古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

大阪府太子町の「出雲王朝ゆかりの地」を尋ねて その1 推古陵、長科神社 2019年3月12日

2019年03月21日 14時46分04秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
今回は大阪府南河内郡太子町を尋ねました。
自宅の河内長野市の近くの町です。
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太子町の地図です。

その1で 推古陵、科長神社

その2で 用明陵、孝徳陵、敏達陵

その3で 上之宮太子(聖徳太子)墓所の叡福寺  以上を尋ねました。

     またその3で 太子の息子達の出雲での足跡も載せています。
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オホド大王(継体)から続く大王家の系図です。

今回は赤で囲んだ大王の陵を尋ねました。唯一上之宮法王だけが大王ではありませんが。
またこの時代 まだ天皇と言う言葉は無かったので 大王(おおきみ)という呼び名で統一しています。

系図は大元出版 斎木雲集著「飛鳥文化と宗教騒乱」によりました。
また斎木先生の了解済みです。

※オホド大王の足跡を尋ねた旅は このブログの2018年4月5日の越前桜旅に載せています。
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この系図を見て驚いた事があります。

持統女帝が指示して 不比等らが書いたとされる記紀の中で 初代大王の「天の村雲」の名前と存在が消されて 
神武なる架空の大王がでっち上げられました。

しかも その登場時代が 出雲王朝初期の紀元前6世紀ころまで 遡らせたのは 天の村雲が兄妹の結婚で
生まれたのを 持統が嫌い、それで 和国の歴史を捻じ曲げたと思い込んでいました。

紀元前3世紀末に石見五十猛海岸に上陸渡来した 秦国人徐福は出雲王家の第七代主王(役職名大名持ち)
天の冬衣の姫 高照姫を娶り和名を「火明り、ほあかり」と名乗り長男五十猛を設けます。

そして部下の穂日(今の出雲大社宮司の祖先)に命じて出雲王国の主王八千矛と副王(役職名事代主)
八重波津身を幽閉殺害し 自分が和国の王になろうとしますが 結果果たせず 一旦帰国しました。

そして秦の始皇帝に更なる資金と人間(海童と呼ばれる多数の青年男女)をもらい 二度目に佐賀の浮杯に上陸します。

徐福は和名を饒速日(にぎはやひ)と名乗り、宗像家(出雲王家の分家)の三姉妹の末娘の市杵島姫を娶り 
生まれた次男の穂穂出見(ほほでみ)が九州物部王家を起こします。

ついで生まれた穂屋姫と 長男の五十猛が結婚し生まれたのが天の村雲で 当時大和の葛城地方に移住していた
出雲王家の皇子たち 味鋤高彦(あじすきたかひこ)や奇日方(くしひかた)などの協力で 初代大和大王に就きます。

これを持統が嫌ったのだと 思い込んでいましたが この系図を見ると 母違いの兄妹で結婚するのは
ありふれていますね。この時代は そんなにタブーではなかったのですね。

ということは 持統や不比等が嫌ったのは 自分達の祖先が 渡来人で しかも出雲王家を倒した
「征服渡来王朝」だというのを隠したかったのですね。だから自分達の祖先は高天原から高千穂に
降りてきたなんて童話が必要だったのでしょう。

高天原から神々を送り出して手を振ったとされる神々の一人に 「高木千千姫」という徐福のオカンの名前が
書いてあるのは 笑えますね。
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太子町 その1
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推古陵
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全体の写真です。こんものとした小さな丘がお墓です。周りはすべて田圃です。
長い間に少しずつ削られて田圃になったのでしょう。もともとは巨大な古墳だったはずです。
理由は後で述べます。
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陵の正面です。
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宮内庁の説明看板です。ここには竹田皇子(推古、敏達の間の皇子)も埋葬されているそうです。
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木の鳥居の奥は雑木林になっていました。
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推古の時代にはまだ「天皇」という言葉はありませんでした。
近年宮内庁がこの石碑を建てたのでしょう。
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陵の裏側です。古墳が削られて畑になったのがよく分かります。
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推古女帝は 堅塩姫(石川の臣稲目の娘)と欽明大王の皇女として生まれ額田部の皇女と名付けられます。

欽明大王は オホド大王と手白香姫(オケ大王の皇女)との皇子なので 額田部皇女は 出雲王家の血とともに
途絶えた大雀(おおさざき)王朝の血を引いています。

石川の臣とは武内の臣大田根の子孫で 出雲王家の血を引いています。 

※(武内大田根は当初は九州物部王家のイクメ王に付き従い 武内の宿禰と名乗ります。宿禰とは 物部王家
の重鎮の称号です。

彼は 魏へも度々朝献に行き 魏書にも名前が載ります。イクメ王の第二次東征に参加しますが
 後にイクメ王に反旗を翻して磯城王朝側に付きますが 戦に破れ伯耆に逃れます。

しかし イクメ大王の放った刺客に追われて出雲へ行き 出雲王家に匿われ 出雲の姫を娶り 
以後は出雲王家の重鎮の称号 臣おみ を名乗る事を許されます。)

武内臣大田根の足跡は このブログの 神原神社遺跡 2015年11月13日
                  宇部神社   2017年10月12日 に載せています。  
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一方オホド大王と手白香姫の間に生まれたヒロニワ大王(欽明)は前大王の押楯(宣化)と橘中姫(渡来朝鮮人
卑矛ひぼこの子孫 息長家(おきながけ、息長帯姫「神功皇后」の実家)の姫)との間の石姫を皇后として迎えます。

そして生まれた太玉敷皇子を大兄(おおえ、大王家の跡取り)とし、後の敏達大王となります。

太玉敷皇子は11歳で大王に即位し敏達大君となり、15歳で息長家の息長真手王の娘広姫を皇后とします。
敏達の皇后となることを期待していた 異母姉弟の額田部皇女は 広姫を非常に憎んだといわれています。

広姫は息長彦人大兄王を生んだ後 謎の急死をされます。そしてその後敏達大王は額田部皇女を皇后とします。

この息長系(朝鮮系)の后と石川臣系(出雲系)の后の生んだそれぞれの皇子がその後 熾烈な大王の座をめぐる確執
を繰り広げます。
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また額田部皇后は 和国古来の満月の母の日の神事、小さな皿に御食(みけ)を入れて神前に捧げる神事を
率先して行ったので 御食炊屋(みけかしきや)姫皇后とも呼ばれました。

585年8月に敏達大王は突然病死されます。額田部皇后の落胆は非常に大きかったといわれます。
我が皇子の竹田皇子を大王にするには未だ若すぎたので、自分の兄の豊日大兄王をワンポイントの
大王として 自分が太后として権力を握ろうとします。

当時仏教が伝えられて 崇佛派の筆頭 石川臣麻古と神道派の太后とは仲が非常に悪かったのですが
叔父である石川臣麻古を訳語田(おさだ)宮に呼び

以後は仏教寺院の建設に反対しない事、自分が太后として実権を握る事、兄の豊日大兄を大王とすること、
石川臣の領地の一つ「近津飛鳥」を国費で購入し、石川臣の血を引く大王の陵を作ることを承諾させます。

この陵の中心に科長神社を建設したのです。この太子町の近つ飛鳥の地に多数の古墳があるのはそのためです。
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科長(しなが)神社
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この神社はわかりにくかった。地元の方に聞き回り ようやく分かった。
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ここを右へ曲がり坂道を登ります。
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やがて神社らしき建物が見えてきました。
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ようやくたどり着きました。
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広い境内です。
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正面に拝殿があります。
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拝殿の横から後に回れます。回り込むと鳥居と本殿があります。
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本殿は残念ながら「大社造り」ではありませんでした。
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でも千木は 物部様式の横削ぎではなくて 出雲式の縦削ぎです。
推古女帝はオホド大王の孫ですから 当然自分は出雲王家の血が入っているのを知っていたのでしょう。
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小野妹子の墓
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科長神社の横に長い石段がありました。
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登っていくと大きなお墓があります。
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なんと小野妹子のお墓だそうです。
小野妹子は国使として 大唐へ(当時は隋の国)渡ったことで有名です。

小野妹子は第六代大和朝廷大王(磯城王朝の大王)の国押人(くにおしひと)の末裔だという
うわさが流されているようです。(※某テレビタレントが小野妹子の子孫だと仰っているようですが)

天の村雲、沼川耳、玉手看、スキトモ、カエシネに続く国押人は西暦107年に後漢安帝に朝献したことが
支那の歴史書に書いてあります。

が その息子フトニ大王(後の贈り名は孝霊)は欲に駆られて自分達の本家の出雲王家を
攻め立てて(第一次出雲戦争)大和を離れます。

 その間に九州物部王家の第一次東征部隊が 大和の登美家加茂建津之身の誘導で大和入りします。

その結果フトニは 大和に帰れなくなり伯耆の国で 余生を過ごします。
ですから 国押人の系統も フトニで途絶えますが。

だから国押人の子孫と言うのは 非常に怪しいですね。

フトニが大王でなくなり ただの地方豪族として 愛人と余生を過ごした邸宅跡の「高杉神社」
訪問記は このブログの2016年11月22日に 載せています。
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太子町の出雲王朝ゆかりの地 その2 孝徳、用明、敏達の各陵へ続く
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