうのがきて――で、これは仏教の五戒とすごく似てて、五戒の場合は最後は「酒を飲んではいけない」ですが、ヨーガの場合は「不所有」。つまり「不所有」とか「貪らない」とか言われるけど、直訳すると「不所有」ですね。つまり余計なものは持つなと。
――というのがヨーガの最初にきます。で、二番目に「勧戒」といって、今度は「勧」っていうのは「勧める」って字ですね。勧める戒。つまり禁ずる戒ではなくて、逆に積極的に「こういうことしなさい」っていう戒があって、それが五つあるんですが、そのうち二つは「清浄」、それから「知足」。
 清浄っていうのは、「心や体を清浄に保ちなさい」と。「清らかに保ちなさい」と。
で、「知足」。これはさっきの「不所有」の発展系ですね。「足るを知る」と。つまり「より自分の人生において節制して生きなさい」と。「できるだけ贅沢せずに生きろ」と。
こういうのがあって、後の三つがここに書いてある「苦行」「読誦」「神への祈念」なんだね。これで勧戒っていうんですが、ここで書かれてるのはさらに勧戒の中のこの三つを取り出して、この三つをクリヤー・ヨーガというんですよ、というところですね。


◎苦行、読誦

 で、この苦行・読誦・神への祈念ていうのはなんなのかっていうと、すごくこの内容っていうのは大雑把なんだね。例えば苦行って言った場合、まあこれは実際、「タパス」っていうわけですが、この苦行の解釈も非常にいろいろある。タパスっていう言葉の元になってる言葉は「熱」って言葉があるんだね。つまりこれは直訳すると「熱行」といってもいいくらいで、つまり熱行って、ナーディを通すような肉体行全般といってもいい。だからよくお釈迦様が否定したような単純に体を痛めつけるような苦行のことではなくて、しっかりと気道を通していくようなハタ・ヨーガとか――後のね、この時代はまだはっきりハタ・ヨーガっていうのは確立されてないけど――後のハタ・ヨーガやクンダリニー・ヨーガにつながるような、肉体行全般ですね。だからみんながここでやってるようなアーサナ、気功、プラーナーヤーマ、ムドラーとかも含めて、そういった熱を増大させ、ナーディを通していくような修行。
 二番目の読誦っていうのは、これは二つ意味があります。一つは「経典を学ぶこと」。「学習」ですね。で、もう一つは「マントラを唱える」こと。
 この二つの違いっていうのは分かると思いますが、経典を学ぶときっていうのは、もちろんしっかりと意味を理解して学ばなきゃいけない。逆にマントラっていうのは意味は関係ない。そのヴァイブレーションを正確に発音して、その音に浸らなきゃいけない。
 これは前にも言いましたが、一応経典の解説なので繰り返すと――だから日本的な、漢字のお経を意味も分からず唱えるっていうのは全く駄目なわけですね。つまりこれは意味を分かって学習するってことにもなってないし、それから単純にマントラではなくて、サンスクリットを中国語に訳しただけのものを唱えてるだけだから、それはマントラでもない。でもなんかこう雰囲気がいいからね、漢字の雰囲気がいいから、なんかこう効果があるような感じでみんな「かんじーざいぼーさつ……」とか唱えてるわけだけど、実際われわれが読誦の修行やるときは、まず経典を読むんだったらちゃんと分かりやすい日本語に訳して、母国語に訳して、意味をちゃんと理解しながら読まなきゃいけない。で、マントラを唱えるんだったら、ちゃんとそのマントラの部分ね、その部分をできるだけリアルなって言うかな、正しい発音で――まあ例えば、よく例に出すのが般若心経だね。般若心経っていうのは最後の一文だけがマントラです。その「ギャーテーギャーテー」っていう部分ね。その前までっていうのはひたすら「全ては実体がない」と。「全ては空である」ってことをいろんな例を出して説いてる。
 で、あれは漢字で読むんじゃなくて、ちゃんと日本語に訳されたものを読んだ方がいい。そして最後の部分は正確な発音で唱えた方がいい。だから「ギャーテーギャーテーハーラーギャーテーハラソーギャーテーバジソワカー」か。漢字だとね。でもこれはもともとの発音だと、
「ガテー ガテー パラーガテー パラサンガテー ボーディー スワーハー」
ってわけだね。
 音のヴァイブレーションがかもしだす、われわれのエネルギーの変化とか心の変化とかを狙っているので、訛ると駄目なんだね、本当はね(笑)。
 分かるでしょ? 例えば最後の一文だけとっても、「ボーディー スワーハー」と。これはすごくきれいなマントラなんだけど。「ボーディー スワーハー ボーディー スワーハー ボーディー スワーハー」。これが漢字を当てたものを読んじゃうと、「バジソワカー」になるわけですよ。ちょっと世界が変わってしまう。
 音っていうのはやっぱり世界をあらわしてる。例えば作曲家がいて、その人が何か作曲したとしたら、それはその人の心の世界をその音に表現してるわけだから。仏教でいう色界。ヨーガでいう幽界とかあるいはアストラルっていわれてる世界は、ヴァイブレーション、音の世界なんだね。で、この世界にいかに影響を与えるかっていうのがマントラなんです。だから神聖なマントラっていうのをできるだけ正確な発音で唱えなきゃいけない。
 だから読誦のポイントってその二つですね。もう一回繰り返すけども、一つはちゃんと意味のある正しい経典を学ぶこと。もう一つは正確な音でマントラを唱えると。これが二番目の修行ですね。


◎神への祈念

 で、三番目は神への祈念。これはまず一つ目の神への祈念っていうのは、まあ、この言葉通りだね。日々神に祈りを捧げると。で、もう一つの意味はこのカッコしてある、「行為のすべてを神にささげる」と。これはもうカルマ・ヨーガだね。つまり自分の人生、あるいは自分の使命、もしくは社会においてやらなきゃいけないこと。――それは仕事であったり、あるいはいろんな人との対応であったり。そういったものっていうのは、自分のエゴのためにやってるのではなくて、神への捧げものであると。だから成功も失敗も関係ないと。ただ自分は神への供養として全力を尽くすだけであると。そこで自分が褒められようが、けなされようが、利益を得ようが、不利益を得ようが、全くそれは関係ないんだと。そういうカルマ・ヨーガ的発想ですね。あるいはそうじゃなくて、単純に日々瞑想して、あるいは祭壇に祈ったりして、あるいは懺悔をしたりして、神に祈りを捧げると。
 はい、この三つのこと。この三つっていうのは分かったと思うけども、この間の説法でも言った、「身・口・意」なんだね。つまりわれわれの肉体面、それから言葉の世界――つまり音の世界ですね。そして心の世界。この三つの浄化作業、これがクリヤー・ヨーガなんです。まず苦行、つまり熱によって体を通す作業によって肉体を浄化すると。そして日々マントラを唱えたり、経典の言葉を学んだりすることによって、言葉の世界、あるいはヴァイブレーションの世界を浄化すると。そして日々神に祈りを捧げる、あるいは自分の人生すべては神へのお供物であると、そのように考えることによって、われわれの心っていうのは浄化されますと。
 で、これをクリヤー・ヨーガというんですよ、というのがこの一文ですね。

◎マントラのなまりについて

 はい。何かここ質問等ありますか?

(K)先生、マントラをチベット弁で読むのはどうなんでしょうか?

 それは難しい問題だね。チベット弁っていうか、チベット訛りって確かにあるんだね。
 「オーム・マニ・パドメー・フーム」が「オーム・マニ・ペメ・フーム」だったり、「ヴァジュラ」が「べンザ」だったりとか。それは私の立場としてはノーコメントとしたいところだが、つまりこれは意見の相違があると思うんだよ。チベットの人達にいわせると、その方が効果的だって言います。つまり「ヴァジュラ」って言うよりも「べンザ」って言った方がいいっていうんだね、彼らは。でもサンスクリットっていうか、インド正当の仏教からいえば、「いや、それはべンザになっちゃ駄目なんだ」と。「ヴァジュラじゃないと力がないんだ」っていうんだね。それはだから縁とか信の問題もあるだろうね。
 好き嫌いは抜きにして私の印象としてはですよ、私の印象としてはやっぱりサンスクリットの方がいいと思います。サンスクリットに近い方がいいと思う。
 でもチベットの昔からの人達が「いや、それはべンザでいいんだ」とか「そっちにも意味があるんだ」って言ってて、それとカルマ的に縁がある人が、「そうなんだろうな」と思ってそれをやるのは全く問題ないと。でもそうなるとなんでもありになっちゃうんだけどね。「じゃあ日本訛りもいんじゃないか」って。あ、ていうか日本人っていうのは、別に日本訛りになってるわけじゃなくて、それがマントラであるってことも知らずに、マントラもお経にセットで訳されてるものを、お経と一緒に唱えてると。そこの方が問題なのかもしれない。
 まあそれはもう一つは、みなさんがもしチベットに執着があるんだったら、それはそれでいい。執着があるんだったら、わざわざヴァジュラをべンザって言ってもいいのかもしれないけど。もしそういうのがないんだったら、私はサンスクリットの方がいいと思うね。
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「全智への道」

2015-05-12 08:55:11 | 解説・ヨーガ・スートラ


◎全智への道

(K)サンスカーラが生じるっていうのは、仏教的にいうと、阿頼耶識とか……

 あのね、一般にどういっているか分からないけど、私は阿頼耶識=サンスカーラだと思うね。多分ね、普通はそういう言い方されてないと思います。ただ私はそう思いますね。
 阿頼耶識っていうのはつまり、後付けなんですよ、あれ。お釈迦様は阿頼耶識とか言ってないし。大乗仏教で阿頼耶識っていう概念が出てきたわけだけど。私はサンスカーラだと思う。あるいは近代的な神智学とかヨーガの世界でいうアーカーシック・レコード。あれも同じです。つまりアーカーシックっていうのは、アーカーシャっていうのは空性のことだけど。空性の世界にあるレコード、記憶領域がありますよと。それはまさにサンスカーラなんだね。だからみんないろんな言葉を使って難しくしてるんだけど、簡単なんです本当は。われわれの心の奥の奥には、記憶領域がありますよと。それにはわれわれがいろんなことで輪廻をしながら生きてきた、すべての情報が詰まってますと。それによってわれわれの今の性格もできているし、あるいはカルマっていうのができてますと。これを止めるしかないんだと。あるいは完全にそれを消化し切るしかないんだと。で、この方法っていうのは、止める方法を使っているわけだね、まずは。
 もう一回言うと、真理を直接認識する経験を、何度も何度も重ねて、その強烈なサンスカーラをわれわれの心の奥にインプットすることによって、他のものがどうでもよくなる。これは実際、みんなもそうなると思います。例えば瞑想によって――それが完全な悟りではなかったとしても、ものすごい真理を直接認識する経験を一回二回三回と続ければ、現世の煩悩はどうでもよくなってきます。でもね、それは、少ない場合は長持ちしないんです。例えば、Cさんなんかはそういう例かもしれないね。それはレベルは別にして、瞑想して、「ああ、すべてが分かった」と。「私はこれこれの経験をした」と。「私は全て要らない」とか言いながら、次の日には焼き鳥を食いに行ってると(笑)。もたないと(笑)。つまり焼き鳥のサンスカーラもまだ強いと。
 それは逆に言うと、悟りのサンスカーラがまだ甘いんです。もっと奥に行かなきゃいけない。もっと強烈なものがある。それを、より強烈なものを経験し、しかも回数を重ねるごとに、そっちの方が勝っちゃう時が来るんだね。そんな一日二日じゃなくて、よほどの刺激がない限りは、もう現世のものには全く興味がわかないと。よく仏教とかの表現には、まるで吐いた唾のように見えるって書いてあるんだけど(笑)。つまり現世のいろんな、異性のセックスの喜びとか、食べ物とかが、吐かれた唾みたいに見えるから、別に我慢しているわけじゃなくて、もう「なんだそりゃ」と(笑)。近寄りたくもないと。それはだから、それ以上の完全な悟りの素晴らしさを知っているからだね。最初は安定はしてないんだが、そういう悟りの経験の力によって、どんどん現世から離れていく段階がある。最終的に、そのサンスカーラそのものも止まってしまう段階がある。それが無種子サマーディだよって言っているんだね。

(K)無種子サマーディになったら、所知障もなくなるんですか?

 今、K君が言ったのは、所知障っていうのは、これは仏教の言葉だけども、われわれの完全な解脱の障害は二つありますと。それは煩悩障と所知障ですと。煩悩障っていうのは、渇愛って言ってもいいんだけど――われわれが間違った執着を持っている。この執着さえなくせば、苦しみはありませんよと。つまり簡単に言えば、煩悩です。煩悩があるから苦しいんだと。で、煩悩はちょっと止めましょうと。これが煩悩障だね。所知障っていうのは、無明と言ってもいい。ここの今の話で言ったら、『ヨーガ・スートラ』の話っていうのはかなり曖昧なんです。これがどこまで言っているかは別なんだけど、今説明したことっていうのは――サンスカーラが止まりましたと。じゃあ無明はどうなってるんですかと。それは止まってるから当然そこから先には行かないけども、次の何か新しい刺激があったりとかしたときに、サンスカーラはどうなりますかと。動くかもしれませんと。これはまだ所知障がある状態だね。
 所知障っていうのは、もうちょっと簡単な言い方をすると、全智を得るための障害です。全智――ここでいう全智っていうのは、無明じゃなくて明。つまり何があっても全くすべてをありのままに見れますよっていう状態。これを邪魔しているのを所知障っていうんです。ここで言っているのは、そこまでは言ってない。そこまでのことは、まだ言ってないんだね。一応、輪廻を生じさせる要因はストップしましたよと。でもそれはストップしてるという現象なんです。ありのままに見ているんですか、というのとは関係がない。だからどっちかっていうと、煩悩障の方かもしれない。煩悩障の方はもうなくなりましたと。でも完全に全てをありのままに見る状態が、完成したのかどうかまでは、ここは言っていない。完成している状態もあるだろうし、してない状態も含まれるだろうし。

(K)完成した状態というのが、如実智見ということ……

 如実知見はちょっと違うね。如実智見っていうのは、完成じゃないです。如実智見っていうのは、レベルは別にして、一つの悟りの状態だね。

(K)無明を取り払って、全てを……

 無明を取り払ったかどうかは分からない。無明を取り払ったかどうかは別にして、少なくとも今の時点において、自分の周りのものをありのままに見たっていう段階。でも次に何にも襲われないかどうかは別ですよと。
 Cさんがね、例えばK子さんという最高のパートナーがいるのに、浮気をしたとしますよ。その浮気相手にはまりまくって、でも「いや、この浮気相手は全然駄目だった。K子が最高だった」と気づいたのが、如実智見なんです。
 で、仏教って面白くて、如実智見で終わりじゃないんだね。仏教の話でいうと、サマーディに入って、如実智見――つまり気づいて、遠離、離貪、解脱って書いてある。どういうことかっていうと、気づいて、遠離――つまり遠く離れる。離貪――貪りから離れる。解脱しますよと。つまり気づいた後も、遠離・離貪のプロセスが必要なんです。どういうことかっていうと、Cさんが気づいちゃったと。「この相手は駄目だ!」って気づいたけども、離れられない(笑)。ちょっとは。でも気づいちゃったから、離れる努力をして、離れて、解脱するんです。だから如実智見の段階っていうのは、まだ解脱じゃないんだね。で、さっきから言っている、無明が完全にないっていうのは、どんな女が来ても、「いや、私はK子が最高だ。分かっている」と。それは信じてるとか、思い込んでるじゃなくて、完全に分かってると。全く意味ないよ、という状態。これが、無明が完全に晴らされた、全智の状態だね。それには、前も言ったように、単に「止める」じゃ駄目なんです。
 じゃあ、このたとえで言うとね、さっきから言っている「止める」っていうのは、少なくとも自分が経験したことだけなんだね。止めてるっていうのは。だから例えば、CさんがA子さんていう人にはまってしまいましたと。このたとえで言うとだよ、A子さんにははまっちゃったけども――例えばしばらくK子さんと離れてたとして、久しぶりにK子さんに会ったと。二回会って三回会ってするうちに、K子さんの素晴らしさがA子さんへの執着を凌駕するときがある。これがさっき言った、智慧のサンスカーラが煩悩のサンスカーラを凌駕する段階なんだね(笑)。
 それを繰り返すうちに、もうK子さんの思い出とかA子さんの思い出なんて通り過ぎて、リアルにK子さんの素晴らしさに目覚めるときがあるんです。これがサンスカーラの停止なんです。つまりK子さんは、この話で言うと、リアルなんです。思い出とか関係ないんです。はっと、「あ、おれK子さんしかいないじゃん。」と。「それしか私、ありえないじゃない」っていう、論理が入り込めない世界があるんだね。そこを目覚めてしまったら、サンスカーラはもう――つまり記憶の世界っていうのは止まってしまうんです。それがさっきのたとえで言うと、そうだね。でもこの場合、次の女が来たら、危ないんです(笑)。まだ。
 でも、何が来ても絶対大丈夫な段階がある――これが完全な全智だね。ありのままに真理っていうものを分かりきっているから、全く意味がないっていうか、他のものは。
 だからすごく難しいんだね。難しいっていうか、壮大なんだね。この話っていうのは。だからお釈迦様も、ものすごい回数生まれ変わって、やっと解脱したっていう話だけど。ものすごい輪廻を超えた世界なんだね。


 はい、他、何かありますか? 特にないかな。はい、なかったら終わりにしましょう。ご苦労様でした。

(一同)ありがとうございました。
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「無種子サマーディ」

2015-05-10 18:04:51 | 解説・ヨーガ・スートラ


◎無種子サマーディ

【本文】
『タシャーピ 二ローデー サルヴァニローダーッニルヴィージャハ サマーディヒ

これ(他のすべてのサンスカーラを退けるサンスカーラ)さえも止めてしまったとき、一切の心の作用が止まってしまうので、無種子サマーディが出現する。』



 はい。これはさっきも言ったように、まずここまでの段階っていうのは――瞑想に入って智慧を得ました。しかしこの世に戻ってきました。しかしその瞑想の経験っていうのは残っています。それによって他の現世的などうでもいいことがどうでもよくなってくる――どんどんどんどん増してくんだけど、でもこのいいサンスカーラ、これはいいサンスカーラなんだけど、サンスカーラなんだね。これさえも最後には止まる段階がくる。そうすると、サンスカーラが止まってしまうってことは、もう輪廻がないんです。つまり十二縁起の無明ありて行あり、行ありて識ありって行くんだけど、行がないから(笑)、その次に行かないっていうか。だから輪廻が止まるんだね。
 あるいはわれわれがこの世で、抽象的な言い方をすれば――抽象的な言い方というか、お釈迦様の弟子たちはみんな言ってるんだけど――なすべきことがなくなるんです。
 お釈迦様の弟子って、みんな悟ったときに「なすべきことはなくなった」って言う。つまり行がなくなるんですよ。イコール無明がなくなるってことなんだけど。消化しなきゃいけないサンスカーラの情報がストップしてしまった状態。これが無種子サマーディ。もう何も発現するものがありませんよ、というサマーディ。これは将来はあるのかっていうと、将来は発現する可能性はあります。だからこれは、いつも言っている、中途半端な解脱と完全な解脱の違いだね。いったん止めた――これは中途半端な解脱。完全な解脱っていうのは、また話が大きくなるけど、やっぱり菩薩行以外にありえないと思うね。完全に、菩薩行という方法によって、いろんな人の苦しみを経験しつつ滅していくっていうのを繰り返していくと、もうどんな刺激によっても、どんな環境によっても、全く新たなサンスカーラが生じないような状態になってくるんです。ここまでいかないと、最終的なのは無理なんだけど。でも少なくとも個人の、今まで悩まされてきた自分のサンスカーラはいったん止めることができる。これが無種子サマーディだね。
 はい、なかなか『ヨーガ・スートラ』も奥が深いですね。それはそうなんだけど(笑)。ばーっと読むとよく分かんないんだけどね。でも実際、いろんな他の仏教とか、あるいは近代的な密教とかヨーガとかの考えを分かった上で読むと、『ヨーガ・スートラ』も非常に奥深いものが分かってくるという感じだね。
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「智慧のサンスカーラ」

2015-04-10 20:01:31 | 解説・ヨーガ・スートラ


◎智慧のサンスカーラ

【本文】
『タッジャハ サンスカーローニャサンスカーラプラティバンディー

ここから生じるサンスカーラは、他のサンスカーラの発現を妨げる性質を持っている。』



 はい、サンスカーラ。わざわざここはサンスカーラってもともとの言葉を残しましたが、これはね、よく仏教用語で「行」といわれるやつです。サンスカーラ。
 サンスカーラっていうのは、いろんな意味があるんです。だからわざわざサンスカーラって残したんだけど。単純に言うとね、カルマと言ってもいいです。あまりみんなそういう言い方しないけど、行=カルマと言ってもいい。つまり心の奥の奥の奥に貯蔵された情報です、われわれの。データだね。
 ここから十二縁起だと、無明ありて行あり、行ありて識ありと。つまり行から、サンスカーラから識が出ますよと。どういうことかっていうと、われわれの心の奥にある情報から識別――つまりこれはこうだとか、あれはああだとかいう観念的考えが生じるんです。
 これはもう一つ、カルマだって言ったのは、例えばわれわれが誰かを殴りました。その情報がここに入るんです。殴ったからその情報が現実化して、われわれも殴られる。この情報が全部入っています。だから、われわれの心の性格とか考えとかの元とも言えるし、あるいはカルマの法則の現象の大もとともいえる。これをサンスカーラという。行っていうんですね。
 ここで言っているのは、
「ここから生じるサンスカーラは、他のサンスカーラの発現を妨げる性質をもっている」。
 つまり、サンスカーラというのはもう一回言うと、われわれは何かを経験したときにその情報が蓄積されるんだね。それがまたぱーっと現われてくる。例えば、分かりやすくいえば、Cさんが久しぶりにホルモン食った。これはサンスカーラとして入ります(笑)。それがまた何かの刺激を受けたときに、「食いたい」っていう心の想いとして出てきたり、それがあるからカルマによって他の人からホルモンに誘われたりっていう状況が生じる。あらゆる経験がそうなんだね。ということは、このわれわれが瞑想して智慧を知り得た、この経験もサンスカーラとしてまず貯蔵されるんです。つまりここで言っている真理の智慧っていうのは、別に完全に聖者として完成したわけじゃない。瞑想して成功したときに、ぱーって智慧を発見したと。「おお、すごい!」と。でも誰かに呼ばれて瞑想から醒めちゃったと。そうしたらなんか忘れてたりとか、あるいは心がもう変わってたりする。しかし、その経験はサンスカーラとして残るんです。こいつがしっかりとサンスカーラに定着すると、他のどうしようもないどうでもいいようなサンスカーラの発現を邪魔するんです。つまりこの悟りの経験が、他のどうでもいい煩悩の経験が起きないようにするんだね。
 ちょっとイメージ的に言うと、つまりね、サンスカーラって光なんです。情報って光なんです、実は。だからさっき光には、悪い光もいい光もあるよって言ったけど、われわれの経験そのもの、情報そのものは光なんです。でもそれは弱い光です。悟りの光っていうのは強い光なんです。つまり、蛍がいっぱいいるところに強烈な光源を置けば、蛍の光は見えなくなる。同様に、強烈な悟りの経験が心の奥にどんとあったら、過去の煩悩的経験っていうのは見えなくなるんです。一回や二回じゃ駄目だろうけど、何度もこのサマーディに入って、智慧の経験をしている人は、自然に現世のものなんてどうでもよくなるんです。悟りの方が心の奥にがっと根付いてくる。
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「真理に満たされた智慧」

2015-04-10 18:59:56 | 解説・ヨーガ・スートラ


◎真理に満たされた智慧

【本文】
『ニルヴィチャーラ・ヴァイシャーラディェーディヤートマプラサーダハ

ニルヴィチャーラの瞑想が曇りなき状態に達したとき、内面的静寂が生ずる。


リタムバラー タトラ プラジュニャー

その内面的静寂の中に、真理に満たされた智慧が生ずる。


スルターヌマーナプラジュニャービャーマニャヴィシャヤー

伝承や推理から得られる智慧は普通の対象に関するものである。今述べた智慧とは、はるかに高い段階のものであって、伝承や推理の貫通し得ないところまで到達しうる。』




 はい。まずニルヴィチャーラ、微細な分別さえなくなった状態が曇りなき状態に達したとき。これは非常に曖昧な表現ですね。これを仏教ではもっと細かく分類しています。これが第三サマーディと第四サマーディです。仏教の言い方をすると、第三サマーディに到達する――第一サマーディと第二サマーディでは、心の喜びと心身の強烈なエクスタシーがあるんだけど、第三サマーディにおいて、心の喜びというのはなくなります。純粋なエクスタシーのみの世界があって、そこにおいて純粋な念のみが残る、というかな。純粋な念っていうのは、それは仏陀への念でもいいし、教えの念でもいいんだけど。それが残って、心が止まっているんだけど、この世の歓喜ではない歓喜状態がある状態があります。 その最高に達した歓喜さえも――「不苦不楽」っていうんだけど、二元を超えていくんだね。歓喜と苦しみのない――ないっていうんでもないんだけど、歓喜とか苦しみとかそういう世界を超えてしまう。これが第四サマーディ。これがここで言っている、「内面的静寂」ですね。
 非常に曖昧なんだね、この書き方っていうのは。前まで静寂とか言っていて、ここで内面的静寂が生じるとか出てくるんだけど――だから仏教のサマーディの説明とかを聞いていると、非常に分かりやすい。これは第二サマーディのことをこの前まで言っていて、そこから先ちょっとはしょって最後のこと言ってるなっていうのがよく分かる(笑)。第四サマーディの完全なる不苦不楽の静寂状態があるんだね。それが――ちょっとはしょられてるけど、「ニルヴィチャーラの状態が、曇りなき状態に達したとき」という言葉で示されてる。
 はい、そしてそこでやっと、真理に満たされた智慧が生じる。つまりこれが仏教でいうところの「正観」――正しい智慧の瞑想になります。これは相当はしょっています、この説明っていうのは。寂静のサマーディが究極状態に達して、そこから生じる真理を直接的に正観する状態がやってくるんだね。これがここで言っている「真理に満たされた智慧が生じる」。それは伝承や推理から得られる智慧ではないんだと。
 伝承や推理から得られる智慧っていうのは――まず伝承の智慧っていうのは、昔の聖者が悟ったものを伝えられてきたと。いつも言うように、聖者が悟ったものというのは、実は言葉にできないものなんです。 言葉にできないんだけど、しょうがないから言葉にしたものなんです(笑)。それをわれわれが見て感動するのは、それは素晴らしいことなんだけど、でもそれは近似値までしか行けないんです。そのものをわれわれは感じられないんだね。すごい近いところまでは感じられるんだけど、そのものには行けない。
 もう一つ、推理によるもの。これはつまり分析によって――あ、お釈迦様はこう言ったと。こうでこうでこうだから、そうだこうなんだ、っていう悟りは確かに素晴らしいんだけど、これも行けないところがある。つまり直接われわれが見なきゃいけない悟りがある。これがここで言っている、伝承や推理の貫通しえないところにある真理っていうことだね。つまりこれは、ヨーガや仏教でも同じだけども――だからいつも言うけども、仏教でいうヴィパッシャナーっていうのは、決して浅い心の観察じゃないんです。段階的にはそれもあるんだろうけど、本当に言っているのは、心の奥にある、言葉さえもそこに入れないような、直接認識をしなきゃいけない真理の状態があるんだね。悟りの状態っていうか。それに対する観察なんです。それによって智慧を得る。
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