風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

言葉は生きているか

2019年06月07日 | 「新エッセイ集2019」
ブログに文章を載せるようになって、ずいぶん長い年月が経った。
最初の頃はなぜか、ですます調の丁寧な言葉で書いている。たぶん、不特定多数の人に読んでもらうことを意識していたんだと思う。
だが、さして訪問者もいないことに気づいてから、いつのまにか言葉遣いも日記調になってしまった。
ぼくのブログは自分自身を納得させるために、日常のもやもやとしたものを言葉にして、反省したり奮起したりしているようなものだから、やはり日記の範疇でじたばたしてしまうのだろう。
独りよがりに近いものであれば、書いたことに責任はとれないし、書いたことは書きっぱなしになってしまうこともある。

だが自分で書いたことなので、まったく無視することはできない。自分が発した言葉には、そのときどきの心の澱のようなものが残っていて、過去に自分が発した言葉に、のちの自分が縛られてしまうこともある。
過去に書いたものを整理して、文集としてまとめたときに、そのようなことを痛感した。
また、ある一定の期間をおいてみると、過去に書いた自分と、いま読み返している自分とは同じではないこともあった。
書いた時の呼気や情感のようなものが、いまの自分には素直に伝わってこない時がある。そんな時は、元の文章をできるだけいじらないように心がけた。それを書いたときには持ち合わせていたものを、いまは無くしてしまっている、ということもありえるからだ。

それでもなお書き直したくなって、まったく別の文章になってしまったものもある。それはそれで、前に書いたものはそのまま残し、新しくできたものは新しいものとして受容することにした。
過去と現在の、ふたりの自分が書いたふたつの文章を前にして、ぼくはふたりのままで、ふたたび時がたつのを待つよりほかないのだった。そうすることはまた、変容する自分を発見する楽しみともなった。

自分で書いたものでありながら、自分でどうすることもできないときもある。いや、自分で書いたものだから、自分の自由にならないのかもしれない。そのときどきの言葉がもつ呼気や情感というものを、振り返ってそのまま受け入れる難しさもあるだろう。
完全に自分の手をはなれ、自分が書いたものを冷静に読めるときがあるとしたら、その時は僅かながらも自分の中で変わらないものがあり、同感できるものが残っていたからだと思いたい。
それまでは、せめて自分の中だけででも、自分が発した言葉は生きつづけていてほしい。


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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2019-06-07 12:54:34
私はあなたの言葉が好きです
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Unknown (yo88yo)
2019-06-07 21:09:50
どなたか存じませんが、ありがとうございます。
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