風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

空気は見えないけれど

2018年11月07日 | 「新エッセイ集2018」

 

それは、宇宙から届いた巨大な隕石のようにもみえた。
広大なカザフスタンの朝の雪原に、黒く焦げた宇宙船の帰還カプセル。そんな写真を夕刊で見たことがあった。
運びだされた宇宙飛行士の言葉は、
「息ができる空気が周りにたくさんあるのは素晴らしい」だった。

そうか、息ができる空気。
この地球上にはいっぱいあったんだ。あらためて思った。
空気は見えない。目に見えないものは、普段はあるのかどうかもわからない。考えたこともないが、あるとおもえばあるし、存在を知ればとてもだいじなものだったと、いまさらに認識する。

「だいじなものは目には見えない」。
小なまいきなキツネが、星の王子さまに語った言葉だっただろうか。
王子がいくつもの星をめぐってたどり着いた、7番目の星。それが地球だった。
この星には、目には見えないだいじなものがいっぱいあったのだ。

その中でもっとも見えないものは、ひとの心だともいわれる。いや、もっとも見えないものだから見たくなるともいえる。
その見えないものを見ようとして、見えないものを見えるようにしようとして、ひとは言葉を尽くしてきた。
自分の心は見えているようで、見えないところもいっぱいある。それでいて、ひとの心は見えないようでいて、見えるところもいっぱいあるように思えてしまう。
ひとの心を見つけるために、言葉を探しつづける。ぼくの楽しい妄想だ。

妄想は宇宙のようにとりとめがない。夜空の星が時として、伝えたい言葉を発しているように見えるときがある。そんな時ひとは、星に願いを託すのかもしれない。
星の実態を見ることはできないけれど、少なくとも光の存在として目にすることはできる。昼間の星は見えないけれど、星は星という言葉で存在する。
この青い星には見えないものがあまりにも多すぎるから、ひとは言葉を星の数ほども作り出さなければならなかったのだろう。

空気は見えないけれど、地球上のこの世に生きているかぎり、息ができる空気はいっぱいある。
だが、そのことを本当に知るのは、命のさいごの時なのかもしれない。
    「手をのべてあなたとあなたに触れたきに
              息が足りないこの世の息が」
2010年の8月、享年64歳で亡くなった歌人・河野裕子の絶唱。
見えない空気を、そして見えない息を、言葉で追いつづけた詩人の、さいごの言葉が輝いてみえる。

 

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