Rain Rain Drops

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バーニング&納屋を焼く その4 5つの納屋、みかん

2019-02-27 21:33:25 | 

5つの納屋


『納屋を焼く』について、無い頭を振り絞り、しつこく考えたりしていた、その理由の一つは、この論文を読んだからでした。

     ↓
村上春樹「納屋を焼く」における 新美南吉童話との間テクスト性

ものすごい面白くて、南吉フリークの身にはとりわけこたえられないものでございます。

まず「僕」の学芸会の思い出として語られる、偽『手袋を買いに』、その話が南吉の『最後の胡弓弾き』と混同している説。
そして牛小屋(納屋)への放火未遂、時代の変化など、「納屋を焼く」とエピソードがリンクしまくる『おじいさんのランプ』についてなど。
なるほどなるほど納得と、手を打ち膝を打ちワクワクでした。(これらに関してはまたいずれしつこく語ってしまうと思うのですが。。)

すべて面白かったのですが、とりわけ格別で、目からウロコバリバリ、鼓動が早まってしまった論説。
それが、=「ごん狐」との関連=の項でした。

児童雑誌「赤い鳥」主宰の鈴木三重吉による『ごん狐』に関する、ちょっと聞き捨てならない事です。

南吉は18歳で『権狐』を執筆し「赤い鳥」に投稿したのですが、掲載するに当って鈴木三重吉がかなり手を入れたらしいのです。見ての通りタイトルからして「権狐」から「ごん狐」へ変えている。その『ごん狐』が今世に出ているもの。
ストーリーはそのままですが、句読点の位置や、言葉の並び換え、方言と思われる言葉の置き換えなど、かなりの改変です。

その時に、南吉の『権狐』にあった「納屋」という言葉が消され、「物置」に書き換えられたというのです。
この論文でそのことを知った私、マジですかとつぶやきつつ『校定新美南吉全集』の第十巻(日記・ノート)をそそくさと取り出しました。
『校定新美南吉全集』は南吉の全執筆物が網羅され、元文献まで精査され尽くしている必殺お宝全集です。
その第十巻、南吉18歳時の日記「スパルタノート」の中に『権狐』の草稿が入っているのです。


で、ちょっとどきどきしながら確認してみたわけです。付箋を貼りながら。

南吉の『権狐』に「納屋」の言葉は6か所ありました。

鈴木三重吉が手を入れた『ごん狐』では、その6つのうちの4つが「物置」に変えられていて、残り2つのうち1つは文章上重複するため消去、そして最後の1つが「納屋」のままで残っていました。
結局、五つの「納屋」が消されたってことです。

結局五つの納屋が残った。五つの焼くべき納屋だ。あるいは五つの燃えて差支えない納屋だ。
      『納屋を焼く』より


いいですね。不思議なこの一致。
となると、「僕」がする白地図の納屋のある地点に「鉛筆で×印つける」とか、「×印を消す」とかが、原稿の校正のイメージとも感じられます。
「僕」は作家です。空想の原稿用紙の上をひとり走り、創作を行ってるのだとも思えてきます。

村上春樹氏も南吉フリークで、ひょっとして「スパルタノート」を読んでたのかもな、、
など妄想すると、嬉しくて私は鼻血が出そうです。

ちなみに、鈴木三重吉が「物置」に変更せず、なぜか1つだけ残した「納屋」。
そのシーンはここ。教科書で日本中の少年少女の紅涙を絞った(かもしれない)あのクライマックスです。

こないだうなぎをぬすみやがったあのごんぎつねめが、またいたずらをしにきたな。

「ようし。」
兵十は、立ちあがって、納屋にかけてある火縄銃をとって、火薬をつめました。
 そして足音をしのばせてちかよって、いま戸口を出ようとするごんを、ドンと、うちました。ごんは、ばたりとたおれました。


物語の佳境、こんな重要どころで使われている。

単に鈴木三重吉の見落としといわれてるということですが、火縄銃はイメージとして「物置」にはそぐわないとか、そんなような配慮だったりして。そんなことはないと思うけど、とにかくおかげで物語の舞台に「物置」と「納屋」が両方あるという妙なことになりました。
もともとすべて「納屋」でなにが困るというのか。
なぜ鈴木三重吉は他の「納屋」5つを消したのか。


「別冊太陽 新美南吉」の巻
にこんな論説文が載っていました。

新美南吉と児童雑誌「赤い鳥」 宮川健郎

(三重吉の改稿によって)半田の方言など、地域性を示すことばも排除された。「背戸川」が「村の小川」になり、「鰯のだらやすーー。いわしだーー」が「いわしのやすうりだァい。いきのいいいわしだァい。」になるというふうにである。「権狐」に描かれた南吉の「ふるさと」は切りすてられ、「ごん狐」として「東京」化、共通語化されて、全国で読まれる活字になった。

納屋」なんて田舎くさい「ふるさと」の方言みたいな言葉は要らないと、切り捨てられたというわけです。



新美南吉「権狐」論 「権狐」から「ごん狐」へ(岡山大学)
にも
びっくりすることが書かれていましたーーーーーー

  方言は、国語の統整上廃棄するのがもとより当然である。ただしそれには標準語にない、便利な、または貴い、純正な言葉で、国語の上に活かす必要のあるものを、ふるいえらんで、とり入れるなぞの用意が要る。また、方言は、文化の進展につれていろいろの関係から、きわめて徐々ではあり得ても、だんだんに減少し、廃滅する性向をもっているものである。(←鈴木三重吉『綴方読本』昭和10年 からの引用です)

 三重吉が、一見方言の存在意義も認める含みを持たせながら、方言を「国語の統制整上廃棄」し「廃滅する」ものと位置付けていることは明らかである。(略)「国語」表現の近代化の理念に突き動かされて、物語の構成言語や内容上の地方性・社会性を当局の統制の下に平均化していく時代の動向の中に、三重吉もまぎれもなくいたといえるであろう。ーーーーーーーーー

三重吉、確信犯だった。。。


これが村上春樹表現になると下記のようになります。(と考えるとおもしろい)


「世の中にはいっぱい納屋があって、それらがみんな僕に焼かれるのを待っているような気がするんです。海辺にぽつんと建った納屋やら、たんぼのまん中に建った納屋やら・・・・とにかく、いろんな納屋です。十五分もあれば綺麗に燃えつきちゃうんです。まるでそもそもの最初からそんなもの存在もしなかったみたいにね。誰も悲しみゃしません。ただーー消えちゃうんです。ぷつんってね」
「でもそれが不必要なものかどうか、君が判断するんだね」
「僕は判断なんかしません。それは焼かれるのを待っているんです。僕はそれを受け入れるだけです。(略)雨と同じですよ。雨が降る。川があふれる。何かが押し流される。雨が何かを判断していますか? いいですか、僕は何もアンモラルなことを志向しているわけではありません。僕は僕なりにモラリティーというものを信じています。ーーー」
       by『納屋を焼く』



この時点で私の中ではもう完全に、三重吉=「彼」であり、アンチ三重吉ですが、「納屋」を消された当の南吉は、これに関しては日記にも何も書き残していません。


「別冊太陽」の宮川健郎さんの解説にはこうありました。
「権狐」を「ごん狐」として「東京」化した、鈴木三重吉の「赤い鳥」は、それでも南吉の将来にむかってひらかれた「窓」だったのだろう。

そうだよなと思い納得もします。
南吉の本心はわかりえませんが、たとえ不満があったとしても18歳の少年にどんな抵抗ができたでしょうか。
ただ、その後の南吉の幾多の作品を思い返してみれば、舞台はほとんど岩滑、半田界隈。
つまりド田舎づくし。濃いぃ、えぐい方言が飛び交う。
何恥じることなく、あえて、どっぷりまんま、土着色の大変強い作品を、南吉は生涯書き続けました。
どうだね三重吉と、大笑いしたいくらいです。


『校定新美南吉全集』第十一巻 1941年の日記よりーー
「僕の文學は田舎の道を分野とする」
「僕はどんなに有名になり、どんなに金がはいる様になつても華族や都會のインテリや有閑マダムの出て来る小説を書かうと思つてはならない。いつでも足に草鞋をはき、腰ににぎりめしをぶらさげて乾いた埃道を歩かねばならない。」

南吉にとって半田は、愛憎相半ばする、ある意味ただならぬ傷だらけの故郷でした。でも、だからこそというか、古びた「ふるさと」を切り捨てず、書き続けることで芸術として昇華させたのだと思います。
ブラボー南吉。。。



みかん

そしてもうひとつ、鈴木三重吉は大改変をしています。
改変された『ごん狐』の冒頭部分は、
これは、私が小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。
の一行ではじまるのですが、
南吉の『権狐』では、

茂助と云ふお爺さんが、私達の小さかつた時、村にゐました。「茂助爺」と私達は呼んでゐました。から始まって、10行以上使って茂助じいさんのことを紹介しているのです。
猟師だった茂助さんは年をとって仕事が出来なくなり子守ばかりしていて「若倉衆」の前で話を聞かせてくれたということを。
ほんまもんの元マタギが語る、口承民話が元ネタになっているお話だった。
そんな時代背景の匂いも含めて、ざっくりと茂助さんの様子は消されてしまったのです。

ご丁寧に名前まで変えられて。


ここでちょっと驚いたことが。
南吉の『権狐』から消されたその冒頭部分の中の一行です。

私はもう茂助爺の顔を憶えてゐません。唯、茂助爺が、夏みかんの皮をむく時の手が大きかった事だけ覚えてゐます。

みかん
茂助じいさんは夏みかんを剝いていたと。
『納屋を焼く』でも『バーニング』でも彼女がパントマイムで剝く「みかん」は最重要アイテムではありませんか。
スパルタノートの『権狐』ではなぜか「みかん」のところに傍点までついています。それがなんだか、ここだよここ!、共通アイテム、と言ってるかのようで(笑)。
大きな手で夏みかんを剝いていた茂助じいさんの生きた様子は消され「そこに無いことを忘れられる」存在になっていたということか。。


ふたたび岡山大学の「新美南吉「権狐」論 「権狐」から「ごん狐」へ」 からーーー

「権狐」が投稿された『赤い鳥』の編集者鈴木三重吉は、「権狐」に改変を加えて「ごん狐」として『赤い鳥』に発表した。そこでの改変の理由としては、全国規模の出版網に流通し、不特定多数の読者によって物語が広く消費されるためには、「権狐」に横溢している時代性・地域性を捨象して流通性を高める必要があった。

そうして古くて目障りな「納屋」と、夏みかんを剥いていた茂助じいさんは消されたのでした。。


鈴木三重吉がたったの
一行にしてしまった『ごん狐』の冒頭部分、
これが南吉の書いた草稿全文です。↓
    
 権狐 「赤い鳥に投ず」

茂助と云ふお爺さんが、私達の小さかつた時、村にゐました。「茂助爺」と私達は呼んでゐました。茂助爺は、年とつてゐて、仕事が出來ないから子守ばかりしてゐました。若衆倉の前の日溜で、私達はよく茂助爺と遊びました。

私はもう茂助爺の顔を覚えてゐません。唯、茂助爺が、夏みかんの皮をむく時の手の大きかつた事だけ覚えてゐます。茂助爺は、若い時、猟師だつたさうです。私が、次にお話するのは、私が小さかつた時、若衆倉の前で、茂助爺からきいた話なんです。
 『校定新美南吉全集』第十巻「スパルタノート」より


タイトルの下に書かれていた「赤い鳥に投ず」がなんだか泣けます。。


鈴木三重吉によって、良くも悪くもブラッシュアップされた「権狐」は、誰にでも入り込みやすい文章になり、「ごん狐」として後に教科書に載り全国レベルで知られるようになりました。

「半田」はみごとに切り捨てられましたが、「ごん狐」がひとつの作品として、素晴しいことには変わりはないです。

赤い鳥版「ごん狐」と共に、スパルタノート版「権狐」も広く出版してもらえたらと思ってしまいます。


それはそれとして、鈴木三重吉の一番の功績は、狐の名前を「権」から「ごん」に変えたことにあると私は思っております。
「権」ではイメージが固く可愛らしさにかけてなじみにくい。
アイドル化しにくい。
その意味で「ごん」は親しみが持てる上覚えやすく、ナイスネーミングと言う他はないと思われる。

さすがは冷徹な敏腕プロデューサーです。




岩滑サブレです。




突然ですが、グレート・ギャツビーとごんぎつねは、よく考えると両方、悲しい勘違いで銃で撃たれて死んでしまうという悲劇のストーリーです。

どちらも思いびとへの思いは最後までまっすぐなまま。
これも不思議な一致と言えば一致ではないか。
『納屋を焼く』の後ろの上空で、ひそかに関連し合う物語と物語。

井戸を深く深く掘る作家は、こんなふうにどこかで通じてしまうものなのかもしれない、などと思ってみます。
村上春樹氏がたとえ「スパルタノート」を読んでないとしても、深い井戸を通じて、どこかで二人は通じ合ってしまったのかも。
時空を超えて。南吉と春樹が。
なんて。


 

 

 

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バーニング&納屋を焼く その3 手袋を買いに

2019-02-23 22:12:41 | 

『バーニング』でひとつだけ、残念に思ったことがあります。
それは原作『納屋を焼く』にあった、童話「手袋を買いに」についてのエピソードがバッサリ消えていたこと。
これはいただけない、と私は強く訴えたいのです。

なにをかくそう、「手袋を買いに」の作者新美南吉は、私の郷土・半田市の誇り。
不滅のスーパースター。
幼少の頃から南吉の存在は、空気のように普通にそばにあったのでした。
2013年に帰省した折など、名鉄知多半田駅を降りたとたん、駅前ビルから巨大な南吉がこっちを見ているのに出くわしました。南吉生誕100周年記念のポスターでした。
ビルの2階分くらいのデカさあった。
昔から変わらない激しい南吉愛の土地柄なのです。
ごんぎつねのごんなんてもう、押しも押されもせぬアイドルです。



南吉さん


去年『納屋を焼く』を読んだきっかけというのも、村上春樹の短編小説に南吉の童話が入ってる、という情報を何かで見たから。
興味しんしんで読んでみると、主人公がマリファナを吸い、そのせいで記憶の質が変わってしまったという設定で、『手袋を買いに』が間違ったストーリーで語られてた。
ですが、違っててもきっとあの童話だ、となんとなくわかるところが凄いところでもありましょう。
南吉がすごいのか春樹がすごいのか。
残念ながら外国ではそれがわかりづらいので、『バーニング』では省かれてしまったのでしょうか。

『手袋を買いに』。
南吉作品の中でも人気随一の呼び声高い、全編詩のような美しい文章で傑出した童話です。
子狐の手袋を買うために町へ出た狐の母子。
子狐は母狐が変えた人間の手の方ではなく、間違って本当の手を差し出してしまうのですが、帽子屋のおじさんはおやおやと思いながら何も言わずに手袋を売ってくれる。
美しい話なのです。
でも美しいだけではありません。
この作品の白眉は何といっても最後の一文にあります。

「母ちゃん、人間ってちっとも恐かないや。」

「どうして」
「坊、まちがえてほんとうのお手々出しちゃったの。でも帽子屋さん、つかまえやしなかったもの。ちゃんとこんないい暖かい手袋くれたもの。」
といって手袋のはまった両手をパンパンやってみせました。お母さん狐は、
「まあ!」とあきれましたが、「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら。」とつぶやきました。

ほんとうに人間はいいものかしら。リフレイン。
多くを言わない。絶妙の省略。

何年か前新美南吉記念館でぼうっとして資料を見ていた時、びっくりしたのですが、『手袋を買いに』の生原稿では、この部分、最初はこう書かれてたのです。

「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間がいいものなら、その人間を騙さうとした私は、とんだ悪いことをしたことになるのね。」とつぶやいて神さまのゐられる星の空をすんだ眼で見あげました。

こんなに長かった。南吉はそれを書き換えたのです。

「ほんとうに人間はいいものかしら。 ほんとうに人間はいいものかしら。」とつぶやきました。

鮮烈なこのフレーズはこれぞ文学、と言おうか、人間の普遍のテーマかもとさえ思われます。

この改稿で南吉は、母狐の目に見えていた神さまを消しました。
それで、より身近で忘れがたいフレーズになったのではないか。
神さまのいない地上で、人はこの問いをずっと聞いてるのかもしれない。
南吉のふるさと岩滑(やなべ)の空には、今もこのフレーズがずっと舞ってる気がする。。。
ああ岩滑サブレが食べたい。

『バーニング』を観ていて、ヘミとジョンスの地元の風景がどこか岩滑に似てるように思えてハッとした私。
夕暮れにヘミが踊るシーンの背景、ジョンスがビニールハウスを探してまわる風景が。。岩滑に。
・・・そんなヘンなことを思ってたのは私だけでしょうけども。


岩滑です。



思えば南吉も子どもの頃から貧しさに苦しんだ人でした。
父親は畳職人。
南吉は、貧乏人の子どもとして差別される話も書いているし、そのコンプレックスも作品の中に沢山書いています。
常にコンプレックスと自尊心がせめぎあう。孤独。
父親・義母との軋轢の話もすごくシビアで、痛々しいくらい。
美しい童話を書くからと言って、夢見がちなおっとりした善人というようなタイプでは決してなかったようです。
そんなふうに生きられる環境になかった。
日記にこんな激白を綴っていたりします。

奴は何でも持っている。金も充分だ。
家も立派だ。本も沢山。旅行も出来る。
奥さんも美しくやさしい。
だがただ一つ無いものがある、
つまり心の泉だ。感じて表わす力だ。
だから奴は何にもないのと同じだ。

   昭和15年3月21日 26歳


童話集も出版し、一部の人々には認められていたものの、その後の人気の広がりを見ることもなく、昭和18年、29歳で結核で亡くなった南吉。
絶望を知っていた。
南吉も、井戸の底から空を見上げたことのある人、と言えるかもしれません。

『張紅倫』という、南吉の初期の作品があるのですが、これ、もとのタイトルは「古井戸に落ちた少佐」というのです。
日露戦争時、満州国にいた青木少佐が、あやまって古井戸に落ちてしまうという話。
村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』の間宮中尉の話と背景設定がそっくりでビックリですが。
でも南吉の『張紅倫』の方は、井戸に落ちた少佐が地元の中国人のお百姓に助けられて、親切にされ、戦後再会するというお話。
中国人に対して「上から」の感じが漂うところがちょっと気にはなるものの、それほど暗い話ではありません。
間宮中尉の井戸落ちのような、阿鼻叫喚の残虐展開とは趣をことにするものです。

時代と場所、人種や階級がほぼ同じような設定でも、こんなに違う話が出来てしまう。
実にこの世は善と悪が同時に存在していてふりこのように振れるというかなんというか。。。
振り子の両極に『張紅倫』と『ねじまき鳥クロニクル』がある。
ほんとうにいいものかしら ほんとうにいいものかしら
の声は途切れず、、、消えないのだと思われます。


翻って『納屋を焼く』での「僕」は、空虚な生活を送り、ある日曜日に背徳のりんごを食べたりなどもして、じわじわと悪い方向へと傾きずれこんでいた。
そして現われ出た「彼」にマリファナをすすめられて吸い、人間がいいものではない方向に振れた『手袋を買いに』を、自分で作り上げてしまったのかもしれません。
無意識に。

「僕」は昔学芸会で手袋屋(ちなみに帽子屋の間違い)のおじさんの役をやったことを思い出します。
でも
子狐の持ってきたお金では手袋は買えない。
「それじゃ手袋は買えないねえ」と僕は言う。ちょっとした悪役なのだ。

「でもお母さんがすごく寒がってるんです。あかぎれもできてるんです」と子狐は言う。
「いや、駄目だね。お金をためて出なおしておいで。そうすれば」

相手が狐だから売らないんじゃなくて、お金が足りないから売らないと。
逆に言えば、相手がバケモンだろうと何だろうと金さえくれれば売ってやる。そこに情など入るスキはない。
時は高度資本主義社会なのです。
(このシーン『バーニング』では、ジョンスが、暴力性のある父親との間のトラウマのことを語ってました)

それならばと「彼」から囁かれる一言。それが、時々納屋を焼くんです
魔力のような言葉ぢから。あらゆる混乱の坩堝を引き起こした、大元の言葉。
迷って振れるふりこを、もう一気に振り切れ、とそそのかすかのような。

時代にそぐわない古いものや自分の過去など、いろいろな納屋がある。
それは守り通した方がいいものなのか、それとも「彼」が言うように、いっそそんなものは雨が押し流すように自然の道理として、無感情のまま消してしまうのか。
何を守り何を捨てるのか。逡巡しながら「僕」は納屋のまわりを走りまわっていたのかもしれません。
傾いた軸をなんとかまっすぐ保つようにして走る。それが「僕」のぎりぎりのモラリティということなのかも。
・・・ほんとのとこ、この解釈全然自信ない。
やっぱり『納屋を焼く』は難儀です。


さて『ダンス・ダンス・ダンス』が『納屋を焼く』を下地にした小説だと考えるとすると、『手袋を買いに』はどこにいったのか。あるのか?
としばし考えてみました。
『手袋を買いに』の母狐は、子狐に「人間ってほんとに恐いものなんだよ」と教え、自分自身町の灯を見て足がすくむほど恐怖を感じてるのに、そこへ子どもをひとりで送ってしまうという、どこかうらはらな母親です。
自分に似て間が抜けてる、やらかす子どもだくらい予想出来たはずなのに、片手だけしか人間の手に変えなかったりもする。
愛しているのは確かにわかるのです。でも大人として母としてはあきらかに不器用。
今なら炎上です。
何かと要らない論議を呼び起こす、それが『手袋を買いに』の母狐です。まわりを振り回してしまうタイプ。
繊細で現実を生きるのがヘタなのでしょう。
でもまっすぐな子狐が、傾いていく軸を正してくれる。
子どもの澄んだ目が、ほとんど直感で善悪を感じとり、方向を教えてくれるのです。
霊感。
というわけで、子狐はユキ。母狐はアメ。
そして「僕」は、やはりユキによって、軸をぶらさずダンスを続けることができ、今度こそいい手袋屋さんになれたのだと思います。
ユキの未熟な親たちに長々と説教しまくるほど、まっとうな人になったのです。
・・と私は思いました。

アメの彼、ディック・ノースは片腕です。
片方の手しか人間の手にされなかったもう一人の子狐。という考えはどうでしょう。
ものすごく器用に片手でなんでもやれる人。つまり「そこに無いことを忘れる」ほどに。
人生をかけてアメに尽したあげく、彼は不幸な事故で死にます。
浮世離れしているほどの才能を持つアメが回りに及ぼす影響、その危険な一面を、一身に背負ってしまったような片腕の詩人。
彼女はまわりの人に何かを与えるというタイプではなかった。それとはまったく逆だ。自分自身の存在を調整するために、まわりからちょっとずつ何かを取っていくタイプだった。
調和と静けさ。彼女がそれを得るために人々はみんな脚やら腕やらを彼女に差し出しているのだ。
『ダンス・ダンス・ダンス』より



『手袋を買いに』は雪の描写がすばらしく美しく背景にある作品です。
『ダンス・ダンス・ダンス』は、雪の降りしきる札幌の風景描写が印象的で、そこから冒険が始まるのでもありました。



 
 

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バーニング&納屋を焼く その2 ダンス・ダンス・ダンス

2019-02-22 17:21:37 | 





とにかく『バーニング』のジョンスは自分の始末をつけたのです。
かなり過激に。
あとやり残している事、それはヘミを探し行くこと、それだけではないでしょうか。

振り返って『納屋を焼く』の僕は、納屋のまわりを走りつづけている。。
なにやらモヤモヤはつのりますが。
大丈夫。
「僕」も彼女を求めて旅に出るのです。
それが村上春樹長編小説『ダンス・ダンス・ダンス』なのです。
と、勝手に私は思っております。

『ダンス・ダンス・ダンス』。
舞台は1980年代高度資本主義社会。
主人公の「僕」は、付き合っている女性から、
「あなたといると気づまりとかそういうんじゃないのよ。ただ一緒にいると、時々空気がすうっと薄くなってくるような気がするのよ。まるで月にいるみたいに」
と言われる男です。

他の幾人にも付き合っては去られる。「心の震え」のない生活をずっと続けています。
気持ちののらない「文化的雪かき」のようなライターの仕事をしながら。

そんな中、数年前に消えてしまったキキという女性が、自分のために泣いているという夢を見ます。
時代が変わり、消されてしまった古い「いるかホテル」で。
僕は心の痛みや震えを、忘れてはいけなかったものを「そこに無いことを忘れる」ように生きていたわけですが、今自分のために夢の中で泣いているキキを探すために、テリトリーを出て、走りはじめるわけです。ダンスのステップを踏むようにして。

「踊るんだよ」羊男は言った。「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってることはわかるかい? 踊るんだ、踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる。一度足が停まったら、もうおいらには何ともしてあげられなくなってしまう。あんたの繋がりはもう何もなくなってしまう。永遠になくなってしまうんだよ。そうするとあんたはこっちの世界の中でしか生きていけなくなってしまう。どんどんこっちの世界に引き込まれてしまうんだ。だから足を停めちゃいけない。(略)使えるものは全部使うんだよ。ベストを尽くすんだよ。怖がることは何もない。まだ手遅れになっていないものもあるはずだ。使えるものは全部使うんだよ。ベストを尽くすんだよ。怖がることは何もない」

オドルンダヨ。オンガクノツヅクカギリ。

骨の髄まで響くベース音が聞こえる限り。
踊るのをやめるな、走るのを止めるな。書き続けろ。
と私には読めました。

キキに導かれて、死の世界を見せられたあと、
「死がすぐ側にまで迫っているような気がする。腕がすっと伸びてきて、今にも僕の足首を摑みそうな気がする」と言う僕。
現実においての僕の無力感は、そういう部分から来ていたのでした。

「どうしてかはわからない。でもいつも死というものが僕の脇にいる。そしてチャンスが来ると、それがどこかの隙間からふと姿を見せる」

と言う僕に、
「それがたぶんあなたの鍵なんじゃないかしら? あなたは死というものを通して世界とつながっているのよ、きっと」

と13歳の魅惑少女ユキが答えるのです。
確かに。『ダンス・ダンス・ダンス』という小説の鍵はそこにあるに違いない。
すごい、ユキ。

「誰かが死んでいくたびに僕の存在が少しずつずれていくような気がする」と言う僕。

ずっとそばに有った、濃密な
死の影
ときちんと対峙することで、そこを通り抜け、現実にとどまることを僕は決意する。
つづめて言えば、『ダンス・ダンス・ダンス』はそういう小説ではないかと思います。
つづめ過ぎなのでもう少し書いてみると、無力感の中で「文化的雪かき」に甘んじていた僕が、自分の為に文章を書きたい、という思いにいたるまでのことが書かれている長編小説。紆余曲折、オカルト含み・ミステリー含み・波乱ぶくみで。
ではないか、と思いました。


 何かものを書くのも悪くないな、と僕は思った。僕は文章を書くことは嫌いではないのだ。ほぼ三年間切れ目なく仕事をやってきたあとで、僕は何か自分の為に文章を書きたいというような気持ちになっていた。
 そう、僕はそれを求めているのだ。
 ただの文章、詩でも小説でも自叙伝でも手紙でもない自分の為のただの文章。注文も締切もないただの文章。
 悪くない。

そうして書かれたのがこの長い小説、という仕かけなのでした。

僕のことについて語ろう。

喋ろう。そうしないことには、何も始まらない。それもできるだけ長く。正しいか正しくないかはあとでまた考えればいい。

と宣言して『ダンス・ダンス・ダンス』は始まるのです。



『ダンス・ダンス・ダンス』にはいろいろと、けっこうキテレツな人々が登場しますが、やはり図抜けているのは、一見ギャツビーみたいな派手さを持つスーパー青年・五反田君でしょう。
人並みはずれた能力を持ち、何でもできてしまうゆえに、人が求めるスーパー人間像を自分で作り上げてしまい、自分の実体と解離してしまった人物です。
彼はその苦しさから、ひそかにポストに火を投げ込んだり、猫を殺したり。
表の顔とはうらはらな狼藉を重ねながら生きてきたあげく、キキを殺し、自殺する。

彼は僕の唯一の友人であり、そして僕自身だった。五反田君は僕という存在の一部だった。

僕の分身なのです。

ふと思うのは、作家というのは、自分の書いた小説が常軌を逸するほど売れてしまった場合、どういう心持ちになるんものなんだろう、ということ。
村上春樹氏が『ダンス・ダンス・ダンス』の前に出していた本は、あの『ノルウェイの森』でした。泣く子も黙る超超ベストセラーです。
それが予想もしてなかったことだったとしたら。
それこそ悪魔祓いのジョギングでもしないことには、正気を保つことは難しい。そんなことになりはしないんだろうか。
ザ・万能感にさいなまれ、バケモノ的になっていく自分の像。
もしかしたらそんな怖れを、村上春樹氏は五反田君に投影したのではないか、などと思ってしまいます。

五反田君は自分でずっとそうしたかった通り、自殺します。
そういう形で「僕」も、自分の中の、怖れ、悪に決着をつけたのではないか。
『バーニング』のジョンスが、創作の中でベンを殺したように。


最後の頁。
すべての冒険を終えて、現実世界にもどって愛する人・ユミヨシさん(新しいドルフィンホテルのホテルの精)を抱きしめながら考える僕の言葉は感動的です。


僕は失われたもののために泣き、まだ失われていないもののために泣いた。

あの『納屋を焼く』の「僕」がよくぞここまできてくれた、、、と。(入れ込み過ぎ)

なんて言えばいいのかな、と僕はそのまま三分か四分くらい考えていた。いろんな言い方がある。様々な可能性があり、表現がある。上手く声が出るだろうか? 僕のメッセージは上手く現実の空を震わせることができるだろうか?

このデリケートな優しさ。
「まるで禅だね」の冷たさとはえらい違いだと思いました。


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バーニング&納屋を焼く その1

2019-02-22 11:47:16 | 映画

 




『バーニング劇場版』
148分。
最初から最後まで、息を詰めるように観てました。
ふだんおよそ集中力などない私が。こんなにのめり込んで観た映画って、あっただろうか昨今。。ってくらい。


村上春樹の原作『納屋を焼く』は、去年たまたま読んでいたのですが、それはおそろしい短編小説でございます。
魔の小説と言いたいくらいです。何よりそのわからなさがおそろしい。
一読、私なんか手も足も出ない、と思った。
なのに妙に尾を引いて気になってしまい、頭からぜんぜん離れていってくれないのです。

仕方がないのでしつこく何度も読み返したわけですが、結果、わかったことは、
「私わからない」、これでした。
わからないということがわかった。
もう少し自分に甘く言うと、わかるように書かれてないということがわかった、というか。
それぐらいてっとり早く解れよ、と自分でも疲れますが、このカスカス頭では仕方ないのです。

で何、彼女は彼に連れ去られたのか? で? どうなったの、え?
なんだい、同時存在って。
・・・答は無い。

仕方ないから小説を頭から1メートルくらい離して、ぼんやり考えてみる。
読んでもわからないんだ、こうなったら「感じる」しか無いだろうと思って。

まず全体になんとなく空気が薄くて息苦しい、そして不穏な匂いがする、これだけはわかりました。

ーー二ヵ月にひとつくらいは納屋を焼きます」と彼は言った。そしてまた指を鳴らした。

ーー彼はコートのポケットの中で何度か指をならした。


など短い一文に漂う暴力の匂いがこわい。

冒頭からの「僕」の、「彼女」との関わり方の異様な希薄さ、無気力感。
そういった場所には、人知れず怪しげなものが忍び寄ってくる。そんなふうにも思えます。

退廃が招き寄せる暴力の影。。


すごく
気になった一文がこれです。
彼と彼女が僕の家を訪れるという日、

 よく晴れた気持の良い日曜日で、庭のくすの木を眺めながらりんごを食べていた。僕はその日だけでもう七個もりんごを食べていた。ときどきそういうことがある。病的にりんごが食べたくなるのだ。あるいはそういうのは何かの予兆なのかもしれない。

りんごといったら、聖書の禁断の果実ではないでしょうか。
とすると「僕」はそんなキケンなものを、もう7個も食べている。のちにもう1個も。
いけない! 
もはや、何かしら邪悪なものを自ら呼び寄せている、、としか思えません。
そしてやってきた「彼」は、マリファナを勧め、ぼんやりした僕にささやくわけです。
「ときどき納屋を焼くんです」と。
しかも今度はこの「すぐ近くです」と。

そもそも「彼女」と「彼」は、本当にいるのか? 

全部「僕」の妄想じゃあないのか。
だいたい小説作品というものは作家の妄想なのだから、妄想の作品の中で主人公がまた妄想してるんじゃないかとか考えると・・ああ混乱する。
頭がおっつきません。
それくらい不思議な現実感の無さが、『納屋を焼く』の「彼」と「彼女」にはあるのです。

「彼」は僕の分身なのかもしれない、とも考えられる。
僕の中の暗闇が現れ出て、自分自身をそそのかしてるようにも感じられて。

「納屋を焼くんです」という彼の言葉に驚いた「僕」は、近所の納屋をパトロールするべく地図を購入し、効率よく巡るための綿密な計画を立てて、走り始めます。

村上春樹氏が走る人だというのは有名な話ですが。
『職業としての小説家』にこんな文章が載っていました。ーーーーーーーーー

 ちなみ僕の場合の「悪魔祓い」は走ることです。かれこれ三十年ほど走り続けているんですが、毎日外に出て走ることで、僕は小説を書くことで絡みついてくる「負の気配」をふるい落としているような気がします。

負の気配をふるい落としてなんとか正気を保つために「僕」は、納屋を巡って走り続けているということなのか。
古い納屋は不要、焼け、捨てろ、暴発しろ、そして忘れろとそそのかす、そんな声と闘いながら。
そんなふうにも思われます。

村上春樹『雑文集』からーーーーーー
 しかし僕は思うのだけれど、このように相反的なるものの同人存在の中にこそ、われわれの偉大なる「普通性」があるのではないか。よく考えてみれば、我々は実は適当にまとめられる借り物の自分と、借り物ではないけれどうまくまとめられない自分との奇妙な狭間に生きているのではあるまいか。我々ははっきりとどちらにつくこともできず、どちらにつこうという決心もできないままに、「普通の人」としてこの世にずるずると生きているのではあるまいか。

 その相反性の中で不安定によたよたと揺れ動きながら、自分の目ではそのよたよたさのおかしさを捉えられない。


人間はよたよたであやういと。
ともすれば自分の中の暗闇が形をもって現れ出て、静かに正気を失うこともあるのかもしれない。
晴れた日曜日に、なぜか病的に背徳のりんごが食べたくなったりして。あぶないです。


別にもう一つ、「彼」がベイルートにいたことがあるというのも、ちょっとひっかかりました。
ベイルートといわれて、ぼんやり頭の私の頭に思い浮かんだのは、「連合赤軍」でした。
1983年に発表された『納屋を焼く』ですが、このころは極左革命集団の行為の傷が、苦い残り香のようにあった時代だったかもしれません。
なんとなくざわっとする。
……なんとなくざわっと、するとしか言えない、読み取れないところに忸怩たるものがあるわけですけど。
仕方ない、、これはそういう小説なのですから。


 僕はまだ毎朝、五つの納屋の前を走っている。うちのまわりの納屋はいまだにひとつも焼け落ちてはいない。どこかで納屋が焼けたという話もきかない。また十二月が来て、冬の鳥が頭上をよぎっていく。そして僕は歳をとりつづけていく。
 夜の暗闇の中で、僕は時折、焼け落ちていく納屋のことを考える。

なんともいい切れ味のラストの文章です。
本当に村上春樹の文章ってキレがあって読みやすいなあ。。リズムがあって流れが心地いいったらない。
キレる。。。あ、けど待って、ちょっと、消えた彼女は!?

 **************


ちょっとわかったかと思えばまた離れていく、『納屋を焼く』はまったく私にとって魔の難儀小説でした。

そんな訳で私なりの執着ぶりでがんばってフォークナーの同名小説を読んでみたり、『グレート・ギャツビー』を読んだりしながら、NHK放映の『バーニング』短縮バージョンと、今回の『バーニング劇場版』、本当に心待ちにしてたのでした。


小説『納屋を焼く』はもともと何かの骨格みたいな小説だと思えばいいのかもしれない、とも思います。
例えば恐竜とかの。

まったくの私のイメージですが、骨だけなんだけどバラバラにはなってなくて、不思議な強さでしっかり立っている。
そして肉付けは個人個人ですればいいと。すればいいというか、書かれてないんだから仕方ない、やるなら涙目でも個人でやるほかはないと。
草食になるのか肉食になるのか。どこ向いてるどんな種類の恐竜になるかは、自由。
それが読み手の答えということになるのでしょう。

『バーニング劇場版』は、イ・チャンドン監督が肉付けした恐竜なんだと思いました。
すごくそう感じました。
原作には感じられない激しい情念と哀しみが湿度高く描かれていて、今の韓国の若者の苦悩をまざまざと観せてくれました。

原作の大幅な脚色にはかなり驚きますが、不穏さ、隠された暴力性、複雑さ、相反性が通底していて、ああこれは確かに『納屋を焼く』だ、と思えました。
なんというか、あのえもいわれぬヤバさの色合いが同じ、と言いましょうか。

さらに、わかりやすいハルキ色がそこかしこにおさめられていて嬉しくなります。
ジャズ。綺麗なキッチンでパスタ料理。
そして忘れてはならない「井戸」。そこに落ちた
エピソードなど。かかせません。
「メタファー」「同時存在」。←こういう言葉があるばかりに、うすぼんやりのこの頭に負荷がかかって悩ましい、ハルキの言葉たち。つらいが、これもかかせません。
その悩ましさこそが深い魅力なのでしょうから。


村上春樹氏が『納屋を焼く』の改訂版で、当初使われていた名前をあえてはずしたというフォークナー。

(初 版)僕はコーヒー・ルームでフォークナーの短篇集を読んでいた 
(改訂版)僕はコーヒー・ルームで週刊誌を三冊読んだ 

『バーニング劇場版』では、そのフォークナーの同名の小説『納屋を焼く(納屋は燃える)』をものすごい大胆に取り込んでました。
その上グレイト・ギャツビーもきっちり取り入れている巧みさ。
2つの作品がよくこうも上手くストーリーにはまり込んだものだと思うほど。

フォークナーの『納屋を焼く』の主人公サーティは、怒りの感情を制御できない父親への愛と反発に引き裂かれている少年です。
父親は、権威への反発から地主の納屋を放火することを繰り返してきて、今また雇い主の納屋を放火しようとする。
少年は走って雇い主の家へ行き、納屋が火事になる、と訴える。銃声が聞こえた(たぶん父親が射殺された)後も、走り続け、ひとり森の中へ入って行きます。
少年の不遇さと一途さがせつない、短編小説です。

『バーニング』の主人公
ジョンスが表には出さないけど、ずっとかかえている懊悩。それは、やはり自分を曲げられず怒りを制御することが出来ない暴力的な父親、その血。
もしかしたら子どもの頃やったのかもしれないハウスへの放火。出ていった母親の服を焼かされた時の夢を今でも見たり。トラウマはつきません。


消えてしまった彼女・ヘミに、ギャツビーみたいな彼=ベンがどんなふうにかかわったのかは最後までわからないのですが、その挙動は限りなく怪しく、他の女性たちにもまた同じことを繰り返すだろう思われる。
そんなベンの息の根を止め、
最後は自分の服まで焼いて裸で車で走っていくジョンス。
彼もサーティのように、新しい場所へ行くのでしょう。。きっと。

ジョンスは作家の卵です。
夢なのか現実なのか、妄想なのかよくわからない場面が特に後半多いのですが、この結末のシーンはやはりジョンスの書いた創作なのでしょう。
ジョンスは創作の中で自らの分身でもあるベン=「悪」を殺し、すべてのトラウマに自分で始末をつけた、ということなのかもしれません。

それにしても『バーニング』のベン役のスティーブン・ユァン、ヤバすぎです。
スルっとしてスマート、美形。財力・能力、万能。表層爽やか、如歳なく優しげ。
だが内側は迷宮です。誰にもわからない。
とことん怪しげだけど、わかりません。
そんなベンをたっぷり堪能させてくれる、それはもう凄い演技でした。

ベンは、料理を作りながら、これは神への供物。自分で料理して食べるところがいいんだとか、まさにメタファー表現をぶちかますわけだけど、このシーンで私は、村上春樹著『約束された場所で』を思い出しました。
村上春樹がオウム真理教に入信した人たちをインタビュー取材して書いたノンフィクションです。
その中のある一人女性の話です。
女性は、幼い頃から夢と現実の区別が曖昧で、夢の中で様々な恐怖も哀しみも体験し、この世は無常で、無常なるが故の苦しみというのがあるのだということに気づいたと言います。
 「つまりあなたにとっては、現実の生活とはパラレルに、意識の中に「もうひとつの生活」があり、そして現実の生活においてよりは、むしろ「もうひとつの生活」において、様々な感情的な体験をくぐり抜けることによって、そのような明確に認識に達したということなんですね?
 (これまるで村上春樹による村上春樹小説の解説のよう)

この質問に「そうです」と答える、
この女性は、オウムに入るより作家になるべきだったよとつくづく思ってしまいます。
 
 (彼女は)現世のものごとにはまったく価値を見いだすことができないし、自分の中の精神世界を追求する以外のことにはほとんど興味を持つことがない。だから現実を離れて一途に精神の修行に励めるオウム真理教団は、ひとつの楽園のようなものだったのだ。(略)問題は、こういう人たちを受けとめるための有効なネットが、オウム真理教団の他には、ほとんど見あたらなかったということにある。


翻って 『バーニング』のヘミ。
誰にも(彼女がただ一人信頼しているジョンスにさえ)理解されない「グレート・ハンガー」の踊りを美しく舞って泣いたヘミ。
精神世界を追求する以外のことには、もうほとんど価値を見いだせないかのような孤独なヘミ。
彼女が現世から消えるということは、つまり「出家」ということも。
・・仮説として。

思えば原作の『納屋を焼く』は「僕」の視点で書かれてるもので、当然僕が見た「彼女」像が描かれてたわけです。
あっけらかんとしてよく食べ、すぐ眠る、悪くいえば単細胞的女の子として描かれていました。
でも『バーニング』を観て、そうか「僕」は彼女の内側を何もわかっていなかったのかも、と思った。
だから「彼女」は去ってしまったとも考えられると。


「そこに蜜柑があると思いこむんじゃなくて、そこに蜜柑がないことを忘れればいいのよ。それだけ」。
『納屋を焼く』のキモである彼女のセリフ、もちろん映画でも使われていました。
ハルキ・テイストでさらっとこんなふうに書かれると、どうしたって哲学的な感じで、私などついひるむわけですが、まてよ、これはもっと単純にも考えられる、と思ったのです。
つまりそこに無いということを忘れるというのは窮極の、寂しさの回避法なのじゃないかと。

愛なんてどこにも無いと思えば気楽 
はじめから無いものはつかまえられないわ


と中島みゆきも歌っているではありませんか。

みんなひとりぼっち 海の底にいるみたい

だから誰かどうぞ上手な嘘をついて
いつも僕がそばにいると夢のようにささやいて
それで私たぶん少しだけ眠れる
     『孤独の肖像』より

          
と。

寂しさに耐えられないときは眠ってしまうしかない。しばらく死ぬしかない。
だから彼女はどこでもすぐに眠ってしまうのではないか。子どものように。

「僕」はそんな彼女の内面に気づかず、気づこうともせず、
そこに蜜柑があると思いこむんじゃなくて、そこに蜜柑がないことを忘れればいいのよ。それだけ」の言葉に、「まるで禅だね」と返答する。

「(愛なんて)無いをことを忘れればいいのよ」もしそれが彼女の寂しさの激白だったとしたら、「まるで禅だね」という言いようはあまりに冷酷じゃないか。
これでは彼女も去って当然です。

映画のヘミに感情移入しすぎるとこのような感想になります。
怒りすら湧いてきます。


ジョンスも同じだ。
孤独で居場所が無いヘミが、夕暮れ時、もうそこに溶け込んで消えてしまいたいという、ぎりぎりの思いで半裸になって踊る。その後眠ってしまったヘミ。
そんなヘミにむかってジョンスは「なんで簡単に男の前で服を脱ぐんだ。あれじゃ娼婦と変わりない」などと、古いオヤジのようなこごとを言ってしまう。

言葉のDV、表情のDV。この時のジョンスはいかにもそのうち本当の暴力をふるいそうです。
ヘミの失望やいかに、です。そりゃ去るでしょう。

このようにどこか決定的にズレてる「僕」=ジョンスですが、物語の終盤、彼(ベン)から、彼女(ヘミ)はあなたのことを本当に信頼していた、自分が嫉妬するくらいに。と聞く。
そこでやっと僕=ジョンスはハッと我に返るのです。
この部分は小説も映画も同じ。キーポイントなのでしょう。
僕らは本当に彼女のことをわかってたのか。

ベンは「彼女の行方を知ってるか」と、こっちこそベンに聞きたいことを聞いてきます。
なんだよ、彼=ベン、やってないのか?!
登場から周到に形づくられてきた彼=ベン悪人イメージがにわかに疑わしくなり、ここで私のストーリーの理解は混乱をきわめました。

というか、必死で今思い出して、ひねくり返して考えているわけだけど。
相反するものが複雑に「同時存在」する物語なので。(たぶん)
複雑。

思い出してみれば『グレート・ギャツビー』は、謎の多い富豪ギャツビーが主人公の話ですが、ギャツビーは別に悪人というわけではなく、むしろ片思いの純愛を貫き、最期は嫉妬に狂った町工場の親父に、半分間違いで撃ち殺される、という悲劇の話だったはず。
間違いで。。。

富豪となり、すべて手に入れたように見えたギャツビーですが、生涯をかけた上流階級の女性への思いはかないません。
憧れても憧れてもついに手が届かないのです。
ギャツビークラスにのし上がったってなお、見えない届かない階級がかすみの向こうにはある。
そう考えると世界はあまりにシビアで残酷、、、頭が重くなります。


ベンが、ハウスを焼くことを話しながら左胸のちょっと上をこぶしで叩いて、「ここでベース音を感じるんです、骨の髄まで響くベース」と言い、その後もう一度くらい同じことを言うシーンがありました。
その仕草と熱量が印象的で忘れられません。
骨の髄まで響くベース音、つまり燃えるような生きている実感でしょうか。
その言葉はジョンスに「もう暴力性を現実に解き放ってしまえ」とそそのかしているようにも聞こえるし、またもうひとつ、「書け。書くことで自分を解放しろ」と言ってるようにも聞こえるのです。おまえが骨の髄まで響くベース音を感じられるのはそれだけだろうと。
フォークナーが、グレート・ギャツビーを書いたスコット・フィッツジェラルドが、「書け、文学に向え、俺のように」と言ってる。きっとそう。。思わずそんな夢想をしてしまったことでした。

 

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