芽育塾ブログ

宇治市五ヶ庄一里塚にある学習塾。小さな個人塾の今日をつづります。

トンネルの出口が目視できるところまで来ている

2017年01月25日 09時50分55秒 | 学習
 夕方、中3の生徒が塾に来た。家で解いた赤本の質問をしてくる。私立高校の問題なのでマニアックな設問もある。確実に覚える必要がある箇所ではないことを伝える。中には基本用語も出題されており、どういうものであるか説明をして、これは覚えるように言う。
 この生徒は4時に塾に来た。机の上にラップに包まれた菓子パンが置かれている。食事として持ってきたのだろう。
「食べていいですか?」
「ええよ。何時まで勉強していく?」
「5時20分ぐらいには塾を出ます。一回帰って、それからお別れ会に行ってきます。」

 ぼくが手書きで作った数学の文字式の問題は解けないものが多かったが、赤本の問題は4問中3問を正解できたと言っていた。着実にレベルアップしていると感じる。今、合格のボーダーライン上にいる。あと20点ほど得点を伸ばしたい。入試まで約2週間だ。彼は前だけを見て走っている。こういう生徒はあと2週間でぐんぐん伸びる。


 今日、別の生徒には厳しいことを言わないといけない。今までやんわりと言ってきたが変化が見られない。オブラートに包まずに言わないと伝わらないのかもしれない。ショックを受けるかもしれない。しかし、それで変わってくれればいい。今のままではまずい。変わらなくてはまずいのだ。絶対に合格させたい生徒なんだ。

あと17日

2017年01月24日 11時20分02秒 | 学習
 東宇治の中1と英語の過去形の授業をした。前回に規則動詞の過去形をしている。今回は不規則動詞の過去形だ。文法は変わらない。不規則動詞を使うところが違うだけだ。要点である文法は既に学んでいるので、今回、身につけてほしいのは、不規則動詞の過去形を覚えることやな。宿題として20単語ほど覚えるように指示をしておいた。次回テストをする。
 黄檗中の中1は未来を表す文法に入った。まずはbe going toだ。難しいことは何もない。文法は簡単だ。英作文をさせて英語の力をつける勉強をしていく。be going toの文法は易しくても、visitのあとにinを付けてしまったり、「夕食に」を「dinner」としたり(正解は「for dinner」)、細かいけれど大事なところでミスがある。文法を教えるたびに英作文はさせている。2年後、京都府の公立高校入試程度の問題では満点をとらせたい。

 中3は英語でとれるところを確実にとって得点を伸ばす。確実にとれるところは、語形変化。それとリスニングだ。英語が得意でない生徒にとって、長文を読み、内容を理解して、設問に回答するのはハードルが多すぎる。そして1つひとつのハードルが高すぎる。すべてのハードルを越えて初めてようやく正解に至ることができる。1つもつまづかないためには、中学3年間で習った単語と熟語をほぼ完璧に覚えていること、文の内容を理解する読解力、答えるための思考力や文法の知識、―――それも、主語になれる品詞は何か、前置詞があるから次はどんな品詞が来るか、というような学校では教えてくれないような細かい知識―――が必要だ。
 そこで、全文を理解しなくても、単問で答えが出せる、比較的解答しやすい語形変化を特訓している。リスニングも同様だ。京都府の公立入試のリスニングであれば全問が単体の問題ととらえることができる。これも比較的得点がしやすい。ほかの都道府県にはびっくりするくらい難しいリスニングもあるが、京都はそうではない。ラッキーだ。

 中3の定期テストが返却されつつある。黄檗中に通う私立専願の生徒は入試に向けて頑張っている。学校のテストでも過去最高の得点をたたき出した。いい感じだ。入試まであと17日。この日数を生徒の中でいちばん意識しているのではないだろうか。その彼は今日は塾へは来ない。チームメイトの葬儀に行くとのことだ。ご冥福をお祈り申し上げます。

無題

2017年01月23日 10時22分56秒 | 日記
 人が亡くなったと聞くと遣りきれない気持ちになる。

 それは、亡くなった方は、まだまだこれからやりたいことがあったのではないかと思うから。亡くなられた方のとても近しい人はその方との未来を思い描いていたと思うから。
 亡くなられた方が感じたかもしれない驚き、恐怖、痛み、不安などを想像するから。亡くなられた方を心の底から大切に思われている人の、喪失感や深い悲しみ、絶望感や孤独感などを想像するから。

 大切な存在が亡くなることは、残された人に大きな試練を与える。
 
 「悲しみを乗り越えて、前向きに生きてほしい。」
 残された人に対して言われる言葉だ。ぼくもそう思うけど、何か違うような気もする。悲しみを「乗り越え」て、「前向き」に生きる。ポジティブが称賛される現代ではこうでなければならないように思われているのではないだろうか。
 悲しみは乗り越えたければ乗り越えればいいだろう。しかし、悲しみを引きずりたければ引きずればいい。悲しみから目をそらしたければそらせばいい。

 前向きとはどちら向きなのか。体の正面が前で、顔が向いている方向がその人の「前」であるとすれば、亡き人との過去を振り返っているまさにそのときであっても、その人にとっては前を向いていることにはならないだろうか。どちらを向いても本人にとっては前なのではないだろうか。
 いや、分かってる、みんなと同じ方向を向いてほしいという意味の「前向き」だということは、そんなことは分かっている。その言葉の意味と、それを言う人が持つ思い遣りの感情は理解できてる。しかし、その言葉は強引であると思うのだ。深い深い悲しみの底に、希望の光が差し込まない真っ暗闇の中に、寒さと孤独に身を震わせながら、うずくまり、涙を流すその人に対して、みんなと同じ方向を向いてほしいという言葉は暴力的だとも思えるのだ。

 過去を振り返りたければしたいだけ振り返ればいいと思う。前になど進みたくはないと思えば進まなくていいと思う。

 もし、自分が、亡くなられた方の最も近くにいる人ではない場合、自分よりも亡くなられた方を愛し、自分よりも大きな悲しみに暮れている人がいらっしゃる場合には、その人を支えてあげること、励ましてあげること、悲しみを分かち合うこと、またはそれ以外のことでその人の力になりたいと思う。そして、その人が選択したことを認めたいと思う。前に進むことを選んだはらばその強さを、その場にとどまることを選んだのならばその弱さを認めたい。あなたはそれでいいと言ってあげたい。あなたの選択を尊重したいと伝えたい。

 生きることが善くて、そうでないことは悪くて、強いことが称賛されることで、弱いことが蔑まれることではないと思う。絶対的な善悪は存在しない。善悪は人の判断であり(判断にすぎず)、個人や国、時代や状況によって変わるものだから。
 例えば、挨拶をすることは良いことで、挨拶をしないことは良くないことだと一般には考えられている。ぼくもそれに異論はない。挨拶は相手に対する敬愛の念を伝え、相手を思い遣りで優しく包むためにかける言葉だ。それができれば素晴らしいことだと思う。しかし、挨拶は想いを伝える手段であり、目的ではない。
 悲しみのどん底にいる人に対して、挨拶をすることが良いことか。その人の気持ちを思うとかける言葉が見つからない。声をかけないことが、表現しうるいちばんの優しさである。そのような場合があるのではないか。その場合、挨拶をしないことは良いことだも考えることができる。同じ行為であっても、いつでも誰に対しても良いと言える行為はない。
 もしかすると、生きることも、そうでないことも、その奥にある目的に向けての表現なのかもしれない。生きることと死ぬことが、大いなる目的の手段であるならば、その目的とは何か。それは分からないのかもしれないし、それこそ万人に共通のものなのではないのだろう。しかし、もっと言うならば、その目的は分からないものだが今すぐに分かり、人それぞれ違うが万人に共通する、そんなものかもしれない。


 ぼくは37歳だが36年前に大切な人を亡くしている。それを初めとして、何人もの人が生を終えたのをぼくは知っている。ぼくの周りのそれらいくつもの死がぼくの中に積み重なっている。
 多くの人が、自分よりも先に旅立つ人を見送っているだろう。何人もの人が後悔し、あのときああしていればと考え、時間を巻き戻せるならと真剣に思いを巡らせたことがあるだろう。

 今の記憶と言語能力を携えたまま1歳の「あの日」まで戻ることができたのならば、未来は、今は変えられるのだろうか。「あの日」、仕事に行かないでと真剣に訴えることができれば、喋るはずのない1歳の息子が急にしゃべりだせば仕事に行くこともなく未来は変わっただろうか。「あの日」を万一変えられたとしても、別の日に同じことが起こってしまい、結局同じなのだろうか。父親がいるというのはどういう感じなのだろうか。家族全員で夕食を囲めたらどれほど嬉しいだろうか。父親がいてくれたらぼくは今とは変わっていたかな。きっと変わっていただろうな。なぜいなくなってしまったのだろうか。お父さんは星になってぼくを見守ってくれているのだろうか。星じゃなくて、人間としてそばにいてほしかったな。ぼくは幼すぎてお父さんの顔も声も匂いも、何んにも覚えていないよ。

 父親の死について、幾度となく考えた。何回も何十回も考えた。もしかしたら百回以上考えているかもしれない。でも、だからこそ、今のぼくがあるように思う。そして、母は同じ人の死について、ぼくの何千倍も、何万倍も考えたであろうことを知っている。

 父親の存在がぼくの肉体を生み、父親が存在していないということがぼくという一人の人間を育てた。その人の生も死も、その人の周りにいる人々の心を育むのだと、ぼくは思う。

大谷の2日目の試験だけ受ける。作戦か。

2017年01月21日 18時36分20秒 | 学習
 入試前であるので、中3は午前中から勉強している。



 上の写真は昨日の数学の解説。
 今日は英語だ。得点は、76点、65点、61点、49点、39点だった。(100点満点)

 私立の英文は分からない英単語の意味を想像して読み進めなくてはならないのがキツかったか。語彙力を上げるしかない。前向きに考えると、語彙力を上げれば得点できるということだ。
 英語の復習プリントは、英単語・英熟語であわせて3枚、英作文・英文和訳であわせて2枚、合計5枚になった。早いうちに覚えてもらう。

 夜からは予告通り、自分の勉強にあてる時間を多くとれるようにする。塾から指定するのは、数学の規則性の問題を2枚、英語の語形変化と英文和訳をあわせたプリントを1枚、それだけ。赤本をやりたい人は進めるチャンスだ。花園の英語復習プリントも覚えていくように。

私立高校の入試の洗礼

2017年01月21日 11時10分49秒 | 学習
 花園高校の数学の結果は、得点の高い順に、84点、67点、60点、55点、55点、33点だった(100点満点)。私立っぽい問題にやられて得点が伸びていない。私立高校の入試問題の洗礼を受けたな。経験あるのみ。多くの問題を解いて慣れるしか、得点を上げる方法はない。

 今、生徒たちは英語の問題を解いている。同じ花園高校の2012年度の特進コースの入試問題だ。生徒たちが試験をしている間に、解説が終わったらさせる復習プリントを作る。自転車操業…。今しがたプリントの作成と印刷、生徒ごとの仕分けが終わった。ぎりぎりや…。
 英語も7割を目指してもらいたい。それほど難しくはないのだ。しかし、数学で受けた洗礼、英語でも受けることになる。得点は伸びないか。
 知らない単語、分からない問題はいい。教科書では学んでいないことがいくつも出題されるのが私立高校の入試だ。今からその単語を覚えることや、分からない問題をできるようになることが大切だ。これもやはり経験あるのみ。慣れて順応することができれば得点は上がる。