風の記憶

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蕪村の春

2017年04月02日 | 「新エッセイ集2017」

春、大阪の川べりでは、堤や河川敷などが野生の菜の花で黄色く染まる。
日に日に高くなってゆく太陽の光を照り返して、風景がきゅうに輝きはじめる。

   なの花や 月は東に 日は西に

よく知られた与謝蕪村の句。見はるかす広大な菜の花の原が眼前に浮かんでくるようだ。

蕪村は1716年に摂津国(いまの大阪府北西部と兵庫県南東部あたり)の毛馬村というところで生まれた。「さみだれや大河を前に家二軒」の淀川のそばである。いまも毛馬という地名はあり、淀川の支流の大川には毛馬橋という橋も架かっている。
蕪村が生まれるすこし前、大坂は天下の台所といわれて繁栄を極めていた。商家では夜遅くまで帳簿付けをするために、灯火に使う菜種油が大量に消費された。そのため菜種の栽培も盛んで、菜の花畑の広大な風景は、蕪村の幼少の記憶の風景として焼き付けられていたのだろう。

蕪村は20歳の頃、江戸へ出て俳諧を学び、27歳頃から10年間、関東から東北地方を遍歴する。「つらつら来しかたをおもふに、野総(やそう)、奥羽の辺鄙(へんぴ)にありては途(みち)に煩ひ、ある時は飢えもし寒暑になやみ、うき旅の数々、命からき目みしもあまた旅なりしが」(『夜半翁終焉記』)。すなわち蕪村の修行時代と言われたりする。
42歳頃になって関西に戻り、京都に落ち着き所帯をもつ。「桃源の路次の細さよ冬ごもり」の、京の路地裏での生活が始まる。

若き日に大坂を出たあとの蕪村は、再び郷里毛馬の地を踏むことはなかったらしい。だが萩原朔太郎が「郷愁の詩人」と呼んだように、彼の句の中には、しばしば郷里の風景がでてくる。

    愁ひつつ 岡にのぼれば 花いばら
    花いばら 故郷の道に 似たる哉
    春風や 堤長うして 家遠し (『春風馬堤曲』)

62歳の蕪村が、記憶の中の淀川の堤を歩いている。
「余、幼童之時、春色清和の日には、必ず友どちと此堤上にのぼりて遊び候」と、蕪村は門人に宛てた手紙で故郷のことを語っている。
朔太郎が「子守唄の哀切な思慕」と指摘した蕪村のポエジーは、終生、郷里毛馬の堤をさ迷っていたようだ。
「蕪村は毛馬に始まり毛馬に結んでいる人なのである。」(『松岡正剛の千夜千冊』)。

ところで、蕪村の句の6割は、60歳を過ぎてから作られたものだという。しかも、晩年になるほどみずみずしさを増している。

    妹(いも)が垣根 三味線草の 花咲(さき)ぬ

64歳の蕪村が恋をしたのだ。ナズナの可憐で白い花の向こうには、祇園の芸妓・小糸がいた。けれども、貧乏俳人の熱い想いを遊里に届けるのは容易ではない。ただ、垣根の外を通り過ぎるばかり。

    逃尻(にげじり)の 光りけふとき 蛍哉
    老いが恋 わすれんとすれば 時雨かな

どうすることもできない蕪村の恋しぐれだった。ついには、

    しら梅に 明(あく)る夜ばかりと なりにけり

1783年の12月、蕪村は68歳の生涯を閉じる。
最期に枯野の夢を詠んだ芭蕉と、夜明けの白梅を詠んだ蕪村。瞑想的な芭蕉と感覚的な蕪村と、朔太郎がふたりを対比して評したように、その最後の句も対照的だった。
蕪村は、白梅のように、白々と明けてゆく春の朝を夢想しながら旅立ったのである。
近代における「若いポエジー」と朔太郎が呼んだイメージの詩人・蕪村の春は、しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり……、ゆっくりと白くフェードアウトしてゆくのだった。

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