Rain Rain Drops

本、音楽、映画など。発作的に書いています

バーニング&納屋を焼く その1

2019-02-22 11:47:16 | 映画

 




『バーニング劇場版』
148分。
最初から最後まで、息を詰めるように観てました。
ふだんおよそ集中力などない私が。こんなにのめり込んで観た映画って、あっただろうか昨今。。ってくらい。


村上春樹の原作『納屋を焼く』は、去年たまたま読んでいたのですが、それはおそろしい短編小説でございます。
魔の小説と言いたいくらいです。何よりそのわからなさがおそろしい。
一読、私なんか手も足も出ない、と思った。
なのに妙に尾を引いて気になってしまい、頭からぜんぜん離れていってくれないのです。

仕方がないのでしつこく何度も読み返したわけですが、結果、わかったことは、
「私わからない」、これでした。
わからないということがわかった。
もう少し自分に甘く言うと、わかるように書かれてないということがわかった、というか。
それぐらいてっとり早く解れよ、と自分でも疲れますが、このカスカス頭では仕方ないのです。

で何、彼女は彼に連れ去られたのか? で? どうなったの、え?
なんだい、同時存在って。
・・・答は無い。

仕方ないから小説を頭から1メートルくらい離して、ぼんやり考えてみる。
読んでもわからないんだ、こうなったら「感じる」しか無いだろうと思って。

まず全体になんとなく空気が薄くて息苦しい、そして不穏な匂いがする、これだけはわかりました。

ーー二ヵ月にひとつくらいは納屋を焼きます」と彼は言った。そしてまた指を鳴らした。

ーー彼はコートのポケットの中で何度か指をならした。


など短い一文に漂う暴力の匂いがこわい。

冒頭からの「僕」の、「彼女」との関わり方の異様な希薄さ、無気力感。
そういった場所には、人知れず怪しげなものが忍び寄ってくる。そんなふうにも思えます。

退廃が招き寄せる暴力の影。。


すごく
気になった一文がこれです。
彼と彼女が僕の家を訪れるという日、

 よく晴れた気持の良い日曜日で、庭のくすの木を眺めながらりんごを食べていた。僕はその日だけでもう七個もりんごを食べていた。ときどきそういうことがある。病的にりんごが食べたくなるのだ。あるいはそういうのは何かの予兆なのかもしれない。

りんごといったら、聖書の禁断の果実ではないでしょうか。
とすると「僕」はそんなキケンなものを、もう7個も食べている。のちにもう1個も。
いけない! 
もはや、何かしら邪悪なものを自ら呼び寄せている、、としか思えません。
そしてやってきた「彼」は、マリファナを勧め、ぼんやりした僕にささやくわけです。
「ときどき納屋を焼くんです」と。
しかも今度はこの「すぐ近くです」と。

そもそも「彼女」と「彼」は、本当にいるのか? 

全部「僕」の妄想じゃあないのか。
だいたい小説作品というものは作家の妄想なのだから、妄想の作品の中で主人公がまた妄想してるんじゃないかとか考えると・・ああ混乱する。
頭がおっつきません。
それくらい不思議な現実感の無さが、『納屋を焼く』の「彼」と「彼女」にはあるのです。

「彼」は僕の分身なのかもしれない、とも考えられる。
僕の中の暗闇が現れ出て、自分自身をそそのかしてるようにも感じられて。

「納屋を焼くんです」という彼の言葉に驚いた「僕」は、近所の納屋をパトロールするべく地図を購入し、効率よく巡るための綿密な計画を立てて、走り始めます。

村上春樹氏が走る人だというのは有名な話ですが。
『職業としての小説家』にこんな文章が載っていました。ーーーーーーーーー

 ちなみ僕の場合の「悪魔祓い」は走ることです。かれこれ三十年ほど走り続けているんですが、毎日外に出て走ることで、僕は小説を書くことで絡みついてくる「負の気配」をふるい落としているような気がします。

負の気配をふるい落としてなんとか正気を保つために「僕」は、納屋を巡って走り続けているということなのか。
古い納屋は不要、焼け、捨てろ、暴発しろ、そして忘れろとそそのかす、そんな声と闘いながら。
そんなふうにも思われます。

村上春樹『雑文集』からーーーーーー
 しかし僕は思うのだけれど、このように相反的なるものの同人存在の中にこそ、われわれの偉大なる「普通性」があるのではないか。よく考えてみれば、我々は実は適当にまとめられる借り物の自分と、借り物ではないけれどうまくまとめられない自分との奇妙な狭間に生きているのではあるまいか。我々ははっきりとどちらにつくこともできず、どちらにつこうという決心もできないままに、「普通の人」としてこの世にずるずると生きているのではあるまいか。

 その相反性の中で不安定によたよたと揺れ動きながら、自分の目ではそのよたよたさのおかしさを捉えられない。


人間はよたよたであやういと。
ともすれば自分の中の暗闇が形をもって現れ出て、静かに正気を失うこともあるのかもしれない。
晴れた日曜日に、なぜか病的に背徳のりんごが食べたくなったりして。あぶないです。


別にもう一つ、「彼」がベイルートにいたことがあるというのも、ちょっとひっかかりました。
ベイルートといわれて、ぼんやり頭の私の頭に思い浮かんだのは、「連合赤軍」でした。
1983年に発表された『納屋を焼く』ですが、このころは極左革命集団の行為の傷が、苦い残り香のようにあった時代だったかもしれません。
なんとなくざわっとする。
……なんとなくざわっと、するとしか言えない、読み取れないところに忸怩たるものがあるわけですけど。
仕方ない、、これはそういう小説なのですから。


 僕はまだ毎朝、五つの納屋の前を走っている。うちのまわりの納屋はいまだにひとつも焼け落ちてはいない。どこかで納屋が焼けたという話もきかない。また十二月が来て、冬の鳥が頭上をよぎっていく。そして僕は歳をとりつづけていく。
 夜の暗闇の中で、僕は時折、焼け落ちていく納屋のことを考える。

なんともいい切れ味のラストの文章です。
本当に村上春樹の文章ってキレがあって読みやすいなあ。。リズムがあって流れが心地いいったらない。
キレる。。。あ、けど待って、ちょっと、消えた彼女は!?

 **************


ちょっとわかったかと思えばまた離れていく、『納屋を焼く』はまったく私にとって魔の難儀小説でした。

そんな訳で私なりの執着ぶりでがんばってフォークナーの同名小説を読んでみたり、『グレート・ギャツビー』を読んだりしながら、NHK放映の『バーニング』短縮バージョンと、今回の『バーニング劇場版』、本当に心待ちにしてたのでした。


小説『納屋を焼く』はもともと何かの骨格みたいな小説だと思えばいいのかもしれない、とも思います。
例えば恐竜とかの。

まったくの私のイメージですが、骨だけなんだけどバラバラにはなってなくて、不思議な強さでしっかり立っている。
そして肉付けは個人個人ですればいいと。すればいいというか、書かれてないんだから仕方ない、やるなら涙目でも個人でやるほかはないと。
草食になるのか肉食になるのか。どこ向いてるどんな種類の恐竜になるかは、自由。
それが読み手の答えということになるのでしょう。

『バーニング劇場版』は、イ・チャンドン監督が肉付けした恐竜なんだと思いました。
すごくそう感じました。
原作には感じられない激しい情念と哀しみが湿度高く描かれていて、今の韓国の若者の苦悩をまざまざと観せてくれました。

原作の大幅な脚色にはかなり驚きますが、不穏さ、隠された暴力性、複雑さ、相反性が通底していて、ああこれは確かに『納屋を焼く』だ、と思えました。
なんというか、あのえもいわれぬヤバさの色合いが同じ、と言いましょうか。

さらに、わかりやすいハルキ色がそこかしこにおさめられていて嬉しくなります。
ジャズ。綺麗なキッチンでパスタ料理。
そして忘れてはならない「井戸」。そこに落ちた
エピソードなど。かかせません。
「メタファー」「同時存在」。←こういう言葉があるばかりに、うすぼんやりのこの頭に負荷がかかって悩ましい、ハルキの言葉たち。つらいが、これもかかせません。
その悩ましさこそが深い魅力なのでしょうから。


村上春樹氏が『納屋を焼く』の改訂版で、当初使われていた名前をあえてはずしたというフォークナー。

(初 版)僕はコーヒー・ルームでフォークナーの短篇集を読んでいた 
(改訂版)僕はコーヒー・ルームで週刊誌を三冊読んだ 

『バーニング劇場版』では、そのフォークナーの同名の小説『納屋を焼く(納屋は燃える)』をものすごい大胆に取り込んでました。
その上グレイト・ギャツビーもきっちり取り入れている巧みさ。
2つの作品がよくこうも上手くストーリーにはまり込んだものだと思うほど。

フォークナーの『納屋を焼く』の主人公サーティは、怒りの感情を制御できない父親への愛と反発に引き裂かれている少年です。
父親は、権威への反発から地主の納屋を放火することを繰り返してきて、今また雇い主の納屋を放火しようとする。
少年は走って雇い主の家へ行き、納屋が火事になる、と訴える。銃声が聞こえた(たぶん父親が射殺された)後も、走り続け、ひとり森の中へ入って行きます。
少年の不遇さと一途さがせつない、短編小説です。

『バーニング』の主人公
ジョンスが表には出さないけど、ずっとかかえている懊悩。それは、やはり自分を曲げられず怒りを制御することが出来ない暴力的な父親、その血。
もしかしたら子どもの頃やったのかもしれないハウスへの放火。出ていった母親の服を焼かされた時の夢を今でも見たり。トラウマはつきません。


消えてしまった彼女・ヘミに、ギャツビーみたいな彼=ベンがどんなふうにかかわったのかは最後までわからないのですが、その挙動は限りなく怪しく、他の女性たちにもまた同じことを繰り返すだろう思われる。
そんなベンの息の根を止め、
最後は自分の服まで焼いて裸で車で走っていくジョンス。
彼もサーティのように、新しい場所へ行くのでしょう。。きっと。

ジョンスは作家の卵です。
夢なのか現実なのか、妄想なのかよくわからない場面が特に後半多いのですが、この結末のシーンはやはりジョンスの書いた創作なのでしょう。
ジョンスは創作の中で自らの分身でもあるベン=「悪」を殺し、すべてのトラウマに自分で始末をつけた、ということなのかもしれません。

それにしても『バーニング』のベン役のスティーブン・ユァン、ヤバすぎです。
スルっとしてスマート、美形。財力・能力、万能。表層爽やか、如歳なく優しげ。
だが内側は迷宮です。誰にもわからない。
とことん怪しげだけど、わかりません。
そんなベンをたっぷり堪能させてくれる、それはもう凄い演技でした。

ベンは、料理を作りながら、これは神への供物。自分で料理して食べるところがいいんだとか、まさにメタファー表現をぶちかますわけだけど、このシーンで私は、村上春樹著『約束された場所で』を思い出しました。
村上春樹がオウム真理教に入信した人たちをインタビュー取材して書いたノンフィクションです。
その中のある一人女性の話です。
女性は、幼い頃から夢と現実の区別が曖昧で、夢の中で様々な恐怖も哀しみも体験し、この世は無常で、無常なるが故の苦しみというのがあるのだということに気づいたと言います。
 「つまりあなたにとっては、現実の生活とはパラレルに、意識の中に「もうひとつの生活」があり、そして現実の生活においてよりは、むしろ「もうひとつの生活」において、様々な感情的な体験をくぐり抜けることによって、そのような明確に認識に達したということなんですね?
 (これまるで村上春樹による村上春樹小説の解説のよう)

この質問に「そうです」と答える、
この女性は、オウムに入るより作家になるべきだったよとつくづく思ってしまいます。
 
 (彼女は)現世のものごとにはまったく価値を見いだすことができないし、自分の中の精神世界を追求する以外のことにはほとんど興味を持つことがない。だから現実を離れて一途に精神の修行に励めるオウム真理教団は、ひとつの楽園のようなものだったのだ。(略)問題は、こういう人たちを受けとめるための有効なネットが、オウム真理教団の他には、ほとんど見あたらなかったということにある。


翻って 『バーニング』のヘミ。
誰にも(彼女がただ一人信頼しているジョンスにさえ)理解されない「グレート・ハンガー」の踊りを美しく舞って泣いたヘミ。
精神世界を追求する以外のことには、もうほとんど価値を見いだせないかのような孤独なヘミ。
彼女が現世から消えるということは、つまり「出家」ということも。
・・仮説として。

思えば原作の『納屋を焼く』は「僕」の視点で書かれてるもので、当然僕が見た「彼女」像が描かれてたわけです。
あっけらかんとしてよく食べ、すぐ眠る、悪くいえば単細胞的女の子として描かれていました。
でも『バーニング』を観て、そうか「僕」は彼女の内側を何もわかっていなかったのかも、と思った。
だから「彼女」は去ってしまったとも考えられると。


「そこに蜜柑があると思いこむんじゃなくて、そこに蜜柑がないことを忘れればいいのよ。それだけ」。
『納屋を焼く』のキモである彼女のセリフ、もちろん映画でも使われていました。
ハルキ・テイストでさらっとこんなふうに書かれると、どうしたって哲学的な感じで、私などついひるむわけですが、まてよ、これはもっと単純にも考えられる、と思ったのです。
つまりそこに無いということを忘れるというのは窮極の、寂しさの回避法なのじゃないかと。

愛なんてどこにも無いと思えば気楽 
はじめから無いものはつかまえられないわ


と中島みゆきも歌っているではありませんか。

みんなひとりぼっち 海の底にいるみたい

だから誰かどうぞ上手な嘘をついて
いつも僕がそばにいると夢のようにささやいて
それで私たぶん少しだけ眠れる
     『孤独の肖像』より

          
と。

寂しさに耐えられないときは眠ってしまうしかない。しばらく死ぬしかない。
だから彼女はどこでもすぐに眠ってしまうのではないか。子どものように。

「僕」はそんな彼女の内面に気づかず、気づこうともせず、
そこに蜜柑があると思いこむんじゃなくて、そこに蜜柑がないことを忘れればいいのよ。それだけ」の言葉に、「まるで禅だね」と返答する。

「(愛なんて)無いをことを忘れればいいのよ」もしそれが彼女の寂しさの激白だったとしたら、「まるで禅だね」という言いようはあまりに冷酷じゃないか。
これでは彼女も去って当然です。

映画のヘミに感情移入しすぎるとこのような感想になります。
怒りすら湧いてきます。


ジョンスも同じだ。
孤独で居場所が無いヘミが、夕暮れ時、もうそこに溶け込んで消えてしまいたいという、ぎりぎりの思いで半裸になって踊る。その後眠ってしまったヘミ。
そんなヘミにむかってジョンスは「なんで簡単に男の前で服を脱ぐんだ。あれじゃ娼婦と変わりない」などと、古いオヤジのようなこごとを言ってしまう。

言葉のDV、表情のDV。この時のジョンスはいかにもそのうち本当の暴力をふるいそうです。
ヘミの失望やいかに、です。そりゃ去るでしょう。

このようにどこか決定的にズレてる「僕」=ジョンスですが、物語の終盤、彼(ベン)から、彼女(ヘミ)はあなたのことを本当に信頼していた、自分が嫉妬するくらいに。と聞く。
そこでやっと僕=ジョンスはハッと我に返るのです。
この部分は小説も映画も同じ。キーポイントなのでしょう。
僕らは本当に彼女のことをわかってたのか。

ベンは「彼女の行方を知ってるか」と、こっちこそベンに聞きたいことを聞いてきます。
なんだよ、彼=ベン、やってないのか?!
登場から周到に形づくられてきた彼=ベン悪人イメージがにわかに疑わしくなり、ここで私のストーリーの理解は混乱をきわめました。

というか、必死で今思い出して、ひねくり返して考えているわけだけど。
相反するものが複雑に「同時存在」する物語なので。(たぶん)
複雑。

思い出してみれば『グレート・ギャツビー』は、謎の多い富豪ギャツビーが主人公の話ですが、ギャツビーは別に悪人というわけではなく、むしろ片思いの純愛を貫き、最期は嫉妬に狂った町工場の親父に、半分間違いで撃ち殺される、という悲劇の話だったはず。
間違いで。。。

富豪となり、すべて手に入れたように見えたギャツビーですが、生涯をかけた上流階級の女性への思いはかないません。
憧れても憧れてもついに手が届かないのです。
ギャツビークラスにのし上がったってなお、見えない届かない階級がかすみの向こうにはある。
そう考えると世界はあまりにシビアで残酷、、、頭が重くなります。


ベンが、ハウスを焼くことを話しながら左胸のちょっと上をこぶしで叩いて、「ここでベース音を感じるんです、骨の髄まで響くベース」と言い、その後もう一度くらい同じことを言うシーンがありました。
その仕草と熱量が印象的で忘れられません。
骨の髄まで響くベース音、つまり燃えるような生きている実感でしょうか。
その言葉はジョンスに「もう暴力性を現実に解き放ってしまえ」とそそのかしているようにも聞こえるし、またもうひとつ、「書け。書くことで自分を解放しろ」と言ってるようにも聞こえるのです。おまえが骨の髄まで響くベース音を感じられるのはそれだけだろうと。
フォークナーが、グレート・ギャツビーを書いたスコット・フィッツジェラルドが、「書け、文学に向え、俺のように」と言ってる。きっとそう。。思わずそんな夢想をしてしまったことでした。

 

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エイリアン コヴェナント

2017-09-19 22:53:34 | 映画

前から楽しみにしていた「エイリアン コヴェナント」を観た。
リドリースコット監督だしなあ、とわくわく楽しみにしてたわりには情報知らずで、5年前の「プロメテウス」の続編だと知ったのがなんと前日。
プロメテウス! 確かそんなのを観た記憶はある、でもぜっんぜん覚えてない。
あわててDVDを借りに走ってもう一度観てみた。ほんとにこれ観たのか?てほど、ほとんど覚えてなかった。
よく考えたらこのブログにメモみたいな感想を書いて続編がすごい楽しみだみたいなことまで書いてた。あきれた。

言い訳のようだけど、も一回観てもかなりわかりにくい。。「プロメテウス」。
ストーリーの流れがガタガタする感じ、いやに不親切な感じというか。映像は凄いんだけど。
これの続編か・・・どうなんだろうと思いながら観た「エイリアン コヴェナント」。
すごく良かった! ストーリーの流れもすんなり。最後まで夢中で観ました。
「プロメテウス」とも確かにつながったし。

ただのリメイクっぽかったらヤダなあと思ったけど、そういうレベルのものでもない。
血肉飛び散るエイリアンとの絶叫対決は、そこはそれ。お約束だから。
過去の作品でぐうの根も出ないほどやり尽くされ、観せられてるから、もうそんなにおどろかなかったけど。

今回は過去の「エイリアン」よりさらにさらにおそろしいモノが描かれておりました。底深くおそろしい世界。


驚いたことに「エイリアン」1がつくられたのはもう40年も前になるのだと。
「エイリアン コヴェナント」にはその40年の歳月の重みがずっっしり入ってる気がしました。
世界は変わった。どんどん変わりつつある。監督の人間観もきっと変わってきたことでしょう。
人に似た、人でない邪悪なものに支配される恐怖。今の世界にリンクしていてゾッとする。




人間は愛する人の死を悲しみ泣く。情に揺れて判断をあやまる。
それで行くべきじゃないとわかっていても、ひょっとしたらとか思って怪しい星に降り立ってしまったりする。
信仰を最後の砦にしたりもするし、美しい「湖畔の小屋」を作ることを夢想する。甘い、もろい生き物。

それが未成熟ということとするなら、エンジニアが人間を滅ぼそうとしたのはそれゆえか。失敗作として?
死の不安から神の領域にまで近づいて、ついにはエンジニアを滅ぼすようなものを作り出すことを見越してか。


ひとつだけ、私がどうしてもひっかかるのはエンジニアのありようなのです。
人類の創造主! にしてはちょっと、、「プロメテウス」でののっけからの登場がまず唐突すぎやしないだろうか。
もうちょっともったいつけた登場の仕方が無かったんものだろうか。人類のモトなんですよねあの人。
え~~~っ!
「エイリアン コヴェナント」でも神々たち、いきなり全滅させられてるし。
ちょっと待って。と言いたくなる。
いくらデヴィッドが無敵の極悪アンドロイド化したといっても、それに対して存在感薄すぎないかエンジニア。
エイリアンの起源は了解した。でも人類の起源の方は、、マジかホントか?感が最後まで残ってしまうのです。

とにかくこの映画、極悪アンドロイド・デヴィッドの独壇場。ピアノ弾くは笛吹くわちょっとBL(?)入ってるわ。
狂気の科学者。髪伸びるし。不気味だ。
ひょっとしたら優しいエリザベスに愛情をいだいたのかも知れず、愛していながら殺すというこのあたりのエグさ。負の妖しさ。



続編が楽しみです。。
今度こそ忘れないようにしよう。
何年先か。少しでも今より、細い光でいいから光が見える世界になっていて、それが映画の中に反映されてたらといいのにと本当に思う。
2017年の「エイリアン コヴェナント」、辛すぎです。
でも傑作だと思います。





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三度目の殺人

2017-09-16 21:56:11 | 映画




凄い映画を観たと思う。

けっきょく事件の真相はわからないまま終わる映画。
誰が殺したのかも、殺した理由もはっきりとわからない。
藪の中。

どういうふうにもとれるのです。

でも、難解な短編小説読んだ時みたいに、え。終わり?ちょっと待っておいてかないで、わかんねー。的な置いてかれ感(私はそういうことが著しく多い)は無い。
わからないのはワタクシがバカだからだけではなく、あえてそういう作りになっているから。と、そう思えるのです。
余白と奥深さがハンパなくある。

観る人によって、どんなふうにも解釈できる。納得いくストーリーを作る、と行かないまでもイメージを勝手に膨らますことができる。
そうするしかないというか。そういったことが大好きな人間にはたまらない映画だと思えます。


人って、真相がわからなくても、わかりたいと思うと勝手にストーリーを作り出す、そうせずにはいられない生き物なんだ。

主人公の弁護士重盛(福山雅治)が、どんどんそうなっていったように。
それがこの映画のテーマの一つであるのでしょう。

私達は福山雅治と一緒になって、迷宮の十字路で「本当のことを教えてくれよ」と懊悩の叫び声をあげればいいのかもしれません。

・・・・うんそうしよう。とひそかに思う。

「本当のこと」とは事件の真相というより、もう私はあなたのことがわからない、人間のことがわからない、これからの自分の行く道がわからない。神さまがいない。どうするのが正しいのかわからない。それを教えて欲しい。そういうことだ、と思えます。


そもそも真相なんてわからないのに、裁判は人を裁かなければならない。
そこで「真相」は見て見ぬふりとすっとばして、法廷戦術、訴訟経済などという言葉が裁判のウラ側で飛び交う。
映画はこれでもかというほどそんなシーンを観せます。
マジかよと思うセリフがいっぱい。

重盛はまだ「青くさい」後輩弁護士に、
「法廷戦術以外に俺たちが考えることがあるのか?」
と言い放つような、自信家でいけすかない男です。クリクリ・キッチリのパーマ髪。

およそそのクリクリ短髪が乱れることは生涯無いように見えた彼が、被疑者三隅(役所広司)にじわじわと翻弄され、あれほど興味のなかった「真相」を知ろうとするようになる。
しかし報われることは無く、三隅にハメられたのかも知れず、そうじゃないのかも知れず。
ただ、答えのない迷宮を答えの無いままに描いた映画の中で、唯一確かなこととして救われた気がするのが重盛のこの心の動きでした。
髪振り乱し、口角泡を飛ばし、というような表面上の乱れ方は無いにせよ、じわじわと情に崩れて行く感に共感を覚えるのでした。

そしてなんといっても三隅役の役所広司!
もう、こわい。
存在感、底なし沼。
3D映画じゃなくてほんとに良かった。
立体で彼がアップで直視してきたら、絶対のけぞるでしょう。
こわくて。
善も悪も内包したような底無しのあのスケール感。観る人が想像するストーリーのふり幅はどこまでも大きくなれる。

三隅は「君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる(by中島みゆき)」と咲江(広瀬すず)を守るために、自らを消したのかもしれないし。重盛を利用して。それが三度目の殺人だと。

いやそうではなく、今も昔も情など無い「からっぽの器」=サイコパスなのかもしれないし。
サイコパスだったけど、奇跡的に会心できたのかもしれないし。
半分悪魔、半分善人=つまり普通の人なのかもしれないし。
わかりません。
人間は底なし沼。
やはり福山雅治と一緒に十字路で途方にくれるしかないのでしょうか。



咲江(広瀬すず)も、とても良かった。
まっすぐな美しい瞳。
そりゃこの少女を疑うなんて、と思いますが「もしや」と思わせるところがこの映画の凄いところで。
重盛の、嘘泣き上手で真意のよく掴めない娘とオーバーラップさせたところが面白いです。

ひとりよがりの私感でアレですが、足の悪い謎めいた少女といってどうしても思い浮かぶのは、ドストエフスキーの小説に登場するリーザ。
美しく賢く、小悪魔的といったらこの人。14歳。きっとまっすぐな瞳。
「悪霊」にもリーザという名の女性が登場して悪魔のような主人公スタヴローギンとからんだりする。

となると咲江と三隅が小悪魔と悪魔に見えてきもする。そういえば咲江の母親(斉藤由貴)もあのあざとさ・したたかさがロシア文学女性っぽくないだろうか。。いえわかりませんが。
よくわからないながらドストエフスキー的文学的深淵が垣間見えてきたりして、素晴らしい。あれ以降広瀬すずを見るとリーザだ、と思ってしまう。忘れられない映画になりました。


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君の名は。

2016-12-09 19:22:49 | 映画

 

 感動した。
 思えば劇場でアニメ映画を観たのは初めてで(もっと観るべきだったと今更思う)、押しも押されもせぬ中高年としてはちょっと気恥ずかしいようなミスマッチなような感じがしてたわけだけど、観はじめるなりそんなのはフッ飛んだ。
 ミスマッチ感を感じてまだ観てないという中高年の方がもしいらしたなら、もったいないのですぐ観に行った方が良いかと。
 壮絶に残酷で、なのに美しく流れ落ちる「彗星」をぜひ劇場のスクリーンで。。

 ヒトの中身が入れ替わるのはフツーじゃないとはいえ、ごくフツーの日常の話から始まって、どんどんスケールは壮大となり、時空を飛び越えていく。とにかくその展開にあらがいようもなく引き込まれてしまう。一番のクライマックス、カタワレ時に二人が出逢うシーンは私などが申すまでもなく、語り継がれる名シーンとなることは必至でございましょう。

 感動の勢いで新海監督が書いた小説版を買って読んでみました。
 時間があっちこっち行き交うようなストーリーは、頭の弱い私は基本的に苦手なため文章での確認が必要でもあって。

 で、小説の中で、映画ではわからなったことが二つわかった。

 かつて集落に落ちて集落を滅ぼした隕石「人はそれを記憶に留めようとする。なんとか後の世に伝えようとする。文字よりも長く残る方法で。彗星を龍として。彗星を紐として。割れる彗星を、舞いのしぐさに。」
 つまりあの組紐は彗星を表してたと。

 で、巫女さんの舞いの手のかたちは彗星が割れるのを表わしているのだと。
 いにしえの人が、祈る思いで危険を伝えようとしたということ。人間はいやおうなく、忘れてしまうものだから。

 中高年として最も共感を覚え、ここだっと思うのはここ。

 忘れてしまう


 やろうとしてたこと、やらないといけなかったこと。アッというまに忘れてる。
買い物に行って買い忘れたものの一つや二つあるのがフツーだし、昨日も灯油缶を忘れて灯油を買いに出た。人の名前なんて最たるもの。その人の顔、言った言葉やった事、それらは覚えているのになんでだか名前は真っ先に忘れて出てこない。

 ・・・でもこの映画での忘れる、そんな中高年の脳のおとろえなどという卑近な話ではもちろんなくて。もっと哀しくせつなく普遍的なものなのでしょう。


小説から……
 
  消えていく。あんなにも大切だったものが、消えていく。

  こぼれ落ちていく。あったはずの感情までが、なくなっていく。

  悲しさも愛おしさも、すべて等しく消えていく。なぜ自分が泣いているのかも、俺はもう分からない。砂の城を崩すように、感情がさらさらと消えていく。



これ以後の文章はもう、監督自身の強い思いが噴出してるようで。

 砂が崩れた後に、しかし一つだけ消えない塊がある。これは寂しさだと、俺は知る。その瞬間に俺には分かる。この先の俺に残るのは、この感情だけなのだと。誰かに無理矢理持たされた荷物のように、寂しさだけを俺は抱えるのだと。
 ーーいいだろう。ふと俺は、強くつよく思う。世界がこれほどまでに酷い場所ならば、俺はこの寂しさだけを携えて、それでも全身全霊で生き続けてみせる。この感情だけでもがき続けてみせる。ばらばらでも、もう二度と逢えなくても、俺はもがくのだ。

 つまりは、表現するということはそういうこと、新海監督はアニメーションという媒体を通してそれをやっているのかもと思う。
 いやおうなく消えていってしまう記憶、意味。それをなんとか刻みこみ、伝えるために表現する、「神さまにけんかを売るような気持ちで」。
 美しくもがく」



 あとこの映画、音楽がやっぱり凄い。
 ここだここしかない!という鉄壁のタイミングで出てくる劇中歌たち!
 普通に考えるとこれだけ壮大なストーリー、つい壮大なクラシックなど使ってしまいたくなるものじゃないんだろうか。

 それはせずにあえてポップスに徹してる、潔さ。なんか若い人たちとこのポップ感を共有してるみたいで嬉しくもあるのです。
 何より美しいし、気持ちいいし。



 しかし、、、しかしです。

 映画の結末、これだけは私には納得できないのです。
 忘れてしまっている、でもなにか寂しさだけは残っている。忘れてしまってるけど、確実に何かがあった。
 ……もうそれだけでいいじゃないすか。

 甚大な被害を及ぼした隕石が一方でとても美しく目に映ったように、この世界には表と裏がある。目に見えるものだけがすべてじゃない。そう思うことが時には救いになるし、本質でもありそれが深みということだと思う。
 


 そこで終わって欲しい。現実に引き戻すのはやめて欲しいのよ。アタシは。 
 。。。と、二人のこの先に夢を描くことができないほど、現実にアレルギー的にくたびれている中高年はハスッパな心持で思うのでした。

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風立ちぬ

2015-03-06 16:57:49 | 映画

先月テレビで、ジブリ映画の『風立ちぬ』を観ました。
おととしの公開当時、そうとうな異色作だといって話題になってたのは知ってたが。
まさに・・・「そうとう」でありました。衝撃でした。
「感動した」というのとも違う。なんというかゾクッとするような、いたたまれない感じ。
その日の夜中は、ヘンな時間に目が覚めてしまい、映画を思い返して目が冴えてしまった。
いつも何があったって寝る、イギタナいこの私が。。。そうとうなことなのでした。

まったく多くを語らない主人公。人によってどんなふうにも読みとれてしまうような設定。
その上で「ゼロ戦」を設計した主人公を、ものすごくストイックに描いてる。
これって、、ただごとでない大胆さで、世間の「タブー」に触れてしまってるんじゃないだろうか。
世界に名だたるジブリの最新映画、しかも宮崎監督の最後の作品という王冠をかぶってる作品なのです。当然世界中のファンが観る、子どもも観る。
それでも作った。だからこそ作ったというんだろうか。
その大胆さが怖いくらいだ。ゾクッとする。。


主人公・堀越二郎は、美への執着と想像力が、狂気と紙一重なほど強かった人。
夢みるだけでなく、空想を現実の形にできる才能をも持っていた。そんな天才・二郎を、暗い時代が後押しした。
もし違う時代に生まれていれば、日の丸をつけない純白の機体を空に飛ばすことが出来たのかもしれないが。。が、そうはいかず。
美と隣合わせに、悪と死という呪いがかかっていても、夢に描いた「美しい飛行機」を作らずにはいられなかった二郎と、あらゆる誤解を招くかもしれないリスクを背負ってでも、二郎と二郎の「美しい飛行機」を描かずにはいられなかった宮崎駿監督。
2人がとてもオーバーラップする気がします。

二郎の作った美しい飛行機=戦闘機を、映像上で美しく描くというタブー。(ほんとに美しかった。アッ、かっこいいと正直思ってしまった)
そして、それを作り上げた二郎の感情の一部の欠落ぶり。(殺戮の武器に携わる逡巡、懺悔や痛苦の言葉はみごとに無い)
そこをかばうことなく、ストイックに描くというタブー。
・・・もう、キケン。
危険信号バクレツしてる気がする。
今や映像上で観ることはめったにないタバコのシーンだけど、この映画ではそんなタブーをせせら笑うかのように、紫煙がひきもきらずモクモクと描かれてもいるのです。
不敵だ。。

アニメの技術的なことは全くわからないこの私のシロオト目にも、美しい色彩と奥行きと驚異的な動き(風、、映像に命が吹きこまれる)のこの映画。
きっと類を見ない最高峰の技量なのでしょう。
その技量を駆使して、危険な地雷ものともせず、主人公とその時代を描いた。
ただ空を見上げ「美しい飛行機」を作りたい、その夢に突っ走った「天才」と呼ばれた人のことを。
以上。
あとはすべて観た人にゆだねる。おそるべき冷徹さで。
そういう映画なのだと思います。


二郎が戦闘機の設計を本格的に依頼されて、葛藤の表現もなく引き受けるシーンは、最もショッキングでした。
最初に観た時は、その驚きが胸にわだかまりすぎて、そののちの濃密な恋愛ストーリーに、なかなかはいり込むことが出来なかったほど。
そのように、観てる側が普通に期待するキモの部分をいくつも、この映画ははずしていくのです。
安直な感動や予定調和の安心など、もう虫唾が走ると言ってるかのように。
・・こんなことってあるだろうか。
安心して観られる、大人でもトベる、ジブリの心強いファンタジーは、どこ、どこなのぉ、、、、と涙目になってみても、作品も主人公も何も答えはくれない。
自分で考えるしかないということなのでしょう。
まるで強力にストイックな純文学のように。
イデオロギーとかそんなこんなとか、それよりも、もっと飛翔した高い空にある知の舞台の作品として、人間てものを表現する物語が描かれたということなのかもしれません。
予定調和から常識から、あえてかい離させた「作品」なのだから。私なんかがいつものようにボワ~ンと、甘酒かなんか飲みながら観ていても何もわからないのも道理かも。

もしかしたら主人公が口にしない逡巡を、後悔や懺悔、痛苦を想像で補わないといけないのかもしれないし。

いや。反対に、天才に葛藤などなく、凡人にははかりしれない狂気スレスレの熱情と才気をもって、美しく機能性に長けた物を作りだそうとする。そういうものだということなのかもしれない。
主題歌でユーミンが高らかに歌うように「わからない。他の人にはわからない」。そうなのかも。

そうなると確かにもうわからない。アタシには。
そういう世界もあるんだ。そういう人もいるんだ。そう教えられ、スゴスゴと引き下がるのみ。。

内容は混沌と矛盾、違和感の渦。なのに素晴らしくテンポよく、スッキリと映画は流れていって、飽きることなくのめり込ませてしまうという、この手腕は本当に凄いと思う。こういうのを傑作というのかもしれないと思います。

二郎の愛する人菜穂子は重篤な結核を患っていて、余命いくばくもない。
臥せってる菜穂子の隣で、二郎は左手で彼女の手を握り、右手でタバコを吸い戦闘機の設計をします。
キスしたりもする。二郎は魅かれてやまない対象には命を注ぎ、愛し、死をもいとわないのです。
「僕たちにはもう時間がない」と言うとおり、個人的にも社会的にも死が蔓延してる、すぐ隣にある。
その中でこそのせつない熱情、ということなのかもしれない。

喀血の連絡を受けて菜穂子の許へ急ぐ汽車の中で、恋しい菜穂子を思って泣きながら、手では計算尺を持って飛行機の設計を続ける二郎。
菜穂子を失うかもしれない恐怖から自分を支えるために、必死で夢の飛行機の設計しているのかもしれず。
しかしそれが戦闘機なのだから、事態は深刻、混沌をきわめるのです。

菜穂子への愛と夢とがないまぜになっての混乱。矛盾。
むちゃくちゃなのに、その二郎の姿になぜかこれが人間というものなんだ、とシンとした心で納得する。愛おしさすら感じてしまう。
この映画で一番胸に残ったシーンでした。


関東大震災のシーンや、ゼロ戦の墓場・残骸のガレキを二郎が歩くシーンを観れば、どうしたって3.11の震災・原発事故を思い出しもします。
育ちが良く正義感も持ち、夢見る賢い特別な少年だった、それがために最後には地獄を見る二郎さんの姿に、豊かすぎる時代に守られて育った後、大事故に遭遇した日本の私たちが重なって見えてきたりもする。
人間として何より怖ろしいのは、ある種の感情の欠落かもしれない。二郎さんも私たちも、地獄が眼前に広がる前に引き返すことができなかった、が、肝心な感情が欠落したままでいれば、また同じことを繰り返してしまうのかもしれず。。

そんなことまで考えたらば、いろいろ気になり、2回も3回も4回も通して観ては(しつこい)、無い頭を絞ってアレコレ考えてまた混乱する。
・・・これではいくらイギタたなく鈍感な私でも眠れなくなるというものだ。
私にとって「風立ちぬ」はそういう映画なのでした。


しかし3回も4回もしつこく通して観、理解したい納得したいと思いながらアレコレ考えてみた結果、わかってきた部分もありながら、ひとつの違和感は意に反してつのっていきました。
以下、まったく個人的な感想にすぎないのですが。。(というなら下記も上記ももともと超個人的だけど。)

やっぱ。どうみても二郎さん。戦闘機にかかわる葛藤の表現が、感情が希薄すぎではあるまいか。

最後にたどり着いた地獄にもすぐに日は射し、カプローニが髭を揺らしてなんだかお気楽に聞こえることを言って救い上げてくれる。
もちろん救われたい。私だって。が、あまりにもあっさり感がすぎるじゃないか? 
時代背景に比して、イメージ的に軽やかすぎやしないだろうか? 
ストイックにもほどがあるってものじゃないだろうか? ここまでやる?

ちょっと暴走して言うなら、もはやこの世のものならぬ菜穂子の「あなた、生きて。」だけで終わってたら。その方が良かった気がする。二郎の懊悩と救い、両方に私の妄想が拙いながらも膨らんで、納得できるような気がする。

映画中ごろで、二郎の「機関銃を乗せなければ、(機体が)もっと軽くなるんだが」と言うセリフが笑い話のように語られるシーンがありますが、どろどろの戦闘シーンの血みどろが描かれてないこの映画は、その分、ずいぶんと軽く爽やかなイメージを残して飛翔したようにも思えます。
カプローニの言葉、「飛行機は美しくも呪われた夢だ、大空はみな飲みこんでしまう」。
・・・と言われてもどうしてもムリがある。戦闘機は決して空想上の空へ飲み込まれたりせず、現実に人を殺すことを私たちは知ってしまってるから。

勢いで書いてしまえば、エンドロールの堀辰雄・堀越二郎に「敬意を表して」。
これもどうなんだろう。
これこそ一番の、本当のタブーじゃないだろうか。と感じてしまうのです。
堀辰雄はともかく、堀越二郎という、生涯を描くのに困難な側面を持つ人物に対しての思いを、「敬意」という言葉ひとつに集約させてしまうことこそ、あらゆる曲解を生むモトになるのでは。。。
「敬礼」と似た語感をいやおうなく持つ「敬意」という思いの意味を曲解なく伝えるためにこそ、この「風立ちぬ」という入魂の「物語」が必要だったんではないんだろうか。
それを、あえて最後につけたすように「敬意」という言葉をポンとおくのは、、、蛇足だし、あまりにフテキすぎるという気がしてしまうのですが。。

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