ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

ありのままであれ

2019-12-04 16:46:20 | 松川先生のお話



 困難にぶち当たったとき
 母なる神がいらっしゃり
 叡智の言葉をお語りになる
 神のなすがままであれ

 暗闇に沈んでいるとき
 彼女は輝きとともに私の前にお立ちになり
 叡智の言葉をお語りになる
 ありのままであれ

 なすがままであれ ありのままであれ
 なすがままであれ ありのままであれ
 叡智の言葉をささやく
 「それ」のままであれ

 心を打ち砕かれた人々が
 世界に自分を溶け込ませるなら
 そこに答えがあるだろう
 ありのままであれ

 それと離れてしまった人々も
 まだチャンスがあることを知るだろう
 そこに答えがある
 「それ」のままであれ

 なすがままであれ ありのままであれ
 なすがままであれ ありのままであれ
 そこに答えがある
 神の思し召しのままに

 なすがままであれ ありのままであれ
 なすがままであれ ありのままであれ
 叡智の言葉をささやく
 なすがままであれ

 なすがままであれ ありのままであれ
 なすがままであれ ありのままであれ
 叡智の言葉をささやく
 ありのままであれ

 雲で覆われた闇夜にも、その光は私を照らし続けている
 日が昇るまで、それは輝き続ける
 「それ」のままであれ

 美しいメロディに私が目覚めるとき
 母なる神がいらっしゃり
 叡智の言葉をお語りになる
 なすがままであれ

 なすがままであれ ありのままであれ
 なすがままであれ ありのままであれ
 そこに答えがある
 ありのままであれ

 なすがままであれ ありのままであれ
 なすがままであれ ありのままであれ
 そこに答えがある
 「それ」のままであれ

 なすがままであれ ありのままであれ
 なすがままであれ ありのままであれ
 叡智の言葉をささやく
 神の思し召しのままに
コメント

実写ドラマ・マハーバーラタの最終回にあたって――大戦争、そしてカルナについて

2019-11-23 09:31:01 | 松川先生のお話







 ヨーガスクール・カイラスのAMRITAチャンネルで好評だった「実写ドラマ・マハーバーラタ」がついに最終回を迎えました。
https://www.yoga-kailas.com/mahabhatara-weekly?wix-vod-comp-id=comp-k1m4gd2s&wix-vod-video-id=ed4c4c059f314427b44ae5ae2f69b0b0

 その前に連載していた「実写ドラマ・ラーマーヤナ」に比べると、いろいろツッコミどころがある作品ではありましたが(笑)、全体的には良い作品でした。

 「実写ドラマ・ラーマーヤナ」は、脚本、配役、役者の演技、演出等、すべてが素晴らしかった。おそらくラーマーヤナが好きで、ラーマーヤナのポイントをわかっている人たちが作ったという感じ。そしてそれ以上に、神の祝福が降りた神作という感じでした。
 未見の人はぜひこちらをどうぞ↓
https://www.youtube.com/playlist?list=PLwd8H8l408XEOsUpRVGgqfupy_70kObL1

 それに比べると「実写ドラマ・マハーバーラタ」のほうは、脚本にいろいろとよけいな付け加えが多すぎる感じで残念でした。また、原作の素晴らしいシーンがカットされていたり改変されていたり。
 たとえば、いい人だけれど子煩悩と権力欲によって翻弄されるドリタラーシュトラ王の、唯一の素晴らしい見せ場として、こんなシーンがあります。それは、生まれつき盲目だったドリタラーシュトラに、クリシュナが祝福を与え、目が見えるようにしてあげるのですが、ドリタラーシュトラはそこで初めてクリシュナのお姿を見て、その神々しさに感動した後、クリシュナに対して、「どうかわたしをもう一度盲目に戻してください。あなたのお姿を見た今、もう、他のものは見たくありません」と言うのです。そこでクリシュナはドリタラーシュトラを再び盲目に戻します。
 しかしドラマではこの感動的なシーンは少し改変されてしまい、ドリタラーシュトラは最後の方までクリシュナに少し敵意を抱いている感じに表現されていました。その辺は残念でしたね。

 またこの実写ドラマの最終回は、ビーシュマの死をもって終わりました。マハーバーラタはパーンドゥ兄弟が主人公ですが、ビーシュマは裏の主人公といってもいい存在なので、ビーシュマの死をもって終わるというのも悪くはなく、実際にビーシュマの死のシーンなどは感動的だったのですが、やはり挿入されるナレーションや歌において、ちょっとよけいなというか、個人的に納得できない言葉がいろいろありました笑

 たとえばマハーバーラタの大戦争を「悪」とし、二度と繰り返してはならない、というようなステレオタイプな表現がされていましたが、あの戦争はクリシュナの意思ですので、普通の、人間のエゴでなされる戦争と同一視すべきではありません。
 まあ現代の平和主義ムードに迎合したのかもしれませんが……こういう神聖な物語に、そういうものは持ち込まないでほしかったですね。
 原作のマハーバーラタでは、ビーシュマの死後もしばらく物語が続き、最後の方では、ドゥルヨーダナをはじめとした「悪」の軍も、パーンドゥの「正義」の軍も、実際は神の意思のリーラーにおける役割を果たしただけであり、その皆がすべてが終わって天で共に安らぐという、善悪の観念すら超越したかたちで終わるのですが、この実写ドラマでは、現代的な勧善懲悪的な雰囲気のまま終わってしまい、それもこの壮大な物語の超越性を表現しきれていない感じで残念でした。

 また、挿入歌でカルナを「悪に落ちた」と表現していましたが、それもどうかと思います。
 何度か書いていますが、わたしはカルナがけっこう好きです(笑)。
 何度か書いているので簡潔に書きますが、カルナは本当はパーンドゥ兄弟の長男であり、本当なら正義のパーンドゥ軍につき、そして果てはユディシュティラに代わって大王になる資格のある男でした。
 しかしカルナは、その自分の出生の秘密を知り、クリシュナや母クンティーにパーンドゥ軍につくことを勧められた後も、ドゥルヨーダナのそばを離れることはありませんでした。

「母上様、あなたがおっしゃることは、ダルマではございません。もしわたしが義務の道からそれたならば、わたしは戦場で受けるいかなる重傷よりも、わたし自身を傷つけることになりましょう。
 今わたしがパーンドゥ側に走ったら、臆病風に吹かれたのだと、世間の人々に笑われることでしょう。すでにわたしはクル族の食客となり、家中第一の勇士としてことごとく信用され、数え切れぬ恩恵と親切を受けてまいりました。それなのに今になってあなたはわたしに、恩義ある人に背いてパーンドゥ側につけとおっしゃる。
 ドゥルヨーダナたちはわたしのことを、今回の戦争という大洪水を乗り切るための箱舟として、大変信用してくれています。それにわたし自身が彼らにけしかけたのですよ、戦争をしろと。今になって彼らを見捨てられますか? それでは卑劣な裏切り者、見下げた忘恩の徒ということになりませんか? 
 お母さん、わたしはドゥルヨーダナたちに借りを返さなければならないのです。ですからわたしはあなたの息子たちと、全力を挙げて戦います。どうかお許しください。」

 また、何かとカルナと敵対していたビーシュマも、アルジュナの矢に倒れた後、やってきたカルナに、パーンドゥ側につくことを勧めます。それに対してカルナはこう答えます。

「じい様。わたしは自分がクンティー妃の子であることを知っておりました。しかしわたしはドゥルヨーダナの禄を食みましたので、彼に対して忠実でなければなりません。だから今ここでパーンドゥの方へ行くことなど、わたしにはできません。わたしに寄せられたドゥルヨーダナの愛と信頼にこたえ、自分の命を賭けてその義理をお返しすることをお許しください。
 言葉においても行動においても、わたしはずいぶん間違いを犯しました。なにとぞ、すべてを水に流してお許しくださり、ドゥルヨーダナのために戦うわたしを祝福してください。」

 これを聞いてビーシュマも、「自分の信じる道を行け」と祝福を与えます。

 カルナが、悪人のドゥルヨーダナのそばを離れなかったのは、彼がダークサイドに落ちていたからではありません(笑)。

 カルナがまだ何者なのか、誰も、カルナ自身でさえ分かっておらず、ただの身分の低い御者の息子だと思われていたとき、そのように身分の低いカルナがアルジュナに挑戦しようとするのをパーンドゥ兄弟をはじめとして皆が笑って馬鹿にしたとき、ドゥルヨーダナだけが、カルナを受け入れ、カルナの武士道精神や勇猛さをほめたたえ、一つの国まで与えてカルナを一国の王にしたのです。ドゥルヨーダナは悪人ではありますが実はこういういいところも結構あります(笑)。
 皆が自分を馬鹿にしていたときに、身分を問わず、何も聞かずにただ一人受け入れてくれたドゥルヨーダナ。それを意気に感じ、恩義を感じたカルナは、一生、ドゥルヨーダナのために尽くそうと考えるのです。その後、実は自分がパーンドゥの長兄であったと知った後も、その思いが揺れることはありませんでした。パーンドゥに寝返れば、勝利と王権と社会的正義が手に入ったでしょうが、カルナはそれらよりも自分の中の誠実さを第一と考え、それを決して捨てなかったのです。

 また、この戦争が終盤を迎え、ドゥルヨーダナの軍が敗戦濃厚となってきたとき、ドゥルヨーダナの母であるガンダーリーはカルナに、「どうかあの子を見捨てないでください」と頼みます。そこでカルナは、「たとえどんなことがあろうとも、わたしはドゥルヨーダナを見捨てることはありません」と答えます。
 このシーンは実写ドラマでも、役者の表情等、とても良いシーンでした。
 
 この「たとえどんなことがあろうとも、わたしはドゥルヨーダナを見捨てることはありません」というカルナの言葉は、単に「戦争に負けそうでも、ドゥルヨーダナのもとを離れない」という意味にもとれますが、わたしはそれだけではなく、もっと深い意味があったと思います。

 ドゥルヨーダナはもともと悪人的性質がありましたが、そばにいた叔父のシャクニや弟のドゥッシャーサナなどの影響によって、よりその悪い性質が増していきました。
 しかしドゥルヨーダナの周りには逆に、ビーシュマ、ヴィドラ、ドローナ、クリパといった、ダルマを知り、正しい助言をしてくれる賢者たちもいました。しかし彼らが何を言ってもドゥルヨーダナは耳を貸さず、悪の道を突き進んでいきました。
 終盤になればなるほど、この「賢者」たちは、ドゥルヨーダナのことをあきらめる感じになっていきます。この悪しき王子を改心させることは無理だと。そういう感じで賢者たちは嘆き続けます。
 しかしただ一人、カルナだけは、それをあきらめていなかったのではないでしょうか。
 カルナはドゥルヨーダナの軍についたので悪役のようにとらえられることもありますが、もともとは太陽神の子であり、公明正大な、ダルマに従うことを信条とする性格です。ドゥルヨーダナがシャクニなどの影響により卑怯な作戦や陰険な手段を取ろうとするとき、カルナはことごとく反対し、ドゥルヨーダナの目を覚まさせようとします。

 つまりカルナの「たとえどんなことがあろうとも、わたしはドゥルヨーダナを見捨てることはありません」という言葉の真義は、「たとえ皆があきらめようと、ドゥルヨーダナを悪の道から立ち直らさせることをあきらめない」という意味だったのではないかと思うのです。恩義のあるドゥルヨーダナを、必ず悪の道から救い出すぞ、と。

 王権や本当の家族との幸せや社会的正義の側に立つというメリットのすべてを捨てて、破滅がわかっていながら、ドゥルヨーダナへの恩返し、誠実さを貫いたカルナ。
 誰もがあきらめたドゥルヨーダナを悪の道から救い出すことを、自分の身の破滅と引き換えにしても、決してあきらめなかったカルナ。

 このような生き方を貫いたカルナは、決して「悪の道に落ちた」「あのようになってはならない」などと表面的に批判されるべきではなく、むしろ我々も個々に与えられた運命の中で「カルナのようにあらなければならない」と言ってもいいくらいの、マハーバーラタの中でも特筆すべき素晴らしい人物ではなかったかと思うのです。


コメント

心があなたでいっぱいです

2019-11-13 07:18:29 | 松川先生のお話



心があなたでいっぱいです。
世界があなたでいっぱいです。
この心と世界のふれあいを、少しでも動かすと
耐えきれず、歓喜と共に、涙がこみ上げます。

私はあなた
人々もあなた
世界もあなた
あなたがあなたに、何をするというのでしょう

そもそもこの世界には、あなたの歓喜しなかったのに
私は何と、遠いところまで落ち込んでしまっていたことでしょう。

あなたの御胸で安らぐ以外の喜びを知らなかった私が
何と、遠いところまで落ち込んでしまっていたことでしょう。

でもあなたはお慈悲により、
再び私を引っ張ってくださっています。

その無限の慈悲に応えるために
私は必ず、自己を浄化し、
神の道具となり
この喜びを、衆生に伝えていきます。

あなたに祈って、
かなわないことがあろうか?

あなたが私を、
見捨てたことがあっただろうか?

あなたはなぜそんなにお優しいのでしょう
徳もなく、悪業多き私に。

私は長いこと、あなたを忘れていました。
でもそれも、必要なことでした。
こうして、あなたを忘れることの絶望と、
あなたを思い出したときの、絶対的な喜びを
知ることができたのですから。

おお、無限の至福そのものである主よ!
私のすべてよ!
すべてをあなたにお任せします故、
私が今生の仕事を終えて、やさしく私のすべてを抱き取ってくださるその日まで、
どうか不肖なるしもべである私を、根気強くお導きください。
今後、私があなたの道から、少しもそれることのないように、
どうか厳しく、お導きください。
コメント

覚醒の道

2019-11-12 19:02:13 | 松川先生のお話





意識が下がり、気が下がっている状態では、
世界の実相は理解できず、本当に大事なことは忘れ去られ、輪廻の鎖にからめとられる。

常に上昇のエネルギーを保ち、また常に心に理想を保ち、
輪廻にいながら輪廻にからめとられず、覚醒の道を歩こう。

Be in the world but not of the world.
コメント

自我の放棄と慈悲と帰依(再掲・抜粋)

2019-11-02 21:45:36 | 松川先生のお話




 ただただ神の愛にこの身を任せ、
 何が良いとか悪いとか、自分では決めず
 ただただ神への誠実な愛と
 衆生への誠実な慈悲を持ち、育て、
 この輪廻の中で、自我の放棄の状態をキープする。

 後に起こることは神任せ。
 すべては起こるべくして起こる。
 すべては完璧であり、喜びである。
 自我意識のみが、その完璧さを汚す。

 神に心を任せ、その身を任せ、
 自我意識を放棄し、
 神への愛と、衆生への慈悲のみによって、生きてください。
 それはあなたに、最高の平安と喜びをもたらすでしょう。
コメント

キーワード

2019-11-01 20:18:08 | 松川先生のお話



こうなったらどうしようとか
考える必要はない
世界はそんなふうにはできていないし
これがこうなってああなったりはしない

この幻影の世界で
キーワードは慈愛
笑顔
素直さ
誠実
そして真剣さ
師に従うこと
すべてを明け渡すこと
お任せ
コメント

心の本性

2019-10-26 21:40:08 | 松川先生のお話




 あらゆる現象は神の意思であり、カルマの流れ。
 ただの流れ。
 経験する知覚も、感情も、思考も、それらはカルマによって作られたただの現象に過ぎない。
 例えば機械やAIも何かを認識し、分析し、それにより様々な作用が生じるように、
 それらはただの出来事、作用にすぎない。
 そのようなただの現象を、「わたしが知覚している」「わたしの感情である」「わたしが考えている」などと錯覚しているのだ。

 ところでいったい、誰が錯覚しているのか?


コメント

リラックス

2019-10-11 08:43:06 | 松川先生のお話

「あなたの心をいつも、ジャパ、精神集中、瞑想、聖典学習、サットサンガ、その他の聖なる事柄で忙しくさせておきなさい。常にその状態を保つようにしなさい。」

(サーダナーの指針の花輪)


 ――ゾクチェン瞑想やその他の高度な教えで強調される「リラックス」「努力をしない」「無思考」「無努力」……これらはもちろん、心の最も深い、心の本性に安らぐための教えだ。

 しかしまだそこまで踏破する力のない人が単に無思考でリラックスしても、それは単に潜在意識や顕在意識のけがれの中に没入するだけだ(笑)。

 だからまずはこの言葉にあるように、リラックスではなく、聖なる事柄で心をビジー状態にすることが必要だ。

 そしてその果てに来るリラックス……それはちょうど藁の束を紐で思い切り縛り、最終的に紐が切れて自然に藁の束がほどけていくように……そのような聖なる事柄の飽和状態の後に来るリラックスこそが、あなたを真に心の本性へと導くだろう。



コメント

入菩提行論の歌 The Song of Bodhicaryavatara PART1 第一章~第四章

2019-10-10 18:19:58 | 松川先生のお話
入菩提行論の歌 The Song of Bodhicaryavatara PART1 第一章~第四章
コメント

今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・マハーバーラタ 第81話 後編「宿命の頂上対決!! アルジュナVSカルナ」」

2019-10-05 00:11:45 | 松川先生のお話
今日のAMRITAチャンネルは、「実写ドラマ・マハーバーラタ 第81話 後編「宿命の頂上対決!! アルジュナVSカルナ」」です。


コメント

覚者の心の宝(29)

2019-09-28 19:59:28 | 松川先生のお話

 すべての現象は空であると認識することは、見解の重要なポイントである。
 本当だとか虚偽だとか信じることは、それ自身の本性の中で解放される。
 サンサーラとニルヴァーナのすべては、執着から解放され、ダルマカーヤの連続体である。
 思考の自己解放の中で、六音節のマントラを唱えよ。





コメント

バクティヨーガの歌 【改訂版】

2019-09-25 09:08:05 | 松川先生のお話
バクティヨーガの歌 【改訂版】
コメント

SitaRam -RamaNavami2017 -

2019-09-25 08:59:44 | 松川先生のお話
SitaRam -RamaNavami2017 -
コメント

Maitri

2019-09-19 07:20:29 | 松川先生のお話
Maitri
コメント

アヴァターラ

2019-09-17 20:15:42 | 松川先生のお話
アヴァターラ
コメント