『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

たまに長崎4

2012-02-25 12:11:02 | まち歩き

「長崎の教会群を世界遺産に」という運動が長崎県の主導の下に行われている。長崎はカトリックの殉教の地であり、250年に及ぶ弾圧の中でキリスト教を守り抜いた隠れキリシタンの地でもある。また原爆からの立ち上がりにも教会を中心にした信仰の力が大きな支えになったのであろう。そういう意味からも長崎はカトリックの聖地であり、世界遺産にふさわしい土地である。

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大浦天主堂。

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大浦天主堂の由緒書き。

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大浦天主堂の祭壇。外から撮影したもの。

1865年に大浦天主堂を見学にきた浦上の信徒がキリシタンであることをプチジャン神父に告げ、隠れキリシタンが姿を現した。それが幕末から明治初年までのキリシタン弾圧を生んだ。

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マリア観音。

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キリシタンか否かを判別するために使われた踏絵。

踏まないと非改宗者として処罰されたので、後には踏んでから神に許しを乞うという風に対応したそうだ。

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日本26聖人殉教碑。

長崎駅から10分ほどの丘の上にある。1597年に日本人20名、外国人宣教師6名が処刑された地。

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由緒書き。

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歴史の教科書に必ず出てくる宣教師、ルイス・フロイス。

26聖人の殉教を目撃した証人。

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現在の浦上天主堂。

1867年から1873年(明治6年)まで続いたキリシタン弾圧は浦上4番崩れと呼ばれた。明治元年に明治政府により浦上総配流が決定され3394人が西日本の各藩に流配された。うち5分の1にあたる613人が流配地でなくなっている。
信仰の自由を得て帰村した信者たちが貧しい中で20年かけて1925年に完成させたのが旧浦上天主堂だった。

原爆で旧浦上天主堂は破壊され、浦上信徒1万2000人のうち8500人が被爆死したという。

現在のものは1959年に再建され、1980年のローマ教皇の訪日に合わせて改修されたもの。

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被爆した像。

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由緒書き。


たまに長崎3

2012-02-24 20:39:40 | まち歩き

自らも被爆しながら焦土と化した長崎で献身的な医療活動を行い、病床にありながら多くの原爆についての著書を書き続け、1951年に亡くなった長崎医大の永井隆博士を記念するものを訪ねた。

如己堂(にょこどう)は2畳一間の病室。浦上の地を「花咲く丘」にしようと永井隆博士が資金を出した永井千本桜。山里小学校にある「あの子らの碑」。

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如己堂。2畳に博士と2人のお子さんが生活したという。

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山里小学校。爆心地から700メートルのところにあったので、1600人の児童のうち1300人が亡くなった。今は公立の小学校にはみえないぐらい立派な建物になっている。

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被爆前の山里小学校のミニチュアが作られている。

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校門を入った横にある「あの子らの碑」。山里小学校の被爆児童の手記を永井隆博士がまとめた「原子雲の下に生きて」の子供たちの原稿料の一部と博士も不足分を出して作った慰霊碑。

山里小学校の周りには永井千本桜やその2世が植えられていた。

永井隆博士の著書・・・・長崎の鐘 他多数

有名なのでなんとなく知っていたが読んでいなかった。遅ればせながらぜひ読んでみたい。長崎の人に如己堂や永井隆博士のことを尋ねると、一段と力が入った返事が返ってくる。想いの強さを感じる。


たまに長崎2

2012-02-22 20:27:24 | まち歩き

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爆心地の母子の慰霊像。

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長崎は長崎電気軌道(市電)で回る観光客が多い。1日券が500円で安い。1日券を購入しなくても1回120円で、乗り換えのときも乗換券を渡してくれるので新しい切符を買わなくて済む。また間違えた電車に乗った場合も正しい電車に乗れるようにしてくれて、間違えた分のお金は取らない。あまりに配慮が行き届いているので長崎電気軌道のフアンになってしまう。アメリカ人の定年退職者と思われる人々にたくさん出会った。特に原爆関係の施設や公園に目立って多かった。彼らも市電を利用していた。

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キューバからの慰霊碑。

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各国からの慰霊碑の一つ。

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中国からの慰霊碑。

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各国からの慰霊碑の一つ。

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朝鮮人犠牲者の慰霊碑。

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平和公園の中の噴水。水を求めて死んだ被爆者への慰霊として作られた。


たまに長崎1  

2012-02-21 20:11:02 | まち歩き

幕末に活躍したトーマス・グラバーの屋敷を中心とした外国人居留地がグラバー園として公開されている。

10代から故郷のスコットランドを飛び出して商人として活躍したトーマス・グラバーの成功と、名家の跡継ぎとして日本と英米との狭間で生きた2代目倉場富三郎の悲劇がこの屋敷に陰影を与える。

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平屋のグラバー邸。

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グラバー邸から見た長崎湾。戦艦武蔵を造った三菱長崎造船所が望める。

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グラバー家の家族写真。

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薩摩藩主から寄贈された300年もののソテツ。

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美しい庭。