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『禅とハードル』

2013-07-01 | 仏教

『 禅とハードル 』

               南 直哉 ・ 為末 大

                

   信じることについてちょっとだけ触れてみましょう。カルも普段あまり意識はしていなかったですね。まだまだ良い結果を期待して信じることのほうが多いですから。ここでは、「信じること」について深く語ってくださっています。この2人だからこんな対話ができるのかもしれませんね。

 

  :信じていないけれど、「信じようとする自分」でしかありようがない。「信じようとする意志」だけが自分を支えていて、
その上で「信じる」というところに向っていかなければならないと思うんですよ。「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という、親鸞の「悪人正機説」ってあるでしょ。
あれもそうですね。例えば神を信じると言ったときにですね、ものすごく真面目に考える人は、「神を信じる」ということをどう考えるか、
どういう状態で信じているのかってことを考えると思うんです。例えば、もし一生懸命お祈りしていれば神様は聞いてくれるっていうのが「信じる」ということだとしたら、
これは基本的には取引なんです。そうでしょう?つまり自分の力で神様を動かそうってわけですから。「これだけやったんだから、お願いしますね神様」っていうのは取引じゃないですか。
取引だからそれは信じるということとは違う。
信じるというのは、何が起こるかわからない、どんなものだかわからない相手をそれでも「信じる」ということです。

自分にはまったくわからない神のような絶対者、もしくは「死」のようなものかもしれない。とにかく、わけがわからない予測のつかないものを信じるということです。
そんな、わけのわからないものを信じるというのは普通は難しいことです。しかしわけのわかるものを信じるというのは取引にすぎない。そうすると「わけのわからないものを信じる」
ってことを実行しない限りはそもそも「信じる」ことにならないわけですよ。わけのわかるものだったら信じなくてもわかればいいんですから。

信じることを発動させるためには、わけのわからないものに対して身を投げなきゃいけないんです。信じる相手はわからない存在だから、
相手に向かって何かを問うわけにもいかないわけだし、そうするとできることは、自分がどういう状態であることを「信じている」状態であると定義するか、それを考えるしかないんです。


私はね、取引以外のものを信じるとしたならば、ある意味「自虐」以外にはないと思うんです。つまり自分がいかにダメな存在で、罪深い存在でってことを徹底的に自覚することで
絶対者が絶対的である意味を確保するしかないんです。しかし「罪深い自分だけれども、それでも救われるだろう」と思ってはダメなんです。「救われるだろう」と思ったら取引に応じる
ことになりますからね。

為末: 救われないという絶望からしか「信じている」状態は生まれない・・・・・・?

    (この続きは書籍でね)

                 

      ひとつの捉え方ですが、取引以外のものを受け入れるというところに、「生きる」ことにつながるような気がしますね。

         

        

         最後まで読んでくださって ありがとう 

                              つながっているすべての人に ありがとう 

 

 



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