ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

「ダルマターと、真実在の開示」③

2015-02-14 17:24:30 | 安らぎを見つけるための三部作・1「心」



☆法身・報身・変化身


 この領域から、衆生を訓練する師の世界に入っていくのです。

 ――法身の師、
 衆生を訓練する報身の師、
 そして衆生の世界における変化身としての師。

 それらの三つ形態の中で、衆生のために、師として行動するのです。



◎法身


 法身の師は、
 ヴァイローチャナ、アクショーブヤ、ラトナサンバヴァ、アミターバ、アモーガシッディなどの姿をとり、
 それぞれの如来の浄土に安住します。

 無限の寂静と怒りの姿で生起する中で
 それらの大小の印である燃え上がる放射線によって、
 そのような師は、衆生に適合する利他行のために、
 自然に行動するのです。


 それぞれの如来の姿は、五つの種類の純粋な智慧を持ちます。

 ①純粋な経験の連続体の中にとどまっている智慧

 ②鏡のようにすべてを映し出す智慧
 
 ③平等性を認識する智慧

 ④純粋に識別する智慧

 ⑤そして、すべてを達成する智慧です。

 それぞれの四人の侍者、そして彼ら自身は、
 すべてが平等の価値である領域なのです。



 「純粋な経験の連続体の中にとどまっている智慧」は、確実に不動です。
 それは、すべての表象の思考の主体・客体の枠組みによって生じた事柄を超えています。

 「鏡のような智慧」は、光輝、空、そして原初のようです。
 それは、他のすべての認識の形態の誕生の場です。

 「平等性を認識する智慧」は、その存在の中ですべてが平等である領域です。
 それは、輪廻と二つに分けられる存在ではなく、競う実体でもない、真のニルヴァーナの絶対的完全性です。

 「純粋に識別する智慧」は、その生き生きした明智によって、すべてのものを知っています。
 それは、ありのままな、そして相互に関係している物事を見ることです。

 「すべてを達成する智慧」は、最も素晴らしい魅力的な行動です。
 それは、想像することができるものすべてを達成するでしょう。



 それらから成る侍者は、十の霊的レベルがあります。

 メッセージは、光り輝く放射線で飽和したサマーディの経験です。

 それから、それらのレベルのそれぞれの無明を浄化された心が生まれ、
 嫉妬などの無明を放棄し、そして勝者は見られるのです。

 無明は、あなたが、それらの師の純粋さと対照的なあなた自身の固有の無明を発見したとき、取り除かれるでしょう。

 そしてあなたは、「あらゆるところが光り輝く」というステージに安住するでしょう。




 すべての衆生は、五つの如来の一族のどれか一つには属していますが、
 それはただ修行者を飲み込んでいる深い闇が取り除かれたときだけ、現われるのです。

 修行者の迷妄が取り除かれたとき、オグミンの領域である師ヴァイローチャナの領域があらわれ、
 そしてメッセージ、純粋な経験の連続体としての智慧は、明らかになるでしょう。

 同様に、嫌悪を取り除くことによってアクショブーヤの領域が現われ、

 傲慢を取り除くことによってラトナサンバヴァの領域が、

 愛著を取り除くことによってアミターバの領域が、

 そして嫉妬を取り除くことによってアモーガシッディの領域が現われます。




◎報身


 報身として師の領域では、
 師の側近をはじめとした様々な要素がありますが、
 それらすべてが報身というわけではありません。
 それらは変化身のレベルに属します。
 しかしこれらの変化身は、霊的に高度なレベルの衆生以外には認識できないので、
 それは「反化現の変化身」と呼ばれています。
  
 この領域は、美しい宮殿のようです。 
 十方に輝く光の放射線があり
 七つの宝石で造られ、
 蓮華の花から生まれた無数のブッダの御子(菩薩)がおり、
 望んだすべてものが雨のように降り、
 叡智のメッセージが響き渡り、
 そして、如意樹や如意珠の海によって装飾されています。
 それらは、半有形の寂静な姿の変化身です。

 同様に、ダーカとダーキニーの雲が生じる
 激怒の形の無限の曼荼羅があります。
 シュリー・ヘールカなどの五つの憤怒尊のそれらの領域は、
 密教行者たちの前に、明らかに現われます。
 これは「至福という天空をあまねく旅する」と言われ、
 聖者によって称賛されています。





◎変化身


 この領域から、衆生を導くための変化身が生じ、
 そして、それぞれの師として、六道輪廻の中に現われます。

 天界を救う変化身は、インドラ。

 阿修羅界を救う変化身は、ヴェーマチトラ。

 人間界を救う変化身は、シャーキャシンハ。

 餓鬼界を救う変化身は、ジュワーラムカ。

 動物界を救う変化身は、ドゥルヴァシンハ。

 地獄界を救う変化身は、ダルマラージャ。

 これらの六人のブッダ方は、六道の衆生のそれぞれのカルマを一つ一つ浄化します。

 これらの六人の基礎的な変化身は、
 さらに、想像もできないほどの多くの変化身を生み出します。
 そしてさまざまな世界の、さまざまなタイプの衆生の師として、
 さまざまな変化身が活躍するのです。


 人間界でも、導かれるべき者がいるところはどこにでも、彼らは現われます。

 あるときは僧として、あるときは菩薩として、あるときは王などとして現われて、彼らは人間たちを教化するのです。

 同様に、天界や阿修羅界でも、彼らはそのように行なうのです。

 動物界では彼らは、鳥に対しては鳥として現われ、
 そして、たとえば鹿に対しては、ライオンなどの姿で現われます。

 それぞれのタイプの衆生を教化するために、師は、想像もできないほどの様々な姿になるのです。

 同様に、餓鬼界や地獄界でも、彼らは、それら救われるべき衆生に適した形で現われ、適切に行動するのです。


 それらの衆生の指導者たちは、二種類の純粋意識を持っています。
 
 一つは、世界の絶対性を感知し、
 もう一つは、相対性を感知します。
 
 分別が生じる前の純粋な心と、
 経験が反映された心を、混ぜることなく、
 明確にそれらを悟り、彼らは、導かれる者たちに適した利他行に励むのです。

 絶対性を感知する意識は、
 真実在と空の様相を感知します。
 そして、衆生に心の停止を教えます。

 相対性を感知する意識は、
 心の働き、智性の能力を感知し、
 そして、彼らの違いを知り、無数の教えを説くのです。


 これは、浄化されていない存在の前に現われる師のことです。
 彼の領域は、六種類の輪廻の世界です。
 師は、彼らの心の状態に照らして現れます。


 教化されるべき衆生の様々な状態に応じて、
 師は、さまざまなタイプのメッセージを伝えます。
 


 輪廻の六つの世界は、
 いろいろなカルマの行為、それらへの傾向、
 それらの果報としての幸福と悲哀、
 これらの善と悪、因と果とともに存在します。


 その六種類の変化身の師は、法身や報身とは違い、
 衆生の目の前に実際に現われます。
 
 それらの師の様々な現れは、慈悲の心の反響の遊戯として現われるのです。

 これは、無限の慈悲の魔法です。
 そして、世界が存在する限りは、その魅力的な活動は終わらないでしょう。



 この領域から、生命のない物質的なものの中にも、
 様々な他の変化身が生じます。

 絵画、彫刻、自然、
 経典、礼拝所、
 蓮華の花、果樹、公園、
 美しい家や楽しい林、
 宿、船、橋、
 灯火、宝石、食物、衣服、馬車など、
 それらの物質の中に、いろいろな方法で人々を助ける変化身の現われが、存在しています。


 まだ準備ができていない衆生に対しては、変化身の師は、
 当分の間は、それらによって喜びに満ちた楽しい場所を創り、

 最後には、様々な変化身を通じて、
 彼らを解脱への道に入れることによって、
 衆生の幸福は自然に確実となるでしょう。



 もしも、導かれるべき者がいなくなったならば、変化身の師は消え、
 報身の自己顕現は、法身の中に潜るでしょう。

 もしもそこに容器がないのならば、
 水面の月の反射は、
 新月のように、空の中に消えてしまうでしょう。
 
 もしも、導かれるべき者が現われたならば、それらの顕現は、
 以前の通りに生じるでしょう。

 これは、自然に生じる活動なのです。




 この崇高な内的安らぎの法則によって、
 すべての衆生が、心の本性、純粋な光輝の連続体に出会いますように。

 そして、心の本性から離れた架空の世界を信じるという悪の汚染によって、疲弊しきった衆生の心が、
 今日こそ、安らぎと幸福を見つけられますように。






「安らぎを見つけるための三部作 パート1『心』」の結語


 この内的な安らぎと至福の大量の雨によって、
 この功徳の雲である教えから、
 三界の衆生の幸福が育ちますように。
 そして、このようにしてブッダの実りを自然と得ることができますように。

 衆生の智性的な視野は、曇っています。
 互いに相反しあうタントラとスートラに従って、
 その両方の道を、つかんで離さないでください。
 そしてまた、それらを誤って混合しないでください。
 誤って混合するならば、それらは両方とも、不完全な見解になってしまいます。

 ウディヤーナの城で
 わたし、ティメー・ウーセル(ロンチェンパ)は、
 この手引書を、教学のために書きました。
 そしてわたしは、
 原因の道と結果の道、両方の霊的探求の
 素晴らしく、深い意味を、正しく混ぜ合わせました。

 この善き行為によって、この世界のすべての衆生が、
 例外なく、内的安らぎという壮大な砦に到達しますように、
 そして、すべての方角とすべての時間の、
 ダルマターの真実在と純粋意識の結合が、その恩寵を広げますように。
コメント

「ダルマタ―と、真実在の開示」②

2015-01-11 08:47:30 | 安らぎを見つけるための三部作・1「心」




 その領域から、
 素晴らしい場所、
 時間、
 師、
 メッセージ、
 そして侍者と共に、
 報身が自ら現われるでしょう。


◎場所

 その場所は、純粋な光輝であり、
 ガナヴューハ(荘厳の集まり)の領域であり、
 五色の光、光輝、明瞭さの中の崇高なものであり、
 すべての空間に広がる明快で輝く虹のようであり、
 すべての空の領域、すべての方角へと広がります。
 
 この美しい宮殿は、四つの門、五重層の壁と瓦、格子細工、
 そして胸壁、手すり、軒などがあります。
 
 宝石で飾られたカーテン、金襴、ヤクの尾、鈴の花飾り、
 天蓋、旗などで満たされた空
 女神たちの雲、望ましいものの敬愛の供養、光線によって囲まれ、
 それらが内と外を覆います。

 それらの数は無限であり、すべての空間を覆っています。


 この宮殿の内側には、獅子、象、馬によって守られた王座、
 孔雀、そして太陽と月、蓮華などがあります。




◎時間

 時間とは、断固とした事象ではなく、
 完全である存在の本性の基盤であり、
 そして移動することでも、変化することでもありません。

 サマンタバドラの時間は、永遠です。
 すべてのものが完全であり同様である、
 分別が生じる以前の心は、
 最初から本質的に純粋な領域です。




◎師


 師とは、大小の印を持つ五人の如来です。
 それは、ヴァイローチャナ、アクショーブヤ、ラトナサンバヴァ、アミターバ、そしてアモーガシッディ、これらの五仏です。

 そしてアーカーシャダートヴィーシュワリ―、ヴァジュラマーマキー、ブッダローチャナー、パーンダラヴァーシニー、サマヤターラーという五人の妃が、五仏と同様の装飾をつけ、五仏のそれぞれと抱擁しあっています。

 彼らは青、白、黄、赤、緑の光を放射し、
 下には、彼らの寂静の姿があり、
 上空には、彼らの怒りの姿があります。

 その怒りの姿とは、
 ブッダヘールカ、ヴァジュラヘールカ、ラトナヘールカ、パドマカラヘールカ、ヘールカ・シュリーの五人であり、
 五人のクローデーシュワリーたちが、彼らとともにあります。

 ――それらの詳細は、言葉では表現できません。






◎メッセージ

 メッセージとは、絶対的完全性の領域であり、
 たとえ言葉で表現しようとしたとしても、
 表現することのできない、中心の拡大です。




◎侍者

 侍者とは、それ自身が師にほかならない自己顕現です。

 八人のパウォ(勇者)、八人のパモ(勇女)
 四人の守衛と四人の守衛女

 一元性の四十二の寂静の姿の中から、
 六人は、彼らが彼ら自身で他を明らかにするために、
 変化身としての聖者になるでしょう。
 二人は、彼らが純粋な経験の連続体にとどまるので、法身にとどまるでしょう。

 自己顕現の三十七の寂静神は、報身です。
 そして24人の特別な側近がいます。

 怒りの神々は、ガウリーやシンハムカーなどの16人の激怒した女性や、
 四人の門番、二十八人のヨーギニーなどです。

 五十八の怒りの形状の中から、
 四十八は、特別な側近を作り上げます。

 彼らは、燃え上がる炎と紋章を着け、恐るべき歯を見せ、恐ろしいダンスを踊ります。



 自己顕現としての報身が、曼荼羅のように存在します。
 
 しかし、衆生の目に明白な形で現われる寂静な姿と怒りの姿はすべて、報身ではなく変化身なのです。




 これらの素晴らしい場所、時間、師、メッセージ、侍者という五つのものはすべて、
 自己顕現であり、それらには善も悪もないのです。

 それらすべてから、素晴らしく豊富な光の放射線が、
 チラチラと光輝いています。

 それらは、あらゆる形で衆生に恩恵を与える、
 衆生の指導者たちの領域です。


 それらの偏在する美しい領域は、
 普通の衆生には、見ることはできません。

 
 想像不可能であり、ありのままに自己顕現する空性は、
 そのように、過去・現在・未来の勝者の自己顕現なのです。
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安らぎを見つけるための三部作 パート1「心」(13)「ダルマタ―と、真実在の開示」①

2015-01-08 22:00:32 | 安らぎを見つけるための三部作・1「心」



第十三章 ダルマタ―と、真実在の開示






 このようにして、方便と智慧が究極に達したとき、
 法身の活動と純粋意識は、ありのままに始まるでしょう。


 すべてのものとすべての根拠と共に、心と心の事象は、
 純粋な経験の連続体に入り、完全に停止するでしょう。

 そしてその連続体と純粋意識は、
 二つではなく一味へと変わっていくでしょう。

 こうしてそのような純粋性の中で
 すべての事柄が停止するのです。



 このいかなる起源も持たない透明な光輝による推力の領域は、
 空に現われる月のようです。
 その繊細な純粋意識は、宇宙のような連続体の中に巻き込まれました。

 無分別の叡智が遍満し、寂静が確立されていたとき、
 そのまさに最初からずっと純粋であり、
 そして、まだ客観化されていず、それ自身から外れていず、
 ずっとそれ以外の何かに変化することがない、
 分別が生じる以前の心の様相に、
 「ヴァジュラカーヤ(金剛身)」の名前が与えられました。

 それは、分別が生じる以前の経験の意味の根本であり、
 そしてその連続こそがすべてなのです。


 もしあなたが、「放棄」と「本質的な理解力」の可能性の究極に達し、
 それによって、存在の真実在は、その偶発的な不明瞭さを捨て去り、
 全智の大海に到達し、
 そして超越的な力が生じたならば、
 その様相は、「ボーディカーヤ(覚醒身)」と呼ばれます。
 これは、明らかなブッダの特質が生起する本源なのです。



 認識される対象の存在の中で、知性はそれと関係がなくなるけれども、
 そして認識する知性の中で、主観的な活動は確立されなくなるけれども、
 この至高なものは存続します。
 けれども、潜在的である間は破壊されない、内側の光輝のような、微細な純粋意識は、
 空に現われた月のようです。
 ――そしてそれは、あらゆるものに対する感受性により、すべてのものの事実の源なのです。
 
 それからは、法身が感受性の機能を与えられたので
 そしてそれは、他者のように見えるようになる性質という宝なので
 完全に寂静であるその最も微細な純粋意識を考慮して、
 それは「寂静の法身」と呼ばれます。



 それらの身体は、外側の世界の対象としての存在にはならないでしょう。
 そしてまだそれらは、非存在ではありません。
 ――それどころか、それらの微妙さにより、
 それらは、存在でも非存在でもないのでもなく、
 存在でありかつ非存在であるというわけでもないのです。

 この四つの境界の向こうにあるものの、
 言葉が見つからないこの領域については、
 たとえそれについて話そうとしたとしても、
 それは空性であり、そしてすべての客観的に見る傾向が停止しているのです。
 ――それは、勝者でない者たちの領域ではありません。


 存在物として一度として出現したことのない純粋な経験の連続体の砦の中で、
 過去・現在・未来のブッダは、永遠に存在するのですが、
 それぞれが、分別が生じる以前の経験の心なので、
 ブッダは、他のブッダを見れないのです。
 ――これは、「ありのままの深遠、寂静に属している」と呼ばれています。


 かつて生じた空間か、
 または未来に生じるであろう空間であるかにかかわらず、
 空間は空間であることと同様に、
 勝者は勝者なのです。


 これは、分別が生じる以前の心であり、
 空の次元、完全なる叡智、そして純粋意識の集積であり、
 完成のステージがその究極に到達したのです。
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◎存在の根本的なリアリティという結果の要素(非二元の悟り)

2014-09-20 05:38:26 | 安らぎを見つけるための三部作・1「心」

◎存在の根本的なリアリティという結果の要素(非二元の悟り)


 
 すべてのものが同じである絶対なる完全性の領域の中で、
 受容も拒絶もしないでください。
 ――客観性となるための欲望を払いのけてください。

 主観的にそれをつかむためのすべての欲望は、
 架空の存在の方向に力を動かしています。

 もし客観的なものがなかったとしたら、
 そこには、限りなく抑制のない空のように、
 束縛も自由も存在しません。


 まるで、様々な映像と鏡の表面のように――
 そのように、様々な物事と、存在の空性があります。

 まるで、様々な雲と空の広がりのように――
 そのように、様々な肯定・否定と、心の本性があります。

 まるで、様々な川と海の広さのように――
 そのように、様々な認識の感情と、正しい瞑想があります。

 まるで、様々な幻影や魔術のように――
 そのように、輪廻とニルヴァーナの様々な見解と、経験としての経験の領域があります。

 まるで、十方の空と大地の広大さのように――
 そのように、すべての原初から解放されていたもの、そしてそれらのヴィジョンがあります。

 まるで、水に注がれた水は分けられないように――
 そのように、心の領域と心の本性は不可分なものなのです。

 まるで、多様な夢と睡眠のように――
 そのように、行為の領域、そして受容と拒絶の二元性は確立していないのです。

 まるで、大海とその波が海原であるように――
 そのように、概念の生起する領域と非概念性の状態は、一つなのです。

 まるで、大きな仕事を無事に終わらせたときの大きな喜びのように――
 そのように、期待と不安がもはや確立されなくなったとき、そこにはゴールがあります。

 完全性の領域、すべてを包含するただ一つのリアリティを知ってください。
 経験としての経験、すべてを包含する連続体を生起させるために。




 このようにして、寂止と正観の合一の中で、変化に富んだ風味によって
 すべての衆生が、自と他、主体と客体などの二元的な観念から自由になるでしょう。


 「これはそれである」というものを探すことによって惑わされ、
 この架空の世界で疲弊し切った衆生の心が、
 今日こそ、安らぎと幸福を見つけられますように。

コメント

「悟りの経験の三つの要素」④

2014-05-19 16:35:10 | 安らぎを見つけるための三部作・1「心」



③寂止と正観の合一



 この寂止と正観の合一は、
 認識のキャパシティが動こうとも、とどまろうとも、同じものにとどまる領域です。

 概念の侵入のない純粋意識は、その主要な特徴です。

 存在と非存在の事柄の放棄は、その付属的な特徴です。


 概念がこの領域に入り、とどまるときに、概念をほうっておくことによって、
 それらは自然に解放されるでしょう。

 寂止と正観は、至福、光輝、そして非二元性の経験を強化します。

 ――そして、顕現と空性、正しい方便と智慧、生起のステージと完成のステージの完成は、自然にやってくるでしょう。


 もし不安や興奮が生じたら、その根本である三毒に対抗するために、寂止と正観が適切に用いられなければなりません。


 こうして、認識のキャパシティは解放され、光輝が生起し、すべての事柄のヴェールは剥がされるでしょう。



 この段階に至った人が、空がまぶしく輝き、雲ひとつないとき、
 太陽に背を向けて空を見るならば、
 外面的には、その透明な空は、論理的納得のための例として役立つでしょう。
 内面的には、そこで経験される「経験としての経験」、真実の空の経験は、以前よりも大きいものがあるでしょう。
 神秘的には、純粋な光輝である存在のエネルギーという空があります。

 この三つの空を知ってください。
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安らぎを見つけるための三部作 パート1「心」(12)「悟りの経験の三つの要素」③

2014-05-12 09:50:18 | 安らぎを見つけるための三部作・1「心」


②正観


 正観が生じたならば、
 輝く透明な内的世界・心の領域から、あらゆるものを経験することが、主要な特徴になります。

 分別的な概念が入ることがない平静な状態の心を持つことが、付属的な特徴です。


 主要な特性には、二つの様相があります。
 ――「分析による解釈」と「経験としての経験」です。

 「分析による経験」は、空を示す八つの比喩を手段として、それを見るという意味です。

 「経験としての経験」は、解放された空性の次元の直接的な瞑想経験です。

 それ自身の領域で、ありのままに経験を解放することによって、純粋意識は生起するでしょう。


 あなたが正観を経験しだしたらすぐに、さらにさまざまなアプローチを用いなければなりません。

 あらゆる二元性を超えた空性は、明白に現われるでしょう。

 興奮がもしあらわれたなら、
 寂止の瞑想によって、心を静めなければなりません。

 そのとき、空のような透明な輝きは、
 空性の純粋な実在の知覚、存在の輝き、事柄の放棄となるでしょう。
 それによって、不明瞭の雲からの解放が悟られるでしょう。
 またある時には、海のような透明な輝きが現われるでしょう

 ――自由が流れ込んでいるその光輝く領域は、
 概念で分けられることなく、自然に存在するのです。

 そこから十分な利益を引き出すために、
 日常のすべての立ち居振る舞いの中に、その経験を反映させてください。

 それによって正観は、それ自身で速やかに確立するでしょう。
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「悟りの経験の三つの要素」②

2014-05-04 07:22:55 | 安らぎを見つけるための三部作・1「心」

◎悟りに至る方法の要素



 悟りに至る方法の要素に関しては、
 眠気、怠惰、興奮、心の退縮、疑念といった五つの害を捨てて、
 そして適切に、正観と寂止の合一を生じさせるのです。

 眠気と怠惰は、完全に寂止を覆い隠します。
 興奮と心の退縮は、正観を乱します
 そして疑念は心を困惑させ、瞑想の障害となります。

 さらにそれらの五つは、心の退縮と興奮にまとめられるでしょう。
 心の退縮が生じたなら、何か心を鼓舞するようなことを考えてください。
 そして興奮が生じたなら、心に集中してみてください。

 寂止なしの正観は、論争に我を忘れます。
 正観なしの寂止は、味気のないものになります。

 それらの合一は最上の道であり、もろもろの障害への対治となります。




①寂止


 寂止は、身口意が静まったときに生じます。
 それは、すべてのものが一様である領域の中での、
 主体・客体の相互関係の表象的な思考の完全な停止が、主な特徴です。

 実際に寂止を得るには、まずはある対象に対して集中をし続けなければなりません。

 ここには、二つの側面があります。
 一つは、見かけの対象と関与し、もう一つは、関与しません。
 同様に、外側と内側の側面もあります。
 心を制することすべてを通して、この四つの側面があるのです。

 見かけの対象と関与するやり方は、形状や音などの五感の対象に集中します。
 
 見かけの対象と関与しないやり方は、分別的な概念がない領域に集中します。

 外側の対象は、石、木、仏象など、何でも外側にあるものです。

 内側の対象は、ヴァイブレーション、チャクラなどです。


 これらのどれかひとつに意識的に集中し続けることによって心を落ち着かせることは、
 寂止を実現するための方法なのです。


 十分に集中することによって、寂止が生じるとき、
 純粋な意識によって、さらにそれを拡大し、持続させ、安定させられなければなりません。

 さらに、この寂止から十分な利益を引き出し、
 日常のすべての立ち居振る舞いの中にも、その寂止の状態を反映させることが必須です。

 あなたがこの寂止を経験しだしたら、
 あなたは、身体と心の軽快さ・柔軟性・なめらかさが増大するように、注意を払わなくてはなりません。

 それによって寂止は、速やかに達成されるでしょう。
コメント

「悟りの経験の三つの要素」①

2014-05-03 05:25:37 | 安らぎを見つけるための三部作・1「心」



第12章 悟りの経験の三つの要素




 そしてあなたは、非二元性への集中の因となる
 確固とした完全性の三つの要素を学ばなくてはなりません。


 それは、悟りに達するための土台という要素、
 悟りに至る方法の要素、
 そして、存在の根本的なリアリティという結果の要素(非二元の悟り)です。




◎土台の要素


 悟りを目指す人は、
 輪廻という架空の世界から自己を解放するための意欲を起こさなければなりません。

 世俗的な事柄の喧騒鳴り響く場所から物理的に遠く離れ、
 そしてさまざまな事柄の群集から精神的に長い間離れることで、
 彼は速やかに、悟りに至るでしょう。
 
 彼が、信、正しいプライド、礼儀を持ち、
 誠実で、純粋な性格であり、善を喜び、
 教えを学び、少しの煩悩しか持たず、満足を知るとき、
 彼は速やかに、悟りに至るでしょう。

 彼が、身体、言葉、心において制御され、孤独を楽しみ、
 眠気、怠惰、無駄な会話の楽しみを放棄し、
 興奮せず、後悔することもなく、
 他者との意味のないつながりを持たなくなったとき、
 彼は速やかに、悟りに至るでしょう。

 彼が、都市や町の人々の喧騒を嫌い、
 孤独な場所に住み、多くの接触を避け、
 世界の様々な価値あるもの、そしてそれらの獲得に興味を持たなくなったとき、
 彼は速やかに、悟りに至るでしょう。

 彼が、この人生、そして来世の楽しみについて、
 そして、衆生のためでない自分だけのニルヴァーナについて思い悩むことなく、
 衆生を輪廻から救済することを欲し、この世界に嫌悪感を感じるようになったとき、
 彼は速やかに、悟りに至るでしょう。
コメント

「心の本性と、瞑想の修習」④

2014-04-10 20:37:07 | 安らぎを見つけるための三部作・1「心」




 もしあなたが、欲求多き主体が不在である広大なサマーディの経験という船で、
 架空の三つの世界の海を渡ったならば、
 それ自身で完全であり、そして心の至福が存在そのものの至福と絶え間なく入り混じった領域にたどり着くでしょう。

 
 寂止は、それがそこにあるために、法身の空性であり、そこに生じるのです。

 正観は、輝くエネルギーのために、法身の表象の顕現なのです。

 これは、方便と智慧、そして功徳と智慧の集積、そして生起のプロセスと完成のプロセスなどは、すべてそこにあるという意味です。


 正観が、存在を理解する智慧をもたらすでしょう。
 この状態にとどまり続ける寂止を通して。

 
 主体と客体の考え、物質と非物質といった二元性におかされた心が、
 存在の連続体の非二元性、そしてその純粋意識に占領されるとき、
 心と心の事象は、もはや客観化されることはなく、弱まっていくでしょう。


 心の本性の、原初からの純粋さにより、
 付随的な概念は、当分の間、純粋になるでしょう。

 九段階の瞑想、神秘的な知覚と、多様な心の経験、数え切れないサマーディの経験といった神秘的な滋養の雲は、自発的に現われます。


 欲界に属している心が、自分自身を探している者として焦点を当てられ、
 現世の欲望を否定した時、
 分別があり、吟味的思考のプロセスが作動しているサマーディの経験、 
 喜びや至福の感覚に伴って起こるサマーディの経験が開発されるのです。
 これは第一の瞑想ステージです。

 このステージから、分別や吟味的思考のプロセスがもはや作動していず、ただ無思考の精神集中だけになったサマーディの経験が開発されるでしょう。
 ここで、心は本質的に光り輝き、歓喜が生じ、至福感が生じます。
 これが第二の瞑想ステージです。

 このステージから、喜びもないサマーディの経験が開発されます。
 もっと正確に言うならば、心が至福で飽和状態になります。
 これが第三の瞑想ステージです。

 このステージから、苦楽の二元性を超えた純粋な歓喜であるサマーディの経験が開発されます。
 これが第四の瞑想のステージです。

 この十分に集中した心から、空のような透明で明快な心の状態が開発されます。
 ――これは、無限の空のような拡大した心の達成です。
 これが第五の瞑想のステージです。

 この状態から、意識が無限に拡大する状態がやってきます。
 そして、すべては心を取り乱すべき事柄などない、心の本性であることが理解されるのです。
 これが第六の瞑想ステージです。

 この状態から、いかなる存在もなくなる状態の拡大がやってきます。
 そしてそれは、何かをとることもなく、すべての事柄から離れることでもないのです。
 これが第七の瞑想ステージです。

 この状態から、断定のない状態の拡大がやってきます。
 そして心は、存在、非存在の両方から解放されます。
 これが第八の瞑想ステージです。
 
 この状態から、完全な寂静の状態の達成がやってきます。
 これが第九の瞑想ステージです。

 そして通常、感情的な様々な反応に従事される心は、この方法で、停止に向かうのです。

 この九つの瞑想ステージを、一番目から九番目まで順々に、または再び逆に一番目まで戻るようにして経験を繰り返した時、

 彼は、自分と他人の無数の過去世を知り、
 カルマに応じて衆生が転生してきたことを知るでしょう。

 また彼は、衆生がどのように死に、死のプロセスをたどり、どのように転生し、どのような来生を送るかを知るでしょう。
 
 また彼は、隠れたところにあるものも見るでしょう。

 また彼は、さまざまな姿に変化することができるようになるでしょう。

 そして、感情の干渉なしで、彼は物事をあるがままに見、
 すべてが繋がっていること知るでしょう。

 また彼は、ブッダの御子でいっぱいの、ブッダの領域を見るでしょう。


 あなたが、顕現は幻影だということを十分に理解したとき、
 すべての幻影の本性というサマーディの経験がやってくるでしょう。

 ――そして、心の苦悩が消え去り、乱れた感情の動揺は静まり、
 月のような、純潔なサマーディの経験が現われるでしょう。

 そして、すべてのものが、もはやその区分を見ることもなく、同一性の広大さの中で、
 一つでもなく、複数でもなくなり、
 空のような、ヴェールがすべて剥がされたサマーディの経験が現われるでしょう。

 数百、数千、それ以上の数え切れきれないそのような経験が、確立されるでしょう。


 
 正観によって、物事や人生の意味は正確に理解され、
 そして寂止によって、この正観がはっきりと保たれるでしょう。

 ――そしてこの神秘的な滋養としての正観と、サマーディの経験としての寂止の経験は、自然に結合されるでしょう。




 それらを実際に得るための五つのステージの道を進むことによって、
 あなたは自由になるでしょう。

 まず準備段階の初歩レベルのステージで、あなたは、
 物質的な世界、感覚の世界、心の世界、そして概念、意味の世界に関係する
 四念処の検討を養わなければいけません。

 準備段階の中レベルでは、決意、熱意、意志の固さ、そして忍耐によって、
 あなたは、善をなし悪を断つための、四つの努力を実践しなけばいけません。

 準備段階の高レベルでは、意欲、精進、念、そして観察によって、
 あなたは、より高い認識のための四つの基礎を養わなければいけません。




 真理の直接的認識に決定的に結び付ける加行のステージで、
 あなたはまず、熱意と上昇を特徴とするこのステージの初期段階において、
 信、精進、念、サマーディ、そして智慧の五つの根を培わなくてはなりません。

 それから、受け入れることと至高の瞬間と呼ばれているものを特徴とする、このステージの後期段階において、
 同様に信、精進、念、サマーディ、そして智慧の五つの力を培わなくてはいけません。

    

 純粋な歓喜に満ちた真理を直接経験するステージでは、
 あなたは、「躍動する神秘智」と「完全なる叡智」へ至る、七つの装飾品を正確に養わなければなりません。
 その七つとは、信、精進、念、サマーディ、智慧、歓喜、そして精練です。



 次に、修道と呼ばれるステージにおいては、
 低・中・高それぞれのレベルにおいて、それぞれ三つの段階がありますので、
 全部で九つのレベルがあります。

 それは、汚れのない段階、光を発する段階、智慧の光の段階、
 征服されない段階、現前の段階、遠行の段階、
 不動の段階、至高の智慧の力の段階、そして法の雲の段階です。



 それらの実践によって、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正サマーディという八正道も同時に成熟していくでしょう。



 寂止と正観に導くための、
 三十七道品を含んだそれらの四つのステージの修行を終えたとき、
 あなたは、これ以上学ぶ必要のない段階である、ニルヴァーナに入るのです。




 これらの道、それらのレベルの上昇を進んでいくことなしでブッダになった魂は、どこにもいません。
 自由を得た魂はすべて、すべてこの道に従ってきました。
 
 それゆえに、真理の探求に着手した人々は、
 原因の道を歩くにしろ結果の道を歩くにしろ、
 これらの重要な道を進まなくてはなりません。




 心の本性の輝きのエネルギー、自性、そして空性によって、
 衆生の乱れた心の動揺が、完全にしずまることによって、
 このように永き時の間、この架空の世界の事柄に夢中になることによって、疲弊しきった衆生の心が、
 今日こそ、安らぎと幸福を見つけられますように。
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「心の本性と、瞑想の修習」③

2014-02-18 09:47:28 | 安らぎを見つけるための三部作・1「心」



 低い智性の人のための修行の方法は、
 まず第一に、寂止と正観を別々に訓練することです。
 そうしてそれぞれが堅固な経験となったあと、
 寂止と正観は統一されるでしょう。
 これは、無数のテクニックによって学ぶことができるでしょう。


 まず寂止の探求の手段は、
 隔離された場所に座り、
 そして、断続的に数日間、そこにとどまり、概念の流れを制御するのです。
 このとき、アーナーパーナ・サティなどのテクニックも利用します。

 その後、彼は、神やブッダの絵や像などのような
 適した善い対象に、
 静寂な心で、乱されずに意識を集中することを得ることでしょう。

 そして、四無量心や、生起と完成のプロセスのような瞑想を修行するのです。


 このようにして寂静に到達したら、心は柔軟になるでしょう。
 どこか他のところで道に迷うことはなく、集中の対象にしっかりと結び付けられ、
 そして結び付けられている間、心は寂静にとどまるでしょう。

 身口意が純粋な歓喜で満たされたとき、
 集中があり、正道を踏み外さない寂止は確定されるでしょう。



 その後、彼は、正観を学ばなくてはなりません。

 ――多種多様の顕現の中の
 リアリティの顕現と虚像、
 輪廻とニルヴァーナ、
 それらの表象の世界の事物は、真実には、
 夢、幻影、ただのイメージ、雲、蜃気楼、揺らめく炎のようなものです。

 何もないものとまだそこにあるもの、それらは存在の空性にとどまるのです。

 すべてのものは空のようであって、本質はないので
 それをこの始まりのない状態にあるがままに解き放ち、
 それについてのすべての事柄を捨て続けてください。

 それによって、表象の世界は本質がないということ、
 そしてとらえられる客体も、とらえている主体も、そのように存在しないということの理解が訪れるでしょう。


 その後、彼は、次のように心の内側を吟味しなければなりません。

 ――心はさまざまな観念を持っているが、真実ではない。
 
 心は、否定と肯定、真実と虚像、幸福と不幸といった対象へと向かうのですが、
 それらは真実ではなく、つかみどころがないのです。

 あなたはどこからきたのですか?
 あなたは今どこにいるのですか?
 あなたはどこに向かっているのですか? 
 あなたの形、色はどこにあるのですか?

 そのように吟味するならば、心の正体が見られるでしょう。

 
 心には、その始まりも、維持も、その停止も、
 それらを招いた因も、何もまったくないのです。
 
 それは、色も形もなく、何かとしてつかみどころがありません。
 
 過去――それは、終わったものです。
 未来――それは、まだ現われていないものです。
 現在――それは、過ぎゆくものです。
 それらは、内側にもなく、外側にもなく、どこにもありません。

 それは空のようであり、そしてどんな事柄にも影響を受けないものだということを知ってください。


 次にあなたは、心についての熟考をやめ、
 心を緩和し、弛緩させてください。
 何も考えることなく、思考を捨ててください。

 すべてが非二元性にとどまっている領域に、心をありのままに解き放ってください。

 
 それによって、
 エゴは本質ではなく、
 また、エゴは本質ではないと理解している心も、本質的には存在していないことが理解されるでしょう。


 その後、本物の純粋意識がやってきて、
 寂止と正観は一つとなり、
 水と水に映っている月のような、顕現と心の合一が生じるでしょう。


 真実には何一つ存在していない二元性にとらわれることによって、あなたは、架空の存在で迷子になるのです。

 二元性は存在していないと知ることによって、あなたはニルヴァーナという平穏へと至るのです。

 それゆえに、この方法に従って、非二元性を理解することに努めてください。

 ――あるものすべては、一度として生起したことがないものであり、心の純粋な真相の一つです。

 心の本性は、純粋で、汚れのないものなのです。

 汚れのない、解放された、光り輝く、あらゆる事柄から切り離された状態に、それをありのままに解き放ってください。


 それによって、混乱し荒れ狂っていた感情は、とても穏やかになり、
 そして、概念的分別のない絶対的な純粋意識は、姿をあらわすのです。

 純粋な意識、神秘的な知覚、サマーディ経験は確かになり、
 そして、主体もなく客体なく、制限されるものを得ることもないという確実性な理解が生じるでしょう。


 そのように、心が空のようである間は、
 対象を仮定することもなく、何かの事柄に楽しめられることもないでしょう。

 法界の状態は、修められることもなく、何かを修めるものもなく、
 創られることもなく、何かを創ることもないのです。
 ――この根源的な領域は、汚れがなく、本質的に純粋なブッダフッドの状態です。


 とらえられる対象は、見つからないでしょう。
 正確に言うと、そこにあるものは、水または蜃気楼の中に映る月の反射のようなものです。

 ――とらえている主体は見つからないでしょう。
 正確に言うと、そこにあるものは、安定、そして揺らがないことです。

 二元性を超えていて、その見掛けの対象が存在しないこの領域は、
 深遠で、静寂で、あらゆる事柄の影響を受けず、光り輝き、自然なのです。

 ――この法界という神の美酒を飲んでください。
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「心の本性と、瞑想の修習」②

2014-02-11 09:45:28 | 安らぎを見つけるための三部作・1「心」



 さて、智性の劣った者の、瞑想経験のパターンを見てみましょう。

 ――ちょうど、水がうねり、荒れ狂うように、
 光輝くイメージは、不鮮明になり、不確かになるでしょう。

 そわそわして、気まぐれで、あらゆる観念に屈する心は、
 さまざまな誘惑に固執するでしょう。

 空の中の星々のような神秘的意識、高度なヴィジョンと
 完全な光輝、透明な純粋意識である心の本性は、
 それゆえに生起しないでしょう。

 よってまず、すべては一つであるという経験の中に確固として落ち着くことが必須となるでしょう。


 ヴァイローチャナの座法(蓮華座を組み、法界定印を組み、背筋を伸ばし、舌を上口蓋につけ、ゆっくりと呼吸する)をとり、スメール山のように不動になります。

 ――限界を外した感覚は、まばゆいばかりの星々のすばらしい反射のようなものを見るでしょう。

 心の本性を解放し、光り輝かせてください。
 まばゆい空のように。

 興奮状態でも
 愚鈍な状態でもなく、
 すべての誘惑から切り離された状態にとどまってください。

 そのとき、そこには、実在の一元性、原初の領域、
 主体と客体への現象化に先行した法身があります。

 汚れのない太陽光線のようなエネルギーで満ち溢れたパワーは
 至福、光輝、非二元性、周辺も中心もないものから立ち昇るでしょう。

 顕現と空性は、包括的な一元性にすべて融合します。
 
 ――存在と非存在の境界を超えて、
 架空性と非活動の不可分があります。

 そして、知ることと知られることは一つのリアリティとなります。
 ――これは、同一性でも、非同一性でもない、法界を見ることなのです。

 これは、純粋意識が「崇高な真理」を理解する因となるのです。

 ――その後、勝者によって例証された、最もすばらしい法身が、
 このありのままのリアリティを見る心の目によって直感され、
 幸福な人々は、永遠に寂静にとどまるでしょう。




 心の本性、生じることのないもの、空のように純粋な空性に、
 精神的な事象は、客観化されるべきではありませんが、
 雲のようにふわふわとまばらに現われることがあります。

 それらを興奮せずに識別する、分析智のプロセスによって、
 無始の時からあり続け、ありのままであるこの領域に落ち着くでしょう。

 大海のように、光り輝き、穏やかにさせてください。
 波を立てずに、主体と客体というヘドロから解放させてください。

 大空のように、解放させ、光り輝かせてください。
 横道にそれることなく、概念という雲もなく。

 大きな山のように、堅固に、不動にさせてください。
 期待も恐れもなく、肯定も否定もなく。

 大きな鏡のように、透明に、鮮明にさせてください。
 そこに絶え間なく現われる顕現の対象のイメージと共に。

 その始まりから自由に、そこにとどまっている虹のように、
 心を動揺させる興奮も後悔もない状態で、
 透明・鮮明にさせてください。

 取り乱すことのない射手のようにあらせてください。
 その本質的な純粋意識性の中で、エネルギーを集めるのでもなく、それ自身へ引きこもるのでもなく。

 技術を完全に身につけた職人のように、
 ありのままに存在させてください。期待や恐れなしに。


 これがサマーディの経験であり、本質的な純粋性なのです。

 ――ここにおいて、寂止と正観は結合されています。

 生じることのない領域にとどまることによって、寂止が生じます。

 その光輝、空性についての事柄から自由になることによって、正観が生じます。

 それらの分けられないものは、
 それらが一つの真実になることによって、一つになるのです。



 このときから、心の本性のエネルギー、自性、空性を、
 あらゆる事柄を内部に持たない、すべての言語による表現を超えた意味として理解するでしょう。

 完全に概念化することのできない純粋意識の始まりは、
 識別智の機能を超越した、純粋な光輝なのです。

 このとても光輝いている心を直接見ることよって、とても寂静になり、
 そして外側、または内側を肯定、あるいは否定したいという欲望は減少するのです。

 この開かれた領域によって、平等なる慈悲が生起し、
 そして人は駆り立てられ、自己と他者の真の利益となることに従事することでしょう。
 彼は今こそ、自己と他者の救済への道をつかんだのです。


 その後、彼は、もっともっと深くこれと関わりを持つようになります。

 彼の心はより透明になり、純粋意識はより遠くに広がるでしょう。
 そして彼は、すべては夢や幻影のようであると完全に理解するでしょう。

 彼が、生まれるのでも、生まれないのでもないものとして
 存在するものすべてを見るとき、
 非二元性が確立している領域で、すべてがただ一つの味だけになり、
 拡大しきった純粋意識が、完全なる無分別智となるでしょう。

 そして、純粋な歓喜で装飾されたサマーディへと到達するでしょう。

 そのとき、身体と心は、より純粋になるでしょう。

 そして正しい理解は、方便と叡智が全く汚れなく合一する中で、現われるでしょう。

 神秘的な知覚で、彼は、慈悲によって、衆生の確かな幸せを理解するでしょう。
 そして輪廻の世界への嫌悪感によって、彼の心は自ら解放されるでしょう。

 そして夢の中でさえも、すべての事物はこのようなことだという理解が生まれるでしょう。
 興奮と後悔から解放され、昼と夜から解放され、サマーディの経験は確定されるでしょう。

 そしてそのような人は、聖者の道を素早く理解するでしょう。


 その後、彼の経験がさらに深さと激しさを得たとき、
 サマーディの経験、かつてなかったほどの悟りという太陽が現われるでしょう。

 そのすべての意味を理解し、その一元性の境地に至った後、
 彼はヴェールを剥ぎ取られ、神秘的な知覚を支配し、
 百、千、十億、あるいはそれ以上のブッダの領域を見るでしょう。

 そのとき、「それに到達している」という直接の意識である、
 常に変わらない優れた純粋意識が現われるでしょう。


 この経験をさらに強く、深く育てることによって、
 存在の理解の中のサマーディの経験は、数え切れないほど多くの特質を得るでしょう。

 ――一様に存在や概念の不在の中にとどまっている法界から、
 神聖な滋養という雲のような純粋意識は、無垢に広がるでしょう。

 寂静と非寂静が一つであるところの寂静の状態の中に永遠に安らぎ、
 想像もつかないほどの広大な法の顕現を誇示するでしょう。

 そして彼は、無限のブッダの領域、原初のヴィジョンの中に入るでしょう。


 サンスカーラが明白になるとき、
 そしてその無限のブッダの特質によって、
 それらのサンスカーラを超越するための神聖な人生が、
 とても広く広がり、汚れのないものとなったとき、
 「究極の目標に人を近づけるもの」と呼ばれる純粋意識を操り始めるのです。
 
 それによって、優れた道の完成を得、「躍動する神秘智」と「完全なる叡智」は速やかに悟られるでしょう。
 これは、透明な光輝のエネルギーによる霊的探求なのです

 ――それによって、幸運な人々は、今生で、完全な自由という到達点を悟るでしょう。
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「心の本性と、瞑想の修習」①

2013-12-21 18:20:00 | 安らぎを見つけるための三部作・1「心」


第11章 心の本性と、瞑想の修習





 このようにしてあなたが、すべてが平等であるということを理解したとき、
 それはあなたが根源的な境地に安住するための絶対的な原理になるでしょう。


 ここにおいて、智性のキャパシティーが段階をおって拡大していくプロセスの説明が必要になります。



 ――高度で智性的な観察力を持った人は、
 根源的な領域の直接的経験を通じて、解放されるでしょう。

 そこに教化する主体も、教化される客体も存在しないことを理解したとき、
 顕現と根源の二元性から解放された心の本性は、もう探索される必要はありません。

 ――そして、あらゆるバイアスから解放された純粋な意識、
 それは、清らかな川の流れのようです。


 すべてのものが本質的に解放されているサマンタバドラの浄土は
 時間化されておらず、
 「これはそれ」という認識にとらわれておらず、
 特徴、大きさを持たず、
 しかし、広大な場所に自ら存在しています。

 それは無始の過去から存在していて、
 そのままの、その範疇にとどまり続けるでしょう。

 そこには、迷妄も、迷妄に至らせる場所もなく、
 努力する必要もなく、何かの興味に巻き込まれることもないでしょう。

 かつて、高度な智性的観察力を持った人は、
 達成も、達成していないことも存在しないと、観察されたのです。

 彼は、このステージに至るために長い時間は必要なく、
 今、この瞬間に、完全なるブッダになるでしょう。

 このステージは、広大で、空のようにすべてを包含しています。




 劣った人々、智性の低い人々は、
 このステージに至るために、努力をしなければなりません。

 彼らは、自分は完全に寂静に至ったと確信できるまで、
 さまざまな瞑想のメソッドを修めなくてはなりません。


 特に、輪廻という架空の存在へと導かれる悪しき観念
 これから自由になるために、メソッドとして精神集中の修行が伝授されます。

 それによって、心は極端な執着から解放され、
 智力のキャパシティを広げる識別智が生じるでしょう。


 寂止によって、悪しき感情は粉砕され、
 正観によって、跡かたもなく根絶されるでしょう。


 もともと、高度な智性的観察力を持った人にとっては、
 悪しき観念は溶けて、そのまま法身になるのです。

 ――もし、善も悪も存在しなかったならば、
 悪への対抗策を修める必要もなくなるでしょう。

 心の本性の光明で、すべての二元性が合一し、
 善悪の観念が完全におさまるとき、
 二元を超えた彼の直接的な理解は、空のように広がるでしょう。

 しかし智性が低い人がそれを実際に成し遂げるには、
 まずその前に、寂止の探索によって、あらゆることに直面して、
 心の安定に到達しなければなりません。

 その後、正観をそなえた個々の内観の修習によって、
 外側と内側、顕現と心は、絶対的自由を経験させられるでしょう。

 そこに至るためのモチベーションを高めるために、
 まず、智性のキャパシティーの段階的進化を知ることが必須となるでしょう。
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「存在の認識」④

2012-10-26 21:23:43 | 安らぎを見つけるための三部作・1「心」



 友よ! 顕現の中の対象を見よ。

 それらすべては、生起したことが一度もない、空の次元です。

 けれどもその多様なイメージは、鏡の中の現われのようなものです。
 
 それらは、鏡の表面の輝きと同様なのです。


 こちら側の、認識を取り入れた心を見よ。

 心とは空のようなもので、すべての肯定と否定から独立しています。

 ――雲は、空に現われ、そして消えていくでしょう。
 しかし空という魔法は、二つとしてないものであり、ただ純粋にとどまるでしょう。

 したがってそれは、本質的で汚れのない、根源的なブッダフッドなのです。

 ――それは創造されることはなく、
 始まりから純粋なものであり、そして心は二つとして存在しないのです。

 拒絶と受容の二つは存在しません。
 肯定も存在せず、否定も存在しません。

 そこには一切、自主独立のリアリティはありません。
 それ自身で存在しているものは、存在の空の次元です。


 顕現が変化するのと同じように、
 対象であるものについては、無常なる様相で存在しています。
 したがって智性は、固定的な内容を持っておらず、そして限界がありません。

 これは絶対的な完全性であることを知ってください。


 したがって、顕現と虚像、輪廻とニルヴァーナのすべてにおいて、
 
 過去の事柄は、もう過ぎ去ってしまったので、空です。

 未来の事柄は、まだ来ていないので、空です。

 現在の事柄は、とどまることがないので、空です。

 時間のその三つの様相は、基盤や根本がないので、空という意味において一つです。

 すべては始まりから、完全なる広がりなのです。


 顕現と虚像、輪廻とニルヴァーナは、心のイメージにすぎません。
 ――この心はそれ自身、空のように広い経験の連続体です。

 この空はそれ自身、想像できないほどの時間の後にも消滅することはなく、
 それ以外の他の何かに変化することもないのです。

 ――それ自身の不変性は、根源的なニルヴァーナです。

 ――存在としては、それは、明智と完全なる叡智と共にあるサマンタバドラです。


 この根源的な領域は、顕現と空性の不可分性の中にあり、
 それは一つでも多数でもなく、
 客体になることはできません。

 ――それは、あらゆる定義・概念から解放されています。

 この自由なる同一性と平等性は、その中に分裂もなければ、区分もありませんし、
 顕現と同一のものであり、空性と同一のものであり、
 真実と同一のものであり、虚偽と同一のものであるのです。

 存在と同一のものであり、非存在とも同一のものであり、
 虚像を超えたものともずっと同一のままのものです。

 それは、始まりからずっと純粋のままとどまり続ける連続体なのです。


 分別的知性によって仮定されたものはすべて、本質的なものが欠けています。

 ――あらゆる「名前」は付随的なものであり、
 「本質」は、名前を持ちません。

 真実と虚偽という二つは存在していません。
 対象と心は関係がありません。

 絶対的存在は、他のもので覆い隠されています。
 そこには本来、とらえられるもの(客体)も、とらえるもの(主体)も存在しないのです。

 しかしちょうど鏡の中に実体のない像が現われるように、
 実体のないイメージは現われるでしょう。

 そのように、対象を認識する「感覚意識」という特質が生起するでしょう。

 ――このようにして何かを認識することによって、あなたは、渇愛と嫌悪の架空の世界で迷子になるでしょう。

 あなたが念入りに観察するならば、
 心はそもそも、対象へと外出していってはいなかったということ、
 そして、対象を認識する特質は、そもそも心に生起していなかったということを見つけるでしょう。

 感覚意識もその対象も、お互いに対して真実には何ものでもないので、
 それらは、二つのものとして成立できないものです。

 あらゆる対象はすべて、非本質の中において一つであり、同一のものです。

 そして分別的知性はすべて、具体的に理解せられる際に一つであり、同一のものです。

 顕現と心は一つです。
 それらは、始まりから純粋であるものであるときに一つであり、同一のものです。

 そこには、選択する必要、そしてあれもこれもととりとめなく試す必要はありません。

 それらは、それらの基盤であった解放の中で一つであり、同一のものです。


 輪廻とニルヴァーナは、二つのものとして存在していません。
 それらは心の領域の中で一つであり、同一のものです。

 ――さまざまな川は、海の広大さの中では、一つであり、また同一のものです。

 すべてのものはそれに似ていて、
 経験との一体性の中では一つであり、同一のものです。

 元素のエネルギーの変化、変換は、
 宇宙にしてみれば、一つであり、同一のものです。

 心の肯定と否定は、存在の空性の中では、一つであり、同一のものです。

 それ自体で存在しているもの、本質的に解放されているものは、二つとして存在していません。
 ――それらは、それらの純粋性の中では、一つであり、同一のものです。

 波の浮き沈みは、水の広がりの中では、一つであり、同一のものです。
 
 このようにしてそれを理解できる人は、賢者です。



 多様性の中で存在するものはすべて、真実には具体的につかみどころがなく、
 二元性としては存在してないイメージなのです。

 善も悪なく、受容も拒否も適用されない場所で、戯れてください。
 概念的知性と二元性が出会うことがない場所で、幸せに生きていきましょう。


 特有の対象を客体化しようという自我意識の欲求がない
 心の放浪の最終地点である純粋意識
 それは、絶対なる完全性は今ここにあるということです。

 つまり、すべての平等性を悟ることによって、
 概念的知性の働きから自由になったその領域は、
 自我意識の欲求とは無関係な領域なのです。


 無限に広がる純粋意識が、奴隷のように束縛されることによって、疲弊しきった衆生の心が、
 今日こそ、安らぎと幸福を見つけられますように。
コメント

「存在の認識」③

2009-09-18 17:23:17 | 安らぎを見つけるための三部作・1「心」



 言葉と概念によって、心がかき乱され、完全なる叡智が失われている間は、
 心は平安にならず、風のように揺れ動くしょう。

 明智と叡智が存在するとき、
 真実のヴィジョンがありのままに存在するでしょう。
 ――それは、否定と肯定、来ることと去ることに対して無関心にさせるでしょう。
 
 ここで、考え、言葉、見解に基づいたさまざまな哲学的な思考システムは
 全く意味をなしません。

 絶対的絶対性は、証明と非証明とは無関係です。

 ――それは周辺でも中心でもなく、カテゴリーもステージもありません。

 ――それは空のように純粋で、壊れることはなく、偏ることもありません。

 存在と非存在にカテゴライズする概念的知性によって吟味されたときから、
 それはゆがめられました。

 言葉で表現することのできないものが、
 どのようにして言葉で説明できるというのでしょうか?

 純粋なる心の本性は、あらゆる点で汚れがなく、
 虚像の汚れによって、見られたことはないのです。




 始まりから本質的に純粋な心の本性の中では、
 拒絶は全くなく、拒絶を援助することもなく、
 何も解放されることもなく、何も達成されることもありません。
 
 外側も内側もなく、
 理解することも理解されることもありません。

 それは、「これはこれである」というようにとらわれることもないので、
 あなたの煩悩に終止符を打ってください。

 それは、得ることも得られないこともないので、
 期待も不安も捨ててください。


 死ぬことも、他のどんなものにも変化することもない、存在の本質的な明智の上に、
 顕著な特質を持つ何かが、さまざまな条件により現われるかもしれません。

 この現われは、それ自身の現われの中で自由です。
 水とその波のように、それは、法身としての経験のリアリティの上に橋を架けるものです。

 それがどこかで見られたとき、それを見たものは、存在の本質的な明智を悟るでしょう。
 しかし探索によっては、それを見つけられないでしょう。
 それは、どの場所にも、どの方角にもないのです。

 求めるものは彼自身であるため、観察されず、定理は得られません。
 そこには創造者は存在せず、彼のために創られるものも存在しないのです。


 空のように汚れのない根源的な領域に入ったとき、
 あなたには、もはや帰る場所は存在しません。
 あなたは今、どこに行くつもりなのですか?
 あなたは、すべてが終わった地点に達したのです。
 ――そこには未来が来ることはありません。

 誰にも見られていないというわたしは一体どこにいるのでしょうか?




 もしあなたがこれを知っているのならば、
 あなたにはもはや他のものはすべて必要ありません。

 そして自由になった人々は、わたしのように、虚像性を通り抜けるでしょう。

 わたしには今、疑問はありません。
 ――心という地面と根は消滅しました。

 支えもなく、愛著もなく、確実性もなく、
 「これはそれである」という認識もありません。

 そこには、連続性、広大さ、包括性があります。
 このように理解し、わたしは歌います。

 ――わたくし、ティメー・ウーセル(太陽の汚れなき光線)は、
 到来と共に、これを指し示し、そして去っていきます。
コメント

「存在の認識」②

2009-09-17 17:40:26 | 安らぎを見つけるための三部作・1「心」



 あなたは自分を解放するために、
 輪廻に導く凝り固まった習慣的思考を否定しなくてはなりません。

 ダルマターから発生する純粋意識によって、それらに反撃し、
 このすべての存在の空性を確信しなければなりません。

 ――それからあなたは、顕現と空性の非二元性である、
 「二つの真理」によって意味されたことを知るでしょう。

 両極端のどちらか一方にとどまることを捨断するという中道に辿り着くことで、
 あなたはニルヴァーナにも輪廻にもとどまらず、
 空のように広がる世界で自由になるでしょう。

 これは衆生の存在性の、絶対的な絶対性、偽りのない真実、
 真の実在性、完全なる完全性です。


 顕現は、それ自身、善業と悪業とは無関係です。
 ――あなたが、存在していない何かの存在を信じる習慣的思考によって、架空の存在にとらわれたので、今、善と悪のカルマに支配されているのです。
 
 しかしあなたは、顕現のさまざまな現われを一つ一つ調べる必要はありません。
 ただわがままな傾向を持ったこの心を根絶すべきです。

 心は確かにそこにあります。
 しかし心には何もありません。

 心を捜しても、あなたは見つけられないでしょう。
 心を見ようとしても、あなたは見ることはできないでしょう。

 心には、色も形もありません。
 それは、実体あるもののように掴むことはできません。

 内側にも外側にもなく、
 生起することも消滅することもなく、

 部分でもなく、全体でもなく、
 明確な基礎でも、本質でもなく、

 思考の対象を越え、「これはそれである」と指摘されることのない、この心は、
 今まで観察されることはなかったし、
 今も観察されることはなく、
 これからも観察されることはないでしょう。

 よって、心で心を探さずに、
 ただあるがままにあってください。


 このようにして注意深く、智慧の修行をしていると、
 あなたの前に、あるものが現われます。

 それは、「ただ存在」というたった一つのきらめき。
 それは外側にもなければ、内側にもありません。

 探求されるものは、探求者自身であり
 それ自身は絶対に発見されることはなく、失望に至るでしょう。

 絶対に生起することはない純粋な真実は、
 心の本性であり、どこにも住せず、死滅することはなく、
 基盤や根元のない、想像できないほどの無始の過去から開かれた次元です。
 
 事物の多様性の出現の根拠としての、その継続的顕現、
 しかしそれは、「永遠に存在するもの」というわけでもありません。
 なぜならばそれは、実体も特性もないからです。

 それは「永遠に存在するもの」でないわけでもありません。
 なぜならば、心の本性は滅びることはないからです。

 それは言葉では言い表わせません。
 それらは永遠でもなければ非永遠でもなく、
 実在でもなければ非実在でもないからです。

 それは具体的なつかみどころがありません。
 なぜならば、「これはそれである」というようなことを設置できないものだからです。

 まさに始まりから純粋であった、その実在を知ってください。

 本質的であるその根本的な実在性は、二元性ではないので、
 善も悪も存在せず、受容も拒否もなく、期待も不安もなく、多様性も存在しないのです。

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