ヨダログ

囲碁棋士 依田紀基のブログ

事実と真実

2018-04-21 | 日記

現在、文春の記事に対する説明の手記を準備してます。記事の中にはやや事実と異なっていたり、

ニュアンスが違う所もあります。

僕は事実と真実は違うと考えてます。事実というのは起きた出来事であり万人にとって等しく同じものです。真実はその人の心の中にあり、価値観や考え方によって形成されると僕は考えてます。だから真実は人の数だけあると僕は考えるのです。

事実が違っていたら、僕がどのように考えて行動したのかという僕の真実と事実が説明出来ません。それを知っても僕の行動を非難する人はたくさんいると思います。でもそれは仕方のない事だと思います。

原幸子という人は特に仕事に対して能力もありますが、完璧主義者だと僕は思っています。以前はよく一緒に仕事していましたがそれは徹底していて本当に立派だったと思います。原から見ると僕はいい加減で身勝手に見えるのでしょう。

そして僕は仕事上で一生悔やんでも悔やみきれない事をしてしまいました。この事は本当に原にも子供にも申し訳ない事でした。原は仕事に対して本当に立派な人なんです。手記にはこの事も書きたいと思ってます。

この手記は文字数も膨大で事実確認などやらなくてはならないことも多いため、公表にはしばらく時間がかかると思います。


お金返して!について

2018-04-12 | 日記

今日発売の週刊文春に原幸子が僕を告発する記事「お金返して!」が載りました。前回の当ブログでは記事に対しては僕の手記で説明すると書きましたが、文字数が7000文字以上とかなりの量であるし、弁護士と相談した結果、とりあえずは記事の事実と違う所などを説明するという方向になると思います。

もしも、そのままどこも切り取らずに載せてくれるという出版社があれば将来手記を公開するかもしれません。

一つ言えることは、本来原は素晴らしい女性なんです。非常に聡明で頭の回転は速く、性格も明るく、子供には深い愛情を注ぎ、日本棋院の常務理事という要職を務めています。又、困窮していた女性を援助していたという話も伝え聞いてます。このような事は原に一度でも会った事がある人ならわかると思います。僕に対しても元々はこういう女性でした。だからこそ僕は20年前に原と結婚したのです。しかしながら、ある時期からの僕に対してだけは違う顔を見せるのです。これは僕に根本的原因があります。

4年前の事だったと思います。僕と原が囲碁講座の講師と聞き手を務めたことがあります。

僕が講座の材料を準備して行ったから早く進行しました。この時振り返って原を見ると、とても嬉しそうな顔をしていたのです。この時がおそらく僕といる時に僕が見た原の最後の笑顔だったと思います。この時の事を思い出すと、とても切なくなりますし、このような笑顔をもっと原が見せてくれていたら僕と原の現在も又、違っていたものになっていたかも知れないと思うと胸が締め付けられる思いになります。僕は世の中で一番建設的な物も、破壊的な物も人間の感情から生まれると思います。


まさかの文春砲

2018-04-03 | 日記

一昨日、文春の記者から取材を受けました。電話で聞いた時は僕の自伝「どん底名人」の取材かと思ったのですが会って話を聞いてみると、どん底名人に書かれていないことを聞きたいとのこと。僕も驚きましたね。まさかの文春砲です。

2点の疑問点について質問されました。しかし、これは軽々に言える話ではないと言ってその場で答えることは断りました。

「依田さんが何も言わないと依田さんにとって厳しい内容の記事になりますよ」と言われましたがともかく、記事を見てからでないと対応できないと答えました。

そして僕は記者に2つの事を必ず記事に書くように申し入れました。

それは僕はやましいことはしていないということ。

そして記事の内容については必ず説明する用意がある。この2点です。

記者からは「依田先生がそのような気持ちであることは十分伝わっています。ご安心ください」との返答をもらいました。

ただし、やましいことはしていなくとも結果的にまずい対応であったと認めざるを得ないことはあります。

仮に文春砲第二弾があって僕が説明をする時どうしたらよいのか?

僕が今考えていることは僕が自分で手記を書くということです。自分の考えを正確に伝えるには自分で書くしかない。

僕がインタビューに答えてそれを記者が記事にするというのは怖い。タイトルを取った時などの好意的なインタビューとはわけが違うからです。

言葉というのは思いが相手に正確に伝わるとは限りません。そのことをたくさん経験してきました。

それに、書き手の意思が入る可能性があるのも怖い。

僕が自分で書いた内容であっても批判する人はいるかもしれない。でもそれで批判されるなら仕方ないと僕は思う。

僕としては自分で書くしかないと思っているわけで、そのためなら方法はなんでもいいと思ってます。

仮に文春が手記はだめだと言うなら記事を見てから僕がこのブログに手記を書いてそれを文春が転載してもいいわけだし他にも色々な方法を考えてます。

また何か進展があれば当ブログに書くこともあろうかと思います。

 


阿木燿子さんとの誌上対談

2018-01-18 | 日記

昨日、日本棋院で日本を代表する作詞家の阿木燿子さんと誌上対談させていただきました。

サンデー毎日の「艶もたけなわ」という阿木さんが受け持っておられるコーナーです。2月中に掲載されるとのことです。

阿木さんについて、僕は昔から凄い人だと憧れを持っていたからとても光栄で幸運な機会をいただいたと思ってます。

阿木さんにお会いしてまるで天界から降臨した天女のような感じがしました。

美しいだけではなく、周りの人をフワーと包み込む陽だまりのような温かさと心地よさを対談の間中感じていました。

対談では僕が角川書店さんから出版させていただいた「どん底名人」を阿木さんがお読みになって、この本の内容を中心に対談が進められました。

阿木さんを前にして上がってしまって、しどろもどろになったり言葉がすぐに出てこなかったりしたことも多少ありましたがとても楽しい時間を過ごさせていただきました。話の内容は多岐にわたりました。

詳しい対談の内容はサンデー毎日誌上の「艶もたけなわ」を読んでいただきたいと思いますが、

ただ、今思えば少し心残りと思うこともありました。阿木さんが僕に囲碁の芸術性について尋ねられた時のことですが、

僕は「囲碁に最善手が存在する以上科学だと思っているけれども、ただ、人間にはそれがわからないことが多いので芸術的要素のある科学だと思います。」と答えたと記憶してます。ただ、これは客観的、一般論的なことを言ったに過ぎません。

僕がそもそも芸術というものをどのように定義してとらえているかと言えば、「芸術とは生命の表現」と思ってます。

芸術とは美術館とかだけにあるものではなく、受け取る側の人間が「芸術だ」と思ったら何でも芸術になり得ると考えてます。

逆に美術館に展示していても、見る人が芸術ではないと思ったら、その人にとっては芸術ではないと考えているわけです。

つまり、僕にとって芸術とは主観的なものであると言えます。ちなみに、僕がどういう碁が芸術的だと感じるかと言えば、躍動感があり変化のある碁ですね。

昔で言えば、本因坊道策先生、七世安井仙知、現代で言えば呉清源先生、藤沢秀行先生、坂田栄男先生などにそういう碁が多いと思います。最近ではAIかもしれませんが。

秀先生などは対局してる姿すら芸術的だと思います。

秀行先生が満足の行く一手を打った後、「えーえ」と言いながら背中を丸めて悦に入ってショートピースを吸っている姿なんかたまらない色気を感じますよ。

僕は棋士でありプレイヤーですから、自分の碁については一生懸命対局して、その結果出来上がった棋譜の評価については受け取る側の人に任せたいと思っているのです。少なくとも、「自分の碁は芸術だ」と言う自信は僕にはまるでない。

「僕は芸術をこのように考えているけれども、超一流のアーティストである阿木さんは芸術についてどのように定義し、考えておられますか?」とお聞きすれば良かったなあ、と後になって思ったわけです。

誌上対談での阿木さんの役どころはゲストの考えを引き出す事と心得ていましたから、僕が阿木さんに何かお聞きすることは出来るだけやめようと思っていましたがこの話の流れなら、お聞きしても良かったかなあ、と後になって思いました。

1時間ほどの間でしたが、超一流中の超一流の人が持つ空気を感じることが出来てとても幸せな時間でした。

 


花まる学習会高濱正伸先生との対談後半

2017-12-26 | 日記

 

高濱正伸先生との対談の後半お送りします。

僕は引き出しがとても多い高濱先生の話に引き込まれてとても楽しい時間を過ごしたのですが、その雰囲気が伝わるのではないかと思います。

『どん底名人』刊行記念破天荒対談 <後編> 「『どん底名人』は男の聖書だ!」