ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

「五つの障害と、五つの優れた法則」

2019-11-30 08:31:19 | 解説・スフリッレーカ



◎五つの障害と、五つの優れた法則

【本文】
 興奮と悔恨、悪意、無気力と惰眠、愛欲、疑念、これら五つの障害は、善の財を奪う盗賊であると知るべきです。

 信、精進、正念、サマーディ、智慧、これらは五つの優れた法則であって、そのために努力をすべきです。これらは最高の力といわれ、また最上のものでもあります。




 これは、最初に出てきたのは「五蓋」といわれていて、五つの障害といわれるものですね。われわれの修行や瞑想の障害となる五つのもの。
 後で出てきたのは「五根」または「五力」。五つの力といわれて、逆にわれわれの修行を進めるもの。
 これはよく対比されるんだね。この五蓋――五つの障害を捨てて、五つの力を得なきゃいけないと。




◎興奮

 まず五つの障害からいくと、「興奮と悔恨」。この話は前から何度も話しているので簡単にいきますが、興奮と悔恨っていうのは、まず興奮というのは未来に対する期待や恐怖だね。例えば瞑想しててね、「さあ、この瞑想が終わったらお茶でも飲みに行くかな」と。最初はちょっとしたそういう思いだったかもしれない。「ああ、お茶でも飲みに行くかな」と。「この間行ったあのお店はちょっとコーヒーがイマイチだったな。そういえばあの街にああいうのができたな」と。一応瞑想の課題はあるんだけど、瞑想やりながら、最初はポツポツとした雑念だったのがだんだんそっちに取り込まれていって、「この間行った店は本当にひどかった。次あの店はどうだろう。次もひどかったらちょっと引っ越さなきゃいけないな」とか、そこまでは考えないかもしれないけど(笑)、とにかくボワーッと盛り上がるわけです。盛り上がって、盛り上がって、「はい。瞑想時間終わりました……K君、今日はいい瞑想できましたか?」「いや、ほとんどコーヒーのこと考えてました」(笑)――これが興奮状態。
 これは一つの例だけど、もちろんいろんなパターンがあるよ。例えば悪いパターンもある。今のは執着だけど、逆に、「ああ、そういえば、昨日会社でこういう失敗してしまったな。この瞑想終わったら会社行かなきゃいけないけど、一体みんなどう言うかな。本当にもう怖いな」と。これは逆に恐怖のパターンだね。つまり今のこの瞬間の瞑想に集中しなきゃいけないのに、そうじゃなくて未来のいろんなことに対して心がざわつく。
 あるいは未来とは関係ない場合もある。未来とは関係ない場合っていうのは、情報を入れすぎたとき、あるいは心が整理されていないときに起こる。例えば、別にこれから起きることじゃないんだけど、いきなり――これはわたしも前よくあったけども――最近観たテレビとか、漫画とか、インターネットとかの情報。あるいは昔観たものかもしれないけど、そういうものがバーッと出てくる、瞑想してると。ここでいう興奮というのはいわゆる興奮じゃなくて、バーッてざわつくってことだね。心の中でいろんなものがあって瞑想に集中できない。これも興奮といいます。
 それが形があるときと形がないときがある。形あるときっていうのは、もうまさにそれが出てくる。例えば漫画見すぎてドラゴンボールがバーッて出てきたりとか、あるいはテレビ見すぎてそのキャスターの顔が出てきたりとか、あるいはいろんな執着が多すぎてその執着のイメージがいっぱい出てきたりとか、こういう場合。
 それからそういうのが無い場合がある。それはつまり、何か落ち着かないと。何かイライラすると。だからといって何かイメージが出るわけじゃないんだけど、心が整理されてないがゆえにそういう心がざわついた状態になる。これは駄目だということですね。


◎悔恨

 はい、次に「悔恨」ね。悔恨とありますが、これは過去に対していろいろぐじぐじと考え続ける。「ああ、あれは本当に駄目だったな。失敗したな」と。あるいは「あれは本当に苦しかった」とか、あるいは「あの人にあんなふうに言われて本当に嫌だった」とか。もちろんそれがどんどん進むと、恨みになったりとかあるいは自己否定になったりとかいろいろ進んでいくわけだけど、その過去に対する無駄な心のとらわれね。
 もちろん懺悔は必要だよ。懺悔は必要だけど、懺悔っていうのは悔恨とか後悔とは違うんだね。懺悔っていうのは冷静な自己反省なんだね。冷静に過去を振り返って、「本当にこれは悪かった」と。「よって仏陀や神に懺悔いたします」と。そこで告白をして、後はもう心はスッキリしてるはずなんです。そうじゃなくていつまでもグダグダととらわれる。これは駄目だと。
 この二つね。つまり未来に対する興奮。それから過去に対する悔恨ね。これが一つ目の障害。


◎悪意、無気力、惰眠、愛欲

 次に「悪意」。悪意っていうのは、怒りとか憎しみとかあるいは嫌悪とか全部ひっくるめてのことだね。もちろんこういう気持ちが心の中にあると瞑想できませんよと。修行できませんよと。
 三番目、「無気力と惰眠」。これはそのままですね。無気力になってしまう。惰眠を貪る状態。これは修行進みませんよと。
 そして「愛欲」。愛欲っていうのは性欲だけじゃなくて食欲とかいろんなのも含めた欲望ですね。これに心が覆われてると修行進みませんよと。


◎疑念

 で、「疑念」。疑念というのは真理とか修行とかに対する疑念。あるいは別パターンとしては、「自分がこの修行やっても意味があるんだろうか」とか、「この修行は素晴らしいけど、自分は素質がないから自分は達成できるんだろうか? できないんじゃないか?」とかこういう疑念ね。だからもうやるからには徹底的に信じなきゃいけない。でもそこで疑念がわくと。
 いつも言うけど、例えばやらないんだったらいいんだよ。例えば修行合宿に来ましたと。修行合宿で三時間瞑想ですと。どうせ三時間やるんだったら徹底的に信じた方がいい。「この教えは素晴らしいし、この瞑想も素晴らしい」と。「そしてわたしも絶対これを達成できるんだ!」って思って三時間やらないともったいない。じゃなくて、三時間座ってるのに、「こんなの意味あるの? 何でこんなことやんなきゃいけないんだろう?」あるいは、「みんなはいいかもしれないけど、わたしは素質がないから絶対駄目だよ」と。これで三時間やってたらもったいない、非常に。だからやると決めたんだったら徹底的に信じる。信じて一切疑いを入れないということですね。
 で、この五つがわれわれの修行や瞑想を邪魔する五つの障害だといわれています。だからこの五つを取り除いていかなきゃいけない。


◎五つの機根と力

 で、逆にわれわれの修行を進める五つ。これが「信、精進、正念、サマーディ、智慧」――これもいつも言っていますね。『ヨーガ・スートラ』でもこの教えが出てくるけど、つまりしっかりと修行やあるいは仏陀や師匠や、あるいは自分がその道を歩んでいけるんだっていうことに対して信を持つ。
 そして実際に精進する。
 そして正念――常に正しい思い、正しい心の働きを失わないようにする。
 そしてしっかりと正しいサマーディに入って、実際に高い智慧を得ると。
 これが五根五力。五つの機根と力といといわれているものですね。
 だから五つのこの障害を捨て、この五つの機根と力を得るように努力してくださいということですね。
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「悪業と善業」

2019-11-21 19:36:46 | 解説・スフリッレーカ



◎悪業と善業

【本文】
 たとえば少量の塩は水がわずかであるとき、その味を変えますが、ガンガーの流れの味を変えることはありません。悪業も、善根がわずかなときと広大なとき、それと同じであると知るべきです。



 これは分かると思うけども、例えば一つまみの塩をコップに入れたら、もともと普通の水の味だった水が当然しょっぱくなる。しかしガンガー――つまりガンジス川みたいなものすごい幅の広い大量の水が流れているところに一つまみの塩をちょんと入れたとしても、全く味は変わらない。もちろん物理的には入っているんだけど、でも味は変わらない。
 これと同じように――ここのたとえでいう一つまみの塩というのは悪業のことです。ある悪業があって、で、善業も少なかった場合。この場合その悪業っていうのはその人の心とかカルマのかなりの部分を当然覆うわけだね。でも過去に何か悪業を積んでいたとしても、その――つまり一つまみの塩とガンガーの水くらいの差の、つまり何万倍、何億倍の善業を積むならば、それはもう比較してものの数にも至らないと。悪業はあるんだよ。あるんだけど、全くその人の心とか人生に影響を与えないようになってしまうんだね。
 だから逆にいうと、あなたは過去にいろいろ悪業を積んできたかもしれないが、これから膨大な徳を積みなさいと。それであなたの積んだ悪業なんていうものは――もちろん将来にいろいろ返ってきたり、若干の影響はあるんだけども、「え? 何か今あったの?」くらいの感じの割合になるんですよ、というところだね、ここはね。
 『スフリッレーカ』っていうのは読んでいて分かると思うけど、コロコロ話が変わって、一行一行に非常に真理が凝縮されているので、なかなか進まない話なんだけど(笑)。ただこういうふうに内容を分かって読むとすごくいい経典ですね。ポンポンポンポンとこういろんな話が出てくる。

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「四無量心」

2019-11-07 08:34:11 | 解説・スフリッレーカ




◎四無量心

【本文】
 慈愛、哀れみ、喜び、平静な心を、常によく修めるべきです。たとえ高い境地に至らなくとも、梵天の世界の幸せを得るでしょう。
 欲望、思案、喜、楽と苦を断つ四つの瞑想によって、梵天、浄光天、広善天、広果天の神々と同じ幸せを得るでしょう。



 はい。この「慈愛、哀れみ、喜び、平静な心」――これは、Cさん、何ですか?

(C)四無量心。

 そうだね。四無量心ですね。慈、悲、喜、捨といわれていますが、つまり「慈愛」というのは衆生の幸福を願うこと。「哀れみ」――これは衆生の苦しんでるさまを、「ああ、哀れだ」と思って救いたいと思うことね。この二つを慈悲といいます。
 そして「喜び」――これは自分や他の衆生が修行を進めたとか幸福になったとか、それを喜ぶことですね。
 最後の「平静な心」というのは、自分自身に関してどんな苦しみがあっても、どんな喜びがあっても一切とらわれずに平静でいるということですね。
 この四つをしっかりと修めてくださいと。
 「たとえ高い境地に至らなくとも」というのは、つまり完全な解脱を果たさなかったとしても、この四無量心がしっかり身につくと、梵天の世界以上に行けるといわれています。梵天というのは六道輪廻を超えた、色界だね。色界といわれる、われわれのこの六道輪廻は超えてるんだけど、まだ完全な解脱ではない神の世界があります。それがこの四無量心と関係しています。よって、完全な解脱を得なかったとしてもこの四無量心をしっかり身につければ、梵天の幸せを得ますよっていうことですね。



◎色界の四つの瞑想

 そしてその次の、「欲望、思案、喜、楽と苦を断つ四つの瞑想によって」云々っていうのは、これもここでよく説明している色界の四つの瞑想ですね。
 つまりまず第一段階は欲望を断つ瞑想。欲望を断って――これは非常に簡単にしか説明していないので、もうちょっとだけ言うと、第一の瞑想はまず欲望を断ち切る。どうやって欲望を断ち切るのかというと、これが思案なんですね。ここでは思案とありますが、つまり思索によって欲望を断ち切るんです。つまりさっき言った教学をしっかりして、教学をもとに分析をする。さっきのパチンコ屋の分析とかもそうだけども、いろんな形で、自分の中に眠っているいろんな煩悩・欲望を分析して断ち切って、心が平静になった状態。これが第一の瞑想。
 第二の瞑想は、次は思案を捨てるわけです。思案を捨てるっていうのは、分析もやめてしまう。分析じゃなくて、完全なる心の中心への精神集中によって素晴らしい状態を得る。これが第二の瞑想。もちろんこの第二の瞑想は、第一の瞑想がある程度なされてないと駄目です。つまり思索によって心がある程度整理されていないと、集中によって安楽を得るっていうことは無理なんです。だから現代のいろんな瞑想を教える人がやるように、ただ座って「はい。じゃあ、心を静めて……」――これは駄目なんです。最初は徹底的に教えを学んで、教えによって自分の心のいろんな悪い部分を分析して落としていかないと――つまり心の中にいろんな悪いものがあって、整理されていない状態で座ったって悪いものしか出てこない。あるいはもっと浅い場合は悪いものにも到達しない。到達しない浅い瞑想で、「ああ、わたしは安らいでる」って言ってるだけなんだけど、全く意味がない。だからもっともっと深いところに入って、で、深いところに入るといろいろ出てきます。いろいろ出てきたものを教学と分析によってスパスパと断ち切っていく。で、断ち切ったところで、非常に静かな境地が出てきます。で、その境地に対して集中するんです。これが第二の瞑想。
 第三の瞑想は、今度は「喜」ってありますね。喜を捨てる。つまり第一の瞑想と第二の瞑想を達成すると、喜と楽というのが出てきます。これは言葉の表現なので具体的に言うと、精神的な――わたしの経験で言うとね――ウキウキするというか、ちょっと興奮にも似た喜びの感覚。それからそれとはまた別の、体中を満たす至福感。この二つが生じます。で、このうちこの精神的な興奮みたいなものの方がちょと雑なんだね。第三段階の瞑想ではこの雑な喜びみたいなものが消えるんです。ただ至福だけになるんです。これが第三の瞑想。
 第四の瞑想において楽と苦――つまり第三の瞑想で感じた至福も含めて、そういった喜びとか苦しみとか、あるいはいい状態とか悪い状態とか、そういった二元性の世界を完全に超えてしまう。一元の世界に入ってしまうのが、最後の第四の瞑想ですね。
 これが非常に簡単に、「欲望、思案、喜、楽と苦を断つ四つの瞑想」とあるけども、仏教でいう有名な色界の四つの瞑想ね。
 もう一回言いますよ。まず第一段階、教学と分析によって自分の欲望を断ち、非常に静かな心を得ますと。
 第二段階では、その静かな心の状態に精神集中をして全く心が止まった状態。そしてその中で強い喜びと至福感を得る状態ね。
 第三段階では、その粗雑な喜びが消えて純粋な至福感だけになる状態。
 第四段階では、その至福も超えて二元性を超えた世界。楽と苦を超えた世界に入りますよと。
 そしてこの四つの瞑想が色界の――ここでは「梵天、浄光天、広善天、広果天」と書いてありますが、これはいろんな分け方があるんですが、色界というのは色界全体が大きく四つに分けられるんだね。これが今言った四つの瞑想に対応してるといわれています。だから例えば第一段階の瞑想に自在に入れるようになった人が死んだら、梵天に生まれ変わりますと。で、生きているうちも、第一段階の瞑想に入れるようになった人は、この世界にいても梵天と同じ喜びを味わえますよというところですね、ここは。
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「一日中、教えを学ぶ」

2019-02-15 22:22:20 | 解説・スフリッレーカ



◎一日中、教えを学ぶ

【本文】
 知識の要を終日に渡って、さらに夜の初めから深夜にわたって暗誦し、眠りのときも無駄にしないように、その間に記憶するように眠るべきです。



 これは教学ですね。つまり日々しっかりと教えを学び――ここは非常に厳しいことをいっていて、「終日に渡って」――つまり一日中しっかりと教えを学びなさいと。で、「夜の初めから深夜にわたって」――つまりこれは完全に一日中ですね。昼間も夜もずっと教えをしっかり暗誦しなさいと。で、「眠りのときも無駄にしないように、その間に記憶するように眠るべきです」――つまり寝る前に暗誦して、記憶しようとしながら眠りなさいと。
 もともとお釈迦様の時代というのは、教えの学び方はすべて暗誦だったんだね。つまり本やノートは使わずに、自分の師匠やあるいは先輩が口で教えてくれたことを聞き逃さないようにして、それを頭の中で繰り返して暗記すると。
 チベット仏教でも入門したりすると、一番最初に基礎的な――基礎的なっていっても膨大にあるわけだけど――膨大なその経典を暗記させられるんです。もう丸暗記です。自分なりに解釈してとかじゃなくて、完全に丸暗記させるんだね。そういう伝統がある。つまり暗記イコール悟りではもちろん全くないんだが、少なくとも基礎になるんだね。つまり教えが入っていないと、教えではない昔から培ってきた悪い考えがいっぱい入っているから、それによって物事を考えるようになってしまうから間違える。ではなくて、徹底的に教えを入れてくださいと。
 ただここでいう暗記というのは、これはわたしの経験も含めていうと、テクニック的な――つまり受験勉強的な暗記じゃ駄目なんです。つまり試験が終わると忘れちゃうような暗記じゃ駄目なんです。ちょっとストレートにいうと、頭で覚えるんじゃなくて、心で覚えるような暗記なんです。マントラとかもそうでしょ。マントラをあまりに多く唱えると、もう心の中でそれがずーっと流れるようになる。例えば「オーム・マニ・パドメー・フーム……オーム・マニ・パドメー・フーム……」って別に集中しないでもそれが流れてくる。あと歌とかもそうだね。例えば好きなアーティストの歌を繰り返し繰り返し聴いていると、「あれ? あの歌詞何だっけ?」とか考えなくても、もう自然に流れてくる。バーッと。忘れるわけがない。――こういう暗記がいいんです。
 具体的にいうと、例えばこの経典を暗記しようとした場合ね、「ムニは、浄信、戒、教学、布施、慙、愧、智慧が……えーっと浄心が一番目だったな」とかね、あるいは自分なりに暗記の仕方ってあるよね。「浄信、戒、教学、布施、慙、愧、智慧……ちょっとなんか覚えにくいな……じょう、か、きょう、ふ、ざ、き、ちだ! じょう、か、きょう、ふ、ざ、き、ち……んー……」――こういうやり方は駄目なんです(笑)。これはテスト的な暗記の方法で、こんなことをやってもしょうがない。
 そうじゃなくて、テクニックを一切使わずにただ読むんです。ただひたすら読むんです。これをやってると、すっぽりと教えが入ってくる。それがスラーッて心の中を流れる。
 で、何度も言うけど、これは悟りではないよ。悟りではないけども、物事を思索したり分析するときの基礎になるんです。これは瞑想するとよく分かるんです。わたし、こういう経典をひたすら読んでたことがあって、あるときそういうのは忘れて、ある非常に深い瞑想に入った。深い瞑想に入ると、深く入れば入るほど、慣れてないと心って結構コントロール不能になるんだね。コントロール不能になるから、例えば浅いときにはいろいろ考えられてたことが、深くなればなるほど考えられなくなるんです、いろんなことが。考えられなくなるんだけど、ひたすら読んでいたフレーズは出てくるんです。「お釈迦様はこう言いました」とか、「この世は苦である」とか。もうフレーズがパンパンパンパンッて出てくるから、それをもとに考えられるんです。だからそれイコール悟りではないんだが、われわれが深い意識に入っていろんなことを悟るための土台にはなるんだね。
 だから徹底的に教えを学ぶ。それは受験勉強的な暗記ではなくて、心にもう完全に入ってしまうような学び方だね。だからここに書いてあることっていうのはすごく一見厳しいわけだけど、実際にね、日中ずーっと教学し、それから夜も教学し、夢の中でもそれを忘れないようにすると。それくらいに学びなさいということだね。
 ただ実際は修行ってやることがいろいろあるから、そればっかりやってても駄目なわけだけど、まあこういうやり方があってもいいかもしれない。つまり、「わたしはちょっと今月は教学に力を注ごう」といって、ひたすら教学すると。それはそれでいいかもしれない。ただわれわれはそれプラス武器としてヨーガという武器があるので――ヨーガとか呼吸法とかやりながら教学をやった方が効率はいいけどね。全然集中力が違うし。この間もちょっと言ったけど、集中力があるかないかとか、あるいは心がそれを求めているか求めていないかで、また教学の入り方も違ってくる。同じ時間やったとしてもね。
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「食事について」

2019-02-15 22:20:28 | 解説・スフリッレーカ


◎食事について

【本文】
 食事は薬のようであると知って、むさぼることなく、また怒ることなく食をとるべきです。食事は強壮のためでも、誇りのためでも、太るためのものでもなく、ただ身体を保つためだけのものです。



 今度はいきなり食事の話ですね。
 「食事は薬のようである」――よく医食同源というけども、「むさぼることなく、また怒ることなく食をとるべきです」と。つまり最後にあるように、食事というのはただ身体を保つためだけのものだと。食事を取らなかったら死んでしまう。最近食事をとらないっていう人がいるみたいだけど、それはそれで生きていけるんだったら別にいいんだけども、普通は食事をとらないと死んでしまう。だから生命を保つためにだけ食事はあるんだよと。
 「むさぼることなく」というのは、生命を保てるだけとれればいいわけだから、「まだ足りない。もっと食いたい」とか「あれも食いたい。これも食いたい」――これは駄目だと。
 お釈迦様の時代というのは托鉢修行だったんだね。托鉢修行というのは、托鉢を持って――現代でもタイとか托鉢やってるところはあるけど――まあ、K君もインドで托鉢やったみたいだけど(笑)。K君はインドの上座部仏教で一時出家して、そこではまず朝食を食べて、その後に托鉢行ったんだよね?

(K)そうです(笑)。

 だから今は一つの儀式として残ってるんだろうけど、じゃなくて昔は托鉢だけが食事だったんです。しかも午前中だけって限定されていた。午前中托鉢を持ってうろうろして、もし誰もくれなかったら終わりなんです。つまりその日は食事抜きと。それからもらった場合は自分の嫌いな物であろうと、好きな物であろうと、何であろうと選り好みせずに食べなければいけない。
 だから托鉢に行ったら、「お! 今日は大好きなチキンカレーが入ってた」と。「やったー!」そして次の日に托鉢に行ったら、「お! 今日はおれの嫌いなフィッシュカレーだ」と。「これはちょっとやめとこうか」って言って捨てるとかね(笑)、これは駄目だってことだね。つまりうまいから食べるとか、おなか空いてるから食べるではなくて、ただ日々体を保つためだけの理由で食べてるんだと。
 もちろんこれをどこまで追求するかは別です。これを極限に追求した人は、ラーマクリシュナの弟子のナーグ・マハーシャヤっていう人。あの人は味覚のとらわれを徹底的になくすために、全く味付けをしない。塩も使わなかったっていうんだね。塩も使わないで、一番ひどいときは米ぬかだけで生きていた(笑)。友人たちがね、それはあまりにもひどいって思って、米ぬかを隠したんだね。それで仕方なく、一切味付けしないご飯だけを食べていたと。K君はおからだけで生きてことあったよね(笑)? それはいいことだね。
 シヴァーナンダっていう人がいて、このシヴァーナンダって人も――この人は有名な多くの弟子を持つ聖者だったんだけど、最近まで生きていた人だけど――この人も食事は乾いたチャパティだけだった。この人はとても慈愛に満ちた人で、リシケシに住んでいたんだけど、リシケシっていわゆる修行者がいっぱいいて、一日一回修行者向けの配給があるんだね。修行者向けの配給で、チャパティとかヨーグルトとかビスケットとかいろいろ修行者に配られるんです。で、このシヴァーナンダっていう人は毎日その配給に行くと、他の人よりもたくさんの入れ物を持っていっぱい入れて行くんだって。で、それをよく事情を知らない人は、「あの人は本当に貪りが強い、なんてひどい人なんだ」って思うんだけど、実はそのもらったものは、リシケシの中で体が不自由な修行者とか、目が見えないとか、足が歩けないとかで、その配給に行けない修行者がいっぱいいるんだね。その人たちのところを回ってそういうものを渡していたんだね。自分のためには何をとっていたかっていうと、チャパティだけ。しかもチャパティを何日間も放っておいてるから、もうガビガビに固まってる。で、それを毎日ガンジス川に行ってガンジス川につけてふやかして食べていた(笑)。食事はそれだけだったと。
 だからこういう徹底的な味覚からの出離というか、それができるようになったらとても素晴らしいことだね。ただあまりそこに集中する必要もない。それをやることは素晴らしいけども、やってないからって別に人を非難してはいけない。それはそれぞれの道がある。



◎ものを蓄えることについて

(K)先生、質問いいですか? 前、先生のエッセイで、女の聖者の人の話の中で、食べ物を蓄えることが駄目だっていう話があって、『起源経』等でも昔は蓄えちゃ駄目だよっていう教えがあったっていう話がありましたよね? それはどうして駄目なんですか? 身体を保つために明日のご飯とかを持っておくとか、そういうことを現代的に考えると、普通のことじゃないかっていうふうに思いますよね?

 それはだから、貪りなんだね。現代的に考えると普通なんだけど、つまり現代の常識的考え方が、相当真理と外れているんだね。でもそこまでいってしまうとこれも厳しいから、別に絶対に何も蓄えるなっていうんじゃないんだけど。
 もともとの考えは、さっき言った托鉢の考えと同じで、すべてはカルマなんだと。もし明日食べ物を得られなかったら、それは自分のカルマだと。明後日も得られなかったら、それもカルマだと。で、それがしばらく続いて死んでしまったら、それはカルマだと。で、それはそうなるかもしれないし、そうならないかもしれない。明日得られるかもしれない、得られないかもしれない。それを今から心配して、「得られるかな? 得られないかな? 得られないかもしれないから今から蓄えておこう」――これが貪りだっていっているんだね。
 でもこれは何度も言うけど、現代で何も蓄えるなっていうわけじゃないよ。そうじゃないけども、この考えはベースにおいておいたらいいね。
 わたしは食物を蓄えるときと、蓄えないときがあります。普通は蓄えない。わたしね、ものすごくよくいえば、過去世の修行者だったときのカルマかもしれないけど、まあ悪くいえば貪りが強いのかもしれないけど、例えばたまに自炊をすると。一人だと、何か作り過ぎちゃうんだよね。作りすぎちゃうんだけど、全部食べるんです。何かお腹いっぱいなんだけど残したくなくて――普通なら合理的に、「これで何日間かもつな」ってなると思うけど、全部食べてしまう。そういう性質がちょっとあるんだけど。だから基本的にあまりいろんなものが残らない。でもたまに、ずーっと冷蔵庫の中に入れっぱなしとか、そういうこともあるね(笑)。だから計画的に何か残してるっていうんじゃないんだけど、忘れてるとか、面倒くさくなって残っちゃう場合っていうのはたまにあるけど。
 そうじゃなくて現代的に合理性を考えてとか――例えば、今そんなに欲しくないんだけど、明日あれが欲しくなるかもしれないからちょっと置いておこうかとか、それは貪りだっていうんだね。そうじゃなくて、常にその瞬間瞬間のカルマで生きなきゃいけない。
 ただこれは何度も言うけども、最高の修行者の理想を言っているので、現代人にそれを全部やれとは言わない。ただ頭の中の片隅に置いておいて、それをやりたい人はそうすればいいし、あるいは自分はちょっとそういう意味であまりに貪りが強すぎたかなって思った人は、ちょっとそれを抑えたらいい。



◎ただ身体を保つだけのために

 そして、「怒ることなく食をとるべきです」――怒ることなくっていうのは、「お母さん! 僕シイタケ嫌いだって言ったでしょ! 何で入ってんの?」とか(笑)、あるいは、「え? 今日もカレー? ○○君の家は昨日ステーキだったよ。何で今日もうちはカレーなの?」――これは駄目だってことだね(笑)。つまりこれは貪りの裏側にあるわけだけど、食物への執着が強すぎるために、食事に関して怒りが出ると。あるいは「遅い!」とかね。特に王様というのはそれがあったんでしょう。王様というのは召使がなんでもいうことを聞いてくれるから、「まだ食事は来ないのか」とか、「何だこの食事は!」とか、貪りによって怒りが出る。これはもちろん駄目だっていうことだね。これは王様じゃなくてもわれわれにとってもそうだね。考えなきゃいけないところですね。
 そして、「食事は強壮のためでも」――つまり、体を強くするためにとるわけでもない。
 「誇りのため」っていうのはどういうことだと思いますか?――「おれはこんなにいいもの食ってるんだ」っていうことかもしれないね。よくステータスのためにいい所に行ったりするじゃないですか。「わたしはそんな庶民的な所には行けません」と。「わたしは銀座でしか食べないんです」とかね。そういうのはあるかもしれないね。
 そういった誇りのためでもなく、「太るため」――太るためっていうのは、現代人では太るために食べたいって人はあまりいないかもしれないけど、インドっていうのは太ってた方が健康だし、金持ちの印みたいなところがあったんだね。でもそのためでもないと。
 そうじゃなくて、ただ命を、体を保つために食事はあるんですよってことですね。
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解説・スフリッレーカ(27)「理想の女性」

2017-06-23 22:57:20 | 解説・スフリッレーカ


◎理想の女性

【本文】
 復讐の女神のように生まれつき恨みを抱く女、女主のように夫を軽蔑する女、盗人のようにわずかのものでも盗む女、このような三種の妻を避けてください。
 妹のようにおとなしく、友のように慈愛があり、母のように恵み深く、召使のように従順である女は、家の守り神のように尊敬されるべきです。



 これは在家の王様への手紙なので、こういう妻を選ぶときのアドバイスみたいのがあるわけですね。まあみんなの場合、別に結婚しないっていう人は全く関係ないよね、これはね。でももし「結婚したいな」って思ってる人は、これはしっかり学んだらいいね(笑)。
 ただこれは王様に言っているわけだけど、王様というのは自分の権力で好きな女性を連れてきて妻にできる。しかし時の歴史を見ると、やっぱりとんでもない女性を妻にしてしまったがために滅ぶとかね、そういうのはよくあるわけだね。それは一時的な愛欲によって――やっぱり愛欲とか性欲とか恋愛感情っていうのは、自分の目を曇らせるから。そういう物語ってたくさんあるよね。周りから見て、「王様。あの女だけはやめてください」と。「あれは国を滅ぼします」と。しかしもうはまってる人には分からない。その女性のずる賢さによって逆に王様が利用されて、ひどい目にあってしまうとか。
 だからここに書かれてるような、「生まれつき恨みを抱く女、女主のように夫を軽蔑する女、盗人のようにわずかのものでも盗む女」――ここでこういうのが出てくる背景というのは、実際は、仏教ってものすごくもともと男尊女卑なんです。仏教というよりインドが男尊女卑なんだね。これは仏典にもわざわざ女性の悪いところをいっぱい挙げたものがある。現代でそんなの出したら、「女性差別だ!」とかいって怒られるかもしれないけど、お釈迦様が言ってるんだからしょうがない。
 もちろん、はっきり言って、男性にももちろん男性特有の悪いところはいっぱいある。男性っていうのは一番に挙げられるのはやっぱりプライドだろうね。プライドが非常に強い。だから頑固さがあるし、純粋な信仰とか、純粋な愛とか、そういうのになかなか心を明け渡しづらい。もちろんそうでない人いっぱいいるけども、男性特有のものってそういうのがあるね。逆に女性というのは、愛情欲求が非常に強かったり、あるいはここに挙げられてるように恨みが強い。女性が恨みが強いっていうのは確かにあると思います。わたしもいろんな生徒さんを見てきた上での一つの経験でそう思うけども。もちろん全員がそうだっていうわけじゃないよ。だいたい大雑把にいうと、女性の方が恨みの心が強い。嫉妬心とか恨みとかね、ずーっと想ってる。男性の方がどっちかっていうとカラッとしてるが多いね。人によるけど、傾向としてね。
 それから、「女主のように夫を軽蔑する女、盗人のようにわずかのものでも盗む女」。――女主のように夫を軽蔑するっていうのは、女性の傲慢さ。盗人のようにわずかのものでも盗むっていうのは、女性の持つ貪りというか、執着心だね。貪りの心。
 だからこの部分の逆の読み方としては、女性がこれを読む場合、自分の中にもしかするとあるかもしれない、このような女性特有の恨みとか嫉妬心とか傲慢さとか貪りの心とか、こういうものを捨てるようにしなきゃいけないなっていうことだね。
 で、逆に「妹のようにおとなしく、友のように慈愛があり、母のように恵み深く、召使のように従順である女は、家の守り神のように尊敬されるべきです」。――つまりもし誰か女性を娶るならば、そのような女性を娶るべきであるし、逆に女性は自分の中のそういういい部分を育てるようにしなきゃいけないっていうことですね。
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「真の富者」

2016-07-03 19:30:13 | 解説・スフリッレーカ



◎真の富者

【本文】
 天人師は、満足があらゆる財のうちの最高である、と説いています。よってすべてに満足すべきです。満足があれば、たとえ富を持たずとも、真の富者といえます。
 高貴なる者よ、財が多いとそれだけ苦しみがあり、少欲の人はそうではありません。大竜には頭の数だけそれから生じる苦しみがあります。


 これもお釈迦様の教えのすごく知性的なところだけども、いったい満足とは何かと。満足っていうのはつまり心の問題だから、外的な要因で決められるものではないわけだね。つまりもともと欲望が少ない人がいたとしたら、少しの条件ですごく満足する。逆に欲望が多い人というのは、その同じ条件では全く満足しない。で、どんどんどんどん外的な条件を整えるわけだけど、人間の欲望ってきりがないから、その欲望が拡大傾向にある人っていうのは、何かを得るとまたもっと得たいと。何かを得るとまた、「いや、これでは満足できない」と。
 これは日本でもよくそういうのってあると思うんだよね。例えばちょっと昔は貧乏で慎ましく生活してた人が、ちょっと何か成功してお金を得ましたと。そうしたらもうそこから生活レベルを落とせなくなる。昔はちょっとした食料とかちょっとした友達との語らいとかで満足してたのに、「いや、もうこんな食べ物じゃ満足できません」と。あるいは「毎日こうやって遊ばないと満足できません」、あるいは「お金がこれくらいないとわたしは安心できません」と。こういうふうにどんどんどんどん満足の条件が広がっていくんだね。
 つまりこれは、前にも言ったけども、分数みたいなもので――つまり分母が欲求。分子が実際の物理的な条件だね。普通の人の発想というのはこの分子を増やそうとするんです。分母の方が大きいから、例えば分母が五で分子が一しかない。つまり「欲求が五くらいあるのに、わたしのまわりには一くらいしかないんですよ」と。「だからわたしは頑張ってこれを五にするんだ」と。「一、二、三、四、五……やった! 五になった! 満足だ!」ってなるかっていうと、こういう発想の人というのは、こうなると今度は欲求がパッて六になる(笑)。それで「今度は六だー!」っていって六、で、またパッと七になる。また「七だ!」――こうしてどんどんどんどん拡大していく。で、どうなっても満足しないと。
 例えばプロ野球の契約更新なんかを見ると、みんなよく知ってるか分かんないけど、プロ野球の選手が契約を更新するときに、更新するときの契約金を話し合うわけだけど、球団が「これくらいでどうですか?」って言ったのを、「いや、わたしはこんなに活躍したんだからもっと上げてくれ。これじゃ満足できない」とか言ってそれがよく話題になるわけだけど、その額ってさ、例えば八千万とか一億とかの世界なんだね。例えば「一億円でどうですか?」って言われて、「いや、わたしはこんなにいっぱいホームラン打ったんだから、一億五千万じゃなきゃ納得できない」と。でもわれわれから見たら、「一億でいいじゃん」と(笑)。わたしがもし一億もらったとしたら、もう多分――ここにいるみんなもそうだと思うけど――一生生きていけるよね(笑)。特にそれで何するわけでもないし(笑)。「いいじゃん」って思うんだけど、だんだん多くのお金をもらうようになって、生活も豊かになって、家も大きくなって、いろんな物を買うようになった人にとっては、それでも足りないと思ってしまう。
 だからこの分子を増やす発想っていうのは、本当の満足には至らない。そうじゃなくて、ちょっと方向性を変えてみましょうと。方向性を変えて分母を減らしてみましょうと。例えば分母が五で、分子が三しかありませんと。じゃあ、この三を増やすんじゃなくて、分母の方を減らしましょうと。四にして、三にして、「あ、満足だ」と。二、一までもっていったら、これは満足どころか、わたしが求めている三倍のものを得ているっていう世界になるんだね。みなさんは頭がいいから分かると思うけど、じゃあどっちが幸せかっていったら、心のしくみとしては、この物が少ないが欲求も少ない人の方が幸せなんです。
 人間って錯覚があるから、例えばお金があると幸せなような気持ちがしてくる。でもお金ってただの紙にすぎない。つまりお金を持って何かできますよっていう約束事をもらっているに過ぎないんだね。で、その概念によって人は喜んでる。だからすべては概念なんです。
 心の中に、「わたしはこれで全く満足ですよ」っていう非常に少ない欲求があったら、例えばものすごく客観的に貧しい家に生まれて、しかし非常に欲が少なく、人に対する慈悲が強く、そして日々あらゆることに満足して生きている人がいたとしたら、この人はある意味世界一の富をもっているというか、世界一の満足を得ている人ということになる。だからどういう状況に生まれようとも、あるいはどういう状況にあろうとも、その状況に満足する心――これを育てた者こそが、ここでいっている「最高の財を得たものである」ということになるわけですね。
 この辺はとても知性的な話であって、信じる信じないの話っていうよりは、知性的にわれわれが理解すべき話だね。



◎財がある苦しみ

 そして逆に「財が多いとそれだけ苦しみがあり」――これも分かるよね。つまり財産っていうのは、別にあってもなくてもいいんです。あってもなくてもいいということは、欲が少なければ財産がたくさんあったって別に構わないんです。しかし人間って馬鹿だから、財産がたくさんあると欲が出るんです。で、苦しみが増すんです。例えば前までは貧乏でお互い助け合って生きていて、とても心優しく生きていたと。しかしだんだんだんだん自分の所有が増えるにしたがって――例えば前までは日々自分が食べるので精一杯と。でもこういうときっていうのは逆に――まあ、人によるけども――人に優しくなる。何か困ってる人がいたら、「おれも今日ちょっとお金ないんだけど、でもこれ持っていきなよ」って感じで渡せていた。でもお金がどんどん貯まってくると、それを失いたくないっていう気持ちが強くなってくる。
 だからそうならないんならいいんだよ。そうならないんならいんだけど、えてしてなりがちなんだね。財産が増えることによって、それに対する執着が増してしまう。執着が増すことによって苦しむ。「これを失いたくない」と。
 例えば貧乏で何も失う物がない人っていうのはハッピーじゃないですか、ある意味(笑)。「おれは何も怖くないよ」と。逆に例えばいろんな物を持ってる人っていうのはいつもドキドキドキドキ、「ああ、これなくなったりしないかな。ああ、どうしよう。これどうしよう。強盗が来たらどうしよう」と。
 だからそういうのがない人なら全くいいんだよ。例えばもうたくさん財を得たと。しかしもし誰かがやって来て、「それ全部くれ」って言ったら、「ああ、いいですよ」ってあげられるような人がいたとしたら、それはまったく問題ない。財を持っていようが。ただ人間の心って弱いから、財があればそれだけそれを失いたくないとか、苦しみが出たり、執着が出たりするんだね。この辺は知性的に考えたらいいですね。
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「悪趣に落ち名声を損なう」

2015-06-25 05:50:22 | 解説・スフリッレーカ


◎悪趣に落ち名声を損なう

【本文】
 賭け事、見世物、怠惰、悪友に交わること、飲酒、夜行、これら悪趣に落ち名声を損なう六つのものをやめるべきです。



 これはまず賭け事をするなと。いわゆる五戒――盗み、殺生、嘘をつくこと、それから邪淫、そして酒を飲む――というのが仏教の一番大きな五戒ですが、それ以外のこと――例えば「賭け事」とかっていうのは一般的にはそんなに悪いといわれないわけだけど、ただ仏教においてお釈迦様は、賭け事を完全に禁止しているんだね。
 それから「見世物」というのも、つまりこれは現代的にいうと面白い芝居とかね、ショーとかそういうのを見に行くと。これも駄目だよと。現代的にいうと、それ以前にテレビがあるし、あるいはインターネットがあるね。昔はそんなものはなかったから。昔は例えば家にそんなものは何もない。娯楽といったらそういう芝居小屋とか、あるいは歌手が歌を歌う場所等があって、そこにわざわざ足を運んで見るっていう時代だったから。今はちょっと時代が違うので、だから現代的にいうとあまりそういう芝居にしろ、ショーにしろ、テレビにしろ、ラジオにしろ、インターネットにしろ、自分の心をかき乱すような、あるいは煩悩を強めるようなものは見るなっていうことですね。
 そして「怠惰」。
 そして「悪友に交わること」。
 そして「飲酒」ね。
 そして「夜行」っていうのは、これは意味もなく夜フラフラと歩き回ること。つまり夜の繁華街を歩き回ったり、あるいはこの頃も例えば風俗というか、女性を買って遊ぶとかいうのもあった。あるいはさっきの賭博とかもそうだね。夜になると、現代もそうだけども、昼間はばかられるようないろんなことが行なわれて、そこで夜遊んだりするわけだけど、そういった夜の街をフラフラと歩くとか、それも駄目だと。それは悪趣に落ち名声を損なうんだと。
 もちろんこれらのものは、例えば「殺生すると地獄に落ちる」とかと比べると、ストレートに地獄に落ちたりするものではない。例えば一回テレビ観たら地獄に落ちるのかっていったら、そういう問題ではない。あるいは賭け事一回したらどこか悪い世界に行っちゃうのかっていうものではないけども、これらはつまりそれを重ねることによって、どんどんどんどん自分の中のそういう悪い要素が増していくようなものだね。だから「一回、二回くらい、そんなものいいじゃないか」っていうかもしれないけど、例えばそれが日常化されてしまうと、われわれの中に悪いデータというか悪いカルマが増していきますよと。この辺は別に引っかかっていない人は何も考える必要ないけども、引っかかっている人、あるいはこういうものが好きな人はいろいろ分析したらいいね。



◎メリットとデメリットの分析

 例えば賭け事でいうと、私がヨーガ教室で教えてた人で今まで何人かすごく賭け事――賭け事ってパチンコとかだけどね。パチンコとか競馬とかにはまってる人がいてね。例えばパチンコを例にとると、パチンコのデメリット――こういうメリットとデメリットを考える瞑想ってあるんです。例えば何か自分が引っかかってることの――引っかかってるってことは、メリットがあるから引っかかってるわけでしょ? じゃあ、正確にメリットを挙げてみましょうと。逆にデメリットも挙げてみましょうと。こうやって自分が引っかかってることを論理的に「ああ、やっぱり意味ないな」ってやっていく瞑想があるんだね。あまりにも執着が強すぎてメリットが多く挙げられ過ぎたら駄目だけど(笑)、その辺は智慧を使ってやらなきゃいけない。
 例えばパチンコのメリットってなんだろうかと。まあ、パチンコっていうか、TさんとかSくんは昔パチスロにはまってたみたいだけど(笑)。わたしはパチスロってよく知らないのでパチンコでいくけども、パチンコのメリットは何だろうとか。まずメリットって、そうだなぁ……Tさん、何があるかな?

(T)たまに大きなお金が入る喜びがある。

 あ、そうだね。たまに大きなお金が入る喜びがある。

(T)時間がつぶせる。

 時間がつぶせると。
 あとそのゲーム感覚自体にはまるっていうのもあるかもしれないね。
 で、デメリットを挙げる場合、これはわたしの見方だけども、まず今のメリットを逆に言っていくとね、たまに大きなお金が入ると。でもこれ、TさんとかSくんはどうか分からないけど、わたしが今まではまってた人に聞くと、
「いやあ、今日はこんなに勝ちましたよ。先生、こんなに勝ちましたから半分お布施します」
とかいう人がいるわけだけど(笑)、
「それはいいけども、君がパチンコ始めてから、トータルで勝ってるの?」
っていうと、大体負けてるね(笑)。ビギナーズラックとかで――ああいうのって店が操作してるとかいう噂もあるけど、それは分からないけど――いきなりバーッて何万円とか出ちゃったと。「これはいい! 楽だ!」と思ってはまると。で、しばらく全く出ないときがあってどんどんマイナスになるから、そのマイナスを何とかもとに戻したいって思ってつぎ込むと、パッとたまにプラスになると。そしてまたマイナスになると。で、トータルでいうとマイナスになってる人の方が多いと思うんだよね。つまり物理的利益からいっても結局プラスにはなっていない。どうですか、この辺は? S君どうですか(笑)?

(S)そうですね。

 いつも夢を見てね、「おれは確かにこの間までマイナスが多かったが、最近結構当たってる」と。「このままいったらかなりのプラスになるんじゃないか」って夢を見て、またドーンッてマイナスになるとか(笑)。そういう部分があるね。
 それから、時間がつぶせるって言ったけど、それは確かにあまりやることのない人にとってはそうかもしれないけど、修行の道に足を踏み入れた者にとっては、逆に無駄な時間を過ごすってことになってしまう。それがちょっとマイナスだね。
 それから、やっぱり一番は賭け事って、少なくともそれをやってる間は、心はお金とか貪りに集中してるじゃないですか。例えばですよ、わたしも昔、少しパチンコはやったことがあるけど、あれやってる間って、例えばパーンッて入っていって、グルーッて回ったりしたりしだすじゃないですか。それで「来いっ!」と。「来い、来い、来い!」と。つまり別の言い方をすると、「金、金、金!」と(笑)。「金、金、金……あー、駄目だった」と。で、またグーッとやって「さあ、来い、来い、来い!」「金、金、金!」――ずーっと一日中これやってるわけじゃないですか(笑)。つまり一日中金のことに心が集中している。これはもう餓鬼行き決定みたいな感じだね(笑)。
 それから付け加えていうと、心の世界を徹底的に汚す音の洪水というか。ものすごい音がワーッって感じで鳴ってるでしょ。わたしよく歩いていてトイレを借りにパチンコ屋に入ると、「ウワーッ! こんな音でおかしくならないのかな?」「頭おかしくなるんじゃないかな?」っていうような音の中で一日いなきゃいけない。
 あとはタバコが嫌いな人には、タバコの煙もすごいかもしれない。
 あとは自分だけじゃなくてそこにいる全体が「金、金、金」って思ってるわけだから、餓鬼の空間になってるわけですよ。その餓鬼の空間に一日いなきゃいけないっていうその大いなるデメリットを考えたら、例えば時間がつぶせるとかね、たまに大当たりするとか、そんなものっていうのはあまりにも小さなメリットであって。そう考えると行く意味が全くなくなると。
 他の賭け事も同じだね。パチンコ屋っていうのは分かりやすいから今挙げたけども、ずっとそれやってる間は心がお金に集中するとか、あるいは例えば昔の賭博とかだったら、ずるをしてしまうとか、あるいは嘘を言うとか、いろんなそういうのも関わってくるよね。
 あるいは相手がいる賭け事の場合、相手に対して憎しみであるとか、嫉妬心であるとかもいろいろ湧いてくる。
 だから賭け事自体がどうだっていうよりは、賭け事をいろいろ積み重ねることによって、そういう自分の中の悪い要素がどんどん増大するというふうに考えたらいいね。賭け事自体のカルマは、単純にちょっと貪りとか無智が増すっていう程度だと思う。それを一回やるカルマはね。でもそこから付随するものは大きいということだね。


◎見世物ついて

 で、他のも同じ。見世物は前からよく言ってるけど、見世物自体っていうのは別に良くも悪くもないんだけど、その内容ね。例えばそれを観ることによって、自分の中の執着が増すとか怒りが増すとか。だいたいもちろん普通の見世物――テレビとかもそうだけど――というのは、真理を知らない、悟ってない人が作っているものだから、その内容は当然この世のものなわけです。つまり人間的なものだったり、あるいはもっとひどければ憎しみに満ちたものだったり。で、例えばですよ、純粋な子供として生まれて、「ああ、みんな大好きですよ。どんな人でもわたしは大好きなんだ」って子供がいたとしても、テレビとかで「わたしはこんなことやられて許せない。復讐する」とかいうテレビを観たりしたら、「ああ、こういうときは復讐するのか」と。「おれも復讐しよう」とか思ってしまうかもしれない。だからそういう悪影響があるんだね。だからPさんのところみたいに、赤ちゃんにテレビを観せないと。これはとても良いことだと思うね。
 善い見世物とかだったらいいんだね。ラーマクリシュナもよくクリシュナの物語とかああいう神の物語をやっている見世物を観に行ったっていわれている。で、観てる間にラーマクリシュナはサマーディに入ってしまうと(笑)。それは、観ることによって良い情報が入ってくれば全くかまわないわけだね。だからその辺の取捨選択ができるならいいけども、大体今のものというのは心をけがすものが多いだろうから、あまり観ない方がいいね。だからこの辺は、夜行とかもそうだけども、そういうものだと考えてください。
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「七つの宝」

2014-12-15 19:50:36 | 解説・スフリッレーカ



◎七つの宝

【本文】
 ムニは、浄信、戒、教学、布施、慙、愧、智慧が、七つの宝であると説いています。他のすべての財は無価値であると知ってください。



 まずムニというのはお釈迦様のことだね。お釈迦様は、
「浄信、戒、教学、布施、慙、愧、智慧が、七つの宝であると説いています」
と。
 浄信というのは清らかな信――つまり真理の教えとか仏陀とか菩薩とかに対して、清らかな信を持つこと。
 そして戒を守ること。
 そして教えを教学すること。
 そして布施をすること。
 慙と愧っていうのは、何か悪いことをしたり、あるいは心に悪い思いがわいたときに、それを自分自身と他人に対して恥じる思いですね。それを慙と愧といいます。
 で、智慧と。
 「この七つが宝である」と。「他のすべての財は無価値である」と。これは王様に対して言っているから、よりリアルな話になるわけですが、王様というのは多くの宝を持ち、多くの権力を持ち、多くのことを自由に操れる立場にあるわけだけども、そんなものは全く価値がないと。人間にとって価値があるのはこの七つなんだと。つまりこの七つを育てていって、この七つが――例えば信が非常に強まったとか、あるいは戒が非常に守れるようになったとか、あるいは教えをたくさん学んだとか、布施ができるとか、あるいは自己や他人に対して悪を恥じる気持ちがあるとか、あるいは智慧が非常に身についてきたとか――これこそが宝なんだっていう話だね。その他の物質的な宝とか、権力であるとか、そういったものは全く意味がないんだよっていう教えですね。
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解説・スフリッレーカ(23)「ナーガールジュナについて」

2013-02-25 18:48:15 | 解説・スフリッレーカ

20070901スフリッレーカ②




◎ナーガールジュナについて

 今日はスフリッレーカの2回目ですね。もう一度ナーガールジュナについて説明すると、ナーガールジュナというのは日本では龍樹といわれていますが、大乗仏教の開祖みたいな人ですね。ナーガルジュナの伝説っていろいろあるんですが、有名な物語としては、もともと友達と一緒にある師匠について魔術を習って、その魔術の力で自分の体を透明にする術を身につけて、それで王様のお城に忍び込んでいつも悪さをやっていた。悪さをやっていたんだけど、あるときついに見つかってしまって、友人二人は殺されるんだね。ナーガルジュナはうまく隠れて、でも危機一髪で、見つかるかもしれないっていう状況にあって、そこで隠れながら後悔してね、
「ああ、すべては無常である。私は大変まずいことをしてしまった」
と。
「もしここを生き延びて助かったら出家しよう」
というふうに決めたんだね。そうしたら助かってしまったので出家したと。
 で、その後修行を修めて――これはちょっと伝説的な話なんだけど――天界のナーガ――ナーガっていうのは龍とか蛇のことですが、これは龍神の世界ですね。このナーガの世界っていうのは、大乗の仏典がたくさんそこで守られてるといわれていて、そのナーガの世界にある大乗仏典を、誰か人間界の優れた修行者に取りに来させようということになって、そこで選ばれたのがこのナーガールジュナだと。だから多分そういう逸話があって、ナーガールジュナという名前になったと思うんですが。で、ナーガールジュナはそのナーガの世界に呼ばれて――ナーガの世界ってつまり日本風にいうと龍宮城です。龍宮城ってそこからきてるんだね。ナーガが住んでいるのは龍宮城といわれている。そこから『般若経』とかね――『般若経』っていうのはみんながよく知ってる『般若心経』も含めて、『般若経』っていわれる経典がいろいろあるんだね。その『般若経』を持ってきて、この人間界に大乗仏教をナーガールジュナが広めたという伝説があります。
 ナーガールジュナというのは名前の組み立てとしては、ナーガ・アルジュナなんだね。アルジュナっていうのは『バガヴァッド・ギーター』とかで出てくるアルジュナと同じで。インドはアルジュナとかクリシュナという名前をつける人がよくいるんだね。神聖な一番良い名前だから。多分ナーガールジュナもアルジュナっていう名前で、ナーガにまつわるそういう伝説からナーガ・アルジュナ――ナーガールジュナって呼ばれるようになったんでしょうね。
 で、『般若経』をナーガールジュナが持ってきたかどうかは別にして、『般若経』というのは大乗仏教の一番最初の元となるような経典で、「すべては空である」みたいなことを散々いろんな方面からいっている経典ですね。ただ『般若経』自体はちょっとよく分からない。『般若心経』等をみてもそうだけど、一般的には一体何を言いたいんだろうっていう感じの経典なんだけども、それに対してナーガールジュナが非常に論理的に「空とは何か」っていう解説をいろいろ加えてるわけですね。
 それだけではなくて、大乗仏教全体を、こういうものなんだよっていうのを非常に論理的にまとめて世に出していった。だからその後の大乗仏教はいろんな派に分かれたけども、ナーガールジュナの影響を全く受けてない者は誰もいないといわれているほど、大乗仏教の理論の元になった人だね。
 ナーガールジュナの著作には空――つまりすべては実体がないっていうことを非常に難しい言葉で論理的に説いているものが多いんだけど、そうじゃなくて、非常にやさしい言葉で大乗仏教の全体を説いているものもある。で、今回の『スフリッレーカ』はそういうものですね。
 これはもともとは友人でありかつナーガールジュナの信者であったある王様に対して、ナーガルジュナが個人的に書いた手紙なんですね。その内容が後に経典になったといわれています。前に勉強していた『ラトナーヴァリー』も同じなんだけども、『ラトナーヴァリー』との違いは、『ラトナーヴァリー』は章立てしてあってすごくまとめられているんですね。でもこの『スフリッレーカ』は、読んでいくと分かると思うけど、あまりまとまっていない。まとまっていなくて、ダダダーッてこう、いろんな仏教の重要なポイントがあまりまとまらずに連ねられてるっていう感じがあるね。だからあまりよく分からないでこれを読むとよく分からないけど、ある程度理解したうえで読むと、逆にいうと短い言葉でパッパッパッパッてまとめられているから、ちょっと読むだけでいろんなことを学べる経典ですね。
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◎悪友の意味

2009-04-09 07:27:49 | 解説・スフリッレーカ

◎悪友の意味

 はい、他に何かありますか? 

(C)先生、人はマンゴーのように、見かけによらず中身は分からないという教えがあるんですけども、あと人の欠点をみることによって自らの心がけがれるとかあるんですが、「菩薩の三十七の実践」の中に、「悪友から離れる」というのがあるんですけど、そのときに一応、この人は悪友だという判断をしなければいけない。そのときに、悪友だと判断するときに、自分は人の悪いところを見てしまったという、すごく嫌な感情になるんですけど、この二つの教えのバランスはどうやってとって行為をすればいいでしょうか?


 バランスは、今の例で言うと、ある人がいたとして、例えばその人と触れ合ってたら――その人が人の悪口をいっぱい言っていたりして、その人といると自分も悪口を言いそうになってしまうと。これは当然、シャットアウトすべきなんです。現実的にこの人といると悪口を言ってしまうから、それはできるだけ会わない方がいいな――なぜかというと、今わたしがその人において持っている情報というのはそれだけだから、それは離れるという判断が正しい。でも、それだけでその人の全てを理解したように思ってはいけない。それはわたしとの悪い縁があって、そのように一緒にいると悪口を言ってしまうというのがあるけども、実際はその人はわたしの知らないところで、素晴らしい徳の持ち主なのかもしれない。
 悪友というのは、絶対的な悪友じゃないんです。自分といるとそうなってしまうという意味で、悪友なんです。でもこの人の全体を否定してはいけないんです。
 これはね、称賛もそうなんです。その人の全体を称賛してはいけないんです。例えば、Mさんがすばらしい慈愛の心を持っているとするよ。それはその慈愛の心が素晴らしいんであって、Mさん全体が素晴らしいんじゃないんです。Mさんにもしかすると悪いところもあるかもしれない。
 つまりこれは恋愛と同じだね。恋愛というのは、何か一個見て、「あ……」ってぼーっと恋してしまうと、全体がいいように見えてしまう。じゃなくて、Mさんの今発した言葉は素晴らしい。今行なった行為は素晴らしい。しかしMさんの全体は判断しない。
 つまり人間っていうのは、今言った恋愛のように、ある一点によって全体を見てしまう。この人は悪人だと思ってしまうと、もう「オール悪人」になってしまう。だからわたしもよく例に出すように、何か凶悪事件を起こした犯人がいるとして、テレビとかではもう悪の塊のように、「死刑にすべきだ!」ってわーって言うけど、実は超いいやつなのかもしれないよ(笑)。本当はものすごいそのコメンテーターの何十倍もいいやつで、本当にカルマのちょっとしたずれによって、大悪業を犯しただけかもしれない。全く分からない。もちろん違うかもしれないよ。でもそういう柔軟な発想をベースとして持たなきゃいけない。
 だから悪友と接さないというのは、具体的な手段に過ぎなくて、そいつを憎めとか、そいつを心から非難しろと言っているわけじゃないんだね。ものすごく実際的な話なんです。実際的に――これは悪友だけじゃなくても、実際的に自分の修行が後退するようなところには近づくな、ということなんです。
 これはだから異性とかもそうだよね。お釈迦様も、自分が心を奪われ性欲が出るような異性がいるとしたら近づくなと。全然そんなのが出ない人には近づいてもいい(笑)。でも、そういうのが出ちゃう人がもしいるとしたら、お釈迦様は近寄るなと言ってる。「じゃあ、その女が悪いの?」っていうことになるでしょ。その女は悪魔なんですねと――いや、全然違う(笑)。その女は超いい人なのかもしれないけど、自分との関係において、自分がその人のところに行くと性欲が出てしまう。だからこれは自分にとってはその人は「悪友」なんです。でもその人自身は別に悪じゃない。そういう考え方だね。
 さっきCさんが言ったことっていうのは、とても重要なことで、自分がその人のことを「うわ! この人はこんなところが悪い!」と思えるっていうことは、自分の中にその悪があるからだというのは、ちゃんと認識しなきゃいけない。それが相手との悪い縁によって増大してしまうから、それは離れなきゃいけないというのはあるんだけども、でも自分がその人をそのように見てしまうとか、嫌な気持ちになってしまうのは、あくまでも自分の心のけがれなんだっていう気持ちも同時に持たなきゃいけないんだね。だから、ものすごく自分の心の浄化に励まなきゃいけない。
 逆にいうと、悪友がいなくなるようじゃなきゃ駄目なんです(笑)。誰と接しても悪いものが見えないし、誰と接しても煩悩が刺激されない。このような状態になって初めて、悪友がいなくなる。悪友がいなくなるというのは、悪友を全部排除するという意味じゃなくて、自分の中でそのような悪縁や反応する悪しき心がなくなった状態――これを作らなきゃいけない。よって、敵は常に自分の中の魔なんだね。だからそれが相手の中にいると勘違いしてしまうと、間違いに陥ってしまう。

 はい、今日はこの辺で終わりにしましょう。お疲れさまでした。

(一同)ありがとうございました。


コメント

◎布薩者

2009-04-08 09:27:05 | 解説・スフリッレーカ


◎布薩者

 他に何か質問はありますか?

(M)布薩者の意味がちょっと今ひとつ分からないんですけど・・・・・・

 布薩者というのは、これね、厳しい意味としては、さっき言った八つの戒ね、これを完璧に守る人。もう一つのやわらかい意味としては、月に何回かは守る人。
 これのことを布薩というんです。ウポーサタというんだけど。この八つの戒を守ることをウポーサタというんだね。これをやっている人を布薩者というんです。
 さっきのところ、布薩は大事なのでもう一回復習しようね。もう一回言いますよ。
 まず殺生をやめましょう。つまり蚊やゴキブリも殺してはいけません。
 次に盗みをするな。これは当たり前だね。
 で、性交を断ち、っていうのは、できれば一切の性的なことはやめてください。それが無理ならば、もちろん浮気とか不倫はやめてください。そして週に一回ぐらいは、一切そういうのから離れてください。
 次に嘘をつかないようにしましょう。
 で、酒をやめましょう。もし無理ならば、週に一回は絶対に飲まない日を作ってください。タバコも同じです。
 それから、できれば一日一食にしましょう。無理なら二食でもいいです。でも週に一回ぐらいは一食の日を作ったほうがいいね。もちろん全く食べないでもいいけども。
 はい、それから、できれば床とかに寝てください。無理ならば週に一回ぐらいは床に寝てください。あるいは、ふわふわの羽毛布団に寝てた人が、せんべい布団にするとかね(笑)。ちょっと布団のランクを落としてください(笑)。
 それから、歌や踊りを楽しんだり、きれいな装飾品で身を飾るのをやめてくださいと。どうしてもやめられない人は、週に一回はやめてください。例えば、週に一回っていうか、たとえばHさんとかそうかもしれないけど、たまに行くっていう人いるよね、もともと。月一回行っちゃうんですよと。それだったら三ヶ月に二回にするとか、月一回をね。若干ずつ減らしていく(笑)。
 わたしは前にあるテクニックをやってたんだけど、今でもやるときあるけど、たとえばどうしてもやめられないことってあるじゃないですか。それがやりたい欲求が心に生じたときに、誰かがいるときはじゃんけんでもいいんだけど、心の中であみだくじを作るんです。で、仏陀に聞くんです(笑)。ちょっとこれ超えられませんと。でも、欲望が起きるたびに百パーセントそれをやることだけはやめたいと思いますと。何回かに一回は我慢しますと。で、そのたびにあみだとかやるんだね。それで駄目になったら我慢すると(笑)。これはわたしがやったことだけど(笑)。それは五十パーセントかもしれない、あるいは三回に一回かもしれないけど、それだけでもやめるっていうやり方があるね。あるいはそうじゃなくて、決めて、今月は絶対にやめようとか。あるいは半年に一回はそういうのを絶対にやらない月を作るとか。例えば今月は絶対に宝塚に誘われても行かないとかね(笑)。



◎供養の修行

(H)先生、すっごく減りましたよ!

 別に攻めてるわけじゃないよ(笑)。例として出してるわけで(笑)。

(H)「供養するんだ」って。

 そうだね。それはいいことだと思うよ(笑)。供養っていうのが一番いいね。供養してやめるときに、これは心のテクニックなんだけど、ちょっとこういうことを言うと打算的に聞こえるかもしれないけども、仏陀と取引をするんです。
 ――これは、しなくてもいいよ。わたし個人のことでいうと、最近はしない、取引を。前はよくしてました。だから段階によってはしてもいいと思う。どういうことかっていうと、やめられないことがあるとするよ。
「ああ、宝塚に誘われた。超行きたい」
と。
「しかし、これを供養します」
と。
「その代わり、悟らせて下さい」
とお願いするんです。
 これはすごい効果があります。それをやめるっていう効果もあるし、それから得る修行の効果ってすごいです。
 でも最近わたしは、それさえもやめるようにした。
「供養します! でも別にその見返りは要りません」
と。
「好きなようにしてください」
と。こういうふうにしているけど、でも見返りをお願いするのも悪くはないです。それはテクニックとしてすごく使えます。
 つまり、最初のころはエゴがすごく嫌がるから、このエゴに対してなだめているんだね。「悟りっていう見返りがあるから我慢しろよ」と自分のエゴに言い聞かせるような感じなんだね。それで実際に効果があります。そういうやり方もある。
 今言ったのは、Hさんを例にしているだけであって、Hさんに言っているわけじゃないよ。みんなに対してアドヴァイスしてるんだけど。みんながどうしてもやめられないものとか、ちょっと乗り越えられない悪とか――まあ、悪までいかなくても、本当はやらない方がいいんだけどっていうやつね。これをそういうやり方で乗り越えることもできる。


◎無常だから変われる

 とにかくさっきから言っているように、ちょっとずつでもいいから乗り越えるべきだね。ほんのちょっとでもいいから、勝つんだね。これを繰り返していれば、最終的には絶対に勝ちます。どんなものにも勝てます。もう絶対乗り越えられないようなものでも勝ちます、絶対に。それにはちょっとずつの勝利が必要なんだね。ちょっとずつちょっとずつブレーキをかけていくんです。そうするといつの間にか終わっています。これが修行の一つのコツだね。
 だから常にそういう肯定的な意識を持たなきゃいけない。これは仏教でもよくいわれることで、自分は絶対に仏陀になれるという確信を持たなきゃいけないんだね。これはヨーガでもよくいうんだけど。過去において、多くの――お釈迦様なんていい例だけども、お釈迦様でさえも、ものすごい昔にはどうしようもないただの人間、あるいは地獄に堕ちていたこともあるんだと。しかしものすごい小さな努力から始めた積み重ねによって、仏陀になったんだと。だからわたしも同じなんだって考えるわけだね。今わたしはどうしようもない魂なんだが、今から瞬間瞬間の積み重ねによって、果ては仏陀にだってなれるんだと。
 つまりすべては無常だというのは、いつも言うけども、別に良くも悪くもないんです。無常だから喜びも消えます。無常だから、今素晴らしい人が堕落することもあります。しかし無常だから、今の悪い状態から仏陀にだってなれるんです。もちろん完成してしまえば無常を超えてしまうからね。だからこの無常っていう教えを、逆手にとった――無常だからわたしは変われるんだっていう肯定的発想ね。これを常に持つべきだね。
 やっぱり修行してない人とか、あと始めたばかりの人って、やっぱり否定的な言葉が多い。わたしもよく聞くけども、「先生、わたし駄目なんです。こうこうこうだから、ちょっとそれは乗り越えられません」と。あるいは、「いや、わたしはこんな状態だから、絶対にもう無理です」と。わたしがそういうときによく言うのは、
「君は予言者か」
と(笑)。
「何で分かるんだ」
と。
 瞬間瞬間努力もしようとしないで、何でできないと分かるんだと。その人は完全に現世からの修習によって、自分に完全にリミッターをかけちゃっているんだね。「わたしはこうだ!」ってなっちゃっている。だからそれをはずさなきゃいけない。わたしは今は駄目だけども、無常という一つの世界の仕組みがあって、しかもこの素晴らしい宝のような教えにめぐり合っていて、人間の自由な体も得ていると。これだけの要素がそろっているんだから、やる気さえあればどんなところまでも行けるんだと――このような確信が必要なんだね。これが修行の一つの原則です。
 これは何でもそうだよ。修行じゃなくても、何だってそうなんだね。何だって、自分が今できないことを将来には必ずできるようになる。このような確信があれば、どのような道だって成功する。修行においては特に、ぶっちゃけていえば、全ての魂にチャンスがある。チャンスがあるというよりも、全ての魂が最終的には仏陀にならなきゃいけない。だからそれを信じられるかどうかだね。
コメント

◎貪・瞋・邪見について

2009-04-07 05:35:31 | 解説・スフリッレーカ


◎貪・瞋・邪見について

 はい、今日はこの辺で終わって、最後にもし質問があったら聞いて終わりにしましょう。何か質問がある人いますか?

(K)ちょっと聞き逃したんですけど、すみませんが……。最初のページの、身体・言葉・心の、貪・瞋・痴、邪見という話があったんですけども、心のところだけ、教えてください。

 貪と瞋と邪見ね。貪は簡単にいうと、執着です。そうだね、さっきあまり深く言わなかったね、ここはね。
 あのね、若干深くいうと、執着にも段階があります。それはまず、最悪なのは貪り。貪りというのは、もう本当は必要もないのに、心が完全にとらわれてそれを集めるとか、人のものまで欲しがるとか、そういう状態だね。これが最悪の貪り。
 次、もうちょっとやわらかいのが執着。つまり、必要のないものまでも集める、というところまではいってないんだが、ある何かに完全に心がとらわれている状態。それなしには生きられないというかな。それがどうしても欲しい。そこに心が完全に縛られている状態。これが執着だね。
 で、もうちょっとやわらかく、一番ベースとなるのは、単純にいうと、「好き」っていう気持ちです。好きっていう気持ち――これはもちろん慈愛じゃないよ。慈愛というのは、「好き」じゃないんです。慈愛というのは、「幸福になって欲しい」なんです。すごく単純な言い方をするとね。「好き」っていうのはエゴなんです。「好き」っていうのは「嫌い」があるんです。「好き」と「嫌い」、この二元で物事を見る。「好きだ」――これは逆に言うと、「嫌いだ」がある。例えば、「この扇風機の風、いいねえ」。逆に言うと、扇風機がない状態が嫌なんです(笑)。これがスタートなんです。
 ここで、これを題材にするとね、「あ、扇風機、いいねえ。でも、別に風がなくても、まあそんなに嫌じゃない。まあ、来たら来たでいいな」と――これが好きの段階。
 で、次に、「ああ、風が来て欲しいな」と。「今、扇風機止まってるの? え? 扇風機止まってたらこの部屋駄目だよ。なんとかしてつけたい」――これは執着の段階。
 次に、完全に貪りになってしまうと、その涼しさに完全にとらわれてしまって、もうどのような状況であっても、そのガンガン冷やした状態を維持したいというか(笑)。そこまでいってしまう。
 今のは涼しさが一つの例だったけども、食べ物であったり、異性であったり、あるいはいろんな趣味であったりするわけだね。いろんなものに対して、その段階がある。そのすべての段階が駄目なわけだけど、もちろん自分のコントロールできるところから捨てていかなきゃいけない。
 まずは、貪るような気持ちを捨てなきゃいけない。その次の段階で、執着の心――それがなきゃいられないっていう気持ちを捨てなきゃいけない。最終的には、その好き嫌いの二元を超えなきゃいけない。
 で、次に瞋も同じだね。瞋は今言ったように、好きの逆なので、ベースに来るのは嫌悪です。嫌悪というのは、「嫌だ!」っていう気持ち。もうこれで駄目なんです。「暑いの嫌!」――これも駄目なんです。あるいは、何か言われて瞬間的に「ああ、嫌だ!」――これも駄目なんです。
 その次の段階で、憎しみというか、嫌悪感に変わります。「あいつ嫌いだ。あいつ苦手だ」と。「わたしは本当にこういう環境は苦手なんだ」と。
 それが最終的に、怨念というか(笑)、凝り固まった憎しみに変わる。ずーっともうその敵をなんとかしようと考えている。
 この嫌い――瞋の段階にも、この三段階があるね。三段階というか、細かく分ければもっと段階があるだろうけど。
 はい、そして最後が邪見――つまりよこしまな見解。見解というのは、細かいことというよりも、ベースとなるものの見方なんだね。世の中をどう見るかということです。あるいは、自分の人生をどう見るかということです。
 例えばベースとして、インド宗教には、ヨーガであれ仏教であれ、カルマの法則というのは歴然としてある。自分が何かをやったらそのまま返りますよと。自分が人を幸せにしたら、自分が幸せになりますよと。自分が人を不幸にしたら、自分が不幸になりますよと。この歴然とした因果の法則があると。これがベースなんだけども、例えば、「いや、そんな法則ないよ」と。「人生はいかに人を押しのけて、自分がのし上がって行くかなんだ!」とかね。
 あるいは、輪廻転生。例えばチベット仏教で、必ず初心者から上級者になっても絶対に忘れちゃいけない四つの教えというのがあるんだね。はい、ではMさん、四つの教えとは? 

(M)人間に生まれた稀有さ、輪廻の苦しみ、無常、それから……

 じゃあ、Cさん、もう一つは?

(C)カルマの法則。

 カルマの法則ね。はい、これが仏教のものすごく基本的なことなんだけど、もう一回これを整理して言うとね、カルマの法則がありますと。やったことが返ってきますよ、というカルマがありますよと。
 で、このカルマをもとにして、六つのいずれかの世界に生まれ変わりますよと。この輪廻の世界は全部苦しいですよと。
 それから、その中でも人間の世界に生まれて、しかも真理にめぐり合うということは、ものすごいチャンスですと。それはもう宝くじが当たったよりもすごい。もう地球上の全砂粒の中から、一個だけダイヤモンドの粒があって、それを宝探しゲームして当てたようなもんです(笑)。もうありえないぐらいの確率で、人間に生まれて真理にめぐり合いましたと。
 しかしすべては無常ですと。
 この四つの教えがある。これを全部理解したらどうなるかっていうと、修行せずにはいられなくなるんです(笑)。一瞬も休めなくなる。
 「おれはもう修行しなきゃいけない! 修行に全精力を傾けなきゃいけない!」ってなるんです。これが仏教の四つの基本なんだけど。
 じゃあ、邪見ってどういうことかというと、この四つを例にすると、全部逆のことということだね。
 つまり、まずカルマを信じない――「何かやったからって、返ってくるなんてあり得ないよ」と。「だからおれは好きなように生きるんだ」。
 輪廻を信じない――「死んだら終わりでしょ?」、「そんな六道とか輪廻とか、おとぎ話に過ぎない」と。
 それから、人間に生まれ変わって、いま教えを学んでいるんだけど、それがいかに貴重かっていうことを信じない――「え? たまたまここに来てるけど、そんなにこの教え貴重なの?」と。「おれは来世も天に行くからいいんだよ」と。
 もう一つは、無常を理解しない。無常なんていうのは、ちょっと考えれば分かることなんだけど、例えば――「わたしと旦那さんの愛は永遠なんです」と。「先生心配しないでください。わたしは来世も旦那さんと一緒に行きますから」「いや、わたしの心は絶対変わりません。彼の心も変わりませんから。仏教で無常って言ってるけど、分かってないですね、私たちの愛を」と(笑)。これは邪見(笑)。
 これが全部邪見なんだね。
 だからそうじゃなくて、今言ったような四つの教え。これをベースに世の中を見るんだね。あるいは四諦ね。すべては苦であると。苦というのはすべて、煩悩によって生じているんだと。だから煩悩を破壊しなきゃいけない。あるいは煩悩を乗り越えて智慧を得なきゃいけない。そのためには正しい生き方をしなきゃいけないんだと――これが四諦の教えだけども。こういったベースを基に、世の中や自分の人生を見なきゃいけない。でも今言ったように、それと逆の見方で世の中を見て生きること――これが最後の邪見だね。
 あらゆる悪業の中で最悪なのは、この邪見です。だって悪いカルマがあって、本当は正しく生きたいんだけど邪淫しちゃうとか、本当は正しく生きたいんだけど嘘をついちゃうとか――これはさっきも言ったように、改善の余地があるじゃないですか。自分は頑張りたいと思っている。でもできない。これはちょっとでも頑張っていれば、いつかは改善される。でももともと見方が間違っていたら、もう最悪なんだね。
 つまり、素晴らしい条件は得ているんだが、カルマはないと思っている。だから悪いことをやりまくる。これはどんどん落ちていくだけです。だからこの間違った見解、これは最悪のカルマだね。
 われわれは過去世においてこの邪見のカルマをいっぱい積んだかもしれません。多くの間違った考えを持ち、しかもそれを人々に説いてきたかもしれない。間違った教えで、人を惑わしてきたかもしれない。だから法施が必要なんです。
 われわれがする布施とかあるいは善業を積むというのは、われわれの過去の悪しきカルマを清算するためでもあるんだね。われわれは過去、多くの人を間違った道に導いてきた。それを清算するには多くの人を正しい道に導かなきゃいけないんです。同様に、われわれは多くの人に憎しみを発してきた。それを清算するためには、多くの人に真の慈愛を発さなきゃいけない。こうして自分のカルマを清算するんだね。
 だからわれわれもこの一番最悪の邪見に陥らないためには、過去においてわれわれは邪見のカルマがいっぱいあるだろうから、今生においてもそういう世界に陥ることを防ぐためには、まずベースとしてしっかり教えを学んで、自分が正しい見解を心の中にしっかり根付かせて、それを人にも説くと。説くというか、自分でもしそれを説けなければ、正しい本を読ませるでもいいけども。それが必要だね。


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◎世間の法を超える

2009-04-05 21:08:18 | 解説・スフリッレーカ

◎世間の法を超える

【本文】
 世界を知る王よ。世の中の八種の法、すなわち得ることと失うこと、苦しみと楽、名誉と不名誉、称賛と非難とに自己の心を向けず、それらに超然となるべきです。
 

 はい、この「世の中の八種の法」というのは、よく出てくる概念なので、覚えておいてください。
 ここをもっとわかりやすくいうとね、

①何かを得て喜ぶこと
②何かを失って悲しむこと
③苦しみを嫌がること
④楽を求めること
⑤名誉を喜ぶこと
⑥不名誉を嫌がること
⑦称賛を喜ぶこと
⑧非難を嫌がること

 この八つ。つまりこれは、わかると思うけど、項目としては四つのカテゴリーの、二つの面。それらに超然となりなさいと。
 もちろんこれは代表的な八つであって、実際はもっと無数にありますよね。つまりこの世俗におけるあらゆる成功と失敗、メリットとデメリット、これらに一切心を動かされるなということだね。
 それは難しいことではあるけれど、そういうことを考え、目標にするだけでもかなり変わって来ます。皆さんもぜひ今日から、この八つの法に心を奪われないように、心がけてみてください。それによってこの世俗の苦楽を超えた、真の安らぎに近づいていくでしょう。



◎罪を犯すべきではない

【本文】
 あなたはたとえブラーフマナ、修行僧、デーヴァ、守護者、親、妻、従者のためであっても、罪をなすべきではありません。地獄における報いに加わる者は誰一人としておりません。

 悪業を犯した者が誰も彼も、直ちに剣で切られるように切られるのではありませんが、死のときがくると、悪業の報いが現われます。


 はい、これも読んだとおりですね。
 たとえば情によって、好きな人のために罪を犯すっていうことが、現代の事件とかでもあると思いますが、一時的な、今生だけの関係に惑わされて、情によって誰かのために罪を犯してしまったとしても、その罪の報いを受けるのはあくまでも自分自身だということですね。
 そしてその報いは、もちろん刑罰を受けるとかで今生のうちに悪しき果報を経験することもあるかもしれないけど、仮に今生のうちに報いを受けなかったとしても、カルマの法則が存在する以上、必ずその報いは受けなければならない。そして死のときにそれを受けるというのは、つまり今生積んできた善と悪のカルマの結果によって、来世が決まってしまうということですね。
 これは基本的なカルマの法則ですね。カルマの果報は、自分自身だけが受ける。そしてその果報は、今生で現われなかったとしても、死のときにその生きてきたときのカルマによって来世が決定されるんだと。だから本当に慎重に、善をなし、悪をなさず、正しく生きなければならないということですね。これはもう基本の話ですね。

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◎二つの徳

2009-04-03 22:50:29 | 解説・スフリッレーカ

◎二つの徳

【本文】
 最高の真実を見るために、あらゆるものに対して正しく心を向ける努力をしてください。それと等しい徳の法は他には一つもありません。

 たとえ家柄、容色、知識を具えている人であっても、智慧と戒を欠いているならば、至福を受けることはありません。したがって、この二つの徳を具えるなら、たとえ他の徳がなくても、尊敬されます。


 ここはいわゆる、「智慧と行の二つの徳を積む」という話で、先ほど十力者の説明のところで出てきた「明行足」の話ともつながりますね。また相対的真理と絶対的真理という話にもつながってきます。
 戒を守ること。それはこの相対的な世界において、幸福になる道ですね。
 そして智慧というのは、その相対的な世界を超えた、絶対的真理を悟ることです。
 その二つの柱をしっかりと日々の自分の生きる目標にしなければいけない。
 つまり、まず日々しっかりと戒を守る。
 そして、ここでいう智慧というのはいわゆる空の教えにつながるものだけども、空の教え、あるいは縁起の法などをしっかりと日々教学して、それに基づいて思索し、瞑想し、そしてその思索し瞑想した内容を、自分の日々の生活にあてはめていくわけですね。つまり日々、戒律を守って、この相対的世界で正しく生きながら、同時にもう一つの目をもって、この眼に見える世界の裏側にある本質を観察するわけです。
 まあ実際はここでいう戒というのは、ヨーガ的にいうと、ヤマとニヤマ、つまり禁戒と歓戒を含んでいると思いますね。つまりいわゆる「これをやっちゃいけないよ」という意味での戒と、それからたとえば布施などの、「これをやりましょう」という積極的に徳を積む戒ですね。
 つまりまとめると、日々、厳格に戒を守り、布施などの功徳を積み、正しく教えを学び、そしてそれらと同時に、この世界の本質を常に観察する訓練をする。それがとても重要なことですね。
 これは、このどちらかが欠けると、修行は完成しません。
 しかしもしどちらかに偏るなら、前者に偏ったほうがいいです。つまりまだ空とか縁起とかよくわからないけど、とにかく戒を守り、徳を積もうと。もし偏るなら、そっちに偏ったほうが絶対いいです。まあ、偏るというか、第一の前提としてそれらをしっかりと修め、そしてあとはできる範囲で、空の智慧を深める努力をしていったらいいと思いますね。

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