季節がすこしずれて、いま冬の中に秋の色があった。
冬枯れの枝にのこる、サンシュユの赤い実の塊が、とくにそこだけに目を引き付けられた。冷たくあざやかに実っている。秋を越して冬をがんばっている。精いっぱい耐えている赤い色かもしれない。
その赤い実を見つけたとき、ぼくは突然ゆうべ見た夢を思い出した。
道に迷ったまま目覚めた昨夜の夢を、ぼくはまだ引きずっていた。
夢の中だけで出会う風景と道がある。見覚えはあるのに、どこへ通じているのかがわからない。しばしば夢の中に現れてくるのだが、そのたびに、ぼくは迷ってしまう。家に帰りたいのだが、方向がわからない。とにかく急いでいる。
昨夜はその夢にすこしだけ変化があった。道標が出てきたのだ。だが記されていたのは、知らない地名や建物の名前だった。いつものように、道の途中で目が覚めてしまった。
夢のメカニズムについては知らない。
だが同じような夢をよくみるということには、日常の現実となんらかの関連があるかもしれない。
夢にも時間や位置というものがあるとしたら、それは現在なのか過去なのか、それとも未来なのだろうか。
夢の中で迷ったままで居るのは、ぼくの中の誰なのか。夢の中の出来事は、いつも夢の中に残されたままだ。
夢はしばしば過去をたどることはある。赤い木の実は夢の中では出てこないが、子どもの頃の記憶の風景としてはある。
木の実の名前は知らなかったが、味の記憶ははっきりと思い出せる。たいがい苦くて酸っぱくて、ときには渋く、すこしだけ甘かった。
そのような野生の甘さに辿りつくには、苦さや酸っぱさよりもはるかな、味覚の距離があったと思う。
ほんのかすかな甘さを求めて、赤い実を食べたのだろう。
甘さへの距離を探りながら、鳥や獣に近づくこと。そして、ときにはわざと道に迷うことは遊びだった。
実が熟する季節と、そこへ辿りつく野道を知っていることは、子ども達の知恵だったのだ。
木は動かない。季節が動いてくる。いま知っている確かなことは、そのことだけだ。
やがて春が来れば、サンシュユの木には黄色い花が咲くだろう。
いつも、みずみずしい文章、素敵ですね。
雑駁なことしか書けないのが、
恥ずかしくなります。
ま、それは置いておいて、
私も、古いころの夢を何度も見ました。
母と姉と必ず実家にいるのです。
それから、闊達に歩いている夢ーー
歩ける、私、歩ける、って、メキシコへ行っていたり。それこそ望みを夢見ていたのです。
いつもコメント、ありがとうございます。
希望のことを夢ともいいますね。
望んでいることが夢に出てきたら最高です。
いくども引っ越しをしたので、
夢の中にもいろんな家が出てきます。
でも、いちばんよく出てくる家は、
子どものころ住んでいた古い家だったりします。