ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

幸福な人

2019-12-12 17:31:36 | 経典の言葉・聖者の言葉


 幸福が人を優しくするのか、優しいから幸福なのか、
 幸福な人の魂の中には、悪意の痕跡が全く見られない。


 ――プラトン
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パドマサンバヴァの秘密の教え(72)「五つの熟達」

2019-12-11 22:23:25 | 経典の言葉・聖者の言葉



◎五つの熟達


 師パドマはこう仰った。

「ダルマを修習しているとき、あなたは五つを熟達させなくてはならない。」


 ツォギャルは尋ねた。

「それは何でしょうか?」


 師はこうお説きになった。

「一.ダルマが自然に身に付くことにより、「すべてを解放する全智者」にならなくてはならない。

 二.ダルマターの認識を得ることで、あなたの存在の中に不生性を発達させねばならない。

 三.サマヤが自然に身に付くことにより、心の完全性を持たなくてはならない。

 四.努力してプラーナを習熟することにより、苦行を遂行できなくてはならない。

 五.口頭での教えに精通することで、人々の気質にそって彼らを導くことが出来なくてはならない。」
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執着

2019-12-06 16:49:12 | 経典の言葉・聖者の言葉




 人を二元論的状態に条件づけるのは、カルマによって曇らされた現象として生じてくる「状況」ではない。
 そうやって生じてくるものが人を条件づけることを可能にするのは、本人自身の「執着」なのである。



 ――パダンパ・サンギェー
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一味

2019-11-30 19:36:43 | 経典の言葉・聖者の言葉



 現象を良し悪しに分けることなく、ダルマターたる本来の境地にとどまること、それが「一味」の意味である。なんであれ、概念化しない。そうすれば、すべての現象は明智と分けることのできないその表現としてあらわれてくる。それによって、迷妄の煩悩は浄化され、無分別の智慧となる。かくして、明智の境地にとどまり続ける。
 明智の境地に、迷妄の煩悩が生じてきても、それを分別することなく、あるがままに放置する。そうして無分別にとどまり続ければ、一切の現象は、存在の本質(ダルマター)である真如としてあらわれてくる。原初の智慧は、空であると同時に自然状態で完成しているエネルギーでもあるから、ダルマターたる真如として顕現するということができる。



 ――ナムカイ・ノルブ
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許すな

2019-11-30 09:21:40 | 経典の言葉・聖者の言葉




 このわたしという存在はそれが何であろうと結局ただ肉体と少しばかりの息と内なる理性よりなるにすぎない。
 書物はあきらめよ。これにふけるな。君には許されないことなのだ。
 そしてすでに死につつある人間として肉をさげすめ。それは凝血と、小さな骨と、神経や静脈や動脈を織りなしたものにすぎないのだ。
 また息というものもどんなものであるか見るがよい。それは風だ。しかも常に同じものではなく、時々刻々吐き出され、また呑み下される。
 第三に理性だが、次のように考えるがよい。お前は老人だ。これ以上理性を奴隷の状態に置くな。利己的な衝動に操られるがままにしておくな。また現在与えられているものに対して不満を持ち、未来に来るべきものに対して不安を抱くことを許すな。


(「自省録」)
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確固たる土台に

2019-11-27 12:57:32 | 経典の言葉・聖者の言葉


 1986年にチベットを初めて訪れたラファエルが、そのときの経験談を話してくれたことがある。それは、中国によるチベット侵略の際に、身の毛がよだつような恐ろしい経験をした人物との感激的な出会いだった。
「その方は、長椅子に座るように勧めてくれて、大きな魔法瓶からお茶を入れてくださったの。西洋人と話すのは、そのときが初めてだったそうよ。わたしたちは話しながらよく笑ったわ。その方は本当に愛すべき人物で、子供たちがひっきりなしにわたしたちを囲んで、驚いた様子でじろじろ見ていたわ。わたしを質問攻めにしたお返しに、中国の侵略者によって受けた残虐な仕打ちのことを話してくれたの。12年もの間、獄中につながれて、その間にダク・イェルパ渓谷ダムで石切労働の刑を宣告されたのですって。完全に干からびた川底にダムを作る工事なんて全く無意味だったそうよ。その方を除いて、労働に駆り出された友人全員が、一人、また一人と飢えと疲労で死んでいったのですって。でも、それほど過酷な経験を話しているのに、その方の発する言葉からは憎しみのかけらもかんじられなかった。目には恨みの色が全くなくて、思いやりと暖かさでいっぱいだった。その夜、床に就いたとき、あれ程の苦難を経験したのに、どうしてあんなに幸せそうにしていられるのかしら、と不思議でならなかったわ」。
 心の平和を維持する技を体得した人は、成功して鼻高々になることもなければ、失敗して意気消沈することもない。そのような人は、どのような経験もつかの間のものにすぎず、それにこだわることがどれほど無意味かを十分に理解している。そのため、どのような経験でも、深く平穏な心の状態を保つための修行の一つにしてしまうのである。事態が悪化したり、逆境に置かれたりしても、「衝突」して破滅する危険はない。その人の幸福は、確固たる土台に根差しているため、心がぐらつかず、抑うつの底に沈みこむこともない。



 ――マチウ・リカール
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ヴェーダーンタの実践(17)

2019-11-23 11:39:03 | 経典の言葉・聖者の言葉



24、ブラフマンは空である。
 それは空白とか空虚というものではない。
 究極的に何もないものを心に思い描くのは不可能である。
 それはパリプールナ(完全なる充満)である。なぜなら、一切の欲望がそこで溶け去るからである。
 あなたは至高なる、絶対なる満足(パラマ・ニティヤ・トリプティ)を得る。
 それはすべてである。
 あなたが(この偽りの幻影である「わたし」を滅することで)無になるとき、あなたはすべてを得る。
 あなたはすべてのものになるのだ。


25、本性の法に対する信は、神への信である。
 全世界は明確で安定した法の下で動いている。
 そこには可能性や偶然というようなものは存在しない。
 神(イーシュワラ)は、ブラフマンのタタースタ・ラクシャナ(顕在化した姿)である。
 バクタの敬虔な礼拝のためだけに、ニルグナ(特質のない)・ブラフマンはサグナ(特質のある)・ブラフマンとしてお現われになる。
 真実には、そこにはサグナ・ブラフマンのようなものは存在しない。
 そこには実在のみが存在する。
 それは「真実」である。
 それは「真理」である。


26、あなたがあなたの前に木を見るように、心の活動を見ている何者かが存在しているはずである。
 その誰かとは、クタスタ(至高の魂)・ブラフマンである。


27、好き、嫌いというような二つの発想の最も単純な比較とそれらの認識は、それらを比較している不可分の統一性、つまり言及されている要旨の外部にある真我を前提としている。
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正念

2019-11-22 15:17:39 | 経典の言葉・聖者の言葉


 正念なき者は、糞便のようなものだ。
 正念なき者は、小便の海に寝ることとなろう。



 ――ニョシュル・ケン・リンポチェ


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Mの信

2019-11-08 18:30:22 | 経典の言葉・聖者の言葉





 彼(M――マヘンドラナート・グプタ)は、師(ラーマクリシュナ)の長兄がかつて学校を運営していたベチュ・チャタージー通りに頭を下げていた。また、師がかつて聖職者として勤めていたジャーマプクルにあるミトラ家の家に対しても同じように頭を下げていた。仲間がそれを見て驚くと、Mは、「この通りを歩けば誰もがヨーギーになることを知っていますか?」と言った。
 師の死後、ときどき彼はドッキネッショルに行くと、いつも濡れタオルを持ち帰った。そして水を絞り出し、信者たちに振りかけて言った。
「師が沐浴なさっていたガンガーのガートから、この聖水を持ってきたのです」と。


(「神と共に」より)

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ラーマクリシュナの召使い

2019-11-08 18:20:37 | 経典の言葉・聖者の言葉






 まず先にラーマクリシュナを学ばなければ、人は決して真のヴェーダ、ヴェーダーンタ、バーガヴァタやプラーナの重要性を理解できない。彼の人生はインドのすべての宗教的思想を照らし出すための無限の力を持つ明かりである。彼はヴェーダとその目的に対する生きた記録であった。彼は一つの人生の中で、インドにおける国民的宗教の存在の全体を生きた……
 ラーマクリシュナ・パラマハンサは、一番新しい、最も完全なアヴァターラである。――叡智、愛、放棄、慈善、人々を助けたいという強い気持ちが一つになって人としてあらわれた方である。彼と比較できる人間がどこにいるというのか?
 わたしのこの上ない幸運は、わたしがいくつもの生涯を通じて彼の召使いであることだ。彼の一語は、わたしにとってヴェーダやヴェーダーンタのよりもはるかに重い。――ああ、わたしは彼の召使いの、さらに召使いの一人だ……


 ――ヴィヴェーカーナンダ

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シュリー・ラーマクリシュナの愛

2019-11-06 16:57:30 | 経典の言葉・聖者の言葉




 シュリー・ラーマクリシュナは、ひとふれで、その人のカルマの99パーセントを飲み干されるのだった。師が最後に長い病気を患ったのは、他人のカルマを引き受けるためだった。師はわたしたちにいつもこうおっしゃっていた。
「わたしがカルマを引き受けた人々は、自分自身の強さで救済を実現したと思っている。わたしが彼らのカルマを引き受けたことを理解していない。」
 師にどれくらい借りがあるのか、わたしたちにはわからない。しかしいつか、わたしたちのために師がなされたことを理解し、感謝をささげなければならない。
 
 シュリー・ラーマクリシュナがコシポルのガーデンハウスに到着された時は冬だった。かなり寒い日が多かった。ある日の深夜、師の身の回りのお世話をしていたとき、わたしは薄い着物だけを羽織って外を急いで歩いていた。わたしが師の部屋に戻ったとき、師が、病気であるにもかかわらずベッドから起き上がり、何とか部屋を横断して洋服掛けにかかっている衣服に手を伸ばしているのを見た。
 
 「何をなさるのですか?」――わたしは叱るような調子で師にお尋ねした。「今日はとても寒いのです。起き上がってはいけません。」

 すると師はご自分のガウン(ショール)を持って、心配と愛情にあふれた弱々しい声でおっしゃった。
「お前が寒いといやなのだよ。これをお使い。」



 ――スワミ・ラーマクリシュナーナンダ(「わたしたちが見たラーマクリシュナ」より)
 

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2019-11-02 18:52:55 | 経典の言葉・聖者の言葉


 いっそう心して師を求めなさい。師を恭敬し礼拝して、その言葉を疑うことなく、倦み疲れることなくありなさい。

 もろもろの菩薩は師によって菩薩行を究めて、一切の菩薩の功徳、一切の菩薩の大願、一切の菩薩の善根を満たして、菩薩道の修行の助けとした。
 もろもろの菩薩は師によってダルマの光明を生じ、菩薩の法門を浄める。
 もろもろの菩薩は師によって功徳の法蔵を維持し、一切の菩薩の大慈大悲の力を持ち、衆生に利益を与える心を得、悪道から遠く離れて大乗に安住し、菩薩行を修して悪しき友を遠ざける。
 もろもろの菩薩は師によって心退転せず、心に世間の惑乱なく、心に染著することなく、煩悩を殲滅し、もろもろの魔に悩まされることもない。

 師は慈母である。道を求める者を如来の家に生まれさせるゆえに。
 師は慈父である。道を求める者に無量の加護を与えるゆえに。
 師は養育者である。道を求める者を守護して一切の悪行を止めるゆえに。
 師は偉大な師である。道を求める者を教化して菩薩の戒を学ばせるゆえに。
 師は導師である。道を求める者を彼岸に至る道に導くゆえに。
 師は良医である。道を求める者の煩悩の病を治療するゆえに。
 師はヒマーラヤである。道を求める者のために智慧の薬草を生じるゆえに。
 師は勇将である。道を求める者を護衛して一切の恐怖を除くゆえに。
 師は堅固な船である。道を求める者を乗せてことごとく生死の海を超えさせるゆえに。
 師は船長である。道を求める者を全智のダルマの宝の島に渡らせるゆえに。

 良家の子よ、師を求めなさい。

 師に出会ったら、大地のようだと思いなさい。大地は万物を乗せてはぐくむゆえに。
 師はヴァジュラのようだと思いなさい。堅固にして何にも壊されないゆえに。
 師はヴァジュラの山のようだと思いなさい。一切の苦患を破壊するゆえに。
 師に出会ったならば、自分を捨てて従い、自己に恃むことなく、善き弟子でありなさい。

 師にお会いして、怠惰・慢心を破壊するしもべの心になりなさい。
 師にお会いして、隊商を率いて宝の地に行く商主の心になりなさい。
 師にお会いして、実りの時を知る作物の心になりなさい。
 師にお会いして、俊足にして遠くまで走る駿馬の心になりなさい。
 師にお会いして、もろもろの感覚を調伏する象の心になりなさい。
 師にお会いして、嫌悪を離れた子犬の心になりなさい。
 師にお会いして、悪しき風にも動じることがない山の心になりなさい。
 師にお会いして、何にも執着せずに動く風の心になりなさい。
 師にお会いして、虚勢を離れ、困難を打ち砕いて努力する心になりなさい。
 師にお会いして、ブッダの教えへと渡る橋の心になりなさい。
 師にお会いして、正しい道を見出したという思い、砂漠で涼地にたどりついたという思いを持ちなさい。
 師にお会いして、修学の心、勇健の心を持ちなさい。

 師にお会いして、これらの思いを持ち、素直な心で師を仰いで、その教えに随順しなさい。そうすれば善根は増大して、ヒマーラヤで薬草を得るがごとくである。そして大海をも飲み干すほどのブッダの器となるであろう。その心が清浄にして世間を超出することは大海にスメール山がそびえる如く、世間に染まらざること泥の中の蓮華のごとく、もろもろの悪に没せざること死体に大海がけがされぬごとく、叡智の光明は満月のごとく、あまねく法界を照らすことは太陽が輝くごとく、菩薩の身体をはぐくむことは母が子を養うごとくである。

 師の教えに随順するなら、つまるところ、百千憶ナユタ(数え切れないほど膨大な数)の功徳を得て、百千憶ナユタの菩薩の潜在力を増大し、百千憶ナユタの菩薩の法門に入り、百千憶ナユタの菩薩の大願を成就するであろう。

 菩薩の道を行く求道者はつまるところ、師によって、一切の菩薩行、一切のパーラミター、一切の菩薩のステージ、一切の菩薩の法忍、一切の菩薩のダーラニー、一切の菩薩のサマーディ、一切の菩薩の明智の自在、一切の菩薩の回向、一切の菩薩の大願を完成するであろう。

 このような一切の法は、師を根本とし、師によって生じ、師によって取得され、師によって生起し、師によって増大し、師によって住され、師によって得られるのである。



(「徳生童子解脱法門」より)


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勇敢

2019-11-02 17:53:05 | 経典の言葉・聖者の言葉


 自分自身を恐れ、世界が脅威をもたらすように見えるとき、人間はこの上もなく利己的になるものだ。自分の小さな巣、自分の繭を作って、その中で自分だけは安全に暮らしたいと思う。
 だが、わたしたちははるかに勇敢に生きることができる。わたしたちは自分の家庭を超えたもの、心地よく燃える暖炉の火を超えたもの、朝、子供を学校まで送っていったり仕事を始めたりといった日常性を超えたところのものに、目を向けなければならない。どうやったらこの世界の助けになれるだろうか、と考えてみるべきなのだ。わたしたちが助けない限り、この先だれも助けようとしないだろう。今は、わたしたちが世界を助ける番なのだ。
 他人を助けることは自分の個人的な生活を見捨ててしまうことではない。他人を助けるために家庭をないがしろにして、市長になったり、合衆国のっ大統領になったりしなくても、自分の家庭や友人や身の回りの人たちから始めていけばいい。実のところ、自分自身から始めればいいのだ。大事なのは、自分は決して義務を免れ得ないということに気づくことだ。全世界が助けを求めているのに、のんびりとかまえてなんかいられない。



 ――チョギャム・トゥルンパ


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覚者の心の宝(終)

2019-10-28 20:42:05 | 経典の言葉・聖者の言葉



 最初のパートは、この堕落した時代の生き方に対する、悲しみの演説である。
 これは、わたし自身に対する叱責である。
 この嘆きは、わたしに深く影響を及ぼした。
 あなたも同じように感じるかもしれないと思い、今、それをあなたに与えた。

 
 もしそうではなく、あなたが、自分の見解と瞑想が崇高であると自身を持っており、
 世俗的なものと修行を結合する方法についての賢い考え、
 そしてすべての衆生を救うための問題点を解決する手段、
 もしそれらすべてをすでにあなたが持っているというのならば、お詫び申し上げます。


 二番目のパートは、見解と瞑想についての論文である。――
 もちろん、わたしはまだ経験も悟りも得ていない。――
 わたしは単に、教えの美点についてのわたしの理解を提出しただけである。
 全智者であられる父と息子の尊い系統のその教えを。


 三番目のパートは、一切を放棄して修行することへのわたしの勧告である。
 あなたは要点をとらえそこなうだろうが、それはまさにそれ自身で滑り抜けるだろう。
 それは、ブッダ方と菩薩方の教えと、全く矛盾しないものである。
 それを実践してくれるなら、本当にあなたに感謝しよう。


 この「初め、中間、終わりの高潔な講話」は、
 白い岩の勝利の峰の、シッダの洞窟において書かれた。
 旧友の懇願に抵抗しきれなかったがゆえに、
 五毒に焼かれた、このみすぼらしい老人、アブ・タルポによって。


 わたしは無駄口をたたきすぎてしまったようだ。しかし、それがどうした?
 わたしのテーマは、大いなる価値と的確な意味、そしてそこから生じる功徳を、
 あなたと、三界のすべての衆生にささげることである。
 この教えに触発されて、我々のすべての願いが実現しますように!
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覚者の心の宝(56)

2019-10-28 20:36:35 | 経典の言葉・聖者の言葉


 もしあなたが自分の心をチェックし続けるならば
 あなたが為すことのすべてが、完璧な道となる。
 何百とあるすべての生きた教えの中で、これはまさしくその精髄である。
 すべてをこの一点に集約させ、六音節のマントラを唱えよ。
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