Rain Rain Drops

夢のような星の夜に

R帝国

2017-12-06 22:52:57 | 


中村文則『R帝国』。


衝撃
でございました。


全体主義の近未来の国を描いているのですが、現実とダブって読めて、たいへんに生々しくて。

かなりこたえております。


作中の人物の言葉、
君に今から、情報という名の絶望の種子をあげよう
まさにそう囁かれたような気分。


ディズニーシーの「タワーオブテラー」ってアトラクションがありますが。
ビルの中を垂直急上昇すると、ふいに窓が開いて現実の風景が眼前に広がるという演出の。
読後、唐突にあれを思い出したのです。

フィクションの、ぶっ飛んだ(でもリアルな)悲劇的世界に入りこんでいて、ふと顔を上げてまわりを見たら、あれ? そっくりの世界がそこにあるじゃん。
そう思った。
悪夢、というのはこういうことをいうんじゃないだろうか。とか。


村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を読んだ時、大戦時のある拷問の描写が激烈で、3日3晩ほど頭から離れず、ひどく辛い思いをしたことがあります。
ああハルキ、なんでここまで読ませるか、、と村上春樹を本気で恨みさえした。
でも、目をそむけてばっかりではいけないことなのだろうと今は思うのです。後世に残すべき名作だとも。
あの拷問描写の部分だけは二度と読みたくないけど。。


『R帝国』は、そういった暴力の具体的な描写は(中村文則本にしては)少ない。
なのに、読後数週間以上もたってる今でも、頭がキッと締め付けられてる感が消えません。
むしろ日を追うごとに、現実の世界が小説にどんどん寄っていってしまってるようで息苦しい。。


中村文則 書斎のつぶやき から

「R帝国」という小説を書いた。資本主義で、民主主義であるのに、独裁政権になってしまった国の物語。今の日本と世界を意識している。
 ヒトラーの「人々は、小さな嘘(うそ)より大きな嘘に騙(だま)されやすい」という言葉の引用を最初に置き、小説は「朝、目が覚めると戦争が始まっていた。」という一行から始まる。もし今の日本がこのまま進めばこうなってしまう、ということを意識した。
 戦争、テロ、差別、フェイク・ニュースなどの現在の問題を踏まえ、なぜこうなってしまったのかも、物語に乗せて分析することになった。


 日本と世界の流れに対する不安と危機感から、物語を構築することになった。僕の政治思想やその考え方の全てが入っている。



『R帝国』あとがき から  

 今僕達が住むこの世界の続きがこの小説の行く先を、明るいものにするか、暗いものにするか、決める構図にしたかった。
 僕達の世界の今後の展開が、この小説の世界の未来を決めるという風に。


*****************************************

つまり小説と現実が地続き、という構成なのであって、のっぴきならない。
何を大げさな。小説なんて架空の話じゃないのとうっちゃれるものなら、うっちゃりたい。
でもうっちゃれやしない。このところの現実ののっぴきならなさは、まさに怖ろしい小説に入り込んだようだから。




登場人物の一人、R帝国民である矢崎は、寝起きに、戦争が始まっていたことを知り、まず「まだ眠いな」と思います。
そして「つい二カ月前にも、戦争があった気がする」と思い、
ニュースを見ながら、朝食を何にするか迷う。
何か感じる不安はネットの掲示板(党のボランティア・サポーターが書き込んでいる)を見て「すっと言葉が入ってくる」意見を読んで気をしずめるのです。



朝、目が覚めるとミサイルが空を横切って、近海に落ちていた。
寝起きでそれを知るとき、この私も「まだ眠い」と思い、
「ついこの前もそんなことがあった。いつだったっけ」と思い、
ニュースを見ながら朝食を作り始める。
そして何か感じる不安は、「抵抗」意見を代弁してくれる人のネットの文章を見て気をしずめている。

同じ。 


すっと入ってくる言葉が、抵抗意見なのか、肯定意見なのかという違いはあるにせよ。
大筋は・・・同じ。


R帝国は、民主主義とは名ばかりの超管理・監視社会で、「党」と呼ばれる独裁政党の巧妙な心理誘導で、生活から、選挙から、戦争までも大半の国民はなすがまま。
「抵抗」という言葉は、辞書からも国民の頭からも消えています。
不満を感じるどころか、党を支持する。

「党」の幹部・加賀の示す数字が妙にリアルで。 ↓

 0.1%のエリートに99.9%のチンパンジーが理想だが、実際には、我々はまだ20%のチンパンジーしか造り出せていない。
 残りの50%は自分達の生活が可愛過ぎるため我々〝党〟を支持しているが、チンパンジーではない。そして30%ほどまともな人間がまだ残っている。だが、それでいい。
 20%のチンパンジーは声がでかいため、50%の人間達に影響し、まともな30%はそんな国民達と我々〝党〟を恐れ沈黙している。世界はつまり今、20%のチンパンジーによって動かされている。これは愉快だ。そうじゃないか?


・・・愉快じゃないから。

党幹部にとって、あるいは世界中のある種の支配者にとって、国民は「材料」。玩具なのだと。



   「人々は疲れたのだ。立派であることに。知性に、自立に、善に、共存に、そんな人間にとってハードルの高いことに、疲れたのだ」
 
 「人々が欲しいのは、真実ではなく半径5メートルの幸福なのだ」

だから支配者はそれを利用する。

 私はずっと思っていた。国を豊かなまま思い通り支配するために必要なのは、一部のエリートだけを残し、残りの国民達を無数のチンパンジーのような愚かにすることだと。・・

 我々がどこかの国を憎めと言えばキーキー憎み、さらに自分達の生活が上手くいかないのは誰かのせいだとキーキー騒ぎ、私達が何気なくあれが敵だと示せばそのフラストレーションから裏を考えることなくキーキー盛り上がってくれる存在達に。全体主義の〝熱風〟はあらゆる時代に出現したが、私達はその〝熱風〟をいつでもすぐ作り出すことができる。


人間を高みに上げることはたやすくないが、墜とすのはたやすいということなのでしょうか。

R帝国に「R教」という宗教はあるものの、形骸化し、一部の信者のみ狂信的信仰に生きる。目的は一つ、我が身の死後の平安、それだけ。
そのためには他人の死すらいとわない。偏狭で、社会の救いにはならない。むしろ時限爆弾。
党に信仰は無く、利用しているだけ。
死後の平安を信じているはずが、身勝手な理由で自分の命を惜しむことになった信者を、薬と引き換えに取り込んだりする。
別に人助けではなく、党の抵抗勢力を裏切らせるという目的のために。



そして最も怖ろしいのはここ。
党は軍需産業と一体化し、戦争は武器ビジネスのため。または石油利権獲得のため。
さまざまな国とのさまざまな絡み合いの中で大義無くはじめられる戦争。
自国民相手に、偽装・自作自演攻撃だってやる。国民の危機感を煽るためテロリストを利用しさえする。


『R帝国』読売新聞に今年2月まで連載されてたものだそうです。

フィクションだ、フィクションなんだけど。。。よく書いたものだ、と思う。中村文則さん。
それこそ「絶望の種子」がまかれてる。


「中村文則 書斎のつぶやき」から。

 作家になって15年がたつが、今が一番危険な状態だと僕は思う。マスコミが政権を批判し、厳しい目を向けるのは当然なのに、逆にマスコミが批判される状況。だが「R帝国」でも書いた言葉だけど、「萎縮は伝播(でんぱ)する」。誰かが萎縮すると、それは社会に広がり、他の人の勇気までくじいてしまう。だからこの欄もそうだが、「R帝国」も萎縮はゼロである。作家の役割の一つだろうとも思っている。日本の将来は、恐らくここ数年にかかっているので。

 

2017年9月10日のインタビューから。
 
歴史には、これ以上行ったら戻れなくなるポイントがあって、日本は今その辺りにいると思っています。だからこれは『抵抗の書』です。

******************************



小説の冒頭「つい二カ月前にも戦争があった気がする」
戦争に対してそんなあいまいな表現になるほどに、無頓着に生きていた矢崎。
『R帝国』はそんな矢崎のシーンから始まって、ラストは矢崎の涙の言葉で終わります。(書きませんけど)
矢崎はある大切な出会いから、彼が元来持っていた資質「抵抗する情熱」を得て、大きな体験を経て、その末にまた気力を持てなくなってしまっている。

無気力という病理。
病の種を支配者がHP(AIスマホ)に仕込んだか、あるいは一服盛られているのか、それとも自ら弛緩していっただけなのか。
そこはもうどちらでも同じことなのかもしれない。
矢崎が要所要所で陥るぼんやり感、無気力感。
私も身に覚えがある気がするからこそ、このラストは相当重苦しい。

熱くも冷たくもない、無気力が蔓延する。それこそが今の時代の絶望だと小説は言ってるように思います。
支配する側はほくそ笑むばかり。
そうこうしてるうち、タワーオブテラーの窓から見える現実の世界が、阿鼻叫喚のアトラクションの世界と同様になっていってしまうのかもしれない。
切実にそう思う。
マジで怖いと思う。


党幹部の加賀と、抵抗組織「L」の女性サキが会う、大詰めのシーンは「プロとコントラ」という章タイトル。
一瞬ひるんだものの、やっぱこれは読むしかないかもと『カラマーゾフの兄弟』の「プロとコントラ」の章をおずおずと読んでみました。

私の呆け頭には、当然キャパを超えた負荷がかかり、そういう時起こる激しい睡魔に負けて途中で熟睡したりなどしながら。
一生懸命、線など引っ張りつつ読んでみた。必死で。
どこかに救いはないものかと。


『カラマーゾフの兄弟』の「プロとコントラ」のハイライトは、無神論者で人間の残虐性に絶望しているイワンが、敬虔な修道僧である弟アリョーシャに語ってきかせる「大審問官」のくだりです。

イワン(大審問官)が加賀、アリョーシャ(イエス・キリスト)がサキ、と重なって読めるのでした。


大審問官はイエスに向かって言います。

ーーー誓ってもいいが、人間というのは、おまえが考えていたよりもかよわく、卑しく創られているのだ! いったいその人間に、おまえと同じことをなしとげる力があるというのか?

ーーー非力でどこまでも罪深く、どこまでも卑しい人間という種族の目から見て、天上のパンは、はたして地上のパンに匹敵しうるものだろうか?

ーーー羊の群れはふたたび集められて、こんどはもう、永久に服従するのだ。われわれが彼らに、静かな、つつましい幸せを分け与えてやるのだ。それこそ、そもそもがかよわい生きものとして造られた彼らにふさわしい幸せなのだ。

ーーー彼らが非力であるということを、われわれは証明してみせる。彼らがたんにみじめな子どもたちであるばかりか、逆に子どもの幸せこそ、何ものにもまして甘美であることをな。


大審問官の話を最後まで反論することもなく聞いていたイエスは、黙って彼の唇にキスして出ていきます。

大審問官は、キスの余韻が心に熱く燃えているが、今までの信念を変えることはない。


破格の意味深シーン
、これはとうてい私などの手に負えるものではありませんが。。


とにかくこんな思想をかかえ持つイワンはとても危うげです。

でも、救いはありました。
アリョーシャはイワンに言う。
ーーー兄さんのその物語詩は、イエス賛美ですよ、兄さんが願っているような非難なんかじゃない・・・。
そして討論の後、帰り際、兄イワンの唇に静かにキスをする! のでした。

イワン「おまえがこの世のどこかにいるってことだけで、おれは十分だし、生きる気がしなくなるなんてことはまずない。こんな話、もういやか? なんなら、愛の告白と受けとってくれてもいいぞ」



翻って考えれば、R帝国には、イエスという美しい神の存在はハナからありません。
地上のパンに対する天上のパン。「食べさせろ、善行を求めるのはそのあとだ!」という切実な現実に拮抗する精神性の柱が、R帝国の「党」には無い。
だから加賀には大審問官のように揺れる苦悩の影がみえないのでしょう。
高笑いしながら邪悪に突っ走るだけ。
あろうことか加賀は、「自分はもう人間という感情を持ち合わせていない」とまで言い放つ。
つまり、もう化け物。
そして「神の意志」とは、物理学的なしかるべき流れ、運動に過ぎない。戦争も破滅もただの無意味な素粒子達の流れ、私はその巨大な流れにただ沿っているだけなのかもしれない、という持論をも展開する。。。


こうやって、ひとつひとつ丁寧に希望の光を消し、小説『R帝国』は、読者の心と共にどんどん凍てついていきます。
国民である主人公達が心から信頼してきた相手は皆、オセロの駒を白から黒へ裏返すように、絶望的なあざやかさで裏側の顔を見せ、いつしかあたりはまっ暗闇。


それでも、闇の中に一筋、細い光を残す。それが中村文則さんの作品の特徴なのでした。
今までで最も切実に思えるこの小説の結末でも、やっぱりそのように描かれていました。

R帝国の最後の希望は、抵抗組織のサキ。

おまえがこの世のどこかにいるってことだけで、おれは十分だし、生きる気がしなくなるなんてことはまずない。
そういう存在がとりわけ今、必要なのです。
凍てついている読者(私)にとってのその役割を、サキが担ってる。

そしてサキの思う、「自分の人生は今、本当に決まってしまった。(中略)様々なことが、私を、私の存在を、この場所にまで押し出した。なら私はその自分の人生に応えよう。自分の存在の全てを、命を、これからずっと、私は自分の理想のために使うことになる」
これが、自身の作品のあとがきにいつも「共に生きましょう」と書き、今回ももちろんその言葉で締めくくっていた中村文則さんと、どうしたって重なってくる。



しかし、ここで私の脳裏に不穏に甦る、絶望の種子をねちっこく振り撒く、加賀の言葉。(…『R帝国』の毒気にあたりすぎ)
 素晴らしい芸術作品、素晴らしい言葉達は、30%のまともな人間達を勇気づけるか、そんな彼らを0.1、2%増やす効果しかない。だが世界は残りの70%により永遠に善の名のもとに戦争をし、戦争の後は少しだけ反省し少しだけ賢くなり、だがそれも時間が過ぎると忘れまた戦争をする。我々は繰り返す。リピートする。それが人類史だ。


この数字らがまた、むやみとリアルだ。

でも、30%から0.
でも0.2でも、人知れずじんわりと増えていくのならば、そのうちひょいと3分の1を越すかもしれない。
分の1という数字はなにかしら、ポイントなんじゃないかという気がして。(例えば憲法改正への抵抗とか。。。)

文学も芸術も、その時代ごとに重要なポイントで、ギリギリの、命がけの攻防をして来たものなのかもしれないです。


中村文則さんが『R帝国』で「プロとコントラ」を指し示してくれたおかげで、文学の中の文学、ドストエフスキーが書いた文章から、力をもらうことが出来ました。
私の頭の能力のキャパはあきらかに超えるものだけど、やっぱり素晴らしかった。
もしかしたら、これは中村さんが意図したことだったかも、、こんな誘導なら大歓迎、
など思いながら。



『カラマーゾフの兄弟』第五編「プロとコントラ」から。

 たとえ人生が信じられなくなり、大切な女性にも世の中の秩序にも幻滅して、それどころか、すべてが無秩序で、のろわしくて、ひょっとして悪魔の混沌そのままなんだとまで確信して、人が幻滅することからくるいろんな恐怖にうちのめされたって、やっぱりおれは生きていたい、人生という大きな杯にいったん唇をつけた以上、最後までこれを飲み干さないかぎり、ぜったいに手から杯をはなさない、ってな!


 おれはなんども自問してみたんだ。おれのなかのこの生きていきたいっていう、まるで熱に浮かされたみたいな、ぶしつけといったっていいほどの願望を打ち負かしてしまう絶望なんて、この世にあるんだろうかとね。そこで結論したんだ。どうやらそんなものはないらしい。


 
おれたちの地球にはな、まだまだ恐ろしいくらいたくさん求心力が残ってるのさ、アリョーシャ。おれは生きていたい、だからおれは、たとえ論理に逆らってでも生きるよ。


*********************




最後に。。。
昨今のシビアな現状と重なるがゆえに、ことさらシビアな読書体験を巻き起こす『R帝国』でしたが、そんなきつい部分はさておいて語るとするならば、ミステリーとしても本当に面白いし、壊れてる人間・壊れてるAIの心理描写など、中村文学の真骨頂と思える部分ががそこここにあって、垂涎ものでございます。
嫉妬し、変態化してるAIの語りのヤバさなんて最高ですし。
各個人所有の、個性を持つAIスマホ(HP)がそれぞれチャーミングで賢くて本当に面白い。
いい人と見えていた人間が、一分の情もなく完膚なきまでに残酷に裏返る瞬間の表現はやはり凄い。
その情の無さ加減の切れ味はみごとと言う他はなくて、いっそ小気味良い、と思うのでした。



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わたしを離さないで

2017-11-07 22:44:26 | 




ノーベル文学賞、カズオ・イシグロの作品です。
読みたい買おう。と行動を起こした時、すでにアマゾンで売り切れ状態。本屋にも無く、図書館にもあろうはずなく。出足がノロすぎたのです。
それではと電子書籍kindleへ。あっという間に手に入れることができました。ありがたかった。

ちなみに、私がなぜkindleを所持していたかと申しますと、なんといっても文字を拡大して読めるから。まずはそれ。
もう文庫本やら新書やらの文字の小ささにはついていけないんだもの。小さすぎて。
それと無料の青空文庫が読めるから。無料の。
こういうことで役に立つことがあるなんて。



『わたしを離さないで』
は、けっこうハードな読書でありました。
読んでるあいだ中、胃の底がひーんやりしてた。
ところどころでは胃をつかまれるような感もあり。
「臓器提供のために産み出されたクローン人間」の話なのです。
設定からすでにヤバいってものでしょう。

クローンたちは、SF映画にあるような大きな試験管に入ってるわけではありません。
意識を持たず大きな体育館のような場所にベッドを並べてただ横たわっているわけでもないのです。ロボットのように。
だけどむしろそのほうが読んでる方は少しはラクかと思います。
そうではなく、彼らは普通の人間と同じように天真爛漫な幼児期を過ごし、多感な青春時代を送るのです。
自分の宿命をいつからとなく知りながら。
イヤでしょう。。この設定。

主人公キャシーのモノローグで、普通の子どものような学校の日常風景から綴られていくのです。
子ども特有のイジワルがあったり、ときめきがあったり。
またクセのある女友達(ルース)に翻弄されたり。

キャシーはその短いはずの生涯の中で、大半はこのルースにまとわりつかれ、大切なものを奪われ続けます。
ルースは死の間際になって自ら改心するわけだけど。。
彼ら皆が、奪われる者。すべてを残酷に奪われる宿命の世界の中で、更に奪おうとする者、それがルース。

あまりにもリアルな人間関係、心理描写。
辛いよこれは。

去年放映されてたというテレビドラマの再放送も観ました。
どうも付け足し過ぎ、最後は解説しすぎだと思ったけど、、でも、原作にある、胃の底ずっと摑まれてるようなピンと張った緊張感はよく感じられて、夢中で観てしまった。
よくドラマ化したものだと思う。
視聴率は最低だったとか。
確かにそりゃあ、臓器提供4度目とか、だいたい3度で終わりになって死んでいくとか、そんなストーリーの場面まで観せられるのはきつい。

正直、小説も「ノーベル文学賞」だから、読み終えられた気もする。
そうでなかったら、なんかヤダこの話、なんなのこの作家とか言ってリタイアしてたかも。

カズオ・イシグロさんはどうしてこんな小説を書いたんだろう。
異常な背景設定。残酷な。その中でのごく普通のささやかな出来事、心の動きを、こんなにも繊細にえんえんと綴ったのはなにゆえ?
どうとらえればいいんだ。よくわからない、あーわかるようでわからない。。
と、読後の感想が宙に浮いてしまった。



それでふと思い出したのが、村上春樹の「壁と卵」。
「エルサレム賞」受賞時の有名な記念講演です。

      ↓

 <高くて頑丈な壁と、壁にぶつかれば壊れてしまう卵があるなら、私はいつでも卵の側に立とう>

 どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立ちます。何が正しく何が誤りかという判断は、誰か別の人にやってもらいましょう。時間や歴史が決めてくれるかもしれません。しかし、どんな理由があっても、もし壁の側に立って書く小説家がいるとすれば、作品にどれほどの価値があるでしょう。

(中略)こんなふうに考えてください。私たちはそれぞれが多かれ少なかれ卵なのです。世界でたった一つしかない、掛け替えのない魂が、壊れやすい殻に入っている--それが私たちなのです。私もそうだし、皆さんも同じでしょう。そして、私たちそれぞれが、程度の差はありますが、高くて頑丈な壁に直面しています。

 壁には名前があり、「体制(ザ・システム)」と呼ばれています。体制は本来、私たちを守るためにあるのですが、時には、自ら生命を持ち、私たちの生命を奪ったり、他の誰かを、冷酷に、効率よく、組織的に殺すよう仕向けることがあります。

 私が小説を書く理由はたった一つ、個人の魂の尊厳を表層に引き上げ、光を当てることです。物語の目的とは、体制が私たちの魂をわなにかけ、品位をおとしめることがないよう、警報を発したり、体制に光を向け続けることです。小説家の仕事は、物語を作ることによって、個人の独自性を明らかにする努力を続けることだと信じています。生と死の物語、愛の物語、読者を泣かせ、恐怖で震えさせ、笑いこけさせる物語。私たちが来る日も来る日も、きまじめにフィクションを作り続けているのは、そのためなのです。

 きょう私が皆さんにお伝えしたいのは、たった一つです。私たちは皆、国籍や人種や宗教を超えて人間であり、体制という名の頑丈な壁と向き合う壊れやすい卵だということです。どう見ても、私たちに勝ち目はなさそうです。壁はあまりにも高く、強く、冷酷です。もし勝つ希望がわずかでもあるとすれば、私たち自身の魂も他の人の魂も、それぞれに独自性があり、掛け替えのないものなのだと信じること、魂が触れ合うことで得られる温かさを心から信じることから見つけねばなりません。

 


すごい腑に落ちた。
まるで『わたしを離さないで』の核心の解説を読んでるみたいだ、と思いました。

・・・なんで村上春樹はいまだにノーベル文学賞をもらえないんだろう。
くださいよ!
受賞のあかつきには、ノーベル賞受賞記念講演として何を話してくれるのか。ものすごく聞きたいではありませんか。

寄る辺のない時代の、寄る辺のない私。そんな不安を持つあなたの寄る辺としてこそ文学はあるのだと、信じさせてはくれまいか。
・・・すみません



さて村上春樹に解説(というわけではない)してもらって、かなりスッキリしたものの、『わたしを離さないで』解読の悩ましい部分が更にひとつ。
それはクローン人間を育てている学校の校長「エミリ先生」の存在。
子どもたちを管理する「システム」側の人間なのでしょうが、へんな温情がある。

子どもらが限られた時間をいい思い出にできるように、良い環境を与えようとする。
臓器提供用に人間のクローンを作って育てているという、もともとタブー犯した極悪システムのはず。
そんな異様な世界で、せめて子どもにいい環境をというエミリ先生。
これを欺瞞と考えるか、ぎりぎりの現実主義・善意と考えばいいのか。
どうとらえればいいのか。私はいまだにわかりません。


エミリ先生のありようこそが「ザ、システム」なのでしょう。
従順にしていれば、優遇をあげる。
従順にしていれば、残酷な使命を持つ人生のなかにも温かい思い出をつくれるようにしてあげる。
子どものためを思っているようにも見えながら、極悪システムへの帰依からは逃れられない。
複雑な精神を持つ存在でストレス多い感じ。そのせいかけっこうなイカれぶりを垣間見せます。いない人に話しかけてたり、突如激高したり。
実にリアルな人間像でもあると思う。


キャシーを悩ませ続けたルース。同じ壁の中で、さらに友人の自由を奪う壁になってしまう。
自分も陥ってしまうかもしれい宿痾。罪だと思います。『わたしを離さないで』はそれをまざまざと教えてくれました。

そして目の前の大きな壁(システム)。これは卵である私の前に厳然として在るのだということ。
限られた時間の中、抵抗しなければ奪われる一方で終わってしまうかもしれないということも。



エミリ先生はクローンの子供たちに絵を描かせ続けました。ことの思惑はわかりづらいままですが、とにかく子どもたちが「使命」を終えて命尽きた後も、彼らの純粋や情念を映した芸術はこの世に残る。消せない魂の証として残る。

ネガティブの底から見える風景を克明に描いて作品に昇華させること、残すこと。伝えること。
私たちの最後の寄る辺は、もしかしたらそこにあるのかもしれないと思う。

『わたしを離さないで』はそういう小説なのじゃないか、と思いました。
それにしてもハードな読書でありました。



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光降る音

2017-10-21 16:31:06 | 塩谷哲 SALT&SUGAR

10月20日
明治神宮文化館「近代の御大礼と宮廷文化」開催記念
東儀秀樹×塩谷哲 特別コンサート


無料抽選!とのお知らせにこれはこれは、と即応募、抜かりなく無料チケットをゲットして、この日を待っていた。
そして昨日、霧雨の中いそいそと明治神宮へ行ってきました。

森の中のような明治神宮の長い長い参道を歩き、あやうく足腰が痛くなりかけて、ようやくたどり着いた明治神宮会館。
東京のど真ん中の森、異空間。巫女さんと何人もすれ違う。こうした場所でのコンサートもめずらしい。
嬉しいけど。(無料だし)


この神聖な場所に古くから置かれていたというピアノはマホガニーのグランドピアノ。
鍵盤は象牙だそうで。
今日はこのピアノに弾かされている気がする。とソルトさん。

本当にいい音でした。

ピアノソロ「Spanish Waltz」でのソルトさんの演奏は燃えに燃え、ところどころで尋常じゃない程の音量を醸し、最後は赤いライトと相俟ってボーボー炎上してるみたいだった。

東儀さんの「情熱的な曲だね」に、「ピアノに弾かされました」と答えたソルトさん。かっこいい。



それにしても、私の雅楽の知識はゼロ。東儀秀樹さんに関しても、雅楽の演奏者という以外、失礼なほど知識ゼロだった。なんとなく知ってるつもりでいただけ。
そんな私がもったいなくもいきなり東儀さんの演奏する篳篥、笙を生で浴びてしまったのでした。
びっくりした。
それらの楽器に対する私の貧しいイメージは、もんどり打ってひっくり返りました。

まず「アメージンググレイス」。
篳篥でアメージンググレイス、弾くか?
そのことだけでも驚くのに、その音に、驚愕。
・・・・サ、サックス、まるでサックスみたいじゃん!
手のなかに隠れてしまうほど小さい楽器なのに、なんであれほどの音量が出て、あれほど深い音色が出るか。
なんであのように歌えるのか??
しかも一番すごいことは、洋楽にまったく違和感がない音だったということ。
大変ベタなたとえで恐縮ですが、私には東儀秀樹という人が魔法使いに見えます。

「アメージンググレイス」は、ソルトさんがピアノの低音の弦を直接手ではじく、幻想的なはじまり。
そこから流れ出したソルトさんの自由なイントロにくらくらしたところに、東儀さんの篳篥のサックス(私感です)が入り、おどろくべきコラボが始まったのでした。

ソルトさんのオリジナル曲「Morning Bliss」。東儀さんが好きな曲で、まるで篳篥・笙とのために書かれた曲のようだという。
確かにぴったり。不思議。もとはどこから聴いても洋風のピアノ曲なのに。
不思議。お二人も「どうしてこんなに合うんだろう」と言いあって「僕たちの演奏がいいからだね」と合意。 同感です‼︎

篳篥もすごいが、「笙」がまた魔がさしたようにすごいのでした。←もうこんな表現しかできない。
なんというか、小型のパイプオルガンのようなのだ。形からしても。
東儀さんのオリジナル曲「光降る音」は、バロック音楽を聴いてるみたいだと思いました。

ラスト曲の「枯葉」。アンコールの「星に願いを」。
最後まで、どの曲にも「和に寄った」感が無かった。
突き抜けた音楽には、和も洋も無いし、こんなに楽しいこたないぜ、みたいな感じで。
壮快でした。

ジャズでもクラシックでも和でも洋でも、なんでもソルト色でこなしてしまうソルトさんの離れ業もやっぱりすごくて。
驚きのコラボでありました。感動でした。



「枯葉」では、東儀さんが途中でピアノを弾き連弾に。ピアノも上手なんだ。

ソルトさんのソロでドビュッシーの「月の光」も聴けた(涙)。
楽譜どおりのクラシック曲を1曲まるごと。

これはめったに聴けないレア中のレアなのであって、ひそかに狂喜した私。
とても力のこもった月の光。強い光が降り注いでるような演奏だと思いました。
「笙」の音は、天から光がふり注ぐ音を表現してるとか。
それを意識されたのか、偶然なのか。
やはり神宮というこの場の、不思議な力を持つピアノに弾かされたのでしょうか?
・・それが素敵。

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エイリアン コヴェナント

2017-09-19 22:53:34 | 映画

前から楽しみにしていた「エイリアン コヴェナント」を観た。
リドリースコット監督だしなあ、とわくわく楽しみにしてたわりには情報知らずで、5年前の「プロメテウス」の続編だと知ったのがなんと前日。
プロメテウス! 確かそんなのを観た記憶はある、でもぜっんぜん覚えてない。
あわててDVDを借りに走ってもう一度観てみた。ほんとにこれ観たのか?てほど、ほとんど覚えてなかった。
よく考えたらこのブログにメモみたいな感想を書いて続編がすごい楽しみだみたいなことまで書いてた。あきれた。

言い訳のようだけど、も一回観てもかなりわかりにくい。。「プロメテウス」。
ストーリーの流れがガタガタする感じ、いやに不親切な感じというか。映像は凄いんだけど。
これの続編か・・・どうなんだろうと思いながら観た「エイリアン コヴェナント」。
すごく良かった! ストーリーの流れもすんなり。最後まで夢中で観ました。
「プロメテウス」とも確かにつながったし。

ただのリメイクっぽかったらヤダなあと思ったけど、そういうレベルのものでもない。
血肉飛び散るエイリアンとの絶叫対決は、そこはそれ。お約束だから。
過去の作品でぐうの根も出ないほどやり尽くされ、観せられてるから、もうそんなにおどろかなかったけど。

今回は過去の「エイリアン」よりさらにさらにおそろしいモノが描かれておりました。底深くおそろしい世界。


驚いたことに「エイリアン」1がつくられたのはもう40年も前になるのだと。
「エイリアン コヴェナント」にはその40年の歳月の重みがずっっしり入ってる気がしました。
世界は変わった。どんどん変わりつつある。監督の人間観もきっと変わってきたことでしょう。
人に似た、人でない邪悪なものに支配される恐怖。今の世界にリンクしていてゾッとする。




人間は愛する人の死を悲しみ泣く。情に揺れて判断をあやまる。
それで行くべきじゃないとわかっていても、ひょっとしたらとか思って怪しい星に降り立ってしまったりする。
信仰を最後の砦にしたりもするし、美しい「湖畔の小屋」を作ることを夢想する。甘い、もろい生き物。

それが未成熟ということとするなら、エンジニアが人間を滅ぼそうとしたのはそれゆえか。失敗作として?
死の不安から神の領域にまで近づいて、ついにはエンジニアを滅ぼすようなものを作り出すことを見越してか。


ひとつだけ、私がどうしてもひっかかるのはエンジニアのありようなのです。
人類の創造主! にしてはちょっと、、「プロメテウス」でののっけからの登場がまず唐突すぎやしないだろうか。
もうちょっともったいつけた登場の仕方が無かったんものだろうか。人類のモトなんですよねあの人。
え~~~っ!
「エイリアン コヴェナント」でも神々たち、いきなり全滅させられてるし。
ちょっと待って。と言いたくなる。
いくらデヴィッドが無敵の極悪アンドロイド化したといっても、それに対して存在感薄すぎないかエンジニア。
エイリアンの起源は了解した。でも人類の起源の方は、、マジかホントか?感が最後まで残ってしまうのです。

とにかくこの映画、極悪アンドロイド・デヴィッドの独壇場。ピアノ弾くは笛吹くわちょっとBL(?)入ってるわ。
狂気の科学者。髪伸びるし。不気味だ。
ひょっとしたら優しいエリザベスに愛情をいだいたのかも知れず、愛していながら殺すというこのあたりのエグさ。負の妖しさ。



続編が楽しみです。。
今度こそ忘れないようにしよう。
何年先か。少しでも今より、細い光でいいから光が見える世界になっていて、それが映画の中に反映されてたらといいのにと本当に思う。
2017年の「エイリアン コヴェナント」、辛すぎです。
でも傑作だと思います。





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三度目の殺人

2017-09-16 21:56:11 | 映画




凄い映画を観たと思う。

けっきょく事件の真相はわからないまま終わる映画。
誰が殺したのかも、殺した理由もはっきりとわからない。
藪の中。

どういうふうにもとれるのです。

でも、難解な短編小説読んだ時みたいに、え。終わり?ちょっと待っておいてかないで、わかんねー。的な置いてかれ感(私はそういうことが著しく多い)は無い。
わからないのはワタクシがバカだからだけではなく、あえてそういう作りになっているから。と、そう思えるのです。
余白と奥深さがハンパなくある。

観る人によって、どんなふうにも解釈できる。納得いくストーリーを作る、と行かないまでもイメージを勝手に膨らますことができる。
そうするしかないというか。そういったことが大好きな人間にはたまらない映画だと思えます。


人って、真相がわからなくても、わかりたいと思うと勝手にストーリーを作り出す、そうせずにはいられない生き物なんだ。

主人公の弁護士重盛(福山雅治)が、どんどんそうなっていったように。
それがこの映画のテーマの一つであるのでしょう。

私達は福山雅治と一緒になって、迷宮の十字路で「本当のことを教えてくれよ」と懊悩の叫び声をあげればいいのかもしれません。

・・・・うんそうしよう。とひそかに思う。

「本当のこと」とは事件の真相というより、もう私はあなたのことがわからない、人間のことがわからない、これからの自分の行く道がわからない。神さまがいない。どうするのが正しいのかわからない。それを教えて欲しい。そういうことだ、と思えます。


そもそも真相なんてわからないのに、裁判は人を裁かなければならない。
そこで「真相」は見て見ぬふりとすっとばして、法廷戦術、訴訟経済などという言葉が裁判のウラ側で飛び交う。
映画はこれでもかというほどそんなシーンを観せます。
マジかよと思うセリフがいっぱい。

重盛はまだ「青くさい」後輩弁護士に、
「法廷戦術以外に俺たちが考えることがあるのか?」
と言い放つような、自信家でいけすかない男です。クリクリ・キッチリのパーマ髪。

およそそのクリクリ短髪が乱れることは生涯無いように見えた彼が、被疑者三隅(役所広司)にじわじわと翻弄され、あれほど興味のなかった「真相」を知ろうとするようになる。
しかし報われることは無く、三隅にハメられたのかも知れず、そうじゃないのかも知れず。
ただ、答えのない迷宮を答えの無いままに描いた映画の中で、唯一確かなこととして救われた気がするのが重盛のこの心の動きでした。
髪振り乱し、口角泡を飛ばし、というような表面上の乱れ方は無いにせよ、じわじわと情に崩れて行く感に共感を覚えるのでした。

そしてなんといっても三隅役の役所広司!
もう、こわい。
存在感、底なし沼。
3D映画じゃなくてほんとに良かった。
立体で彼がアップで直視してきたら、絶対のけぞるでしょう。
こわくて。
善も悪も内包したような底無しのあのスケール感。観る人が想像するストーリーのふり幅はどこまでも大きくなれる。

三隅は「君が笑ってくれるなら僕は悪にでもなる(by中島みゆき)」と咲江(広瀬すず)を守るために、自らを消したのかもしれないし。重盛を利用して。それが三度目の殺人だと。

いやそうではなく、今も昔も情など無い「からっぽの器」=サイコパスなのかもしれないし。
サイコパスだったけど、奇跡的に会心できたのかもしれないし。
半分悪魔、半分善人=つまり普通の人なのかもしれないし。
わかりません。
人間は底なし沼。
やはり福山雅治と一緒に十字路で途方にくれるしかないのでしょうか。



咲江(広瀬すず)も、とても良かった。
まっすぐな美しい瞳。
そりゃこの少女を疑うなんて、と思いますが「もしや」と思わせるところがこの映画の凄いところで。
重盛の、嘘泣き上手で真意のよく掴めない娘とオーバーラップさせたところが面白いです。

ひとりよがりの私感でアレですが、足の悪い謎めいた少女といってどうしても思い浮かぶのは、ドストエフスキーの小説に登場するリーザ。
美しく賢く、小悪魔的といったらこの人。14歳。きっとまっすぐな瞳。
「悪霊」にもリーザという名の女性が登場して悪魔のような主人公スタヴローギンとからんだりする。

となると咲江と三隅が小悪魔と悪魔に見えてきもする。そういえば咲江の母親(斉藤由貴)もあのあざとさ・したたかさがロシア文学女性っぽくないだろうか。。そんなことないか。
よくわからないながらドストエフスキー的文学的深淵が垣間見えてきたりして、素晴らしい。あれ以降広瀬すずを見るとリーザだ、と思ってしまう。忘れられない映画になりました。


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摘芯の魔法

2017-09-16 11:50:42 | そのほか

今年超ビックリしたのがこのハイビスカス。
なにかと問題の多いうちの狭庭でひとり気炎を吐くように、場違いなほど華々しく咲き続けてくれてる。
育てやすい強い花だから、というのはうちには当てはまらない。サルでも育てられますというような花でも私は枯らすので。自慢じゃないけど本当にヘタなのだ。
それなのに。
もとはスーパーの一角で売ってた小さな苗。夏前に買って大きめの鉢に植付けただけ。
それがよもや。。

ただ、買った時点で、主幹(まだ細かった)が切ってあって、そこから枝が左右に分れて伸びてた。
これがウワサの摘芯ってやつなのでしょう。
そんな、私などにはとっては大変高度なテクニックがあらかじめほどこされていたハイビスカス、二つの枝はぐんぐん育ち、株は大きくなり花はつぎつぎとぎれることなく、なんだか吠えるように咲きつづける。ハイビスカスの咆哮。
疲れ知らず

最初見たネットの情報では(情報だけは集めるのに使いこなせない私)、ハイビスカスはこう見えて、猛暑に弱いらしいと。
意外だ。真夏は半日蔭で、とか書いてある。
半日蔭! まさにうちの庭じゃん。しかも無精してちょっと伸びすぎてる一本のなけなしの植木が木陰を作り、花たちへの日当りをけっこうな時間邪魔してくれてる。
この木陰が偶然ハイビスカスに最適な境遇だったのか。
それともやっぱりサルでも育てられるほど育てやすい花なのかもしれないけど。

どうであれ、花がたくさん咲いてくれるのを見れば元気も出ようというものです。
半日蔭のこんな境遇にもめげすよくぞ咲いてくれた、ありがとうよと言いたくなるのでした。


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切り戻しの魔法

2017-09-08 20:28:21 | そのほか



昼過ぎにはどんどん日蔭になってしまう、うら淋しいうちの庭にて。
今年の夏の長雨にも負けず、無器用な庭主(私)の粗雑な扱いにも負けず、爆発的に咲きまくってくれてるスーパーベル・ホーリーモーリーです。
驚嘆です。
子どもが水彩絵の具でちょちょっと付けてみた、みたいな色の付き方が不思議で可愛い。

度し難い無器用さでいろいろ枯らしてしまうくせに、毎年懲りず春先には苗を買って来て、案のじょう枯らしては、そのたび
「きっと植物だって持って生まれたしょうの善し悪しがすべて。もともと不公平に運命づけられているものなのよ。。人間と同じで」
そんなハスッパな態度であきらめていた。
日当たりも足りず、庭主の性格も何かが欠落してる。
そんなんで育つはずなかった、あわれな花たち。。。

ところが、今年。
そんなネガティブなうちの庭状況をくつがえし、枯れかけた花がパワー倍増してよみがえるという、魔法の処方を私は知ったのでした。
魔法の名、それは切り戻し

・・・ガーデニングをやる人ならそんなものハナから知ってるわよ、という常識中の常識だったのでしょう。

でも私はやったことなどなかった。
実はネットでいくらでも目にしてたであろう切り戻し、摘芯などの文字。
しかし考えてみてもほしい、うちのような生命力に難のあるネガティブな庭において、買った苗がちょっとでも伸びてくれ、更に咲いてくれようものならば御の字というもの。
それをこともあろうに咲いてる状態で切ってしまうなんて。想像もつかない、あり得ない。
で、その言葉を無意識に頭がはじいてたのです。

最近は品種改良が進んでるらしく、特に王道ペチュニアの家系の底力は凄いものがあり、こんなうちの庭でも春先に鉢に植えこんだ花々が、特に何もしなくてもいっぱい咲いてくれてたのです。初夏前までは。
ペチュニア・ギュギュ、
ミリオンベル、レモンスライス、
そしてスーパーベル

ところが受難はその後。
梅雨がはじまり、連日の雨。見れば花が大量のアブラムシに襲われている!
ちょうど満開も終りの時期に重なったのか、花たちはしおれるばかり。
例年にない咲きっぷりに大喜びだった私は衝撃を受け、やっぱりダメなんだ、ここまでなんだ、所詮私のやることなんてこの程度。。。

とりあえずミリオンベル白ミリオンベルレモンスライスの、アブラムシに吸い付かれている葉・茎を正視していることができず、半分パニックで刈る、刈りまくる。う、全部抜いてしまいたい・・という衝動を抑えて。

結果的にそれが、伝家の宝刀、切り戻しという状態に。

切りまくったミリオンベル白は、しばらくしたら新芽が伸びてきて日がたつにつれ元気になり、1ヶ月もしたらなんと切り戻す前よりもふっさふさの満開!

切り戻しの効果、ほんとだったんだ。
日毎元気になるミリオンベル白を見て、弱々しく枯れはじめてた他のペチュニア系一同も、根元の小さな新芽を確認してから思いきり切り戻りしてみた。
そうしたらば、やはり本当にほとんど復活してくるのですこれが。

レモンスライスは土の具合が悪かったか、はたまた病巣が深かったか、植え替えもしてなんとか持ち直したものの、いまだ満開にはいたらず。一歩一歩マイペースに成長の歩みを続けております。雨の日には軒下に入れ、台風ともなれば室内に入れ。ガンバレよと心で声をかける。まるで子どもに向かうように。そんな自分が気持ち悪い。


けなげなレモンスライス


最近はアブラムシを食してくれるという、常駐のカマキリに親近感さえわくしまつ。出くわすたびいちいち驚くんだけど。


それにしてもペチュニア系一族おそるべし。
誰でもできる、ガーデニング超初心者向けといわれるポーチュラカ、ニチニチソウでさえボチボチと花咲かせることしかできないうちの庭で。特にスーパーベル・ホーリーモーリーは切り戻してあっという間に復活、わっ~と咲き続けて夏中元気をくれました。
2度目の満開を過ぎて、大胆にももう一度切り戻してしまったミリオンベル白が、また復活してくれる日が楽しみなのです。







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音霊 三浦海岸にて

2017-09-06 18:50:25 | 佐藤竹善 SING LIKE TALKING

 

 

 

9月3日(日)
佐藤竹善 The Best Of Cornerstones BY THE SEA

松田 弘 (Dr.)
河野充生 (Ba.)
黒田晃年 (G.)
安部 潤 (Key.)
大島俊一 (Sax. Key.)

今年4月に「かつしかシンフォニーヒルズ」でくりひろげられた同バンドでのコンサート。
それはもう腰が抜けるほど素晴らしく、是非とももう一回行きたいものだと願っていたところ、大好きな「音霊」でやってくれるとのことで、喜び勇んで行ってまいりました。

音霊SEA STUDIO
逗子から移転後の鎌倉でもなく、今年は三浦海岸という遥かな地だという。
・・・・遥かだ。行ったことがない。
でもなんの。
過去2回参加した真夏の「音霊」は客入れ時から灼熱でフラつき、もうムリかもアタシには・・とくじけそうにもなった。
けどもそこを乗り越え最高のライブを聴くことが出来た、その経験・達成感がモノを言う。

中高年の執念をみよ。(ー_ー)!!

今回は昼と夜の2部制。
私は夜の部のチケットを入手してたのですが、はりきるあまりやたらと早く昼過ぎに着いてしまい、まずは状況確認をと、いそいそライブハウスの裏側から肉薄してみたところ、中からリハーサルの音。おぉ。
正面に回ってみれば、開け放たれた高い窓(真夏に窓全開という禁じ手、これが音霊。だから容赦なく暑い。でも海から風が入る)から音が、漏れ聴こえるなどというものではなく、まさにつつ抜け。まる聴こえ

ううぬ、これはもしや本番も。。。と水分補給の飲み物などしっかと調達し、2時から始まる1部の前に来て、ライブが始まるのを待ってみる。
幸いこの日の三浦海岸は7、8割方秋の気配。過去2回の音霊経験とは比べものにならなく涼しく風が吹き抜け、年々衰える中高年が海辺に座ってても憔悴・大事に至るということはなかったのでした。良かった。

1部本番が始まってもライブハウスの高い窓は閉じられることもなく、中の音は寛容かつ大胆につつ抜け状態。
こ、これはもう、、野外ライブといっていい状態ではあるまいか。
しかも、確かに壁で隔てられた室内でかなでられてるはずなのに、聴こえてくる音のクリアさ。いい音。 

かくて竹善さんとバンドの音楽は惜し気もなくクオリティ全開にて、音霊SEA STUDIOまわりの海辺いっぱいに響き渡ったのでした。

かつしかシンフォニーヒルズで聴いて、一気に大ファンになってしまった大島俊一さんのサックスの音、同じく黒田晃年さんの垂涎ギターの音も。
楽器の音がそれぞれ単独で音響のいいホールで弾いてるみたいにくっきり聴こえてくる。

そしてもちろん竹善さんの歌声。アコースティックライブの時みたいに(いつだって腰砕ける)クリアに聴こえて本当に美しかった。
自然の空気の中を美しいままに突き抜けていく特別な声・音というのがあるんだろうか。
きせずして出来てしまった海辺の天然野外ホールのなかで。。。そんなことを思ってしまいました。

ずっと海と空を眺めながら、1時間半近く。
ステージが見えないからよけいに音のみに集中して、完全に包みこまれた。
まるでパラレルワールド。
不思議なライブ経験をしたと思う。
・・タダ聴きなんだけど。。|д゚) いやすみません。

ただ、想像していただきたいのです、人気もだいぶ減った夏の終りの海辺に、しっとり美しく響く竹善さんの「Now And Forever」を。

そして華やかキラキラの珠玉演奏「Golden Ledy」を、竹善さんの変わらぬ少年声を。

「サヨナラ」
は、お客さんに歌わせる部分で「バッハの対位法・・・(?なんとか)でっ」と言って、竹善さんが上の旋律を作って歌うのが聴こえた。バッハの対位法??なんとか風で。
す、、素敵。

そのほか、まさかの「今日も君に恋をした」。やばい。もうパラレルワールド没入不可避。

きわめつけの「Change The World」。いいのか?これを、このような演奏をタダで聴かせてしまっても!
いいのか?
。。。自分もタダで聴いてるのに。|д゚) も
うしわけありません
すばらしい野外コンサート(ではない)を堪能してしまいました。

ひょっとしたら書いてはいけないことだったかもしれない。( ;∀;) ひゃーごめんなさい。
ただ、あの海辺の天然ホール(と思えた)に思いがけず出来上がってた、音だけのライブ空間が忘れがたくて。

もちろん感想は人によるものであって、同行者の夫は、やっぱりちゃんと屋内で近くで聴いた方が音に立体感があって断然良かった、と断言するのでした。
それも当然。納得。
2部ではもちろん会場内で聴きましたから。お許しを。

********

で、2部。
そりゃやっぱり、実際にステージを観れば、無条件でワクワクいたします♪♪ 
鼻血も出ようかというほどに。

「1部では思いのほか暑くて、1部より今の方が痩せてます」と言ういつもの笑顔の竹善さん。
そしてかつしかシンフォニーヒルズで観たバンドの方々!

半年近く前になるけど、思い出すにつけ、かつしかのコンサートは本当に素晴しかったのです。
まずはホールのステージ中央にドンと構えていた松田弘さんのドラム。
ドラムをよく知ってるわけでもなく、語るもおこがましいのですが、あの時のドラムの存在感といったら。
圧倒的な安定感と迫力の松田さんの演奏と、ドラムという楽器の形状が相まって、大木を連想させもして。
大きく根を張り太い幹を横に広げた大木のまわりを、他の楽器たちが安心して楽しく自由に飛び回ってる。そんなイメージ持ちました。

特に大島俊一さんのサックス、ソプラノサックス。フルート(驚)。ドラムのリズムの風に乗って自由に舞ってるような演奏がもう気持ち良くて。素敵で。
大島さんはサックス・フルート・キーボードもこなすスーパープレーヤー。私ぞっこん持っていかれましたです。


黒田晃年さんのギターについては、もう言わずもがなというものでしょうか。
あのギターといったら、叫ぶわ、慟哭するわ。ソルトさんのピアノ同様、伴奏じゃない。、、歌い、詩を語るギター。
先月8月のシングライクトーキングの29/30のコンサートにも出演しておられた黒田さん、中野サンプラザホールに響いたギターの音色、その独特の艶と気品。忘れられません。


そんな方々が一同に会したステージをもう一度拝めるチャンスがこんなに早く来ようとは。
しかも「音霊」、席近いぞ! ハナヂだ。

ステージほぼ正面だった私の席からは、黒田さんの手元が譜面台に隠れてしまって残念だったんだけど、そこは竹善さん、みずからケーブルを伸ばし、ソロを弾いてる黒田さんをステージ前方に引っ張り出してくれて、おかげでモロ近くで演奏姿、指先までとくと拝ませていただきました。なんという贅沢。

大島俊一さんのサックス・ソプラノサックスもこんな間近で。こんな。
・・もうアタシは寿命が延びた気がする。
1曲目から竹善さんはノリノリでステキフェイクの嵐、大島さんのソロのところまでうっかり歌ってしまった、と大島さんに謝るアクシデントあり(笑)
いいんですよ、という笑顔も爽やかでございました。

本当にこの日竹善さんはノリまくっておられ、要所要所でフェイク、そして人間楽器でホーン♪
ライブ時間が短いから凝縮して濃厚に楽しませてくれたのでしょう。

安部潤さんのキーボードの早業の手元が見えたのも嬉しかった。
小室哲哉を思い出してしまう、キーボード持ち上げの早弾きも♪ 血も騒ごうというものです。
「Desperado」では、キーボードが「よりバロック調になってた」と竹善さん。(ゴシック調?、いやゴスペル調だったか?あー記憶があいまい)
正面窓側からステージへのライトはものすごい逆光になってるということで、光が射して「まるでキリストになったような」と。
一瞬わからなかったけど安部潤さんのことを言ってたのですね。

シングライクトーキングの10月に出る新曲は、バッハのミサ曲「キリエ」に感化されたものだということだし。ど、どういうんだろうそれ、ドキドキする、ものすごい楽しみなんですけど。

竹善さんが「こんなに弾けたら俺ベースやめてない」と言うベースの河野充生さん。
怒涛の長いソロ! しぶい、かっこいいよぉ。予定より長かったのか、松田さんと竹善さんが顔を見合わせてニッコリ。

ところどころで穏やかな笑顔が見える、落ち着いた大人の空間の心地良さ。
でも演奏は品あり爆裂!

・・ほんとに見れば見るほど凄いバンドなのだと思いました。

竹善さんが16歳の頃から歌うのが夢だったという「Love Will Find A Way」。
心底嬉しそうな表情の竹善さんとバンドの演奏を聴きながら、これって、、私は今何かとんでもない瞬間に遭遇してないか? と思った。
このメンバーが集まって演奏してる、今のこの瞬間はただごとじゃないのかもと。ふと。

ステージは海に向いていて、高い窓から「海が見えるんです」と竹善さん。
月明かりの海辺に「Love Will Find A Way」はどんなふうに響いてたんだろうと思う。
この曲は人間から神さまへの捧げもの。みたいな?
なんて、、海という場所と音楽とが相俟って、なにか妙な視野が生まれてしまった。


途中で元の曲を忘れてしまいそうになるほどの強力アレンジの「雨の物語」。
楽器の技とパワーがからみ合って大雨になる。何度聴いてもかっこいいです。


「トウキョー・シティ・セレナーデ」
いつ聴いてもこれってもう竹善さんのオリジナル持ち歌じゃん、と思う。はまり具合尋常じゃないと思う。



竹善さんが曲の終わり頃になると、人差し指上げて手を上げる、バンドメンバーに向けた「ラスト」の合図。何度見てもこれはたまらず、シビれます。
今回初めて見たのは「Golden Lady」で、転調する前、胸の前で上を指して「まだ高くなるよ」というゼスチャー、これはお客さんにですね。
で、気合い一発、驚異の高音。すごい。

楽しい!
これがライブの醍醐味ってものでございましょう。



今回は1時間半位の短いライブ。
アンコールは、かつしかでも披露されていた、しっとりギター弾き語りでの「炎のおくりもの」。
そして、バンドで「Change The World」。
曲をはじめる前、「なごり惜しいですね。(曲を)はじめると終わっちゃうんだよね。もう少し話しましょうか」

いえそれよりもっと歌を。の客席の気持ちを瞬時にくみ取った竹善さん「もう話はいいか」。その敏感さ、ちょっと感動でした。
そしてバンド全員でダブルアンコールに応えてくれました。「Last Train To London」。

燃え尽きました。。



ライブが終わり外に出れば月と海。
昼から夜までのパラレルワールド。
今日もただごとでない瞬間の連続を、堪能させてもらいました。
中高年、来年のことは予測するには多少不安あり。でも「音霊」、また来たい。





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故郷想vol.25 群馬

2017-01-18 19:15:04 | 佐藤竹善 SING LIKE TALKING

 

vol.25 群馬
1月15日 TAKASAKI club FLEEZ

寒波襲来の日。よく雪が降らずに持ちこたえてくれた高崎!
「外は0度になりましたよ。記念すべき日になりました」
と竹善さん。

またまた凄いものを観せてもらいました。ほんとうに。
歌も、ギターも、歌も、キーボードも、歌も・・・もう、言葉もありません。

特に後半、オーケストラのカラオケでの「アフリカ」。
ギター弾き語りの「Change The World」「風に吹かれて」そして「Seasons Of Change」
あんまり感動すると口元がゆるんで半開きになってきてしまう。
これらの曲の間、そんなになってる自分を充分に自覚しながら、立て直すことなどできませんでした。
これらを、このコンパクトな場所でこんな至近距離で聴けてしまっていいものなんだろうか、、ああほんとに。ほとんど大儲けじゃないか。
どんな大ステージでも竹善さんは今日と同じ熱量・同じクオリティを繰り出して歌うのでしょう。で大観衆を酔わせることだってできる。
そう思うにつけ、殊更感じる、なんてラッキーな大寒波の高崎、今日の私!


「遠野物語」の作者あんべ光俊さんはケルトミュージックにも造詣があり、ここにそれが、という部分を「わかる?」と言いながら何度か歌ってみせてくれました。
他にも、ギターのシックスというコードが入るとこう変わる、ということをビートルズの曲を弾いて説明してくれたり。
・・・・やばい、こーゆーの。ツボすぎるたまらない。授業料が2400円とか、ちょっと高度だから2700円だとか言っておられたけども(笑)。

日本の四畳半フォークの例をあげようとして歌ったのは「やけに真っ白な雪がふわふわ・・」NSP。「知らない?」
皆さん知らないようで、歳がバレる、と私も知らない顔をしていたが、NSPなんて途中までソラで歌えるほど実は知ってる。LPレコード買いましたから。
アタマのとこだけとはいえ、竹善さんのNSPとはまたレアな。
レアといえば、ギターをチューニングしながら、その音に合わせてハミング! はじめて観たこんなシーン。何気にファンには垂涎でございます。だってあなた、ステージで、竹善さんが、チューニングしながら、ハミングするなんて!



アンコールの「What A Wonderful World」は、ネイティブ津軽弁で始まって終盤に英語が入る、特別バージョン。その美しく柔らかい流れの中で、そっと入る “Ilove you” がずるい。
そしてオフコースの「私の願い」。美しかったです、ただただ。

最後の「Spirit Of Love」で、キーボードのイントロが間違ってやり直し。
あれは、あまりに完璧で美しいものには少しキズをつけてバランスをとる、そんな無意識の所作じゃないのか? なんてね。それとも確信犯、まさか。

そして、あろうことかズボンの内股の部分が突然裂けた竹善さん。。それだってそれくらいのことがないと、突き抜けまくる演奏のクオリティに天秤が傾きすぎるから。
そうだそうに違いない。(*^^)

そんなこんなで極端な振り幅に揺れながら、やはり超ハイレベルにバランスとれた。外は0度の高崎の素敵な素敵な「故郷想」でした。



kumamoto surprise film  「くまもとで、まってる。」








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コンビニ人間

2017-01-17 21:15:14 | 



 なんというか、対人間に疲弊してるときなどには読まない方がいい本だと思う。
 この主人公の造形、、ある意味オカルトより怖いと私は思う。
 オカルトじゃない、SFでもない、不条理な小説というのでもない。つまり暗喩ではなく、この内容が私小説のように淡々と書き連ねられていく、そのリアルさが怖い。
 なにしろ主人公の「私」の欠落ぶりはただごとじゃないのだから。
 
 「私」は36歳で、アルバイトで、結婚もしてなくて、あろうことか交際経験もない。「普通」の人々が彼女に集中砲火を浴びせてくるのはひたすらそこ。
 だけどほんとの問題はそんなことではなく、ほとんどアンドロイド化していると思えるほどの、「私」の感情の欠落さかげんだと思う。

 子供の頃、死んでる小鳥を見て「焼いて食べよう」と言ったり、男子生徒の喧嘩を止めようとスコップで殴ったり。何か言ったり行動すると必ず問題になった「私」。

 父も母も、困惑してはいたものの、私を可愛がってくれた。父と母が悲しんだり、いろんな人に謝ったりしなくてはいけないのは本意ではないので、私は家の外では極力口を利かないことにした。皆の真似をするか、誰かの指示に従うか、どちらかにして、自ら動くのは一切やめた。

 家族は私を大切に、愛してくれていて、だからこそ、いつも私のこと心配していた。
「どうすれば『治る』のかしらね」
 母と父が相談しているのを聞き、自分は何かを修正しなければならないのだなあ、と思ったのを覚えている。


 親の育て方に問題があった、というような納得しやすい帰結はこの小説にはない。

 生まれ持った異端の因子というものがどうしようもなくあって、それは「治る」ようなものじゃない。最後までそのシビアな認識で貫いてる。
 「私」に愛情を注ぐ家族と、コンビニがこの世にあって本当に良かったと胸をなでおろしたくなる。
 もしも「私」にその二つがなかったら、、想像するだにおそろしいじゃないか。

 異端は異端でもただの卑小なバカ男・白羽君の、世界に対する野卑な攻撃性。もし愛情を注がれていなければこっちの方向に「私」も向かったんだろうか。
 
 成長して大人になっても「私」は変わらず、自分というカラの容器に、近くにいる人たちの態度や喋り方や嗜好などをとことん入れ込んで構成し、普通の人間としての体裁を保つ。
 この主人公が特殊なのは、そんな自分の中に怒りもなければ苦悩もないというところだと思う。
 食事は餌としての認識しかないし、味がする液体を飲む必要性も感じず白湯を飲む。我が身の快にさえ興味が無いのだ。

 当然他人に対する愛着などあろうはずも無く、妹の赤ん坊は「私にとっては野良猫のようなもので、少しの違いはあっても「赤ん坊」という種類の同じ動物にしか見えない」。

 きわめてゾッとする一節が以下。。。

 赤ん坊が泣き始めている。妹が慌ててあやして静かにさせようとしている。
 テーブルの上のケーキを半分にする時に使った小さなナイフを見ながら、静かにさせるだけでいいならとても簡単なのに、大変だなあと思った。
  ・・ここだけで、サスペンス短編になりそう。


 この本は、コンビニという場所のイメージの明るさと清潔さ、そして「私」の情の欠落ゆえの爽やかさに支えられて、一気に読んでしまう。
 しかし深読みすればそれはそれは不穏。
 わかり合うだの、暖かい人間の絆だの、今どきそんなものどこにある、それが前提。
 「私」にとって世界で唯一の規範はコンビニのマニュアル。それがあったからこそ生きられている。

 外から人が入ってくるチャイム音が、教会の鐘の音に聞こえる。ドアをあければ、光の箱が私を待っている。いつも回転し続ける、ゆるぎない正常な世界。私は、この光に満ちた箱の中の世界を信じている。

 
 とことんいく「私」。
 あぶねー。

 たとえばこの「箱」がコンビニじゃなく、あくどい宗教なら。あくどい国家だったなら。どうなる。
 規範が無い「箱」の外の世界・規範がなければ生きられない情の欠落した私。
 どうなる。
 ひとごとじゃないなと思う。




 「気が付いたんです。私は人間である以上にコンビニ店員なんです。人間としていびつでも、たとえ食べて行けなくてものたれ死んでも、そのことから逃れられないんです。私の細胞全部が、コンビニのために存在しているんです」

 「・・私はコンビニ店員という動物なんです。その本能を裏切ることはできません」

 でも、ラストまでくると、なんだかんだと深読みするのもどうでもよくなるくらい、そこはかとなく面白くなってきて笑ってしまう。
 口汚く人をののしるしか能の無い男を振り捨てて、自分が本当に生きられるコンビニ人間になる道を行く「私」がいっそすがすがくて。
 
 怖い、でも笑える。
 共感できない、でも否定できない。不思議な説得力をもつ不思議な小説だなあと思う。

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