風の記憶

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反骨の神さまがいた

2017年01月10日 | 「新エッセイ集2017」

正月は、ふだんは疎遠な神さまが身近かに感じられたりする。
お神酒やお鏡や初詣などと、神事にかかわることが多いせいだろう。
最近では、初詣も近くの神社で済ませてしまうが、かつては山越えをして奈良まで遠出したものだった。
大阪平野と奈良盆地を分けるように、南北に山塊が連なっているが、その中のひとつに葛城山という山があり、この山の奈良県側の麓に、地元では「いちごんさん」と呼ばれている神社がある。かつてよく通った一言主神社である。
境内には樹齢1200年の大銀杏があり、この神社をイメージしながら詩を書いたこともある。

    かなりむかし
    子どもの頃には神さまがたくさんいた
    古い石段を登ってゆくと空から
    神さまが降りてくる
    樹齢千年の銀杏の樹のてっぺんに
    神さまはいらっしゃるのだ
    と大きな木が言った

この神さまは、司馬遼太郎の『街道をゆく』にも登場する。その中で、この神は葛城山の土着神であり、ひょっとすると、葛城国家の王であったものが神に化(な)ったものかもしれない、と書かれている。
また『古事記』や『日本書紀』には次のように記述されている。
雄略天皇が葛城山で狩をしていると、自分と同じ顔をした、装束までそっくりな「長人」(のっぽな人)が現れた。天皇が「この倭(やまと)では自分以外に主はない。主のまねをするとはなにごとだ」と問い詰めると、「自分は神である。悪いことも一言、良いことも一言で言い放つ神、葛城の一言主の神である」と答えたので、天皇は「現人(あらひと)の神さまとは知りませんでした」と詫びてひれ伏したという。
また別の記録によると、そのとき葛城の神と天皇は大げんかになり、一言主の神は土佐へ流されてしまったとある。そして300年後の764年にようやく許されて、再び現在の場所に戻ってきたことになっている。
このような話の背景には、当時広がりつつあった崇仏思想との軋轢も感じられる。「異国の神はきらきらし」と表現されたように、すぐ近くの斑鳩の地には法隆寺のきらびやかな堂塔伽藍が聳え立ち、あたりに威容を誇っていたにちがいない。
そんな状況にあって、蕃神に屈服することなどできるかと、葛城の神は「今の世に至りて解脱せず」(『日本霊異記』)と、ひとり反骨を貫いたのだった。

元旦の早朝、ぼくと家族は葛城山の懐を貫通する長いトンネルを抜けて、葛城の神様をお参りするのが恒例になっていた。
この鄙びた神社を詣でるのは殆どが地元の人たちで、元旦の朝といえども閑散として、かえって荘厳さが保たれているところが好きなのだった。
神社の境内は山腹にあるので、飛鳥の山々の上からのぼってくる太陽を正面に望むことができた。山の稜線が浮き上がるように、次第に褐色に縁取られてくる。突如はじけ散った太陽の光に射抜かれて、寒さに固くなっていた体が荘厳な神の世界に包まれる。
ときには社殿の回廊から、「今年は晴れていてよかったですなあ」などと、現代の葛城の神さまの声も聞こえてくるのだった。

一陽来復と大書された神社のお守りには、南天の実が入っている。
南天と難転摩滅を掛けているのだろう。このお守りは節分の日の真夜中に、その年の恵方に面した壁に貼り付けることになっている。こうして1年の厄を払う。
「悪いことも一言、良いことも一言」
と言い放つ葛城の神さまに、ことしのお前の願いごとは何か、一言で言えと問われたら迷いそうだ。欲の世の中に生きている人間にとって、一つだけの願い事というのは案外むつかしいことでもある。



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