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『鈴木大拙の言葉』

2010-08-28 | 仏教
鈴木大拙の言葉の画像 『 鈴木大拙の言葉 』

                         大熊 玄 著 

 

   この本は、もともと大熊氏が鈴木大拙(禅)の思想を中学生に分かりやすく伝えるために書かれたようです。たしかに、大熊氏の解説によってわかりやすく  読みやすくなっています。禅の入門書?

   

 
やがて死ぬ けしきはみえず 蝉の声

 

芭蕉の有名な俳句「やがて死ぬけしきはみえず 蝉の声」を見てみましょう。この句は、ふつうは次のように解釈されます。

人生は無常であるのに、それを悟らぬ人々が種々様々の享楽に耽っていることは、あたかも、夏の日に蝉がいつまでも生きつづけてゆくかのように声をかぎりにやかましく啼き立てているようなものだ・・・・。芭蕉はここに具体的な判りやすい例をもって、道徳的な精神的な訓戒を与えている。

つまり、蝉というのは、土から出て啼きだすと、ひと夏も生きることができないほど短い命で「やがて死ぬ」。蝉は、自分がそうした儚(はかな)いものであるとも知らずに、ただうるさく啼いている。やかましく騒ぎまわるやっかい者のようです。さらにいえば、人間の命も、蝉よりは長いとはいえ、やがて失われてしまいます。だから、私達人間も、常に生き続ける者では無いということ(無常)を知って、一時の快楽に身をまかせてはいけない。そうした教訓めいた句になっている、というわけです。
ところが、実は大拙の解釈はこれとは全く違います。大拙によれば、右の解釈は、芭蕉の一番大切なところを台無しにしているというのです。次に大拙の解説を見てみましょう。

 

蝉というものは、まあ、ジュージューと啼きたてて、ずいぶん神経をいらだてるもんだが、面白いといえば面白い。ジュージューと何も惜しまず、あとに残さない力を半分出すなんてことはない。小さな蝉の全部がジューになって出るですな。それを芭蕉が聞いた。聞くと芭蕉は理屈をいう。蝉はやがて死ぬのだが、今日死のうが、そういうことには蝉は頓着しない。持っておる全部を吐き出して、ジューとやるところに、いわれぬ妙がある。それを芭蕉が見たに相違ないのです。

 

蝉は、「やがて死ぬ」などという先のことに気をとらわれないで、ただ今ここで自分が持っている全てを出し切っている。今に精一杯生きて、小さいながらも自分の存在を宣言する蝉、芭蕉はそこに着目した。これが大拙の解釈です。同じ俳句のはずが、「解釈」によってだいぶ印象が変わってきます。この解釈は、一章一節「大拙の若い頃」で紹介した「小さいは小さいながらに、大は大ながらに、その持っているすべてを表現すればよいのだ、これがシンセリティ〔sincerity誠実〕だ」という言葉とつながっています。

 

われを忘れる

 

集中しない、一つのことに心を止めないということは、手足という身体の部位に限りません。身近な例で、野球のバッターを想像してみましょう。今まさにピッチャーがボールを投げようとしているのに、バッターがさっきの打席で三振したことばかり気にしていれば、打てる球も打てなくなります。この場合、心が止まっている所は、手でも足でもなく、「さっきの三振」です。また、テストの真っ最中に、この前の点数が悪かったことを思い出すという場合も同じです。あるいは、人前で話をすると必ずあがってしまうという人がいます。もしかしたら、その人は、無意識のうちに「この前、失敗して笑われた」とか「自分はあがる性格なんだ」あるいは「もっと自分を良く見せたい」という一つの思いに心が止まっているのかもしれません。


実は、私達の心を一つの所に止めてしまう、最大の関所が自分なのです。人には必ず「自分をもっと認めてほしい」、「自分を大事にしてほしい」という思いがあります。この思いがあること自体は、とても自然なことで、正常なことです。でも、この自分にこだわりすぎると、やはり何事もうまくいかなくなります。時には、あえて自分を投げ出すことで自分を生かすことが可能となります。
私達は、人前で話すにせよ、野球をするにせよ、程度の差はありますが、やはり対立の世界に生きています。では、その対立の中で、いかに自らを生かせばよいのか。生きるか死ぬかの剣の立ち合いという極限の「対立の世界」を参考にしてみましょう。

 

剣を把(と)って立ち合うというのは命のやりとりになるのだから、一刻も自分を忘れなどしたら、命丸出しになる話でなければならぬ。危険千万な心がけである。ところが実際の上では、自分のことを考えていると、そこにそれだけの隙(すき)が出てくる。ちょっとの隙でも隙が出れば、そこに相手の剣を招くことになる。それで命を落とせば事実は自殺したのである。剣刃上の試合は電光石火で、「私」を容れる余裕がない。ところが、命の取り合いという際(きわ)どい間際に自分をどうして忘れうるか。ここに人間心理の極微が窺(うかが)われるのである。事実「捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というのである。ここを悟るのが剣の極意である。剣の妙である。人間万事の上について、ことごとくこういえるのである。

 

自分を大切に思うことは正しいことです。むしろ、自分を大切に思えない人の方が危ういといえます。でも、その今大切にしている「自分」は、生きた全体としての自分なのでしょうか。「全体が見えなくなる」(五章四節)や「『集中』しない」(六章三節)で見たように、部分的に限られた自分の一部を大事にしすぎて、その結果逆に自分を損なうようであれば、結局は自分を大切にしていないことになります。本当の意味で自分を大切にするためにあえて「自分」へのこだわりを捨てること、さらにいえば、自分と相手(主と客)の境目を無くすこと、これが「無心の心」です。

 

 

 今朝、キアゲハがさなぎから無事 誕生しました。しばらく 生まれたところ(鉢植え)のまわりを飛んで 旅立っていきましたよ(写真とれなかったです)。もう ここに戻ってくることは ないでしょう。元気でね!!

            

            

             

       

       最後まで読んでくださって ありがとう 

                               つながっているすべての人に ありがとう 

 

                            



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