l'esquisse

アート鑑賞の感想を中心に、日々思ったことをつらつらと。

三瀬夏之介「冬の夏」

2009-02-19 | アート鑑賞
佐藤美術館 2009年1月15日-2月22日



これは―。

3Fの展示室の扉を開けたとき、目の前に広がる光景に一瞬言葉が出なかった。

緩やかに波線状に折れながら、右へ右へと連綿と続く屏風は、1枚154x91.5㎝のパネルが34枚連なる『奇景』(2003-2008年)。決して小さくない長方形の展示室の角を2回折れるほど長いその屏風を、ぐるりと一回り見渡すだけでもかなり時間がかかる。

日本画家、と聞いていたが、この『奇景』は通常の屏風画の範疇には納まらない。そばに寄って一番左のパネルから詳細に観ていくと、広重の波、船、飛行機、鳥居、UFO、巨大な埴輪か大魔神のような不気味なシルエット、仏教の塔、ネッシー、大きな甕(なんだかパンドラの箱が脳裏をよぎった)など、時空を超えていろいろな物体が、一見何の脈略もないように次々と立ち現れてくる。写真、手作りのオブジェ、羽毛など様々な素材のコラージュも多用されており、文字もゆらゆらと呪文のようにたゆたう。画面の風情もパネルごとに随分異なり、大竹伸朗の「網膜シリーズ」を思い出させるような、透明樹脂で固めたような光沢のある絵肌もあれば、墨絵のようなモノクロームの世界も。

まさに奇景なり。幻視や白昼夢とも思えるその世界は荒唐無稽にも映るが、作品の放つ有無を言わせない迫力を前に、鑑賞者である私は立ち尽くすだけ。

同じ部屋に展示されていた小さな作品の一つに、以下のような文章が刻まれていた:

モードのないオペレーション・システム

中身のないアイコンたち

それらは閉ざされているのだが
ある一定の場所へと導く抗えない力をもつ

いきつくことのない堂々巡り

そこにすきまはない

最後の2行は特に、三瀬さんの作品のキーワードではないだろうか?

4Fには、チラシに使われている楕円の大きな紙(252x545cm)に描かれた『ぼくの神さま』(2008年)。左上に目を開いた大仏様の顔があるが、創世記のようでもあり、あるいはアポカリプス的でもあり。混沌が渾然一体となって、画面の上で蠢いているようだ。この画家の精神的営為が吐き出され、絵と言う形に結晶したもの。

同じく4Fにあった『日本画滅亡論』『日本画滅亡論』。共に三瀬さんが1年間滞在したフィレンツェにて、2007年に制作した作品。街のシンボル、ドゥオーモやポンテ・ヴェッキオ、彼の地でよく見かける教会のファサードなどが日の丸などと共に盛り込まれている。画家の脳裏に刻まれた記憶の断片たちが、境界を越えて浮遊している感じだ。

 

『日本画滅亡論』(2007年)                    『J』(2008年) 

このフロアーには、絵画作品のほか、インスタレーション風に数々の立体作品も展示されていた。

木の十字架、カラスの剥製、カナブンの標本ケース、名所が写った奈良のポストカード。小さい小屋風の作品の中を覘き込むと、壁に枯れ葉や埴輪風のオブジェ。

床に置かれたもの、天井からぶら下がるもの、壁に貼られたもの。

隅に画家のアトリエも再現されており、厳かなパイプオルガンの楽曲が流れていた。いつもこのような音楽を聴きながら、創作活動を行うのだろうか?

三瀬さんは奈良の生まれで、今も古墳が乱立する地区に囲まれた森の中で制作を行っているそうだ。千年単位の時間の流れ、堆積を肌身に感じる環境の中で生まれ育ったこの作家さんは、無常観に対するより鋭い感覚を持っているに違いない。三瀬さんの言葉「何年もの時間をかけ、思いを込めた大作が誰にも見られること無く、倉庫の裏側で朽ち果て土に帰っていく姿を思い、少しの時間恍惚感に浸る」。悠久の流れの中における一個人の生きた奇跡などほんの点に過ぎず、万物は錆び、無に帰すという美学。作品の大小を問わず画面に現れる、緑青が吹いたような点々はそんな美学の表出を思わせる。

この個展のタイトル、「冬の夏」もいい。

強烈な三瀬作品との出会いであった。