風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

晩秋の嵯峨野を行けば……化野念仏寺

2017年12月11日 | 「新エッセイ集2017」

 

あだし野の露消ゆる時なく

京都は、四方を山にかこまれた盆地だ。
夏は暑く、冬は寒い。そんな住みにくい土地に、昔から国の中心の都があり、大勢の人々が集まった。
戦さがあり、疫病がはやり、飢饉や天災があり、多くの人々が死んだ。死体は東と西の山の麓にうち捨てられ、吹き寄せられた枯葉のように、盆地の隅で朽ち果てていったという。

「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の烟たち去らでのみ住み果つる習ひならば、如何にものの哀れもなからん、世は定めなきこそいみじけれ」と『徒然草』にも述べられている。
京の東は、東山の東大路通りから鴨川までの一帯が鳥辺野、西は小倉山の麓のあたりが化野(あだしの)と呼ばれ、古来より風葬や土葬、あるいは火葬の地とされていた。
あだし野の露や、鳥部山の煙のように人の命は儚く、都では人が死なない日はなかったという。

嵯峨野の緩やかな坂道を登りつめると、そこに化野念仏寺がある。
法然上人がここに念仏道場を開いたことから、化野念仏寺と呼ばれるようになったらしい。
それより少し前の平安時代初期に、弘法大師(空海)が野ざらしにされた死体を哀れに思い、ここに寺を造って、里人に土葬という埋葬の仕方を教えたという。
境内には、平安時代から江戸時代までの、およそ8千体の石仏が集められている。どれも風化して、仏の顔を残すものはない。

化野の「あだし」とは、儚いとか空しいとかの意味があり、「化」は、生が化して死となり、この世に再び生まれかわる(死から生へ化す)ことを現しているという。
千年の時をかけて石に還り、あるいは石から還ろうとする、無数の石仏に囲まれて立っていると、死と生の境界が曖昧になり、千年の死も、千年の命も一瞬の儚さにみえてしまう。

兼好法師も書いている。
「命があるものの中で、人ほど長く生きるものはない。カゲロウは夕方には死に、セミは春も秋も知らないで死ぬ。充実した気持で一年を生きれば、それなりに長くも感じられるはずだ。ただ、もっと生きたい、まだ死にたくないと願うばかりでは、千年生きようと一瞬の夢のようなものである」(意訳)と。
あだし野は、命の長さが分からなくなるところだ。

 


晩秋の嵯峨野を行けば……滝口寺

2017年12月08日 | 「新エッセイ集2017」

 

滝口入道と横笛の恋

祇王寺のすぐそばに、滝口寺はある。
寺とはいえ、小倉山の山かげに隠れるような小さな山荘だ。開け放たれた二間つづきの座敷にあるのは、2体の小さな木像だけ。滝口入道こと斉藤時頼と横笛の像である。
現世において、ふたりがこのように肩を並べることはなかった。恋するゆえに、時頼は横笛を避けつづけなけなければならなかったのだ。

斎藤時頼は、平重盛に仕える武士で、清涼殿の滝口(東北の詰所)の警護に当たっていた。
「十三の年、本所へ参りたりけるが、建礼門院の雑仕(ぞうし)横笛といふをんなあり。滝口これを最愛す」(『平家物語』巻第十)。
時頼はん、せっせとラブレターを書きはったそうどすな。
刀しか手にしたことがない無骨な武士の文。それでも一途な思いは届いたとみえて、横笛の胸にも恋の炎が燃えうつる。

これを伝え聞いた時頼の父は、
「世にあらん者のむこ子になして、出仕なんどをも心やすうせさせんとすれば、世になき者を思ひそめて」、平家一門に入る身でありながら、なんの地位もない女など思いそめて、と激怒。
若い時頼はん、えろう悩みましたやろな。
恋を貫徹しようとすれば、父や主君の意に背くことになる。
「これ善知識なり」と時頼が選んだ道は、恋も名誉もすてて仏道に入ることだった。
時頼19歳。煩悩を払うため、嵯峨の往生院(滝口寺のあたり)に入り、仏道修行の身となる。時頼にとっても思わぬ転身だったのではないか。

武士の恋とはままならないものなのか。桜の歌人、西行のことが思い浮かぶ。
鳥羽院の北面の武士だった西行こと佐藤義清も、23歳で武門を捨て仏門に入った。その動機は、待賢門院璋子への恋着のゆえであったともいわれている。
だが、西行には歌があった。歌の中で、ひたすら桜花に恋情を追い求めることができた。

   花に染む心のいかで残りけむ捨てはててきと思ふ我身に(西行)

花に染む心、いかにも西行はん。そやのに時頼はんまで、そんなん。ああ、なんと、いけずなお方どすえ。
思う人が出家したという噂を耳にして、納得できないのは横笛。
「たづねて恨みむ」と「嵯峨の方へぞあくがれゆく」。だが、「ここに休らひ、かしこに佇み、尋ねかぬるぞ無残なり」。
ほんま痛ましいかぎりやわ。
そこに、住み荒らした、とある僧坊から念仏誦経の声がしてきた。
ああ、あれは恋しいお方の声に間違いおへん、と横笛。
表戸を叩き、「都から探して参りました。お姿を見せておくれやす」と供の女に乞わせたが。

時頼は胸騒ぎがして、襖の陰からそっと覗いてみると、横笛の姿。
さんざん探し回って疲れ果てたその様子に、時頼の気持も砕けそうになる。だが、すぐに人を出して、「是にさる人なし。門(かど)たがへであるらむ」と帰してしまう。
「横笛情けなう恨めしけれども、力なう涙をおさへて帰りけり」。
だが、真の自分の気持を伝えたかった横笛は、僧坊の近くの石に歌を残す。

   山深み思い入りぬる柴の戸のまことの道に我れを導け

自分の指を切り、その血で書いたものだという。

時頼にも、まだ未練は残っていた。
自分の住まいを知られた以上、いちどは心強く拒んでも、再び訪ねて来られたら、その時も断りきれるかどうか分からなかった。
彼はなお残る思いを断ち切るため、女人禁制の高野山の僧院に入ってしまう。
その後の横笛は、「その思ひの積りにや、奈良の法華寺にありけるが、いくほどもなくて、遂に儚くなりにけり」。
尼さんになって、まものう死んでしまいはった、て。哀れどすなあ。

 


晩秋の嵯峨野を行けば……祇王寺

2017年12月06日 | 「新エッセイ集2017」

 

諸行無常の響きあり

小倉山麓に小さな草庵がある。祇王寺である。
狭い仏間、仏壇には6体の木像が並んでいる。大日如来、清盛公、祇王、妓女、母刀自、それに仏御前。
『平家物語』の一シーンが浮かんでくる。
「入道相国、一天四海を、掌のうちに握り給ひしあひだ、世のそしりをも憚らず、人の嘲りをも省みず、不思議の事をのみし給へり」(『平家物語』巻第一)。
平家にあらずんば人にあらず、そのとき天下は平家全盛の時代。権勢の頂上に登りつめた平清盛は、人の嘲りも省みず、どんなことも思うがままだった。
そのかげで、生き方を翻弄され、悲惨を味わうことになる女たちがいた。

『平家物語』には、4人の白拍子が登場する。祇王・祇女の姉妹と仏御前、それに静御前。
白拍子とは、鳥羽上皇の時代に始められた特殊な装束をした舞いのことを指し、のちに白拍子舞いを演じる遊女のことを呼ぶようになったらしい。
当時、白拍子の名手として都じゅうに知られていた祇王は、清盛の寵愛を一身に受け、妹の妓女や母親ともども手厚い庇護のもとに、幸せな3年が過ぎる。

そこに現れたのが、仏御前という16歳の若い白拍子。
「遊び女は呼ばれてこそ参るもの」といって、最初は相手にしなかった清盛に、「不憫なれ。いかばかり恥づかしう片腹痛くもさぶらふらむ」、年端もいかない娘を門前払いとはかわいそうとて、祇王が熱心に引き合わせる。
だが、この祇王の優しさが、自身の運命を変えてしまうことになるのだった。
いつしか清盛の寵愛は仏御前に移ってしまい、祇王は住みなれた屋敷を出ることになる。
せめてもの形見にと「障子に泣く泣く、一首の歌をぞ書きつけける」。

   萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草いづれか秋にあはで果つべき

その後も、祇王は清盛に呼び出されるが、それは仏御前の寂しさを慰めるためだった。祇王はそのような屈辱に耐えられず、身を投げることも考えるが、老いた母親に止められてままならず、
「かくて都にあるならば、また憂き目をも見むずらん。今はただ都の外へ出でん」とて、21歳で剃髪。嵯峨の山里に念仏して篭ることになる。
妹の妓女19歳、母の刀自45歳で、ともに仏に仕える道に入った。

その後も、清盛の寵愛を受け続けていた仏御前であるが、彼女はずっと祇王のことで心を痛めていたのだった。
「いづれか秋にあはで果つべき」と書き残した祇王の歌に、ひとの無常を思わずにはいられない心優しい女性だったのだ。
「かくて春過ぎ夏たけぬ」ある日、祇王らのもとに、髪を剃って尼となった仏御前がとび込んでくる。
「いざもろともに願はん」と始まった、女4人の念仏に明け暮れる生活は、どんなものだったのだろう。

祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。
折りしも、どこからか鐘の音が、小倉山の山腹に響きわたる。
「驕れる者も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
 猛き人も遂には滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」
西国においては、伊予や豊後の豪族が挙兵を始める。東国においては、頼朝の反乱の声が起きる中で、ついに清盛は熱病に罹って倒れる。享年64歳。1181年のことだった。
それから4年後、壇ノ浦の戦いで平家は滅亡する。

 


晩秋の嵯峨野を行けば……渡月橋

2017年12月04日 | 「新エッセイ集2017」

 

十五夜の、くまなき月が渡るという

阪急嵐山駅で電車を降りて、渡月橋を渡る。この橋を見て、「くまなき月の渡るに似る」と言ったのは、天皇家から最初に禅宗のお坊さんになった亀山上皇(1249~1305)。それによって橋の名も渡月橋と名付けられたという。
ひとは夜空の月のように優雅には渡れないが、ときおり橋の上空を群がって舞う白鷺の羽が美しい。一瞬、逆光のなかで真珠色に輝き、花びらを散らすように浮き上がって見えた。あわててカメラを構えたが、再びシャッターチャンスは来なかった。あれは幻だったのだろうか。

橋を境にして、上流が大堰川、下流が桂川と呼ばれている。
大きなウグイやハヤの群れが、ふたつの川を行き来しているのが見える。魚にとっては、川はひとつの流れにすぎない。
この橋の途中で振り向くと馬鹿になる、という言い伝えがあったという。
ぼくはいくども振り返った。静かに燃え立っている嵐山の紅葉を見るためだった。
美しいものを見るためには、しっかり馬鹿にならなくてはならないのかもしれない。
大堰川の堰の上流では、平安貴族さながらに舟遊びを楽しむボートが、木の葉を散らしたように無数に浮かんでいる。

かつて都鳥と呼ばれたユリカモメの群れが、首を左右に振りながら橋の下を滑空してゆく。橋の上はひとの群れ。嵯峨野へと途切れずに流れている。
その嵯峨野は、竹林の中の薄暗い道を抜けてゆく。ときおり観光客を乗せた人力車が通る。
道は上り坂になり、小倉山の懐に入る。
まず、山の斜面にあるのが常寂光寺。

   小倉山しぐるるころの朝な朝な 昨日はうすき四方のもみぢ葉

と詠った、百人一首の選者・藤原定家(1162~1241)の山荘時雨亭があったとされている。
そのもみじ葉が、いまは真っ赤に燃えている。
1596年、この地に開山したのは日槙(にっしん)上人というお坊さん。
時の権力者だった秀吉におもねることもなく、不受不施の宗制を守ったという高潔の僧。大堰川の堰堤工事もすすんで支援した。

   苔衣きて住みそめし小倉山 松にぞ老いの身を知られける

僧は歌人としても著名だったようだ。
なお、常寂光寺という寺の名は、仏教でいう永遠の浄土である常寂光土からとられたという。この日も小倉山にふりそそぐ陽の光は、やわらかくて優しかった。